自民党勉強会での暴言問題(報道威圧問題)(その3) [メディア]
自民党勉強会での暴言問題(報道威圧問題)については、本欄の6月29日、7月5日と取上げてきたが、今日は(その3)取上げたい。
先ずは、7月11日ダイヤモンド・オンラインがAERAから転載した「自民党若手が開く「報道圧力」勉強会の真相 企業と法制局にも圧力」のポイントを紹介しよう。
・発起人は党青年局長の木原稔衆院議員だが、背後の「プランナー」は会合にも出席していた安倍首相の側近である萩生田光一・党総裁特別補佐と加藤勝信官房副長官
・同じ日に予定されていた「反安倍」議員の勉強会を中止させ、同じ週に放送される討論番組「朝まで生テレビ!」への議員の出演も、党本部の要請で出席を見送らせたとも伝えられている
・万全の準備で臨んだ安倍応援の会合のはずだった。私的勉強会といいながら、自民党を担当する記者でつくる「平河クラブ」に開催の案内が届いた。しかも、「終了後に、代表の木原稔より記者ブリーフィングをさせていただきます」とある
・ひっそり勉強する会ではないことは、誰の目にも明らか。期待通り、大勢のメディアが集まり、会合の最中には「壁耳」と呼ばれる取材が行われた
・「週刊ポスト」が、高市早苗総務相の実弟である秘書官が関わる疑惑を特報した。三重県の農業法人が政府系金融機関から受けた融資のうち、1億円が使途不明になっており、高市氏の秘書官が金策に奔走した、という内容だ。事情を知る関係者によると、記事を仕上げる校了日の2、3日前に同誌記者の携帯電話が鳴るようになった。相手は内閣情報調査室(内調)だった。政府側の「援軍」は、意外なところからも現れた。「本当に書くんですか」「根も葉もない話じゃないですか」官邸詰めの全国紙政治部記者からだった。政府中枢の情報を握る官邸が、記者をコントロールして、自らは手を汚すことなく、都合の悪い報道に「圧力」をかける。そんな巧妙な仕掛けが垣間見える
・巧みな報道管理策士、策に溺れる。現在、内閣では菅義偉官房長官や加藤、世耕弘成の両官房副長官、党では萩生田氏や棚橋泰文幹事長代理らの安倍側近が、メディア対策を担う。「安倍政権のメディア対策は、支配や操縦といったそしりさえも受けない、洗練された部分が巧み。メディア同士が牽制し、自主規制するように仕向ける。権力は使わず、ちらつかせるだけでいいんです」(下村氏)。だが、安倍首相や側近たちは「洗練」されたかもしれないが、末端の安倍応援団までは教育が及ばなかったようである
http://diamond.jp/articles/-/74752
次に、ひきこもり系ジャーナリストの小田島隆氏が7月10日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「幻想の鬼ヶ島:マスコミ論。二つのマスコミ観の間にある分裂」のポイントを紹介しよう。
・安倍晋三首相を支援する若手議員の皆さんが抱いていたマスコミ不信は、それを伝えたマスコミの人間が考えているよりは、ずっと広く共有されている感情であり、だから、マスコミ報道をチェックしているだけでは本当のところはわからない
・おそらく、問題の本質は、かなり思いがけないことだが、21世紀を生きる少なからぬ国民にとって「マスコミ」は、もはや悪をこらしめる桃太郎の役柄を代表する存在ではないということだ
・桃太郎の中では、ズバリ、鬼だ。世間の常民良民から掠め取った金銀財宝を囲んで、我が世の春を謳歌している小面憎い小悪党。不正取得した金棒を振り回して社会をあざむき、就活番長の天狗の鼻で他人の秘密を嗅ぎまわる。およそマスコミの人間は、そんなふうな敵役としてネット世論の中に独自の座を占めている
・マスコミ人の自覚はまったく違っている。彼らは、「事件記者」や「ベスト・アンド・ブライテスト」の時代に確立した自意識を搭載
・すなわち、メディア企業の正社員は、権力の暴走をチェックする正義の代行者であり、市民社会の正義と民主主義の原理を代弁する言語表現の専門家である、と。だからこそ自分たちには知る権利と、言論の自由と、取材権と編集権が与えられており、そうであるがゆえにオレらの仕事は尊く、報酬と合コン人気は高く、それゆえにこそオレは傑物で成功者で有識者で六本木OLの憧れでひとかどの文化人なんだぞテヘペロ、と、おおよそそんなふうな自画像とともに日々を暮らしている。うん。なんだかいけ好かない。できれば罰を与えたい
・今回の報道圧力事案を読み解くためには、上述した二つのマスコミ観の間にある分裂を分析しないことにはどうにもならない。 問題は、真実がいずれにあるかではない。というか、どちらもおそらく真実ではない。 大切なのは、どちらの思い込みがより強固で、より広範に共有されていて、その結果、どちらのマスコミ観が、この先、マスコミおよび世論を支配することになるのかということだ
・注目すべきポイントは、当該のマスコミ威圧発言を漏らした自民党の議員が、自分たちの発言についてまるで悪びれていないことだ。 彼らは、発言が報道され、批判が集中しはじめた後も、自分の言葉を翻さなかった。のみならず、異口同音に「何が問題なのか」と述べている
・大西議員に至っては、発言を報道され、各方面から批判され、党の処分を受けてなお「何が問題なのか」と開き直ってみせた。 この自信はどこから来ているのだろうか。 彼らは、自分たちのマスコミ敵視発言が、一定の支持を得ているはずだと思っている。 「マスコミの連中は過剰反応しているが、世論は自分たちの味方だ」と、おおよそそんなふうに感じている
・それというのも、J-NSC(自民党ネットサポーターズクラブ→自民党公認のボランティアサポート組織)に集まっている支持者の中には、普段からマスコミを「マスゴミ」と呼んでいる、メディア不信の権化みたいなネット民が相当数含まれていて、ふだんから彼らと接することの多い若手議員たちは、そのネット保守がことあるごとに表明してやまないメディア不信こそが「民意」であると考えているはずだからだ。 安倍首相も、自らの応援団である若手議員の暴走を、さして深刻には受け止めていない。せいぜい、勇み足ぐらいに思っている。 というよりも、首相自身、マスコミを「マスゴミ」視しているはずだ。たぶん、そのあたりについての感覚は、ご自身のフェイスブックページに集まっている応援団の人々が抱いているメディア観とそんなに違わない
・であるから、安倍さんは、当初、謝罪を拒否。その後、いくつかの経緯を経て、最終的には7月3日の衆院平和安全法制特別委員会で謝罪することになるのだが、その謝罪も、心からのものではない
・安倍首相は、「大変残念で、沖縄の皆さまの気持ちを傷つけたとすれば、申し訳ないと思っている」。この場合、「申し訳ない」という言葉の直前に置かれた「県民の気持ちも傷つけたのであれば」という構文に、安倍さんの本心が露呈
・どういうことなのかというと、この種の「不快な思いをさせたのであれば」「傷つけたのであれば」「誤解を与えたのであれば」という条件節は、その行間に「不快な思いをさせるつもりはなかった」 「傷つける意図はなかった」 「誤解を与えるとは思っていなかった」という弁解を含んでいるということだ。 弁解という見方はまだ甘いかもしれない。この種の条件付き謝罪をより逐語的に翻訳すると、「当方には不快感を与える意図はまったくなかったにもかかわらず、結果として先方に不快な思いをさせたのであるとすれば、それはこちらの言葉の使い方に配慮が足りなかったということなのであろうからして、その点については謝罪いたします」ぐらいになる
・この構文を使用することで謝罪の対象を「暴言」から「配慮不足」にすり替えているわけだ。 本心では謝りたくないと思っている人間が、その場をおさめる手段として謝罪の形を取る時、その構文は必ず条件付き謝罪の形式を獲得するということだ
・この事件を、報道各社は、「マスコミ圧力」事件ないしは「報道威圧」事件として報じている。 ところが、NHKだけは、「圧力」という言葉を使わずに、一貫して「報道批判」という言い方で伝えている
・「批判」と「圧力」は、一見、似たような言葉に見える。が、ニュアンスはかなり違う。「批判」という言葉が使われる文脈では、非はどちらかといえば批判される側に仮定される。間違っているから批判され、正しくないからこそ批判を浴びるという感じだ。たとえば「報道批判」という見出しから予断なしに記事の内容を類推する場合、「間違った報道に対する正当な批判」についての記事を思い浮かべる読み手が多数派であるはずだ
・一方、誰かが誰かに「圧力」をかけ、あるいは「威圧」しているケースでは、悪い意図は、圧力をかけ、威圧している側に仮定される。つまり、非は、「圧力」をかけている側にある
・これらを踏まえて考えるに、威圧を受けた者が、外部に向かって「威圧された」と言わずに「批判された」という言い方をしている場合、彼または彼女は、「萎縮」していると見なさなければならない。 より簡単に言えば、圧力に屈したメディアは、「圧力」という言葉を使いたがらないということだ
・別の見方もできる。広告を引き上げることで圧力を受けるのは、民間放送や新聞社に限られる。その意味で、広告に依存しないビジネスモデルを採用しているNHKは、今回の発言から圧力を受けない。だから、今回の件は、NHKとは無縁だ、と、そう見ることも可能だ
・とはいえ、NHKは、広告を持ち出されるまでもなく、放送料収入について国会の決議を仰いでいる。のみならず、放送法の取り決めによって、国会の同意を得て首相が任命する12人の経営委員を送り込まれる仕様になっている。 ということは、既に威圧は完了していて先方も十分に萎縮済みだから、彼らとしてもわざわざ圧力をかける必要がなかったというふうに考えることもできる
・改めて結論を述べる。おそらく、今回の報道圧力事案は安倍政権にとってたいしたダメージにはならない。その理由は、冒頭で述べた通り、マスコミ不信が、思いのほか広い範囲の人々に共有されているからだ。特に若い人たちは、メディア企業のエリートに反感を抱いている。このことはつまり、政府によるメディアへの圧力が大筋として歓迎され得るということでもある
・バカな話だ。実際のところ、華やかな仕事と高額報酬を得る絵に描いたようなマスコミの社員は、メディアで仕事をしている人間たちのうちのごく一部に過ぎない。多くの現場労働者は、むしろ苛酷な条件のもとで働いている。にもかかわらず、学生の就活戦線では相変わらずマスコミ企業の人気が高く、その異様に高い就職倍率がまたマスコミに対するアンビバレンツな感情の発生源になっている。実に馬鹿げた話だ
・今回の事件は直接的には政治家の発言が引き起こしたものだが、背景にあるのはJ-NSCの掲示板や安倍さんのフェイスブックページに集まる人たちが抱いている強固な思い込みだと思う。 「思考は現実化する」という呪符みたいな言葉を、どこだかの自己啓発セミナーの講師だかが言っていた気がするのだが、インターネットはどうやら妄想や怨念にも現実化へのプラットフォームを提供しつつある。 疲弊した鬼たちの島に攻め込むアラフィフの桃太郎集団。薄気味の悪い時代になったものだ
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/070900003/?P=1
初めの勉強会があそこまで周到に準備され、そのなかで出た発言だったこと、政治部記者が官邸の「手先」的役割まで担っていることには、改めて驚かされた。
小田島隆氏の指摘は、メディア論として自分としては予想外の観点からの鋭い分析で、うなずける部分が多い。条件付き謝罪により、謝罪の対象を「暴言」から「配慮不足」にすり替えるような高度なテクニックが隠されていたとは・・・。アッパレ!というほかない。「圧力」と「批判」の違いにも改めて再認識させられた。
その後も、自民党若手議員の暴走が続いているが、これは明日、取上げるつもりである。
先ずは、7月11日ダイヤモンド・オンラインがAERAから転載した「自民党若手が開く「報道圧力」勉強会の真相 企業と法制局にも圧力」のポイントを紹介しよう。
・発起人は党青年局長の木原稔衆院議員だが、背後の「プランナー」は会合にも出席していた安倍首相の側近である萩生田光一・党総裁特別補佐と加藤勝信官房副長官
・同じ日に予定されていた「反安倍」議員の勉強会を中止させ、同じ週に放送される討論番組「朝まで生テレビ!」への議員の出演も、党本部の要請で出席を見送らせたとも伝えられている
・万全の準備で臨んだ安倍応援の会合のはずだった。私的勉強会といいながら、自民党を担当する記者でつくる「平河クラブ」に開催の案内が届いた。しかも、「終了後に、代表の木原稔より記者ブリーフィングをさせていただきます」とある
・ひっそり勉強する会ではないことは、誰の目にも明らか。期待通り、大勢のメディアが集まり、会合の最中には「壁耳」と呼ばれる取材が行われた
・「週刊ポスト」が、高市早苗総務相の実弟である秘書官が関わる疑惑を特報した。三重県の農業法人が政府系金融機関から受けた融資のうち、1億円が使途不明になっており、高市氏の秘書官が金策に奔走した、という内容だ。事情を知る関係者によると、記事を仕上げる校了日の2、3日前に同誌記者の携帯電話が鳴るようになった。相手は内閣情報調査室(内調)だった。政府側の「援軍」は、意外なところからも現れた。「本当に書くんですか」「根も葉もない話じゃないですか」官邸詰めの全国紙政治部記者からだった。政府中枢の情報を握る官邸が、記者をコントロールして、自らは手を汚すことなく、都合の悪い報道に「圧力」をかける。そんな巧妙な仕掛けが垣間見える
・巧みな報道管理策士、策に溺れる。現在、内閣では菅義偉官房長官や加藤、世耕弘成の両官房副長官、党では萩生田氏や棚橋泰文幹事長代理らの安倍側近が、メディア対策を担う。「安倍政権のメディア対策は、支配や操縦といったそしりさえも受けない、洗練された部分が巧み。メディア同士が牽制し、自主規制するように仕向ける。権力は使わず、ちらつかせるだけでいいんです」(下村氏)。だが、安倍首相や側近たちは「洗練」されたかもしれないが、末端の安倍応援団までは教育が及ばなかったようである
http://diamond.jp/articles/-/74752
次に、ひきこもり系ジャーナリストの小田島隆氏が7月10日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「幻想の鬼ヶ島:マスコミ論。二つのマスコミ観の間にある分裂」のポイントを紹介しよう。
・安倍晋三首相を支援する若手議員の皆さんが抱いていたマスコミ不信は、それを伝えたマスコミの人間が考えているよりは、ずっと広く共有されている感情であり、だから、マスコミ報道をチェックしているだけでは本当のところはわからない
・おそらく、問題の本質は、かなり思いがけないことだが、21世紀を生きる少なからぬ国民にとって「マスコミ」は、もはや悪をこらしめる桃太郎の役柄を代表する存在ではないということだ
・桃太郎の中では、ズバリ、鬼だ。世間の常民良民から掠め取った金銀財宝を囲んで、我が世の春を謳歌している小面憎い小悪党。不正取得した金棒を振り回して社会をあざむき、就活番長の天狗の鼻で他人の秘密を嗅ぎまわる。およそマスコミの人間は、そんなふうな敵役としてネット世論の中に独自の座を占めている
・マスコミ人の自覚はまったく違っている。彼らは、「事件記者」や「ベスト・アンド・ブライテスト」の時代に確立した自意識を搭載
・すなわち、メディア企業の正社員は、権力の暴走をチェックする正義の代行者であり、市民社会の正義と民主主義の原理を代弁する言語表現の専門家である、と。だからこそ自分たちには知る権利と、言論の自由と、取材権と編集権が与えられており、そうであるがゆえにオレらの仕事は尊く、報酬と合コン人気は高く、それゆえにこそオレは傑物で成功者で有識者で六本木OLの憧れでひとかどの文化人なんだぞテヘペロ、と、おおよそそんなふうな自画像とともに日々を暮らしている。うん。なんだかいけ好かない。できれば罰を与えたい
・今回の報道圧力事案を読み解くためには、上述した二つのマスコミ観の間にある分裂を分析しないことにはどうにもならない。 問題は、真実がいずれにあるかではない。というか、どちらもおそらく真実ではない。 大切なのは、どちらの思い込みがより強固で、より広範に共有されていて、その結果、どちらのマスコミ観が、この先、マスコミおよび世論を支配することになるのかということだ
・注目すべきポイントは、当該のマスコミ威圧発言を漏らした自民党の議員が、自分たちの発言についてまるで悪びれていないことだ。 彼らは、発言が報道され、批判が集中しはじめた後も、自分の言葉を翻さなかった。のみならず、異口同音に「何が問題なのか」と述べている
・大西議員に至っては、発言を報道され、各方面から批判され、党の処分を受けてなお「何が問題なのか」と開き直ってみせた。 この自信はどこから来ているのだろうか。 彼らは、自分たちのマスコミ敵視発言が、一定の支持を得ているはずだと思っている。 「マスコミの連中は過剰反応しているが、世論は自分たちの味方だ」と、おおよそそんなふうに感じている
・それというのも、J-NSC(自民党ネットサポーターズクラブ→自民党公認のボランティアサポート組織)に集まっている支持者の中には、普段からマスコミを「マスゴミ」と呼んでいる、メディア不信の権化みたいなネット民が相当数含まれていて、ふだんから彼らと接することの多い若手議員たちは、そのネット保守がことあるごとに表明してやまないメディア不信こそが「民意」であると考えているはずだからだ。 安倍首相も、自らの応援団である若手議員の暴走を、さして深刻には受け止めていない。せいぜい、勇み足ぐらいに思っている。 というよりも、首相自身、マスコミを「マスゴミ」視しているはずだ。たぶん、そのあたりについての感覚は、ご自身のフェイスブックページに集まっている応援団の人々が抱いているメディア観とそんなに違わない
・であるから、安倍さんは、当初、謝罪を拒否。その後、いくつかの経緯を経て、最終的には7月3日の衆院平和安全法制特別委員会で謝罪することになるのだが、その謝罪も、心からのものではない
・安倍首相は、「大変残念で、沖縄の皆さまの気持ちを傷つけたとすれば、申し訳ないと思っている」。この場合、「申し訳ない」という言葉の直前に置かれた「県民の気持ちも傷つけたのであれば」という構文に、安倍さんの本心が露呈
・どういうことなのかというと、この種の「不快な思いをさせたのであれば」「傷つけたのであれば」「誤解を与えたのであれば」という条件節は、その行間に「不快な思いをさせるつもりはなかった」 「傷つける意図はなかった」 「誤解を与えるとは思っていなかった」という弁解を含んでいるということだ。 弁解という見方はまだ甘いかもしれない。この種の条件付き謝罪をより逐語的に翻訳すると、「当方には不快感を与える意図はまったくなかったにもかかわらず、結果として先方に不快な思いをさせたのであるとすれば、それはこちらの言葉の使い方に配慮が足りなかったということなのであろうからして、その点については謝罪いたします」ぐらいになる
・この構文を使用することで謝罪の対象を「暴言」から「配慮不足」にすり替えているわけだ。 本心では謝りたくないと思っている人間が、その場をおさめる手段として謝罪の形を取る時、その構文は必ず条件付き謝罪の形式を獲得するということだ
・この事件を、報道各社は、「マスコミ圧力」事件ないしは「報道威圧」事件として報じている。 ところが、NHKだけは、「圧力」という言葉を使わずに、一貫して「報道批判」という言い方で伝えている
・「批判」と「圧力」は、一見、似たような言葉に見える。が、ニュアンスはかなり違う。「批判」という言葉が使われる文脈では、非はどちらかといえば批判される側に仮定される。間違っているから批判され、正しくないからこそ批判を浴びるという感じだ。たとえば「報道批判」という見出しから予断なしに記事の内容を類推する場合、「間違った報道に対する正当な批判」についての記事を思い浮かべる読み手が多数派であるはずだ
・一方、誰かが誰かに「圧力」をかけ、あるいは「威圧」しているケースでは、悪い意図は、圧力をかけ、威圧している側に仮定される。つまり、非は、「圧力」をかけている側にある
・これらを踏まえて考えるに、威圧を受けた者が、外部に向かって「威圧された」と言わずに「批判された」という言い方をしている場合、彼または彼女は、「萎縮」していると見なさなければならない。 より簡単に言えば、圧力に屈したメディアは、「圧力」という言葉を使いたがらないということだ
・別の見方もできる。広告を引き上げることで圧力を受けるのは、民間放送や新聞社に限られる。その意味で、広告に依存しないビジネスモデルを採用しているNHKは、今回の発言から圧力を受けない。だから、今回の件は、NHKとは無縁だ、と、そう見ることも可能だ
・とはいえ、NHKは、広告を持ち出されるまでもなく、放送料収入について国会の決議を仰いでいる。のみならず、放送法の取り決めによって、国会の同意を得て首相が任命する12人の経営委員を送り込まれる仕様になっている。 ということは、既に威圧は完了していて先方も十分に萎縮済みだから、彼らとしてもわざわざ圧力をかける必要がなかったというふうに考えることもできる
・改めて結論を述べる。おそらく、今回の報道圧力事案は安倍政権にとってたいしたダメージにはならない。その理由は、冒頭で述べた通り、マスコミ不信が、思いのほか広い範囲の人々に共有されているからだ。特に若い人たちは、メディア企業のエリートに反感を抱いている。このことはつまり、政府によるメディアへの圧力が大筋として歓迎され得るということでもある
・バカな話だ。実際のところ、華やかな仕事と高額報酬を得る絵に描いたようなマスコミの社員は、メディアで仕事をしている人間たちのうちのごく一部に過ぎない。多くの現場労働者は、むしろ苛酷な条件のもとで働いている。にもかかわらず、学生の就活戦線では相変わらずマスコミ企業の人気が高く、その異様に高い就職倍率がまたマスコミに対するアンビバレンツな感情の発生源になっている。実に馬鹿げた話だ
・今回の事件は直接的には政治家の発言が引き起こしたものだが、背景にあるのはJ-NSCの掲示板や安倍さんのフェイスブックページに集まる人たちが抱いている強固な思い込みだと思う。 「思考は現実化する」という呪符みたいな言葉を、どこだかの自己啓発セミナーの講師だかが言っていた気がするのだが、インターネットはどうやら妄想や怨念にも現実化へのプラットフォームを提供しつつある。 疲弊した鬼たちの島に攻め込むアラフィフの桃太郎集団。薄気味の悪い時代になったものだ
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/070900003/?P=1
初めの勉強会があそこまで周到に準備され、そのなかで出た発言だったこと、政治部記者が官邸の「手先」的役割まで担っていることには、改めて驚かされた。
小田島隆氏の指摘は、メディア論として自分としては予想外の観点からの鋭い分析で、うなずける部分が多い。条件付き謝罪により、謝罪の対象を「暴言」から「配慮不足」にすり替えるような高度なテクニックが隠されていたとは・・・。アッパレ!というほかない。「圧力」と「批判」の違いにも改めて再認識させられた。
その後も、自民党若手議員の暴走が続いているが、これは明日、取上げるつもりである。
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