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新安保法制(その12)多数決とは [外交]

昨日予告したように、今日は新安保法制(その12)多数決とは である。

実は、今日の日経新聞の経済教室に「ゲーム理論で考える(上) 多数決は万能にあらず 社会分断あおる恐れ」が掲載されたがこれは咀嚼した上で後日取上げるとして、今日は以前にも何度か取上げた作曲家=指揮者でベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督の伊東乾氏が9月18日付けJBPressに寄稿した「2000年後もソクラテスを嘆息させる強行採決 民主主義と衆愚政治を混同していませんか」のポイントを紹介したい(▽は小見出し)。
・今週は常総市をはじめとする水害に続いて阿蘇の噴火と天変地異が続き、また国会前は安全保障法案をめぐって激しい攻防となっています。 こんな状況で、とても「微笑」ではないと思いつつ、つらつら考えてみるに、水害、火山のリスクから集団的安全保障まで、すべてに通底する重要な要素、社会の「微小栄養素」に相当するものに思い当たりました
・上に挙げた3つの問題すべてに、民主主義の根幹に関わる重要なポイントがあると思います。顕微鏡的に物事を注視するのと少し異なりますが、社会と歴史を大きなスパンで見、私たちの未来に本当に資する百年の計を考えてみたいと思います
▽民主主義とは何なのか?
・ある人は「民主主義は多数決だよ」と言うかもしれません。多数が賛成したものが通る。国会でもそうですね。いま法案が採決されるとすれば、議会で多数を占めた意見が主権者の意思、民意であるとみなされます
・では、100人の多数決の結果51:49で敗れた49はどうすればよいのか? 「この49も51に従って100という全体に従え!」という考え方を「全体主義」と呼ぶわけですが、日本では、たぶん義務教育に原因があるのでしょう、民主主義だと思い込んで、全体主義の主張を標榜する人をごく普通に見かけます。全体主義で分かりにくければファシズムと言ってもよいでしょう。ファシズムはズボンのチャックなどの「ファスナー」と同様「ひとつにまとめる、束ねる主義」、十把一からげにする政治体制を示します
・100のうち49で多数決に敗れた意見は「少数意見」になります。この「少数意見」にも十分な配慮をしましょう、というのが「民主主義」で、日本は憲法以下、こちらの考え方で本来は動かされるべき国のシステムを持っています。これは、最高裁判所判例には少数意見が常に付され、法と同じ拘束力をもって司法規範とされていることを想起していただければ十分と思います
・少数意見をめぐる扱いを見れば、民主主義とファシズムは容易に見分けがつきます。逆に言えば、少数意見の取り扱いを誤れば、民主的な体制は容易にファシズムの蒙昧に堕落してしまうことになる。よくよく注意しなければならないポイントと思います
▽ソクラテスはなぜ告訴されたのか?
・「民主主義」の原点とされる古代ギリシャに目を向けてみましょう。哲学の祖とされるソクラテスは、よく知られるように「民衆裁判」の多数決で死刑判決を受け、毒ニンジンの杯を仰いで自ら従容として死を選択しました
・さてしかし、ソクラテスは何の嫌疑をもって「死刑」の法廷に立たされたのでしょうか? そういった経緯はあまり知られていないように思います。 あるいは「おかしな問答をふっかけて若者を堕落させた罪」といった話としてご存知の方もあるでしょう。確かにその種のことも言われていて、私自身、長年「そんなものかな」と思い捨てて、大して深く考えることがありませんでした
・少し前、ちょっとしたきっかけがありプラトンの「ソクラテスの弁明」をいくつかの訳(と分からないなりに一応原語・英訳の対訳版と)で目を通し、改めて考えさせられてしまったのです
・ソクラテスが訴えられた最初の容疑事実は、「彼は太陽が燃える石だ」と主張した、として訴えられているんですね
・紀元前4~5世紀、日本列島であれば縄文人が竪穴住居で暮らしていた頃、ソクラテスは(現在の科学から見ても実は妥当な)「恒星はマグマの塊」という説を主張したカドで訴えられ、「そんなことはない。私は太陽の神アポローンを正しく信仰している。私は無実である」と弁明しているんですね
・「太陽は燃える石である」という大変な卓見を今から2500年近く前に主張していたのは、ソクラテスも教えを受けたとされる自然哲学の祖の1人、アナクサゴラスとされます。これに対して古代ギリシャのポリス社会、アテネ市民の大半は「太陽はアポローン神、月はアルテミス、海はポセイドン・・・」といった、神話による宇宙の説明を当然のものとして受け止めていた
・はっきり書いてしまうと、迷信が正しいと思い込んでいた原始人集団の中で、科学的に妥当な内容を主張した、として糾弾されている
・これとほぼ同じことを、人類は2000年ほど経過しても繰り返しています。ソクラテスの刑死(BC399)から1999年も経ったAD1600、地動説を主張したジョルダーノ・ブルーノが火あぶりで命を落としています。  ジョルダーノ・ブルーノやガリレオ・ガリレイへの「地動説裁判」が不当であったことはその後300年以上認められず、20世紀も後半に入った1965年(私が生まれた年ですが)頃からようやく議論が高まり始め、教皇ヨハネ・パウロⅡ世が公式に名誉回復したのは冷戦終結後1992年のことに過ぎません。 まだようやく23年ほどが経過しただけで、実のところ今から四半世紀前まで、カトリックは正式には地動説を認めていなかった形になっていた
・それくらい民衆に広まった迷信や思い込みを取り除くのは困難で、人は容易にソクラテスやガリレイに死刑を求める多数決に走ってしまう
・「烏合の衆」という言葉がありますが、読んで字の如し、カラスが集まってがーがー騒いでも、なんら意味のあるものは出てこない。英語ではモブmobとかラッブルrabbleといった言葉に訳されます。 ここで私たちは言葉の用法と適用の対象によくよく注意する必要があるでしょう。人は「烏合の衆」の言葉から、道路にあふれ出した群集のデモなどを想像するかもしれない。確かにそういうモブ=野次馬の集団というのもあると思います
・しかしジョルダーノを火あぶりにし、ソクラテスに毒盃を仰がせたのは本来権威あるはずの教会であり民会であり、神聖裁判であり「デモクラディック」な議会だったわけです。 デモクラシーという言葉が長年「衆愚制」とも訳されてきたことに注意しなければなりません。さもなくば「衆議院」が「衆愚院」に陥るようなリスクを、私たちは全く逃れることができません
▽「民意」の要諦:複数意見の尊重
・東日本大震災で津波被害にあった沿岸の多くの地域は、江戸時代以前からごく最近(第2次世界大戦以降をこの言葉で大きく指すものとして)まで、この土地に人住むべからず、とされた、容易に水浸しとなる低地、水はけの悪い土地=有産な水田にほかなりませんでした
・それらは1500年以上、第1次産業=端的には「米作り」には適し、工場を誘致して建設したり、人が住まいしたりするのには地誌的にそぐわない土地とされてきました
・それが、第2次大戦直前の翼賛体制期あたりに端を発して、とりわけ戦後の高度成長期から、まったく別の目的に転用されてきたのが、ここ70年の私たちの歴史ということになります。 そのほとんどすべては、地方議会での承認があり、多数決で認められて道路が作られ、電気ガス水道なども整えられ「都市化」「宅地化」したエリアにほかなりません
・ここでの「多数決」とソクラテスやガリレイを裁く「裁判」を並べるとき、私たちは古代や中世、近世の意思決定を笑うことができるでしょうか?
・もっと露骨な例は昨年世間を騒がせたSTAP細胞詐欺でしょう。ある時期はメディアを中心におかしな擁護論が蔓延し、まさに大衆社会の病巣を直視する思いを持ちました。ああいうものこそ「烏合の衆」と呼ぶべきでしょう
・地震や津波の予知など科学的には本質的に不可能です。それは「阿蘇山が次、いつ大爆発するの?」と問われて、まともな科学者なら誰も絶対に答えなど明言しないのと同じことです。 逆に「阿蘇山は次 20++年○月△日に爆発する」などと明言する人がいれば、仮に宗教を標榜しようと何だろうと、100%詐欺師と断じて外れません。そういう明らかなデマを言う表現の自由が野放しにされているのも「民主政」の「衆愚政」化リスクの1つと思います
・私はこのコラムで特定の結論を述べようと思っていません。以前は「何が言いたいのか分からない」というコメントをしばしばもらいました。それに対して「何か1つのメッセージを押しつけられないとモノを読んだ気がしないのは読み手の知的独立の放棄=奴隷根性」などと応じて往生などもされましたが、今回はその最たるものと思います
・1つだけ言えることは、民主主義が人類の叡智として機能する絶対条件は、少数意見、それはしばしば複数存在しますから、複数の異なる少数意見の持ち主たちの尊重、つまり自分自身がモノを考えるとき、単眼視的な落とし穴に陥らず、常に複数のリスクを念頭に、理非をわきまえながら思考し続ける大切さにほかなりません
・これ、テレビ的ではないのです。私も昔は番組を作っていましたので「分かりやす~い」単一のストーリーを押しつけて視聴者を引っ張る方がよほど視聴率の数字も取れ楽チンなのですが、倫理的に考えればまずもって最低最悪なことにも簡単になってしまう
・ネットコラムは文字で記され、読者は読んだり、読まなかったり、立ち止まって考えたり、前の方に戻って読み返したり、様々な「思考の自由」が本来保証されています。 脊髄反射的な直情径行は元来テレビその他のメディアの持つリスクですが、ネットでも「ブログ炎上」といった現象が見られます
・一過性の放埓はブームが去ると誰もが飽きて見向きもしません。2015年も後半に入って「偽ベートーヴェン」とか「STAP」といっても、今さら何を、といった白けた失笑が漂うでしょう
・今、私たちが直面しているいくつかの問題、盛りが過ぎたら誰もが飽きてしまい、白けた失笑で向き合ってよいものなのでしょうか? ソクラテスは「悪法もまた法なり」と言いつつ、微笑を浮かべながら毒盃を仰いだようですが、さて、本当に世界を見据えた定見、息長く未来に責任を持てる思索と行動とは何なのでしょう?
・一人ひとりが本来それを問うのが「民主主義」の根本、衆愚 に陥らない大前提の源流にほかなりません
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44809

伊東氏が番組制作までしていたとは、マルチタレントぶりに驚かされた。また、「ソクラテスの弁明」を原語・英訳の対訳版で目を通したとは、感服させられた。ファシズムの定義がここまで幅広いものであることも、初めて知った。安部政権の多数を嵩にきて少数派を問答無用でねじ伏せる手法は、まさにファシズムそのものであろう。「東日本大震災で津波被害にあった沿岸の多くの地域」での多数決の話は理解できなかったが、それを除けば、極めて知的刺激に富んだ記事であった。
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