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日本人のノーベル賞受賞 [科学技術]

今日は、日本人のノーベル賞受賞を取上げよう。

このブログでたびたび引用している「ひきこもり系」コラムニストの小田嶋隆氏が、10月9日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「ノーベル賞はいずれ海を渡る」のポイントを紹介しよう。
・日本人研究者によるノーベル賞受賞のニュースが続いている。喜ばしいことだ
・21世紀にはいってからというもの、さまざまな分野で、この栄誉ある賞に輝く研究者が相次いでいる。ありがたい話ではないか
・ただ、個人的な感慨を述べるなら、私は、このたびの大村智さんと梶田隆章さんの受賞を、つい先日ラグビー日本代表が南アフリカ代表チームに勝利した時ほど、手放しで喜んでいるわけではない
・むしろ、マスコミ各社の騒ぎっぷりにいくぶんシラケている。 あんまりはしゃぐのはみっともないぞ、と思っている。わがことながら不可解な反応だ
・スポーツ関連の出来事だと、私は、ラグビーであれサッカーであれ、自国の代表チームの快挙には跳び上がって喜ぶ男だ。のみならず自分が勝ったみたいに誇らしく思い、なおかつ、自分の手柄であるかのごとくに自慢話を繰り広げる
・それが、相手が学術研究だと、世界的な快挙に対しても容易に心を開かない。 奥歯を噛みしめて、クールであろうとつとめていたりする
・どうしてだろう。 私は何を我慢しているのだろうか。 というよりも、なにゆえに私は、学者を差別しているのだろう
・自覚としてスポーツマンだから? 違う。私は、年季のはいったスポーツ観戦者ではあるが、ほとんどまったくスポーツマンではない。特に団体競技では、いつもチームの混乱要因だった。チームのメンバーとして、まるで力を発揮できなかった
・かといって、学者なのかというと、まずもってそんなこともないわけなのだが、無理矢理にどちらか一方を選べというのであれば、おそらく学者チームの側の人間ではある
・アタマが良いという意味ではない。カラダを動かすよりは、あれこれ考えている時間の方が長いということだ。ひとつのことを考え始めると、なかなかその我執から離れられない性分だということでもある。学問なり研究対象なりを追究する人間として、優秀なのかどうかは別として、ともかく、学究肌の男だとは思っている。ついでに言えば天才肌でもある。地道な努力が苦手という意味での話だが
・その、スポーツマンというよりは学者に近い人間である私が、スポーツ畑の快挙は祝福しても、ノーベル賞に対して冷淡に構えている理由は、たぶん、真面目だからだ
・どういうことなのか説明する。 高校時代の物理の授業中の話だ。その年の一番最初の講義をはじめるにあたって、担当の教師は、「科学的方法論」について語った。その中で彼は、学問が個人や国家のものではなくて、人類に属するものだという話をしたのだ。学問の世界の出来事について、大学の名前や、国籍や、研究所の名前にこだわるのは恥ずかしいことだと、先生はたしかにそうおっしゃっていた
・私は、その時に聞いた話を、いまだに金科玉条の如くに尊重している。 で、ノーベル賞の受賞者について、国籍や、大学名や、出身地や、血族の話を持ち出す形で祝福している報道に触れると、なんだかあさましい人間を見たような心持ちになってしまうのだ
・たしかに、奇妙な話ではある。 スポーツについては、勝ったチームの尻馬に乗って安直なナショナリズムに酔い、自分が勝ったかのように興奮している同じ人間が、相手がノーベル賞だと、とたんににわか仕込みのご清潔な地球市民思想を持ち出しているのであるから、まるでスジが通っていない。こういうのを「ダブルスタンダード」と言うのであろう
・が、ともあれ、私は、そう考えている。学問は人類のものだよ、と、そういうふうに信じ込んでしまっている。人が大人になる前に受けた授業の影響力というのは、どうしてどうして根強いものなのだ
・もうひとつ、私がノーベル賞受賞のニュースを手放しで喜べずにいる理由は、先行きへの不安を抱いているからだ
・わが国のスポーツについていえば、私は、おおむねどの競技に関しても、その進歩と競技力の向上を疑っていない。 サッカーもラグビーもフィギュアスケートも柔道も、30年前と比較すれば、明らかに強くなっている。体格的な条件も向上しているし、戦術やテクニックの面でも順調に進化している
・ひるがえって、日本の学術研究は、ながらく停滞している。 関係者の証言や、各種の報道や、自分の目で実際に見た結果から、そう判断せざるを得ない
・大学や研究機関に支給される研究費は、バブル崩壊後の長い不況を受けて徐々に減額されている。企業が研究開発のために費やす資金も頭打ちだ。同じ30年の間に、諸外国がどれほどの資金を投入してきたのかを見ると、わが国の現状はまことに心細い
・たとえば、米国に留学する中国人学生の数を見てみると、日本人留学生が減少した分を補うどころか、それらをはるかに凌駕する勢いで増加している(グラフはこちら)。 グラフを見ると、米国の日本人留学生の数は、1995年に4万人を超えていたものが、2012年には、半数以下の1万9568人に減少している。一方、中国人留学生は、1995年に4万人以下だったところから、2012年には23万5597人になっている。実に6倍近い増加ということになる米国に留学する中国人学生
・2000年以降、日本の学者にノーベル賞が与えられる機会が増えているのはご存知の通りだ。 が、賞が過去の業績に対して与えられていることを忘れてはならない。 特に、ノーベル賞のような大きな賞は、受賞者の一生涯の研究に贈られるものだけに、その内部にひときわ大きな時間をかかえている
・どれほど長い時間差を持っているのかというと、ノーベル賞は、成果として目に見える形であらわれてから10年、最初の取り組みから数えれば20年30年を経た研究に対して、はじめて与えられているケースが多い
・つまり、この10年ほどの間に日本の研究者がノーベル賞を得たのは、ざっくり言って30年以上前の研究の結果だったということだ。30年前といえば、1980年代だ。わが国の若い研究者の多くが海外に雄飛し、大学にも企業の研究所にも潤沢な資金が提供されていた時代の話だ。 あのバブルの時代の研究環境が、現在のメディアに受賞ネタの記事をもたらしているということになる
・この先はどうだろうか。  たとえば、30年後の新聞読者(←新聞が残っていればの話だが)は、日本人のノーベル賞受賞者の記事を読むことができるのだろうか
・私は楽観していない。 各種の統計の数字から見て、30年後のノーベル賞は、むしろわれわれのアタマを超えて、中国の研究者により多くもたらされているはずだと思っている
・今年の6月、文部科学大臣名義で全国の国立大学に向けて、人文社会科学系学部の改組と廃止を求める通知が出された。 これについては、内外から批判が集中した結果、9月になって事実上撤回されている
・通知の撤回について「事実上」という書き方をしたのは、文科省が、該当の文書を形式上は撤回していないからだ
・通知について、文科省は「誤解を招く表現だった」という言い方で、その内容を取り消しているが、誰も責任は取っていない。通知を公式に撤回することもしていない。 「通知を作った役人の文章力が足りなかった」という素人みたいな弁解を述べるばかりで、担当者の処分すらしていない。 下村博文(前)文科相ご自身も「一字一句まで見ていない」という言い方で、説明責任を放棄している
・通知の内容は取り消すが、通知そのものは撤回しない。であるから、責任は取らない。そういうことになる。なんという人を食った対応ではないか
・ちなみに、下村さんは今回の内閣改造を機に大臣の座を離れることになった。 この辞任については、「新国立競技場建設問題の白紙撤回」の責任を取ったという見方が一般的だ。 なるほど。下村氏は「本来あまり責任の無い(←というのも、本当の責任者は森喜朗・東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長だから)件で、詰め腹を切らされる」ことを通じて、かえって傷の浅い形で辞任することに成功したことになる
・巧妙な処理だ。 おそらく、しばらくしたら年季が明けて、またもとの鞘に戻ることだろう。組閣人事はノーベル賞とは違う。何回でもやり直しができる
・通知の内容は取り消されたが、通知の外形は残っている。通知の余韻も当然ながら残っている。 しかも、文科省の「真意」は、既に現場に伝わっている
・2004(平成16)年度に独立行政法人として再出発することになって以来、全国各地に散在する国立大学は、文科省に対して大学運営に関する6年間の「中期目標・中期計画」を策定することを求められている。で、その取り組み状況などを勘案して、文科省から運営費交付金が配分されることになっている
・問題の文科省の通知は、第3期計画を策定するにあたっての方針を示したもので、人文社会系学部について、「組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組む」としている(pdfはこちら)
・文科省が通知を撤回していない以上、彼らの「意向」は死んでいないと見なさなければならない。  第3期計画では、国立大学をいわゆる地域貢献型、特定分野集中型、トップレベル型の3タイプに分けることが決まっている。これは、以前、当欄でも触れた「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」の中で提言されていた「G型の世界」「L型の世界」という大学の未来像に対応しているプランであるように見える
・要するに、文科省は、国立大学を「ノーベル賞受賞者を輩出するような高度な研究を担う大学」と、「産業界に即戦力としての人材を提供する実務教育の大学」に分離しようと考えているわけだ。 より露骨な言い方をするなら「ノーベル賞を狙えるほど優秀でない学生は、学問や研究とは無縁な、企業戦士として役立つ技能の習得に専念してほしい」ということだ
・そうやって、「選択と集中」によって、研究予算を重点配分すれば、総体としては少ない予算の中からでも、トップを狙える優秀な研究者を輩出できる、と、文科省はおそらくそんなふうに考えているのだろう
・しかしながら、2000年以降にノーベル賞を受賞した人々の出身学部を一覧すればわかる通り、学術研究の世界における最先端の研究は、「選択と集中」というよりは、どちらかといえば「層の厚さと多様性」によってもたらされている
・つまり、ノーベル賞受賞者は、必ずしも誰もが認める日本のトップ大学である東京大学から生まれているわけではなくて、意外なほど地方の大学にバラけているのだ。ウィキペディアの表を見るとそれが分かる(こちら)
・自然科学系の受賞者21人のうち、東京大学(学部卒業時点)の出身者は4人に過ぎない。占有率にして約19%。サッカー日本代表メンバーに占める海外クラブ在籍選手(約48%)の半分にも満たない。とてもではないが、「多数派」とは言えない
・これから先の30年で、大学への研究資金が減額されるだけでなく、その使い途について、文科省の管理が強化されることになっている
・わが国の大学からノーベル賞受賞者が生まれる可能性はさらに低くなるだろう
・まあ、仕方がない。 個人的にはイグノーベル賞が獲れるのならそれで良いと思っている。1億総脱力社会実現のためには、それぐらいがちょうどよい
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/100800014/?P=1

いつもながら、小田嶋隆氏の記事は、ウィットに富み、教えられるところが多い。『学問は、個人や国家のものではなく、人類のもの』を同氏に教えた高校の先生はなかなかの人格者だが、それを自らの思考回路のなかに取り入れ、活用している同氏もさすがである。スポーツとの比較は秀逸だ。日本人のノーベル賞受賞ラッシュで「安直なナショナリズムに酔っていた」自分が恥ずかしくなった。

「先行きへの不安」は、私自身も気になっていた点をズバリ指摘しているのが、ここで紹介した最大の理由である。確かに、米国への留学生数からしても、受賞者が「海を渡る」のは確実だろう。まして、現在の文科省の「選択と集中」、研究予算の重点配分などの狭量な考え方では、「層の厚さと多様性」を失うのは必至だろう。同氏は、「イグノーベル賞が獲れるのならそれで良い」と最大限の皮肉で締めているが、浮ついた報道に終始するマスコミにも、同氏の爪のアカでも煎じて飲んでほしいところだ。

明日は、(その2)として海の向こうのノーベル賞事情を取上げる予定。
タグ:ノーベル賞受賞 日本人 小田嶋隆 日経ビジネスオンライン ノーベル賞はいずれ海を渡る 大村智 梶田隆章 科学的方法論 学問が個人や国家のものではなくて 人類に属するもの スポーツ その進歩と競技力の向上を疑っていない 学術研究は、ながらく停滞 研究費は、バブル崩壊後の長い不況を受けて徐々に減額 米国に留学する中国人学生 日本人留学生の数 半数以下の1万9568人に減少 ノーベル賞 最初の取り組みから数えれば20年30年を経た研究に対して、はじめて与えられているケースが多い この10年ほどの間に日本の研究者がノーベル賞を得たのは ざっくり言って30年以上前の研究の結果 バブルの時代の研究環境 30年後のノーベル賞は、むしろわれわれのアタマを超えて、中国の研究者により多くもたらされているはず 文部科学大臣名義 人文社会科学系学部の改組と廃止を求める通知 内外から批判が集中 事実上撤回 通知の内容は取り消すが、通知そのものは撤回しない 人を食った対応 文科省の「真意」は、既に現場に伝わっている 独立行政法人 国立大学 6年間の「中期目標・中期計画」を策定 第3期計画 地域貢献型、特定分野集中型、トップレベル型の3タイプに分ける 選択と集中 研究予算を重点配分 少ない予算の中からでも、トップを狙える優秀な研究者を輩出できる 受賞した人々の出身学部を一覧 層の厚さと多様性 意外なほど地方の大学にバラけている わが国の大学からノーベル賞受賞者が生まれる可能性はさらに低くなるだろう イグノーベル賞
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