SSブログ

原発問題(その3)原発再稼働4 「えんがちょ」になった原発問題 [経済政策]

原発問題については昨年8月5日に取上げ、原発再稼働については8月17日に取上げたまま、静観してきた。今日は、これらをまとめて、原発問題(その3)原発再稼働4 「えんがちょ」になった原発問題 として取上げよう。

このブログで頻繁に引用するコラムニストの小田嶋隆氏が2月26日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「タービンを回す前に」を紹介したい。
・原発のお話を蒸し返さねばならない。 またコメント欄が荒れるのだと思うと気が重い。
・しかしながら、この話題は、気が重いからこそ、定期的に振り返って、くどくどと蒸し返さなければならない。そして、みんなしてうんざりしつつ、一から同じ議論をたどりなおして、ますますうんざりせねばなならない、と、かように私は考えている。原子力発電所は、熱水を蒸し返すことでタービンを回している。私たちもそうせねばならない。
・理由を、以下に申し述べておく。 わたくしども日本人は、もめごとが嫌いだ。 正しいとか正しくないとか、良いとか悪いとか、論理的だとか感情的だとか、そういう真正面からの議論を展開する以前の段階で、われわれは、そもそも、異なった見解を持つ人間と対話を持つことそのものに気後れを感じるように育てられている。だから、ある臨界点を超えて論争的になってしまった問題に関しては、それについて自分がどういう考えを持っているのかとは別に、はじめからその問題に関与すること自体を避ける。
・原発は、そういうものになっている。 懐かしい言葉で言えば「えんがちょ」というヤツだ。 子供たちの間で、何か汚いものに接触してしまったメンバーは、その場で「えんがちょ」と認定される。 と、その「えんがちょ」となった少年は、一定の期間が過ぎるまで、または仲間の子供たちがその期間限定の仲間はずれゲームに飽きて「えんがちょ」の呪縛を解くまでの間、一人の人間の形をした汚物として共同体から除外されることになる。
・うっかり犬の糞を踏むことの多い子供であった小中学生時代を通じて、私は「えんがちょ」な少年として過ごす時間を豊富に持っていた。だから、この件には、ちょっと詳しい。 もっとも、昨今では「えんがちょ」を、遊びではなく「いじめ」の文脈で読み解く人々が多くなっていて、してみると、この「えんがちょ」という言葉は、無邪気に使うことのできない言葉に変貌しつつあるわけで、つまり、「えんがちょ」自体が、すでに「えんがちょ」に指定されているのかもしれない。実に厄介な状況だ。
・とにかく、子供たちにとって、「特定の誰かを仲間はずれにすること」が、「遊び」であるのか「いじめ」であるのかは、なかなか厄介な問題で、ほかの動作でも同じことなのだが、「遊び」と「いじめ」は、実際の子供たちの社会の中では、必ずしも相容れない対立概念ではなかったりする。
・子供たちの行動圏の中では、「いじめ」は「遊び」を含んでいるし、「遊び」は「いじめ」を含んでいる。このあたりの事情は、大人になっても、あんまり変わらないのかもしれない。私が指摘しておきたいのは、原発にかかわるあれやこれやが、昭和の子供たちの間でたびたび発動されていた「えんがちょ」とほとんど同じなりゆきで、通常のコミュニケーションから除外されてしまっているということだ。
・原発話題排除要請は、「強制」や「圧力」であるよりは、よりやんわりとした「マナー」として、共有されている。 つまり、食卓の話題に直腸検診のエピソードを持ち出す態度がマナー違反と見なされるのと同じように、オフィスの昼休みや茶道教室の懇親会の席で原発への賛否を語り出す人間は、既に「えんがちょ」なのである。
・では、どうして原発は、「えんがちょ」になってしまったのだろうか。 東電ならびに原子力ムラの闇の勢力が原発をNGワードに指定するべく周到な地下宣伝活動を繰り広げてきたからだろうか。
・私はそうは思っていない。 そんな七面倒臭いことをするまでもなく、事なかれ主義が支配する世界では、加熱しすぎた話題は、ごく自然に避けられることになっている。
・であるから、倦怠期をはるかに過ぎた夫婦の間で10年前の不貞が触れてはいけない話題になっているのと同じように、紛糾が予想される論題は、重要であればあるほど、かえって議題にのぼらなくなる。夫婦が互いの不貞を話題にしないのは、それが過ぎ去った問題だからではないし、解決した事件だからでもない、重要でないと考えているはずもないし、気にしていないのでもない。彼らは、いつも気にしていて、思い出す度に腹を立てている。しかしながら、気にしていて腹を立てているからこそ、話題にすることができない。なぜなら、気になったり腹が立ったりする以上に、なによりもまず心の底からめんどうくさいからだ。
・原発の話題も同じだ。 その話題が出ると、必ずギスギスしたやりとりになることは、既に何度も経験済みでよくわかっている。 議論が平行線をたどることも知っている。 事実の検証だったはずの話がいつしか人格攻撃の応酬に移行するであろうことも、議論が深まれば深まるほど党派的な思惑が先行した断定的なスローガンが連呼されるに決まっていることも承知している。
・で、時間が浪費され、何の結論も合意も得られない中で、互いの憎しみと軽蔑だけが増幅される結果に終わることもあらかじめ予測がついている。 だとしたら、誰がいまさら原発の話なんか持ち出すだろう。
・……てな調子で、原発をめぐる議論がすっかり低迷している2月のとある一日、福井・高浜原発の1、2号機が原発の新しい基準に適合するというふうに認定されたという記事が配信された。 なんでも、運転開始から40年を経過している原発が、適合を認定されたのははじめてのケースなのだそうだ。
・同じ日の河北新報は、東京電力が、福島第1原発事故の状況をめぐり、核燃料が溶け落ちる「炉心溶融(メルトダウン)」が起きていることを事故直後に公表できたにもかかわらず、過小に誤った判断をしていたと発表した旨を知らせる記事を掲載している。
・もうひとつ、目立たないニュースだが、2月22日の福島民友新聞に、外務省がソウルで企画した東日本大震災の復興PRイベントが、開催当日に中止となったニュースについての続報が載っている。この事件には、福島大うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員の開沼博氏が、「県民の立場から海外へ情報を繰り返し伝えていく努力を続けることが大切だ」 というコメントを寄せている。
・3つのニュースは、短くまとめれば「老朽化した原発を延命することの是非」「原発事故の折り、東電が、メルトダウンの評価についてマニュアルの基準に従わずに過小評価・報告をしていた問題」「福島の復興をアピールする試みが停滞している問題」で、それぞれ、別の話だ。
・ただ、この時期に、3つの問題がまとまって記事化されたことには、一定の意味がある。 というのも、この3つのニュースは、相互にあまり関連の無い話題であることはその通りなのだとして、その一方で、いずれも「原発の話題についての一般の日本人の忌避感ないしは食傷感」を反映した記事だと思うからだ。
・まず、22日の「福島復興PR」関連の記事について。 この記事は、普通に読めば「外務省が企画した、ソウルでの福島復興PRイベント」に、予想外の反発が寄せられて催しそのものが中止においこまれた経緯を書き、その結果について有識者のコメントを求めただけのものだ。 経緯の描写も開沼氏のコメントもごく穏当なものだ。
・ところが、このなんでもない記事に型通りの反発が寄せられる。 《開沼博(氏略)によると、外務省が企画したこのイベントに対する批判は、一部過激な層による福島県への差別やデマになるらしい。》  《しかも、「反原発団体(一部の過激な層)は国内外を問わずにいるが、それを抑える一般の人の感覚が日本にあって海外(韓国)には無いのだろう」という趣旨の独断と偏見を利用した日本国内向けのアピールと取れるけど、どうしてこうも威丈高になれるんだ。》 《外務省とタッグを組んで「海外へ情報を繰り返し伝えていく努力を続けることが大切だ」という発言は、歴史修正主義者の海外での「歴史戦」を進めるべきだ系の発言と重なって聞こえてくる。》
・福島の農産物や海産物については、原発事故からこれまでの5年近くの間、徹底的な安全調査が積み重ねられ、その結果としてのデータが、様々な方法で告知されている。たとえば、福島県のホームページには、福島産米の全袋全量調査の結果と経過を示す詳細な記録がもれなくアップされている。
・この点については、事実をベースに話をしても良い時期に来ているはずだ。 私自身、国や東電が、様々な機会を通じて原発事故による被害を過小に印象付けようとしてきたことは事実だと思っているし、現在でも、原発関連の関係各組織やメディアが、原発の安全性を過剰にPRしようとしている側面は明らかに存在していると考えている。 ただ、福島の県産品の安全性についてのお話は、政府の思惑やいわゆる「原子力ムラ」の陰謀とは別だ。復興については、積み上げられたデータを、事実は事実として、科学的な目で、評価せねばならない。
・でないと、事故以来、懸命に努力している地元の人たちが浮かばれない。 国や「原子力ムラ」に、原発政策推進の狙いや、原発事故矮小化の思惑があるのだとしても、だからといってそのことが、「福島がいまだに汚染されていること」や「福島県産品が危険であること」を証拠立てるわけではない。少なくとも、科学的に安全性が立証されている食品は安全と評価しなければならないし、除染の結果放射線の値が定められた基準以下のレベルにおさまっている地域については、その数値に見合った評価を下すべきだ。
・福島民友の記事に寄せられた反応を見ていると、原発の話題が一般の国民にとって「さわりたくないめんどうくさい話題」になってしまっている原因のひとつが、原発事故を党派的に利用することしか考えていない一部の人たちの声があまりにもやかましいことにある、ということがよくわかる。
・そこで巻き起こっている議論の不毛さを見るにつけ 「ああ、ここはさわっちゃいけない場所なんだな」  と、多くの人間は、避けるようになる。 で、その、一般国民の「食傷感」と「うんざり感」を見透かしたようにして、お国は、運転開始から40年を超過した原発の運転を承認しにかかっている。
・毎日新聞の解説によれば、この「40年ルール(40年で運転停止、20年以内、1回に限って延長可能)」は、福島第一原発の事故後、「圧力容器が中性子の照射を受けて劣化する時期の目安」として、国が定めたものだ。 ところで、2月25日付けの読売新聞の社説(《原発40年超運転 「時間切れ廃炉」は許されない》)は、 《そもそも、原発の運転期間を40年としたルールに科学的根拠はない。原子炉等規制法を再度、見直すべきだろう。》 と、「40年ルール」そのものをものの見事に否定し去っている。
・先日の、丸川環境相による、「年間1ミリシーベルトという除染の長期目標には、科学的根拠もない」という発言と相通じるものを感じる。
・法律やルールや基準値とされるものの中に、時に妥当性を欠いたものが含まれていることがあるのは事実だ。40年ルールにしても、当時の記録からは「仮置きの数字」という印象がうかがえる。 が、仮に妥当でないのだとしても、運用でなし崩しに変わっていくのはまずい。
・「科学的根拠がないから」「現実的じゃないから」「あほらしいから」という理由で、ルールの特例を常用して良いのなら、それはもうルールではない。誰も制限速度を守って道路を走る必要は無いし、不味いラーメンを食べたと思う客の中には、対価を支払うことを拒否する者が出てくるかもしれない。というのは極端にしても、またもや面倒な議論や証拠集めをえんがちょしている雰囲気が濃厚だ。
・ルールが間違っていると思うのも、主張するのも全くかまわない。声が大きいのも地声なら仕方ない。だが、論拠を示さずショッキングな結論だけ述べることで、議論を回避しつつ攻めていくのはそれこそルール違反だろう。ルールがおかしいなら、ルールを変えるためのルールを守らなければならない。当たり前の話だ。このままだと、電源事情に鑑みて、特例で稼働延長を認めたのか、それとも「40年」という決め事がおかしかったのかが、どんどん曖昧になっていくと思う。
・原発関連の話題が避けられるもうひとつの理由として、反原発派の中の極端な一部の人々が金切り声を上げることとは別に、原発を推進しようとしている人々の極端な一部の人の言いざまが、あまりにも醜いことがある。 こういう議論を見ていると、根気の無い人はもちろん、普通の人は関わろうとする気力を失う。  で、結果として、強力な意思を持った人間だけが声を上げ続けることになり、議論は、ますます近寄りがたいものになる。 困った展開だ。
・最後に、東電が「メルトダウン」を過小評価していた件についても簡単に触れておく。  まず、こんな重大な見落としが、事故から5年もたってはじめて「発見」されているということに驚く。 記事によれば、 《東電は「(早期に)データの持つ意味を解釈し、炉心溶融を公表すべきだった。事故を矮小(わいしょう)化する意図はなく、公表をしないよう外部からの圧力もなかった」と説明。基準を見過ごしていた背景や理由について、第三者を交えた社内調査に乗り出すという。》 ということになっているが、事故を矮小化する意図もなく、公表をしないよう外部からの圧力もなかった状態で、どうして基準を見過ごしたのかについて、これから調べないと分からないという説明も、にわかには了解しがたい。いったい、誰に何を説明しているつもりなのだろう。
・一方には、明らかに書いてある文字を見落としたと言い張っている人たちがいて、さらには、自分たちで決めたルールを「科学的根拠がない」という理由で無視しようとしている人々がいる。で、その彼らへの不信をこじらせるあまり、何の罪もない被災地の人々の復興への努力に泥を塗ろうとする人々がいる。
・…まあ、うんざりするのも仕方がないと言えば言える。 私自身、かなりうんざりしている。 でも、この際、うんざりするのはやめにして、たまには原発について思い出して、できれば、見つめなおしたり考えなおしたりすべきだと思う。
・というのも、不幸にはわりと律儀なところがあるからだ。 あいつは、たぶん、うんざりしている人間のもとを訪れることに決めている。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/022500033/

私自身が、原発問題にうんざりしていたこともあって、この小田嶋氏のコラムは「どつぼに嵌まった」感じの秀逸なものだった。日本人が「うんざり」させられる状況の説明も改めてなるほどと感心させられた。さらに、「えんがちょ」という郷愁を誘う言葉は、まさに我が国での原発問題にぴったりだ。
東電が「メルトダウン」の社内基準を見落とし、「炉心損傷」に過ぎないと長らく主張し、マスコミも含めた「原子力ムラ」もこれに同調していた問題も、「第三者を交えた社内調査に乗り出す」らしい。しかし、東電だけでなく、政府も関与していた疑いもあると思われる以上、本来であれば、完全な第三者機関が調査すべきだろう。最後の「不幸にはわりと律儀なところがある」には思わずゾッとさせられた。
私も、「不幸」が訪れることのないよう、これからは原発問題をときどき取上げてゆくつもりである。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0