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日本人のノーベル賞受賞(その4)(「オートファジー」とは何か、大隅博士の受賞にみる「日本人に理想の教育」、村上春樹がノーベル文学賞を取れない理由) [科学技術]

日本人のノーベル賞受賞については、昨年10月19日に取上げた。今年の受賞を受けて、今日は、(その4)(「オートファジー」とは何か、大隅博士の受賞にみる「日本人に理想の教育」、村上春樹がノーベル文学賞を取れない理由) である。

先ずは、10月4日付け東洋経済オンライン「ノーベル賞を受賞「オートファジー」とは何か 生理学・医学賞に大隅良典東工大栄誉教授」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・10月3日、2016年ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった大隅良典・東京工業大学栄誉教授。受賞理由は、細胞内部の自食作用、オートファジーのメカニズムの解明だ。ノーベル賞予想で著名なトムソン・ロイターの引用栄誉賞も2013年に受賞するなど、大隅栄誉教授のノーベル賞受賞の呼び声は以前から高かった。
▽オートとは自分、ファジーは食べるという意味
・オートファジーはここ数年、生命科学分野で大きな注目を集めてきた。生物の体内では、古くなった細胞や外部から侵入した細菌などを食べるお掃除細胞、マクロファージがよく知られているが、人体に数十兆個あると言われる細胞ひとつひとつの中でも、古くなったタンパク質や異物などのゴミを集めて分解し、分解してできたアミノ酸を新たなタンパク質合成に使うリサイクルシステムが働いている。このリサイクルシステムのうち分解に関わる重要な機能がオートファジーだ。
・オートとは自分、ファジーは食べるという意味で、名前のとおり、自分自身を食べる(分解する)。細胞の中にあるミトコンドリアや小胞体などの細胞小器官は常に入れ替わっているが、オートファジーが、この細胞内の入れ替わりを助ける役割を果たしている。
・細胞の中にある小器官や細胞質(細胞の中に詰まっているタンパク質)が古くなると、膜に包まれる。これに分解酵素を持つリソソーム(植物では液胞)がくっついて分解酵素が流し込まれると、アミノ酸に分解される。アミノ酸は小さいので、膜から出ていき、膜の中には分解酵素だけが残る(オートリソソーム)。膜の外に出たアミノ酸は細胞内のタンパク質を合成するための栄養として再利用される。
・大隅教授はこの機能を、単細胞生物である酵母の研究から発見した。酵母が飢餓状態になると、細胞内部にあるタンパク質を分解し、あらたなタンパク質を合成する。 オートファジーに関わる遺伝子もすでに18が特定されており、この遺伝子の働きは、受精卵の発達段階から脳細胞の活動まで、生命活動のさまざまな部分に関わっていることがわかっている。
▽水だけあれば1カ月程度生き延びられるワケ
・ヒトの体の中では毎日300~400gのタンパク質が合成されている。一方、食事から摂取するタンパク質の量は70~80g程度にすぎない。不足分は、自分の体を構成している細胞の中にあるタンパク質をアミノ酸に分解し、再利用することで、補っている。
・この仕組みによって、体内のタンパク質の合成と分解はつねにバランスが保たれる。たとえばヒトは絶食しても、水だけあれば1カ月程度生き延びられるとされるが、それは体内で重要なタンパクが作り続けられているからだ。
・オートファジーはまた、がんや神経疾患にも関係があると考えられている。オートファジーの機能を活性化することによって、症状の改善などが期待されている。逆に、オートファジーの機能を止めることによってがん治療への応用の道もある。「いろいろな病気の原因解明や治療に、オートファジーは使えるようになると考えています」(大隅栄誉教授)。すでにオートファジーのしくみを使って抗体医薬や核酸医薬など新たな医療や医薬品の研究が活発に進められるようになっている。
http://toyokeizai.net/articles/-/138721

次に、精神科医の和田秀樹氏が10月11日付け日経Bpnetに寄稿した「大隅博士のノーベル賞にみる「日本人に理想の教育」とは」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽楽観できない日本の研究の将来
・大隅良典博士がノーベル医学生理学賞を単独受賞した。 中国や韓国は、これを(というか、日本人が立て続けにノーベル賞を取ることになのだろうが)相当うらやましく感じているようだ。賞賛の報道もあるし、自国のシステムの批判のためにこのニュースを用いているところもある。
・私自身、たまたま山中伸弥氏を京大に引き抜いたとされる元京大教授と知り合いだった関係で、iPS細胞については、受賞前からある程度勉強していたが、オートファジーについては不勉強だった。 これも、将来的に、かなり応用可能な分野のようで、日本の基礎研究のレベルの高さを知り、素直に感嘆している。
・ただ、私は、日本の研究の将来についてはそんなに楽観していない。 というのは、この30年ほど、日本の教育がいい方向に向かっているとは思えないからだ。
▽ノーベル賞を出す教育には二つの条件がある
・ノーベル賞を出すような良質な研究であれ、その国の技術水準の高さであれ、それを実現する教育には二つの条件があると私は考えている。
・一つは、基礎学力の高さだ。 独自の発想力や頭のよさがあればノーベル賞を取れるかというと、過去事例を見る限り、決してそうではない(文学賞や平和賞はともかくとして、自然科学系の分野でも、経済学賞でも)。 日本でも現在の受賞者は、すべて国立大学の出身者であり、厳しい受験競争に勝ち抜いたと同時に、多科目受験の経験者である。 物理の研究者であれば、物理だけが突出してできる人であればいいというわけではなさそうなのだ。
・外国はそうでないというかもしれないが、ほとんどの研究者は、その国のトップレベルの大学を卒業している。日本以上に高校在学時のGPA(各科目の成績から特定の方式によって算出された学生の成績評価値)が入試の判定に重視されるので、やはり基礎学力がかなり高くないとそういう大学には入れない。
・アインシュタインが学校の勉強が嫌いだったり、言語能力に問題があったとされているが、物理と数学の成績がいいから無条件に大学に入れたわけでなく、ギムナジウム(ヨーロッパの中等教育機関)の卒業ができるまで大学入学を許されなかったように、研究者としての最低限の基礎学力は担保されていたのだろう。
▽海外で驚くほど評価が高い日本の初等中等教育
・日本の「詰め込み教育」がオリジナリティや創造力を奪うという批判は根強いが、どこの国でも、初等中等教育は原則的に詰め込み型である。それどころか、日本の初等中等教育の評価は海外では驚くほど高い。 イギリスやアメリカで学力低下が問題にされた際も、手本にされたのは日本の初等中等教育である。そして、アジアの多くの国も、戦前から日本の初等教育のようなシステムになっている国(これらの国は日本に批判的だが、教育システムだけはいまだに日本流である)も日本を手本に教育システムを構築した国も少なくない。
・実際、アメリカやイギリスは60年代から70年代に日本のゆとり教育に近い形の自主性重視の教育改革を行ったが、深刻な学力低下に見舞われ、80年代になると教育の充実の必要性が叫ばれ、結果的に日本を手本にしたという歴史がある。 要するに労働者のレベルの底上げにも、ハイレベルな研究者の育成のためにも、しっかりした初等・中等教育が必要というのが、諸外国のコンセンサスである。
▽大学の教育レベルの低さが大問題に
・ところが、そのお手本であった日本が、OECD(経済協力開発機構)のPISA(国際的な学習到達度)調査やTIMSS(国際数学・理科教育動向調査)においても、読解力では、OECDの中位レベル、数学力ではほかのアジアの国に勝てなくなっているというのが、この20年間の実態である。 ゆとり教育と少子化によって、勉強をしなくても高校や大学に入りやすくなった(現実に入れてしまう)ということが大きいのだろう。
・もちろん、ノーベル賞を輩出するようなハイレベルの大学生の学力は、それなりに担保されている(中学受験経験者が多いため、基礎学力についてはむしろ高いかもしれない)のだろうが、最近、次々とノーベル賞を輩出している地方国立大学の学生の学力レベルはかなり落ちているようだ。
・私が、二つ目の条件と考えるのは、その基礎学力を花開かせる高等教育なのだが、日本では、大学の教育レベルは決して高いとは言えない。 基本的に、日本の大学の教育システムは、性善説で成り立っている。実際、いい人が教授になれば、それなりにうまく機能する。ノーベル賞を取ったような学者の多くは、恩師に恵まれたという話をする。
・おそらくは指導教授がよければ、研究の方向性も優れたものとなり、また伸び伸びと研究できるのだろう。小柴昌俊氏の弟子にあたる梶田隆章氏がノーベル賞を取ったように(早逝した梶田氏の直接の指導教員であった戸塚洋二氏も生きていれば確実に受賞していたという)、教室の環境や指導がよければ、弟子も次々とノーベル賞を取る可能性はある。
▽上に逆らえない学界の風土が悲劇を呼ぶ
・問題は、そうでなかった場合だ。 日本の場合は、いったん教授になると、刑事事件でも起こさない限りクビにはならない。ノバルティスファーマの高血圧症治療薬「ディオバン」を巡る臨床データ操作事件の論文改ざんの中心人物と目される東大教授はいまだにその座に居座っている。また、研究が古くなっても、トップで居続けるから、教授がその研究に固執する人だと新しい研究もやりにくい。 医学の世界は、その傾向が顕著といえる。
・現実に、ノーベル医学・生理学賞は今回で4人目の受賞だが、医学部を卒業したのは、山中伸弥氏のみだし、山中氏も大学の医学部ではなく、奈良先端技術大学院大学で行った研究がノーベル賞の対象だった。
・近藤誠氏の現在の理論には賛否両論はあるが、もともとは、海外の論文で、あるステージまでの乳がんは、乳房を全摘して、大胸筋まで切る術式をしなくても、がんだけ切って、放射線を当てるだけで、5年生存率が変わらないというものを見つけ、国民の啓蒙のために、これをある雑誌に提起したことが物議の始まりだった。
・メンツを潰された外科教授たちがこぞって近藤氏を排斥し、その術式を使うと、上からにらまれるためか、大病院の外科医たちも、この術式をやろうとした人は非常に少なかった(患者思いの医師たちが隠れキリシタンのように行っていたという)。ところが、これらの外科の学会ボスがみんな引退した15年後くらいになると、この術式が日本の標準術式になった。おそらくは、多くの患者が無駄に乳房を全摘されていたのだろうが、上に逆らえない学界の風土がこの悲劇を呼んだといえる。
▽東日本大震災の心のケアができる医師不足は顕著
・自分の嫌いな研究を徹底的に排斥する教授もいる。 私は、アメリカの精神分析学の主流派である自己心理学の年間優秀論文(15~20本程度)を集めた国際年鑑に、日本で最初に論文が採用されたことがあるが、その論文は、東北大学のその年に出された100本以上の博士論文の中で唯一落とされたものであった。
・主査の佐藤光源精神科教授は15年間の東北大学精神科教授在任中、一つとして、精神療法の論文に博士を与えていない。東北大学が東北全県に影響を与えるため、東北地方では、薬物療法を主とする精神科医がほとんどで(もちろん、東京に学びに来た人もいるし、何人かは私も直接の知り合いである)、東日本大震災の心のケアができる医師不足は顕著だった(トラウマは原則的に薬物治療でなくカウンセリングで治すものだからだ)。 教授のパーソナリティ次第では、自分と異なる流派の医師は排斥され、あるいは学ぶ機会も研究する機会も得られない。
▽教授を選ぶシステムも性善説に基づく
・教授会で教授を選ぶシステムも性善説に基づくものだ。 これも教授会の文化が少しでも優秀な人間を教授に選ぼうとか、今後に期待できる人を教授にしようというところなら問題はない。 しかし、現実にはそうでないことは珍しくない。 以前、日本でもっともエジプト考古学で業績をあげていた吉村作治氏が、いつまでも助教授から教授に上がれない際に問題にしていたように、自分を追い抜いたり、自分より目立ちそうな人を教授にしないことは数の論理では十分にあり得る。そういう際に、助教授(准教授)の中でいちばんできの悪い人間が教授になるという笑い話すらある。
・多数決で教授を選ぶシステムでは、政治的な判断も横行しやすい。 たとえば、医学部では、麻酔科や放射線科の次期教授を選ぶ際に、外科系の教授陣(かなりの数を占める)に覚えのいい人のほうがなりやすい。独自の理論を持つ人より、外科に使い勝手のいい人が選ばれやすいし、放射線科では、外科に役立つ放射線診断の部門の教授が、がん患者が増えたため、ニーズは高いが、外科と治療方針で対立しやすい放射線治療部門の医師より選ばれやすいとされる。
▽教授のスカウトを客観的に行うディーンを日本でも導入すべき
・論文の数で教授を決めるというのは、そういうものと比べるとフェアといえるが、医学部の場合は、臨床を一生懸命やっている人や臨床能力が高い人が選ばれにくいという難点は以前から指摘されている。 欧米では、ディーンという教授のスカウト係が、何人かのアドバイザーをその都度雇って、将来性のある研究をしている人、臨床能力の高い人、教えるのがうまい人などをスカウトするのが通例だが、このようなシステムは日本でも導入すべきだろう。
・『白い巨塔』が連載開始したのは、今から50年以上も前の話で、日本の研究環境の悪さ(医学系だけなのかもしれないが)は今に始まったことではない。ただ、基礎学力の高さがそれをカバーしてきた。田中耕一氏がノーベル賞を取った際も、海外で驚かれたのは、企業研究者であったこと以上に、大学しか出ていない(大学院を出ていない)ことだったそうだ。実際、日本人のノーベル賞は、企業研究者や海外での研究が評価されてというものが多い。
・基礎学力が怪しくなってきた今必要なのは、初等中等教育や大学の入試改革(世界でも例をみないアドミッション・オフィスという独立機関を作らず、教授が面接をするAO入試化を行おうとしている。これも教授性善説の賜物だ)より、大学の(とくに人事システムの)改革なのだろうが、審議会の委員の大多数が大学教授では、当分は難しいだろう。
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/306192/100700042/?P=1

第三に、評論家の栗原 裕一郎氏が10月18日付け東洋経済オンラインに寄稿した「村上春樹がノーベル文学賞を取れない理由 そもそも本当にノーベル賞候補なのか?」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・2016年度のノーベル文学賞は、ボブ・ディランに決まった。そして、やはりと言うべきなのか、有力候補と報じられていた村上春樹が、今年も落選した。村上春樹は、なぜノーベル文学賞を取れないのか。毎年、受賞を待ち望むファンでなくても、同じ疑問を持つ人は多いだろう。この疑問に対する答えを探すために、過去の受賞者とその作品や傾向を材料に、村上春樹についての著作を持つ評論家の栗原裕一郎氏が考察を巡らせる。
・村上春樹とノーベル文学賞を巡る問題でまず押さえていただきたいのは、それが空論であるということだ。 「なぜ取れないのか?」と問うためには、春樹がノミネートされているという前提の事実が必要だが、そもそも候補になっているのかどうか、わからないのである。 毎年「今年は春樹の受賞可能性は○位」などという記事が出て、2016年は1位だとか報じられていたが、あれはブックメーカーが勝手に発表している賭け率であって、選考にあたっているスウェーデン・アカデミーは何ら関与していない。
▽村上春樹とノーベル賞をめぐる議論の本質
・春樹とノーベル賞についていろいろな人がいろいろなことを言っているけれど、ほとんどはダメな議論だと思っていい。だって、前提があやふやなんだから。いま書かれているこの文章も例外ではない。もちろんベストを尽くして少しでも役に立つものを書くつもりだが、「なぜ取れないのか?」という問いが無効であるという事実は努力で変えられるものではない。どうしようもないことなのだ。
・じゃあ、いつになったら実のある議論ができるのか? 春樹がノーベル文学賞を受賞したら。さもなければ、そう、50年くらい経ったら、である。 候補者は事後50年経つと公表されるからだ。50年の経過を待つ前に関係者筋から本当らしい噂が漏れることもある。川端康成の受賞(1968年)に至るまでに、日本人作家で誰が候補に上っていたかは判明している。詩人の西脇順三郎、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫の4名だ。
・西脇は翻訳や資料が十分にないという理由で候補から外れ、谷崎は受賞することなく65年に死去し、68年度に川端が受賞した。このとき川端と三島が争ったが、年齢を考慮して川端が推されたという噂がある。日本文学者のドナルド・キーンがノーベル賞に関係する要人から聞いたという話なのだが、真相はむろんわからない(東京新聞連載・「ドナルド・キーンの東京下町日記 ノーベル賞と三島、川端の死」)。
・また2009年には、賀川豊彦が1947、48年に候補に上っていたことが判明して文学関係者を驚愕させた。賀川は1920年に自伝的小説『死線を越えて』を出版し、100万部といわれるベストセラーとなったが、文学的価値を認められておらず、顧みられることもほぼないからだ。作家と呼んでいいのかすら微妙な人物で、キリスト教系の運動家だったというほうがたぶん正しい。貧民救済に奔走するヒューマニズムがアカデミーに受けたようだ。ノーベル文学賞はある時期まで人道的な作家や作品を評価する傾向が強かったから、たまたま翻訳があって目に留まった賀川が日本人候補として推されたのだろう。
・三島が候補として劣位になった原因として、アカデミーが彼を左翼と見なしたせいもあったらしいと、やはりドナルド・キーンが書き記している。ノーベル文学賞は左右問わず極端に政治的なイデオロギーを嫌う傾向にあるのだ。「三島が左翼だって?」と驚かされるが、事実だとすれば、賀川のノミネートとあわせて、スウェーデン・アカデミーの日本文学理解なんてその程度だったのだという傍証になるだろう。
▽受賞候補に名が上がり始めたきっかけ
・大江健三郎のノーベル賞受賞は1994年のことだ。川端以来26年ぶりで、アカデミーは特定の国に授賞が偏らないよう配慮している気配があるから、25年周期くらいでお鉢が回ってくるのではないかという予想が――当たっているかはさておき――立つ。すると次に日本人作家に授賞されるのは2019年という計算になり、まだちょっと時期尚早ということになる。むろんサンプル数たった1の机上論であって、根拠は情況証拠以外には何もない。
・大江の受賞に至るまでには、前回と同様に複数の日本人候補が上がっていたことが推測されるけれど、50年に満たないのでアカデミーからの公表は当然ないし、漏洩的な情報も出ていない。つまりまったくわからない。安部公房、遠藤周作が候補だったという説もあるが、これも薄い情況証拠に基づく憶測にすぎない。
・村上春樹がノーベル賞候補になっているとの噂が人々の口の端に上りだしたのは、『海辺のカフカ』(02年)が発表された後のことだ。春樹がチェコのフランツ・カフカ賞を受賞したのは『海辺のカフカ』のチェコ語訳が出た06年で、この賞はどの作品を評価したかを明確にしないが、「チェコ語訳の著作が一つはあること」を候補の条件としている。『海辺のカフカ』のチェコ語訳が出るからカフカ賞の候補になって受賞したのだというダジャレのような推測はそう外れていないと思われる。
・カフカ賞はノーベル賞に一番近い賞と言われている。それは、04年、05年と2度、この賞の受賞者がノーベル賞も受賞することが続いたからだ。そのカフカ賞を受賞してしまったがために、以降、春樹は毎年ノーベル賞騒ぎに巻き込まれることになってしまったのである。
・作品の性質の面からも見ておこう。ノーベル文学賞の理念は、アルフレッド・ノーベルが遺言した「理想主義的傾向のもっとも注目すべき文学作品の著者に贈る」に則っている。まれに特定の作品が対象とされていることもあるが、基本的には作家の功績全体を鑑みて授賞を決定している。
・「理想主義的傾向」は、人間と自然、国家や民族、歴史などに対する洞察や想像力、精神性の深さといった要素を意味すると考えてよさそうだ。一言でいえば道徳的、啓蒙的である。1926年度デレッダ(イタリア)の授賞理由「のびのびした明晰さで故郷の島の生活を描き、深い共感をもって人間一般の問題を掘り下げた理想主義文学」が典型的だろうか。
・戦後になると傾向に変化が出てきて、いわゆる前衛的な作家への授賞が増えるが、根が優等生的であることに変わりはない。ボブ・ディランへの授賞理由は「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」というものだった。
▽村上作品はノーベル文学賞の理念にマッチするか
・そこで問題は、村上春樹の諸作が「理想主義的傾向」にマッチするか否かということになるわけだが、なかなか判断が難しいところだ。 春樹の小説は構造に類型がある。喪失感や虚無感を抱えた主人公が何か(ピンボールマシン、羊、ガールフレンド、妻……)を探している。世界は2層になっていて、現実と異界が接触しており、その間の行き来によって物語は推進力を得ている。異界には何か邪悪なもの(羊、やみくろ、リトル・ピープル……)が存在しており、現実世界へ侵入してくる。
・オウム真理教事件と阪神淡路大震災を境に作家の意識に変化が生じ(デタッチメントからコミットメントへ、と春樹は表現している)、以降の作では、現実や歴史がより強く作品世界に取り込まれ、それまで漠然とファンタジックだった異界から来る邪悪なものも比較的リアルな輪郭を持つようになる。『ねじまき鳥クロニクル』が代表作と見なされるのは、前期と後期を繋ぐ集大成の趣きがあるからだろう。『1Q84』は後期の意識で前期の『羊をめぐる冒険』を書き直したような作である。
・春樹の小説にある種の普遍性があることはたぶん間違いない。でなければあれほど世界中で読まれまい。そしてその普遍性の源はおそらく、この構造類型に求められるのではないか。 そう仮定して、では春樹の小説の構造類型に「理想主義的傾向」が認められるかと考えると、よくわからない。よくわからないが、到達度的に難しいのではないかというのが個人的な印象である。『ねじまき鳥クロニクル』では戦争を招くものが、『1Q84』では宗教の善悪両義性が「邪悪なもの」に措定されていると見ることができるが、突き詰めたとまで果たして評価できるか。
・昨年の受賞者であるベラルーシのアレクシエービッチを引き合いに出し、3・11や「フクシマ」と向き合わなければ受賞は難しいとする論者もいるけれど、そんな浅薄な話でもないだろう(こういう人たちはなぜか「フクシマ」とカタカナで書く)。 「邪悪なもの」の正体を見極めたとき春樹の受賞は現実となる、とか書くとそれらしいが、勝手に妄想しているだけの話であって、まあ、こういう砂上に楼閣を建てるみたいな文章ほど書いていて心許ないものはない。
・ところで春樹の小説には、クラシックからポピュラーまで音楽がたくさん登場するが、その中でもボブ・ディランは突出している。というより特権的な存在および音楽として扱われている。かつて春樹はこんなことを書いていた。 60年代は「ポップ・ミュージックが大衆的な意識の軸の最先端に踊り出た」「ポップ・ミュージックの時代」「ロック・ルネサンスの時代」であり、ボブ・ディランービートルズードアーズという連鎖は「一九六〇年代にしか起こりえなかったことであるかもしれない」と(「用意された犠牲者の伝説――ジム・モリソン/ザ・ドアーズ」『海』1982年7月号)。ここにビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンを加えると、ポピュラーミュージックにおける村上春樹のアイドルが揃う。
・ディランについては「文体としてはケラワックであり、音色としてウディー・ガスリーであり、体ののめりかたはリトル・リチャードに近く、精神的にはジュウイッシュである。全体としてはひどく重く、知的である。ユーモアさえもが重く知的である」と書いている。「根本的な不信感と、不信感を梃子にした極めて微妙な意識の分解作業」に彼のオリジナリティはあるというのが春樹の評価だ。
・この連鎖で実現されたものを「60年代的価値観」と呼ぶとすれば、村上春樹の初期3部作『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』は、「僕」が「60年代的価値観」を援用して70年代という時代をなんとか生き延び、そして「60年代的価値観」が死ぬ物語と読むことができる。
・80年代は春樹にとって「60年代的価値観」が死んだ後の「高度資本主義」の時代である。この特別な、ディラン、ビートルズ、ドアーズの3組をまとめて登場させた短篇が春樹にはあって、そのタイトルは「我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史」と付けられている。 実のところ村上春樹は、文学より音楽を、創作の動機としてより強く持っているらしい。それは本人も述べている。
▽ディラン受賞について、村上春樹に聞いてほしい
・一方、ボブ・ディランは、ティーンエイジャーの頃はロックンロールに傾倒していたが、ミネソタ大学進学のためにビートニクなどが集っていたミネアポリスに移り、そこでフォークに触れて転ずる。この転向は、アメリカのフォークシンガー、ウディ・ガスリーに衝撃を受けることで決定的なものとなる。 ウディ・ガスリーは大恐慌時代に悲惨な境遇の中、民衆の苦難を歌った。ここで言われるフォークソングとは、字義通り「民謡」である。村上春樹は『意味がなければスイングはない』でガスリーのことを「国民詩人」と形容している。
・今回のノーベル賞受賞についてディランの歌を「プロテストソング」とする報道が多かったが、本人はデビュー後まもなくその路線は捨てている。というより端からそんなつもりはなかったかも知れず、抵抗の象徴に祭り上げられることにむしろ激しい拒絶と嫌悪を示した。
・ディランは常にファンの予想と期待を裏切るような変遷を重ねてきた。民謡であるフォークソングというルーツを引き受ける覚悟から始まり、ビートニク詩人と親交を結び、エレキギターに持ち替えロックを変革し、キリスト教を飲み込み、ゴスペルを経由し、ヒップホップにまで触手を伸ばし……。
・その総体は「アメリカの詩と音楽」としか呼びようのないものであり、「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」という授賞理由はそれを踏まえて理解しなければならない。 これは真面目に言うのだけれど、メディアは、村上春樹のところへ行ってボブ・ディランの受賞についてどう思うかぜひとも聞くべきである。最もよく彼を理解している日本人の一人なのだから。
http://toyokeizai.net/articles/-/140646

大隅博士の受賞直後は、「オートファジー」についての解説がマスコミを賑わせたが、時間が経って、記憶が薄らいだこともあり、念のため第一の記事を付けた。
和田氏が指摘する『楽観できない日本の研究の将来』、『大学の教育レベルの低さが大問題に』、というのはその通りだ。ただ、『海外で驚くほど評価が高い日本の初等中等教育』、には違和感がある。私は欧米の初等中等教育も『原則的に詰め込み型』とはいっても、それでも独創性を涵養する点では優れていると思う。
『東日本大震災の心のケアができる医師不足は顕著』、については、確かに薬物療法重視の東北大学流では、トラウマには役立たないだろう。『教授のスカウトを客観的に行うディーンを日本でも導入すべき』、には大賛成だ。
栗原氏の記事で、文学賞についても基礎的なことが理解できた。本当に候補になったかどうかは、50年後の公開まではわからないというのは、よくできたルールだ。肝心のボブ・ディランは、今日に至るまでノーベル文学賞受賞を無視しているようだ。選考委員会にとっては、頭が痛い問題だろうが、彼らの頭を冷やすにはいい教訓になるのではなかろうか。
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