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歴史問題(3)(政府が隠蔽した「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相、終戦まで「特攻」を止められなかった驚きの理由) [国内政治]

歴史問題については、昨年2月6日に取上げた。今日は、(3)(政府が隠蔽した「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相、終戦まで「特攻」を止められなかった驚きの理由) である。

先ずは、昨年9月18日付け現代ビジネス「政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽政府による徹底的な隠蔽
・「顔を血で真赤に染めて後手に縛られた一人の男が、林檎箱の上に引き据えるように腰かけさせられていた。大勢で取り囲んでいたにきまっているが、その人々の印象はぼやけてしまっている。縛られていた男の、一点を見据えていた眼が忘れられない。 〔略〕その男が朝鮮人であることは、少年の私にも自然に分かっていた。爆裂弾を投げつけたとか井戸に毒を入れて回っているとかいう“不逞鮮人”の噂は、もう9月2日には私も聞かされていたのではないかと思う」(木下順二『本郷』講談社、1983年) 1923年9月1日に発生した関東大震災時、現在の文京区大塚で被災した劇作家・木下順二が目撃した光景である。
・東京だけでも6万人以上の死者を出したといわれるこの震災に乗じるように、「朝鮮人が火つけをしている」「朝鮮人が井戸に毒を入れている」などの流言蜚語が流れた。 この噂を真に受けて警戒した住民たちは自警団を結成、これに軍隊も加わり、多くの朝鮮人や中国人が虐殺された。その数は数千人とも言われているが、実際に何人の方が犠牲になったのか、じつは震災から93年がたった現在でも詳細はわかっていない。
・その要因のひとつとして、当時の政府の徹底した事実の隠蔽があげられる。 次の2つの証言を見比べてもらいたい。当時尋常小学校5年生の生徒が、震災直後に書いた作文である。 「3日に伯母さんから「朝鮮人が火をつけて歩く」というお話をきいて僕は驚いた。するとその夜「わあっ」というさわぎがあちこちから起こり、同時に「ぢゃんぢゃん」と半鐘が鳴り出した。間もなく「ずどん」とピストルの音がした」  「3日に伯母さんから「しっ火がある」というお話をきいて僕は驚いた。するとその夜「わあっ」というさわぎがあちこちから起こり、同時に「ぢゃんぢゃん」と半鐘が鳴り出した。間もなく「どしん」となにか崩るる音がした」 が元の作文、下が検閲後に発行された作文集『子供の震災記』(目黒書店、1924年)に所収された作文である。「「朝鮮人が火をつけて歩く」というお話」が「「しっ火がある」というお話」に、「「ずどん」とピストルの音」が「「どしん」となにか崩るる音」にあらためられているのがわかるだろう。
・これは、私が証言を集める中で偶然、検閲前の『子供の震災記』を発見したことにより明らかになった改竄である。本書ではこのような改竄が全編にわたって徹底的に行われている。 一般に出回っている検閲印の押されたものだけを読んでも、朝鮮人虐殺についてはなに一つわからないようになっているのだ。
▽虐殺の証言とともに歩く 両国
・私は「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」「一般社団法人ほうせんか」という市民運動に参加している。 この会は1982年に発足して以来さまざまな活動をしてきた。2009年には朝鮮人虐殺が行われた現場近くの墨田区八広に追悼碑を建てた。そして毎年9月には荒川河川敷で追悼集会を行っている。
・私たちは、追悼碑の見学に訪れた市民団体をはじめ、高校生・大学生などのグループに向けて、虐殺が行われた現地を実際に歩くフィールドワークも行っている。そんな中でときどき、企業関係からもフィールドワークを依頼されることがある。 たとえば大阪に、「同和・人権問題企業連絡会」という団体がある。同和問題をはじめとするさまざまな差別の解消に向け、「人権を尊重する企業づくり」に取り組むとともに、企業の立場から「人権が確立した社会の実現」をめざす団体だ。そこに所属する企業の人たちが、研修の一環として追悼碑を訪れるのだ。
・このフィールドワークに私が関わるようになってからもう10年以上になる。回数としては、大小の規模の差はあれ、100回ではきかないほど実施している。 フィールドワークはまず、墨田区両国の横網町公園へ行く途中から始まる。両国国技館の北西にあった旧御蔵橋跡が最初の解説場所である。当時の写真(御蔵橋上で縛られて遺棄された遺体の写真・下)を見せながら目撃証言を紹介するのが常だ。
・「5~6人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、『親の敵、子供の敵』等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く」(成瀬勝・当時20歳)
・両国横網町公園は、関東大震災時には陸軍被服廠跡の広大な空き地があり、ここに避難した3万8千人が焼死した場所だ。現在ここには、関東大震災と東京大空襲で亡くなった16万3千柱の遺骨が納められた納骨堂と慰霊堂があり、その隣に1973年に建立された「朝鮮人犠牲者追悼碑」がある。その碑の前でも目撃証言を紹介する。
・「被服廠跡のわずかの空き地で血だらけの朝鮮人の人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイで押さえつけて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そうしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口々に『こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ』と、目が血走っているのです」(浦辺政雄)
▽虐殺の証言とともに歩く 旧四ツ木橋
・次いで電車で移動し、荒川放水路土手近くの京成八広駅で降りる。2分ほど歩くと、土手下に「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」がある。すぐ近くの土手にあがると、そこは旧四ツ木橋があった地点だ。 震災時、この旧四ツ木橋は火災を逃れた避難民が集中した。同時にここは、荒川放水路開削工事や街中の工場で労働に従事していた多くの朝鮮人もまた多く避難した場所でもある。ここで自警団と軍隊による虐殺の目撃証言を紹介する。
・「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」(青木(仮名))
・「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」(浅岡重蔵)  証言を聞きながら現場に立つフィールドワークはこうして終わる。
・企業の一般的な人権研修がどのようなものか私は知らないので「こんな内容でいいのか」と思いながら案内しているのが実情だが、「何があったのか」という事実から出発しないと空論の研修になってしまうので、今後もこのような形式で行っていくつもりだ。
▽「証言を集めるしかない」
・私自身がこうした活動をするようになったのは大学4年生の時からだ。荒川が流れる墨田区八広の旧四ツ木橋付近の河川敷に「関東大震災の時に殺された朝鮮人の遺骨が今も埋まったままになっている」という話を聞いて、1982年に「追悼する会」が発足すると同時に参加した。 それからもう34年目になるが、上記の証言を聞いた時の衝撃はいまだに薄れない。自分が中学生の時に毎日のようにサッカーをして遊んでいた場所のすぐ近くが虐殺の現場だったからだ。
・1982年9月に最初の追悼式と河川敷の遺骨の「試掘」を行ったが、遺骨を見つけることはできなかった。それからも再度の遺骨発掘をめざしてさまざまな調査をしたが、震災の年の11月の新聞に遺骨が警察によって2度にわたって発掘・移送されたことが記載されており、発掘は断念せざるを得なかった。
・冒頭でも書いたが、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の全体像はいまだにわからないことが多い。 それは当時の政府が事件を隠蔽してしまったからであり、その後の政府が真相究明のための調査を行なってこなかったからである。したがって事件の公的資料はきわめて少ない。そうした状況で知られざる虐殺の実態に迫る一つの方法として、証言を集めるという結論にたどり着いた。
・「追悼する会」に参加したことで、墨田区北部での朝鮮人虐殺事件については多くの証言に触れる機会を得て、ある程度実態を知ることができた。では、自分が生まれ育った東京全体ではどうだったのだろう? そんな疑問がふと湧き上がってきた。 事件から90年近く経ってしまった現在、事件を語れる人はほとんど生存していない。しかし刊行された本(自伝・日記等)の中から事件の体験・目撃証言を探し出すことなら素人の私にもできるのではないか。そう考えた私は、主に東京23区内の図書館をめぐってひたすらに関連する証言を集め続けた。
・図書館で書棚を猟渉するうちに、朝鮮人が住んでいた地域では必ずといっていいほど虐待・虐殺事件が起こっていたことにあらためて気づいた。 例えば上野では、 「朝鮮人を1人つかまえたといって[上野の]音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。わたしはわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました」(女優・清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年) という証言があり、神楽坂では、 「[神楽坂警察署の前で]突然トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった2人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぶい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突きささったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった」(フランス文学者・中島健蔵『昭和時代』岩波書店、1957年) という証言がみつかった。
・気がつけば、有名無名、老若男女にかかわらず、集めた証言は1100を超えていた。 これら一つ一つの証言には、体験した本人にしか語れない“具体性”があった。こうした証言からのみ、朝鮮人虐殺の実態が皮膚感覚として伝わってくるように思う。 どんな歴史的事実も知るすべがなければわからないままで終わってしまう。それは同時に「なかったこと」にされてしまう危険性を孕む(とりわけ加害の歴史はその傾向が強い)。震災時の朝鮮人虐殺事件もその例に漏れない。だが体験者・目撃者たちの声に耳を傾ければ、私たちは事実に向き合わざるを得ない。
・1100の証言が訴えかけるのは、何か。それは、悲劇から90年後を生きる私たちが、事実を知り、見つめること、そして亡くなった方を悼む気持ちのたいせつさではないだろうか。 こうした証言を集めた本がやっと完成した。『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』(現代書館)である。この本が多くの人の目に触れることを願っている。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49733

次に、毎日新聞東京本社学芸部記者の栗原 俊雄氏が昨年11月13日付け現代ビジネスに寄稿した「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由 尊い犠牲の上に、今日があるからこそ」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・特攻。「十死零生」の作戦はなぜ生まれたのかを探る本連載。最終回は、次第に「成功率の低い作戦」と判明していく中で、それでもなぜこの作戦を止めることができなかったのか。その「謎」を紐解く。毎日新聞・栗原俊雄記者のスペシャルレポート。(前・中篇はこちらから http://gendai.ismedia.jp/list/author/toshiokurihara) 
▽「お前ら、覚悟しろ」
・「特攻隊を志願しましたか?」 筆者がそう問うと、江名武彦さん(1923年生まれ)は答えてくれた。 「いえ。意思を聞かれることはありませんでした」 早稻田大学在学中の1943年12月、江名さんは学徒出陣で海軍に入った。航空機の偵察員となり、茨城県の百里原航空隊に配属された。前任地の静岡県・大井海軍航空隊から百里原に到着したとき、上官が言った。 「お前たちは特攻要員で来たんだ。覚悟しろ」 特攻隊員になるかどうか、聞かれたことはなかった。そして江名さんは南九州・串良基地から特攻隊員として2度出撃し、生還した。
・前回書いた通り(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088)、1944年10月に最初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎中将は、大日本帝国海軍航空部隊を育てた一人である。しかも、航空特攻を「統率の外道」と認識していた。それでもなぜ、大西は特攻を推進し、続けたのだろうか。
・まず言えるのは、大西のみならず海軍全体、そして陸軍にも共通することだが、1944年10月の時点では、米軍を主軸とする連合国軍に対して通常の作戦では太刀打ちできなくなっていた、ということだ。 たとえば特攻が始まる1944年10月に先立つ7月、サイパン近海で両海軍が激突した「マリアナ沖海戦」では、帝国海軍は9隻、約450機の搭乗機をそろえ米海軍に決戦をいどんだ。 しかし空母16隻、900機を擁する米海軍に惨敗した。ほぼすべての航空機と、虎の子の正規空母2隻を含む空母3隻を撃沈された。一方、敵艦は一隻も沈まなかった。世界の海戦史に残る惨敗であった。
・大西はこの惨敗の後、日本ほどからフィリピンに赴任する前、台湾で面談した連合艦隊司令長官・豊田副武に語ったという(豊田、『最後の帝国海軍』)。 「中には単独飛行がやっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけでとても成果は挙げられない。どうしても体当たりで行くより外に方法はないと思う」
▽「ヨチヨチ歩き」でも出撃
・ところで、飛行機搭乗員が独り立ちするまでどれくらいの時間がかかったか、ご存じだろうか。 特攻の実情を精密に分析した小沢郁郎によれば、何とか飛ぶことができる程度になるまで300飛行時間程度が必要で、それは「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階」(『つらい真実・虚構の特攻神話』)であった。赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きまで、毎日3時間飛んでも、100日もかかったのだ。 当時「血の一滴」と言われた航空燃料も相当費やす。そうして膨大な時間と大切な燃料を費やして育てた搭乗員を、ただでさえ劣勢な戦場に送っても、戦果は一向に上がらず反比例するように戦死者が増えるばかりだ。
・おなじ戦死するならば、命中率が高いと思われた特攻に踏み切ろう、という判断だったと思われる。前述のようにはじめに大戦果をあげたため、さらに拡大していった。 しかし米軍側が対策を整えるにつれ敵艦に突っ込むどころか敵艦隊に近づくことすら難しくなった。当然、戦果も期待したようにはならなかった。 それでも大西を初めとする海軍首脳は特攻を続けた。敵にダメージを与えられる戦術がそれしかなかった、ということもあるが、それ以外にも理由はありそうだ。
▽なぜ「続けざるを得なかった」のか
・1944年10月、大西が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに向かう前のことである。大西は多田力三中将(軍需省兵器総局第二局長)に特攻構想について話した。 多田が「あまり賛成しない」と述べたところ、大西は「たとえ特攻の成果が十分に挙がらなかったとしても、この戦争で若者達が国のためにこれだけのことをやったということを子孫に残すことは有意義だと思う」と話した(『日本海軍航空史(1)用兵編』)。
・また毎日新聞記者で、海軍に従軍していた新名丈夫の証言をみてみよう。 大西は「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもししれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」と話していたという(『一億人の昭和史3 太平洋戦争 昭和16~20年』)。
・人が残した大西証言がその通りだったとしたら、大西にとって大切だったのは戦果だけではない。後世の人々に、自分たち先祖がどう戦ったかを記憶してもらうこと、いわば「民族的記憶遺産」を託すことであった。
・大西はもう一つ、特攻を続ける理由があったのかもしれない。それは、その「作戦」を続けていれば、いずれ昭和天皇が停戦を指示するだろう、という期待だ(この大西の心情については、角田和男『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』などに詳しい)。
・天皇は、特攻をどう受けとめていたのだろうか。 海軍に続いて陸軍が航空特攻を始めたのは11月12日。フィリピン・マニラ南方の飛行場から「万朶(ばんだ)隊」の4機が飛び立った。大本営は翌13日、「戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈」と発表した。 同日、梅津美治郎参謀総長が、昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」(『昭和天皇発言記録集成』掲載、「眞田穣一郎少将日記」)と述べた。
・これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対して「特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ低空テ非常ニ戦果ヲアケタノハ結構デアッタ」と話している(同日記)。 「あんなに敵弾を受けて」云々という内容からして、天皇は特攻の写真もしくは動画をみたのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる。
・ちなみに、2014年に完成し公開された「昭和天皇実録」には、特攻に関する記述がある。それによれば、天皇は梅津からの報告に対して「御嘉賞になる」(同日)とある。「実録」は、1990年から宮内庁が国家事業として作成したものである。 四半世紀の時間と莫大な税金を投じただけあって、歴史研究の貴重な資料となるものだが、特攻の場面から分かる通り、天皇の生々しい肉声が削られている憾みが残る。筆者は毎日新聞オピニオン面のコラム「記者の目」で、具体的な例をあげてこの問題を指摘した(2014年8月18日)。 ともあれ、先に見た大西の狙いは、かりにそれが事実であったとしたら完全に外れた。
▽後世の日本人に残すため
・さて、特攻と言えば航空機によるそれがよく知られている。しかし軍艦などによる水上特攻もあったし、改造した魚雷に人間が乗る水中特攻、さらには上陸してくる敵戦車などに、爆雷を抱いて突っ込む陸上特攻もあった。実際は、航空特攻の死者よりこれらの死者の方がはるかに多かった。
・たとえば1945年4月、沖縄に上陸した米軍を撃退すべく出撃した戦艦「大和」以下10隻の艦隊を、海軍首脳は「水上特攻」と認識していたし、命令は「片道燃料」であった(実際は現場の判断で往復可能な燃料が積まれた)。この「大和」艦隊の死者だけで3000人を超える。今回は紙幅の事情で詳細は省くが、機会があればこれらの特攻のことも書きたいと思う。
・敗戦が決まった翌日の同年8月16日、大西瀧治郎は割腹自殺した。遺書の中で、死んでいった特攻隊員たちに感謝し、かつ彼らと遺族に謝罪している。 「特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ肉/彈として散華せり然れ/共其の信念は遂に達/成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊とその遺族に謝せんとす」 大西はさらに「一般青壮年」に向けて 「(前略)諸子は國の寶なり/平時に處し猶ほ克く/特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と世/界人類の和平の為/最善を盡せよ」 とつづった。 大西は後世の日本人が「特攻精神」を継承することを、最後まで望んでいたことが分かる。
▽大西の願いは叶ったのか?
・ところで、大西が前述の多田力三中将に特攻構想を明かした際、多田が強く反対していたら、どうなっていただろうか。それでも、まず間違いなく、特攻は遂行されただろう。なぜなら、特攻は一人大西だけでなく海軍上層部の意思だったからである。 いかに海軍航空部隊育ての親の一人といえども、大西は一中将である。大西一人では、作戦の成功=死という「作戦」を始めることはできたとしても、それを組織的に継続することは不可能であっただろう。
・たとえば1944年10月25日に「敷島隊」が突っ込む前の同月13日、軍令部作戦課参謀だった源田実が起案した電報には、「神風特別攻撃隊」の隊名として「敷島隊」「朝日隊」等が記されている。 また軍令部作戦部長だった中澤佑少将によれば、大西はマニラ着任前、及川古志郎軍令部総長に会い、特攻の「諒解」を求めた。同席した中澤によれば、及川は「諒解」し、「決して命令はして呉れるなよ」と応じた(『海軍中将 中澤佑』)。
・この席で本当に大西から航空特攻を申し出たかどうかは、疑問も残るところだ。いずれにしても、海軍の実質的最高責任者である軍令部総長が遂行に同意していたことは確かだ。 さらに言えば、実は航空特攻以外の特攻は、「敷島隊」のずっと前から決まっていた。「人間魚雷」回天の試作が始まったのは1944年2月である。
・「自分も後から続く」と約束しながら、長い戦後を生き延びた将軍に比べれば、いや比べる意味がないほど、大西は潔かった。 その大西の願い、「民族の記憶」は実現したと言える。敗戦から71年が過ぎた今日まで、特攻はときに祖国愛や同胞愛を語り振り返る文脈のなかで語られ、現代人の感動をよんでいるからだ。 それは「家族や国を守るため、自ら命を投げ出した若者たち」に対する共感や同情であり、「戦争でなくなった人たちの尊い犠牲の上に、今日の繁栄、平和がある」という歴史観にも通じる。
▽本当に死者たちを悼むならば
・こうした「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばしば口にするフレーズだ。 筆者はこの歴史観に同意する。同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている。それはたくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。
・本当に死者たちを悼むならば、以下のことを考えるべきだと、筆者は思う。 たとえばたくさんの人たちが死んだ戦争を始めたのは誰なのか。あるいはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても降伏しなかったのか誰なのか。そしてそれはなぜだったのか。特攻でいえば、それを始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか、とらなかったのか、と。
▽「特攻は志願だった」
・戦後、特攻隊を送り出した上官らによって、特攻はそう物語られてきた。しかし、冒頭にみた江名さんのように、意思をまったく聞かれないまま特攻隊員にされていた人もたくさんいる。筆者は水上特攻として動員された戦艦「大和」の生還者20人にインタビューしたが、「作戦」参加の意思を聞かれた人はただの一人もいなかった。 そして注目されがちな航空特攻と違い、忘れられた特攻隊員も、たくさんいる。たとえば、満州の荒野で押し寄せてくるソ連軍戦車に爆雷を抱いて突っ込んだ兵士たちだ。
・他の民族がそうであるように、私たち日本民族も、自分たちの歴史を誇らしいものとして記憶しがちだ。それゆえ、特攻も美しい物語として記憶されてゆくだろう。そういう側面があったことは確かだが、そうではなく、強制されて死んでいった若者たちがたくさんいたこと、さらにはそうした死の多くが忘れ去られてしまっていることも事実だ。 筆者は今後も、トータルとしての特攻を取材し、執筆したいと思う。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50145

朝鮮人虐殺で、 『多くの朝鮮人や中国人が虐殺された。その数は数千人とも言われているが、実際に何人の方が犠牲になったのか、じつは震災から93年がたった現在でも詳細はわかっていない』、というのは、誠に恥ずかしいことだ。 『小学校5年生の生徒が、震災直後に書いた作文・・・改竄が全編にわたって徹底的に行われている』、というのは政府による隠蔽の徹底ぶりを示している。流言蜚語もさることながら、警察や軍隊に指示など何らかの組織的行動があったのではないかと考えないと、辻褄が合わないと思う。真相解明が、困難を乗り越えて少しでも進むことを期待したい。
特攻の記事で、『何とか飛ぶことができる程度になるまで300飛行時間程度が必要で、それは「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階』、とのことであるが、もともと日本軍はゼロ戦の設計でも、乗員の保護よりも運動性能を重視するという設計思想があったように、訓練した戦闘機乗員はいうに及ばず、兵士の命を軽視する風潮があったようだ。 『天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる』、というのは天皇の戦争責任の一端を示唆している。 水上特攻、水中特攻、陸上特攻の死者の方が航空特攻の死者よりはるかに多かった、との指摘は我々が見逃しがちな事実だ。 『大西は後世の日本人が「特攻精神」を継承することを、最後まで望んでいたことが分かる』、実際に「特攻精神」を継承したか否かは見方が分かれるところだが、私はそんなバカな精神は継承されてないことを願う。しかも、効果を上げ難くなった特攻攻撃で死者を累増させてまで、攻撃を続けたことを合理化できるものではない。 『「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」』に、筆者は同意した上で、『追及するべき責任を追及させなくする呪文になり得る』、と危険性も感じている。私自身はこんなトンデモ史観には、はじめから同意できない。
いずれにしろ、安部首相流に日本を「美しい国」として、歴史のいい面だけを強調してそれへの回帰を図ろうとするのは危険極まりない。同じ過ちを繰り返さないためにも、歴史の恥部をも直視すべきだと思う。
タグ:たくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ 危険性 尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」 実際は、航空特攻の死者よりこれらの死者の方がはるかに多かった 軍艦などによる水上特攻もあったし、改造した魚雷に人間が乗る水中特攻、さらには上陸してくる敵戦車などに、爆雷を抱いて突っ込む陸上特攻もあった 天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる 当時の政府の徹底した事実の隠蔽 その数は数千人とも言われているが、実際に何人の方が犠牲になったのか、じつは震災から93年がたった現在でも詳細はわかっていない 住民たちは自警団を結成、これに軍隊も加わり、多くの朝鮮人や中国人が虐殺された なぜ「続けざるを得なかった」のか 日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由 尊い犠牲の上に、今日があるからこそ 流言蜚語 政府による徹底的な隠蔽 「政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相 栗原 俊雄 改竄が全編にわたって徹底的に行われている 現代ビジネス (3)(政府が隠蔽した「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相、終戦まで「特攻」を止められなかった驚きの理由) 歴史問題 関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』(現代書館) マリアナ沖海戦 米軍側が対策を整えるにつれ敵艦に突っ込むどころか敵艦隊に近づくことすら難しくなった。当然、戦果も期待したようにはならなかった ・おなじ戦死するならば、命中率が高いと思われた特攻に踏み切ろう、という判断 何とか飛ぶことができる程度になるまで300飛行時間程度が必要で、それは「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階 くフィールドワーク 尋常小学校5年生の生徒が、震災直後に書いた作文 海軍航空部隊を育てた一人 航空特攻を「統率の外道」と認識 朝鮮人が住んでいた地域では必ずといっていいほど虐待・虐殺事件が起こっていたことにあらためて気づいた 最初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎中将 世界の海戦史に残る惨敗
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