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クールジャパン戦略(その3)(「絶賛コンテンツはなぜ増えるのか」(小田嶋氏の2014年のコラム)) [経済政策]

クールジャパン戦略については、2015年7月2日に取上げたが、今日は、(その3)(「絶賛コンテンツはなぜ増えるのか」(小田嶋氏の2014年のコラム)) である。これは、小田嶋隆氏の「超・反知性主義入門、日経BP社2015年9月刊行)に収録されたもので、日経ビジネスオンラインでは、2014年11月14日に掲載されている。書かれたのは若干古いが、陳腐化しておらず、現在でも通用するので、以下で紹介しよう。

・テレビの世界では、ここしばらく「ニッポン」を称賛する番組が高い視聴率を獲得する流れになっていて、各局とも、タイトルに「日本」を含んだ番組を制作しては、柳の下のドジョウを待つ構えで日々を過ごしている。いつの間にこんなことになったのか。
・実は、書店の店頭は、かなり前から、祖国礼賛のコーナーが常設されている。
「とてつもない日本」(麻生太郎:新潮新書:2007)、「美しい国へ」(安倍晋三:文春新書:2006)、「新しい国へ 美しい国へ 完全版」(安倍晋三:文春新書:2013)、「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」(竹田恒泰:PHP新書:2010)、「日本人だけが知らない 世界から絶賛される日本人」(黄文雄:徳間書店:2011)、「日本はなぜアジアの国々から愛されるのか」(池間哲郎:扶桑社:2013)、「日本が戦ってくれて感謝しています アジアが称賛する日本とあの戦争」(井上和彦:産経新聞出版:2013)、まだまだ山ほどある。
・今回は自国称賛企画が、身の回りを席巻するよになった事情について考えてみたいと思っている。ところで「自国称賛企画」という言葉は、たったいま作った造語です。ほかの名称でも構わなかったのだが、この呼び方が一番色がついてない点で穏当だと判断した。参考までにボツ案を以下に列挙しておく。「我田引水コンテンツ」、「手前味噌本」、「夜郎自大書籍」、「オレオレ番組」、「祖国万歳番組」・・・ 
・私自身は、個人的に自国称賛本が次々と出版され、自国称賛番組があとからあとから制作される現今の現状を、必ずしも嘆くべきこととは考えていない。出版社にしても、テレビ局にしても、売れるものを制作するのは当然のなりゆきだ。法に触れる内容でない限り、制作者が何を作ろうが、販売店が何を売ろうが、他人が非難するいわれはない。
・その意味でも、自国称賛企画の連発傾向は、同じ商売ずくでも「嫌韓嫌中本」の出版ラッシュに比べれば、ずっと健全だ。いや、嫌韓嫌中本も表現の自由がある以上、出版業界の人間がそれらを企画し、執筆することや、書店が店頭販売することを他人が阻止することはできない。隣国を誹謗中傷する内容の書籍が、書店の店頭の一番目立つ場所を占有している現状は、当然、不愉快ではある。が、言論の自由を掲げる人間は、まず最初に自分にとって不愉快な言論についての自由を容認せねばならない。好き嫌いはともかくとして、善悪や正否について言い募るべきではない。いまここで申し上げていることは、きれいごとだ。が、この種のきれいごとを掲げておかないと、この分野の議論の先行きは、どうにもならない泥仕合になる。
・それにしても、たった5年ほどのうちに、どうしてこんなにメディアの空気が変わってしまったのだろうか。新聞のテレビ番組表に並んでいる活字や書店の店頭で平積みにされている書籍のタイトルを見る限りでは、わたくしども日本人の国民感情が、かつてない勢いで変化してしまったように見える。すなわち、愛国心が亢進し、自国への評価が高まり、自分たちの民族や文化への誇りの感情が増幅しているらしく見えるということだ。
・しかしながら、私たちはそんなに極端な民族ではない。ずっと微温的な人たちだ。思うに、多数派の日本人の自国に対する感情は、劇的に変化しているわけではない。急激に変化したのは、私たちの国民感情そのものではなく、われわれが面倒を避けるために従うことにしている「同調」のベースだということだ。先の大戦に敗れてからこっちの数十年間、自国について語る時の「同調」のベースは「ケナす」ところにあった。それは、「ホメる」に転じた。多くの日本人は、自国についても他国に対しても、一刀両断の明快な考えを持っていない。だからこそ、世間のムードが変わりつつあると感じた時には、その空気に調子を合わせにかかる。いま起こっているのは、そういうことなのではなかろうか。
・大雑把に言って、戦後昭和の時代、この国の人間が自分の国を語るにあたっては、自分が実際に考えているより低めの評価をしておく方が無難だった。というのも、人前で日本を礼賛したりすると、「変なヒト」(含意は「狂信的な国家主義者」ぐらい)と思われる危険性が高かったからだ。それは、ここへ来て反転している。自国について語るに当っては、それなりの愛国心を表明しておいた方が、より血の通った人間と評価してもらえる確率が高くなっている。逆に、人前でうっかり日本の悪口を言うと、「偏屈なヒト」(ないしは、「いやみったらしいインテリ気取りの外国かぶれ」)と見なされるリスクが高まっている。
・このお話は、確かな根拠があって言っていることではない。私自身は、調査もしていないし、フィールドワークもやっていない。取材も文献収集もなんにもしていない。ただ、これまでの経験から、うちの国の国民のビヘイビアが急速に変わった時のパターンを考えると、どうせそんなところだろうとタカをくくっている次第だ。
・われわれは、万事において、周囲の空気から浮き上がることを何よりも嫌う人々だった。大きめの葬儀の時に、行列に並んで焼香をしている人たちの様子を観察していればよくわかる。多くの列席者は、自分の身についたマナーで焼香をしているのではない。前の人のしぐさをそっくりそのまま真似たり、隣の列で焼香している年長者にタイミングを合わせて合掌の時間を調節したりして、その場をしのいでいる。特に葬儀慣れしていない若い人は、ダンス学校の生徒みたいに忠実に先行者の動作をコピーしている。
・つまりなんというのか、われわれは、様々な場面で、「まわりの人と同じようにふるまう」ことを強力に内面化している人間たちなのであって、それゆえ、「変な人だと思われる」ことを、ごく幼い頃から、強く恐怖しているのだ。
・さきほど、近頃の降って湧いたような愛国傾向について「タカをくくる」という言い方をした。だが、実際問題として、メディアを巻き込んだ昨今の日本ブームは、甘く見ていいものではないのかもしれない。戦前の日本人とて、誰もだ皆、そうそう熱狂的に帝国陸軍の勇ましさに喝采を送っていたのではない。なんとなく周囲がそうしているから熱狂したふりをしている人たちが少なからずいたはずだ。
・しかし、メディアが国民感情に媚びへつらい、国民がそのアジテーションに乗っかり、政治家が世論の動向に同調し、軍隊が過剰適応を繰り返し、官僚が自分たちの職場を防衛することに集中した結果、ああいう戦争が起こってしまった。かように、「同調」から始まるドミノ倒しは、うちの国では、油断のならない結果を引き起す。そう思ってみると、いま起こっていることの先には、引き返せない未来が待っているのかもしれない。
・単純に考えれば、現在蔓延している日本礼賛ムードは、長い間続いてきた自虐史観と呼ばれるものの反動であり、大きな時間軸で見れば、「調整局面」、という見方もできる。とすれば、これは、そんなに心配するお話ではない。
・が、日本礼賛ムードそのものが特段不健康な感情ではないのだとしても、私は、そこから発生するかもしれない「同調」に対しては、やはり警戒を怠るべきではないと考えている。個々のテレビマンたちは、単純に数字を追いかけているだけなのだろうし、書店だって、売れる本を目立つ場所に配置しているに過ぎない。しかし、その種の相互作用がある臨界点を超えて、過剰適応の同調が起こった場合、その自動運動は、誰にもとめられない暴走を引き起こす。
・3年ほど前、いじめについて、ある専門家のお話を聞いた。彼が言うには、中学生ぐらいの年頃の生徒が展開する典型的ないじめは、「過剰な同調」の過程を通じて深刻化して行くものなのだそうだ。まず、ひょんなことからターゲットが決まる。きっかけは、ごく些細な偶然だ。それゆえ、数日でそのまま終息するケースも少なくない。本格的ないじめに発展するのは、クラス全体をまきこんだ「同調」がはじまった時だ。
・多くの生徒は、ターゲットの子供を憎んでいるわけでも、嫌っているのでもない。主導する何人かに調子を合わせているだけだ。「調子を合わせる」とは、「とりあえずいじめに参加しておく」ことを意味する。明示的な暴力を発動することではないし、強烈な言葉を浴びせるわけでもない。ただ、「無視」には参加するし、極端な生徒がやらかす暴行の黙認にも同調する。そうしないと、自分がターゲットになるかもしれないからだ。
・そうやって教室にいる全員を巻き込んだカラチでエスカレートしてしまうと、もう誰も「やめろ」とはいえなくなる。「やめろ」ということ自体が、クラスの同調を裏切ることになる。そういう選択肢は、普通の中学生にはなかなか選べない。
・私は、自分たちの国が、抜けられない「同調」が始まってしまった中学校の教室みたいになることを恐れている。考え過ぎだろうか。
・別の考え方もある。20年ほど前の日本人は、日本について自己採点を迫られると、自分で評価しているよりも、10点ぐらい低めの数字を答える態度で世間を渡っていた。「うーん、まあ、せいぜい60点っていうところかな」と。現在、典型的な日本人は、自分で考えているよりも、10点ぐらい高い点数を口にすることで、当面の保身をはかっているように見える。「まあ、80点ぐらいは行っているんじゃないですか」。ということは、どちらも内心の正直な採点は70点程度であるわけで、本当の評価がたいして変わっていないのならば、私はあまり神経質に心配するべきではないのかもしれない。
・でも、やはりそれでもなお、警戒心を捨てることができない。私が警戒しているのは、日本人が日本を強く愛するようになることではない。もし、本当に日本人が日本をより強く愛する方向に変化しつつあるのだとしたら、それは望ましい変化だ。私は、その変化を拒絶しようとは思わない。こわいのはわれわれが愛国者になることではなく、愛国者のふりをしないと孤立するような社会がやってくることだ。 なぜかって? 日本が好きだからだよ。

最近の本屋では、祖国礼賛本はそれほど目立たなくなったが、テレビでの「絶賛コンテンツ」は相変わらず多い。 小田嶋氏の指摘のうち、『急激に変化したのは、私たちの国民感情そのものではなく、われわれが面倒を避けるために従うことにしている「同調」のベースだということだ』、はそんなものなのかも知れない。『われわれは、万事において、周囲の空気から浮き上がることを何よりも嫌う人々だった』、は確かに「KY」と見られることを恐れる日本人のクセなのだろう。 『「同調」から始まるドミノ倒しは、うちの国では、油断のならない結果を引き起す。そう思ってみると、いま起こっていることの先には、引き返せない未来が待っているのかもしれない』、との恐ろしい指摘は、第二次大戦に至る歴史を振り返ってみても、確かに妥当するようだ。 『個々のテレビマンたちは、単純に数字を追いかけているだけなのだろうし、書店だって、売れる本を目立つ場所に配置しているに過ぎない。しかし、その種の相互作用がある臨界点を超えて、過剰適応の同調が起こった場合、その自動運動は、誰にもとめられない暴走を引き起こす』、ここまでくると、われわれ日本人の「同調癖」がもつ恐ろしさにおののかざえるを得ない。 いじめについても、『教室にいる全員を巻き込んだカラチでエスカレートしてしまうと、もう誰も「やめろ」とはいえなくなる。「やめろ」ということ自体が、クラスの同調を裏切ることになる。そういう選択肢は、普通の中学生にはなかなか選べない』、との鋭い指摘は、「いじめ」がいくら声高に問題にされても、一向になくならない状況を見事に説明してくれるようだ。 『こわいのはわれわれが愛国者になることではなく、愛国者のふりをしないと孤立するような社会がやってくることだ』、との指摘は同意できる。今日の記事は、クールジャパン戦略に入れたが、むしろ、右傾化傾向、愛国的風潮とした方が良かったのかも知れない。明日は、クールジャパン戦略そのものを取上げるつもりである。
タグ:クールジャパン戦略 こわいのはわれわれが愛国者になることではなく、愛国者のふりをしないと孤立するような社会がやってくることだ 教室にいる全員を巻き込んだカラチでエスカレートしてしまうと、もう誰も「やめろ」とはいえなくなる。「やめろ」ということ自体が、クラスの同調を裏切ることになる。そういう選択肢は、普通の中学生にはなかなか選べない 本格的ないじめに発展するのは、クラス全体をまきこんだ「同調」がはじまった時だ 個々のテレビマンたちは、単純に数字を追いかけているだけなのだろうし、書店だって、売れる本を目立つ場所に配置しているに過ぎない。しかし、その種の相互作用がある臨界点を超えて、過剰適応の同調が起こった場合、その自動運動は、誰にもとめられない暴走を引き起こす そこから発生するかもしれない「同調」に対しては、やはり警戒を怠るべきではないと考えている 現在蔓延している日本礼賛ムードは、長い間続いてきた自虐史観と呼ばれるものの反動であり、大きな時間軸で見れば、「調整局面」、という見方もできる 「同調」から始まるドミノ倒しは、うちの国では、油断のならない結果を引き起す メディアが国民感情に媚びへつらい、国民がそのアジテーションに乗っかり、政治家が世論の動向に同調し、軍隊が過剰適応を繰り返し、官僚が自分たちの職場を防衛することに集中した結果、ああいう戦争が起こってしまった われわれは、様々な場面で、「まわりの人と同じようにふるまう」ことを強力に内面化している人間たちなのであって、それゆえ、「変な人だと思われる」ことを、ごく幼い頃から、強く恐怖しているのだ 急激に変化したのは、私たちの国民感情そのものではなく、われわれが面倒を避けるために従うことにしている「同調」のベースだということだ 愛国心が亢進し、自国への評価が高まり、自分たちの民族や文化への誇りの感情が増幅しているらしく見える たった5年ほどのうちに、どうしてこんなにメディアの空気が変わってしまったのだろうか 言論の自由を掲げる人間は、まず最初に自分にとって不愉快な言論についての自由を容認せねばならない 自国称賛企画 書店の店頭は、かなり前から、祖国礼賛のコーナーが常設 「ニッポン」を称賛する番組が高い視聴率を獲得 日経BP社2015年9月刊行 超・反知性主義入門 小田嶋隆 (その3)(「絶賛コンテンツはなぜ増えるのか」(小田嶋氏の2014年のコラム))
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