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「安倍晋三記念小学校」への国有地払い下げ問題(その2)(小田嶋氏の見方) [国内政治]

昨日に続いて、「安倍晋三記念小学校」への国有地払い下げ問題(その2)(小田嶋氏の見方) を取上げよう。

コラムニストの小田嶋隆氏が2月24日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「教育ニ関スル戯言」を紹介しよう。
・大阪に一風変わった幼稚園があって、そこでは園児たちに毎朝教育勅語を朗唱させている--というこのお話は、2年ぐらい前に、ツイッターか、匿名巨大掲示板経由で知った。 揃いの園服を着た園児たちが軍歌を歌う動画も見たことがある。 動画は、私の好きなタイプのコンテンツではなかった。 というよりも、YouTubeに上がっているムービーをひととおり視聴して、私は息苦しさを覚えた。
・とはいえ、この段階では、この塚本幼稚園という大阪市淀川区にある私立幼稚園の教育方針について、あえてコメントすることはしなかった。私立の教育施設が、どんな教育方針を採用しているのであれ、基本的には他人が口を出すべきことがらではないと考えたからだ。
・あなたの皿に乗っている棒状の食材が芋虫でもソーセージでも、私は関与しない。 当方が目をそらせばそれで済む。 世の中には、趣味に合わないものや、見ていていやな気持ちになる出来事がたくさんある。 それは仕方のないことだ。 すべての日本人が、オダジマの趣味にかなう生き方をせねばならないという法律が施行されていない以上、私の方が我慢をしなければならない。
・その、園児に教育勅語を暗唱させる幼稚園に関する話題が、この1週間ほど、ネット上を席巻している。 いくつかの報道によれば、その幼稚園を運営している学校法人(森友学園)は、大阪府豊中市に系列の小学校を設立する計画を持っており、学校側は、既にそのための用地を取得し、平成29年4月の開校に向けて準備を進めている。
・小学校は、目論見通りに開校すれば、日本初の神道に基づく小学校になるらしい。 ところが、ここへ来て、その学校用地となった国有地の買収価格が、周辺の相場に比べて著しく安価(隣接する同程度の広さの土地に比べて約10分の1の価格で譲渡されている)であったことが判明している。
・塚本幼稚園の名誉校長には首相夫人である安倍昭恵さんが就任しており、小学校設立にあたって、森友学園が、当初、「安倍晋三記念小学院」の名前で開校する予定を持っており、寄付集めの段階では、その「安倍晋三記念小学院」の名前が使われていたことが明らかになっている。以下、2月17日の朝日新聞朝刊から引用する。 《--略-- (2月)17日の衆院予算委員会で、安倍首相は、民進党の福島伸享氏の質問に答えて、学校法人との関係をめぐり、首相は「私や妻が(小学校の設置)認可や国有地払い下げについて、(自身の)事務所も含めて一切関わっていないことは明確にしたい」と述べた。 妻が名誉校長に就いていることについて、「妻から森友学園の先生の教育に対する熱意は素晴らしいと聞いている」と説明。また、同学園が「安倍晋三記念小学校」の寄付者銘板に名前を刻印して顕彰する、との文言で寄付金を集めていたことを知っているかとの福島氏の問いには、「いま話をうかがって初めて知った」と答弁した。――後略》出典はこちら
・舛添要一前都知事について政治資金の流用や、公用車の使用に関する公私混同の疑惑が持ち上がった時、大小のメディアが、総力をあげて舛添さんの身辺を洗ったことを、私は忘れていない。 舛添さんは、クルマの走行距離や、回転寿司店での飲食の詳細や、家族で宿泊した温泉旅館の支出にいたるまで、あらゆる私生活の詳細を暴き立てる形で、支出の透明性に関して説明を求められた。
・あの時の、雑誌、テレビ、新聞、ネットメディア総掛かりの魔女狩りじみた凄まじい取材ぶりと比べると、現状でのこの大阪市の国有地売却問題についてのマスコミの初動の遅さには、正直な話、物足りなさを感じる。ぜひ、ジャーナリスト諸氏の奮起を期待したい。
・事実関係については、記者の皆様におまかせするとして、ここでは、幼児に教育勅語や、そのほか大人を瞠目させる様々なスキルを教え込むことに熱中する大人の気持ちについて、考えてみたい。 園児が「同期の桜」や「愛国行進曲」を歌う動画をはじめて見た時の気持ちは、ちょっと複雑だ。 コワキモおかしいという言葉があれば、そういう気持ちだったと言えば良いのかもしれない。 基本的には気味が悪いのだが、面白くもある。  若干、可愛くもあればほほえましくもある。 で、読後感としては、しみじみとコワい。そんな感じだ。
・子供は、大人を映す鏡だ。 小さな子供たちが一糸乱れぬ動作を反復していることは、その子供たちが、相当程度の訓練を積んできたことを意味している。また、このことは同時に、子どもたちに圧力の高い訓練のプログラムを反復させることのできる強い力を持った大人が介在したことを物語っている。
・なんというのか、私は、塚本幼稚園の子供たちが、年齢にそぐわない難解な漢語の書き下し文を暗唱している姿を眺めながら、その練度を達成するに至る訓練の過酷さを逆算して、暗い気持ちになった次第なのである。  もっとも、大阪の幼稚園の子供たちの演技も、その洗練度を単純に比較するなら、北朝鮮の式典で披露される北朝鮮の幼児たちのとてつもない斉一性には到底及ばない。 救いがあるとすれば、そこのところだろう。
・幼児が演じるパフォーマンスの練度は、それに関わる大人たちの信奉の強烈さを反映することになっている。  訓練に当たる大人の熱心さと確信が強烈であればあるだけ、子供たちの演技は研ぎ澄まされた水準に到達する。 そう考えれば、塚本幼稚園の園児たちは、まだまだ北朝鮮の幼児の域には達していない。ということは、森友学園の関係者の熱心さも、北朝鮮の演技指導スタッフの命がけの献身ぶりに比べれば、ユルいものなのであろう。
・ただ、現代日本の普通の幼児の標準からすると、やはりあの演技はキモい。 これは、私の好みに過ぎないと言ってしまえばそれだけの話なのだが、私は、子供の踊りは不揃いな方が可愛いと思っている。ついでに言えば、歌わずによそ見をしている子供を含まない子供の合唱は子供らしくないという意味で不完全だとも思っている。
・幼児の学習能力は、凡庸な大人の予断をはるかに超えたものだ。 学齢前の幼児は、口伝えで根気よく教えれば、どんなに難解な文章であっても忠実に反復することができるようになる。ある程度反復を繰り返していれば、じきに暗記してしまう。
・だからこそ、無垢な幼児たちと共に過ごす時間を与えられた大人は、彼らをコントロールする欲望を抱くようになるものなのであろうし、人によっては、幼児という素材をもとに、完璧な人間を創造する夢を見るのだろう。 訓練次第でどこまでも深く技能や動作を習得して行く存在である幼児は、包丁の扱い方次第で自在に形を変える調理素材や、画家の着想の舞台となる無地のキャンバス同様、指導する者にとって、無限の可能性そのものに見えるに違いない。
・しかし、それでも幼児は幼児だ。 私がここで言っている「幼児」という言葉の意味は、「不定形な」「あやふやな」「気持ちの変わりやすい」「集中力を欠いた」「未完成の」「わがままな」といったほどの内容を総合したもので、要するに、「手に負えないもの」であり、気取った言い方をすれば「アンファン・テリブル」だということだ。  その意味で、幼児に確固とした、定型的な、斉一的な、揺るぎのない、動作や思想やマナーや反応や反射を、教え込み、定着させ、叩き込み、確定させ、反復させる試みは、狂った態度だ、と申し上げなければならない。
・私個人は、その種の思い込みが大嫌いだし、右であれ左であれ考えの定まっていない未熟な人間に統一した思想体系を植え付けようとするすべての企てに反対する。 ネット内で発言している人々の声に耳を傾けると、たとえば、教育勅語について、 「基本的には良い内容だし、それを子供が暗唱することが問題だとは思わない」 と言っている人々が少なくない。 五箇条の御誓文については、さらに積極的に評価する人たちが多い。 「『広く会議を興し万機公論に決すべし』のどこがいけないんだ? えらく民主的じゃないか」 「『旧来の陋習を破り天地の行動に基づくべし』なんて、ラディカルじゃないか。進歩的だぞ」 「『上下心を一にして盛んに経綸を行うべし』だって、団結と協調を訴えているだけのことで、ひとつも有害じゃない」 「『官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す』も官僚の心得として当然の言葉だと思うが」 「でもまあ最後の『智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし』だけは、主権在民の時代にそぐわないといえばそぐわないかな」
・たしかに、五箇条の御誓文は、最後の第五条のそのまた最後を除けば、基本的にはまっとうな内容の言葉を並べた条文だ、と言っても良いのかもしれない。 教育勅語にしたところで、いくつか現代的でない内容を含んでいることはたしかだが、全体を通して通読すれば、必ずしも常識はずれの狂信を強要するテの文章ではない。
・もう一歩踏み込んでいえば、戦前の教育に、間違った点や不適切な内容が含まれていたのだとしても、そのすべてが間違っていたわけではないし、総論として狂っていたわけでもない。現代に通用する考え方だってたくさん含まれている。
・おそらく、戦前の教育を復活させようとしている人たちは、戦前の日本のすべてを「全否定」しようとする考え方や運動に反発して、自分たちの活動を立ち上げているのであろうし、そう考えているからこそ、わざわざ教育勅語を持ち出してきているのだと思う。「これのどこがおかしいのだ」と、主張したくなるのはもっともだ。
・ただ、問題は、そこのところではない。 教育勅語や五箇条のご誓文の中に含まれている徳目や、人としての心構えの、ひとつひとつが、適切であるのか不適切であるのかを検討してみたところで、そんなことにたいした意味はない。 私が不気味さを感じるのは、教育勅語そのものに対してではなくて、1つの幼稚園で学ぶすべての園児なり教室内のすべての生徒たちが、同じひとつの道徳律を共有すべきである、とする、その前提に対してだ。
・仮に、子供たちが毎日声を揃えて朗唱している教育勅語の中に含まれる徳目の8割が人としての望ましいあり方を示唆する理想的な言葉であるのだとしても、問題は、「全員が声を揃えて朗唱する」という、逸脱を許さないその集団至上主義の方にあるということだ。
・戦前の教育が、われわれを誤らせたのは、戦前の学校や、戦前の教師たちが、間違った徳目や、人としてありえない道徳を唱えていたからではない(前述の通り、言葉としては大筋間違っていないんだから)。 彼らが道を誤ったのは「すべての子供たちが同じ一つの徳目を身につけるべきだ」という前提を、あまりにも強烈に適用したからで、だからこそ、われわれは後戻りのできない体制を作り上げてしまったのだ。
・別の言い方をするなら、「全体」と「個」、「公」と「私」、「秩序」と「自由」という2つの相互に対立する「正しさ」のうちの、片方だけを重要視する態度がバランスを欠いていたがために、戦前の社会は自ら瓦解した。本当のところを言えば、「全体」がいけないわけでもなければ、「個」が間違っているわけでもなく、「公」だけが正しいのでもなければ、「私」のみが尊いのでもなく、「秩序」のみが重視されるべきでもなければ、「自由」のみが声高に叫ばれるべきでもなくて、要は、常にバランスを考えなければいけないということなのである。
・その点で言うと、仮に五箇条の御誓文が、全体として穏当な主張であるのだとしても(私は必ずしもそう思っていないが)、それを幼稚園児に朗唱させることは、1人ひとりの子供たちが、それぞれの生まれもったバラつきに応じた適切な集団生活を享受する上で、不要な圧力を生じさせる意味でくだらない習慣だ、と考えなければならない。
・心を一つにする、という理想を掲げることを否定はしない。 人間なら誰にでも必要な教育、というものももちろんある。 だが、やりすぎてしまうと「全部が同じ」でないと気が済まなくなる。 教育は真面目にやり過ぎずに、ほどほどのところでバランスを取るべきなのだ。だから難しい。 わかっている。
・幼児が持っている「生まれもったバラつき」は、幼児が幼児であるうちに(つまり可塑的であるうちに)「矯正」すべきだと考える人々は、私の言うことを受け容れないだろう。 そういう人の目から見れば、私は失敗した教育の結果ということになるはずだ。
・たしかに、私は甘やかされて育った人間で、ほとんどまったく矯正らしい矯正を受けていない。 私個人は、私のような、矯正されていない人間が胸を張って生きられる社会が良い社会だと思うのだが、そう思わない人はそう思わないだろう。 だけど私は、あなたを矯正しようとは思わない。 なので、できれば、私を矯正することは断念してほしい。
・そんな、私のような人間と、あなたのような人間が同じひとつの空間の中にいるというこの一点だけを見ても、「全国民が心を一つにする」という、教育勅語ならびに五箇条の御誓文の言う理想が、空疎であることの証明になると思うのだが、あなたはこの見解にも賛成しないのだろうか。 もちろん、それはそれでまったくかまわないのだが。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/022300083/?P=1

小田嶋氏がこの問題を如何に料理するか、注目していたが、無難にまとめたようだ。 『舛添要一前都知事について政治資金の流用や、公用車の使用に関する公私混同の疑惑が持ち上がった時、・・・・あの時の、雑誌、テレビ、新聞、ネットメディア総掛かりの魔女狩りじみた凄まじい取材ぶりと比べると、現状でのこの大阪市の国有地売却問題についてのマスコミの初動の遅さには、正直な話、物足りなさを感じる。ぜひ、ジャーナリスト諸氏の奮起を期待したい』、というのは正論だ。 『幼児に確固とした、定型的な、斉一的な、揺るぎのない、動作や思想やマナーや反応や反射を、教え込み、定着させ、叩き込み、確定させ、反復させる試みは、狂った態度だ、と申し上げなければならない』、 『問題は、「全員が声を揃えて朗唱する」という、逸脱を許さないその集団至上主義の方にあるということだ』、『心を一つにする、という理想を掲げることを否定はしない。 人間なら誰にでも必要な教育、というものももちろんある。 だが、やりすぎてしまうと「全部が同じ」でないと気が済まなくなる。 教育は真面目にやり過ぎずに、ほどほどのところでバランスを取るべきなのだ。だから難しい』、などの指摘もその通りだ。
昭恵夫人は今日になって小学校名誉校長を辞任したようだが、何故、今頃になってと疑問は尽きない。
タグ:心を一つにする、という理想を掲げることを否定はしない。 人間なら誰にでも必要な教育、というものももちろんある。 だが、やりすぎてしまうと「全部が同じ」でないと気が済まなくなる。 教育は真面目にやり過ぎずに、ほどほどのところでバランスを取るべきなのだ。だから難しい 問題は、「全員が声を揃えて朗唱する」という、逸脱を許さないその集団至上主義の方にあるということだ 私が不気味さを感じるのは、教育勅語そのものに対してではなくて、1つの幼稚園で学ぶすべての園児なり教室内のすべての生徒たちが、同じひとつの道徳律を共有すべきである、とする、その前提に対してだ 五箇条の御誓文 教育勅語 幼児に確固とした、定型的な、斉一的な、揺るぎのない、動作や思想やマナーや反応や反射を、教え込み、定着させ、叩き込み、確定させ、反復させる試みは、狂った態度だ、と申し上げなければならない 無垢な幼児たちと共に過ごす時間を与えられた大人は、彼らをコントロールする欲望を抱くようになるものなのであろうし、人によっては、幼児という素材をもとに、完璧な人間を創造する夢を見るのだろう 子供の踊りは不揃いな方が可愛いと思っている。ついでに言えば、歌わずによそ見をしている子供を含まない子供の合唱は子供らしくないという意味で不完全だとも思っている 塚本幼稚園の子供たちが、年齢にそぐわない難解な漢語の書き下し文を暗唱している姿を眺めながら、その練度を達成するに至る訓練の過酷さを逆算して、暗い気持ちになった次第 読後感としては、しみじみとコワい 愛国行進曲 同期の桜 幼児に教育勅語や、そのほか大人を瞠目させる様々なスキルを教え込むことに熱中する大人の気持ちに 現状でのこの大阪市の国有地売却問題についてのマスコミの初動の遅さには、正直な話、物足りなさを感じる。ぜひ、ジャーナリスト諸氏の奮起を期待したい 大小のメディアが、総力をあげて舛添さんの身辺を洗った ・舛添要一前都知事 「安倍晋三記念小学院」の名前 安倍昭恵 名誉校長 塚本幼稚園 国有地の買収価格が、周辺の相場に比べて著しく安価(隣接する同程度の広さの土地に比べて約10分の1の価格で譲渡されている)であったことが判明 日本初の神道に基づく小学校 系列の小学校を設立する計画 森友学園 教育勅語を朗唱 教育ニ関スル戯言 日経ビジネスオンライン (その2)(小田嶋氏の見方) 国有地払い下げ問題 安倍晋三記念小学校
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