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「安倍晋三記念小学校」(森友学園)への国有地払い下げ問題(その9)(小田嶋氏の「教育勅語」論、森友学園の愛国教育は戦前だったら不敬罪!?) [国内政治]

「安倍晋三記念小学校」(森友学園)への国有地払い下げ問題については、一昨日も取上げたが、今日は、歴史的な視点から、(その9)(小田嶋氏の「教育勅語」論、森友学園の愛国教育は戦前だったら不敬罪!?) である。

先ずは、コラムニストの小田嶋隆氏が3月17日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「教育勅語」を愛する人々」を紹介しよう。
・3月14日、ということは、いまこの原稿を書いている現時点から数えて2日前に相当するのだが、その3月14日に開かれた会見の中で、文部科学大臣の松野博一氏が、不可思議な見解を漏らしている。 松野大臣は、教育勅語について、憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば「教材として用いることは問題としない」と表明したのだ(こちら)。
・なんとまあ不用意な発言ではあるまいか。 念のために解説すればだが、教育勅語は、既に効力を失った教材だ。 というよりも、教育勅語は、単に効力を失ったのではなくて、より積極的に、教育現場から「排除」され、「追放」された過去の亡霊だ。歴史上の悪夢と申し上げて良い。 事実、この勅語に関しては、「憲法の理念に反する」として1948年に衆議院で「排除決議」が採択され、あわせて参議院でも「失効決議」が採択されている。
・してみると、このたびの松野大臣の発言は、一旦国会の場で、「憲法の理念に反する」として「排除」され「失効」した歴史的な教材を、文部科学大臣の名において「憲法や教育基本法の理念に反しないような配慮」を条件にしているとはいえ、「有効」であるとして再び召喚しようとした措置に見える。 こういうことをポロッと言ってしまって、果たして文部科学行政の一貫性は保持できるものなのだろうか。
・たとえばの話、腐っていることが認定されて、食べてはいけないことになった食品について、「腐敗に気をつける配慮」があれば、「食材として用いることは問題としない」てなことを保健所の所長がドヤ顔で言ってのけるような世界で、果たして食卓の衛生は防衛できるものなのだろうか。私はそうは思わない。こういうことが起こったら、その世界に住む人間は、腐った食べ物を再び食べさせようとしている人々の意図と狙いについて、あらゆる方向から考え直す努力を怠ってはならない。でないと、早晩食中毒で死ぬことになる。
・どうして、一部の人々は腐ったリンゴに執着するのか。 腐ったリンゴからでなければ摂取できない栄養素が存在するということなのか。それとも、リンゴを腐っていると認定した体制自体を転覆せんとする運動が、いまわれわれの周囲で起こりつつあるということなのか。 真相はいずれにあるのだろうか。
・今回は、教育勅語について考えてみるつもりでいる。 思うに、教育勅語は、昨今話題の森友学園騒動を解読するためのキーのひとつだ。
・疑惑の核心はカネの動きと職務権限にある。政治家の関与と官僚の忖度がどのような経路で発生し、誰と誰がどんな決断に影響力を行使し、誰が利益にあずかり、誰が便宜を供与し、どんな機関が背後で動いていたのか、ジャーナリストや運動家が究明せねばならないのは、そのあたりの行ったり来たりなのだろうし、国会や捜査機関を動かすべくメディアが焦点を当てるべきポイントもその界隈に散在しているのだと思う。
・が、一歩引いた場所から観察すれば、森友学園問題の背後には、常に「教育勅語への賛意」という不可思議な感情が底流している。というよりも、カネや利権に直接のかかわりを持たなかったより多くの人々も、森友学園がその中心的な理念として強調していた教育勅語の扱いに関しては不用意かつ積極的に関与していたわけで、とすれば、森友学園の問題をより深く理解するためには、教育勅語が現代に突きつけようとしている問題について問い直さなければならないはずなのだ。
・普通に考えて、自分が現場を見ていない問題はよくわからないし、よくわからない問題についてあれこれ憶測を語るのは、愚かな態度なんではなかろうかと、毎度のことながら、実はそこのところを恐れてもいる。  文章を書くのにいちいち書き手の資格をでんでん、じゃなかった云々するみたいな硬直的なツッコミは、この際無視するのだとしても、この種の疑獄事件に関して、自分の足で取材しない人間が関与する余地をあまり多く持っていないことは、いかんともしがたい事実ではあるわけで、とすれば、私のような書き手は、事件そのものや事実関係についてではなく、事件に関与していた人間たちが共通して抱いている思い込みみたいなものに話の焦点を持っていかざるを得ない。で、それが今回の場合は、教育勅語だということになるわけだ。
・わたくしども日本人は、教育勅語について、それぞれに大量の硬軟取り混ぜた思い込みを抱いている。  その陳腐でありながら多様な思い込みを解明しないと、この問題は先に進まない。 さて、発言の内容自体もさることながら、私は、松野大臣が、あえてこの時期によりにもよって教育勅語についてコメントしたという事実に、なによりもまず驚かされている。あまりにも軽率だからだ。 ヤブヘビというのか、火中の栗を拾いに行ったようにしか見えない。
・教育勅語が、ホットな話題になっている背景には、現在進行中のスキャンダルがある。 後日読み直す読者のためにあえて具体的に説明すると、教育勅語に注目が集中しているのは、経営する幼稚園の園児に教育勅語を朗唱させていることで注目を集めた森友学園という学校法人に関連する一連の疑惑報道が、いままさに進行中だからだ。
・その延焼中のスキャンダルのさなかで、文部科学大臣という容易ならざる立場にある人間が、わざわざ教育勅語の意義についてコメントする狙いが那辺にあるのか、そのあたりの裏事情を考えると、私は、自分のアタマが混乱して堂々巡りをはじめるのを止めることができない。大臣はいったいなんでまたこんな問題にクビを突っ込んだのであろうか。彼は誰に対して何をアピールしたかったのだろう。
・つい1週間ほど前の3月8日には、稲田朋美防衛大臣が、参院予算委員会で社民党の福島みずほ議員の質問に答える中で 「教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません」  「私は教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである、そして親孝行とか友達を大切にするとか、そういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持している」 「教育勅語に流れている核の部分、そこは取り戻すべきだと考えている」 という主旨の発言をしている。
・これまた驚愕すべき答弁だ。 いったいアタマの中にどんな味噌が入っていれば、こんな言葉を考えつくことができるのだろうか。 私の耳には、稲田大臣のこの応答は、ご自身のクビを絞める発言にしか聞こえない。 というよりも、ただでさえ窮地に追い詰められつつある状況下で、問題の発端である教育勅語を擁護しにかかるみたいな発言をすれば、ますます苦しい立場に追い込まれることが自明であるにもかかわらず、それでも、稲田大臣が教育勅語への愛と信頼を表明した理由を解明することは、現状の私には不可能だ。自分のアタマの中にある味噌を入れ替えてからでないと、到底理解できない。
・そんなわけなので、ここで、一旦、自分の思い込みをリセットしてみることにする。 でないと、この謎にはアクセスできないだろうからだ。 私の思い込みというのは、すなわち教育勅語が邪悪な思想だという決めつけのことだ。 その私の思い込みからすると、教育勅語のようなあからさまに邪悪な愚民教導ツールを積極評価するのは権力志向のファシストに決まっているのであって、そのファシストが公の場で教育勅語への賞賛と支持の気持ちを表明するのは、彼らが、そうすることで何らかの利益にあずかろうとしているからだ、という理屈になる。
・稲田防衛大臣や松野文部科学大臣が、この困難な時期にあえて教育勅語へのゆるぎない愛情と信頼を吐露したのは、彼らがそうすることで、政権の中枢を担う勢力への忠誠を明らかにしたからなのだと、そういうふうに邪推してかからないと、事態を飲み込むことができないということでもある。
・しかし、おそらく、真相はそんなに見え透いたお話ではない。 もっと見え透いている。 つまり、稲田防衛大臣は、野党側の質問にさらされて、うっかり自分の本心を表明しただけだということだ。 それも、彼女は、どちらかといえば、誇らしいというのか晴れがましい気持ちで自分の道徳観を開陳していのだと思う。ご本人の自覚としては、断じて誰かに媚びるために過去の禁じられた徳目を称揚してみせたのではないのだろう。 松野文科相にしてもおおむね同様だ。政権の中枢への目配りがなかったとは言えないものの、彼自身、教育勅語が道徳的に優れた文書である点は疑っていない。
・私が当初から感じている薄気味の悪さは、実にここのところにある。 この物語に登場する人物は、誰もがテンから教育勅語を「良いもの」だと信じ切っているのだ。 それだけではない。 観察するところでは、現状の日本人の多数派は、どうやら、教育勅語を悪いものだとは思っていない。 これは、私には受け容れにくい状況だが、事実なのだから仕方がない。
・多くの日本人は、教育勅語について、多少古くさいところはあっても、基本的には昔ながらの古き良き日本人のつつましやかな奥ゆかしさを体現した、素晴らしい遺産だぐらいに評価している。 おばあちゃんの知恵袋が、いくつか時代にそぐわなくなってしまった迷信(風邪をひいたら喉にネギを巻いて寝るんだよ、みたいな)を含んではいても、総体としては輝かしい先人の知恵であるのと同じように、教育勅語も、天皇に関する部分だけを取り除けば、十分現代にも通用する好ましい徳目だと、そう思っている日本人は少なくない。というよりも、日本人の多数派がそう思っているからこそ、文部科学大臣や防衛大臣が、公然と支持を表明したのであって、赤旗がどう言おうが、朝日新聞があきれてみせようが、実に世の趨勢は既に、教育勅語復活に傾いているのである。
・われわれは、既に戦前の世界で暮らしているのだ。 なんということだろう。 松野文科相が教育勅語擁護発言をした3月14日の夜、私は、以下のようなツイートを連投した。 《教育勅語が若い世代を含む多くの日本人をいまだに魅了してやまないのは、並列された文言の背景に一貫している「個々の人間の個別の価値よりもひとまとまりの日本人という集団としての公の価値や伝統に根ざした心情の方がずっと大切だぞ」という思想が、根本的にヤンキーの美学だからだよ。》(こちら) 《より大きな集合の一員であることの陶酔に挺身するのがヤンキーの集団主義道徳で、その彼らを結びつけている文化が友情・努力・勝利の少年ジャンプ的なホモソーシャルである以上、教育勅語はど真ん中の思想ですよ。》(こちら)
・これらのツイートに寄せられた反響を眺めるにつけ、私の確信はいよいよ深まりつつある。 森友学園が小学校建設のために購入した土地の譲渡の経緯やその地価の算定のいきさつに何があったのか、私は詳しい事情を知らない。 ただ、私が興味をひかれている点は、そこではない。
・私は、森友学園が推進する教育勅語を中心とした戦前ライクな道徳教育に賛同し、その理念を実現する小学校の設立のためにひと肌脱ごうとした人たちが、彼らを通じて作り上げようとしていた世界を知りたいと思っている。 彼らが必ずしももう一度戦争をしようとしているのだとは思わない。 ただ、彼らが、占領軍によって全否定された(と彼らが考えている)戦前的な美しい日本を「取り戻そう」としていることはどうやら間違いのないところで、その「美しい日本」の価値を根本のところで支えているのが教育勅語であることも動かしがたいポイントではある。先に挙げた国会における排除も、それが行われたのが占領下であったことを、得々として指摘することだろう。その「教育勅語」のキモというのか、核心に当たる根本思想は、「個」よりも「集団」を重んじ、「私」よりも「公」に高い価値を置き、個々人の自由よりも社会の秩序維持に心を砕く社会の実現ということで、これは、実は、任侠でも暴走族でも体育会の野球部でもブラック企業でもお役所でも同じことなのだが、要するにわれらが日本の「強いチーム」の鉄則そのものだったりする。
・うちの国で組織が強いチームとして機能するためには、個よりも集団が優先されなければならず、自由を秩序が圧迫していなければならず、私心が公益によって滅殺されていなければならない。で、そういうチームの中で何より美しいとされるのは、自分以外の何かや誰かのために自分の命を捨てる人間の姿だってなことになっている。これは神風特攻の昔から、ワンピースの漫画に至るまで、まったく変わっていない美学で、さらにそのルーツをさぐれば、たぶん白虎隊や忠臣蔵の時代まで遡ることができる。
・戦前の日本の子供たちを皇軍の兵士に仕立て上げるにあたって大きな役割を果たし、そのことで一度は教育現場から追放された教育勅語が、いままた復活への道を歩みはじめている現今の状況は、私の思うに、大げさに言えば、戦後の平和教育ならびに戦後民主主義の敗北ないしは解体を意味している。
・実際、教育勅語の復活を主張している人々は、そのまま日本国憲法の経年劣化と無効化を言い募る人々でもある。 で、われわれはまたしても、八紘一宇の理想に舞い戻るわけだ。 自民党の憲法改正案をめぐる議論を読み返していると、あらゆる場面で「行き過ぎた個人主義」という言葉が、実に数多くの議員の口から、何度も何度も繰り返されていることに驚かされる。
・それほどに、彼らは、個人主義を憎んでいる。 このことは 自民党の憲法草案の中で、日本国憲法の中の「個人」という言葉が、すべて「人」に置き換えられていることを見ても明らかなことだ。 ちなみに、「公共の福祉」というフレーズは、一つ残らず「公益及び公の秩序」という文言に改められている。
・さらに私を憂鬱な気持ちにさせるのは、自民党の議員の間に広がっている個人主義嫌いが、決して彼らにだけ共有されている特殊な思い込みではなくて、現代の若い世代をも含めた平均的な日本人のごく当たり前な多数派の思想でもあるという点だ。 われわれは、ひとつになることが大好きで、寄り添うことが大好きで、自分たちがひとかたまりの自分たちである状況に強い愛着を抱いている。
・戦前の常識では、教育勅語が体現する思想を貫徹するためには、中心に天皇を持ってこないと話のスジが通らなかったものなのだが、21世紀に教育勅語を召喚しようとしている人々は、あるいは、天皇抜きでも中央集権が可能だと考えているのかもしれない。
・まあ、真ん中が空洞でもドーナツは丸いわけだし、不可能ではないのだろうし、この様子だと、その彼らの理想が実現する時代は、そんなに遠い未来ではないのかもしれない。 その世界の中で、ドーナツの一部になる事態を、私はできれば回避したいと願っている。 一片のパン屑として生涯を閉じることができるのであれば、それで不満はない。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/031600086/?P=1

次に、文筆家近現代史研究者の辻田 真佐憲氏が2月24日付け現代ビジネスに寄稿した「「軍歌を歌う幼稚園」森友学園の愛国教育は、戦前だったら不敬罪!? なんともトホホな戦後的光景」を紹介しよう(▽は小見出し、+は段落)。
▽注目の幼稚園の「あまりに戦後的な実態」
・国旗、国歌、軍歌、「教育勅語」、「天壌無窮の神勅」、御真影、修身、靖国神社、八紘一宇――。 「戦前っぽいもの」をカット・アンド・ペーストして、なんとなく愛国的な世界観を作り上げる。戦後、そんな「二次創作」がなんども繰り返されてきた。 国有地の売却問題などに絡み、大阪市の学校法人・森友学園が注目を集めているが、その教育もまたそうした「二次創作」の典型例である。
・同法人が運営する幼稚園では、「君が代」や軍歌を歌い、「教育勅語」を暗唱し、御真影を掲げているという。これには、戦前回帰との指摘も少なくない。 だが、その詳細をみると、どこが戦前なのだろうといぶかしく思われる。 天皇皇后の写真は覆いもなく無造作に置かれ、「教育勅語」は園児たちによって不揃いに唱えられ、「君が代」は毎朝のように歌われる。戦前では、天皇に関するものごとは厳格に管理されており、こんなカジュアルな扱いなどとうていありえなかった。
・たとえば、文部省は、小学校(1941年度以降は国民学校)の儀式で「教育勅語」や「君が代」、御真影をどのように扱うべきか指針を定めていた。 複数ある指針をまとめると、おおよそ次のようになる。
 1. 紀元節(現在の建国記念の日)、天長節(同、天皇誕生日)などの祝祭日に、校長、教員、児童は学校に集まり、儀式を行わなければならない(以下、式次第)。
 2. 式場中央に奉掲した天皇皇后のお写真の覆いを撤する。その際、一同上体を前に傾け、敬粛の意を表する。お写真を拝戴していない学校では、宮城遥拝を行う。
 3. 国歌を歌う。
 4. 校長が「教育勅語」を奉読する。参列者は奉読開始とともに上体を前に傾けて拝聴し、奉読終了後に敬礼してもとの姿勢に復する。
 5. 校長が訓話を行う。
 6. 当日の儀式用唱歌を歌う。たとえば、紀元節では「紀元節」という唱歌を歌う。
 7. 天皇皇后のお写真に覆いをする。その際、一同上体を前に傾け、敬粛の意を表する。
・そう、戦前の小学生は、祝祭日にわざわざ学校に行って、こんなに堅苦しい儀式に参加しなければならなかった。その空間は厳粛をきわめ、御真影が置きっぱなしにされたり、「教育勅語」がガヤガヤと子供に唱えられたりするなど、もってのほかだった。 くだんの幼稚園は、戦前ならば、不敬罪に問われたかもしれない。戦後的な、あまりに戦後的な実態。同園の愛国教育を戦後の「二次創作」と呼ぶゆえんである。
▽「二次創作」は戦後日本の伝統芸
・こうした「戦前っぽいもの」のカット・アンド・ペーストは、終戦記念日の靖国神社の光景を思い出させる。  8月15日に靖国神社に行くと、旧軍の軍装をしたひとびとの姿が目につく。外見からして、あきらかに旧軍の元軍人ではない。高齢者の場合も、不自然に階級が高かったりする。 つまり、かれらのほとんどは、民間人の「コスプレ」である。
・これら架空の軍人たちは、くたびれた軍服に、しばしば高級な階級賞をつけ、エリートの象徴である参謀肩章や天保銭を帯びている。そして軍旗を掲げ、軍刀を抜き、境内を練り歩いている。 その異様な光景は、一度見たらけっして忘れられない。
・もっとも、かれらはふざけているわけではない。むしろ軍装や行進を通じて、靖国神社や戦死者に対して崇敬の念を示しているらしい。だからこそ、これまで許容されてきたのだろう。 事実、乃木大将のコスプレで有名なある老人などは、最近まで「靖国の英霊に捧ぐ」などと称して毎年軍歌のイベントを開催し、その開会の挨拶で「教育勅語」を恭しく読み上げていた。
・こうした終戦記念日の光景もまた、戦後特有のものである。民間人(子供など一部の例外を除く)が軍人のコスプレをして靖国神社を参拝するなど、戦前であれば考えられなかった。 
・これだけではない。「二次創作」の愛国教育は、戦後社会に見られるひとつの伝統芸であり、サブカルチャーであり、この分野に詳しい者にとっては見なれたものである。 だからこそ、戦前回帰との批判には違和感を禁じえない。「軍歌を歌う幼稚園」も、終戦記念日の靖国神社も、きわめて戦後的な現象であり、戦後民主主義の土台のうえに成り立っているものだからだ。
・ここでは、「戦前回帰」対「戦後民主主義」の図式は適切ではない。そうではなく、戦後民主主義のなかの現象Aや現象Bと捉えられるべきである。戦前回帰との批判は、こうしたフェイクに対してかえってある種の正当性を与えかねない。
▽保革対立で形成された戦前ネタ
・そもそも「戦前っぽいもの」のパッケージは、戦後長らくつづいた保革対立のなかで形成されたものである。 保守勢力(自民党文教族、文部省など)は、教育の荒廃が叫ばれると、かならず国旗掲揚、国歌斉唱、「教育勅語」の再評価、修身の復活などを主張してきた。 国旗国歌問題に火をつけた第三次吉田茂内閣の天野貞祐文相は、その嚆矢である。内藤誉三郎(文部事務次官→参議院議員→第一次大平正芳内閣の文相)のように、「天壌無窮の神勅」を学校で教えるべきだと主張した例もある。
・これに対し、革新勢力(社会党、日教組など)は、ことごとくこうした動きに反対し、抵抗を示してきた。 「戦前っぽいもの」のパッケージは、こうした保革対立を前提とした一種のネタだったといえるかもしれない。多少大げさなことをいっても、どうせ反対派から批判されて最終的に調整されるだろう、と。
・だが、革新勢力が著しく退潮するなかで、こうした調整機能は失われた。 世代交代とともに、ネタもいつしかベタとして認識されるようになった。戦前ネタのフルコースともいうべき「軍歌を歌う幼稚園」と、それを評価する首相夫人という組み合わせは、その最たる象徴だろう。
・私立学校でやっている分にはまだよい。だが、これが今後公立学校の教育などに影響を及ぼすとなるとたいへんリスキーだ。戦前ネタの裏で、児童虐待まがいのことをしているとの報道もあるが、事実だとすれば、またなにをかいわんやである。
▽「戦前っぽいもの」のパッケージを解体せよ
・もとより、教育機関で国民国家の歴史や意義を教えることは必要である。国民国家は、現在の国際政治の基本的な単位だ。これを否定するつもりはない。 グローバリズムの時代、国民国家というシステムをいかに無理なく保守・管理・運用していくか。政府への盲従や排外主義などの欠陥は認識しつつも、こうした問題に取り組んでいくことは欠かせない。
・では、「軍歌を歌う」式の愛国教育でこの問題に対応できるのかといえば、はなはだ心もとない。「戦前っぽいもの」のパッケージは、いまやなき保革対立時代の産物だからである。 もはや、かつてのバランサーとしての革新勢力の再興はむずかしいだろう。 そこで必要なのは、「戦前っぽいもの」のパッケージを解体し、ひとつひとつ検証して、使えるものは使い、捨てるべきものは捨て、再構築を行うことであろう。軍歌はどうか、「君が代」はどうか、「教育勅語」はどうか――、と。
・現代ビジネスの拙稿では、すでに「君が代」と「教育勅語」の意味や歴史について詳しく検討してきた。
 +日本人にとって「君が代」とは何か? ネットにあふれるトンデモ解釈
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48225
 +「教育勅語」復活論者は、単に歴史の無知をさらしているだけhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/50764
・「君が代」は、これからも国歌として使用するべきである。ただし、「歌うか、歌わないか」と踏み絵のように使うべきではない。万人に受け入れられやすい「聴く国歌」が落としどころではないかと思われる。
・「教育勅語」は、復活させるべきではない。発布直後から問題点が指摘されており、今日の複雑化した社会ではとうてい使用に耐えない。部分的に評価できるところがあるのならば、別の文書を用意するべきである。
・修身(道徳教育)や靖国神社(戦没者慰霊)などについても、個別に検討されなければならない。パッケージを丸呑みするかいなかの二者択一は、あまりに単純すぎる。 もう一度繰り返せば、「軍歌を歌う」式の愛国教育は、「戦前っぽいもの」をカット・アンド・ペーストした「二次創作」である。それはイメージと異なり、戦後民主主義に依存し、保革対立を前提としたものであった。
・したがって、これからの時代に対応するためには、「戦前っぽいもの」のパッケージを解体し、国民国家に関する教育の再構築を行わなければならない。 戦前の模倣やネタでさまざまな教育問題が解決するのであれば、こんな楽なことはない。だが、そんなうまい話があるわけがない。「軍歌を歌う」式の愛国教育を評価するものは、そろそろ目を覚ますべきである。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51052

小田嶋氏の記事にある 「教育勅語」についての松野大臣や稲田朋美防衛大臣の発言は、新聞では見落としていたので、初めて知った。 『私が当初から感じている薄気味の悪さは、実にここのところにある。 この物語に登場する人物は、誰もがテンから教育勅語を「良いもの」だと信じ切っているのだ。 それだけではない。 観察するところでは、現状の日本人の多数派は、どうやら、教育勅語を悪いものだとは思っていない。 これは、私には受け容れにくい状況だが、事実なのだから仕方がない』、 『彼らが、占領軍によって全否定された(と彼らが考えている)戦前的な美しい日本を「取り戻そう」としていることはどうやら間違いのないところで、その「美しい日本」の価値を根本のところで支えているのが教育勅語であることも動かしがたいポイントではある』、 『自民党の議員の間に広がっている個人主義嫌いが、決して彼らにだけ共有されている特殊な思い込みではなくて、現代の若い世代をも含めた平均的な日本人のごく当たり前な多数派の思想でもあるという点だ。 われわれは、ひとつになることが大好きで、寄り添うことが大好きで、自分たちがひとかたまりの自分たちである状況に強い愛着を抱いている』、などの指摘は、本質を突いていると思われるだけに、「空恐ろしい」気がする。
辻田氏の記事では、『注目の幼稚園の「あまりに戦後的な実態」』、とは言われてみれば、その通りだ。終戦記念日の靖国神社で、軍人のコスプレをして参拝するなどの 『「二次創作」は戦後日本の伝統芸』、というのも、意外な点を突いた面白い見方だ。 『「戦前っぽいもの」のパッケージを解体せよ』との主張もその通りと賛成したいが、圧倒的に優位に立った保守勢力にそれに同意させる誘因が見当たらない以上、残念ながら、復古の流れを苦々しく見つめるほかないのではなかろうか。
タグ:「戦前っぽいもの」のパッケージを解体せよ 保革対立で形成された戦前ネタ 「コスプレ」 旧軍の軍装をしたひとびとの姿が目につく。外見からして、あきらかに旧軍の元軍人ではない 終戦記念日の靖国神社の光景 「二次創作」は戦後日本の伝統芸 文部省は、小学校(1941年度以降は国民学校)の儀式で「教育勅語」や「君が代」、御真影をどのように扱うべきか指針を定めていた 戦前では、天皇に関するものごとは厳格に管理されており、こんなカジュアルな扱いなどとうていありえなかった 「軍歌を歌う幼稚園」森友学園の愛国教育は、戦前だったら不敬罪!? なんともトホホな戦後的光景 現代ビジネス 辻田 真佐憲 われわれは、ひとつになることが大好きで、寄り添うことが大好きで、自分たちがひとかたまりの自分たちである状況に強い愛着を抱いている 彼らは、個人主義を憎んでいる。 このことは 自民党の憲法草案の中で、日本国憲法の中の「個人」という言葉が、すべて「人」に置き換えられていることを見ても明らかなことだ 「教育勅語」のキモというのか、核心に当たる根本思想は、「個」よりも「集団」を重んじ、「私」よりも「公」に高い価値を置き、個々人の自由よりも社会の秩序維持に心を砕く社会の実現ということで、これは、実は、任侠でも暴走族でも体育会の野球部でもブラック企業でもお役所でも同じことなのだが、要するにわれらが日本の「強いチーム」の鉄則そのものだったりす 稲田防衛大臣は、野党側の質問にさらされて、うっかり自分の本心を表明しただけだということだ。 それも、彼女は、どちらかといえば、誇らしいというのか晴れがましい気持ちで自分の道徳観を開陳していのだと思う。ご本人の自覚としては、断じて誰かに媚びるために過去の禁じられた徳目を称揚してみせたのではないのだろう。 松野文科相にしてもおおむね同様だ 「教育勅語に流れている核の部分、そこは取り戻すべきだと考えている」 稲田朋美防衛大臣 一旦国会の場で、「憲法の理念に反する」として「排除」され「失効」した歴史的な教材を、文部科学大臣の名において「憲法や教育基本法の理念に反しないような配慮」を条件にしているとはいえ、「有効」であるとして再び召喚しようとした措置 教育勅語について、憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば「教材として用いることは問題としない」と表明 文部科学大臣の松野博一 「教育勅語」を愛する人々 日経ビジネスオンライン 小田嶋隆 (その9)(小田嶋氏の「教育勅語」論、森友学園の愛国教育は戦前だったら不敬罪!?) 国有地払い下げ問題 森友学園 安倍晋三記念小学校
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