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「安倍晋三記念小学校」(森友学園)への国有地払い下げ問題(その10)(伊東乾氏の「教育勅語」論) [国内政治]

今日も、昨日に続いて、「安倍晋三記念小学校」(森友学園)への国有地払い下げ問題(その10)(伊東乾氏の「教育勅語」論) を取上げよう。これは、森友学園問題よりも、むしろ歴史問題に分類する方がいいのかも知れないが、森友学園問題として取上げた。筆者の伊東乾氏は、このブログでも時々紹介しているが、本業は作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督であるが、東大でも教鞭を取っているマルチタレントで、考察は幅広く、鋭い。同氏が、JBPressの3回のシリーズで寄稿したものである。やや長目になるが、それだけの価値はあると思う。

先ずは、3月17日付けJBPress「幼児に教育勅語を暗唱させる時代錯誤と大問題 親孝行、兄弟仲よく・・・に目を奪われ民主主義を置き忘れていいのか」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・(冒頭は省略)
▽相補う「欽定憲法」と「教育勅語」
・大阪で問題になっている小学校用地などをめぐる大醜聞事件、個別の出来事はジャーナリズムにお任せするとして、私が気になったのは「幼稚園児に教育勅語」など、実際に教え込まれている具体的な内容の数点です。 2015年時点で報道された「ユニーク教育」ぶりを伝える記事が残っていましたので、リンクしておきます。疑惑の小学校設立に関する2年前時点での記載もしっかり残っていました。  ここで、いまだ自ら判断する能力を持たない、無地の幼稚園児たちに教え込まれた「教育勅語」なるものが、いったいどういう背景でできた、どのような内容のものであるかを、客観的に振り返り、確認してみましょう。
・「教育ニ関スル勅語」は明治天皇の勅語として1890=明治23年10月30日に発布されました。 まず同年11月29日から始まる第1回帝国議会の開会に先立って、その直前に発布されていることに注意しておきます。 これはまた、前年にあたる1889(明治22)年2月11日「紀元節」の日に公布され、上記の第1回帝国議会開会と同日から施行された大日本帝国憲法を補う形で発布されていることにも注意しましょう。
・前回のコラムにも記した「明治14年の政変」のおり「国会開設の勅諭」が発せられました。 これに続いて内閣制度や二院制の議会など西欧列強に模した近代国家の枠組みが整備される中で、上記の明治22年2月11日、今日では「建国記念の日」と名称が変わりましたが、この「紀元節」に際して君主である明治天皇から首相である黒田清隆に「下賜」されたのが「大日本帝国憲法」にほかなりません。
・典型的な「欽定憲法」つまり王様が臣下に対して下し授ける<基本法典>です。逆に言えば、マグナ・カルタに代表される「国民が王権の濫用を防止するために歯止めとして設ける基本法典」としての憲法では全くないという事実に注目しておく必要があります。
・端的に言えば、君主が臣民に命令する規範であって、国民を主権者とし法治で国家経営する今日大半の国連加盟国に見られる立憲君主制とは似ても似つかない、独裁的な体制を容易に実現し得るシステムであったことも、冷静に見ておく必要があります。
・善し悪しではなく、事実において、大日本帝国憲法は独裁政を生み出す可能性に原理的に開かれており、現実に「統帥権独立」問題を風穴として、軍部によるファシズム独裁体制を許容して、1945年8月15日に至る暴政と悲惨な末路に日本国を導く基本法典という性格を持つに至りました。 そして、この欽定憲法が必ずしもカバーしない精神訓として国民に下賜強要されたのが「教育勅語」にほかなりません。
▽憲法に精神訓は含まれない
・大日本帝国憲法は、君主が臣下である国民=臣民に下げ賜った基本法典であることを、いま確認しました。その冒頭、「第1章天皇」は  第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス という条文に始まります。これはつまり、天皇自身が自分の家系が万世一系で国を統治すると宣言しているわけで、原理的に独裁に直結する典型になっています。続く18条以下は「第2章臣民権利義務」とされ、あらゆる「臣民の権利」に先立って第20-21条に 第20条日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス  第21条日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス  として第1に「兵役」第2に「納税」の義務がある、と君主から一方的に規定されています。
・そのようにあらかじめ定められた「臣民」が、いかなる内心の道徳規範を持つべきであるか、善くも悪しくも大日本帝国憲法、つまり君主が定めた欽定憲法には記載がありません。 欽定憲法では天皇自身が 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス  俺は神聖な存在だから不可侵であるぞよ、と宣言するばかりで、臣下であると宣言され、憲法の定める義務として兵役が課され、兵隊として国のために働くべき臣民のメンタルを司る規範は記されていません。
・それを補うべく、憲法が施行される直前に「大日本帝国臣民はかくのごとくあれ」という精神訓として、君主から下賜されたのが「教育勅語」でありました。 少なくとも私の所属する大学(東京大学)では、理非の別なく権威を妄信したり、合理的方法的な懐疑の念をもって綿密に組み立てられた論証の手続きを経ない妄言の類を、入学試験の問題に課したり、学位審査の前提に置くと言ったことはありません。
・と言うかあり得ません。もしそのようなことがあれば、刑事事件として立件されるレベルの犯罪であると言わねばならないでしょう。 親孝行、兄弟仲良く・・・といった「徳目」の羅列に目を奪われて、こうした本質を見忘れては、ことの本質を損ねます。
・教育勅語は明治天皇が作ったものでも何でもなく、明治10年代の支配層が様々な対立の中で議論し、元熊本藩士で儒学に通じた井上毅(いのうえこわし)元田永孚(もとだながざね)らが起草した「肥後モッコスのサムライ精神訓」、まさに封建遺制そのものというのが出自にほかなりません。 思考停止を美徳と勘違いする子供を作るリスクに、警鐘を鳴らす必要を感じた次第です。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49446

次に、3月18日付けJBPress「「教育勅語」を問題視しない人の超危険度 国民皆兵と靖国神社につながる誕生の背景を忘れるな」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・前回、「教育勅語」は大日本帝国憲法と両輪として構想され、「国民皆兵」を基礎に据える近代日本国家の軍制備に必要不可欠な精神訓として整備された経緯を見ました。 (前回の記事)「幼児に教育勅語を暗唱させる時代錯誤と大問題」 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49446
・さて、ここで改めて考えて見ましょう。 日本という国を考えるうえで、この「国民皆兵」という考え方は、善くも悪しくも画期的なものでありました。 どうしてか? 士農工商という言葉があります。 幕府260余年を通じて、刀剣の類を身に帯びた「武士」が支配階級であって、その下に農民も職人も商人もかしづいた。 大名行列などの類に「頭が高い」とやられると、地べたに土下座させられるのは珍しいことでなく、無礼があれば斬り捨てご免、実に理不尽な体制が長く続きました。
・それが「四民平等」と呼ばれるようになる背景は何であったのか? 江戸時代、「士農工商」で武士とされた人々の軍備は刀や槍、弓矢や馬が中心で、鉄砲飛び道具の類は微妙に卑怯、集団戦法などは邪道であって、 「やぁやぁ遠からんものは音に聴け、近くば寄って目にも見よ」 式の、牧歌的な果し合いが主流であって、宮本武蔵でも清水一角でも、剣士個人の技量がものをいい、また召抱える側からしても、個人として優秀なサムライへの評価が高かった。
・それではいけない! そんなことでは欧州列強の侵略、植民地支配に対抗してはいけない、というのが大村益次郎こと村田蔵六の考え方で、そこから国民皆兵の発想も、東京招魂社、つまり後の靖国神社に至る発想も生まれてきたわけです。 この考え方の源流を探訪してみましょう。
▽「個性」不要の近代軍備
・「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」 とは「黒船」こと蒸気船で来航したペリー一行の開国要求に右往左往する江戸幕府を揶揄した狂歌で、「じょうきせん」は宇治の上等のお茶の銘柄。カフェインの強い喜撰と蒸気船4艘とをかけて、たかだか4つ黒船が来ただけで幕閣が上を下への大騒ぎをからかったものでした。
・ところで、なぜ、黒船が来たとき、幕府首脳はそこまであわてたのか? 答えは「大筒」つまり大砲にあります。ペリー艦隊4隻の軍事装備を見てみると  旗艦サスケハナ号10インチ砲3門8インチ砲6問  ミシシッピ号10インチ砲2門8インチ砲8問  プリマス号8インチ砲8門32ポンド砲18問  サラトガ号8インチ砲4門32ポンド砲18問  と、単純計算しただけで70門近くの大砲を山積みした真っ黒の船が江戸湾沖にお城を狙う形で入港したわけですから、夜もおちおち寝ておられず、幕閣はまさに「たった四杯で」の状況になってしまった。
・こんな近代軍装備の前で「やぁやぁ、遠からんものは・・・」なんて名乗りを上げていても意味はありません。チュドーンとやられればおしまいです。 近代軍備に個人的な武勇に優れた英雄は必要ないのです。それは軍備対軍備の戦い、装備に勝った勢力が、いずれは敵を圧倒してしまう、ある意味でまことにつまらない戦争になったと言えるかもしれません。
・そこで必要とされるのは・・・個性的な剣客、佐々木小次郎や柳生十兵衛の勇猛ではなく、小銃何丁を持った何個小隊がどのように布陣しどう展開するか、というウォーゲーム的近代戦だったのです。 個人対個人の戦いではなく、装備によって決定される、いわば確率的な戦いで、最終的には期待値に勝る側が勝利を収めるという、没個性的な兵法。
・古典的な果し合いとしての優雅な日本型合戦ではなく、装備さえ揃っていれば、それを操作する兵隊の個性はほとんど問われることがありません。かつて織田信長が鉄砲を大規模に導入し勝利を収めて天下人となった「長篠の戦」を大規模に再現するようなものでした。 こうした経緯を冷静に見つめていたのが、靖国神社の創設者、医師で兵法家の村田蔵六でした。
▽国民皆兵と靖国神社
・大村益次郎こと村田蔵六は卓越した語学の力と不屈の意思をもって独学で西欧兵法を学んだ傑物でした。 と同時に、十分醒めた合理的な思考のできる人物でもあった。敵の戦力が自ら消耗するのを待つ、被害が大きいと想像される場所に薩摩兵を配し、それによって薩摩の恨みを買って最後は暗殺される、といった説が根強く囁かれるのも、そうした冷徹さに起因することかと思われます。
・村田蔵六は、武士がプライドをかけて固執していた個人対個人の戦いを完全に否定して、19世紀欧州のグローバルスタンダードで軍事を思考することができました。 戊辰戦争、上野の山の彰義隊討伐に当たって、村田は見通しのよい昼間に敵を消耗させ、午後になって敵が疲れてきたあたりのタイミングから近代火器である「アームストロング砲」を撃ち始めます。
・これは鍋島藩が有田焼や伊万里など、東洋の白ダイヤとして高く売れた磁器を外貨産物として手に入れた近代火器であったと思われます(私たち佐賀の人間はこのあたりに敏感です)。 こんなものをぶっ放された日には、いかに佐幕派が勇猛だろうと、白虎隊のローティーンが決死の覚悟をしようと、ひとたまりもありません。
・古典的な日本武士の兵法に依存しがちだった同僚が「戦いが夜に及んでは・・・」と心配するなか、村田蔵六は全く動ぜず、懐中時計を見ながら「夕方には終わるでしょう」と落ち着いていたそうです。 果たしてアームストロング砲、いまで考えれば「ボム」ですね、これが炸裂し始め、日が傾くころ上野の山で火の手が挙がると 「もう終わりました」 と江戸城の物見から平然と言い放ち、その言葉のとおりに官軍勝利を伝える伝令が、前後して駆け込んできたそうです。
・兵力はすでに、「やぁやぁ遠からんものは音に聴け」という武士の専権事項ではなくなっていた。 アームストロング銃であれ、ほかの近代重火器であれ、その操作に習熟した者であれば農民でも職人でも商人でも、誰でも操作でき、子供のころから剣道など仕込まれた侍を文字通り木っ端微塵に爆殺することができる。  同様に、日本を襲う海外列強の植民地支配にも同じ武力は効果を発揮するでしょう。
・必要なのは冷徹な合理性であり、適切な練兵による「国民皆兵」のシステムで、個々の兵隊には顔はない、いや顔などあってはならない。そういう確率、統計的な思考が、長州の軍師、村田蔵六の念頭にはあったと思います。
・これに対して薩摩は違った。大久保一蔵(利通)などは、郷士という形ですが、武士が戦うということに固執した典型でした。西郷もまた然り。 明治初年の10年で駆逐されてしまった「不平士族」の大半は、この勇猛果敢な武士というイメージを捨て切れなかった人たちと言っていいかもしれません。
・実際、戊辰戦争を率いた西郷、大村、板垣の3人は暗殺、反乱自刃、失脚といった形で(少なくとも一度は)表舞台を去り、板垣は自由民権運動なる形で不平士族の憤懣を閥族政府に対するカウンター・パワーとしてまとめる役割をおいおい担うことになるわけですが・・・。
・この、近代兵器戦で活躍するのは、個別の顔のない兵士です。剣豪はすでに不要で、命令に忠実で、一定の確率的な割合で命を失う、でもそのことに動じないという意味で勇猛果敢な、いわば部品、パーツとしての兵隊がいなければ、いかな近代火器といえども効力を発揮しません。
・大村益次郎・村田蔵六は、そうした「個人の名と顔を持たない兵士」のケアをよく考えました。 医師でもあった彼は、兵站の中で陣中での食料の補給に気を配ります。例えば、せっかくのアームストロング砲を扱う兵士が空腹でフラフラしていたら、当たるものも当たりません。 また万が一、敵に砲を奪われてはとんでもないことになります。将棋でコマを取られるようなものですね。 ちなみに将棋の「駒」を取るというのは、自軍の軍馬を敵に持ってゆかれることに対応するわけで、これが重火器となると、勝敗をひっくり返す大事になってしまいます。
・大村はまた、確率的に命を落とした無名戦士を合祀する、西欧重火器近代戦に対応した新しい戦没者慰霊の形を考えました。それが「東京招魂社」つまり靖国神社です。 靖国神社の発想は、決して江戸時代以前にはあり得ません。武士が軍事を担うとき、戦の勝敗は家代々の名誉であったり恥辱であったりしますが、常に名を持ち顔がついており、現実に首実検として切断して運んでいた。 私たちは日本人は1867年前後まで、東アジアの首狩り族であったことは、冷静に認識しておく必要があります。宿場の外れには「獄門台」と証する見せしめの首置き場が普通にあった。それが日本の封建時代の現実です。
・大村はそういうものと決別して、モダンで名のない、集合的・統計的な「魂」を祀りました。「英霊」という概念の原点です。 間違っても「英霊」を日本の伝統などと誤解してはなりません。江戸時代まではサムライが軍事を司り、農民や職人が武器を取ることは「一揆」として厳密に警戒されていた。
・それらがこぞって武器を手にして「国を守る」さらには「そのために命を懸け」実際に「見事散りましょ国のため」というのは、四民平等という一見すると近代的な平等主義と見え、その実、統計的に生死が振り分けられる「国民皆兵」のための準備でした。
・しばらく前まではもっぱら畑を耕し魚を獲っていたあんちゃん、おとっちゃん連中が、いつのまにやら練兵されて「臣民」として近代装備軍の兵士として再編成されて、日本は「国民軍」を擁する東洋の雄、列強の一に加わって、日清戦争という一大キャンペーンに打って出るわけです。 このとき、一人ひとりが火器を手にする「国民軍」正確には臣民ですが、彼らが謀反を起こしたりした日には、維新政府はひとたまりもありません。
・で、これを縛る精神訓として準備されたのが「教育勅語」にほかなりません。大日本帝国憲法は帝国臣民(男子)すべてに兵役の義務がある、と謳いましたが、その精神的な内実は憲法に明記されなかった
・しばしば美化される12の徳目のオチの部分をよく見てみましょう  11常ニ国権ヲ重し国法に遵ヒ  12一旦緩急アレハ義勇公に奉シ以テ天壤無窮ノ皇運を扶翼スヘシ  つまり 11 大日本帝国憲法を基本とする国の法を尊重して秩序・軍律を遵守し  12国家に危機が迫ったならば、忠義をもって勇敢に、公のために尽くし、これによって永遠に終わることのない天皇の国運を扶養すべく翼賛しなさい  と命じられている。この命令の一人称の主語は「朕」つまり「神聖にして侵すべからざる」天皇自身であるというのが、この作文のミソです。
・平時に親孝行だ兄弟仲良くだといった秩序維持は言うまでもなく、はっきり書いてしまえば、個々人の命は有限だけれど、神聖な皇国のいやさかは永遠なのだから、そのために死ね、一身を捧げてね、と書いてある。 別段大げさではなく、徴兵は「血税」と言われた通りで、私の両親(両方とも大正生まれで父親は学徒として出陣、戦闘に参加し、殺し殺される最前線でソ連兵を撃ったりしています)の世代までは、極めて普通に常識として捉えられていたことに過ぎません。
・ここで「軍国主義」という言葉を私は用いません。教育勅語の350文字ほどの文言の中に、1つでも「あなたらしく」「個性的で」「多様な価値観を遵守し」「幸せに生きて」といった言葉があるでしょうか?  ありません。 あるのは「爾臣民」とか「億兆」とか、群集を示す無名化、匿名化した標語ばかり、つまり顔がなく、名がありません。
・もしあなたが、自分の子供に、その子の適性に合った自分らしい人生を幸せに全うしてもらおうと思ったら、統計的に扱われ、確率的に死ぬことを前提とする、部品としての近代装備に組み込まれるのを是とする、明確な利害目的をもった呪文を客観的、冷静に見つめる知性を、子供にしっかり教えておくことが重要でしょう。
・幼稚園児に分別はありませんが、私が小学1年次に46歳で死んだ、シベリヤ抑留帰還兵だった父は、すべての理非を分別する知性の大切さを、わけも分からない幼児の私に徹底的に叩き込んで、戦後の捕虜時代に芽ができたと思しい末期の肺がんで短い命を閉じました。 一時の陶酔に騙されてはいけない。合理的に考えて自他共に納得のいくものを、自他共に長く協力して生きていくことが大切。同学年であった三島由紀夫の自殺ごっこに、父が驚くほど冷淡だったことは、幼稚園児の私の心に強く焼きついて残っています。
・思考停止と不合理な自己犠牲、滅私奉公を美化するマゾヒズムを幼稚園児の心に焼きつける罪は深いと思います
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49474

第三に、3月21日付けJBPress「世界に恐れられた「カミカゼ特攻隊」の精神的支柱 徳もあるから信じ込まされた「教育勅語」真の狙い」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・教育勅語の問題を扱って、先週立て続けに2本、コラムを掲載する形となりました。 読者からのリアクションなどを見つつ、これは補っておかねばならないな、と思ったのは、戦前の日本では教育勅語が、法律に優先する社会道徳規範として、擬似宗教教学として義務教育において国民に強制されてきた、現実の「行為」の側面です。
・この行為には舞台と道具立てがありました。 「奉安殿」と「ご真影」です。 こうした、かつては完全に日本人の常識であったディティールを全く知らずに、右傾化した議論であれ、左傾化した議論であれ、まともな考察は成立しないでしょう。 前回も今回も、私が引くのはごくごく当たり前の史実だけで「偏見に満ちた」論説などでは全くないのは、普通に関連の基礎を修めた方なら誰もが首肯してくださると思います。
・すなわち「教育勅語」と「奉安殿」「ご真影」は3点で1セットにほかなりません。加えて言えば、これらへの「最敬礼」すなわち服装を正して最も深く頭を下げるという、江戸時代の大名行列よりどぎつい身体慣習の強制がなされていたこと。 これらを見ずして「教育勅語」という文章だけ取り出しても、1890年代から1945年に至る(あるいはその影響は戦後まで残っているわけですが)日本に落としたこの文書の影響を斟酌することはできないでしょう。
▽子を戦場に送り出したい親がいるか?
・戦前、赤紙と呼ばれた召集令状が送られて来ると、青年男子は徴兵に応ずる義務があり、適所に出頭せねばなりませんでした。別段偏見でもなんでもなく、大正14年生まれの私の父も昭和19年10月に19歳で応召、満州に大日本帝国陸軍二等卒として出征しました。
・こういうとき、出征兵士を送る場面をドラマなどで目にすると思います。 「なんとか君バンザーイ」「天皇陛下 バンザーイ」「大日本帝国バンザーイ」 という、千人針などを持たせたりするあの風景です。 実際は、子供を戦地に送り出したくない親や家族、特に母親は決して少なくなかったはずです。しかし、世間体その他を憚って、「お国のために立派に戦って、死んできなさい」などと言わされる母親像は、ドラマでもしばしば見かけるでしょう。で、気丈夫に振る舞いながら影で泣き崩れるといったシーンがフィクションでは描かれます。
・事実は小説より奇なり、と言いますが、実際、日本全国でこの種の出来事があって、1945年に至る戦争に歯止めが利かなくなりました。 しかしここで、あらゆる偏見を捨て、冷静に考えてみてください。 1867年、明治維新以前に、国民の8割以上を占める農民、あるいは商人職人などの町人に、武器を取ってお国のために戦う習慣、そこで命を捨てることを是とするイデオロギーや信仰があったでしょうか? ありません。そんなもの一切ありません。 では1877年、西南戦争時点ではどうか。やはりありません。10年後の1887年、明治20年にもそういう考え方は日本全国に浸透していない。
・ところが1897年、明治30年になると、形勢が変わっていることに注意すべきでしょう。日本は明治27~28(1894~95)年にかけて「日清戦争」を戦い、これに勝利し、関連で動いた経済などがあり、世間は大いに変わりました。 軍隊に出たことで実際に家計が助かった所帯も多く存在した。こうなると、世の中が本当に変質します。
・「死んでもラッパを口から話しませんでした」という木口小平一等卒など、多数の軍国美談が語られ、メディアはそれを喧伝し、政府も学校もその色彩一色に染まっていきます。 実際に戦勝によって賠償金がもたらされ、八幡製鉄所や京都大学も建設されて、日本が近代重工業国家として大きく飛躍してゆく端緒が切り開かれた。こうなると本物になってしまいます。
・さらに1907年、明治40年を過ぎると、お国のために戦って名誉の戦死という概念は完全に日本に定着していきます。 これに先立つ明治37~38年の日露戦争戦勝までの過程で、旅順戦で命を落とした「広瀬武夫中佐」を筆頭に「軍神」と呼ばれるような軍国美談の主人公が国民に広く知られるようになり、家族が1人「名誉の戦死」を遂げると遺族は社会的に称揚され、経済的にも潤うという、リアルな現実が動いてしまいます。 こうした中で、国家神道教学を義務教育就学生に生活習慣として定着させたのが「奉安殿」ご真影への礼拝であり、「教育勅語」の奉読儀礼であったわけです。
▽崇拝儀礼の調教システム
・「教育勅語」と切っても切れない関係にある「ご真影」について簡単に触れておきましょう。きちんと扱う際には別の稿を準備したいと思います。 亡くなられた哲学者の多木浩二さんに「天皇の肖像」(1988)という力作があります。 明治新政府が、大半の日本国民にとって未知の存在であった「天皇」なるものをいかにして「日本人」に定着させていくか、その過程をつぶさに扱う「天皇の可視化」戦略の中で「御巡幸」さらには「ご真影」というメディア形式が整えられていく過程を扱われた仕事で、当時大学生だった私は大きな衝撃をもって岩波新書の初版を手にした記憶があります。
・その後、約30年の経験を通じて「ご真影」に関してもう1つ思うのは「ごしんねい(ご真影」という別の概念です。 浄土真宗では、宗祖親鸞聖人の像や画像を「ごしんねい」と呼んで尊崇の対象とします。ごしんねいの収められたお堂は「御影堂」あるいは「影堂」などと呼ばれますが必ずしも真宗ばかりのことではなく、日本に仏教が到来してこの方、ずっと踏襲されてきたものです。 例えば、奈良の唐招提寺には開山である鑑真和上の姿を刻んだ国宝の乾漆像が伝わりますが、これが収められているのも御影堂です。
・ただ、真宗の場合はこの宗祖崇拝が門徒大衆の末端まで行き届いたことに特徴があります。日頃、田畑を耕しあるいは漁労に勤しむごく普通の人々、大半は文字を読むことも書くこともできません。 そんな中世近世の一般大衆の心に、文字や能書きを超えてダイレクトに働きかけた力の1つが「ご真影」でした。 
・浄土真宗の説教には、蓮如が三井寺に預けたご真影を返してもらうために息子の首を切って差し出した堅田の漁師源右衛門・源兵衛親子の殉教譚など、凄まじい命がけの話が多数伝わっています。 極度に堅固な運命共同体を形成した浄土真宗教団=「一向宗」は戦国大名を駆逐して加賀に自治コミューンを成立させ、近江、三河、越前、加賀、能登などに攻略不能な真宗王国を建設します。
・比叡山を焼き討ちにし、僧兵の首をなで斬りにした織田信長をもってして、和議を結ぶしか方途がなかったのが、蓮如の隠居所だった石山本願寺との戦争、石山合戦でした。 何しろ、道端で手まりをついて遊んでいる女の子だと思っていたら、その子供が刺客で大将 が殺された、というほどに少年少女兵にまで「ジハード」が徹底しており、いかな信長といえどもこればかりはどうにもならなかったなどと宗門では伝えられる結束の強さ(こうした話題については、拙著「笑う親鸞」などをご参照いただければと思います)です。
・明治政府が大日本帝国憲法を発布して「臣民皆兵」を謳ったとき、これに反対する層が一番最初に憂慮したのが「民百姓に武器なぞ持たせたら、必ず一揆を起こして反乱になる」というリスクでした。 この「陰謀公家」的な心配、実際、明治初年に三条実美や岩倉具視はリアルに「一揆」を懸念したと言います。 これに対して、一揆を防ぐには一揆に如かず、と日本史上最強の一揆である「一向一揆」の人身収攬技術を吸収、転用したものとして、大日本帝国が導入した「ご真影」崇拝の制度を捉え直すことが可能だと思います。
・唐招提寺にもあった御影堂は一向宗門徒の「ごしんねい」崇拝という実績を経て明治期の学校に設えられた「奉安殿」へと受け継がれます。 そこに納められた天皇皇后の写真が火事で燃えたというような際に校長が死んでお詫びするという、極端なメンタリティにも、真宗の積み重ねが強く影響しているように思われます。
・浄土真宗では開祖親鸞聖人の作として、編著とも言える「教行信証」が重視されますが、親鸞は同じ内容を手まりをつく少女にも理解できるように「今様」という歌に編みなおしています。 これが「ご和讃」として伝えられるものです。また中興の祖・蓮如上人は各地の門徒に多数の手紙を出しており、これを御文章(本願寺派)御文(大谷派)として尊びます。
・近代の創成になる「国民皆兵」の「帝国臣民軍」に一向一揆の強烈さを備えさせるうえで、この「宗祖聖人の言葉」として機能した面を考えることができるのが「教育勅語」のもう1つの横顔ではないかと思うのです。  この種の話を欧米人とすると、首肯してもらえることが少なくありません。
・すなわち、第2次世界大戦末期、確実に死ぬと分かっていながら突っ込んでくる「カミカゼ」は、理解を超えた狂信として連合軍には純然と恐怖の対象でしかなく、ついにはその制止のため、として広島長崎の原爆まで投下されてしまった。  この理不尽な命がけの「滅私奉公」は、まさに教育勅語に記されている精神具現化の極限であるとともに、蓮如以来の一向宗、あの信長が往生し和議を結ぶしかなかった浄土真宗の強烈なメディア影響力とまさに同質の側面を指摘できるでしょう。
・「教育勅語」を幼稚園児に暗記暗誦させる、という一事を取り出して細かに検討すると、日本が中世から現在まで刻んできた様々な歴史の明暗、特に極端な暗部を含め、様々な要素がくっきりと浮き彫りになってきます。 これら、何一つ偏ったものの見方ではなく、各々の専門の観点からは常識とされる内容を書き綴ってきただけに過ぎません。
・加賀一向一揆や石山合戦で恐れられ、第2次大戦末期に諸外国から恐怖されたのと同様の狂信的な自己犠牲、自爆攻撃にすら直結する本質のすべてが、あの短い文の中に洩れなく記されている。 「教育勅語にも良い面がある」というのは、ナチスの政策にも福祉はあったと言うのと同じで、そもそもの土台が全く分かっていない頓珍漢な欠伸のようなものと思うべきです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49479

3月17日付けの記事では、『欽定憲法が必ずしもカバーしない精神訓として国民に下賜強要されたのが「教育勅語」にほかなりません』、 『教育勅語は明治天皇が作ったものでも何でもなく、明治10年代の支配層が様々な対立の中で議論し、元熊本藩士で儒学に通じた井上毅(いのうえこわし)元田永孚(もとだながざね)らが起草した「肥後モッコスのサムライ精神訓」、まさに封建遺制そのものというのが出自にほかなりません』、などの指摘は、新鮮で大いに教えられた。
3月18日付けの記事では、 『大村はまた、確率的に命を落とした無名戦士を合祀する、西欧重火器近代戦に対応した新しい戦没者慰霊の形を考えました。それが「東京招魂社」つまり靖国神社です。 靖国神社の発想は、決して江戸時代以前にはあり得ません』、 『私たちは日本人は1867年前後まで、東アジアの首狩り族であったことは、冷静に認識しておく必要があります』、 『一人ひとりが火器を手にする「国民軍」正確には臣民ですが、彼らが謀反を起こしたりした日には、維新政府はひとたまりもありません。
・で、これを縛る精神訓として準備されたのが「教育勅語」にほかなりません』、 『個々人の命は有限だけれど、神聖な皇国のいやさかは永遠なのだから、そのために死ね、一身を捧げてね、と書いてある』、などの指摘も大変、参考になった。 『シベリヤ抑留帰還兵だった父は、すべての理非を分別する知性の大切さを、わけも分からない幼児の私に徹底的に叩き込んで・・・』、と伊東氏の父上は早死したとはいえ、素晴らしい精神的財産を遺したものだと思う。
3月21日付けの記事では、『「教育勅語」と「奉安殿」「ご真影」は3点で1セットにほかなりません。加えて言えば、これらへの「最敬礼」すなわち服装を正して最も深く頭を下げるという、江戸時代の大名行列よりどぎつい身体慣習の強制がなされていたこと。 これらを見ずして「教育勅語」という文章だけ取り出しても、1890年代から1945年に至る(あるいはその影響は戦後まで残っているわけですが)日本に落としたこの文書の影響を斟酌することはできないでしょう』、『国家神道教学を義務教育就学生に生活習慣として定着させたのが「奉安殿」ご真影への礼拝であり、「教育勅語」の奉読儀礼であったわけです』、 『「教育勅語にも良い面がある」というのは、ナチスの政策にも福祉はあったと言うのと同じで、そもそもの土台が全く分かっていない頓珍漢な欠伸のようなものと思うべきです』、などの指摘も、大いに参考になった。
同氏は、物理学科出身ながら、音楽家としても活躍、こうしたコラムの質も極めて高い、まさにスーパースターだ。今後も、様々な問題に新な切り口をつけてくれることを期待している。
なお、明日は更新を休むので、金曜日にご期待を!
タグ:伊東乾 JBPRESS 安倍晋三記念小学校 森友学園 国有地払い下げ問題 (その10)(伊東乾氏の「教育勅語」論) 幼児に教育勅語を暗唱させる時代錯誤と大問題 親孝行、兄弟仲よく・・・に目を奪われ民主主義を置き忘れていいのか 相補う「欽定憲法」と「教育勅語」 君主が臣民に命令する規範であって、国民を主権者とし法治で国家経営する今日大半の国連加盟国に見られる立憲君主制とは似ても似つかない、独裁的な体制を容易に実現し得るシステムであったことも、冷静に見ておく必要 欽定憲法が必ずしもカバーしない精神訓として国民に下賜強要されたのが「教育勅語」にほかなりません 教育勅語は明治天皇が作ったものでも何でもなく、明治10年代の支配層が様々な対立の中で議論し、元熊本藩士で儒学に通じた井上毅(いのうえこわし)元田永孚(もとだながざね)らが起草した「肥後モッコスのサムライ精神訓」、まさに封建遺制そのものというのが出自にほかなりません 「教育勅語」を問題視しない人の超危険度 国民皆兵と靖国神社につながる誕生の背景を忘れるな 、「教育勅語」は大日本帝国憲法と両輪として構想され、「国民皆兵」を基礎に据える近代日本国家の軍制備に必要不可欠な精神訓として整備 「国民皆兵」という考え方は、善くも悪しくも画期的なものでありました ウォーゲーム的近代戦 個人対個人の戦いではなく、装備によって決定される、いわば確率的な戦いで、最終的には期待値に勝る側が勝利を収めるという、没個性的な兵法 大村益次郎こと村田蔵六 必要なのは冷徹な合理性であり、適切な練兵による「国民皆兵」のシステムで、個々の兵隊には顔はない、いや顔などあってはならない。そういう確率、統計的な思考が、長州の軍師、村田蔵六の念頭にはあったと思います 確率的に命を落とした無名戦士を合祀する、西欧重火器近代戦に対応した新しい戦没者慰霊の形を考えました。それが「東京招魂社」つまり靖国神社です 間違っても「英霊」を日本の伝統などと誤解してはなりません。江戸時代まではサムライが軍事を司り、農民や職人が武器を取ることは「一揆」として厳密に警戒されていた 人ひとりが火器を手にする「国民軍」正確には臣民ですが、彼らが謀反を起こしたりした日には、維新政府はひとたまりもありません。 個々人の命は有限だけれど、神聖な皇国のいやさかは永遠なのだから、そのために死ね、一身を捧げてね、と書いてある シベリヤ抑留帰還兵だった父は、すべての理非を分別する知性の大切さを、わけも分からない幼児の私に徹底的に叩き込んで、戦後の捕虜時代に芽ができたと思しい末期の肺がんで短い命を閉じました。 一時の陶酔に騙されてはいけない。合理的に考えて自他共に納得のいくものを、自他共に長く協力して生きていくことが大切 世界に恐れられた「カミカゼ特攻隊」の精神的支柱 徳もあるから信じ込まされた「教育勅語」真の狙い 「教育勅語」と「奉安殿」「ご真影」は3点で1セットにほかなりません これらへの「最敬礼」すなわち服装を正して最も深く頭を下げるという、江戸時代の大名行列よりどぎつい身体慣習の強制がなされていたこと。 これらを見ずして「教育勅語」という文章だけ取り出しても、1890年代から1945年に至る(あるいはその影響は戦後まで残っているわけですが)日本に落としたこの文書の影響を斟酌することはできないでしょう 明治40年を過ぎると、お国のために戦って名誉の戦死という概念は完全に日本に定着 国家神道教学を義務教育就学生に生活習慣として定着させたのが「奉安殿」ご真影への礼拝であり、「教育勅語」の奉読儀礼であったわけです 加賀一向一揆や石山合戦で恐れられ、第2次大戦末期に諸外国から恐怖されたのと同様の狂信的な自己犠牲、自爆攻撃にすら直結する本質のすべてが、あの短い文の中に洩れなく記されている 「教育勅語にも良い面がある」というのは、ナチスの政策にも福祉はあったと言うのと同じで、そもそもの土台が全く分かっていない頓珍漢な欠伸のようなものと思うべきです
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