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右傾化(「日本会議は中身空っぽ」、:神社が「政治的存在感」を増している根本理由 日本会議の源流を作り改憲運動で中心的役割、世界が警戒する日本の「極右化」) [国内政治]

今日は、右傾化(「日本会議は中身空っぽ」、:神社が「政治的存在感」を増している根本理由 日本会議の源流を作り改憲運動で中心的役割、世界が警戒する日本の「極右化」) を取上げよう。

先ずは、昨年6月6日付け日刊ゲンダイ「「日本会議は中身空っぽ」 異色の著述家・菅野完氏が解明」を紹介しよう(▽は小見出し、Qは聞き手の質問、Aは菅野氏の回答、+は回答内の段落)。
・安倍首相を筆頭に多数の閣僚が関連議連に名を連ねる保守系市民団体「日本会議」。この組織を徹底解明した新書「日本会議の研究」(扶桑社)が飛ぶように売れている。4月末の発売前から重版が決定。今は入手困難の状態が続く“騒ぎ”になっている。しかも、著者は学者でもジャーナリストでもない一介の元サラリーマンだった著述家の菅野完氏だ。
▽日本会議は本来の右翼でも保守でもない
Q:1年ほど前まで会社勤めしながら、扶桑社のウェブサイトで連載したものを書籍化したそうですね。なぜ日本会議に関心を持ったのですか?
A:いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちが現れ、さらには7、8年前くらいから、「朝鮮人を殺せ」と叫ぶヘイトスピーチが各地で繰り広げられるようになりました。変な人たちだと思って調べていくと、彼らのネタ元がいわゆる「保守論壇誌」であることに気づき、そこから日本会議に行き当たった。私は自分のことを思想的に“かなり右寄り”だと思っていますが、彼らの言説はあまりに幼稚だし、レベルが低いと言わざるをえない。
Q:どの辺が幼稚だと。
A: 彼らは平気で資料を無視する。事実より「物語」を重要視する。「国家の誇り」が事実より大事だという。右翼の本来の役割は「国を国家から守る」ことだと思うのです。国とは“邦”であり“故郷”でもある。また、保守という視点で言えば「国家の暴走に掣肘を加える」ことも重要です。しかし、日本会議周辺の人々の意識には、“国家”しかない。その意味では彼らのよって立つところは、本来の右翼でも保守でも何でもない。
+しかも、「憲法改正」「夫婦別姓反対」「従軍慰安婦」など判で押したように同じような主張が目立つ。この異様ともいえるバラツキのなさは何なのかと、彼らの言動を観察しつつ、主張の“出典”を探したら、ほぼ例外なく「正論」「WiLL」「諸君!」などの保守論壇誌でした。寄稿している“識者”の多くが日本会議周辺の人たちでした。
Q:保守論壇誌を読み込むうちに違和感を覚えたそうですね。
A:相撲解説者の舞の海秀平氏がなぜ憲法を語るのか。教育学者の高橋史朗・明星大教授がなぜGHQの占領政策の過去について論じているのか。門外漢の人たちがもっともらしく戦後の歴史や憲法を語る。これが日本会議の特徴です。
▽会員は団塊の愛国オジサンと愛国オバサン
Q:日本会議の関連議連には与野党の国会議員280~300人が所属していると報じられています。
A:日本会議本体の役員名簿には元最高裁長官、東大名誉教授、神社本庁統理など法曹界・学界の要職経験者が名を連ねています。多数の宗教団体も参画しているため、とてつもなく巨大な組織に見えますが、中身は空っぽです。
Q:具体的にはどんな点が。
A:日本会議が唱えている「改憲」「靖国参拝」「愛国教育」などは、非近代的で、思想的にも政治的にも目新しさがまったくありません。組織の中核を担っているのは70年安保の学生運動のときに左翼学生と戦った「右翼学生運動」のメンバーたちで、運動のモチベーションは突き詰めると「反左翼」「反戦後民主主義」に過ぎません。単に「壮大なる反対運動」に過ぎない。だから中身が空っぽなんです。
Q:ものすごい巨大組織というイメージがあります。どんな人たちが参加しているのですか?
A:日本会議には約3万8000人の会員がいますが、その多くは「日教組の教師は追い出せ」と叫んでいるような団塊世代の愛国オジサンや愛国オバサンです。圧力団体としての日本会議は、労働組合や業界団体などのかつての圧力団体と比べて規模は小さく、財界に強力スポンサーがいるわけでもない。この1年で徹底的に資料を集めて調べましたが、日本会議の小ささ、弱さが目についたのが正直な感想です。
▽政治家には信条より確実な「票」が魅力
Q:そんな組織が明らかに政権に影響を与え、実際に安倍首相は改憲に向かって突き進もうとしています。どうしてそんなことが可能なのでしょう?
A:事務局のマネジメント能力の高さが力の源泉なのだと思います。日本会議はこれまでに大規模な集会を何度も日本武道館で開催してきました。例えば去年11月に開催された「今こそ憲法改正を!1万人大会」などは事前に「1万人を集める」と公言し、言葉通りに参加者を動員し、きっちり1万人を集めています。単一の宗教団体のイベントで1万人という数は驚くに値しませんが、日本会議の事務局は霊友会、崇教真光、遺族会など異なる各種教団・団体から複雑な利害関係を調整して正確に参加者を動員する。政治家は改憲うんぬんといった日本会議の思想信条以前に、彼らの緻密な計数管理能力に魅力を感じているのでしょう。
Q:数は少なくとも選挙の「票」が読めるということですね。しかし、同様な“集票マシン”では、農協など多くの団体で高齢化による弱体化が指摘されます。何が違うのでしょう?
A:日本会議も高齢化しています。しかし利権維持や経済的な理由で団結する農協や医師会などと比べ、思想的な理由だけで団結しているので、不況などの世の中の動向に左右されないのが大きな強みなのでしょう。
Q:しかも、市民運動の手法を取り入れている。
A:事務局を取り仕切るのは新興宗教「生長の家」にルーツを持つ民族派学生運動が発展してできた組織です。70年代に入り左翼学生運動が停滞し始めると、民族派学生たちはリベラル陣営の運動手法を模倣しながら取り入れました。署名活動や講演会活動といった「草の根」の運動をコツコツと地道に続けた努力が、2000年代になって結実したといえます。
Q:生長の家の学生運動といえば、去年の安保法制審議で「集団的自衛権は合憲」と主張した憲法学者の百地章・日大教授や、安倍首相の“右翼思想の師匠”と呼ばれる衛藤晟一・首相補佐官も出身者だと指摘されていますね。
A:百地、衛藤の2氏および、明星大の高橋史朗教授などは、日本会議事務総長である椛島有三氏が率いる「日本青年協議会」という生長の家学生運動にルーツを持つ右翼団体の幹部です。メディアは彼らを安倍首相のブレーンとして紹介することがありますが、来歴にまで踏み込んでおきながら、なぜか「生長の家学生運動」には言及しない。
▽弱小派閥と弱小学生運動組織が結束
Q:安倍首相と日本会議がシンクロするのは、幼稚な思考回路が同じだからでしょうか?
A:思想信条というよりも、双方の置かれた特殊な事情が結びつきを強めているのだと思います。安倍首相の出身派閥である清和会は、自民党主流派だった木曜クラブや宏池会などと比べ、利権も票田も少なく、生き残るために宗教組織と結びつくしかなかった。その弱小派閥に、弱小学生運動組織が結びついたのが、今の安倍政権とも言えます。
Q:弱い立場の者同士がくっついた感じですね。
A:はい。しかも安倍首相は閣僚経験がほとんどないまま異例の出世を遂げました。党内基盤が脆弱だった首相にとっては、規模が小さくても堅固な日本会議は頼れる組織だったのでしょう。そしてこの「弱者連合」は、今、ついに「改憲」という結実を迎えようとしています。
Q:ところで、大手メディアでさえほとんど触れようとしてこなかった組織に正面から斬り込んだことで、嫌がらせなどはありませんでしたか?
A:出版元の扶桑社には「日本会議事務総長・椛島有三」名義で、出版の差し止めを求める申し入れ書が届きました。個人的にもウェブ連載中は何度か嫌な思いはありましたが、出版後はピタッとやみました。
・回答者の略歴 ▽すがの・たもつ 1974年、奈良県生まれ。一般企業のサラリーマンとして勤務するかたわら執筆活動を開始。退職後の2015年から主に政治分野の記事を雑誌やオンラインメディアに提供する活動を本格化させる。扶桑社ウェブ系メディア「ハーバー・ビジネス・オンライン」の連載「草の根保守の蠢動」が大反響を呼び、今回書籍化された。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/182670/1

次に、昨年10月9日付け東洋経済オンラインでの千葉大学大学院人文社会科学研究科教授の小林正弥氏へのインタビュー「神社が「政治的存在感」を増している根本理由 日本会議の源流を作り改憲運動で中心的役割」を紹介しよう(▽小見出し、Qは聞き手の質問、Aは小林氏の回答)。
・世俗とは一線を画すと思われている神社が「改憲署名」の活動をし、日本会議では中心的役割を担っているという。なぜか。『神社と政治』を書いた千葉大学大学院人文社会科学研究科教授の小林正弥氏に聞いた。
▽多くの人たちは戦後の神社しか知らない
Q:神社は個人の信仰や習俗にかかわるだけではないのですね。
A:最近は伝統的な信仰が衰退している反面、スピリチュアリティや精神性に関心がある若い人も増えている。パワースポットの観点で神社を参拝するという人も増えてきた。そういう新しい関心にも応えることは大事だろう。多くの人たちは戦後の神社しか知らないが、原始神道の時代から今日まで多様な側面を持ってきたし、時代の変化の中で適応し、生成・発展しているのだ。
+もちろん戦前の国家神道と今の姿は違う。キリスト教では「世界は神が創造する」とされるが、日本や東洋の思想では生成的な発展という考え方がなされ、それを可能にするのが普通の言葉で温故知新、神社界でいえば『古事記』にある言葉の稽古照今だ。 
Q:稽古照今?
A:神社にはもともと宗教性がある。個人としての祈りだけではなく、国家や人々のために祈るという機能が神社神道にはある。それが天皇制のような大きな問題につながっていく。その公共性をしっかり見てほしいと神社界は念願している。単に個人の信仰になってしまうのではなく、公共的な機能を回復したい気持ちが神社界にはある。
Q:氏子が減っている……。
A:人口が減っている中で、地域の神社における氏神への信仰や先祖に対する信仰が薄れつつあって、復活力は弱い。それに対する方策としては都会に出た人にお祭りに帰ってきて協力してもらう。今までの地域の小さな共同体の中だけではなく、外部の協力を得る形も取りたい。よろず相談の機能を復活させ、丁寧な祈願を工夫していく。そういう魅力づけを通じ、宗教性に目覚め、公共性を自覚してもらうという可能性がある。
+国全体を眺め、幾多の社会問題も、モラルや精神性がなくなっているところからきているものが少なくないという認識だ。伝統的な神社にはそれなりの基盤があり、安定性もある。精神性や宗教性の取り戻しに気づいてもらえれば、社会全体の健全な発展にも貢献でき、国民の神道の役割を担える。
Q:国民の神道?
A:戦前は国家神道とされ、戦後は国家と分離するとなった。 戦後の神社の政治運動に影響を与えた人に葦津珍彦(うずひこ)氏がいる。神道の公共性を回復するために国家との結び付きを一定程度回復させようとした。神道政治連盟の結成などを通じ、政治運動を思想的に支えた。
+神社本庁を設立する際には中心的役割を担った。神社にはそれぞれ由緒がある。祭っている神々は一つではなく、考え方も違うところがある。統一はとてもできないので、多様性を認める連合体とし、その中心に伊勢神宮を据えて、その結集体として神社本庁を作った。多様性を尊重するあり方はとても貴重だった。
Q:多様性を尊重したのですね。
A:GHQ(連合国軍総司令部)の下で、国家と切り離されて神社本庁は民間の宗教法人になった。民間が公共的な役割を担い、しかも多様性を持つ──今の時代から見たら「民の公共」を先取りした面がある。葦津氏らは国家と結び付きたいと考え、懸命に公共性を追求したのだが、それは民の公共における時代のフロントランナーとも見ることができる。
▽マナーを守るかぎり誰が入っても、祈ってもいい
+たとえば、われわれは神社にお参りに行くとき自由に境内に入るのは当たり前と思っている。マナーを守っているかぎり誰が入っても、祈ってもいい。その面で公共の祈りの場として、さらには鎮守の森として、支えてきた神社本庁の貢献は大きい。
Q:日本人の「よい生き方」とも重なります。
A:日本の文化を考えると、宗教として神道が古来からあり、生成・発展しながら、今もって生き方や暮らし方に大きな影響を与えている。端的な例が清浄さであり、きれい好きな民族といわれたりする。
Q:その神社が政治とのかかわりで論議されています。
A:国家とのつながりをより回復しようという動きが強まり、神道政治連盟ばかりでなく、一部の人が日本会議の源流を作り、今の改憲運動につながっている。国会の場でも憲法改正が具体的にプロセス入り可能となり、ことさら神社界が果たしている役割に注目が集まった。
Q:現行憲法はもちろん政教分離です。
A:今の憲法は天皇に国事行為しか認めていない。GHQは寛容で、天皇家、皇室としての祭祀は認めた。プライベートな位置づけだ。これに対し、天皇の祭祀は国家や国民のためであるから、元首としての天皇の公的な祭祀として位置づけ、憲法上認め、伊勢神宮など中枢の神社は民間ではない位置づけにしたいという気持ちの人が神社界にはいる。だから改憲が必要だという主張になる。
Q:実際は多様なのですね。
A:考えにいろいろなバリエーションがある。戦後世代には国民主権、民主主義、政教分離は当然として、そこまで変えようとせず、部分的に祭政一致を復活させたい、という気持ちの人も多い。つまり戦後の体制を前提にしたうえで部分的に修正したいと思っている人がそうとういるわけだ。実際は議論がない交ぜなので、戦前回帰を危惧するとの批判は無理もないし、他面で、戦後憲法を受けて、微修正、部分修正で変えていこうという考えの人も少なくない。そこは神社界でも甲乙はっきりとは議論されていない。
▽祈りと巡幸の相互補完的な関係
Q:そこに、天皇の生前退位を含意したメッセージがありました。
A:天皇のメッセージは重いし貴重だ。たとえば、祈りを自分の務めとしてかなり強く言っている。祈りと巡幸は相互補完的な関係にあるといわれている。象徴天皇として国民とともに歩むのが大事だとして、特に困っている人たちのところに自ら出向き勇気づける。そうすることで、自らの祈りも深まるというのだ。
+現地を回れなくなったら自分は退位するというのが主旨。これは国民の神道を体現している。憲法のうえでは祈りは私的なものと位置づけられたが、その中身は公共。私的な公共。神社本庁がやってきた民の公共と同じだ。民の象徴である天皇が私的な公共として祈っている。その祈りは公共的な巡幸によって高められている。この二つの公共性に国民の認識が欲しいとのメッセージだ。国民の神道というテーゼをいちばん体現している。 近代国家にふさわしい公共を考えるには、国民の神道というアプローチを中心にするのがいちばんいい。
http://toyokeizai.net/articles/-/139081

第三に、明治大学准教授の内藤 朝雄氏が4月14日付け現代ビジネスに寄稿した「世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる 森友学園や安倍政権を決して侮るな」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽森友学園問題と日本の右傾化
・日本中、さらに世界中で「森友疑惑」が報じられ、ひとびとの関心を集めている。 それはおおむね次のような疑惑だ。 右翼思想を抱く理事長が運営する学校法人森友学園が、幼稚園児に教育勅語を唱和させている。運動会では、「中国、韓国が、心改め、歴史で嘘を教えないよう、お願いいたします。安倍首相、ガンバレ! 安倍首相、ガンバレ! 安保法制国会通過よかったです!」と連呼させていた。
・学園は「よこしまな在日韓国人・支那人」、「韓国や中華人民共和国人の元不良保護者」などと記した文書を、保護者に配布したりホームページ(HP)で公開したりしていた。「お仕置き部屋」などでの暴行虐待も報告されている。理事長は政権中枢を牛耳る右翼仲間の同志であり、首相夫人や、政治家や、上層部の意を忖度する役人たちを通じてさまざまな便宜をはかってもらっている。
・森友学園は子どもたちを極右思想で教育する小学校をつくることとし、国の土地を極端に安い値段で購入できることになった。首相は自身および夫人の関与を否認し、もし本当であれば辞任すると言った。 不正疑惑が報道されると、かつての仲間たちはトカゲの尻尾切りのような振る舞いをはじめた。裏切られた理事長は、政権中枢の右翼仲間たちに都合の悪いことを暴露しはじめた。このような疑惑のストーリーである(各種報道より)。
・国内では、一つひとつの細かなエピソードをめぐって、芝居見物のようににぎわっている。疑惑関係者は、それが人間ドラマとして消費され、飽きられて終熄する時を待っているはずだ。
・対して、世界のメディアは、もっぱら日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心から森友疑惑を報じている。 というのは、現政権は日本を戦前(特に昭和初期から敗戦まで)の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト(ultra-nationalist)」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ。
・日本の大衆も、現政権がこれ以上強くなることに、ぼんやりと不安を抱きはじめている。なんだか変なことになっている。自分たちの社会は、これからどうなってしまうのだろうか。自分たちはこれからどうなるのだろう。
▽「超タカ派」勢力が動かす日本政治
・ひとびとはそれを成熟した大人としてストレートに意識して考えるのではなく、政治とカネやら、「軍国主義」時代を再現する教育やら、お仕置き部屋の児童虐待やらの、「森友劇場」でもりあがることで不安を表現している。 報道される人間模様は、きわめて戯画的である。籠池夫妻、その息子、「アッキー」と呼ばれる総理夫人、便宜をはかる役人、安倍総理、稲田防衛大臣といったどたばた劇の配役とストーリー。
・「森友劇場」を見物して喜んでいる大衆は、悪ふざけに興じているようにも見える。悪ふざけを通じて、箱庭で遊ぶ子どものようにしか政治に向き合えない大衆なのかもしれない。 わたしたちは、原発事故と現政権成立以降いまここに出現した歴史の折り返し点(いったん通過するともう戻れない)を子どもっぽくやりすごした後、次に来る本物の全体主義によって身ぐるみ剥がされ、地獄に突き落とされるかもしれない。
・「騒ぎすぎだ」という声もある。しかし、森友問題は、わたしたちが目の前にあっても見ようとしなかったことを、日の光に晒すための手がかりになるのではないだろうか。森友問題を入り口にして、現実の危険を直視しよう。
・現在、日本を戦前の状態(特に〈天皇中心の国体〉が暴走した昭和初期から敗戦までの時期)に戻そうとする勢力が、閣僚の大多数、国会議員のほぼ半分を占めている。日本社会は、その意向のままに造りかえられてしまう瀬戸際にあるといってよい。
・次の資料をみてほしい。 「第3次安倍晋三再改造内閣の超タカ派(極右)の大臣たち」(俵義文(子どもと教科書全国ネット21)作成:トップページの左側リストにある当該資料表題をクリック)、あるいは「国会議員いちらんリスト」。 資料を見ると、閣僚のほぼ8割が「超タカ派(極右)」団体(先進諸国の主要メディアはおおむねそのように見ている。筆者もそれに同意する)のメンバーであることがわかる。またそれが国会議員全員の半数に達しようとしている。
・これらの団体は、仲間たちがいくつも掛け持ちしていたり、協力しあったりしているので、ひとつの大きなネットワークと考えることができる。 また、彼らは公明党など他勢力と利害同盟を組んでいる。その意味では、ほぼすべての閣僚と半数の国会議員が、上記資料にいうところの「超タカ派」勢力かそれになびく勢力であるといってよい。 これらの勢力が政権の座にあり、目標達成に向けて着実に歩を進めているのである。
▽どのような戦前を目指しているのか
・彼らがめざすのは、どのような社会か。そのなかで、わたしたちはどのような生活を強いられることになるのか。彼らが人間の精神を根本からつくりかえることに熱心であるとすれば、わたしたちはどのようにつくりかえられてしまうのか。
・一口に戦前といっても、いくつもの時期があり、多種多様な要素が混ざりあっている。今政権を盛り立てている勢力は、そのうちどの面に対しファナティックな情熱を示し、どの面に無関心なのか。このことから、私たちがどのような被害を受けることになりそうかを予測することができる。
・彼らは、カミカゼ特攻隊、散華(さんげ)、英霊といったものを崇高なものとみなし、ファナティックな感動を示す。また、日本国憲法、個人の権利、個人の自由といったものを憎む。また、中国と韓国が日本に「逆らう」ことに常軌を逸した憎悪を示す(中国が超大国になった21世紀に、この上下感覚は滑稽ですらある。そして国防上きわめて危険である)。
・対して、日露戦争で局地的な勝利を得た後、自軍が消耗しきっている事実を認識し、高額の賠償金や領土割譲をあきらめた明治政府の判断をほめたたえる、といったことはしようとしない。それどころか、アメリカと無謀な戦争をしたエリートたちを復権しようとする。
・これらのことから、現在の「ウルトラ・ナショナリスト」勢力が取り戻そうとしている「戦前の美しい日本」なるものは、明治維新以降、さまざまな部分が混ざり合って進む日本近代史のなかで、昭和初期から敗戦までの時期に暴走し、悲惨な結果をもたらした最悪の要素であることがわかる。
・一言でいえば、それは、個を超えた集合的生命として崇拝される〈天皇中心の国体〉なるものである。この共同幻想が世界の八隅を一つの家のように覆う(八紘一宇)ことをめざす、祭政一致の全体主義社会。これが昭和初期から敗戦までの大日本帝国であった。 これはいったい何なのか。
▽二つの国家観を理解する
・二つの国家観(人間のためにつくられたしくみとしての国と、人間を超えた集合的生命としての国=国体)を対比させて考えると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力の行動様式や、そのめざすものを理解しやすくなる。そして、現状を放置すれば、これから日本社会がどのような被害をこうむるかも予想できる。
・第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。  国は水道や電気や医療や交通網のように、ひとびとの生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険な国家メンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線上で危険な業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。 また、国に軍隊があるのも当然である(この観点から、日本が普通の先進諸国なみのリベラル国家になった後で憲法9条を改正すべきだと主張する筆者は、「リベラル・タカ派」と呼ばれることがある)。
・この第一の国家観からすると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力のいう愛国心は、水道管や電線を愛の対象にするような、奇怪なフェテシズムの情熱である。すくなくとも、日本で愛国心というとき、そのような意味で語られることが多い。 そのような愛国心ではなく、苦労して磨き上げた、ひとりひとりの人間のための公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。 国家が愛国心などというフェテシズムを万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。ただし、この国家プライドを新しく「愛国心」と名づけることも可能である。
・それに対し、第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。このような現実感覚を生きるひとびとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
・アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。 また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻子玉を抜かれ、腑抜けにされてしまったような屈辱である。 そして雄々しき大日本帝国は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるいおしろいをぺたぺた塗られて、女にされてしまったと感じる。
▽国体をひかり輝かせること
・第一の国家観は、ひとびとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとうするリアリズム政治のための基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。また軍隊は、この国家観にしっかり基礎づけて保有されなければならない。
・第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
・この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。 クーデター成功後、最弱国日本、最弱明治政府を背負った指導者たちは、ゆっくり変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させるしかけを、当時入手可能な素材からでっちあげるしかなかった。 それが天皇を中心とする集合的生命としての国体(という共同錯覚)である。そしてこの興奮剤は効いた。国家の集合的生命感覚は、天皇を中心とする国体として、ひとびとの魂の底に埋め込まれていった。
・生存のための必要に駆られてこのような興奮剤を使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめりこんではいけない。
・しかし、昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢までもが、緊急用大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。 狂気の興奮剤におかされた指導層は、アメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては国民の生命や安全という本来の目的(第一の国家観)よりも国体護持(第二の国家観)などという幻想の薬物を大切にするありさまであった。国家の指導者として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。
・学者も含め多くの人たちは、昭和初期から敗戦までの日本のありさまを「軍国主義」と呼んできた。軍国主義の社会であれば、軍事的成功を第一の優先事にするはずである。 しかし、戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された。 集合的生命としての国体は、単なる全体への外形的服従の積み重ねから成るものではなく、臣民ひとりひとりが自発的に個人であることをやめ、〈全体において永遠の今になる〉ことの内側から高次の命としてひかり輝く。
・カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、その永遠の今であり、人として生まれた最高の栄誉であり、「本当に生きること」である。それは華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。 このような国体の覚醒剤的な疑似哲学作用は、軍隊の合理的運用すら破壊した。
・太平洋戦争では、みこまれる戦果と自軍の損失を計算すれば無意味であることが明白であっても、散華の輝き自体が目的となった軍事作戦がなされた(これは即身仏のような自殺儀式であって、軍事的な「作戦」とは言えないのかもしれない)。
・毎日新聞記者の栗原俊雄は、このような輝きを後世に残すためと称して、自爆特攻作戦が続けられた例を紹介する(栗原俊雄「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由」)。 また、航空機の援護なしに戦艦大和を沖縄に派遣するのも、国体を輝かせるための集団自殺である。これが抗いがたい空気となったのである。
・もちろん、国体のなかでは「西欧流」の個人主義は徹底否定され、すべての臣民が自発的に集合的生命の一部で「あらねばならぬ」のであるから、すべてが強制である。戦争終結の成り行き次第によっては、一億玉砕というすさまじい「自発的」な散華が、すべての人に強制されたかもしれない。
▽教育勅語はなぜ問題なのか
・「ウルトラ・ナショナリスト」の政治家たちは、なにかと理由をつけて教育勅語を学校教育に導入したがっている。だが、国家大改造に成功する一歩手前とはいえ、今の段階では、まだ露骨な全体主義の本性を出すわけにはいかない。
・だから国会の質疑やテレビ番組などでは、「教育勅語にあるように、親を大切にし、夫婦がなかよく、友だちは信じ合い、法律を守り、互いに誠実に生きるのはよいことではないか」といった理屈で、教育勅語を正当化することが多い。
・それに対し、教育勅語に反対する側は、「一旦緩急(かんきゅう)あれば義勇公に奉じ」と続くのが「軍国主義」につながるからいけない、といった批判を繰りかえす。それでは、この兵士に関する部分だけ削除すればよいのか?
・教育勅語の問題点は、人が人として望ましく生きること全般が、天皇を中心とした国体が生み出したものであり、それと離れては存在しない(「国体の精華にして」「淵源…これに存す」「皇祖皇宗の遺訓にして」とは、そういうことである)、と国家が命令していることだ。よく考えてみれば、これはきわめておぞましい論理である。 もし誰かから、ありとあらゆる望ましく生きることは、「私との関係から生み出されるものでなければならない」と言われたら、あまりの気持ち悪さに胃の内容物を吐瀉してしまうのではないだろうか。これは国体にかぎらず、さまざまな全体主義に共通する特徴である。
・1890年(明治23年)の教育勅語は、大日本帝国が「国体」というキーワードを打ち出した初期の文書である。 その後、昭和初期から敗戦にかけて、政府は『国体の本義』(1937年)と『臣民の道』(1941年)によって全体主義としての国体の本性を分かりやすく、あけっぴろげに露出する。
・この2冊を熟読すれば、閣僚の8割、国会議員の半分弱を占める勢力が、どのような「美しい国のかたち」をめざすかを理解することができる。 いくつか抜粋しよう。
・「我らの行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の一つとして国家に関係ないものはない。」、 「我らの生命は我がものにして我がものにあらずといわねばならない」、 「日常我らが私生活と呼ぶものも、畢竟(ひっきょう)これ臣民の道の実践」、 「一腕の食、一着の衣といえども単なる自己のみのものではなく、また遊ぶひま、眠るまといえども、国を離れた私はなく、すべて国とのつながりにある。かくて我らは私生活のあいだにも天皇に帰一し、国家に奉仕する念をわすれてはならない」(『臣民の道』) 
+「人は孤立せる個人でもなければ、普遍的な世界人でもなく、まさしく具体的な歴史人であり国民である。従って我らにあっては、人倫すなわち人がふみ行うべき道は、抽象的な人道や観念的な規範ではなく、具体的な歴史の上に展開せられる皇国の道である。人たることは日本人たることであり、日本人たることは皇国の道にのっとり臣民の道を行ずることである。(『臣民の道』) 「皇国の道と一体たり得ざる学は、真の学たり得ざるもの」(『臣民の道』)  「祭政一致の我が国体」(『臣民の道』)
+「我が国こそまさしく世界の光明である」(『臣民の道』) 「我が皇位が天壌無窮(てんじょうむきゅう:天地ともにきわまりない)であるという意味は、実に過去も未来も今において一になり、わが国が永遠の生命を有し、無窮に発展することの意である。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根底にはいつも永遠の今が流れている」(『国体の本義』) 
+「我らは、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我らの歴史的生命を今に生かす所以(ゆえん)であり、ここに国民のすべての道徳の根源がある。…絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我ら国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂(いわゆる)自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威(おみいつつ:天皇の威光)に生き、国民としての真生命(真の命、ほんとうの命)を発揚する所以(ゆえん)である」(『国体の本義』)  我らは「忠において生命を得」る。(『国体の本義』) 
・その他、『国体の本義』『臣民の道』では、自由主義、個人主義、平等主義、合理主義、普遍的人道(ヒューマニズム)、夫婦中心の家族、などあらゆる「西洋的」なものを激しい口吻で否定する。立憲主義や三権分立も否定する。 「忠を離れて孝は存せず」として親子関係も国体のものであるとし、そのような「忠孝一本」を日本の道理としている。そして、乃木希典夫妻(子どもが全員戦死した)のように、育てた子を国に捧げることを本当の親子の情愛関係とする。
・「すめろぎにつかえまつれと我を生みし我が垂乳根(たらちね)は尊くありけり」というわけである。また、日々の労働の内容も、なにからなにまで国体への奉仕であるとする。
・これから日本はどのようなかたちであるべきか、天皇を中心とする国体に戻したいか、戦後の自由と民主主義と個の尊厳を守りたいか、決断を迫られる時期がきた。私たちは、『教育勅語』、『国体の本義』、『臣民の道』を熟読した方がよい。
▽日本に蔓延する全体主義
・最後に、日本の学校が全体主義的であり、これが全体主義に抵抗がない大衆を生み出す、強力なインフラストラクチャーになっていることをつけ加えたい。学校の全体主義について知りたい方は、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)を手にとってください。
・もうひとつ、世界各国の腐敗の程度をランキングした以下の資料を参考にされたい。全体主義の国ほど腐敗がひどく、人権を尊重する個人主義自由主義の国ほど腐敗が少ないことが一目瞭然となっている。
+トランスペアレンシー腐敗認識指数(http://www.ti-j.org/CPI2016ranking1.pdf
+トランスペアレンシージャパン(http://www.ti-j.org/
・山本七平は、戦争中に製粉会社におしかけたパン屋の社長が大げさな国家への奉仕の話を延々しているが、それはすべて小麦粉をまわしてほしいというビジネスの要求であったというエピソードを紹介する(山本七平『ある異常体験者の偏見』文藝春秋)。 ビジネスと政治が分かれない祭政一致の社会は、すさまじく腐敗するのである。「森友劇場」の口利きや忖度、国有地格安払い下げに関する疑惑のエピソードをながめながら、このことを思い出した。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51438

『日本会議の事務局は霊友会、崇教真光、遺族会など異なる各種教団・団体から複雑な利害関係を調整して正確に参加者を動員する』、『マネジメント能力の高さが力の源泉だ』、とは驚きだ。菅野完氏の「日本会議の研究」を読んでも、中核的組織は規模は小さいが、粘り強く活動を展開してきたのが、結実したらしいことが理解できる。なお、「生長の家」自体は、1983に政治活動から撤退したようだ。 『弱小派閥と弱小学生運動組織が結束』、とは面白い見方だが、今や与野党の国会議員280~300人が所属するあなどり難い大勢力となったようだ。
小林氏の記事は、神道を理解するため紹介したが、最後の 『近代国家にふさわしい公共を考えるには、国民の神道というアプローチを中心にするのがいちばんいい』、との結論には到底ついてゆけない。
内藤氏が指摘する 『森友問題は、わたしたちが目の前にあっても見ようとしなかったことを、日の光に晒すための手がかりになるのではないだろうか。森友問題を入り口にして、現実の危険を直視しよう』、はその通りだ。教育勅語を補強する 『『国体の本義』と『臣民の道』によって全体主義としての国体の本性を分かりやすく、あけっぴろげに露出』、された姿は本当にとんでもないもので、どうして「美しい国」につながるのか、全く理解できない。 『日本の学校が全体主義的であり、これが全体主義に抵抗がない大衆を生み出す、強力なインフラストラクチャーになっていることをつけ加えたい』、との指摘は、言われてみればその通りだ。朝礼、運動会など儀式も、良し悪しは別としても、その補強材料になっているのかも知れない。
タグ:右傾化 (「日本会議は中身空っぽ」、:神社が「政治的存在感」を増している根本理由 日本会議の源流を作り改憲運動で中心的役割、世界が警戒する日本の「極右化」) 日刊ゲンダイ 「「日本会議は中身空っぽ」 異色の著述家・菅野完氏が解明 日本会議 「日本会議の研究」(扶桑社) 菅野完 私は自分のことを思想的に“かなり右寄り”だと思っていますが、彼らの言説はあまりに幼稚だし、レベルが低いと言わざるをえない 彼らは平気で資料を無視する。事実より「物語」を重要視する。「国家の誇り」が事実より大事だという 右翼の本来の役割は「国を国家から守る」ことだと思うのです。国とは“邦”であり“故郷”でもある。また、保守という視点で言えば「国家の暴走に掣肘を加える」ことも重要です。しかし、日本会議周辺の人々の意識には、“国家”しかない。その意味では彼らのよって立つところは、本来の右翼でも保守でも何でもない 、「憲法改正」「夫婦別姓反対」「従軍慰安婦」など判で押したように同じような主張が目立つ 「正論」「WiLL」「諸君!」などの保守論壇誌 与野党の国会議員280~300人が所属 役員名簿には元最高裁長官、東大名誉教授、神社本庁統理など法曹界・学界の要職経験者が名を連ねています 多数の宗教団体も参画 組織の中核を担っているのは70年安保の学生運動のときに左翼学生と戦った「右翼学生運動」のメンバーたちで、運動のモチベーションは突き詰めると「反左翼」「反戦後民主主義」に過ぎません。単に「壮大なる反対運動」に過ぎない。だから中身が空っぽなんです 約3万8000人の会員 政治家には信条より確実な「票」が魅力 日本会議の事務局は霊友会、崇教真光、遺族会など異なる各種教団・団体から複雑な利害関係を調整して正確に参加者を動員する 事務局を取り仕切るのは新興宗教「生長の家」にルーツを持つ民族派学生運動が発展してできた組織 署名活動や講演会活動といった「草の根」の運動をコツコツと地道に続けた努力が、2000年代になって結実 ばれる衛藤晟一・首相補佐官 百地章・日大教授 日本会議事務総長である椛島有三 日本青年協議会 弱小派閥と弱小学生運動組織が結束 東洋経済オンライン 小林正弥 神社が「政治的存在感」を増している根本理由 日本会議の源流を作り改憲運動で中心的役割 神社が「改憲署名」の活動をし、日本会議では中心的役割 神道政治連盟 天皇の祭祀は国家や国民のためであるから、元首としての天皇の公的な祭祀として位置づけ、憲法上認め、伊勢神宮など中枢の神社は民間ではない位置づけにしたい 祈りと巡幸の相互補完的な関係 内藤 朝雄 現代ビジネス 世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる 森友学園や安倍政権を決して侮るな 森友学園問題と日本の右傾化 、世界のメディアは、もっぱら日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心から森友疑惑を報じている。 というのは、現政権は日本を戦前(特に昭和初期から敗戦まで)の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト(ultra-nationalist)」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ 「超タカ派」勢力が動かす日本政治 原発事故と現政権成立以降いまここに出現した歴史の折り返し点(いったん通過するともう戻れない)を子どもっぽくやりすごした後、次に来る本物の全体主義によって身ぐるみ剥がされ、地獄に突き落とされるかもしれない 森友問題を入り口にして、現実の危険を直視しよう。 閣僚のほぼ8割が「超タカ派(極右)」団体 中国と韓国が日本に「逆らう」ことに常軌を逸した憎悪を示す カミカゼ特攻隊、散華(さんげ)、英霊といったものを崇高なものとみなし、ファナティックな感動を示す 現在の「ウルトラ・ナショナリスト」勢力が取り戻そうとしている「戦前の美しい日本」なるものは、明治維新以降、さまざまな部分が混ざり合って進む日本近代史のなかで、昭和初期から敗戦までの時期に暴走し、悲惨な結果をもたらした最悪の要素であることがわかる 個を超えた集合的生命として崇拝される〈天皇中心の国体〉なるものである この共同幻想が世界の八隅を一つの家のように覆う(八紘一宇)ことをめざす、祭政一致の全体主義社会 二つの国家観 第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える 第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる 第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤 必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない 昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった 戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された 軍隊の合理的運用すら破壊 教育勅語はなぜ問題なのか 国体の本義 臣民の道 美しい国のかたち 日本の学校が全体主義的であり、これが全体主義に抵抗がない大衆を生み出す、強力なインフラストラクチャーになっている
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