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安倍内閣の問題閣僚等(その3)(小田嶋氏の続編) [国内政治]

安倍内閣の問題閣僚等については、4月26日に山本地方創生相発言で取上げたが、今日は今村雅弘復興相発言について、(その3)(小田嶋氏の続編) である。

コラムニストの小田嶋隆氏が4月28日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「忖度と揚げ足取りで日本は回る」を紹介しよう。
・今村雅弘復興相が辞任した。 この4月の25日に、東日本大震災について「東北でよかった」などと発言したことの責任を取った形だ。後任には衆議院の東日本大震災復興特別委員長で、環境副大臣などを務めた自民党の吉野正芳氏が指名されている。 当然の判断だと思う。 ただ、辞任の経緯には、釈然としないものを感じている。 以下、説明する。
・辞任の直接のきっかけとなった25日の発言が、無神経かつ粗雑な言葉だったことは間違いない。多くの人が既に指摘している通りだ。 とはいえ、大臣を擁護する意味で言うのではないが、今村氏の発言の真意は、 「地震が東北で起こったことはめでたいことだった」 「東北が地震被害でめちゃめちゃになったことは歓迎すべき事態である」 というところにはない。
・彼が本当に言いたかったのは 「首都圏で同じ規模の地震が起こったらもっとひどい被害が出る」 「われわれは東北での被害を教訓として、いずれやってくるであろう大都市の地震に備えなければならない」 ということだったはずだ。 講演の全文を読めば、今村氏の真意が東北の地震被害を寿ぐところにはないということは誰にでもわかる。
・とすれば、今回の不適切発言は、前回の 「(自主避難は)本人の責任だ」 「訴訟でもなんでも起こせば良い」 という暴言の悪辣さに比べれば、ずっと罪は軽いのではなかろうか。 少なくとも私自身はそう思っている。 もっとも、既に1枚イエローカードを貰っている状況下で、失言に失言を重ねた結果が今回の辞任であったことを考慮すれば、レッドカードが出たことそのものは当然の帰結だ。私は、そのこと自体に不満を述べているのではない。
・私が納得できずにいるのは、むしろ、 「前回の失言(および記者会見の一方的な中断という暴挙、ならびに東電株を8000株も所有していたという、そもそもの前提の部分にあった利益相反の不適格さ)の折に、すっぱりと辞任していなかったこと」 だと言って良い。 私の目には、不適格な大臣を任命権者のメンツのために延命していたことが、今回のみっともない辞任劇を招いたように見えるのだ。
・では、どうして前回の暴言がセーフで、今回の言葉足らずの失言がアウトと判断されたのだろうか。 もちろん、大前提として累犯ということはある。 いくらなんでもこんな頻度で暴言を繰り返していたら、つながるクビもつながらない。 当然だ。
・とはいえ、起こった事実に即して事態を見直してみると、前回の暴言がセーフだったのは、記者会見の席で発された言葉だったからで、今回の失言が即座にアウトと判断されたのは、首相が出席する派閥のパーティーの中で繰り出された言葉であったからであるように見える。 要するに、今村氏は、被災地の人々の感情を踏みにじったことよりも、むしろ、首相の顔をツブした罪によって更迭されたのである。
・真意を読み取れない人たちの反論がやってきそうなので、もう一度補足しておくが、私は、「東北で良かった」発言を擁護したくてこんな話をしているのではない。 真意がどうであれ、ああいう言葉の使いかたしかできなかった時点で政治家としては失格だし、まして到底大臣の重責を担える人間ではないことははっきりしている。
・ただ、問題はそこではない。私が強調したいのは 「被災者の感情を踏みにじる発言はセーフでも、首相の体面を損なう発言はアウト」 であるような、現政権の任免の基準が、既に独裁国家の恐怖人事の水準に到達しているということだ。 こんな基準で人事権を振り回されたのでは、党内は萎縮せざるを得ないではないか。
・もうひとつ気になることがある。 今村氏の更迭を受けた二階俊博自民党幹事長の発言だ。 二階氏は、「人の頭をたたいて、血を出したっていう話じゃない。言葉の誤解があった場合、いちいち首を取るまで張り切っていかなくてもいいんじゃないか」 と言っている。
・「人の頭をたたいて、血を出した」とは、これまた恐ろしく無神経なもののたとえで、もしかしたら、今村前大臣の言葉の使い方の粗雑さは、所属派閥の領袖である二階さんゆずりの芸風なんではなかろうかとすら思えるのだが、そのことはとりあえず措く。
・ここでは、幹事長の事実誤認を指摘しておきたい。 幹事長は、今村大臣が「首をとられた」のは、誰かが「張り切った」からだというふうに事態を分析しておられる。 とすると、その誰かとは誰だろうか。 首相だろうか? まさか。 とすると、マスコミだろうか? おそらくそう思っているのだろう。
・というのも、「人の頭を……」のすぐ後に、二階さんはこう言っているからだ。 《政治家の話をマスコミが余すところなく記録をとって、一行悪いところがあったら『すぐ首を取れ』と。何ちゅうことか。それの方(マスコミ)の首、取った方がいいぐらい。そんな人は初めから排除して、入れないようにしなきゃダメ》(こちら)
・実にバカな発言だ。 個人的には、私は、今村大臣の25日の不用意な言葉よりも、その翌日に二階幹事長が言ってのけた、この明らかな報道威圧発言の方がはるかに悪質だと思っている。 なにしろ、政権与党の幹事長が、 「マスコミの首を取った方が良い」 「そんな人ははじめから排除して入れないようにしなきゃダメだ」 と言ったのである。これが報道の自由への圧力でなくて何だというのだろうか。
・ところが、この発言を、「クビを取った方が良い」「排除しなきゃダメだ」と言われた当の相手であるマスコミが、たいして問題にしていない。 というよりも、言われっぱなしで黙り込んでいる。 軽量の復興大臣の言葉の言い間違いは揚げ足を取って辞任に追い込むくせに、幹事長の恫喝発言は見てみぬふりで済まそうというのだろうか。
・いったいどこまで腰抜けなんだろうか。 二階幹事長が、自分の派閥の子分にあたる大臣の辞任劇に不満を抱いた気持ちはわからないでもない。 彼の目から見れば、今村大臣はマスコミによる「揚げ足取り」の犠牲者に見えたのだろう。 しかし、だからといって、特定の記者を取材の現場から締め出すことを幹事長という立場の人間がメディアに向けて明言して良いはずがない。
・この発言は、その「真意」からすれば、今村大臣の失言よりも数層倍凶悪な意図をはらんでいる。 なのに、メディアは問題にしない。 なぜだろうか。 突飛な思いつきだと言われるだろうが、私は、先日来話題になっている官僚の「忖度」と、今回の辞任劇の陰の主題に見える「揚げ足取り」は、実は、同じひとつの現象の別の局面に過ぎないのではなかろうかと思いはじめている。
・別の言い方をすれば、「忖度」と「揚げ足取り」は、一対の相互補完的なしぐさなのであって、役人が「忖度」を仕事の中心にしていることと、マスコミが「揚げ足取り」を政治報道の柱に据えていることは、実は同じことであるような気がするのだ。
・わが国の国語教育の現場では、表現力を磨くことや、説明能力を育むことよりも、とにかく読解力を高めることばかりが求められている。 この傾向は、実は、就活戦線にも影響していて、新卒の学生たちは、自己を表現することそのものよりも、「場の空気を読む」タイプの受け身のコミュ力を期待されている。で、就活生たちは、無慈悲な産業社会の要求に応えるべく、今日も喪服みたいな格好で焼香に似た就職活動を続行している。
・これらのことは、うちの国の職業社会が、「魚心あれば水心」 「以心伝心」 「一を聞いて十を知る」 「阿吽の呼吸」 「ツーと言えばカー」 といった感じの、ほとんどテレパシーに近いイワシの群れの群泳みたいな動作原理で動いているからでもある。 われわれは、言語として明示されない空気みたいなもので意思疎通をはかっている。
・だからこそ、不用意な言葉を使った人間は罰を受けねばならない。 つまり、むき出しの言葉を使う人間は、コミュニケーション能力の低い人間で、本当の達人は言葉なんか使わないでも自分の意思を伝えることができるみたいな、「不射之射」じみた謎のコミュニケーション信仰がわれわれを害しているのである。
・現代の日本でとりわけコミュニケーション能力が重視される傾向は、われわれが民族的にも文化的にも言語環境の上でも、極めて同質性の高い社会を形成していることと、もうひとつは、近年、産業構造が高度化した結果、ほとんどすべての被雇用者の業務が、社内外で「人間」を相手にする、サービス業に近い要素を持つ仕事にシフトしていることに関連している。 われわれは、コミュ力の低い人間を冷遇せざるを得ない社会で暮らしている。
・21世紀の日本人は、一方ではお客様や上司の隠された意図を忖度することを求められ、他方では、モンスタークレーマーやパワハラ上司に揚げ足を取られないように身構えなくてはならないわけで、ということは、言語運用に関して異様なばかりに慎重に構えざるを得ない。 かくして、われわれは、日本語という「ニュアンス豊かな」というよりも、「場面によってどうにでも響く曖昧な」言語の曖昧さの中に責任や権限を融解させる気持ちの悪い社会を完成させるに至ったわけだ。
・念のために断っておく。 このお話は、私がいまこの原稿を書きながら思いついた仮説に過ぎない。 なので、アタマから本気にしてくれなくてもかまわない。 ただ、森友学園をめぐる一連の答弁や、今村大臣の度重なる失言に関するご都合主義の報道を眺めながら、私がこの3カ月ほどの間、あれやこれやで感じているのは、この国の社会が、結局は、そのほとんどがトカゲの尻尾でできているということで、だからこそ、その誰がトカゲの頭で、誰がトカゲの尻尾なのかを決するために「言葉」が利用されているのではなかろうかという疑いを捨てることができないのだ。
・どういうことなのかというと、私は、21世紀の日本で「忖度」や「揚げ足取り」が横行しているのは、われわれの社会が「言葉」を軽んじているからだと思いはじめている、ということだ。 言葉が言葉としての本来の意味を喪失しているからこそ、われわれは、その「真意」を「忖度」して職務権限の遂行に協力したり、その「揚げ足を取る」ことで責任を追及せねばならなくなっている。
・言葉は、固有の意味を持っている。 普通はそういうことになっている。 ところが、うちの国の組織の中では、言葉はしかるべき「文脈」に照らし合わせないと意味を発揮することができない。 だからこそ、現場の人間は、「言葉」でしくじる。 というのも、「言葉」は「責任」を伴っているからで、その扱いを誤った人間は、当然のことながら、「言葉」に殉じなければならないからだ。
・一方、権力者は、直接には「言葉」を発しない。 なぜかといえば、腐敗した社会の権力者は「権限」は行使しても「責任」は取らないからで、そのためには、「言葉」を介さない暗黙の示唆に徹することが一番安全だからだ。 彼らは、目配せ(党内には「二階から目配せ」ということわざがあったのだそうですよ)だけで指示を完了することができる。
・あとは、現場の人間が、その目配せや腹芸や口裏、あるいは鼻薬を「忖度」して、実質的な「指示」に翻訳する。 と、作業の責任は、どこに求められるだろうか。 目配せをしたボスだろうか? 違う。 忖度システムの中では、何らかの不都合が生じた場合、ボスの目配せを「忖度」して「指示」に翻訳した現場の人間が責任を負うことになっている。
・一方、「揚げ足取り」が横行する報道の現場では、「真意」の凶悪さより、「言語運用の稚拙さ」の方がより大きな記事スペースを獲得し、大きな罪として断罪されることになっている。 なんとばかばかしい話ではないか。 とはいえ、この私たちのばかばかしい社会は、われわれが言葉を軽んじた結果として生じているものでもある。
・それがいやだというのなら、この不愉快な世の中を少しでも改善するべく、われわれ自身が、言葉に対して誠実に向かう努力を開始せねばならない。 で、提案だが、言葉の復権のために、まずコラムニストを優遇するところからはじめるというのはどうだろうか。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/042700092/?P=1

小田嶋氏が指摘している 『前回の暴言がセーフだったのは、記者会見の席で発された言葉だったからで、今回の失言が即座にアウトと判断されたのは、首相が出席する派閥のパーティーの中で繰り出された言葉であったからであるように見える。要するに、今村氏は、被災地の人々の感情を踏みにじったことよりも、むしろ、首相の顔をツブした罪によって更迭されたのである』、 『「被災者の感情を踏みにじる発言はセーフでも、首相の体面を損なう発言はアウト」 であるような、現政権の任免の基準が、既に独裁国家の恐怖人事の水準に到達しているということだ』 というのは、なるほどそういう見方もあったのか、と小田嶋氏の「読み」の深さに改めて感服した。 さらに、『個人的には、私は、今村大臣の25日の不用意な言葉よりも、その翌日に二階幹事長が言ってのけた、この明らかな報道威圧発言の方がはるかに悪質だと思っている。 なにしろ、政権与党の幹事長が、 「マスコミの首を取った方が良い」 「そんな人ははじめから排除して入れないようにしなきゃダメだ」 と言ったのである。これが報道の自由への圧力でなくて何だというのだろうか』、 『軽量の復興大臣の言葉の言い間違いは揚げ足を取って辞任に追い込むくせに、幹事長の恫喝発言は見てみぬふりで済まそうというのだろうか。いったいどこまで腰抜けなんだろうか』、などはその通りだ。 『21世紀の日本で「忖度」や「揚げ足取り」が横行しているのは、われわれの社会が「言葉」を軽んじているからだと思いはじめている、ということだ。 言葉が言葉としての本来の意味を喪失しているからこそ、われわれは、その「真意」を「忖度」して職務権限の遂行に協力したり、その「揚げ足を取る」ことで責任を追及せねばならなくなっている』、との指摘は、あとひとつピンとこないが、確かにそういう見方も成立すると気付かされた。いずれにしろ、二階幹事長の報道威圧発言をほぼ無視したマスコミのだらしなさには、改めて失望した。
タグ:小田嶋隆 安倍内閣 日経ビジネスオンライン 今村雅弘復興相 問題閣僚等 (その3)(小田嶋氏の続編) 忖度と揚げ足取りで日本は回る 今回の不適切発言は、前回の 「(自主避難は)本人の責任だ」 「訴訟でもなんでも起こせば良い」 という暴言の悪辣さに比べれば、ずっと罪は軽いのではなかろうか 不適格な大臣を任命権者のメンツのために延命していたことが、今回のみっともない辞任劇を招いたように見えるのだ 前回の暴言がセーフだったのは、記者会見の席で発された言葉だったからで、今回の失言が即座にアウトと判断されたのは、首相が出席する派閥のパーティーの中で繰り出された言葉であったからであるように見える 要するに、今村氏は、被災地の人々の感情を踏みにじったことよりも、むしろ、首相の顔をツブした罪によって更迭されたのである 「被災者の感情を踏みにじる発言はセーフでも、首相の体面を損なう発言はアウト」 であるような、現政権の任免の基準が、既に独裁国家の恐怖人事の水準に到達しているということだ 二階俊博自民党幹事長の発言 明らかな報道威圧発言 政権与党の幹事長が、 「マスコミの首を取った方が良い」 「そんな人ははじめから排除して入れないようにしなきゃダメだ」 と言ったのである。これが報道の自由への圧力でなくて何だというのだろうか 当の相手であるマスコミが、たいして問題にしていない。 というよりも、言われっぱなしで黙り込んでいる 軽量の復興大臣の言葉の言い間違いは揚げ足を取って辞任に追い込むくせに、幹事長の恫喝発言は見てみぬふりで済まそうというのだろうか。 いったいどこまで腰抜けなんだろうか 、「忖度」と「揚げ足取り」は、一対の相互補完的なしぐさなのであって、役人が「忖度」を仕事の中心にしていることと、マスコミが「揚げ足取り」を政治報道の柱に据えていることは、実は同じことであるような気がするのだ むき出しの言葉を使う人間は、コミュニケーション能力の低い人間で、本当の達人は言葉なんか使わないでも自分の意思を伝えることができるみたいな、「不射之射」じみた謎のコミュニケーション信仰がわれわれを害しているのである 21世紀の日本で「忖度」や「揚げ足取り」が横行しているのは、われわれの社会が「言葉」を軽んじているからだと思いはじめている、ということだ。 言葉が言葉としての本来の意味を喪失しているからこそ、われわれは、その「真意」を「忖度」して職務権限の遂行に協力したり、その「揚げ足を取る」ことで責任を追及せねばならなくなっている
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