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大学(その2)(日本の大学をぶっ壊した政官財主導の「悪しきガバナンス改革」)  [国内政治]

昨日に続いて、大学(その2)(日本の大学をぶっ壊した政官財主導の「悪しきガバナンス改革」) を取上げよう。

先ずは、明治学院大学社会学部教授の石原 俊氏が5月11日付け現代ビジネスに寄稿した「政官財の愚かな圧力で、大学は想像以上にヤバいことになっている なんのための大学か【前編】」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽文系と教員養成系は廃止を指示
・「学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています」 2014年5月の経済協力開発機構(OECD)閣僚理事会における、安倍晋三首相の発言だ。
・続いて同年10月、文部科学省の有識者会議メンバーの一人が、「グローバル経済圏」に対応する「きわめて高度なプロフェッショナル人材」を養成できるごく一部の大学・学部のみを残し、それ以外は「ローカル経済圏」に対応する“職業訓練校”に改変すべき、と提言した。 多くの大学のカリキュラムから、学術専門領域の教育研究だけでなく、教養教育をも駆逐し、特に文系学部に関しては全廃すべきというのである。
・翌15年3月、文科省は地方国立大学の教育関連学部に設置されていた、教員免許取得以外の人文社会科学系コースを全廃する方針を正式決定。さらに同年6月、下村博文文科大臣(当時)が、全国の国立大学の文系と教員養成系の学部・大学院について、「組織の廃止や社会的要請の高い領域への転換」を検討するよう正式に通知した。
▽経費をポケットマネーで埋め合わせ
・マスコミや世論の批判もあって、文科省は同年9月、「人文社会科学系などの特定の学問分野を軽視したり、すぐに役立つ実学のみを重視していたりはしない」というコメントを出した。 しかし、時すでに遅し。大学運営に直結する交付金の削減に怯えた、国立大学の大多数は、すでに文系の縮小方針を決定してしまっていた。
・政府・財務省・文科省は、2004年の国立大学法人化以降、大学への通常の交付金を年1%ずつカットし、各大学が作成する応募書類を審査して支給/不支給が決定される、競争的な補助金にふり替える政策を進めてきた。 その結果、国立大学ではこの10年間、教職員の非正規雇用化が劇的に進んだ。また、任期の定めのない専任教員も、補助金を獲得するための書類作成や会議、補助金プロジェクトのマネジメントなどに膨大な時間と労力を費やすよう求められ、教育・研究そのものにあてるべき時間を奪われてきた。
・その影響は、明らかな数字となって表れてきた。この10年間、先進国のなかで日本だけ、研究論文の総数がはっきりと減少したのである。
・いまや国立大学の文系や基礎科学系の学部では、退職した教員の補充ができないばかりか、図書・雑誌購入費や教員研究費、そしてゼミや実習のための最低限の教育経費さえ、削減を余儀なくされている。 学生を校外実習に引率するための出張費や、ゼミで学生に読ませるための論文のコピー代を、指導教員がポケットマネーで補填するといった、信じがたい事態があちこちで起こっているのだ。
▽私立大学にも火の手が
・2017年に入ると、政府は私立大学のリストラにも本格的に動き出した。 政府の経済財政諮問会議は4月、安倍首相の指示を受け、少子化のあおりで経営状態が悪化した小規模な私立大学を、国立大学などの傘下に吸収合併させるか、大学経営から撤退させるためのスキームを整備するよう提言した。 さらに、同会議の財界出身メンバーは、私学助成補助金の支給について、教職員数や学生数に応じたこれまでの算出基準を改め、就職率が高い学校を優先するなど「大胆な傾斜配分」へと転換すべきだと主張した。
・これまで研究者ら専門家による定期的な審査にゆだねてきた私立大学の教育・研究内容の評価について、政府・財界主導の関与・介入を強める方針を打ち出したわけだ。 いま大学は、政官財界から激しい“改革”圧力を受けている。
・政府は21世紀に入ると、財界の強い要請を受けて知的財産基本法を制定し、大学における研究活動・教育活動を、特許の取得など収益性の高い「付加価値の創出」にふり向けること、あるいは政財界の意に沿う「人材育成」にふり向けることを、国家戦略として明示している。
・ここまで述べてきたような大学をめぐる昨今の激しい動きは、政官財界がそうした国家戦略に沿った「改革」を、各大学に迫ってきた結果なのである。
▽学長や理事長の独裁が始まった
・そして、そうしたプロセスの“総仕上げ”と言えるのが、憲法学者たちから強い違憲性を指摘されながらも強行された、学校教育法と国立大学法人法の改定だった。 2015年4月に導入された新法によって、大学教員の採用・昇進に関する同僚教員集団(教授会)の専門的審査の権限ばかりか、大学教員が教育・研究内容を自ら決定する権利さえも、学長や執行部の判断で剥奪できるようになってしまった。
・実際、一分野の専門家にすぎない学長が、学内の全教員の採用や昇進を独裁的に差配するようになった大学や、学長や執行部が学科・専攻のリストラを強行し、一部の教育研究分野を一方的に廃止してしまうような大学が、国公立を中心に出てきている。
・中〜小規模な私立大学では、法改定に便乗した内規の変更によって、研究者出身ではない理事長が独裁的な執行権を掌握し、教員を別の学部・学科に一方的に配置転換したり、教員にまったく専門外の分野を教えるよう強制したりする事例が頻発している。 もはやこの国では、憲法が保障する「学問の自由」の最低ラインさえ守られない大学が続出しているのである。
▽大学生の自由と教養が壊滅する
・これから、日本の大学で何が起ころうとしているのだろうか。 今後、日本の政官財界の少なくとも一部は、大幅に強められた学長や執行部の権限を利用して、国立大学の理系分野の人事・予算・カリキュラムを、これまで以上に収益性優先の先端技術開発にふり向けようとするだろう。そして、旧帝大などを除く国立大学の文系部門や基礎科学部門の統廃合を進めようとするだろう。
・また、文系学部のシェアが圧倒的に高い私立大学では、政財界出身者が多数を占める理事会と、その意を受けた学長が、哲学・思想研究、歴史・地理研究、文学・文化研究といった人文学系の教育研究領域をさらに削減し、それを“英語教育”や表層的な“職業教育”にふり向けようとするだろう。
・こうした未来は教員・研究者にとってもちろん大きな問題だが、それ以上に深刻なのは、この国の大学生の自由と教養に壊滅的打撃を与えかねないことだ。 いまの日本の大学生たちは、20世紀では考えられなかったくらいに、自由な時間を奪われている。就職活動は長期化し、低学年から企業のインターンに参加しないと就職が不利になるのではないかというプレッシャーもある。親の経済力が落ち込んだため、アルバイトで学費や生活費を稼ぐ時間も長くなった。
・言ってみれば、いまの大学生は、入学当初からつねに労働者であることを意識させられ続ける“就職予備軍”だ。 ここで、文系・基礎科学系や教養課程のリストラ、大学の“就職予備校”化がさらに進むなら、彼ら彼女らが自由に学び、考え、活動する余地はほとんどなくなってしまう。
▽「文系学部を職業訓練校に」は愚策
・筆者は、医療系や一部先端技術系のように、カリキュラムが専門職に直結する分野で行われてきた、大学での職業訓練の実績を否定したいわけではない。 だが、大学の文系学部を職業訓練校に編成替えするなどという発想については、誰にも益を生まない愚策と言うほかない。どうしても職業訓練を拡充したいのであれば、既存の私立専門学校に予算を投入し、教員の待遇改善や教育の質向上をはかるほうが、はるかに有効だろう。
・しかし、流れは止まらない。 政府は今年4月、新しい“専門職大学” “専門職短期大学”の創設のための学校教育法改定案を、国会に提出した。その柱は、卒業単位の3~4割を企業などでの実習にあてるというものだ。 そのような“大学”のあり方は、企業の社内教育をアウトソースし、学生に学費を払わせて企業インターンさせることと、はたして何が違うのだろうか。ここ数年の政府の動きを見ていると、このスキームが従来型の大学に押しつけられる日も、そう遠くないような気がしてくる。
▽20世紀型大学モデルの終焉
・それでは、専門職への就職に直結する一部分野以外の大学教育は、いま何をすべきなのだろうか。 筆者は、この国で大学生の自由と教養が壊滅してしまう前に、いまこそ新しいリベラルアーツを構築することが急務だと考えている。 近代の大学は長らく、将来ホワイトカラー労働者やエンジニアになる若者たちに学士号を与える役割を果たしていれば、政府や企業社会からの相対的な独立を保障されてきた。しかしこの大学モデルは、20世紀とともに終焉を迎えた。
・20世紀の大学における教養教育=リベラルアーツは、学生に人文社会科学と自然科学の幅広い教養を身につけさせることで、社会的・政治的に自立した市民を育成する目的を掲げていた。 日本の大学でそうした教養教育が成果をあげてきたのかについては評価が分かれるが、若者に広範な教養教育=リベラルアーツと一定の専門教育を施すことが、大学の主な役割だとされていた。 たしかに、そうした20世紀型の教養教育は、すでに役割を終えた。 だが、大学生たちが卒業後、グローバリズムと国家主義の嵐が吹き荒れる世界に否応なく投げ入れられるいま、“自由であるための技法”=リベラルアーツは、20世紀以上に重要になっている。
▽異様に抑圧の強いこの国で
・新しいリベラルアーツは、グローバリゼーションがますます進む社会のなかで、学生たちが自らの歴史的・空間的・文化的な立ち位置を批判的にとらえ直し、バックグラウンドが異なる人びととともに生きていけるような、知識と思考力・想像力を身につけるための教育となるだろう。 
・日本は先進国のなかでも、社会のなかでの自由や自治が異様なほど抑圧されている国だ。国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」による報道の自由度ランキング(2017年)で日本は72位にまで落ち込むなど、著名な各種国際調査が、日本のリベラル・デモクラシーの現状に警鐘を鳴らしている。 そんなこの国で、大学はこれだけ腐っても依然として、“労働者”や“国民”としての役割から一定の距離をとって、思考や行動の自由をはぐくむことができる数少ない場のひとつである。
・そうした場において、“自由であるための技法”=リベラルアーツを模索する大学生たちの手助けをすることが、大学(教員)の重要な役割なのではないだろうか。
(追記) 筆者のゼミナールに集まってくる学生たちのほとんどは、学部生としてはそれなりに厚い社会調査にもとづく論文を執筆し、卒業していく。そこにあるのは、冒頭の安倍首相の演説にあるような「もっと実践的な職業教育」といった「ニーズ」とは真逆の、限られた自由な時間のなかで、自由な思考のもとに「学術研究を深める」ことを模索する学生たちの知性と情動にほかならない。
・筆者が勤務する私立大学の社会学科は、専門職の養成機関ではない。少数の例外を除いてプロの研究者を目指す学生もいない。だが、彼ら彼女らは程度の差こそあれ、大学に進むことのできた自らの特権性を自覚しつつ、思考し、学問をすることの自由を獲得するために大学に出てきている。
・社会・歴史・文化・自然を批判的に捉え返し、他者とともに生きるセンスを高めてもらうこと――そうした“自由であるための技法“=リベラルアーツこそ、大学生たちが将来、社会や組織の主流から置き去りにされ、排除されたときに、個として思考し、他者とともに行動しながら、生き抜く力につながると私は信じている。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51675

上記記事の続き、5月12日付け現代ビジネス「日本の大学をぶっ壊した、政官財主導の「悪しきガバナンス改革」 なんのための大学か【後編】」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・政府が大学のあり方への関与を深めている。大学の法人化で教職員が非公務員化し、天下りする文科省OBが増えた。政官財の意向を受けて選ばれた学長や執行部が主導権を握り、教育研究の内容や人事を独断で決め、教員とのトラブルになるケースが相次いでいる。この「トラブル」には、明らかに不当な理由にもとづく懲戒解雇や停職が数多く含まれ、裁判に至るケースも増えているという(→【前編】「政官財の愚かな圧力で、大学は想像以上にヤバいことになっている」はこちらから)。
・年始早々に世間をにぎわせた、文部科学省の組織的な天下り斡旋の報道は、記憶に新しいだろう。調査の結果、事務次官経験者8名を含め、37名が処分(うち懲戒相当16名)を受けた。  大量処分の発端となった、元高等教育局長の早稲田大学教授への天下りについては、以下のことがわかっている(ホームページ等による)。
 (1)元局長側が文科省人事課を通じて履歴書を早大側に送り、大学の法人会議で採用が決まった
 (2)元局長の大学での所属先は、「大学改革推進」を目的とする法人直轄の「大学教育総合研究センター」だった 
 (3)大学での主な職務のひとつは「文部科学省等の各種事業関係に関する連絡調整等への関与(大学への助言)を行う」ことだった
・つまり、元局長は、文科省との連絡調整役を果たすことを期待され、総長らによって直接採用された。同僚教員で構成される人事委員会の専門的審査と教授会の議決を経て、総長が任命するという、通常の教員選考のプロセスを経なかったわけだ。
▽大学法人化でむしろ天下りが増えた
・監督官庁である文科省から大学への天下りは、今回処分対象にならなかった事例を含めて膨大な件数にのぼる。国立大学では、教職員が非公務員化された2004年の法人化以降、かえって天下りが増加した。  政府・財務省から予算緊縮を求められた文科省は、国立大学法人の運営を支える交付金を年度ごとに1%ずつカットし、競争的な補助金(=各大学が応募書類を作成し、審査を経て支給/不支給が決定されるもの)にふり替えていった。加えて、6年単位の中期目標・計画を設定させ、膨大な実施状況報告を求めるようになった。
・そうした国家管理が強まるなか、幹部事務職員や学長・副学長・理事、さらには教員ポストの一部までもが、文科省OBによって占められるようになっていった。 国立大学と同じく競争的な補助金の獲得を目指し、文科省との関係安定化を望む多くの私立大学でも、同じような事態が進行した。
・こうした大学の国家統制強化と文科省による大学の省益化と連動して、教育・研究の場に大きな弊害が生まれてきている。 たとえば、明確なハラスメントや故意の研究不正行為とはとてもいえない教育上・研究上・校務上のケアレスミスや“でっちあげ” によって、大学教員が懲戒解雇や停職などの重い処分を受ける事例が頻発している。
▽無理筋の懲戒解雇や停職が横行
・不当処分の事例は枚挙にいとまがない。 宮崎大学では、他大学に転出した教員が学生へのハラスメントをでっち上げられ、退職金不支給処分を受けた。「でっち上げ」としたのは、福岡高裁がその後、「ハラスメント行為をした証拠は何もない」と結論づけたからだ。裁判資料を読むと、大学執行部がいかに強引に処分を進めようとしたかが見えてくる。
・福岡教育大学や北海道教育大学では、従来であればせいぜい厳重注意か戒告程度であった「微罪」によって、教員が停職などの過重懲戒を受けている。両大学は、文科省が推奨する学長選出時の教職員投票の廃止と、学長へのあらゆる権限の集中を、他大学に先がけて進めたことで知られている。
・広島大学や岡山大学では、同僚教員の研究不正やハラスメントを告発した側が、雇い止めや懲戒解雇に遭っている。 広島大学のケースでは、任期制教員が上司の研究不正やすさまじいハラスメントを長年うったえてきたにもかかわらず、大学執行部が有効な対応をしないどころか、逆に告発者を雇い止めした。岡山大学では、不正告発に関する執行部の審査がきわめてズサンであったことを、学内の研究者や学外の科学ジャーナリストが指摘していたのに、学長が告発者側の懲戒解雇を強く推し進めた。
・留意すべきは、両大学がこの10年間、政府・文科省が進める「大学改革」路線に最も忠実だった国立大学として知られていることである。
▽私立大学でも不当処分が頻発
・一定の伝統と規模をもつ私立大学においても、独裁的な権限を握った理事長・理事会が、法人の方針に批判的な教員を懲戒解雇に追い込む事例が増えている。 たとえば中京大学では、理事会の学部再編方針に批判的であった元学部長が、入試での待機義務を1日だけ失念したという、謝罪・解決済みのケアレスミスを蒸し返されるなどして、法人から懲戒解雇処分に遭い、現在も裁判係争中だ。
・創始者一族が経営する小規模大学など、もともと集権的体質が強い私立大学の一部では、以前から教職員が不当な過重処分に遭う事件が起こっていた。 だが、近年では、これまで比較的「民主的」または「穏健的」な運営がおこなわれてきた大~中規模の私立大学や国公立大学にまで、そうした不当処分が広がってきている。
・大学での不当処分については、個別の事件として報道されることはあるものの、その背後に横たわる構造的な問題は、これまで社会では広く知られることがなかった。 しかし、政官財界などが求める大学改革の一環として進められてきた「ガバナンス改革」によって、自由な研究・教育活動がおびやかされるほど大学執行部に権限が集中したことが、不当処分のような事件が頻発する原因になっていることは、もはや疑いようのない事実だ。 いまこの国の大学では、憲法が定める最低限の学問の自由と大学の自治さえもが、侵害されるようになっているのである。
▽政官財界出身者が大学を支配する
・「ガバナンス改革」は大学をどのように変えたのか。 2004年、国立大学の法人化に際して、国は各部局の代表者から構成される「教育研究評議会」から大学経営にかかわる審議権を剥奪し、新たに設置した学長を議長とする「経営協議会」に移管した。 併せて、「経営協議会」の委員の過半数は学外から採用することが義務づけられたため、文科官僚を含む政官財界の出身者が、大学の運営に指揮権を直接発動することができるようになった。
・学長の選出についても、教職員による直接選挙の結果を文科省が追認するそれまでの体制から、学長選考会議に最終決定権がある体制に移行したため、教職員による投票の結果が、選考会議によって覆されるケースが続出した。
・そして2015年、安倍政権は新しい学校教育法と国立大学法人法を導入した。 新学校教育法は、国公私立大学のすべての教授会から、教育・研究に関するあらゆる事項を審議する法的根拠を剥奪し、学長の指揮権のもとに置いた。組織や予算はもとより、学部長など部局長の選出、教員の採用や昇任、研究や教育の内容、カリキュラムに至るまで、何もかもが、学長の一存で変更可能になってしまった。
・また、新国立大学法人法は、学外の委員が過半数を占める学長選考会議に、学長選出の基準そのものを決める権限を与えた。その結果、国立大学では、学長が任命した学長選考会議のメンバーが、教職員による投票をまるごと廃止するという、マッチポンプのようなケースが相次いでいる。
・大~中規模の私立大学でも、これらの新法に便乗して、国立大学と同じような動きが相次いでいる。それどころか、研究者出身でない理事を数多く含む理事会によって、執行権の掌握がなし崩し的に進められている。これは、あらゆる事項の指揮権を研究者出身の学長に与えた新学校教育法ですら想定されていない、由々しき事態だ。
・大学の事務職員は、民間企業や官庁と同じように、官僚制的な指揮命令系統下に置かれている。しかし、教員の教育・研究にかかわる領域については、管理権者による干渉・介入を排するために、教員集団とりわけ教授会による自治が認められてきた(この自治権は、日本国憲法第23条が保障する「学問の自由」の重要な法的派生物とみなされている)。
・新しい学校教育法と国立大学法人法は、一言でいえば、大学の自由と自治を廃止して、政官財界の指揮下、とりわけ国家の統制下に置く、一大プロジェクトの総仕上げなのである。
▽「学問の自由」の価値を忘れた日本人
・「学問の自由」を保障する憲法第23条は、「思想及び良心の自由」を侵してはならないことを定めた第19条や、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」を保障する第21条と、わざわざ別条で定められている。 戦時期の全体主義体制下で、学問の自由や大学の自治が弾圧を受けた歴史的経験への反省に立ち、特に保障されるべきものとして条文化されたからだ。
・だが、敗戦から70年以上の月日が流れ、戦時体制の記憶が薄まるにつれ、一般市民ばかりか研究者までもが、学問の自由や大学の自治の歴史的・社会的意義を省みなくなってきたことは、否定しがたい事実だ。  冷戦体制下の世界で、日本国憲法のもとで大学に諸権利が保障されてきたことは、むしろ少数の特権的状況だった。戦後日本の研究者たちは、そのことを忘れがちだったとは言えまいか。
・強権的体制のもとに置かれた西側の発展途上国や、一党独裁体制が続いた東側諸国の多くでは、学問の自由や大学の自治はしばしば弾圧の対象になってきた。(隣りの韓国がその代表例だが)多くの国や地域において、学問の自由や大学の自治は、大きな犠牲をともなう民主化運動の過程でようやく勝ち取られた権利なのである。
▽まだ手遅れではない
・この10年間で、日本の多くの大学が監督官庁からの大量天下りを許し、教員たちは理事会や執行部の顔色をうかがわずしてあらゆる活動を進めることができない状態に追い込まれてしまった。 それは直接的には、政官財界など外部からの圧力の結果である。しかし同時に、自らが置かれた歴史的・空間的ポジションに、大学人が長らく無自覚だったことを省みる必要もあるのではないか。
・率直に吐露すれば、筆者は上の世代の研究者たちに対して、なぜわれわれの世代が“尻ぬぐい”をさせられるのかと思う気持ちもないわけではない。 学問の自由や大学の自治の内実を学生たちから厳しく問われた1960年代の大学紛争以降、大学に残って教員になった研究者の多くは、(ごく一部の例外を除いて)学問の自由や大学の自治を積極的に守り、発展させようとしてこなかったからだ。
・もちろん、われわれの世代が上の世代の研究者より“優れている”と言いたいわけではない。しかし、大学のこの惨状の“責任”をとらされるのは、結局のところ、われわれと続く世代の研究者、職員や学生を含む大学構成員すべてなのである。
・忘れてはならないのは、いま危機に瀕しているのが、狭い意味での教員の研究活動の自由や、教授会の自治だけではないことだ。大学における学問の自由は、学生にとっての学習や思考の自由を保障することに直結し、その先に卒業生が入っていく地域社会や企業社会における教養や文化を守ることにもつながっている。
・この10年進められてきた「大学改革」を根本的に修正するには、時すでに遅しかもしれない。しかし、何もかも手遅れというわけでもない。 この国の大学人と市民は、大学の自治や学問の自由をめぐる先人や隣人の長い苦闘や犠牲の歴史を思い起こし、教育・研究にかかわる自己決定権の意味を噛みしめるべきではないだろうか。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51682

安部政権の大学改革については、このブログの2015年9月1日、11月8日に「教育」のカテゴリーで取上げた。石原氏の記事では、ここまで酷い副作用が表れているのかと、改めて危機感を持った。昨日の慶応義塾での塾長選挙の問題も、こうした流れの一環なのだろう。 『専任教員も、補助金を獲得するための書類作成や会議、補助金プロジェクトのマネジメントなどに膨大な時間と労力を費やすよう求められ、教育・研究そのものにあてるべき時間を奪われてきた。その影響は、明らかな数字となって表れてきた。この10年間、先進国のなかで日本だけ、研究論文の総数がはっきりと減少したのである』、との指摘は重大で、マスコミももっと取上げるべき問題である。  『いまの大学生は、入学当初からつねに労働者であることを意識させられ続ける“就職予備軍”だ。ここで、文系・基礎科学系や教養課程のリストラ、大学の“就職予備校”化がさらに進むなら、彼ら彼女らが自由に学び、考え、活動する余地はほとんどなくなってしまう』、 『「文系学部を職業訓練校に」は愚策』、などの指摘はその通りだろう。 『リベラルアーツを模索する大学生たちの手助けをすることが、大学(教員)の重要な役割なのではないだろうか』、との指摘もその通りだが、これまでは大学教員の多くが各自の専門のタコツボに籠って、一方的に講義するスタイルで、リベラルアーツの魅力を殺いできたことも事実である。今さら「ないものねだり」をしている気がしないでもない。
『国立大学では、教職員が非公務員化された2004年の法人化以降、かえって天下りが増加した』、といのも、嘆かわしい事態だ。 『この10年間で、日本の多くの大学が監督官庁からの大量天下りを許し、教員たちは理事会や執行部の顔色をうかがわずしてあらゆる活動を進めることができない状態に追い込まれてしまった。 それは直接的には、政官財界など外部からの圧力の結果である。しかし同時に、自らが置かれた歴史的・空間的ポジションに、大学人が長らく無自覚だったことを省みる必要もあるのではないか』、との自省を込めた指摘は正論だと思う。
タグ:大学 (その2)(日本の大学をぶっ壊した政官財主導の「悪しきガバナンス改革」) 石原 俊 現代ビジネス 政官財の愚かな圧力で、大学は想像以上にヤバいことになっている なんのための大学か【前編】 文系と教員養成系は廃止を指示 文部科学省の有識者会議メンバー グローバル経済圏」に対応する「きわめて高度なプロフェッショナル人材」を養成できるごく一部の大学・学部のみを残し、それ以外は「ローカル経済圏」に対応する“職業訓練校”に改変すべき、と提言 村博文文科大臣(当時)が、全国の国立大学の文系と教員養成系の学部・大学院について、「組織の廃止や社会的要請の高い領域への転換」を検討するよう正式に通知 任期の定めのない専任教員も、補助金を獲得するための書類作成や会議、補助金プロジェクトのマネジメントなどに膨大な時間と労力を費やすよう求められ、教育・研究そのものにあてるべき時間を奪われてきた その影響は、明らかな数字となって表れてきた。この10年間、先進国のなかで日本だけ、研究論文の総数がはっきりと減少したのである 経済財政諮問会議 少子化のあおりで経営状態が悪化した小規模な私立大学を、国立大学などの傘下に吸収合併させるか、大学経営から撤退させるためのスキームを整備するよう提言 財界出身メンバーは、私学助成補助金の支給について、教職員数や学生数に応じたこれまでの算出基準を改め、就職率が高い学校を優先するなど「大胆な傾斜配分」へと転換すべきだと主張 学長や理事長の独裁が始まった 学校教育法と国立大学法人法の改定 大学生の自由と教養が壊滅する 私立大学では、政財界出身者が多数を占める理事会と、その意を受けた学長が、哲学・思想研究、歴史・地理研究、文学・文化研究といった人文学系の教育研究領域をさらに削減し、それを“英語教育”や表層的な“職業教育”にふり向けようとするだろう いまの日本の大学生たちは、20世紀では考えられなかったくらいに、自由な時間を奪われている。就職活動は長期化し、低学年から企業のインターンに参加しないと就職が不利になるのではないかというプレッシャーもある。親の経済力が落ち込んだため、アルバイトで学費や生活費を稼ぐ時間も長くなった いまの大学生は、入学当初からつねに労働者であることを意識させられ続ける“就職予備軍”だ。 ここで、文系・基礎科学系や教養課程のリストラ、大学の“就職予備校”化がさらに進むなら、彼ら彼女らが自由に学び、考え、活動する余地はほとんどなくなってしまう 「文系学部を職業訓練校に」は愚策 新しいリベラルアーツを構築することが急務 20世紀型の教養教育は、すでに役割を終えた。 だが、大学生たちが卒業後、グローバリズムと国家主義の嵐が吹き荒れる世界に否応なく投げ入れられるいま、“自由であるための技法”=リベラルアーツは、20世紀以上に重要になっている 日本は先進国のなかでも、社会のなかでの自由や自治が異様なほど抑圧されている国 自由であるための技法”=リベラルアーツを模索する大学生たちの手助けをすることが、大学(教員)の重要な役割なのではないだろうか 日本の大学をぶっ壊した、政官財主導の「悪しきガバナンス改革」 なんのための大学か【後編】 国立大学では、教職員が非公務員化された2004年の法人化以降、かえって天下りが増加した 幹部事務職員や学長・副学長・理事、さらには教員ポストの一部までもが、文科省OBによって占められるようになっていった。 国立大学と同じく競争的な補助金の獲得を目指し、文科省との関係安定化を望む多くの私立大学でも、同じような事態が進行した 無理筋の懲戒解雇や停職が横行 私立大学でも不当処分が頻発 政官財界出身者が大学を支配する 「学問の自由」の価値を忘れた日本人 この10年間で、日本の多くの大学が監督官庁からの大量天下りを許し、教員たちは理事会や執行部の顔色をうかがわずしてあらゆる活動を進めることができない状態に追い込まれてしまった。 それは直接的には、政官財界など外部からの圧力の結果である しかし同時に、自らが置かれた歴史的・空間的ポジションに、大学人が長らく無自覚だったことを省みる必要もあるのではないか
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