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安倍政権の教育改革(その5)(「昔の家族は良かった」なんて大ウソ! 自民党保守の無知と妄想 家庭教育支援法案の問題点、キッズウイークは役人の「机上の空論」 もはや国が決めて「一斉に休む」時代ではない、欧州「幸福先進国」の教育はこんなにも凄い) [国内政治]

安倍政権の教育改革については、4月8日に取上げたが、今日は、(その5)(「昔の家族は良かった」なんて大ウソ! 自民党保守の無知と妄想 家庭教育支援法案の問題点、キッズウイークは役人の「机上の空論」 もはや国が決めて「一斉に休む」時代ではない、欧州「幸福先進国」の教育はこんなにも凄い) である。

先ずは、日本大学文理学部教授の広田 照幸氏が4月24日付け現代ビジネスに寄稿した「「昔の家族は良かった」なんて大ウソ! 自民党保守の無知と妄想 家庭教育支援法案の問題点」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・自民党は今国会で「家庭教育支援法案」の提出をめざしている。 この法案に対しては、「改憲への布石」という議論もあるが、ここでは、別の視点からこの法案の問題点を洗い出してみたい。
▽「家庭教育支援法案」とは何か
・全15条からなるこの法案は、建前上は、家庭教育のあり方自体を細かく定めたものではない。 国や地方自治体、学校や保育所、地域住民等が分担・連携して家庭教育を支援する仕組みを作ろうとするものである。この点は注意が必要である。
・「家ニ対スル我ガ国固有ノ観念」とか「家族制度ノ真精神」とか「鍛錬ヲ重ンジ」とかが並んでいた戦時中の議論(1941年6月教育審議会「家庭教育ニ関スル要綱」答申)に比べると、家庭教育の中身を行政権力が直接いじり回そうとする法案ではないように見える(しかし、結果はそうなってしまう、ということを後で論じる)。
・ただし、この法案は、家庭教育の中身にまったく触れていないわけではない。 「基本理念」を定めた第2条において、どういう家庭教育が望ましいのか、どういう保護者が望ましいのかを間接的に定義してしまっている。 下線を引いた箇所である。狡猾なやり方である。1項は教育基本法の文言をそのままなぞっており、2項はこの法案オリジナルである。
・第2条1項 家庭教育支援は、家庭教育が、父母その他の保護者の第一義的責任において、父母その他の保護者が子に生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めることにより行われるものであるとの認識の下に行われなければならない。
・第2条2項 家庭教育支援は、家庭教育を通じて、父母その他の保護者において、子育ての意義についての理解が深められ、かつ、子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない。  とはいうものの、このレベルの記述は、まだ抽象的なものにとどまっている。これを余計なおせっかいと思う人もいるだろうし、この程度のことはもっともなことが書かれていると思う人もいるだろう。
・「もっともなことが書かれている」と思う人には、ぜひこの続きを読んでみてほしい。 だが、私の見立てでは、これはかなりヤバいことが起きてしまう。 後で述べるように、「教育のため」という論理は歯止めが利かないうえ、いかようにも解釈できてしまう。子育て中の家庭へのとめどない行政や地域権力の介入を許すことになってしまうのだ。
▽改正された教育基本法のその先へ
・この法案の性格を考えるためには、この法案がどこから出てきたのかという問いについて考えてみる必要がある。 一つには、2006(平成18)年に改正された教育基本法から出てきた、という答えを示すことができる。家庭教育支援法案の第1条では、明確に「教育基本法(平成十八年法律第百二十号)の精神にのっとり」と謳われている。この法案の根拠法は、現行の教育基本法である。ちなみに教育基本法第10条は次の条文である。
・第10条  父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
・ 2  国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
・この第10条1項の文言は、上で述べた通り、家庭教育支援法第2条1項にそのままコピペされている。この第10条2項では「国及び地方公共団体は、……家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」となっている。これが、今回の法案につながる動きの根拠になっているのである。
・2006年に改正される前の旧教育基本法では、家庭教育については次のように書かれていた。ずいぶんあっさりと書かれていたことがわかる。 旧教育基本法 第7条(社会教育) 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。
・これは、戦争中の過剰な統制や干渉に対する痛切な反省から、家庭教育や社会教育など成人を対象にした教育では、行政がふみこみすぎてはいけなという考え方がとられ、あえて「奨励」という線でとどめられていたのである。
・それに対して、前に見た2006年に改正された教育基本法の条文づくりには、国民の家庭教育を政治の力でいじり回したいという保守政治家の野心が作用していた。「奨励」では抽象的過ぎて飽き足りない、というわけである。 そこで、保護者の責任が書き込まれたうえ、「生活のために必要な習慣」だの「自立心を育成」だのと、教育の中身について書き込んでしまったのである。これが、今回の法案によって、さらにもう一歩、先に進められようとしている。
▽自民党と文科省――合流した2つの動き
・この法案はどこから来たのか? という問いへのもう一つの答えは、「自民党と文科省だ」という答えになる。ただし、両者は一体ではない。 自民党の議員は、保守的な家族イデオロギーから「よい家族」像を決めつけて、家庭教育に行政が関与できる具体的な立法をめざしてきた。自民党が野党になった時期(2009~12年)に、自民党内部は思いっきり右翼的な方向に振れた。 そのときに、安倍晋三氏を会長とする超党派の「親学推進議員連盟」が発足(2012年4月)した。同議連では、「伝統的な子育て」と彼らが考える子育てのイデオロギー(「親学」)を内容として盛り込んだ、家庭教育を支援するための法案作りが模索された。 それがいったん頓挫した後、昨年秋からの家庭教育支援法案の提出の動きは、この人たちが進めているものである。
・もう一つの法案作りに向けた動きは、文科省内部で進んできていた。2006年12月の教育基本法改正を受け、2008年ごろから文科省内部で、家庭教育支援のあり方の検討が始められてきていた。2011年度からは、学者や有識者を集めて、次のような検討委員会が検討を進め、報告書をまとめてきた。  2011年度 家庭教育支援の推進に関する検討委員会  2013年度 中高生を中心とした子供の生活習慣づくりに関する検討委員会  2013年度 家庭教育支援チームの在り方に関する検討委員会  2014年度 中高生を中心とした子供の生活習慣が心身へ与える影響等に関する検討委員会  2015年度 家庭教育支援手法等に関する検討委員会  2016年度 家庭教育支援の推進方策に関する検討委員会
・これらの検討委員会のメンバーを見ると、意外なことに、右翼的なメンバーはほとんど入っていない。むしろ、リベラルな人たちが大半である。 これらの検討委員会では、格差社会の中で取り残されて誰からも助けを得られないような家族に手を差し伸べる、というイメージで、家庭教育支援を議論してきている。 いわば、主たるターゲットとして、「生活困難―低学力や荒れ―結果としての貧困の連鎖」といった問題に対する施策として、家庭教育支援を検討してきているのである。
・今回の法案に関しては、ひょっとすると、文科省の役人は、自民党の政治家たちの法案作りに手を貸しているかもしれない、と私は想像している。自民党の先生方が作ったにしては、家庭教育の内容に関する記述が抑制的であるからである。 つまり、過去の家族を妄想的に理想化する保守政治家の熱意と、現代の格差社会の中で孤立した家族を支援しようとするリベラルな文科省の考え方とが、同床異夢で合体したのが、今回の家庭教育支援法案だというふうに私は考えている。
▽「昔の家族は良かった」のウソ
・では今回の法案の何か問題なのか。ここでは4つの問題点を指摘したい。 第一に、家族や家庭教育についての認識に問題がある。 自民党の先生方の「伝統的な子育て」を賛美する「親学」を含めて、「昔の家族は良かった」というのは過去に対する無知と妄想である。「昔は親がしっかり子どもをしつけていた」という命題も「家庭の教育力が低下している」という命題も、いずれもまちがいである。
・庶民の暮らしを見ると、乳児は兄や姉や子守の背中に、ただ一日中くくりつけられていたし、幼児は親の目の届かないところで放任されていた。親子間の会話は現代に比べてはるかに低調であったし、親には「子どもを理解してやろう」などという姿勢はなかった(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、広井多鶴子・小玉亮子『現代の親子問題』日本図書センター、等を参照されたい)。
・「現代の親子関係は希薄化している」「家族のことをかえりみない親が増えている」「現代の青少年は規範意識が薄らいでいる」などというのもウソである。少しだけデータを示しておく。 図1は、統計数理研究所が5年おきに行ってきた「日本人の国民性」調査の結果である。「あなたにとって一番大切なもの」として「家族」を挙げる比率が、戦後一貫して増加してきたことを読み取ることができる。「家族こそが一番」という人は増え続けてきているのである。
・図2と図3は、全国学力・学習状況調査(いわゆる全国学テ)で、中学3年生の規範意識を尋ねたものである。 「当てはまる」「どちらかといえば当てはまる」を足した数字で見ると、学校の規則を守っているとか、いじめをいけないことだと思う比率はともに9割を超えている。人が困っているときに進んで助けていると答えた割合は83.8%、人の役に立つ人間になりたいと思っている割合は92.8%に上る。
・【平成28年度 全国学力・学習状況調査 報告書】(全国の中学3年生が回答)  1 当てはまる  2 どちらかといえば,当てはまる  3 どちらかといえば,当てはまらない  4 当てはまらない  その他、無回答  図2 日常生活の規範意識  図3 社会生活の規範意識
・現代は「家族の時代」だし、大半の子どもは規範意識も含めてまともに育っている。少年非行の統計を見ても、過去最低の水準になっている。 保守派の政治家が描いている、過去や現在の家族像は妄想だらけなのである。家庭教育や子育てを論じようとする政治家は、せめてもっと過去の歴史や現在の調査データをきちんと学んでほしい。
・とはいえ、現代の家族に問題がないわけではない。 文科省の検討委員会で指摘されてきているような、家族の規模の縮小と家族の孤立化、家庭と地域との関係の希薄化(親子関係の希薄化ではない)などは、確かに実証的に見ても確認できる。一部の家庭では、誰からも援助のないまま生活がすさんで、子どもを放任したり虐待したりしている。 ではそういう層の家庭に対してどうしたらよいのか。この問いへの答えは最後に論じることにして、もう少し今回の法案の何か問題なのかを考えていく。
▽家庭教育には多様な考え方がある
・今回の法案の2番めの問題は、家庭教育の中身については多様な考え方があることが軽視されている点である。 行政が講座を開く際にどういう人を呼んで話をしてもらうのか、あるいは、NPOや地域の人が子育て家庭に関わって支援していく際に、この点が簡単に忘れられてしまうことが危惧される。
・次の図は、「子供は幼い時期は自由にさせ、成長に従って厳しくしつけるのがよい」という考え方に対する賛否を、日本と米国、韓国の間で比較した調査の結果である(内閣府「子供と家族に関する国際比較調査概要」)。 子どもを「堕落しやすい存在」としてみる西洋的な子ども観(米国)では、幼い時期には厳しくしつけるべきという考え方が強い。子どもを「まだ分別のつかない存在」とみる東アジア的な子ども観がまだ強い韓国では、幼い子どもに対して自由にさせる割合が多い。
・それらに対して、日本では、考え方が割れているのがわかる。「どちらかの考え方が正しい」のではない。どちらでもよいのである。 子育てや家庭教育をどうするべきかについては、この例のように、「正しい答えが定まらない」ものは多い。ある状況で子どもを叱るべきか、励ますべきか。話しかけるべきか、そっと見守ってやるべきか。どうすればよかったのかわからないことが多いのである。
・しかし、保守派の教育論でも、リベラルな教育論でも、そこに「正しい答え」をすぐに探そうとしてしまう。  たとえば、文科省の検討委員会では「効果的な取組を行うための知見・ノウハウ」の検討の中で、どういう家庭教育のやり方が望ましいのかが議論されてしまっている。 「家庭教育支援の具体的な推進方策について」(2017年1月)では、「家庭教育に関する多くの情報の中から適切な情報を取捨選択する困難さ」が支援の必要性の説明に使われているから、支援が「適切な」ものを示す、ということになるのは自明視されている。 要するに、多様で正答のない子育ての問題を「これが正しい」と決めつけることになるのである。
▽「望ましい」ことと行政との距離
・この法案がはらむ第三の問題は、規範と法との距離がなくなってしまうという問題である。 何かが望ましいということと、それを行政がときには権力的に行なうということとの間には、本来大きな距離がある。それがそこらじゅうで無視されてしまう事態が起きかねないのである。
・法哲学者の井上達夫さんの議論を借りて言うと(『他者への自由』創文社)、次のようになる。 一つには、「ある価値観が端的に(誰にとっても)正しいということと、それを受容することを誰も不公平として拒絶できない理由によりそれが正当化されているということと」は同じではない。 私なりにかみくだけば、「郷土を愛することはよいことだ」という命題が一般的にみんなに承認されていたとしても、「すべての人が郷土を愛するべきだ」(=郷土を愛さないヤツは問題だ)という命題は正当化されないということである。
・もう一つには、「ある価値観が正しいことと、これが公権力によって強行されるのが正しいことと」は区別されなければならない。いわば、「郷土を愛することはよいことだ」としても、「市民全員が郷土を愛するよう市役所が強制してよい」ということにはならない、ということである。 今回の法案を検討した自民党のプロジェクトチームの事務局長を務める上野通子参院議員(元文科政務官)は、「家庭教育ができていない親は責任を負っておらず、明らかに法律(教育基本法)違反。支援法で改めて正す必要がある」と語ったという(2016年11月3日毎日新聞)。
・そこでは、もはや規範と法とが同一視されてしまうような議論になっている。道徳的にふるまえない親は、行政権力によって取り締まりの対象とされるのである。
▽歯止めのない「教育のため」という論理
・「教育のため」という善意の介入には、歯止めが利かないうえ、いかようにも解釈できてしまう。食生活も、生活時間も、家族のライフスタイルも、「教育的にいかがなものか」という批判の対象にされてしまいかねない。 お父さんの変わった趣味も、お母さんの友だちづきあいも、朝ごはんのメニューも、わが子に対する話し方も、みんな「教育的に望ましくない」と誰かにレッテルを貼られることになってしまう。
・とめどない介入の根拠は、すでに紹介した法案の第2条にある。再掲しておくと次の条文である。 第2条1項 家庭教育支援は、家庭教育が、父母その他の保護者の第一義的責任において、父母その他の保護者が子に生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めることにより行われるものであるとの認識の下に行われなければならない。 第2条2項 家庭教育支援は、家庭教育を通じて、父母その他の保護者において、子育ての意義についての理解が深められ、かつ、子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない。
・これらの文言は、いかようにも解釈をふくらませることができる。目の前のどこかの家庭に対して、これらを使うと、たとえば次のようになる。 「お宅の○○は、『自立心を育成』する観点から見て、問題ですねー。改めなさい」、「お宅の××は、お子さんに『心身の調和のとれた発達を図る』上で問題がありますよ、××ではなく□□しなさい」、「あなたたちご夫婦は、『子育ての意義についての理解』が不十分ですねー。こんど市の講習があるから、参加してください」、という具合だ。 ○○や××には、「朝食のメニュー」から「お父さんの趣味」まで、いろんなものが入りうる。
・DVとか児童虐待とかに関しては、暴力や放任という事実認定をもとに、家庭内に介入が許されている。介入が開始されるための構成要件が明確なのだ。 しかし、「教育のため」という論理は、いくらでも水ぶくれが可能だし、それを止める論理がないのである。現場の担当者の恣意的な解釈を止められないのが、この法案の持つ最も危険な性格である。
▽危惧される3つの事態
・今回の法案では、まだ「正しい家庭教育」像はごく抽象的で、具体的に細かく提示されているわけではないことは先述したとおりである。 しかしながら、それが具体的に細かく提示され、個々の保護者に押し付けられる危険性はとても大きい。それは3つのレベルで起きてしまう可能性がある。
・第一に、国のレベルにおいて、である。この法案がもしも成立すれば、それを具体的に肉付けするための政令・省令や通知が出されるはずである。 そこでは、「正しい家庭教育のあり方」がより詳細に規定され、その方向に向けた「効果的な取組を行うための知見・ノウハウ」が提示されることになってしまうだろう。 国が作成していくであろう解説やパンフレット、手引き、好事例集などでは、あからさまに「よい家庭教育のあり方」を特定の像で描いていくことになるはずである。
・第二に、今回の法案には「歯止め」規定がないから、地方自治体のレベルで、「正しい家庭教育のあり方」をより具体的に決めつけていくケースがみられるだろう。 条例やそれをふまえた行政の運用レベルで、「正しい家庭教育」について、具体的中身を盛り込むことがいくらでも可能なのである。 現在すでに、いくつかの自治体で「家庭教育支援条例」が作られている。2012年に大阪市で、大阪維新の会が提出を検討した「家庭教育支援条例(案)」に関しては、伝統的な子育てによって発達障害が防止できるという条文が世間から批判を浴びて条例案は撤回された。しかし、すでに作られた条例の中にも問題があるものは含まれている。  たとえば、「岐阜県家庭教育支援条例」では、「家庭教育」の定義の中に、徳目のようなものが次のように列挙されている。
・この条例において「家庭教育」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他 の者で、子どもを現に監護するものをいう。以下同じ。)がその子どもに対して行う次に掲げる事項等を教え、又は育むことをいう。  一 基本的な生活習慣  二 自立心  三 自制心  四 善悪の判断  五 挨拶及び礼儀   六 思いやり  七 命の大切さ  八 家族の大切さ  九 社会のルール
・他の自治体の条例における簡素な「家庭教育」の定義とはちがって、この条例では明らかに特定の価値にコミットする形で「家庭教育」が考えられている。 また、今回の法案にはない、「親の責務」とか「祖父母の責務」とかを書き込んでいる条例もある。条例各条にではなく、「前文」において、特定の家族モデルを称揚しているような条例もある。こういうふうに、地方レベルでいくらでも具体的・詳細になってしまうのである。 そう考えると、妙な教育観に憑りつかれた首長とか議員がいる自治体では、「ワシが考える『真の家庭教育』」が、住民に押し付けられることになっていくであろう。
・第三に、「家庭教育支援」に携わる実務家レベルにおいても、「正しい家庭教育のあり方」をより具体的に決めつけていくケースがみられるだろう。 すでにある条例を見ていくと、地域の人の関与に関しては、NPOなどと並んで、町内会の人も役割が与えられている。町内会のジイさんがやってきて、「お宅の子育ては……」と説教をして帰る、というふうなことが当然起きそうだ。
・文科省の検討委員会では「訪問型家庭教育支援」も提唱されている(「家庭教育支援の具体的な推進方策について」2017年1月)。全戸訪問も地域全戸も、具体的な課題を抱える家庭をターゲットとした家庭訪問も、何でもありとなっている。こういう人たちが、「あるべき家庭教育像」を押し付けない保証はどこにもない。
・最悪の事態は、自民党政治家が考えるような妄想の家庭教育論と、文科省が検討してきたような、行政と地域の人による網の目のような「支援」(=介入)の仕組みとがドッキングして、全国津々浦々で家庭教育の監視がなされる、という事態である。 それは、日本の社会から、「子育ての自由」が失われる状況を意味している。
▽行政の役割は生活を支えること
・最後に私の代案を提示したい。 家庭教育への行政による介入は、一般の大人を教育しようとするものなので、すぐれて謙抑的でなければならない。犯罪受刑者に対する矯正教育のような一部の例外を除き、望んでもいない大人を教育してはいけない。
・そもそも、教育基本法では、「家庭教育」は公の性質をもたないものとして考えられている。まずはそれをみんなが理解するべきである。 家庭で実際に子どもを教育している保護者が、家庭教育をどうやっていけばよいのか迷うことがあるのは通常だし、そういうものだ。迷いがあるのはあたりまえで、前に述べたように「正しい答えが定まらない」のが子育てなのだ。 だから、行政であれ、地域の人であれ、「正しいやり方」を押しつけてはいけない。
・格差社会の進行の中で、子どもの教育について十分配慮する余裕がないような、深刻な問題を抱えた家庭は確かにある。そういう家庭には支援が必要だ。 でもそれを「家庭教育のあり方を指導する」というので解決しようとするのではなく、「生活の立て直し」のためのサポートこそが必要だし、有効なはずだ。 きめ細かな福祉や安定した雇用など、生活の基盤を支える行政サービスや、本人たちの切実な必要に応えるボランタリーな支援など、ともかく生活を安定させるということこそが必要なはずである。
・家庭の置かれた状況が深刻な時に、行政が親を教育して問題を解決しようとするのは、善意ではあっても罪深い考え方である。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51461

次に、経済ジャーナリストの磯山 友幸氏が6月2日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「キッズウイークは役人の「机上の空論」 もはや国が決めて「一斉に休む」時代ではない」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽政府が主導する「休み方改革」の評判
・政府は、小中学校の夏休みなどの一部を別の時期にずらして大型連休とする「キッズウイーク」を導入する方針を明らかにした。5月24日に開いた教育再生実行会議で、安倍晋三首相が打ち出した。今後、経済産業省などの関係省庁や経済界幹部、有識者などをメンバーとする「休み方改革官民総合推進会議」を設けて議論を進め、2018年度から実施する方針だという。
・「キッズウイーク」の考え方はこうだ。例えば夏休みを5日短くする代わりに、別の時期の月曜日から金曜日を休みにするというもの。前後の土日と合わせて9日間の大型連休が新たに生まれる。全国の地域ごとに休みとする日を決めることで、長期休暇を分散し、交通機関やホテルの混雑を緩和するという。
・経済界に呼びかけて、企業も同じ時期に休業したり、有給休暇の取得を呼びかけたりすることで、親子で外出する機会を作る。安倍内閣は長時間労働などを是正する「働き方改革」を掲げているが、先進国と比べて低い有給休暇の消化率などを上げるために、「休み方改革」を進める方針だ。安倍首相は会議で、「大人が子どもと一緒に過ごす時間を多く確保するため、官民を挙げた休み方改革を進めていく」と述べた。
・安倍首相自らが打ち出した「キッズウイーク」だが、ネット上など世間の反応は今ひとつ。公務員や大企業の正社員を前提にした発想で、大型連休が生まれれば、小売りや飲食、ホテルといったサービス産業で働く人たちは休めない、というわけだ。
・また、地域ごとに休みをバラバラにすると言っても、全国展開している企業の場合、一部地域だけ休みになれば業務効率は下がる。下手をすると、会社が指定した日に有給休暇を消化せざるを得なくなる、といった声が聞こえてくる。どうも世の中の実状と合っていない、というわけだ。
・このところ政府が打ち出す「休み方改革」は軒並み評判がよろしくない。2015年に打ち出した「ゆう活」は、夏の間、勤務時間を1~2時間前倒しすることで、夕方から家族や友人との時間を楽しむことを掲げたが、実際には国家公務員の間で実施された程度で、なかなか広がらなかった。
▽「プレミアムフライデー」は役人的発想
・今年2月に導入された「プレミアムフライデー」も評判が芳しくない。毎月末の金曜日は午後3時に仕事を終えることを推奨しているが、初回の2月24日はともかく、3月は31日の年度末に重なったため、「午後3時に帰るなんて夢物語だ」と言った声があふれた。そもそも月末の金曜日を指定したこと自体、「役人的発想だ」といった批判がされている。
・そして、今回のキッズウイークである。そもそも夏の暑さが猛烈さを極めるようになっているのに、夏休みを短縮することが効率的なのかどうか。また、夏休み期間が短くなることで、両親が夏休みを取る候補日が減り、かえってその時期の交通機関などの混雑が増すという懸念もある。「役人が考えた机上の空論」という批判もある。
・政府が「休み方改革」や勤務時間の短縮を叫ぶのは、日本の長時間労働がなかなか解消されないという現実がある。また、有給休暇の取得率は先進国の中でも最低レベルだ。フランスなどは年間30日ある有給休暇を100%消化しているのに対し、日本は年間20日の有給休暇の消化率は50%程度とされる。有給があっても使えないので、国が休む日を指定しましょう、というわけだ。
・こうした「国が決めた日に一斉に休む」という日本の傾向は、祝日数にも表れている。 日本の祝日数は現在、年間16日。このところ、「海の日」や「山の日」など新しい休日が増えてきた。天皇陛下の退位・代替わりが固まっており、おそらく新天皇の2月の誕生日が祝日に加わることになる。そうなると年間17日だ。しかも日曜日と重なると振り替え休日になる。世界ではインドやコロンビアが18日で最多とされるが、日本が世界一祝日の多い国になる日も近い。
・では、先進国はどうかとみると、英国は8日、ドイツは9日、米国は10日、カナダ、フランス、イタリアは11日といった具合である。G7(主要7カ国)の中では日本が断トツに祝日が多いのである。 これをみると、祝日増などを通じて国が「一斉に休む」日を決めていることが、逆に、有給休暇の取得を妨げて長時間労働に拍車をかけているのではないか、と思えてくる。
・有休消化率の高いフランスなど欧州諸国の場合、平日に30日の有給休暇を使うのは当然で、土日と合わせて夏に4週間、年末に2週間の長期休暇を取る人が多い。長期のバカンスを取らないとリフレッシュしない、という声をよく聞く。
・筆者は新聞社の支局長としてスイスとドイツに駐在した経験を持つが、8月と12月はほとんど仕事にならないほど、多くの会社の社員が休暇を取っていた。ただし、9月から11月などその他の時期はよく働く。ドイツでは夏になると早朝に出社して午後4時頃には退社する人たちの姿を良く目にした。国に言われなくても「ゆう活」をしているのだ。夏の間、日が長いドイツでは、4時に退社すれば、ゴルフを余裕で1ラウンド回ることができるという。
▽長時間働いても、なぜ1人当たりのGDPは伸びない?
・まさに、ワークライフ・バランスを取った働き方と言えるが、そうした働き方が可能なのは、「ジョブ・ディスクリプション」が明確だからだろう。自分の仕事の範囲が明確になっているので、それを終わらせれば帰ることができる。隣の人の仕事に手出しをすることはない。これは「手伝わない」というネガティブな意味よりも、「相手の領域には踏み込まない」という相手を尊重した態度といえる。
・では、どちらの生産性が高いのだろうか。 しばしばドイツ人に言われるのは、日本人はドイツ人よりもはるかに長時間働いているのに、なぜドイツよりも1人当たりGDP(国内総生産)が少ないのか――。日本の1人当たりGDP(米ドル建て)は3万4500ドルだが、ドイツは4万1000ドルを超える。「バカンス大国」のイメージがあるフランスは3万6400ドルと、日本を上回っている(いずれも世界銀行、2015年)。
・今、政府は働き方改革を進める一方で、「生産性の向上」を掲げている。日本企業が儲ける力を取り戻さない限り、日本人は豊かになれない。労働時間を減らし、もっと休暇を取得する一方で、儲けを今以上に大きくするには、生産性を抜本的に引き上げるほかない。
・生産性の側面からみて、「キッズウイーク」や祝日の増加はどう評価できるだろうか。夏休みが終わったと思ったら、秋には3連休がいくつもある。そのうえ「キッズウイーク」が設定されれば、仕事モードと休みモードを頻繁に切り替えなければならなくなる。働いたと思ったら、また休み、といった状態になるわけだ。これで生産性が上がるのだろうか。
・もはや国が「一斉に休む日」を指定する時代は終わったのではないか。皆が一斉に休むのが効率的だったのは、かつての工場労働である。一斉休暇は、製造業の現場が仕事の中心だった時代の遺物だろう。サービス産業で働く人が圧倒的に増えてきた中で、「一斉に休む」スタイルにこだわれば、そうした分野で働く人たちにしわ寄せがいく。そうでなくても、小売り、飲食、旅館・ホテルといった業種は、生産性が低いと問題視されている。
・これからの時代は、それぞれの自立した個人が、自分なりの働き方を実現していく時代である。むしろ、有給休暇をまとめて完全消化するのが当たり前な社会を作っていくのが、本当の意味の「働き方改革」「休み方改革」だろう。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/021900010/060100045/?P=1

第三に、博報堂ブランドデザイン副代表で未来教育会議メンバーの兎洞 武揚氏が6月19日付け東洋経済オンラインに寄稿した「欧州「幸福先進国」の教育はこんなにも凄い 子どもがけんかを仲裁、校長も選挙で選ぶ」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・先の見通せない時代――。最近では「Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)」の頭文字から「VUCA(ブーカ)」という造語すら生まれるほどだ。 もちろん日本人も無関係ではない。そんな時代に、未来を洞察し、自分なりの答えをつくり出すにはどうすればいいのか。そのために必要なこれからの働き方、社会のあり方とは――。
・そうした問題意識のもと、企業や教育関係者、NPO・NGO、行政などが協働して、世界、特にヨーロッパの先駆的事例を訪問調査する「未来教育会議」というプロジェクトがある。本連載では、同会議実行委員会メンバーが、デンマーク、オランダ、ドイツなどのユニークな取り組み事例を紹介。VUCAの時代を恐れることなく生き、豊かな未来を自ら創造していくためのヒントを探っていく。
・いま世界は、「分断される社会」というテーマで揺れている。イギリスの欧州連合からの脱退やドナルド・トランプ政権の誕生を受けて、動向が注目される2017年のヨーロッパの政治情勢。オランダの総選挙やフランス大統領選では、反移民・反EU政策を取る政党・候補者の台頭が目立ったものの、オランダでは与党が政権を守り、フランスでは親EU派のエマニュエル・マクロン氏が勝利した。「分断」「対立」を乗り越えて、多文化が共生する社会は築けるのか。
・それを考えるヒントとして、この記事では欧州の「民主主義教育」に着目する。ここでいう“民主主義”とは、自分で物事を考え、単なる多数決ではなく、違う意見を持つ人ときちんと対話を行い、そして皆で決めたことに対しては責任をもってコミットしていくという営みのことだ。 日本でも2016年から18歳選挙法が施行され、民主主義教育や主権者教育が注目されているが、“幸福先進国”と呼ばれるオランダやデンマークの民主主義教育はどのようなものなのか。教育現場を訪ねた。
▽オランダの「ピースフルスクール」の凄み
・1970年代から移民・難民を積極的に受け入れてきたオランダ。たとえばユトレヒト市ではいまや200の国籍を持つ人々で市民が構成されており、文化の違いを原因とする大小の対立は日常的な課題でもある。そのオランダで、全国の小学校のうち約10%で導入しているのが、1999年に誕生した「ピースフルスクール」プログラムだ。
・ピースフルスクールは「対立の発生を悪いものではなく当たり前のことととらえ、解決力を身に付けること」「社会的な課題に対して前向きに取り組む力を身に付けること」「異なる意見を持つ人と建設的に議論し、意思決定する“民主主義的スキル”を身に付けること」などを目的につくられた教育プログラム。
・憲法で教育方法の自由が保障されているオランダでは、各学校がさまざまな支援団体のコンサルティングを受けながら、独自の教育プログラムを採用できる仕組みが整っている。ピースフルスクールはそんな教育プログラムのひとつである。先述のユトレヒト市では、ほぼすべての小学校がこのプログラムを採用している。
・プログラムの内容はそれぞれ個性的だ。たとえば、毛糸玉を持って発言し、糸の一方を握ったまま、次の発言者に毛糸玉を投げ渡す。これを繰り返していくと、机上に毛糸で結ばれたネットワークができる。対話の流れを可視化し、対話を皆で共有していることを実感させるワーク。このような授業が年間40回程度行われている。
▽子ども自身にけんかを仲裁させる取り組みも
・このようにさまざまな授業プログラムや仕組みで構成されるピースフルスクールだが、私たちが最も象徴的だと感じたのは、メディエーター(仲介者)という存在だ。メディエーターには小学校5、6年になると立候補でき、選ばれた子どもたちは、中立な立場で話を聞くこと、相互理解を促すことなど、コミュニケーションのための5回のトレーニングを受ける。その後、校内で起きるけんかなどを仲裁する役割を担う。
・けんかが発生すると、当事者とメディエーターは学校内の一画に設けられたメディエーションルームに集まる。当事者それぞれに「あなたに何があったのか」「そのとき、どう感じたのか」を丁寧に聞き、互いに相手の立場で起きていたことと感じていたことに耳を傾けさせることで、対立の解決を支援していくのだ。
・子どもたち全員は、そのとき、どんなに腹が立っていてもメディエーションルームは行くべき大切な場所であるという共有認識を持っている。この学校の子どもたちの中にある「対立が起きても自分たち自身で解決できるという感覚」は、学校への安心感や自己肯定感につながっていて、それが、教科の学習や成績にも好影響をもたらしているという。
・この制度は地域社会にも拡大し、各所で「ピースフルコミュニティ」を誕生させつつある。あるとき、メディエーター経験者の子どもが町中で大人同士のいさかいを仲裁したことが話題となり、ユトレヒト市全体に「子どもたちに倣って地域も変わらなければ」という機運が生まれていった。そしていくつかの自治体が学校と地域を連携させるプログラムの導入を決定。行政、警察、公共施設などに所属する一定の人がピースフルプログラムの研修を受けており、ピースフルスクールの理念を柱とした一貫性のある地域・環境づくりが進められている。学校が中心となって地域に民主的な市民社会が構築されつつあるという、オランダ国内においても非常に先進的なケースとして注目されている。
▽生徒も先生も1人1票という「民主主義」
・次に、紹介するのが、デンマークの首都コペンハーゲンにある自由高校(Det frie Gymnasium)だ。この学校は1970年に開校。中学部と高学部を合わせ、約850人の生徒が在籍している。保護者の多くを占めるコペンハーゲンの知識層からの支持は厚く、成績水準は国内10位内に位置するとされる。
・自由高校の最大の特徴は、生徒と先生が選挙権を1票ずつ持ち、すべての学校運営と課題に対して投票制を導入していることだ。落書き(グラフィティアート)だらけの校内に一瞬ぎょっとするが、これも生徒たちが自ら提案し、年度初めに投票にかけ、今年度の方針として全員で決めたこと。来年度になればまた真っ白に塗り直されるのだという。
・また、私たちが視察に訪れた日に会議で話し合われていたのは次期校長を決める選挙について。2人に決めた候補者に演説をしてもらい、全員が投票するまでの行程が議論されていた。「私たちの学校なのだから、私たち自身で決めることができる」という価値の共有を徹底しているのだ。
・教員の1人、ダール先生は「教員と生徒の関係性を表すキーワードは“same level(同等)”です」と話す。食堂としても利用される集会場は“Heart of School(学校の中心)”と呼ばれ、教員と生徒が頻繁に集まり、時間を共有し関係を深める。「本校では、教員は生徒に対して権威を持ちません。1票の重さは同じなのですから」と続ける。まさに生徒自らが学校運営を担う、究極の民主主義学校といえるだろう。
・最後に紹介したいのが「森の幼稚園」という形態の幼稚園。その名のとおり、建物の中ではなく、一日中、森の中で子どもたちが学び育つ幼稚園だ。 第2次世界大戦終結から間もない1952年にデンマークで誕生。1人の母親が森の中で子どもを保育したのが始まりとされ、その後、デンマーク各地や北欧諸国やドイツに広まっていった。私たちが訪れた、デンマーク・ロラン島に所在するMyretuenという園では、一画に古い農家だった家屋があり、周囲には手作りの遊具、楽器などが点在、子どもたちが好きな場所で思いきり遊びまわっていた。 ここには、自然の中でのびのびと過ごすといった側面もあるが、運営の背景には、もっと大きな理念がある。
▽”民主主義の基礎”とは、感じ表現すること
・森の幼稚園は、デンマーク人が持つ「子どもはなるべく自然に触れさせながら育てる」「日々の天候に合わせて生活を楽しむ」といった伝統的な価値観を基にしているものだが、その環境下で身に付けさせるべき最も重要なことは“民主主義の基礎”なのだ、とニールセン園長は言う。
・まず園児たちは、その日に何をして遊びたいかを自分で選択する。それぞれの子が、自分ができることの限界に挑戦することで、自分ができることとできないことも知る。また、集団生活の中で、自分と異なる考えや行動をとる子がいることも学ぶ。「自分を知り、多様な価値観を認め合い、共存していくことは健全な民主主義社会を構成するうえで欠かせない条件です。それらを、体験を通して感じ、考えていける環境を提供することが大切なんです」と園長は説明してくれた。
・ここを訪れ、小学生から対立を扱う対話をしたり、高校生で侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をしながら自分たちで学校を運営していくような力は、実は、幼児の頃の、「自分自身が何を感じているのかを自分で感じることと、それを表現できること」の体験によって育まれるのだと悟った。まず自分を感じ知ること。この当たり前のことが、共生と多元社会を成立させている原点であるといっても過言ではないだろう。
・森の幼稚園では、環境民主主義社会、その力の根を伸ばすために、まさに自然の中で身体感覚を開花させながら自分自身を感じ、他者との関係を築く基礎づくりを行っているのだ。
▽地域社会や国の“幸福”を決めるのは…
・今回はデンマークとオランダの先進的な教育現場を紹介した。デンマークは国連の「幸福度ランキング」で2016年度1位、2017年度2位と上位をキープし、オランダも2013年にユニセフが発表した「先進国における子どもの幸福度」調査で1位を誇る国だ。
・多様な文化、国籍を内包しながら、寛容性・対話力に優れた社会がどのように育まれてきたのかを知るカギは、“民主主義”教育と呼ばれていることの奥にある、「自分を知り、他者との関係を築く」思想と、さまざまなクリエーティブな実践方法にあると思われる。
・こうした民主主義のあり方やスキルを身に付けた人々が、市民社会への強い参加意識と政治への高い関心をもって、選挙へ行き、社会にかかわることで、地域や自国の未来を決めていく。その結果が、ひとつの指標ではあるが、前述のランキングが示す“高い幸福度”に表れているのではないだろうか。変容する社会の中で、自らが思考し、行動し、環境そのものをつくり出そうとする力を育む教育のあり方に、私たち日本人が学べることは大きいと感じている。 
(今回紹介した教育現場の様子について、未来教育会議がYoutubeにアップロードしている映像で一部視聴することができる。)
http://toyokeizai.net/articles/-/174927

第一の記事にある、『家庭教育支援法案』、は簡単に検索したところ、まだ成立していないようだ。広田氏が指摘する 『自民党保守の無知と妄想』、は確かに酷い。 『自民党の先生方の「伝統的な子育て」を賛美する「親学」を含めて、「昔の家族は良かった」というのは過去に対する無知と妄想である。「昔は親がしっかり子どもをしつけていた」という命題も「家庭の教育力が低下している」という命題も、いずれもまちがいである』、 『家庭教育の中身については多様な考え方があることが軽視されている』、 『規範と法との距離がなくなってしまうという問題・・・道徳的にふるまえない親は、行政権力によって取り締まりの対象とされるのである』、 『「教育のため」という善意の介入には、歯止めが利かないうえ、いかようにも解釈できてしまう』、 『現在すでに、いくつかの自治体で「家庭教育支援条例」が作られている』、 『日本の社会から、「子育ての自由」が失われる状況を意味』、などの指摘はその通りだ。「お節介」にもほどがあり、とんでもない話だ。かつての自民党だったら、リベラル派も力を持っていたので、こんなお粗末な法案は通らなかっただろうが、安部一強のもとでは通ってしまうのだろう。安部一強にヒビが入り出したのが、せめてもの救いだ。
第二の記事にある 『このところ政府が打ち出す「休み方改革」は軒並み評判がよろしくない』、というのは当然だ。官邸の知恵袋になっている経産省ももはやネタ切れなのだろう。 『これからの時代は、それぞれの自立した個人が、自分なりの働き方を実現していく時代である。むしろ、有給休暇をまとめて完全消化するのが当たり前な社会を作っていくのが、本当の意味の「働き方改革」「休み方改革」だろう』、との指摘は正論だ。
第三の記事にある 『オランダの「ピースフルスクール」で・・・メディエーターには小学校5、6年になると立候補でき、選ばれた子どもたちは、中立な立場で話を聞くこと、相互理解を促すことなど、コミュニケーションのための5回のトレーニングを受ける。その後、校内で起きるけんかなどを仲裁する役割を担う』、というのは素晴らしい取り組みだ。 『デンマークの首都コペンハーゲンにある自由高校で・・・教員の1人、ダール先生は「教員と生徒の関係性を表すキーワードは“same level(同等)”です」と話す。食堂としても利用される集会場は“Heart of School(学校の中心)”と呼ばれ、教員と生徒が頻繁に集まり、時間を共有し関係を深める。「本校では、教員は生徒に対して権威を持ちません。1票の重さは同じなのですから」と続ける。まさに生徒自らが学校運営を担う、究極の民主主義学校といえるだろう』、権威にすがり形式的な秩序を重視する日本とは対極的な考え方で、心底驚いた。オランダやデンマークでも極右が勢力を増しており、やはり問題も抱えているのは事実であるとはいえ、ベースになる民主主義の基盤は日本よりはるかに強そうだ。最後についている『未来教育会議がYoutubeにアップロードしている映像』、も短いながら参考になる。
タグ:1項は教育基本法の文言をそのままなぞっており、2項はこの法案オリジナル 「正しい答えが定まらない」のが子育てなのだ。 だから、行政であれ、地域の人であれ、「正しいやり方」を押しつけてはいけない 現代ビジネス 行政の役割は生活を支えること 東洋経済オンライン 保護者の責任が書き込まれたうえ、「生活のために必要な習慣」だの「自立心を育成」だのと、教育の中身について書き込んでしまったのである。これが、今回の法案によって、さらにもう一歩、先に進められようとしている 家庭教育支援法案 「教育のため」という善意の介入には、歯止めが利かないうえ、いかようにも解釈できてしまう 兎洞 武揚 、「家庭教育支援」に携わる実務家レベルにおいても、「正しい家庭教育のあり方」をより具体的に決めつけていくケースがみられるだろう。 道徳的にふるまえない親は、行政権力によって取り締まりの対象とされるのである。 岐阜県家庭教育支援条例 安倍政権 自民党と文科省――合流した2つの動き 文科省内部で進んできていた。2006年12月の教育基本法改正を受け、2008年ごろから文科省内部で、家庭教育支援のあり方の検討が始められてきていた 家庭教育の中身については多様な考え方があることが軽視 行政が親を教育して問題を解決しようとするのは、善意ではあっても罪深い考え方である これからの時代は、それぞれの自立した個人が、自分なりの働き方を実現していく時代である。むしろ、有給休暇をまとめて完全消化するのが当たり前な社会を作っていくのが、本当の意味の「働き方改革」「休み方改革」だろう 旧教育基本法 第7条(社会教育) 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない 家庭教育には多様な考え方がある 2018年度から実施する方針 地方自治体のレベルで、「正しい家庭教育のあり方」をより具体的に決めつけていくケースがみられるだろう 磯山 友幸 「昔の家族は良かった」のウソ プレミアムフライデー」は役人的発想 具体的に細かく提示され、個々の保護者に押し付けられる危険性はとても大きい キッズウイーク」を導入する方針 このところ政府が打ち出す「休み方改革」は軒並み評判がよろしくない 過去の家族を妄想的に理想化する保守政治家の熱意と、現代の格差社会の中で孤立した家族を支援しようとするリベラルな文科省の考え方とが、同床異夢で合体したのが、今回の家庭教育支援法案 、「教育のため」という論理は、いくらでも水ぶくれが可能だし、それを止める論理がないのである。現場の担当者の恣意的な解釈を止められないのが、この法案の持つ最も危険な性格である 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない 地域ごとに休みをバラバラにすると言っても、全国展開している企業の場合、一部地域だけ休みになれば業務効率は下がる 、「生活困難―低学力や荒れ―結果としての貧困の連鎖」といった問題に対する施策として、家庭教育支援を検討してきているのである 自民党が野党になった時期(2009~12年)に、自民党内部は思いっきり右翼的な方向に振れた 、ネット上など世間の反応は今ひとつ 改正された教育基本法から出てきた キッズウイークは役人の「机上の空論」 もはや国が決めて「一斉に休む」時代ではない 検討委員会のメンバーを見ると、意外なことに、右翼的なメンバーはほとんど入っていない。むしろ、リベラルな人たちが大半である 自民党の議員は、保守的な家族イデオロギーから「よい家族」像を決めつけて、家庭教育に行政が関与できる具体的な立法をめざしてきた 日経ビジネスオンライン 例えば夏休みを5日短くする代わりに、別の時期の月曜日から金曜日を休みにするというもの。前後の土日と合わせて9日間の大型連休が新たに生まれる。全国の地域ごとに休みとする日を決めることで、長期休暇を分散し、交通機関やホテルの混雑を緩和するという 規範と法との距離がなくなってしまうという問題 国や地方自治体、学校や保育所、地域住民等が分担・連携して家庭教育を支援する仕組みを作ろうとするものである 教育改革 広田 照幸 (その5)(「昔の家族は良かった」なんて大ウソ! 自民党保守の無知と妄想 家庭教育支援法案の問題点、キッズウイークは役人の「机上の空論」 もはや国が決めて「一斉に休む」時代ではない、欧州「幸福先進国」の教育はこんなにも凄い) 「「昔の家族は良かった」なんて大ウソ! 自民党保守の無知と妄想 家庭教育支援法案の問題点」 欧州「幸福先進国」の教育はこんなにも凄い 子どもがけんかを仲裁、校長も選挙で選ぶ 未来教育会議」 民主主義教育」に着目 オランダの「ピースフルスクール」の凄み ・ピースフルスクールは「対立の発生を悪いものではなく当たり前のことととらえ、解決力を身に付けること」「社会的な課題に対して前向きに取り組む力を身に付けること」「異なる意見を持つ人と建設的に議論し、意思決定する“民主主義的スキル”を身に付けること」などを目的につくられた教育プログラム メディエーターには小学校5、6年になると立候補でき、選ばれた子どもたちは、中立な立場で話を聞くこと、相互理解を促すことなど、コミュニケーションのための5回のトレーニングを受ける。その後、校内で起きるけんかなどを仲裁する役割を担う 学校の子どもたちの中にある「対立が起きても自分たち自身で解決できるという感覚」は、学校への安心感や自己肯定感につながっていて、それが、教科の学習や成績にも好影響をもたらしているという デンマークの首都コペンハーゲンにある自由高校 生徒と先生が選挙権を1票ずつ持ち、すべての学校運営と課題に対して投票制を導入していることだ 次期校長を決める選挙について。2人に決めた候補者に演説をしてもらい、全員が投票するまでの行程が議論されていた 教員の1人、ダール先生は「教員と生徒の関係性を表すキーワードは“same level(同等)”です」と話す 。「本校では、教員は生徒に対して権威を持ちません。1票の重さは同じなのですから」と続ける。まさに生徒自らが学校運営を担う、究極の民主主義学校といえるだろう 「森の幼稚園」という形態の幼稚園 デンマーク各地や北欧諸国やドイツに広まっていった 森の幼稚園は、デンマーク人が持つ「子どもはなるべく自然に触れさせながら育てる」「日々の天候に合わせて生活を楽しむ」といった伝統的な価値観を基にしているものだが、その環境下で身に付けさせるべき最も重要なことは“民主主義の基礎”なのだ、とニールセン園長は言う 多様な文化、国籍を内包しながら、寛容性・対話力に優れた社会がどのように育まれてきたのかを知るカギは、“民主主義”教育と呼ばれていることの奥にある、「自分を知り、他者との関係を築く」思想と、さまざまなクリエーティブな実践方法にあると思われる
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