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公的情報管理・公開(公文書や記録は誰のものか、小田嶋氏:データは人生であり、墓碑銘である) [国内政治]

今日は、公的情報管理・公開(公文書や記録は誰のものか、小田嶋氏:データは人生であり、墓碑銘である) を取上げよう。このブログではこの問題については、森友学園問題として、5月24日、6月16日に取上げている。

先ずは、6月7日付けNHK時論公論「公文書や記録は誰のものか」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・行政文書が短い期間で捨てられる。あるはずだという記録が見つからないと言われる。国の公文書や記録をめぐって、いま次々と問題が指摘されています。 情報公開請求に対する不開示の通知を並べました。南スーダンに派遣された自衛隊の「活動報告書」を去年請求したもの。そして、森友学園をめぐる交渉記録を財務省と近畿財務局に求めたものです。
・いずれも通知には、「文書不存在」「文書の保有が確認できなかった」と書かれています。陸上自衛隊の「日報」は、後に見つかりましたが、財務省の交渉記録は廃棄したと説明しています。 そして「加計学園」をめぐり、内閣府と文部科学省のやりとりを記したとされる文書です。19人の職員にメールで送信され、今も個人のパソコンの中などに保管されていることがNHKの取材で明らかになっています。しかし、文科省は今も「確認できない」としています。なぜ、こうした「抜け穴」が起きるのでしょうか。
▽解説のポイント
・情報公開と公文書管理の経緯とその制度は。
・短い期間で廃棄されてしまう制度の「抜け穴」とは何か。
・最後に公文書のもう1つの役割を考えます。
▽法律ができるまでの長い歴史
・日本で情報公開制度を求める声が強まったのは、ロッキード事件がきっかけと言われています。政府の情報を知るすべがないことに、国民の不満が高まりました。 しかし、法律はなかなかできず、国よりも先に一部の自治体が情報公開の条例を作ります。また、オンブズマンなどが各地で情報公開を求める裁判や運動を起こします。市民の司法や行政への地道な働きかけが続けられました。 さらに、薬害エイズ事件で文書ファイルが問題となり、2001年、「情報公開法」が施行されました。「公文書管理法」も2011年に施行されます。
・このように公文書をめぐる「公開」と「管理」という2つの法律は、長い時間をかけ市民の活動や数々の事件を教訓に整備されました。
▽行政文書の管理・公開は
・今の制度です。行政文書は、各行政機関が、内容に応じて保存期間を30年などの期間に分けていきます。そしてファイルを作り、管理簿にまとめます。この管理簿はネットでも公開されています。 その後、保存期間が過ぎても、歴史的な文書と判断されれば、国立公文書館に移されます。また、廃棄するときは総理大臣の同意など、厳しい条件がついています。
▽1年未満文書という「例外」
・ところが、これにはいわば「例外」があります。 各省庁は規則や細則で保存期間1年未満というもう一つのルールを作っています。「短期で目的を終えるもの」などが対象とされています。 ここに大きな問題があります。公開の対象になる行政文書なのに、管理簿にも載せられず、公文書館にも移されず、審査を受けずに廃棄できます。つまり、いつ、どういう文書が作られ、捨てられたのか。仕組み上、記録は残らないことになります。
・南スーダンに派遣された陸上自衛隊の「日報」の文書も、森友学園に国有地を売却した際の交渉記録もこの1年未満という扱いでした。そもそもこれらの文書が、1年未満で良いのでしょうか。 さらに問題は、1年未満の保存期間とした判断の妥当性も検証できないことです。同じような文書がどのくらいあるかも分からず、情報公開請求をしても「廃棄した」と言われてしまいます。 国有地の売却をめぐっては、会計検査院も経緯を調べています。しかし検査院も、「文書がない」と言われれば、強制的に調べることはできません。
▽“ブラックボックス”
・市民団体「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子理事長は、この状態を「ブラックボックス」と呼んでいます。そして「このままでは国有財産の売却経緯は、すべての省庁が1年未満になりかねない」と、国を相手取って、裁判を起こしています。訴えでは「最低でも、5年間は保存すべき文書だ」としています。 さらに日弁連・日本弁護士連合会も、公文書の安易な破棄を防止し、管理の徹底を求める声明を出しています。
・一方、政府は「その後の決裁文書が保存されているから問題はない」などと説明しています。しかし細かな経緯が後から重要になることもあるはずです。また、例外がどこまでも広がれば、制度は骨抜きにされてしまいます。 1年未満という保存期間を原則として廃止することや、少なくとも基準をもっと厳格にすることが必要ではないでしょうか。
▽文部科学省の文書問題
・もう一つ、いま問題になっているのが、「加計学園」をめぐる文書です。この文書は、今も業務で使われる個人のパソコンの中などに保管されていることが、NHKの取材で明らかになっています。 しかし文科省は「担当課の共有フォルダーなどを調査した結果、確認できなかった」と説明しています。 ただし文科省は「個人のパソコン」は調べていません。その背景には「行政文書は共有フォルダーに入っている」「個人のパソコンに公開対象になる文書はない」という考えがあるのではないでしょうか。
・たしかに、個人のメモまでをすべて公表の対象にしてしまえば、文書が膨大になります。また、公務員がメモを作りにくくなり、活動への支障も指摘されます。 では、今回のケースはどうでしょう。行政文書は「職員が職務上作成し」「組織的に用いるもの」で「行政機関が保有」などと定義されています。一方で今回の文書は「説明資料として作成された」「メールで19人に送信された」などとされています。 このため複数の専門家は「行政文書にあたる可能性が高い」と指摘しています。仮に行政文書だが開示できない理由があったとする場合は、今度は適切な管理が行われていたのかどうかが問われることになります。
・文部科学省は「出所不明の文書だ」として再調査を行わない方針です。しかし、本当に出所が不明なのかどうか、そして「公開対象の行政文書」かどうかをはっきりさせるためにも、改めて調査を行うべきではないでしょうか。
・公文書管理法は公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置づけています。その民主主義が損なわれていないか。国民の疑問を取り除くことが、まず求められるはずです。
▽歴史の検証を
・最後に、公文書にはもう一つ大きな役割があることを、指摘したいと思います。 私は一昨年まで3年間、国立公文書館で、太平洋戦争後に開かれた戦争犯罪の記録、特にBC級戦犯の裁判記録を開示請求し、閲覧してきました。 この文書もかつて法務省が収集、整理し、国立公文書館に移管したものです。残っているのは、公的な文書だけではありません。被告が法廷で記した個人のメモや弁護士の走り書きも含まれています。
・こうした詳しい記録が残されたからこそ、現在の私たちは当時の戦争裁判の問題点や被告とされた人たちの苦悩、そして戦争の悲惨な歴史まで知ることができるのだと思います。 公文書は、歴史の過程を次の世代へと伝える役割も担っています。つまり、公文書は、今の私たちのものだけではなく、未来の国民への財産でもあるはずです。
・歴史を正しく伝え、法律の理念を生かすためも、制度を改善していくことが、これからも求められます。 そして、担当者も、どうか自分の利害だけにとらわれず、いつか歴史の検証を受けるという謙虚な気持ちで、文書の保存と公開に取り組んでもらいたいと思います。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/272743.html

次に、コラムニストの小田嶋隆氏が6月9日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「データは人生であり、墓碑銘である」を紹介しよう。
・財務省が、学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地売却の交渉記録を記した文書や電子データを廃棄・消去した。同省は6月2日までに当時使用していた情報システムを更新したことを発表している。 システムの更新自体は、まあ、よくある話だ。
・コンピューターシステムの端末、いや末端にぶら下がっている人間は、システムの更新にともなって発生するトラブルやら間違いやら手続きミスのおかげで、多かれ少なかれ痛い目に遭った経験を持っている。 私自身、この30年ほどの間に、ハードディスクがまるごとおシャカになった事故を2度ほど経験しているし、OSのアップデートの手順をしくじって大切なデータを消してしてしまったことも2度や3度ではない。
・そういう悲しい事態に遭遇するたびに、わたくしども古手のオタクは、 「データの一滴は血の一滴」 という、先アップル時代から語り伝えられているデジタル技術格言を思い出しては、あらためて心に刻み込んでいる。 まことに、データほど尊いものはない。 データは、自分自身が生きてきた証でもあれば、私という人間の魂の反映でもある。 その意味ではわが子と同じだ。
・過日、その「データの一滴は血の一滴」であることを骨身に刻み込んでいる30年来のパソコンユーザーである私にとって、到底受け入れがたいニュースが流れてきた。 朝日新聞が伝えているところによれば、 《学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地売却の交渉記録を記した文書や電子データを財務省が廃棄・消去したとされる問題で、同省は(6月)2日までに当時使用していた情報システムを更新した。運営を委託していたNECが近くデータを物理的に消去する作業に入る。--略--》(ソースはこちら) というのだ。
・なんということだ。 こんなバカなニュースがあるだろうか。 私の観察範囲の中では、今年一番のバカニュースと申し上げて差し支えないかと思う。 二番は無い。二番目以降は問題外だ。 今年のバカニュースはこれに尽きると、いまの段階から断言しておきたい。 それほどバカなニュースだ。
・このニュースを知って以来、私は少々逆上している。 アタマの中で、かなり乱暴な言葉で、財務省をののしっている。 大変に腹を立てている。 いくらなんでも、データというものをあまりにもバカにしたやりざまだと思うからだ。 NECにもがっかりしている。 NECと言えば、私が生まれてはじめて自腹で購入したPC-8001(初代は1979年発売)というマシンを作っていたメーカーだ。
・購入した当時、そのPC-8001の内部メモリは、実に、8kバイトだった。 8G(ギガ)でも8M(メガ)でもない。ただの8k(キロ)である。現在使っているiMacの実に100万分の1の記憶容量だ。 ついでに申しておけば、当時、外部記憶装置は持っていなかった。 
・つまり、データは原則として、記録不能だったわけだ。  ハードディスクは、一般市場向けにはまだ提供されていなかったし、CDもまだ開発中、フロッピーディスクは10万円以上する、高嶺の花だった。 じゃ、どうするのかというと、音楽用のカセットテープを使うのである。 私たちはプログラムを書くと、それをオーディオ用のテープレコーダーに音声として記録して(FAXと同じような仕組み…と言ってももう分からない人が多いんでしょうね)、その音声を再度デジタルデータに変換することで、ファイル記録の代用にしていた。たしか15分のテープに32kバイトのデータが入った。そういう時代だったのだ。
・であるから、私は、そのPC黎明期を知るNECの人間が、デジタルの記録文書を「物理的に消去」するという空恐ろしい作業に、どうして手を染める気持ちになったのか、その経緯をどうしても想像することができない。 なぜなら、データの一滴が血の一滴であり、メモリの1kが涙の1kであることを誰よりもよく知っているのは、日本ではじめて本格的なパソコンを市販して成功させたメーカーであるNECの人々であるはずで、その彼らにとって、得意先の人間が作ったデータであっても、データである以上、それは流れる血と同じもので、そのNECのシステム技術者が、「データを物理的に消去」するということは、医師が患者を縊り殺すことに等しい、絶対にあってはならない職業倫理違反であるはずだからだ。言っていることがめちゃくちゃだが、そのくらい怒っていると思って欲しい。
・「データの一滴は血の一滴」 というこの格言を教えてくれたのは、1980年代の半ば頃、私が当時時々出入りしていたアスキーの中の「メゾン」と呼ばれている宿泊労働施設にタムロしている若いプログラマだった。  「いいですかオダジマさん。ソフトウェア、あんなものはどうにでもなります。特に市販のアプリだの言語だのは壊れたり消えたりしたところで、しょせん、最終的にはカネを出せば買えます。オペレーティングシステムも、ハードウェアも、周辺機器もたかが道具です。どんなにひどいことが起こったのだとしても、とにかくカネさえ出せばどうにでもなります。でも、自分で書いたコードやテキストは一度消してしまったら絶対に復活しません。何億円積んでも戻って来ません。隣のマシンのメモリに残っていることもありません。だからデータは何重にもバックアップをとって厳重に保管しておかないとダメなんです。フロッピー代をケチるヤツは本当のバカです。人間のクズです」 と、彼は、アタマがスパークしている時のプログラマに特有な早口でまくしたてたものだった。
・私自身、パソコンがらみでは、電源ユニットの突然死やOSのクラッシュにはじまって、メモリの熱暴走、ハードディスクの頓死、ディスプレイモニタの突然死、液晶の破壊、アプリの発狂、落雷による全ハードウェアの即死に至るまで、あらゆるタイプの悲劇を経験してきた人間であったわけだが、最終的に一番堪えたのは、ほかのなによりもデータの喪失だった。
・ハードウェアの破損は、買い直すことで乗り越えることができる。というよりも、つい15年ほど前まで、われらがパーソナルコンピュータは、常に劇的な進化の途上にあったわけで、それゆえ、古いマシンの機能停止は、そのまま新しいマシンへの乗り換えという意味で、半分以上は福音として受け止め得る経験だった。  しかしながら、データの喪失は、言葉の真の意味で死を意味している。 それほどに痛い。
・いま、私のエディタは「遺体」という変換候補を提案して来たが、まったくその通りで、データを消してしまった時の気分は、自分自身が突然遺体になってしまった時の気持ちとそんなに変わらないものなのだ。 西暦2000年以前の原稿を記録しておいたCD-Rが、ある日読み出し不能になっていることを発見した時の、あの暗い気持ちを、私はいまだに忘れることができない。
・そのCD-Rの中には、血の出るような作業の結果としてのテキストデータがおよそ10年分記録されていた。 破損の原因は不明だ。 もしかしたら、うっかり太陽光にでも当ててしまったのか、保管の仕方が悪くて記録面を傷付けてしまったのか、あるいは、粗悪な初期のCD-R製品は、そもそも5年程度でデータが飛んでしまう仕様だったのかもしれない。
・いずれにせよ、フロッピーディスク時代から様々なメディアに書き記し、転記し、溜めこみ、何代ものマシンを経由して集約されたその原稿データは、 「おお、10年分の原稿データぐらいなら1枚のCD-Rにすべて記録できるぞ」 という私自身の愚かな思い込みと愚かな集約作業のせいで、二度と帰ってこない磁気の藻屑になった。
・書きながら詳細に思い出してしまった。 今思い出しても、いやな汗が出る。 「おい、うそだろ?」 全身の血の気が引いて、目の前の景色が白っぽく変化して行くのがありありとわかった。 それから、別のマシンの別のCDドライブを試してみたり、CD再生のためのキット(←まあ、磨くわけです)を購入して試してみたり、家電量販店のCD再生サービスに依頼してみたり、およそあらゆる努力を繰り返したが、データは二度と読み出せなかった。 私の10年間がまるごと消えたというに等しい。
・そういう、経験を経て、私たちは、データに向き合っている。 聞けば、官僚にとって、文書は、命に等しいものだという。 というのも、彼らが作成した文書は、自分たちの仕事の結果であるのみならず、将来に向けての前例でもあれば、何か問題が発生した場合の参照先でもあり、結局のところ、彼らの行動と意思、そして仕事への誠実さをゆるぎない形で記録した、彼ら自身の墓碑銘でもあるからだ。
・であるから、どんな些細なメモであっても、心ある役人は、決して捨てない。 彼らが、文書を捨てたり焼却したり処分したり破砕したりするのは、彼らが、何か後ろ暗い作業の証拠を隠滅しようと決意した場合に限られる、と、私はそういうふうに受けとめている。
・紙に記録された書類が、時間の経過にともなって、思いのほか巨大なスペースを侵食するという話は、いろいろな方面から聞く。 さる知り合いの法律関係者がいつだったか言っていたところでは、訴訟や調査に関連して発生する書類を5年間保管しておくだけのことで、事務所の一部屋が埋まってしまう量になるものらしい。 千代田区内の決して安くない家賃のひと部屋がまるごと書類で埋まるということは、書類の保管コストがそれだけバカにならないということでもある。
・そういう意味から考えれば、オフィスなり官庁なりのトップが、保管コストや検索性の限界を鑑みて、ある程度年数を経た書類を、一定の基準に従って廃棄しようと画策することには、一定の正当性があるのかもしれない。 しかしながら、今回財務省が「物理的に消去」しようとしているデータは、デジタルデータだ。 ということは、ハードディスクなり磁気テープなりに記録しておけば、保管コストは、お役所にとっては事実上、ほとんどゼロだろう。スペースも机一個分あれば十分に足りるのではないか。
・にもかかわらず、彼らがそれを「物理的に消去」せんとするのは、いったいいかなる事情を反映しての態度なのであろうか。 まあ、ここから先のことは私にはどっちみち見当がつかない。 だから黙る。
・ただ、デジタルデータを「物理的に消去」(つまり、磁気記録を磁気的にデリートする処理とは別次元の消去、すなわち、記録媒体そのもののブツとしての文字通りの破壊を意味しているのだと思う)するという、たわけた言明を、私はどうしてもまっすぐに受け容れることができない。 他人に事情を説明する言葉として、あまりにも荒唐無稽かつ不自然かつ不誠実だと思うからだ。これは、いち役所だけではなく、現政権全体に通じる態度だ。
・私は、現在の政権の一番の問題点は、国民に対して、起こっていることをまともに説明しようとしないところだと思っている。 森友学園の問題が追及されはじめた当初から、政府側の回答は、ほとんど意味を為していなかった。 佐川理財局長は、国会答弁の中で、 「それぞれの処分についての個別の会議につきましては、改めて私どもの方から確認するということを控えさせていただきたいと申し上げている」 というこの回答と、そして同じ意味の言葉を、何度も何度も繰り返し繰り返している。
・この回答は、 「イエス」 でも 「ノー」 でもない。 「わからない」 とも言っていないし 「おぼえていない」 とさえ答えていない。 彼は、「確認することを控えさせていただきたい」 と言っている。 これは要するに、 「私は質問に対して答弁するつもりがない」 ということで、実質的には 「おまえのかあちゃんでべそ」 と言っているのと変わりがない。 要するに、彼は、質問者を愚弄しているのだ。
・森友問題や、加計学園の問題について、私自身は、必ずしも、巨大な不正が隠されているとは限らないと思っている。  案外、突き詰めてみたら、法律的には立件できないレベルの、ちょっとした仲間内の公私混同事案に過ぎないのかもしれないという感じを受けてさえいる。 が、問題は、そこではない。 何が隠れているのであれ、隠れていないのであれ、この半年ほどの国会答弁を眺めていて、とにもかくにも異様な印象を抱かせられるのは、政権の幹部ならびに関係省庁の官僚たちが、野党からの質問に対して、ほとんどまったく誠実な回答を提供する意思を見せていない点についてだ。
・手続き上の不正や資金疑惑や税金の無駄づかいが実際にあるのかどうかとは別に、私は、現政権の最も大きな罪は、国会を愚劣な言葉がやりとりされる場所に変貌させてしまったことだと考えている。この点に限っていえば、安倍政権は、私が60年の間に見てきたどの政権よりも悪質だ。 菅義偉官房長官は、加計学園の認可に関連して、「総理の強いご意向」を示唆する文書の存在が報道された時、その文書について 「まったく怪文書みたいな文書」 という言葉で論評して、最後までマトモに取り合わなかった。
・文科省の前次官が、実名顔出しで、当該の文書の真実性を証言すると、今度は 「貧困問題のために出会い系バーに出入りし、且(か)つ女性に小遣いを渡したということでありますが、さすがに強い違和感を覚えましたし、多くの方もそうだったんじゃないでしょうか。常識的に、教育行政の最高の責任者がそうした店に出入りし、小遣いを渡すようなことは到底考えられない」 「自ら辞める意向を全く示さず、地位に恋々としがみついておりました」 と、文書の内容には触れず、もっぱら証言した前川前次官の人格を攻撃する言葉を並べ立ている。
・さらに、朝日新聞の取材に答えて、文科省の現役職員が、当該の文書が省内の複数の部署で「共有されていた」旨を証言すると、これに対しては、松野文科相が、 「出どころが明確になれば、調査に関して対応を検討したい」 いう意味の回答をしている。 普通の理路で考えれば、出どころが明確になっていないからこそ、調査しなければならないと思うはずなのだが、松野文科相の言い方だと 「わからないから調査しない」 という謎のような話になってしまう。 まるで、空腹だから食べたくないみたいな話だ。
・政権まわりの人々のこれらの回答は、はじめから答えるつもりを持っていない人間のしゃべり方で、報道や野党の質問にその都度答えている言葉も、とりあえず、その場をしのいでみせているレトリックに過ぎない。  ここまで不誠実な回答を繰り返す背景には何があるのだろう。
・「血の一滴」であるデータをあっさり消してしまおうとする財務省の行動を見ていると、この人達って「不都合になったら、消去すればいい」くらいに思っているんじゃないか、とさえ思えてくる。 くわばらくわばら。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/060800097/?P=1

時論公論で、せっかく「情報公開法」や「公文書管理法」が出来ても、 『1年未満文書という「例外」』、が大きな抜け穴になっている現状は由々しい事態だ。 『1年未満という保存期間を原則として廃止することや、少なくとも基準をもっと厳格にすることが必要ではないでしょうか』、というのはその通りだ。 『文部科学省の文書問題』も、国民をバカにし切った問題だ。 『国立公文書館・・・BC級戦犯の裁判記録・・・公的な文書だけではありません。被告が法廷で記した個人のメモや弁護士の走り書きも含まれています』、ということは、幅広に保存する意味を改めて教えてくれる。
小田嶋氏が、 『国有地売却の交渉記録を記した文書や電子データを財務省が廃棄・消去したとされる問題で、同省は(6月)2日までに当時使用していた情報システムを更新した。運営を委託していたNECが近くデータを物理的に消去する作業に入る』、に関連して、NECも批判しているが、ベンダーはあくまで受託先の指示に従うしかないので、やや酷ではと違和感を感じた。ただ、通常であれば、バックアップを取った上で旧システムは廃棄・消去される。無論、財務省が証拠を一刻も早く消滅させたいと願っている場合には、バックアップを取らせなかった可能性もある。ここは新聞記者や国会議員が確かめる必要がある。 『この半年ほどの国会答弁を眺めていて、とにもかくにも異様な印象を抱かせられるのは、政権の幹部ならびに関係省庁の官僚たちが、野党からの質問に対して、ほとんどまったく誠実な回答を提供する意思を見せていない点についてだ』、はその通りで、だからこそ世論調査でも支持率があれほどまで明確に低下したのだろう。安部首相も、姿勢だけは低姿勢になったが、説明責任は相変わらず逃げているようだ。内閣改造で、支持率が若干持ち直したようだが、日報問題も含め今後の閉会中審査でどのような説明をしていくのか。本来は楽しみではあるが、追及の主体となるべき民進党が「オウンゴール」を捧げてしまったので、また欲求不満の残る国会になるのかも知れない。
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