SSブログ

日本の政治情勢(その9)(小田嶋氏の2コラム:「勝てるから解散」は正しいか、国難は解散したあとに来る) [国内政治]

今日まで更新を休む予定だったが、9月30日に続いて、日本の政治情勢(その9)(小田嶋氏の2コラム:「勝てるから解散」は正しいか、国難は解散したあとに来る) を取上げよう。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が9月22日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「勝てるから解散」は正しいか」を紹介しよう。
・解散風が吹き荒れている。 9月17日、すなわち今週の日曜日の朝、9時過ぎに目を覚ましてツイッターを立ち上げてみると、解散風は、私のタイムライン上をすでに吹き過ぎようとしていた。なんでもNHKのテレビが朝一番のニュースのトップで伝え、朝日新聞の朝刊も一面に掲載していたのだそうだ(こちら)。
・第一報をひととおり眺めたのち、私は、 《バックレ解散 トンズラ解散 頬かむり解散 シカト解散 知らんぷり解散》 というツイートを配信した(こちら)。 たいして意味のある書き込みではない。 森友・加計問題の蒸し返し、長期化を嫌ったのだろうな……という凡庸な感想を並べてみたまでのことだ。 この種の脊髄反射コメントを書き込むうえで大切なのは、出来の善し悪しやフレーズとしての完成度よりも、とりあえずはなによりもスピードだったりする。
・というのも、この解散にあたって、「バックレ」「トンズラ」「ドサクサ」「自己都合」といったあたりのありがちな言葉は、まちがいなく日本中で何百何千の人間が、ほぼ同時に思い浮かべているはずで、だとすれば、大切なのは、いかに他者に先んじて投稿して、早い時点のタイムスタンプを獲得するのかだからだ。 以前にもどこかで書いたことだが、優れたダジャレやピタリとハマったショートフレーズは、検索してみると、まず間違いなく既出だ。 自分で、 「おお、これは秀逸なフレーズだぞ」 と思って、得意満面でググってみると、必ずや先駆者がいて、すでにどこかの媒体に同じ言葉を書いているものなのだ。
・なので、ある時期から、私は、自分が思いついたフレーズに関しては、あえて「念のために検索する」という手順を踏まないようにしている。 良いフレーズには必ず前例がある。 そして、前例が無いようなフレーズは、そもそもゴミだからだ。
・2013年9月のIOC総会で、滝川クリステルさんが、例の「お・も・て・な・し」のスピーチを披露した時、私は、その日のうちに 《おもてなし 油断大敵 裏はあり》 という川柳をツイートしたのだが、後からあれこれ寄せられたきたリプライが教えてくれているところによれば、このネタは、滝川クリステルさんのスピーチよりずっと以前の1980年代に、山田邦子さんがテレビで披露していたそのまんまのものであるらしい。
・なるほど。 文献を当たれば、それこそ井原西鶴だとか蜀山人あたりが300年前にどこかに書き残していた可能性だってないとは言い切れない。この世界に新しいものはほとんど残されていない。そう思うと、言葉を扱う仕事を続けることのむなしさにしばし言葉を失う。
・つい先日、東京五輪の招致に関連して買収があった旨が報じられた折、とりあえず 《つまり「お・も・て・な・し」は、「う・ら・が・あ・る」ということだったわけですね。 [共同通信]東京、リオ五輪で買収と結論 英紙報道、招致不正疑惑》(こちら) というリアクションを書き込んでおいたのだが、この時も、すかさず「プロがパクリはよくないですね」といった調子のパクリ警察方面からのリプライが複数寄せられた。
・ネット上に足跡が残るようになって以来、他人のテキストを読むにあたって、あらゆる方向からの検索を繰り返しながら、書き手のパクリや重複や同語反復や矛盾律やダブスタをチェックしにかかるタイプの読み手が現れたことは、文章を書く人間にとって、災難だと思っている。
・ただ、だからといって、原稿を書く人間が、揚げ足を取られないことを第一の目標に掲げるのは本末転倒で、自分の足跡を振り返りながらものを書く癖を身につけることは、自分の尻尾を追いかける猫が自分の尻尾を追いかけてくる猫の幻影に悩まされて最終的に神経衰弱に陥る事例を見てもわかる通り、建設的な解決策ではない。 余談が長引いてしまった。
・今回は、「卑怯」ということについて考えたいと思っている。 上述のたいして面白くもない解散批評ツイートを投稿すると間もなく、通知欄には、 「くやしいのう、くやしいのう」 という感じのリプライがいくつか寄せられた。 「ん?」 私は、意外の感に打たれた。 私自身、解散を示唆する一報に驚いていたし呆れていたのも確かだが、特段に憤っていたわけではない。まして悔しがる気持ちは持っていなかったからだ。
・にもかかわらず、私にリプライを送ってよこしたアカウントは、どうして私が悔しがっていると考えたのだろうか。 そう思ってあらためて周囲を見回しているうちに、私は、このたびの解散報道に対して、世間の人々が示している反応の中に、私が想定していなかったパターンのリアクションが含まれていることに気づいた。
・「暴走解散だ」 「我が逃走解散だ」 「党利党略に過ぎない」 「大義なき利己的な判断だ」 という批判がある一方で、 「解散は総理の専権事項だ」 「どこにも違法性はない」 と胸を張る向きもある。 それとは別に 「人づくり解散だ」 という説明もあるにはあるのだが、これは無視して良いと思う。
・私が注目しているのは、今回のような、党利党略に基づいた不意打ちの(というよりも闇討ちじみた)解散を「ずるい」と見なす意見に対して、 「ずるいからこそ信頼できるんじゃないか」 という意外な方向から反論を組み立ててきた人たちがいることだ。 正直な話、私は、政治についてこういう考え方を採用する人々が登場することを想定していなかった。
・私個人は、今回の解散は、タイミングとしても解散理由を説明する手順の上でも「論外」だと思っている。が、私がどう思っているのかは、この際、あまり重要ではない。 私が、本稿を通じて明らかにしたいと考えているのは、「解散にまっとうな理由が必要だ、とする考え方は、果たして有効なのだろうか」というポイントだ。
・実際、今回の解散でも、最終的に問われることになるのはそこのところになるはずだ。 議会制民主主義の建前を重視した本筋の考え方からすれば、今回の解散は「暴挙」以外のナニモノでもない。 このことは、自民党の党内から、必ずしも反主流派と言えない人々も含めて、複数の政治家が、解散のタイミングと経緯に疑念を表明していることからも明らかだろう。
・自民党の山本一太元沖縄・北方担当相は、17日自らのブログで、安倍晋三首相が臨時国会冒頭に衆院を解散した場合「内閣改造直後の臨時国会をやらず解散総選挙をやることを国民がどう受け止めるか。ちゃんと説明がないままやったら『国民をバカにしている』と思われてしまう」と懸念を示している(こちら)。
・元総裁であり、河野太郎外相の父親でもある河野洋平氏の見方はさらに厳しい。 河野氏は、森友・加計問題などで野党が首相や政府を糺すために臨時国会の召集を求めていたことに触れ「一度も丁寧な説明をしないで解散するのは理解できない」と述べ、さらに、「権力者の側が都合の良い時に解散する。過去になかったことではないか」と指摘している(こちら)。
・ほかにも、名前を明かさない「党幹部」といった肩書で、解散に対して違和感を表明している人々がいる。  この種の声を最もストレートに表明している文章は、毎日新聞に掲載されている 《熱血!与良政談 乱用どころか暴走解散だ=与良正男》 と題されたコラムだろう。 以上に示した、教科書通りの反応は、別の見方からすれば、単に「古い」考え方でもある。 おそらく、私のツイッターに 「くやしいのう、くやしいのう」 と書き込んできた人たちの言いたいのはここのところで、彼らにしてみれば、 「解散権を持っている側が、その解散権を自分たちに有利な局面で使うことの何がいけないのか」 ということなのだと思う。 だからこそ、彼らは、この解散に苦言を呈する人間を 「くやしいのう」 という言葉で揶揄する遊びを思いついたのだ。
・政権与党を支持しない人々が「議会制民主主義の常識」だとか、「解散の大義」だとかいったカビの生えた原理原則を持ち出してアヒャアヒャ踊り狂っているのは、要するに解散権を持っていない一派がくやしまぎれに理想論を振り回している姿に過ぎないわけで、リアルな政治は、そういうものではないよ、というのが、彼らの本心であるわけだ。
・この考え方の正否は、実は、サッカーファンの間では、すでにほぼ解決済みの問題である。 最終的な解答は、 「リアルであるべきだ」 ということで決着がついている。 あえて言えば 「ズルいとか、信義に欠けるとか、スポーツマンシップがハチのアタマとか、そういうガキの運動会みたいなこと言ってたってラチはあかないわけで、とにかく勝つために使える手は全部使うのがリアルなジョカトーレだってことだよ。ゴールのためには、ルール上許されている行為はどんなことでもやってのけるべきだし、審判の目の届いていない場所ではルールからハズれた行為だってあえて断行しなければならない。それがマリーシアってものだろ?」 ということだ。
・これは、たとえば、トレーダーの世界でも同じだ。 1秒以下で何百億円というカネが行ったり来たりする場所で勝負をしている彼らの間では「法で許されている範囲内のあらゆる手口を使ってカネを稼ぐのが正しい」ことになっている。 たとえば、パナマ文書が暴露され、「タックスヘイブンを利用して節税をするのはいかがなものか」的なお話が話題になった折に、堀江貴文氏は 《パナマ文書のどこにニュースバリューがあるのかさっぱりわからん。普通に個人として無駄な税金納めないのって普通じゃね?》 と、世間のお花畑な議論を一言のもとに切って捨てている。
・堀江氏に代表される考え方の持ち主は、ストラテジック(戦略的)に振る舞うことを恥じない。 というよりも、あらゆる場面で自分に有利な選択肢を選ぶのは人間として当然のことで、それをしない人間は、アタマが悪いのか、気取っているのか、でなければものを考えることを面倒臭がる怠け者なのだぐらいに考えている。
・であるから、法律に抜け穴があるのならそれを利用するのが当然だし、人々がよく知らない抜け穴を利用することをズルいと考える人間は、つまるところ自分の馬鹿さを宣伝しているに過ぎない、と彼らは考える。  対して、信義や原則を重んじるタイプの人間は、そういうふうに見せかけるべく振る舞っている人間も含めて、誰もが分かち持つ義務のひとつである納税について、そもそも抜け穴を探そうとすること事態が下劣であると考える。まして、その抜け穴を利用して、自分だけ徴税を逃れようとするのは、卑怯者じゃないか、と、彼らは述べるわけだ。
・どちらが正しいという話をしているのではない。 われわれは、局面によって、リアルであることを重んじる場合もあるし、倫理的であることを心がける場合もある。 サッカー選手としてはあらゆる卑劣な手段を使うプレイヤーでありながら、当局に対しては正直な納税者である人間もいる。その逆の人間もいる。人は様々だ。
・高校生の頃に読んだ『長距離走者の孤独』という小説(アラン・シリトー著)に、「正直さ」についての印象的な独白があったことを覚えている。 以下、記憶の中からの要約なので、必ずしも正確さは保証しないが、ざっとした内容を紹介する。
・主人公の少年は、少年院で暮らす不良だ。 その彼の世界に向けた視線が面白い。 彼は、教官や牧師が押し付ける、「正直」や「紳士的」という徳目を、テンから馬鹿にしている。というのも、「正直」だの「ジェントルマンシップ」だのは、恵まれた育ちのお坊ちゃまだの若奥様だのが、午後のハイティーだかの時間を気持ちよく過ごすためにお互いに取り決めている気取りくさったテーブルマナーみたいなもので、オレにははじめっから関係がないからだ。そんなものはオレの生活には全く役にたたない。オレは狡猾(カニング)だ。どんな場合にでも全力でカニングであることこそが、オレのリアルなのだ、といった調子の独白が素敵な小説だった。
・細かい部分は覚えていない。ストーリーも忘れた。ただ、「カニング(狡猾)」という言葉が素晴らしくて、それを覚えている。 長距離走者の孤独に賛同する高校生だった者として、私も、場面次第では、堀江氏の言っていることのおおよその意味は理解できる。 リアルな場所で生きている者にとって、理想を押し付ける人間ほど腹の立つものはない。それはとてもよくわかる。
・ただ、どの場面でリアリズムを発揮し、どの場面で理想を重んじるべきなのかについては、人それぞれで、考え方が違っている。 だから、多くの人にとって、他人は時に耐え難い存在になる。 SNSが個人の説教をあらゆる範囲の無防備な他人に対して無原則に伝えていることは、われわれの世界を大変に腹の立つ場所に変貌させていると思う。まあ、それはまた別の話だが。
・ともあれ、私は、今回の解散について、人々の考えの違いが表面化して、その考え方の違いが、選挙の結果を分かつことになるだろうと考えている。 もっとも、この種の「リアリズム」なり「本音ぶっちゃけ主義」が、あらゆる分野で「理想論」なり「お花畑建前主義」を駆逐しているのかというと、必ずしもそういうわけではない。
・サッカーの世界でも、「スポーツマンシップの尊重」と「マリーシアの貫徹」のいずれが重視されているかは、リーグによって、年代によって、また、国や時代によって、微妙に違っている。競技別で見比べてみても、ラグビーは、サッカーに比べてより「紳士的」であることを重視する傾向にあるし、ゴルフの不文律はさらに愚直な真正直さをプレイヤーに期待している。要は場面ごとに「リアル」と「プリンシプル」の重要度には濃淡があるということだ。
・政治は、選挙や人事や多数派工作のような現実的な局面に関しては、それこそ数とカネと義理人情と恫喝と嫉妬が支配するリアリズムの世界そのものだ。 とはいえ、その一方で、政治は、議会の信義則や憲政の常識や法と精神といった建前に厳しく縛られた原理原則の世界でもある。
・私個人は、「選挙を実施するタイミングとして有利だから」だとか「国会の論戦がいやだから」みたいな理由で解散が持ち出されると、それだけで驚愕してしまうわけなのだが、この解散のタイミングについて、「リアルで良いじゃないか」と考える人たちがいることについても、なるべく理解しようとは思っている。 私が今回の解散のタイミングに驚きあきれているのは、私がご清潔な人間だからではない。 損得よりも善悪を重んじる人間だからというわけでもない。 私が驚いたのは、「こんなタイミングで解散をしたら、勝てる選挙も勝てなくなるはず」だと思っているからで、つまるところ、それでもあえて解散の勝負に出た彼らの判断の不思議さにあきれているわけだ。
・説明が難しいのだが、私の感覚では、「ずるい」と思われた政治家は、選挙で勝てないはずなのだ。ということはつまり、このタイミングで解散に持ち込んだ政権与党は、実利を取りに行ったようでいて、まさにその「あからさまに実利を取りに行った振る舞い方の下劣さ」によって票を失うことになるはずなのだ。
・ところが、首相以下政権与党執行部は解散総選挙に打って出るつもりでいる。 おそらく、リアルな判断を断行する自分たちのストラテジーを評価する層がそれなりにいるという判断なのだろう。 「目先の実利を油断なく取りに行くリアルな判断力と、周囲を見回して一番有利なタイミングで選挙に持ち込むストラテジックな思考のスマートさに、なによりも政治家としてのたくましさを感じる」 という人々も、おそらくそれなりにはいるはずだ。
・「ずるいじゃないか」と思う人たちと「狡猾で頼りになるじゃないか」と考える人たちのどちらが多いのかで、結果は分かれるわけだが、それ以前に、案外結果を左右するのは「ずるいとかずるくないとか以前に、そもそも選択肢が無いじゃないか」と考える人たちなのかもしれない。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/092100111/ 

次に、同じ小田嶋氏が9月29日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「国難は解散したあとに来る」を紹介しよう。
・前回に引き続き選挙の話をするつもりでいる。 とはいえ、現時点で言えることは少ない。 予測なんてとてもできないし、現状分析さえおぼつかない。 それでもあえて選挙についての文章を書こうと思っているのは、主に記録のためだ。 もう少し丁寧に言えば、すべてが終わって結果が出た後に、何が起こっていたのかをあらためて振り返って考えるための材料として、現時点で見えていることを、なるべく見えているままの形で記録しておこうと考えている、ということだ。
・一昨日までの状況は、昨日(9月27日の水曜日)になって一変した。 それで、何もかもわからなくなった。  以下、主だった政党別に、状況を整理しておく。 自民党の状況は、一週間前とそんなに変わっていない。 とはいえ、周辺の状況が一変したことで、この先、選ぶべき戦術には、大幅な修正が求められることになるだろう。
・そもそも、今回の選挙は、安倍晋三首相の個人的な独走がもたらしたものだ。 ここが出発点だ。 つまり、現今の混乱状況を安倍首相周辺がどう評価しているのかはともかくとして、この混乱は、首相ご自身が自分で招いたものであり、いわゆる“大義なき解散”がもたらした当然の帰結だということだ。 ともあれ、安倍さんが、唐突に解散を決断した理由が、「国難突破」のためであったのかどうかは、たった一日で、もはやさして重要な争点ではなくなっている。 3日もしたら、「国難突破解散」というこのフレーズ自体、忘れ去られていることだろう。
・26日の段階では、解散に大義があるのかどうかは、わりと重要な論点だった。 とりあえずこのことを書き残しておきたい。 26日までの数日間に、いくつかのメディアから電話取材を受けた。それらへの回答の中で、結果として記事に反映されたのかどうかはともかく、私は、おおよそ以下のようなことを述べた。
 1.「国難」という現状認識、ないしは問題設定がそもそもズレている:「国民」は多様な人々を含んでおり、それぞれ(年齢、性別、経済状況、就業の有無、家族形態、健康状態などなど)によって、直面している課題やかかえている困難は様々だ。それらを「国難」などという粗雑な言葉で一括することはできない。強いていえば、北朝鮮をめぐる情勢は「国難」と呼ぶにふさわしいものではあるが、それは解散にはなじまないどころか、解散を許さないはず。
 2.「突破」という態度が間違っている:百歩譲ってわが国が「国難」に直面しているのだとして、だとしたら、政府は、その国難に「対峙」「対応」しつつ、対応策を国会で議論し、解決策を模索し、状況を改善すべく努力するべきであるはずで、「突破」などという思考停止を含んだ語句(「一心不乱」の「玉砕」戦法的で、「特攻精神」っぽい)で、国民的団結を促すような取り組み方は、柔軟性を欠いていて危うい。
 3.「解散」という手段が狂っている:「国難」を「突破」するための手段として「解散」を持ってくる理屈に、まったく論理的なつながりが無い。仮に国難を突破するつもりでいるのなら、求められるのは、むしろ国会の早期開催であり、徹底的な審議であり、知恵の結集であるはずで、「解散」は、それらの課題を真っ向から否定する意味で最悪の打ち手だ。
・この分析自体、解散以前の時点で総選挙の前提となっていた政治状況がまるごと破壊されてしまったいまとなっては、ほぼ、意味を失っている。 ただ、たしかなのは、与党が政治的な課題について国民に信を問うためにではなく、単に「選挙戦を戦う上で有利だ」との状況判断から解散に打って出たという事実だ。
・彼らは、民進党の体たらく(代表戦のグダグダ、山尾志桜里議員のスキャンダルでの失点、離党者続出の党内不協和)と、小池新党の準備不足(小池氏の都政専念、若狭代表の知名度不足、人材と資金と時間のすべてが足りない党内事情)を横目に見ながら、落馬した敵に斬りかかるようにして選挙戦を仕掛けたわけだ。
・この種の戦術的な状況判断による衆院解散は、少なくとも憲政の常道から外れたもので、議会政党としての矜持を疑わせるに十分な暴挙だったと思う。ついでに言えば、てか、言われ尽くしたことでもあるが、今回の解散は、以上に述べてきた戦術的な選択である以前に、安倍首相個人が国会審議の場で森友・加計問題を追及されることから逃亡するために打ったみみっちい小芝居であり、その意味で、「丁寧に説明する」と言っていたご自身の発言を裏切る振る舞いでもあれば、国会そのものを冒涜するやりざまでもある。「卑怯者」と呼ばせていただいても言い過ぎではあるまい。
・であるからして、私個人としては、いくらなんでもこんなにスジの通らない形で選挙に持ち込んだ側が、その選挙で勝てる道理はないのではなかろうかと、26日の段階ではそんなふうに思っていた。 が、状況は、たった一日でひっくり返ってしまった。
・二番目に、「希望の党」の話をする。 この党は、自民党が解散を言い出す前の分析では、「準備不足」「リーダー不在」「人材払底」「若狭は未熟さ華の無さ」「こっちの野田はダメなのだ」「資金不足」「烏合の衆」「小池にはまってさあ大変」「理念不在」「政策不在」と、さんざんな言われようだった。言ってみれば政党以前のバーチャル政治同好会組織に過ぎなかった。
・それが、どういうことなのか、突然「希望の党」という党名を掲げ、のみならず、ほんの2カ月前に「都民ファーストの会」の代表を退くにあたって「都政に専念する」と言っていた小池百合子氏ご自身が、そう言っていた舌の根も乾かぬこの時期に、にわかに党首としてその希望の党を率いる仕儀にあいなっている。 なんと恥知らずな手のひら返しではあるまいか。
・記者会見で、小池代表は、「アウフヘーベン」「シナジー効果」「リセット」といった不可思議な言葉を散りばめて、自らが新しい党を率いて新たな改革に乗り出す決意を語っていたわけなのだが、少なくとも私は、会見の全文を何度読み返してみても、その中で使われている「アウフヘーベン」や「シナジー効果」や「リセット」が具体的に何を意味しているのを読み取ることができなかった。それもそのはず、これらの用語は、何かを説明するための言葉ではなく、説明を回避するための目くらましであるからだ。
・築地市場の豊洲への移転を発表した時に漏らした「私がAIだからです」という説明の時も同様だったが、この人が目新しいカタカナ言葉や、キャッチーなスローガンを持ち出すのは、聴衆の注意をそらそうとしている時に限られている。 手品で言うところの「ミスディレクション」というヤツだ。 マジシャンが、観客の注目を高く掲げた右手のカードにひきつけておいて、その間に左手でテーブルの裏にコインを貼り付けるみたいな、あのやり口だ。
・「アウフヘーベン」や「AI」には特段の意味はない。 小泉元首相がずっと昔に、説明不能な事態に際して  「人生いろいろ」 と言って笑わせつつ苦境を打開してみせた時のあの手法と同じで、要するに、意外な言葉を持ち出して周囲を混乱させて説明をはぐらかしているのだ。 もっとも、この種の見え透いたごまかしが通用するのは、この人があらかじめメディアを手なづけているからでもある。
・苦しい弁明の中で、同じように小手先のごまかしを繰り出そうとした山尾志桜里議員は、記者たちに 「説明になっていませんが」 「どういう意味でしょうか?」 と、矛盾点を指摘されて追い詰められている。 ところが、小池百合子氏は、あの不思議なまでに余裕綽々な語り口で、記者を幻惑して会見を乗り切ってしまう。そういう下地を作り、生かす能力を持っている。 おそらく、積み重ねてきたキャスター経験と政治経験と離党結党経験が彼女に、特殊能力をもたらしたものなのだろう。
・ネット内を見回してみれば、彼女の会見を見て 「この人、説明能力がゼロだね」 「何言ってるのかさっぱりわからない」 と、酷評している人がたくさんいることも事実ではある。 おそらく、言葉を論理の筋道として解釈している人たちは、そんなふうに感じるのだと思う。
・私の解釈は少し違う。 小池百合子さんの特殊能力は、「何ひとつ説明していないのにもかかわらずなんとなく周囲を納得させてしまっている」ところにある。つまり彼女に関しては、説明能力が低いというふうに評価するのではなく、「説明回避能力が異様に高い」と考えなければならないということだ。
・ともあれ、この人が前面に出てきたことで、状況はすっかり変わった。 「小池新党」を「ガキの政党ごっこ」と見てナメてかかっていた首相周辺は、あわてているはずだ。 仮にガキの政党ごっこだという分析が当たらずとも遠からずなのだとしても、先の都議選で、その「ガキの政党ごっこ」に過ぎなかったはずの都民ファーストの会は、前例の無い圧勝を記録している。ガキをナメてはいけない。有権者がガキ含みである時代、ガキの政党であることは弱点とは限らない。
・希望の党がスローガンとして挙げている政策のひとつに「しがらみのない政治」というのがある。 正直な話、意味がわからない。 というのも、「しがらみ」という単語が曖昧すぎて、焦点を結ばないからだ。 とはいえ、意味がわからないながらも、気持ちはなんとなくわかる。
・ここが非凡なところだ。 察するに、「しがらみ」は、橋下徹前大阪市長が二言目には繰り返していた「既得権益」とそんなに遠い概念ではなくて、要するに、人間関係がもたらす行きがかりや、過去からのつながりがもたらすなりゆきや、コネクションや義理人情といった、明文化しにくいもやっとした権力の闇を一掃して、ゼロからリセットした環境の中で新しい政治の仕組みをつくっていきましょうではありませんか皆さん的な気分を言語化した何かなのであろう。
・その気持はわかる。 しかし、「しがらみ」は、政治家の言行の一貫性や、過去に約した約束を守り抜く誠実さを含んでもいる。 ということは、しがらみを一掃したら、自分の過去や約束や公約をその場限りで適当に捨てることも不可能ではなくなる。 実際、小池百合子氏は、豊洲問題でも都ファの代表人事でも、それらの以前から繰り返されてきた離党歴を見ても、過去の「しがらみ」を、見事に切り捨ててきた政治家だ。
・希望の党の代表に就任するにあたって、小池百合子さんは、自らの公式サイトにあった過去のコンテンツを削除している。 その中には、原発の再稼働を容認する発言や、日本の核武装について「今後の国際情勢によっては検討すべきだ」と回答した2012年衆院選時点の一問一答も含まれている。 おそらく、彼女にとって、これらのコンテンツは「しがらみ」に過ぎないのであって、そうした過去との行きがかりをまるっと無視するところに、未来なり希望があるというのが、彼女の立場なのであろう。
・なんともおそろしい政治家だ。 が、機を見るに敏なその反射神経の鋭さと、どんな質問を浴びせられても常に悠揚迫らぬ落ち着いた態度で質問が求めているのとは違う回答を並べにかかる度胸の良さが、他の追随を許さないことはたしかで、この人のこのムードに頼もしさを感じる有権者がたくさんいることを、私は不思議には思わない。
・さて、三番目に民進党だが、これもなかなか大変なことになっている。 確定的なところはいまひとつはっきりしないのだが、少なくとも現時点で報じられているところを総合すると、どうやら民進党が独自の政党としての生命を終えようとしていることはたしかなようだ。 ついひと月ほど前の代表選を経て党の代表に就任した前原氏が、みずから「10月に予定されている衆院選の届け出政党とならず、公認候補を擁立しない方向で調整を始めた」と、少なくとも共同通信はそのように伝えている(こちら)。
・一方、希望の党の側が民進党の申し出というか秋波をどんなふうに受けとめているのかというと、 《--略-- 小池氏は27日夜のBSフジ番組で「集団で来られても一人ひとり、こちらが仲間として戦えるか決める」と述べ、公認候補を選別する考えを示した。安全保障や憲法を挙げ「党内で右だ、左だというのは正しくない。一人ひとりの考えを確認する」と語った。--略--》(こちら) てなことになっている。
・なさけない話なのだが、あまりにもとんでもない状況過ぎて、理解が追いつかない。 記事を読む限り、多数の現職議員をかかえる国政政党の党代表が、次の選挙に公認候補を認めることをせず、自らは無所属で立候補する決意を語っていることは間違いのない事実であるようで、ということは、これは、事実上の「解党」と解釈するほかにどうしようもないわけなのだが、これだけはっきり書いてあっても、いまだに私は記事の内容を「政治家が本当にこんなことをやるのだろうか」と、信じることができない。
・なんというべきなのか、それほど素っ頓狂なことが起こっているということなわけだ。 で、その「解党」が、そのまま「希望の党」への合流なのかというと、さにあらずで、合流先の「希望の党」では、民進党出身の候補者を「選別」した上で、党に加えるつもりでいるという。
・これもまた、信じられない状況だ。 つまり、アレか? 民進党の議員は、蜘蛛の糸を垂らされたカンダタみたいな状況で、ひとりずつ、極楽の蓮の池を目指さないといけないわけなのだろうか。 前原さんの前代未聞の決断が「勝てそうな勢力にぶら下がる」ということなのであったら、そもそも政党を結成した意味がなかったことになる。自己否定そのものだ。
・「当選させてくれそうな政党であれば、名前や政策がどうであれその政党の所属議員になりたい」と考えるような候補者に、投票したいと考える有権者が果たして現れるものなのだろうか。 それ以前に、党首自らが解体への道筋を作ったのだとすると、あの代表選はいったい何だったのだろうか。
・以上、3つの政党のこの一週間ほどの動きを見ていると、どれひとつとして節操を守っている政党がないことがわかる。 公明、共産、維新、社民などは、とりあえず渦の外にいるというのか、自分たちの立ち位置をかろうじて守ってはいるようだが、先のことはわからない。 とすると、投票先はあるのだろうか。 それもわからない。
・はっきりしているのは、今度の選挙が、憲政史上最も醜い争いになるということだ。 卑怯者とうそつきと火事場泥棒のうちの誰に投票すれば良いのか、悩みは深い。 個人的には、候補者が掲げて見せている「未来」にではなく、各々の政党なり候補者なりの「過去」に向けて票を投じるのが、こういう場合の立ち回りかたとして、最も穏当なんではなかろうかと考えている。
・未来は不定形だし、現在は常に揺れ動いているいる。とすれば、頼りになるのは過去だけだ。 後ろ向きの結論になってしまったが、投票に行かないよりはマシだと思う。 私は、つい10年ほど前まで、ついぞ投票に行ったことのない人間だった。 で、現在の政治状況は、そのことの報いなのだと、半ば以上本気でそう思っている。
・われわれはこの何十年か、政治家を軽んじてきた。 私自身、生まれてこの方、政治家を尊敬したことが一度もない。 ずっと昔、私が子供だった頃、政治家は少なくともいまよりはずっと尊敬されていた。 たとえば、当時からタレント議員という人たちがいたものだが、その彼らは「タレント議員」という呼び方で、一種蔑んだ視線で見られていた。 このこと自体が、「議員」への尊敬の裏返しだった。
・しかも、そうやって世間から軽んじられ、嘲笑されていた当時のタレント議員は、その出自を洗ってみれば、一流の落語家であり、講談界の第一人者であり、ナンバーワンのアナウンサーだったりした。 つまり、昭和の半ばまでは、超一流のタレントしか議員になることはできなかったのである。 それが、現在は、出番を失った芸人や、食い詰めた歌手や、汚れ役にさえお呼びがかからなくなった俳優といったあたりの人々が、タレント議員の供給源になっている。忙しい芸人や、売れている歌手は議員になんかならない。オファーがあっても、即座に断っている。
・要するに、昔のタレント議員が、「タレントあがり」(←タレントからの成り上がりの結果としての議員になった人々)であったのに対して、現在のタレント議員は、「タレント崩れ」(タレントから身を持ち崩して議員になった人たち)だということだ。
・で、われわれは、自分たちが、そうやって、長い間、政治家を侮り、蔑み、嘲笑し、いびり倒してきたことの報いを、いま受けている。 「勝てるか否か」の判断を最優先する政治家は、それを認めてきた我々が生み出したのだ。 矜持を持った優秀な人間が誰も政治家を目指さず、卑しい人間と、アタマの悪い人たちのポスターだけが路上の風に吹かれる時代を誰が望んだというわけでもないのだろうが、現実に、いま、私たちはそういう時代に生きている。
・このひどい選挙のありさまを眺めている子供たちの中から、もしかしたら、10年後か20年後、日本の政治をなんとかもう少しマシなものに変えるために立候補してくれる若者が出てくれるかもしれないが、それまでの間は、とりあえず、目の前に並んでいる人たちの中から、なんとか最悪でない組み合わせを選ぶほかにない。
・ひどい結論になった。 候補者の皆さまには、口汚い言い方をしてしまったことを、この場を借りて謝罪しておく。 あなたたちのうちで最良と思える人に投票するつもりでいるので、どうか勘弁してください。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/092800112/

第一の記事で、 『政治は、選挙や人事や多数派工作のような現実的な局面に関しては、それこそ数とカネと義理人情と恫喝と嫉妬が支配するリアリズムの世界そのものだ。 とはいえ、その一方で、政治は、議会の信義則や憲政の常識や法と精神といった建前に厳しく縛られた原理原則の世界でもある』、との指摘はその通りだ。 『私の感覚では、「ずるい」と思われた政治家は、選挙で勝てないはずなのだ。ということはつまり、このタイミングで解散に持ち込んだ政権与党は、実利を取りに行ったようでいて、まさにその「あからさまに実利を取りに行った振る舞い方の下劣さ」によって票を失うことになるはずなのだ』、というのは小田嶋氏の希望的観測も混じっているとはいえ、面白い見方だ。
第二の記事は、希望の党と民進党主流派のこれへの合流を踏まえたもので、 小池氏について、 『突然「希望の党」という党名を掲げ、のみならず、ほんの2カ月前に「都民ファーストの会」の代表を退くにあたって「都政に専念する」と言っていた小池百合子氏ご自身が、そう言っていた舌の根も乾かぬこの時期に、にわかに党首としてその希望の党を率いる仕儀にあいなっている。 なんと恥知らずな手のひら返しではあるまいか』、 『この人が目新しいカタカナ言葉や、キャッチーなスローガンを持ち出すのは、聴衆の注意をそらそうとしている時に限られている。 手品で言うところの「ミスディレクション」というヤツだ』、 『彼女に関しては、説明能力が低いというふうに評価するのではなく、「説明回避能力が異様に高い」と考えなければならないということだ』、などの指摘はさすが鋭い。 民進党主流派について、 『「当選させてくれそうな政党であれば、名前や政策がどうであれその政党の所属議員になりたい」と考えるような候補者に、投票したいと考える有権者が果たして現れるものなのだろうか。 それ以前に、党首自らが解体への道筋を作ったのだとすると、あの代表選はいったい何だったのだろうか』、との手厳しい批判も正論だ。 『昔のタレント議員が、「タレントあがりであったのに対して、現在のタレント議員は、「タレント崩れ」(タレントから身を持ち崩して議員になった人たち)だということだ・・・で、われわれは、自分たちが、そうやって、長い間、政治家を侮り、蔑み、嘲笑し、いびり倒してきたことの報いを、いま受けている』、との指摘もその通りだ。
今日の新聞によれば、枝野氏ら民進左派は「立憲民主党」を急遽、設立、民進「財産」分与問題も出てきそうだ。小田嶋氏が指摘する  『はっきりしているのは、今度の選挙が、憲政史上最も醜い争いになるということだ』、は確かなようだ。
タグ:昔のタレント議員が、「タレントあがり」(←タレントからの成り上がりの結果としての議員になった人々)であったのに対して、現在のタレント議員は、「タレント崩れ」(タレントから身を持ち崩して議員になった人たち)だということだ 希望の党の代表に就任するにあたって、小池百合子さんは、自らの公式サイトにあった過去のコンテンツを削除している 議会制民主主義の建前を重視した本筋の考え方からすれば、今回の解散は「暴挙」以外のナニモノでもない 小池百合子さんの特殊能力は、「何ひとつ説明していないのにもかかわらずなんとなく周囲を納得させてしまっている」ところにある。つまり彼女に関しては、説明能力が低いというふうに評価するのではなく、「説明回避能力が異様に高い」と考えなければならないということだ 党利党略に基づいた不意打ちの(というよりも闇討ちじみた)解散を「ずるい」と見なす意見に対して、 「ずるいからこそ信頼できるんじゃないか」 という意外な方向から反論を組み立ててきた人たちがいることだ 「解散」という手段が狂っている はっきりしているのは、今度の選挙が、憲政史上最も醜い争いになるということだ 「国難」という現状認識、ないしは問題設定がそもそもズレている 現在は、出番を失った芸人や、食い詰めた歌手や、汚れ役にさえお呼びがかからなくなった俳優といったあたりの人々が、タレント議員の供給源になっている 「くやしいのう、くやしいのう」 という感じのリプライがいくつか寄せられた 解散批評ツイート 卑怯 「「勝てるから解散」は正しいか」 日経ビジネスオンライン 国難突破解散 「国難は解散したあとに来る 私の感覚では、「ずるい」と思われた政治家は、選挙で勝てないはずなのだ。ということはつまり、このタイミングで解散に持ち込んだ政権与党は、実利を取りに行ったようでいて、まさにその「あからさまに実利を取りに行った振る舞い方の下劣さ」によって票を失うことになるはずなのだ 「突破」という態度が間違っている 小池百合子氏は、あの不思議なまでに余裕綽々な語り口で、記者を幻惑して会見を乗り切ってしまう この人が目新しいカタカナ言葉や、キャッチーなスローガンを持ち出すのは、聴衆の注意をそらそうとしている時に限られている。 手品で言うところの「ミスディレクション」というヤツ 突然「希望の党」という党名を掲げ、のみならず、ほんの2カ月前に「都民ファーストの会」の代表を退くにあたって「都政に専念する」と言っていた小池百合子氏ご自身が、そう言っていた舌の根も乾かぬこの時期に、にわかに党首としてその希望の党を率いる仕儀にあいなっている。 なんと恥知らずな手のひら返しではあるまいか 政治は、選挙や人事や多数派工作のような現実的な局面に関しては、それこそ数とカネと義理人情と恫喝と嫉妬が支配するリアリズムの世界そのものだ。 とはいえ、その一方で、政治は、議会の信義則や憲政の常識や法と精神といった建前に厳しく縛られた原理原則の世界でもある 少なくとも憲政の常道から外れたもので、議会政党としての矜持を疑わせるに十分な暴挙 多数の現職議員をかかえる国政政党の党代表が、次の選挙に公認候補を認めることをせず、自らは無所属で立候補する決意を語っていることは間違いのない事実であるようで、ということは、これは、事実上の「解党」と解釈するほかにどうしようもないわけなのだが、これだけはっきり書いてあっても、いまだに私は記事の内容を「政治家が本当にこんなことをやるのだろうか」と、信じることができない 民進党 なんともおそろしい政治家だ われわれは、自分たちが、そうやって、長い間、政治家を侮り、蔑み、嘲笑し、いびり倒してきたことの報いを、いま受けている 世間から軽んじられ、嘲笑されていた当時のタレント議員は、その出自を洗ってみれば、一流の落語家であり、講談界の第一人者であり、ナンバーワンのアナウンサーだったりした 機を見るに敏なその反射神経の鋭さと、どんな質問を浴びせられても常に悠揚迫らぬ落ち着いた態度で質問が求めているのとは違う回答を並べにかかる度胸の良さ これらのコンテンツは「しがらみ」に過ぎないのであって、そうした過去との行きがかりをまるっと無視するところに、未来なり希望があるというのが、彼女の立場 前原さんの前代未聞の決断が「勝てそうな勢力にぶら下がる」ということなのであったら、そもそも政党を結成した意味がなかったことになる。自己否定そのものだ。 この種の「リアリズム」なり「本音ぶっちゃけ主義」が、あらゆる分野で「理想論」なり「お花畑建前主義」を駆逐しているのかというと、必ずしもそういうわけではない。 民進党の議員は、蜘蛛の糸を垂らされたカンダタみたいな状況で、ひとりずつ、極楽の蓮の池を目指さないといけないわけなのだろうか 「解散権を持っている側が、その解散権を自分たちに有利な局面で使うことの何がいけないのか」 ということなのだと思う。 だからこそ、彼らは、この解散に苦言を呈する人間を 「くやしいのう」 という言葉で揶揄する遊びを思いついたのだ 当選させてくれそうな政党であれば、名前や政策がどうであれその政党の所属議員になりたい」と考えるような候補者に、投票したいと考える有権者が果たして現れるものなのだろうか 希望の党 日本の政治情勢 (その9)(小田嶋氏の2コラム:「勝てるから解散」は正しいか、国難は解散したあとに来る) 原発の再稼働を容認する発言や、日本の核武装について「今後の国際情勢によっては検討すべきだ」と回答した2012年衆院選時点の一問一答も含まれている 小田嶋 隆
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。