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日本の政治情勢(その12)(小田嶋氏のコラム;積極的棄権について考える) [国内政治]

日本の政治情勢については、10月11日に取上げたが、投票日も近づいた今日は、(その12)(小田嶋氏のコラム;積極的棄権について考える) である。

コラムニストの小田嶋隆氏が10月13日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「積極的棄権について考える」を紹介しよう。
・選挙が近づくとツイッターのタイムラインが荒れる。 なので、私は、この二週間ほどあまり積極的に書き込みをしていない。 興奮した人たちが険しい言葉で反論をしてきたり、言質を取るために質問を投げかけてくる展開が面倒だからだ。
・今回は、告示が終わって選挙運動期間に入ったこともあるので、個々の政党や候補者についての話題は避けて、自分が選挙を好きになれない理由について考えてみるつもりでいる。 ツイッター上では、さる有名人が今回の選挙に関連して「積極的棄権」を呼びかけたことが議論を呼んでいる。 議論というよりは袋叩きに近い。 積極的棄権を呼びかけているご当人が、各方面から叱責を浴びている感じだ。
・まあ、こういうご時世に、自分が投票しないというだけならまだしも、わざわざ不特定多数の一般人に向けて投票の棄権を呼びかけて署名運動まで展開しているのだから、非難論難叱責打擲されるのは仕方がないところだろう。 仮に、呼びかけの結果、投票率が落ちたのだとして、その投票率の低さを通して伝えられることになるメッセージが、いったいわれわれの社会にどんな好影響をもたらすというのだろうか。私は、その好影響の事例をひとつも思い浮かべることができない。
・引き比べて、低投票率がもたらすであろう政治的な効果は、ずっとはっきりしていて、しかも致命的だ。おそらく、一部のファナティックな人々の声が、よりファナティックなカタチで鳴り響くことになる。 つまり、声の小さい人たちが黙ることは、声の大きい人たちの声をより大きく響かせる結果を招くわけで、とすると、棄権は狂信者に力を与えるに違いないのだ。
・仮に、投票率が20%を切るみたいな極端な数字が出れば、さすがにその結果に危機感を抱く人が増えることにはなるのだろう。が、さかのぼって考えてみれば、そもそも投票率が20%を下回るということは、人々がそれだけ危機感を抱いていないことを意味しているわけで、ということは、このお話は、はじめから「交通信号を守るドライバーがほとんどいなくなって、道路が事故車と負傷者でいっぱいになれば交通ルールの大切さが実感できるのではないか」と言っているのと大差のない本末転倒の寓話なのであって、バカな選挙であることを訴えるために、選挙をバカにすることは、自分たちの住んでいる社会をバカな社会に作り変えること以外の意味は持っていないはずなのだ。
・もっとも、とことんまでバカな社会ができあがれば、さすがにその社会の構成員たちも自分たちのバカさを反省せざるを得ないのだろうし、そういう意味では、自分たちの社会を奈落の底に落とすことにも、まるで意味がないわけではないのだろうが、そこのところまで話を広げないと選挙のバカさを伝えられない論者は、あまりにも選挙民の洞察力をバカにしていると思う。こういう設定でものを考える人は、私にはバカであるとしか思えない。
・ただ、実際に棄権の呼びかけを展開することの是非はともかく、いまこの時期に、あえて「棄権」という選択肢を掲げて思考実験をしたことには、それなりの意味があったとは思う。 というのも、積極的棄権を呼びかけた哲学研究者に向けて、左右上下を問わないあらゆる立場の人々が投げつけている罵倒の、あまりといえばあまりに激越な調子の中に、私は、うちの国の社会の窮屈さというのか、若い人たちが、投票所に向かう気持ちを喪失する原因のひとつとなっているに違いないパターナリズムの臭気を感じ取るからだ。
・私自身、50歳になるちょっと手前までは、一度も投票に出かけたことのない人間だった。 このことを口にすると、どういう文脈で言った場合でも、必ずや全面的な攻撃を浴びることになっている。 「50歳になるまで投票に行っていなかったような無責任な人間がえらそうな口をきくな」 「百歩譲って、投票しなかった過去があること自体は、個人の自由で、他人が口を出すべきことではないのだとして、あなたのような影響力のある人間が、自分が投票に行かなかったことを誇らしげに語るとはなにごとか。若い人たちへの影響を考えないのか」 「要するに口だけの人間だということだ」  まあ、おっしゃる通りだ。
・この件について、いまさら弁解をしようとは思わない。棄権する自由についてあえて議論しようとも考えていない。 ただ、投票を市民の至高の義務であるかのように訴える人々の高飛車な物言いが、若い人たちの投票意欲をむしろ減退させている可能性については、この場を借りて、ぜひ注意を促しておきたい。
・「投票は社会人としての義務だ」 「有権者として与えられた政治的な権利を行使することこそが、市民として社会に対峙するための最低限の条件なのである」 「投票しない市民は演奏しない楽団員と同じでオーケストラにいる意味がないのだから、できれば退場してほしい」 「投票もしていない無責任な人間に政治を語る資格はない」 「若年層の投票率の低迷が政治家の若者軽視を促している」 てな調子の、選挙の度に繰り返される耳タコのお説教は、特段に政治に興味を持っていない人々を確実にうんざりさせている。
・若者に投票を促す人々は、政治に興味を持たない市民を、人として一段格が落ちると考えている人間に特有の調教師じみた命令口調を隠そうともしない。 聞かされている側としては、話の内容以前に、「どうしてそう上からなんですか?」 というそこのところに反発して、マトモに耳を傾ける気持ちにならない。
・世間の空気がそんなふうに硬直的だからこそ、例の五反田の哲学者は「積極的棄権」などという暴論をあえて持ち出してきたのではなかろうかと、彼の叩かれっぷりに憐憫を感じている私は、ついついそう考えてさしあげたくなるのだが、まあ、あの人は、案外マジであれを言っているのかもしれない。
・だとしたら、それはそれで見事なばかりの空気の読めなさだとは思うのだが、それでもなお、私は、彼の提言を論理と理知の面では全否定しつつ、心情的には、こういう時代だからこそ、ああいう空気を読まない人の的外れの提言みたいなものが必要なんではなかろうかなどと、どうしても、心の一部でそう考えることをやめることができずにいる。
・というのも、政治について、われわれの社会には明らかなダブルバインドがあって、「積極的棄権」という彼の破れかぶれの提言は、そのどうにも欺瞞的な二重基準が言わせたセリフではないかという気がするからだ。 どういうことなのかというと、私たちは、職場や地域社会や学校のクラスの中で、政治的な意見を控えることを求められている一方で、選挙の時には、投票に行くことを期待されているということだ。
・私たちは、一方で、政治的なふるまいを厳しく制限されていながら、他方では政治的な権利の行使を義務づけられている。要するに、われわれは、二つの矛盾する要求の間で引き裂かれているのだ。
・21世紀の日本では、憲法であれ、国防であれ、基本的人権であれ、その種の政治的で論争的で知的負荷の高い話題は、できれば公共の場には持ち出さないのが社会人としての基本的なマナーということになっている。 なぜなら、その種の話題は、その場の空気をよそよそしくし、人々を分断し、対立させ、空気を社交から論争に変えてしまう触媒だからだ。
・逆に言えば、日常の話題として、政治向きの話を持ち出してくる人間は、一般の社会の中では、自動的に 「めんどうくさい人」 「目のすわった人」 「なんかヤバそうな人」 と見なされることになっている。 政治向きの話題は、扱いとしては、下ネタに近い分類枠におさめられている。
・ごく親しい、気心の知れた、互いの許容範囲をあらかじめわかっている人間同士が集う内輪のサークル内なら、ある程度政治的な話題を共有してもかまわない。が、初対面であったり、儀礼的な部分を残していたりする付き合いの中にその種の話題を持ち込むことは、食卓で大腸検診の話を熱弁することや、営業会議で昨夜のご乱行ネタをカマすことと同様、場違いで、非礼で、アタマの悪い行為であるとされている。そういうことだ。
・私が長い間投票を無視してきたことも、学生時代に、政治的に過激な方向性を持つ人々に論争をしかけられたりしていやな思いをしたことと無縁ではない。 とにかく、右であれ左であれ運動であれ選挙であれ、政治には関わり合いたくなかった。 私は、政治への忌避感情をこじらせていたわけだ。
・若い人たちは、良い意味でも悪い意味でも潔癖で、ダブルバインドを許容することが苦手だ。 であるから、ふだんは政治的な話題を避けておいて、選挙の時にだけ政治のことを考えるといった調子で自分のアタマを使い分けるような手の込んだ行動基準を自分の生活の指針とすることを好まない。
・必ず選挙に行けというのなら、ふだんから政治的な話題を避けるなと言うべきだし、政治的な話題は控えろというのなら、投票にも行くなというべきだ。選挙に行けという同じ口で、職場で政治の話をするなと言うあなたは狂っている、と、彼らは考える。私には、その彼らの気持ちがわかる。われわれは狂っている。
・わが国の投票率が、先進国の中でもとりわけ低く、その中でも20代や30代の若い人たちの投票率が低迷する傾向にあるのは、単に選挙期間中の投票行動の問題ではない。 そもそも、われら日本人は政治の話題をきらっている。 きらっていなくても、明らかに避けようとしている。 そのことが、投票率の上昇をさまたげている。
・つまり、ふだんの生活の中で、政治的なふるまいを制限しておいて、投票日にだけ政治的な人間になれというのは、そもそも無理筋の注文なのである。 われわれが政治の話を嫌っている理由は、権力の陰謀だとか、そういう話ではなくて、おそらく、単に、わたくしども日本人が、他人と論争するタイプのコミュニケーションに慣れていないからだ。それほど、われわれは揉め事がきらいなのだ。
・だから、喧嘩両成敗などという奇妙な原則が、集団運営の隠れた鉄則になっている。 「喧嘩両成敗」によって、争っている当事者を裁く役柄の上位者は、喧嘩をしている両者の言い分を聞こうともせず、どちらが正しいのかを判定しようともせず、とにかく喧嘩をしていることそれ自体を悪だと決めつけて、両者を罰している。 こんな空気が蔓延している世の中で、誰があえて論争なんかをするだろうか。
・誰かが政治について論争をしていると、君らの言い分はともかく、論争というのが良くない、と、上司はどうせそう言って仲裁をして、言い分も聴かずに論争をおさめて乾杯させようとするに決まっている。そんな社会の中では、政治について真面目に考えようとする気なんて起こるものではない。
・私たちは、異なった意見が互いに対立することになる現場を恐れ、論争を恐れ、もしかしたら、生身の人間が真面目に対話することにすら、生理的な恐怖を抱いている。 ギリシアの市民は、われわれ日本人が天気の話や野球の話題を話す時みたいな調子で、ごく気軽に国防の話やEU離脱のような政治向きの話題を語り合っているという話を聞いたことがある。彼らは、カフェや路上で気軽に政治の話題を掲げ、時に激しい論争になったりしながらも、それでいて、後を引いて険悪な関係になることもなく、その場の議論を楽しんでいるのだという。 この話は、又聞きの又聞きみたいな話なので、実際のところ、自分が見たわけではない。
・ただ、日本の社会で政治向きの話題がタブーになっている点についていうなら、私が20代の若者だった1980年代とくらべてみても、その傾向が強まっていることはたしかだと思う。 昭和の時代は、政治向きの論争に限らず、社会の様々な場所で、軋轢や摩擦や喧嘩や論争がいまよりもずっと多かった時代で、それが良いことなのかどうかは別に、その時代に生きていた人間は、21世紀の人々よりも、ずっと争いごとに対してタフでもあれば無神経でもあった。
・その同じ日本人が、理由はわからないけれど、この20年ほど、表立った場所で声を張り上げて口論をすることの少ない人たちになっている。 私は、日本人が争いごとをますます嫌うようになっていることと、若い人たちの投票率が低迷していることには、何らかの因果関係があるのではないかと思っている。 たいした根拠のある話ではない。 エビデンスもない。 忘れてもらってもかまわない。
・ともかく、政治の話題がタブーになればなるほど、政治の話を持ち出すことのリスクは高くなり、また、政治的な場での論争が険悪な人格攻撃に着地するケースも増えるわけで、この負のスパイラルは、どうにも止めようがない。私たちは、とてもやっかいな局面に到達していると思う。
・2年前の7月にこんなツイートを書き込んだことがある。 《ふと気づいたんだが、相手が高校時代までに知り合った友だちだと、政治的な意見の違いはまるで気にならない。ネトウヨじみた言動があっても愛嬌のひとつぐらいにしか思わない。でも、これが大学以降に知り合った人間だと、そうはいかない。バカとは付き合いたくない。どうしてだろう。》(こちら)
・このツイートの中で言っている「高校時代の友人」というのは、15歳から20歳になるまでの間の丸々5年間ほどの期間を、毎日のようにツルんでいた人間で、それこそ家族構成から好きな食べ物から、女性の好みまで、すべてわかっている相手だ。 そういう相手の言うことであれば、たとえば、政治的に相容れない意見であっても耳を傾けることができる。 もちろん、それでこっちの考えが変わるということではない。が、それでも最低限 「なるほど、こいつはこういう考えなのだな」 と思って、相手の立場を尊重するぐらいのことはできる。政治的な考えが違うからといって、特に腹も立たないし、絶交しようとも思わない。
・なんというのか、親しい人間同士の間では、政治的な見解の違いは、そばが好きだとか、演歌がきらいだとか、ニンジンが食えないとか、クルマの運転がヘタだとか足がクサいだとかいった、あまたあるその人間の特徴のひとつとして受け容れられる、ということだ。 それが、社会に出てから知り合った人間だと、政治的に意見の合わない人間の話は、めんどうくさいのでできれば聞きたくないと思ってしまう。
・秘密はおそらくここのところにある。 つまり、われわれが、もっと普段から政治の話を自然に話し合える人間になれば、政治の話は、タブーではなくなるし、政治的な意見の違いも、決定的な対立につながらなくなるということだ。
・たとえば、音楽の好みや食べ物の好みが人それぞれ違っていて、自分と他人が同じでないことを、われわれはあたりまえのように、受け容れている。 自分がそば好きだからといって、誰もうどん好きの人間をこの世界から追放しようとは思わないし、ジャズのファンがクラシック音楽のファンを襲撃したという話も聞かない。 が、どうしてなのか、政治に関する話になると、われわれは、論敵や政敵を憎み、罵り、時には相手を滅ぼそうと躍起になって運動を展開する。
・これは、われわれが政治に対して未熟だから起こっていることなのだと思う。 われわれは、成熟することを通して、雨に腹を立てて怒鳴り散らすことがないように、政治についても怒鳴らなくてすむようになる……と良いのだが。
・結論を述べる。 われわれは、選挙に行けという前に、もっと政治の話をしろと言わなければならない。   そして、選挙中と言わず、食事中と言わず、どんどん政治の話題を振るべきなのだ。 もっとも、私自身は、初対面の人間と政治の話をすることの精神的な負荷に耐えられなかったりする。 若い人たちは、どんどん政治の話をしてください。 おっさんは、黙って耳を傾けることにします。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/101200114/

記事にある「積極的棄権」を呼びかけた哲学研究者は、ネット検索したところ、10月12日付けの朝日新聞によれば、出版社「ゲンロン」を経営する思想家の東浩紀さん(46)とのことだ。「メディアも選挙という『お祭り』に巻き込まれ、政局報道で盛り上がり、ポピュリズムを生むだけ。そんなに無理して投票すべきなのか」・・・「資本家と労働者といったわかりやすい階層があった時代は、選挙でそれぞれの主張を戦わせることが社会の融合につながった。今は各自が求めるものは複雑なのに、選挙ではワンイシュー(一つの問題)で『友か敵か』の選択を迫られ、市民が分断されている」、などと指摘しているようだ。しかし、これは、小田嶋氏が指摘する 『声の小さい人たちが黙ることは、声の大きい人たちの声をより大きく響かせる結果を招くわけで、とすると、棄権は狂信者に力を与えるに違いないのだ』、というのが正論だろう。 『そもそも、われら日本人は政治の話題をきらっている。 きらっていなくても、明らかに避けようとしている。 そのことが、投票率の上昇をさまたげている。 つまり、ふだんの生活の中で、政治的なふるまいを制限しておいて、投票日にだけ政治的な人間になれというのは、そもそも無理筋の注文なのである』、との指摘は、なるほどと納得させられる。なお、主要国の国政選挙の投票率(アサ芸プラス、「選挙に行かないと入獄も!世界各国の「投票率」、驚がくの裏事情」、2014年12月18日)をみると、確かに日本は低いが、国によっては、選挙に行かないと罰金や入獄などの罰則を設けているケースもあるようだ。ただ、選挙に行かないと罰則というのは、日本では行き過ぎだろう。
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20141218/Asagei_29967.html
 『自分がそば好きだからといって、誰もうどん好きの人間をこの世界から追放しようとは思わないし、ジャズのファンがクラシック音楽のファンを襲撃したという話も聞かない。 が、どうしてなのか、政治に関する話になると、われわれは、論敵や政敵を憎み、罵り、時には相手を滅ぼそうと躍起になって運動を展開する。 これは、われわれが政治に対して未熟だから起こっていることなのだと思う。 われわれは、成熟することを通して、雨に腹を立てて怒鳴り散らすことがないように、政治についても怒鳴らなくてすむようになる……と良いのだが』、とのくだりは、さすがの小田嶋氏も自信がなさそうだ。これは簡単な解決策などない、難しい問題のようだ。
タグ:選挙中と言わず、食事中と言わず、どんどん政治の話題を振るべきなのだ 選挙に行けという前に、もっと政治の話をしろと言わなければならない われわれは、成熟することを通して、雨に腹を立てて怒鳴り散らすことがないように、政治についても怒鳴らなくてすむようになる……と良いのだが われわれが政治に対して未熟だから起こっていることなのだと思う が、どうしてなのか、政治に関する話になると、われわれは、論敵や政敵を憎み、罵り、時には相手を滅ぼそうと躍起になって運動を展開する 自分がそば好きだからといって、誰もうどん好きの人間をこの世界から追放しようとは思わないし、ジャズのファンがクラシック音楽のファンを襲撃したという話も聞かない 日本人が争いごとをますます嫌うようになっていることと、若い人たちの投票率が低迷していることには、何らかの因果関係があるのではないかと思っている この20年ほど、表立った場所で声を張り上げて口論をすることの少ない人たちになっている 昭和の時代は、政治向きの論争に限らず、社会の様々な場所で、軋轢や摩擦や喧嘩や論争がいまよりもずっと多かった時代で、それが良いことなのかどうかは別に、その時代に生きていた人間は、21世紀の人々よりも、ずっと争いごとに対してタフでもあれば無神経でもあった 喧嘩両成敗などという奇妙な原則が、集団運営の隠れた鉄則になっている 日本人が、他人と論争するタイプのコミュニケーションに慣れていないからだ。それほど、われわれは揉め事がきらいなのだ ふだんの生活の中で、政治的なふるまいを制限しておいて、投票日にだけ政治的な人間になれというのは、そもそも無理筋の注文 わが国の投票率が、先進国の中でもとりわけ低く、その中でも20代や30代の若い人たちの投票率が低迷する傾向にあるのは ふだんは政治的な話題を避けておいて、選挙の時にだけ政治のことを考えるといった調子で自分のアタマを使い分けるような手の込んだ行動基準を自分の生活の指針とすることを好まない 若い人たちは、良い意味でも悪い意味でも潔癖で、ダブルバインドを許容することが苦手だ 21世紀の日本では、憲法であれ、国防であれ、基本的人権であれ、その種の政治的で論争的で知的負荷の高い話題は、できれば公共の場には持ち出さないのが社会人としての基本的なマナーということになっている 要するに、われわれは、二つの矛盾する要求の間で引き裂かれているのだ ダブルバインド 私たちは、職場や地域社会や学校のクラスの中で、政治的な意見を控えることを求められている一方で、選挙の時には、投票に行くことを期待されているということだ 投票を市民の至高の義務であるかのように訴える人々の高飛車な物言いが、若い人たちの投票意欲をむしろ減退させている可能性については、この場を借りて、ぜひ注意を促しておきたい 私自身、50歳になるちょっと手前までは、一度も投票に出かけたことのない人間だった 哲学研究者に向けて、左右上下を問わないあらゆる立場の人々が投げつけている罵倒の、あまりといえばあまりに激越な調子の中に、私は、うちの国の社会の窮屈さというのか、若い人たちが、投票所に向かう気持ちを喪失する原因のひとつとなっているに違いないパターナリズムの臭気を感じ取るからだ おそらく、一部のファナティックな人々の声が、よりファナティックなカタチで鳴り響くことになる。 つまり、声の小さい人たちが黙ることは、声の大きい人たちの声をより大きく響かせる結果を招くわけで、とすると、棄権は狂信者に力を与えるに違いないのだ 低投票率がもたらすであろう政治的な効果は、ずっとはっきりしていて、しかも致命的だ 議論というよりは袋叩きに近い 小田嶋隆 積極的棄権について考える さる有名人が今回の選挙に関連して「積極的棄権」を呼びかけたことが議論を呼んでいる 日経ビジネスオンライン
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