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いじめ問題、(その5)(いじめ問題研究家 内藤 朝雄氏による2題:日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由、いじめ自殺を隠蔽するとき 教育者が必ず口にする「異常な論理」) [社会]

いじめ問題については、10月28日に取上げた。今日は、日本のいじめ問題を極めてユニークな角度から分析している、(その5)(いじめ問題研究家 内藤 朝雄氏による2題:日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由、いじめ自殺を隠蔽するとき 教育者が必ず口にする「異常な論理」) である。

先ずは、明治大学准教授 いじめ問題研究 内藤 朝雄氏が2月9日付け現代ビジネスに寄稿した「日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由 だから子どもは「怪物」になる」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・最近、また「いじめ」が大きなニュースとなっている。なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのだろうか。 いじめは80年代なかば以降、人びとの関心をひく社会問題になったが、いじめ対策は効果をあげていない。
・それは、学校に関する異常な「あたりまえ」の感覚が一般大衆に根強く浸透してしまっているからである。マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者や評論家や芸能人たちがでたらめな現状認識と対策をまき散らし、一般大衆がそれを信じ込んでしまうためでもある。 私たちが学校に関して「あたりまえ」と思っていることが、市民社会のあたりまえの良識を破壊してしまう。この学校の「あたりまえ」が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる環境要因となっているのだ。
▽きわめてシンプルな「いじめ対策」
・いじめを蔓延させる要因は、きわめて単純で簡単だ。 一言でいえば、①市民社会のまっとうな秩序から遮断した閉鎖空間に閉じこめ、②逃げることができず、ちょうどよい具合に対人距離を調整できないようにして、強制的にベタベタさせる生活環境が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる。
・対策は、次のこと以外にはまったくありえない。 すなわち、①学校独自の反市民的な「学校らしい」秩序を許さず、学校を市民社会のまっとうな秩序で運営させる。②閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせることをせず、ひとりひとりが対人距離を自由に調節できるようにする。
・このことについては、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)を読んでいただきたい。これを読めばいじめについての基本的な認識を手にすることができる。 まず、本稿執筆時に注目を浴びたいじめ報道を手がかりに、私たちが学校という存在をいかに偏った認識枠組で見ているかを浮き彫りにしていこう。
・福島原発事故のあと横浜に自主避難していた子どもが、何年にもわたって学校でいじめを受けていた。そして何年ものあいだ、教員たちはいじめを放置した。その経緯のなかで150万円もの金をゆすられたと保護者は訴えた。金を払ったのはいじめから逃れるためだったと被害者は言う。いじめ加害者たちはおごってもらったのだと言う。
・メディアはこれを報道しはじめた──。横浜市の岡田優子教育長が、「金銭授受をいじめと認定できない」と発言したのに対し、被害者側が「いじめ」認定を求める所見を提出したのが報じられると、世論が沸騰し、さらに報道が大きくなった。 「横浜いじめ放置に抗議する市民の会」は金銭授受を「いじめ」と認めるよう、2千人ほどの署名を添えて市長と教育長に要望書を提出した。これと連動して、他の地域でも原発避難者の子どもが学校で迫害されたという報道がなされた。
・学校のような生活環境では、ありとあらゆることがきっかけとして利用され、いじめが蔓延しエスカレートしやすい。原発事故からの避難者にかぎらず、学校で集団生活をしていれば、だれがこのような被害をこうむってもおかしくない。 問題の本質は、学校が迫害的な無法状態になりがちな構造にある1。
・1もちろん原発事故の問題が根幹にあるのではないかと疑われるケースもある。たとえば以下は、保護者が実名で訴えたものだ。 福島第一原発に近い地域で被曝をさけようと給食を食べない生徒に、他の生徒たちが暴力を含むいじめをした。暴力を止めさせるよう親が申し入れをしたところ、教員は「安全」な給食を食べろと圧力を加えるのみで、暴力を放置した。 このことを保護者が訴え続けてもメディアは取材すらしない。保護者はYouTubeで英語字幕をつけて発信し、これには海外からの英語コメントがたくさんよせられた(この件に関してメディアは取材をして、事実関係を調べるべきではないだろうか)。
▽いじめは教育の問題なのか?
・まともな市民社会の常識で考えれば、他人をいためつけ、おどして、その恐怖を背景に金をまきあげれば犯罪である。「おごってもらっただけだ」という言い訳は通用しない。 たとえば、暴力団が何年ものあいだいためつけ続けた被害者に対して、恐怖を背景に大金を「おごり」名目で巻き上げた場合と同じことが、いじめの加害者たちについてもいえる。
・学校をなんら特別扱いしないで見てみよう。すると、地方公共団体が税金で学習サービスを提供する営業所(学校)内部で、このような犯罪が何年も放置されたということが、問題になるはずである。 しかも公務員(教員)がそれを放置していたことも重大問題である。公務員は、犯罪が生じていると思われる場合は、警察に通報する義務がある。知っていて放置した公務員(教員)は懲戒処分を受けなければならない。
・このような市民社会のあたりまえを、学校のあたりまえに洗脳された人は思いつきもしない。ここで生じていることは無法状態であり、犯罪がやりたい放題になることである。これは社会正義の問題である。
・ここで「いじめ」という概念の使い方について考えてみよう。 筆者は「いじめ」という概念を、ものごとを教育的に扱う認識枠組として用いていない。人間が群れて怪物のように変わる心理-社会的な構造とメカニズムを、探求すべき主題として方向づける概念として「いじめ」を用いている。
・それに対して、誰かに責任を問うための概念としては、「いじめ」という概念を使うべきではない。責任を問うために使うものとしては、侮辱、名誉毀損、暴行、強要、恐喝などの概念を使わなければならない。 だが、多くの人びとは「いじめ」という言葉をつかうことでもって、ものごとを正義の問題ではなく、教育の問題として扱う「ものの見方」に引きずり込まれてしまう。市民社会のなかで責任の所在を明らかにするための正義の枠組を破壊し、それを「いじめ」かどうかという問題にすりかえてしまう。
・そして悲しいことに、学校で起きている残酷に立ち向かおうという情熱を持っている人たちも、そのトリックにひっかかってしまう。 認定すべきは、犯罪であり、加害者が触法少年であることであり、学校が犯罪がやり放題になった無法状態と化していたことだ。そして責任の所在を明らかにすることだ。
・警察が加害少年を逮捕・補導する。犯罪にあたる行為を行った加害者が責任能力を問えない触法少年であれば、児童相談所に通告し、場合によっては収容する。 被害者を守るために加害者を学校に来させないようにする。放置した教員を厳しく処分する。加害者の保護者は、高額の損害賠償金を被害者に払う。学校が無法状態になりがちな構造を制度的に改革する。
・それにしても、公的に責任を問う局面で犯罪認定すべきところを「いじめ」扱いでお茶を濁すこと自体が不適切なのに、さらにそのなけなしの「いじめ」認定すら教育長はしない。その意味でこの教育長は解職すべきであるし、市長が動こうとしなければ次の選挙で落とすべきである。
・もちろん起きていることは、責任を問う局面で犯罪であり、かつ、場の構造を問う局面で「いじめ」である。これが「いじめ」でなくて、何を「いじめ」というのかというぐらい、「いじめ」である。中井久夫氏がいうところの透明化段階にまで進行した「いじめ」である(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』(みすず書房)所収)。
・もっとも重要なことは、加害者たちは学校で集団生活をおくりさえしなければ、他人をどこまでもいためつけ、犯罪をあたりまえに行うようにはならなかったはずである、ということだ。 つまり、学校が人間を群れた怪物にする有害な環境になっているということが、ひどいいじめから見えてくる。これが根幹的な問題なのだ。 外部の市民社会の秩序を、学校独自の群れの秩序で置き換えて無効にしてしまう有害な効果が学校にはある。これは、たまたまいじめが生じていない場合でも有害環境といえる。
▽「学校とはなにか」─それが問題だ
・最も根幹的な問題は、「学校とはなにか」ということであり、そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じる。  わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんだろうか。いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、どこまでも、どこまでもエスカレートする。 先ほど例にあげた横浜のいじめが、数年間も「あたりまえ」に続いたのも、学校が外の市民社会とは別の特別な場所だからだ。社会であたりまえでないことが学校で「あたりまえ」になる。
・学校とはどのようなところか。最後にその概略をしめそう。 日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。 これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。
・たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、センセイたちは被害感でいっぱいになる。  「わたしたちの学校らしい学校がこわされされる」 「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」 というわけだ。
・そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。 この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、一人一人の人間は重要ではない。人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。
・多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴(めいちょう)するためであれば、長時間労働をいとわない。 その同じ熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをする。私たちはそれをよく目にする。
・ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、大事件発生とばかりに学年集会を開いたという(見て見ぬふりをされた本人(現在大学生)の回想より)。こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。
・こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、どこまでも深く掘りさげる必要がある。 さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。
・学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。何があたりまえであるかも変わる。こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。 この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだす仕組みに、私たちはなかなか気づくことができない。
・しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。 市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。 たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。
・逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。 正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。 こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。
▽全体主義が浸透した学校の罪と罰
・学校は「教育」、「学校らしさ」、「生徒らしさ」という膜に包まれた不思議な世界だ。その膜の中では、外の世界では別の意味をもつことが、すべて「教育」という色で染められてしまう。そして、外の世界のまっとうなルールが働かなくなる。 こういったことは、学校以外の集団でも起こる。
・たとえば、宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっていることが多い。オウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。
・また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年あさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、同じかたちの膜の世界がみられる。 そこでは、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」、「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。
・学校も、オウム教団も、連合赤軍も、それぞれ「教育」、「宗教」、「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界をつくっている2。そして外部のまっとうなルールが働かなくなる。よく見てみると、この三つが同じかたちをしているのがわかる。
2漫画家・エッセイストの田房永子は「膜」という語を用いて痴漢や強姦者やストーカーなど個人の独善的で歪んだファンタジーと行動様式を描く。筆者が難解な用語を用いて理論的に探究してきた心理-社会現象を、「膜」という直感に近い語によって、一般向けに平易に説明できることに気づいた。田房氏の卓越した言語感覚に敬意を表したい。  http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/08/19/entry_005292.html
・このようにさまざまな社会現象から、学校と共通のかたちを取り上げて説明するとわかりやすい。あたりまえすぎて見えないものは、同じかたちをした別のものと並べて、そのしくみを見えるようにする。たとえば、学校とオウム教団と連合赤軍をつきあわせて、普遍的なしくみを導き出すことができる。 こうして考えてみると、学校について「今まであたりまえと思っていたが、よく考えてみたらおかしい」点が多くあることに気づく。
・これらのポイントに共通していえるのは、クラスや学校のまとまり、その場のみんなの気持ちといった全体が大切にされ、かけがえのないひとりひとりが粗末にされるということだ。全体はひとつの命であるかのように崇拝される。 この全体の命がひとりひとりの形にあらわれたものが「生徒らしさ」だ。だから学校では、「生徒らしい」こころをかたちであらわす態度が、なによりも重視される。これは大きな社会の全体主義とは別のタイプの、小さな社会の全体主義だ。
・大切なことは、人が学校で「生徒らしく」変えられるメカニズムを知ることだ。それは、自分が受けた洗脳がどういうものであったかを知る作業であり、人間が集団のなかで別の存在に変わるしくみを発見する旅でもある。 ある条件のもとでは、人と社会が一気に変わる。場合によっては怪物のように変わる。この人類共通のしくみを、学校の集団生活が浮き彫りにする。
・学校の全体主義と、そのなかで蔓延しエスカレートするいじめ、空気、ノリ、友だち、身分の上下、なめる-なめられる、先輩後輩などを考えることから、人間が暴走する群れの姿を明らかにすることができる。学校という小さな社会の全体主義とそのなかのいじめを考えることから、人間の一面が見えてくる。
・わたしたちは長いあいだ、学校で行われていることを「あたりまえ」と思ってきた。あたりまえどころか、疑いようのないものとして学校を受け入れてきた。 だからこれを読んだ読者は、「こんなあたりまえのことをなぜ問題にするのだろうか」と疑問に思ったかもしれない。だが、その「あたりまえ」をもういちど考え直してみることが大切だ。
・理不尽なこと、残酷なことがいつまでも続くのは、人がそれを「あたりまえ」と思うからだ。それがあたりまえでなくなると、理不尽さ、残酷さがはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも、「ひどい」と感じられない。歴史をふりかえってみると、このことがよくわかる。
・これを読んで心にひっかかっていたものが言葉になったときの、目から鱗が落ちるような体験を味わっていただければと思う。もっと知りたいという方は、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』を手に取ってください。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50919

次に、上記の続きを11月2日付け現代ビジネス「いじめ自殺を隠蔽するとき、教育者が必ず口にする「異常な論理」 これを変えねば、いじめは消えない」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽何度でも伝えたい「いじめの構造」
・逃げることができず、どこまでも追い詰めていくいじめ。生徒を「生徒らしく」するためだけの、些末でしつこい内部規則。いつも周囲の空気を気にして過剰同調し続けなければならない集団生活……。 学校という囲い込み施設の有害性は、何十年も社会問題になっているが改善されない。 学校や教育の世界を聖域扱いし、それを「あたりまえ」と思いこむ習慣が一般大衆に浸透しているからである。 そして、マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちが、でたらめな現状認識と対策をまきちらし、一般大衆がそれを信じてしまうためでもある。
・日本の学校、特に中学校の全体主義ぶりは、北朝鮮によく似ている。個人の市民的自由を奪い、人間を頭のてっぺんからつま先まで集団化してしまう。私たちは、学校や教育についての「あたりまえ」の感覚によって、そのことが見えなくなってしまっている。
・「日本の学校から『いじめ』が絶対なくならないシンプルな理由」で、筆者は次の単純明快な正解を示した。 現状分析:①外部から遮断した閉鎖空間に閉じこめ、②強制的にベタベタさせる生活空間が、いじめを含む残酷と理不尽を蔓延させ、エスカレートさせている。
・有効な対策:①反市民的な「学校らしい」秩序を許さず、学校を市民社会の秩序で運営させる。②閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせることをせず、ひとりひとりが対人距離を自由に調節できるようにする。
・このことについては、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)で詳しく論じた。
▽主題のすりかえが起きている
・「日本の学校は地獄か…いじめ自殺で市教委がとった残酷すぎる言動」から今回まででは、茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件と、それを隠蔽しようとしたと考えられる教育委員会のふるまいをもとに、次のことを行う。 ①教委のふるまいとそれに対するメディアの反応を分析し、市民社会が教育に侵食され、別の種類の教育的な「あたりまえ」がまかり通ってしまう現状を示す。 ②学校制度が強いる集団生活の中で、いじめ被害者が破壊されていく構造的なしくみを分析し、「閉鎖空間設定責任」という新しい考え方を提唱する。
・これまで、いじめ自殺を隠蔽しようとする教委のふるまいを次のように分析した。 まず教委にとっての利害損得があり、それに応じて教育的なストーリーのなかから都合の良い素材を選び出し、いいわけとして組み立てる。 それは、オウム真理教教団が利益を図って行う殺人に、「ポア(魂を高いところに引き上げる慈悲の行い)」という宗教的な意味づけをするのと同じである(「日本の学校から『いじめ』が絶対なくならないシンプルな理由」)。
・だが、オウム教団とは異なり、教委や学校関係者による意味づけは、人びとが教育を特別扱いする思考習慣に支えられて、社会に受け入れられてしまう。 そのため、教委や学校関係者(生徒や教員、校長など)は責任を問われることなく、通常ならば処分・処罰される行為をやりたい放題になる。
・このとき、主題のすりかえが生じている。 つまり、教委や学校関係者が引き起こす悪や残酷に対し、何が問題であり、どうすれば適切に対処したといえるか、という<問いと答えのセット>そのものが、社会正義を主題とするものから教育を主題とするものへと、すりかえられている。
▽「信頼」ではなく、チェック機能を
・今回の事件では、教委はいじめの隠蔽工作に手を染めていたと考えられる(くわしくは前回および前々回を参照)。これは、公共団体幹部グループによる重大かつ悪質な背任行為である。相応な処分は懲戒免職しか考えられない。
・さらに教委によるこの背任行為は、遺族に対しては、名誉毀損(虐待デマの流布)や、これによって非人道的な精神的苦痛を与えた(虐待デマが子を失った遺族に対するものであることを考えてみよ!)可能性も含めて追及されるべきものである。
・だが報道によれば、教委は処罰も処分も受けず、記者会見で「被害者によりそい、信頼を回復しながら次に向かっていくよう努めます」と語る。メディアも「不信」「信頼の危機」「信頼回復」といった報道を繰りかえす。被害者も「信頼が失われた」と語る。 メディアでは、「信頼を取り戻すにはどうしたらよいか」といった教育の問題へ主題がすり替わった。教委幹部たちは不正行為を行ったかどうかを追究されず、不信をまねいた過誤によって非難されるだけの人となった。
・何か問題が生じたときに、合い言葉のように口に出される「教育(教委、学校)への信頼」が、社会正義によるチェック機構を働かないようにする。そして、教委や学校関係者の不正や残酷を免責し、教育関係者はどんな非道をはたらいても責任を問われないという事態を生み出す。 教育委員会や学校は、たとえば土建会社のような他の職種と同じものとみなさなければならない。 土建会社が談合や政治家への賄賂をしないと期待できるのは、社会正義の制度による厳しいチェック・システムがある場合だけである。土建会社が土建会社であるというだけの理由で土建会社への信頼を要求するような習慣は有害である。
・それとまったく同じで、教育関係者が教育関係者であるというだけの理由で教育関係者を信頼するという習慣も、きわめて有害である(ここでは、チェック・システムが重要という一点に限って土建会社を比較対象にした)。 子どもを守るためには、そのような信頼をなくさなければならない。
・重要なのは、教育(教委、学校)への信頼ではない。社会正義のしくみを確かなものにすることだ。 私たちの目標は、教委幹部も教員も生徒も悪をしたくてもできなくなり、そのうち大部分の人が悪をなそうとも思わなくなり、善人になってしまうような、うまくまわるシステムをつくりあげることだ。そのうえで、うまくまわっている程度に応じてそのシステムを信頼すべきなのだ。
・信頼できるチェック・システムという観点からは、いじめを隠すと得をする利害当事者である教育委員会が、いじめ調査委を設置することを、即座にやめさせなければならない。これは暴力団が警察を設置するようなことだ。
・「被害者によりそい、信頼を回復しながら次に向かっていくよう努めます」といったたぐいの教委の発言には、被害者を害しておきながら、きずな・よりそい・信頼関係をまくしたてるストーカーと<同じかたち>のおぞましさがある。
▽恐怖の「教育的ストーカー」論理
・これまでの経緯を約すると、遺族は「あなたたち教委のことは信頼しない。もう関わり合いになりたくない。あなたたちは、私たちが虐待したから子どもが死んだというデマをまき散らして、いじめを隠蔽している」と訴えている。 これに対し、不正や加害をなしたと考えられる教委は責任をとろうとせず、「おれはおまえたち遺族との信頼を回復するぞ。教委(教育)への信頼を回復するのだ。おれはおまえたち遺族によりそうぞ」という内容の教育的ストーカー論理を、議会や記者会見で堂々と口にしているのである。
・もちろん教委は、自己利益のために、遺族をどこまでも虫けらのように扱ってきた(教委が遺族をどのように扱ってきたかについては、前回と前々回を参照されたい)。 報道をみるかぎり、教委は本物のストーカーとことなり、ほぼ100%損得勘定で動いていると考えられる。乾いた保身のために利用する教育の論理が、べとべと粘りつくストーカーの論理と同じ形をしているのだ。 この乾ききった保身の利害計算と、粘りつく教育的お涙頂戴芝居をつなぎ合わせるコンビネーションは、もはや教育関係者の職能にもなっている。
▽なぜ校長は泣くのか
・取手市のケースとは別であるが、このことを示す一例をあげよう。 いじめ調査の第一人者ともいうべき探偵の阿部泰尚によれば、校長たちは、不都合なことを表沙汰にしないでほしい、責任をのがれたい、という意向を暗に伝えるための<芸>として泣くことが多いという。もちろん、泣いても不誠実であることは変わらない。
・阿部は次のように述べる。 「それにしてもなぜ校長先生という人たちは、あんなにも頻繁に人前で泣き出すのだろう。私の経験から言うと、依頼者である親御さんにいじめの調査資料を突きつけられた段階で、4割ぐらいの校長が泣き出す。特に警察沙汰になりそうな事案では、泣き出すことが多い。 (略)彼らが本気で泣いているとは思えない。(略)ことを荒立てないで欲しい。(略)穏便に事が運ぶように計らって欲しい。それを暗に伝えるために泣いている。というか泣いて見せる。…。校長が泣いた後でも実際に何もしない学校が多い」(阿部泰尚『いじめと探偵』p.p.168-171)
・私たちの社会では通常、正当性が問題となるやりとりにおいて、責任ある立場の者が不祥事に目をつぶってほしいと泣くことは、否定的に扱われる。場合によっては嘲笑のまとになりかねない。泣くことは利益にならないので、多くの人はやらない。 不祥事を表沙汰にしないでほしいときに校長が泣くことが驚くほど多いとすれば、それは功を奏する見込みが大きいからである。
・すなわち、「ここは教育の場である」と感じられる状況では、通常の公共的秩序が崩れて、不祥事隠蔽のために泣くことが功を奏するような別のタイプの秩序にとって代わられているということである。校長はそこにつけこんで泣く。
・ここで重要なことは、私たちの社会がどうなっているかということだ。 この社会は、教育に侵食され穴があいている。不祥事でも校長が泣けば許される穴。教育によって市民社会のルールと人権が否定される穴。教育であれば暴力や全体主義が許される穴。 この穴が広がるにつれて、社会が別のタイプの不健全な秩序に飲み込まれてしまう危険が大きくなる。
▽「教育」なら何でも許されるのか
・この穴がどれほどのものか、マス・メディアの報道スタイルから考えてみよう。 以下の思考実験が示すように、報道は、私たちの社会がどのような状態にあるかを示す指標として用いることができる。 もし、マス・メディアが先述のポアといういいわけを真実とみなし、「過度のポア」「行き過ぎたポア」と報道したとすれば、それは、私たちの社会がオウム真理教にひどく侵食されていることのサインであるといえる。 また、マス・メディアが暴力団による暴力犯罪を「過度の任侠」「行きすぎた任侠」と報道したとすれば、それは、私たちの社会が暴力団にひどく侵食されていることのサインになる。
・もちろん、このような思考実験上のシナリオは、現実にはありえない。しかし、こと教育に関しては、このようなことは、あたりまえに起こっている。 NHKのドキュメンタリー番組『クローズアップ現代 なぜ続く〝いじめ自殺〟~こどもの命を救うために』(2017年7月18日放映)は、取手市教育委員会によるいじめ隠しを、背任行為ではなく、「過度な配慮」「行きすぎた配慮」と報道した。
・このことは、上で述べた思考実験上のシナリオが実際に起こったと仮定した場合と同程度のひどさで、私たちの社会が教育に侵食され、市民の秩序が破壊されていることを示している。 このような、教育であれば何でも許されるタイプの報道は、これまでも繰りかえされてきた。「教育熱心のあまり」の「行きすぎた指導」と、あたりまえのように。
・さらに教員による暴力犯罪は、「体罰」と呼ばれるので、被害者の方に何らかの「罰」を受けるにふさわしい落ち度があり、それに対して加害者が「教育熱心のあまりの行きすぎた指導」をしてしまったというストーリーで認識されるようになる。 そして、「先生がここまでやらざるを得なくなるぐらいなのだから、よほど困った生徒なのだろう」と暴力被害者の方に否定的な感情がむけられるようになる。
・こうして「体罰」という誤称によって、教員からの暴力被害者は、レイプ被害者のように二重の被害をこうむることになる(ジャーナリストは、このような二次被害が生じるのを避けるため、教員による暴力犯罪に「体罰」という語を用いるのをやめなければならない)。
・このようにメディア報道を指標として、私たちの社会が教育によって侵食され、市民の秩序が破壊されていることを見て取ることができる。 さらにこの『クローズアップ現代』の後半は、いじめの基本を外した相談系、受け止め系、教員の心がけ系の、無意味な対策の羅列である(上記NHKサイトを参照)。 無意味なことを、いじめ対策と称して意味ありげに並べ立てるのを見ると、そこまでして閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせる特殊な学校制度を維持したいのかというのが正直な感想である。
▽「異常な論理」が「あたりまえ」に…
・なぜ、極端な集団主義で悪名高い異常な日本の学校を、せめて先進諸国グループの普通の学校程度に変えるぐらいのことを、誰も提案しないのか(いじめは世界中どこにでもあるが、追い詰められる程度が格段に違ってくる)。 それは、番組を制作する側も含めて多くの人びとが、異常な学校の「あたりまえ」を常識として疑うことなく信じ込んでいるからだ。
・また、この番組をつくった人たちは、いじめの主役は加害者の群れであり、加害者を抑制しなければ意味がないことを理解していない。「気持ちを受け止める」相談のあと、あいかわらず加害者に痛めつけられて自殺するということは、いくらでもある。 加害者を制止するか、被害者の生活圏から排除することができなければ、相談など無意味なのだ。学校を、法によって個人が守られ、加害者との距離を自由に調節することができる市民的な生活空間にする以外に、有効な対策はない。
・筆者は冒頭で、マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちが、でたらめな現状認識と対策をまきちらし、一般大衆がそれを信じてしまうと述べた。  この現状に対し、多くの人たちに次の寓話を読んでもらいたい。そして新聞・雑誌・テレビでいじめ対策を目にするたびに、思い出していただきたい。
・ある国では、35歳から40歳までの人を強制的に収容所の監禁部屋に閉じこめて理想の共同生活をさせることにした。そのなかで、人びとは、狭い檻に閉じ込められたネズミのように、互いに痛めつけ合うようになった。人びとを監禁部屋に閉じこめること自体不当であり、収容所から開放するのが基本である。しかし、国は監禁部屋の生活を少しでも快適で健康的なものにしようと、壁紙を三日に一回変えたり、音楽を流したり、早寝・早起き・朝ご飯を推奨したりする工夫をし、それを国民にアピールした。国民はいつのまにか、監禁部屋に閉じこめること自体を問題にしなくなった。そして、監禁部屋で35歳から40歳までの人たちが、すこしでも「マシ」な生活になるような、些末で矮小な工夫がなされたことを、あたかも問題の解決に近づく努力であるかのように報道するようになった(拙稿「インターネットを用いたいじめや迫害をめぐる諸問題」加納寛子編著、内藤朝雄・西川純・藤川大祐著『ネットいじめの構造と対処』金子書房)。
・マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちがやっているのは、こういうことだ。 マス・メディアの報道は、①世に影響を及ぼすと同時に、②一般大衆の思考や感情の習慣を示す指標になっている。 制作側は、一般大衆の思考や感情の習慣にあわせて番組をつくっていると考えられるからだ。
・メディアの報道内容は、日本の市民社会がどのぐらい教育的な<別の現実>に侵食され、乗っ取られているかを如実に示す。 メディアと大衆のあいだには次のような悪循環が生じる。 メディアが大衆ウケするように企画を立てて、でたらめな教育論を流す→大衆のでたらめな「あたりまえ」が強化される→メディアはその「あたりまえ」にあわせて大衆ウケするように企画を立てて、でたらめな教育論を流す→大衆のでたらめな「あたりまえ」がさらに強固になる。
・そしてメディアは、この悪循環のなかでつくられた企画どおりに発言する識者や芸能人を選択する。企画よりも水準が高い発言をする専門家は使われなくなる。
▽マスコミも加担している
・筆者の経験を一つ紹介しよう。 【NHKの事例】  筆者のもとにNHKから出演依頼がきた。筆者はすぐに了承しますとメール送信し、スケジュールに日程を入れておいた。電子メールで送られてきた企画書には、驚くべきことが書かれていた。  「『いじめられた生徒は、なぜ話を聞いてくれる人がいないと自殺するのか?』と聞きますので、『気持ちを受け止めてもらうことが大切だから』と答えてください」。これに対し筆者は、「話を聞いてもらえれば、いじめ被害者が自殺しなくなるなどということはありません。ひどいいじめをされて、話を聞いてもらって、その後で、相変わらず加害行為が続いて絶望し、自殺するケースはいくらでもあります。重要なことは、いじめ加害者の迫害を止めること。狭いところに閉じこめないことです」と電子メールで返答をした。
・すると、まったく返事が来なくなった。放送日が迫っていたため連絡を入れたところ、「内藤さんの出演はとりやめになりました」とのことだった。 実際に放送された番組を見たところ、筆者の代わりになぜか同姓の元ボクサーが登場し、自分のいじめ体験を語った後、「いじめられている君の気持ちはわかるよ」といった心の話をしていた。
・最近のいじめ報道では、限られた報道枠になにを押し込むかが、教委の言動関連にかたよっている。今回のいじめ自殺事件についての報道も、大半は教委の言動に関するものだ。 教委の背任行為に関しては、少ない報道枠で社会正義の観点から非難し、そのとおりであれば懲戒免職にすべきではないかと報じればよいだけだ。また、背任行為に対し法的な処罰規定をもうけるべしと簡潔に報じればよいだけだ。
・報道枠の大部分は、子どもたちを苦しめているいじめと、それを歯止めなく蔓延させ、エスカレートさせている学校制度の改革に割くべきだ。 メディアは最も重要な①中島菜保子さんに対する集団加害の問題を無視し、②集団加害に教員が関与していたかもしれない問題を無視し、③集団加害が蔓延しやすい有害環境としての学校の問題を無視する。
・そして、教委の言動に大量の報道枠を絞ったうえで、教委(教育、学校)への信頼が危機にあるとのストーリーで報じ、一般大衆がそれを「あたりまえ」に受け止める。問題の中心が正義から信頼にズラされたことに、だれも異をとなえない。気づきもしない。
・一人の女子中学生が学校のグループによっていじめ殺されるという痛ましい事件が起きたのだ。いじめ殺すとは、「さんざん苦しめ悩まして殺す。苦しめ抜いて死なせる」(『日本国語大辞典』)の意である。 社会正義という点からは、菜保子さんをいじめ殺した加害者たちにも厳しく責任をとらせることが要請される。教育でごまかすことができるような問題ではない。
・また、社会正義は、このような事件が起きる有害環境としての学校のしくみを分析し改善することを要請する。 もっとも重要なことは、菜保子さんは、学校で特殊な集団生活さえしなければ、追いつめられて死ぬはずがなかったということである。 また加害者のA子、B子、C子ら(場合によっては教諭も含まれる可能性がある)も、学校で特殊な集団生活さえしなければ、他人を死においつめる怪物になることはなかったということである。
・学校の閉ざされた特殊な集団生活が、あたりまえの市民生活を送っていれば死ぬはずのなかった少女を遺体にし、怪物になるはずのなかった人を怪物にしたのだ。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53330
なお、ここまでで、相当長くなったので、11月3日付け「人格を壊して遊ぶ…日本で「いじめ自殺」がなくならない根深い構造 戦争中の全体主義を超えている…」の紹介は明日にする予定である。

第一の記事で、 『私たちが学校に関して「あたりまえ」と思っていることが、市民社会のあたりまえの良識を破壊してしまう。この学校の「あたりまえ」が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる環境要因となっているのだ』、との指摘のユニークさに驚かされた。  『いじめを蔓延させる要因・・・対策』、も指摘されてみると、確かにその通りだ。 『人間が群れて怪物のように変わる心理-社会的な構造とメカニズムを、探求すべき主題として方向づける概念として「いじめ」を用いている。 それに対して、誰かに責任を問うための概念としては、「いじめ」という概念を使うべきではない。責任を問うために使うものとしては、侮辱、名誉毀損、暴行、強要、恐喝などの概念を使わなければならない』、との定義づけは、大胆だが、説得力がある。横浜市での原発いじめについて、 『公的に責任を問う局面で犯罪認定すべきところを「いじめ」扱いでお茶を濁すこと自体が不適切なのに、さらにそのなけなしの「いじめ」認定すら教育長はしない。その意味でこの教育長は解職すべきであるし、市長が動こうとしなければ次の選挙で落とすべきである』、その後、いじめ認定だけはしたようだが、犯罪認定などする素振りもない。 『全体主義が浸透した学校の罪と罰』、もその通りだ。
第二の記事の  『主題のすりかえが起きている』、 『「信頼」ではなく、チェック機能を』、 『「教育」なら何でも許されるのか』、 『「異常な論理」が「あたりまえ」に』、 『マスコミも加担している』、なども見事な指摘だ。
これらの指摘で、私のいじめ問題に対する見方は根底から覆された。フーム、なるほど・・・。
タグ:対策 いじめ問題 福島原発事故 現代ビジネス 内藤 朝雄 (その5)(いじめ問題研究家 内藤 朝雄氏による2題:日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由、いじめ自殺を隠蔽するとき 教育者が必ず口にする「異常な論理」) 「日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由 だから子どもは「怪物」になる」 私たちが学校に関して「あたりまえ」と思っていることが、市民社会のあたりまえの良識を破壊してしまう。この学校の「あたりまえ」が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる環境要因となっているのだ いじめを蔓延させる要因 、①市民社会のまっとうな秩序から遮断した閉鎖空間に閉じこめ ②逃げることができず、ちょうどよい具合に対人距離を調整できないようにして、強制的にベタベタさせる生活環境が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる 、①学校独自の反市民的な「学校らしい」秩序を許さず、学校を市民社会のまっとうな秩序で運営させる ②閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせることをせず、ひとりひとりが対人距離を自由に調節できるようにする 『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書) 横浜に自主避難していた子どもが、何年にもわたって学校でいじめを受けていた 岡田優子教育長が、「金銭授受をいじめと認定できない」と発言 問題の本質は、学校が迫害的な無法状態になりがちな構造にある 市民社会のあたりまえを、学校のあたりまえに洗脳された人は思いつきもしない。ここで生じていることは無法状態であり、犯罪がやりたい放題になることである。これは社会正義の問題 筆者は「いじめ」という概念を、ものごとを教育的に扱う認識枠組として用いていない。人間が群れて怪物のように変わる心理-社会的な構造とメカニズムを、探求すべき主題として方向づける概念として「いじめ」を用いている 誰かに責任を問うための概念としては、「いじめ」という概念を使うべきではない。責任を問うために使うものとしては、侮辱、名誉毀損、暴行、強要、恐喝などの概念を使わなければならない 認定すべきは、犯罪であり、加害者が触法少年であることであり、学校が犯罪がやり放題になった無法状態と化していたことだ。そして責任の所在を明らかにすることだ 公的に責任を問う局面で犯罪認定すべきところを「いじめ」扱いでお茶を濁すこと自体が不適切なのに、さらにそのなけなしの「いじめ」認定すら教育長はしない その意味でこの教育長は解職すべきであるし、市長が動こうとしなければ次の選挙で落とすべきである 学校が人間を群れた怪物にする有害な環境になっているということが、ひどいいじめから見えてくる 日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。 これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ 一人一人の人間は重要ではない。人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない 熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをする。私たちはそれをよく目にする この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだす仕組みに、私たちはなかなか気づくことができない 社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。 逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する 全体主義が浸透した学校の罪と罰 学校は「教育」、「学校らしさ」、「生徒らしさ」という膜に包まれた不思議な世界 「いじめ自殺を隠蔽するとき、教育者が必ず口にする「異常な論理」 これを変えねば、いじめは消えない」 日本の学校、特に中学校の全体主義ぶりは、北朝鮮によく似ている 主題のすりかえが起きている 信頼」ではなく、チェック機能を 教育」なら何でも許されるのか 教員による暴力犯罪は、「体罰」と呼ばれるので、被害者の方に何らかの「罰」を受けるにふさわしい落ち度があり、それに対して加害者が「教育熱心のあまりの行きすぎた指導」をしてしまったというストーリーで認識されるようになる 、「先生がここまでやらざるを得なくなるぐらいなのだから、よほど困った生徒なのだろう」と暴力被害者の方に否定的な感情がむけられるようになる 「体罰」という誤称によって、教員からの暴力被害者は、レイプ被害者のように二重の被害をこうむることになる 異常な論理」が「あたりまえ」に マスコミも加担している
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