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アベノミクス(その24)「働き方改革」10(小田嶋氏の見解) [経済政策]

昨日に続いて、アベノミクス(その24)「働き方改革」10(小田嶋氏の見解)を取上げよう。小田嶋氏のコラムの場合の通例として、内容的には私が分類した「働き方改革」とは距離がある気もするが、大晦日に免じて大目にみて下さい。

コラムニストの小田嶋隆氏が12月22日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「汝、退屈を憎むなかれ」を紹介しよう。
・昨年あたりから折にふれて話題になっていた第三次産業の人手不足は、ここへきていよいよ本格的な局面に突入してきたようで、もうすぐやってくる来年のお正月は、久しぶりに、休業する店舗のシャッターが目立つ、静かな三が日をわれわれにもたらすことになるかもしれない。 まだ、実際に来てみるまではわからないが、いくつかの新聞記事が伝えている感じでは、今度の正月は、年中無休24時間営業という、この30年ほど当たり前になっていたトレンドが、折り返し点を迎える最初の正月になる雲行きだ。
・日本経済新聞の電子版は 「さらば年中無休 年末年始、大戸屋や携帯ショップ休業」という、やや詠嘆調の見出しで、この間の事情を伝えている。 記事によれば、定食屋チェーンの大戸屋ホールディングスは、この12月の18日、大みそかと元日に休む店を2倍に増やすことを発表しており、携帯電話販売店にも年末年始に休業日を設ける動きが広がっているのだという。
・今回は、今年最後の更新(次回は、新年吉例の「いろは歌留多」を掲載するつもりです。さすがにネタ切れの感は否めないのですが、苦しいこじつけにこそ渋い味わいが宿るのがこの仕事の醍醐味でして、まあ、そこのところはよろしくよろしく)でもあれば、年末年始の長期休暇を控えた時期の原稿でもあるということで、「休み」についてあたらめて考えてみたい。
・私の世代の人間が子供だった時代、正月は、総じて退屈な季節だった。 お年玉による臨時収入が期待できることを除けば、冬休みは、万事にイベントの多い夏休みに比べて、どうにも時間のつぶしように困る二週間だった。 少なくとも、私の記憶では1970年代の終わり頃までは、東京の正月は、冴えない季節だった。
・というのも、商店街と言わずデパートと言わず、商店という商店が軒並みシャッターを降ろしているこの時期の東京の街路は、文字通り、人通りの絶えるゴーストタウンだったからだ。 飲食店も、ごく限られた都心部や初詣観光地周辺の店舗を除けば、基本的には三が日が終わるまでか、ひどいところになると松が明けるまでは開店しなかった。
・そんなわけで、わたくしども昭和中期の子供たちは、冬休みが終わるまでの正月の間、まるまる家の中に閉じこもって暮らすことを半ば強いられていた。これは、遊びたい盛りの子供には、試練だった。
・私は、必ずしも学校が大好きだった子供ではないのだが、それでも、毎年、年が明けて3日もたつと、早く学校が始まることを心待ちにしたものだった。近所に住んでいる友達が帰省やら観光やらでどこかに消えてしまう正月は、実家の居間で家族揃ってテレビのお屠蘇番組を視聴している時間の身を刻むような退屈さといい、酔っぱらった年始客の相手をすることの面倒くささといい、何年かに一度しか会わない親戚の子供たちと一緒に遊ばねばならないノルマの気詰まりさといい、負担ばかりが多い時期だったからだ。
・一日二日は、それでも、お年玉をもたらす来客を待ち構える気持ちで、退屈を押さえ込むことができた。 しかし、脳内にある予定回収先名簿のチェック欄がおおかた埋まってしまうと、休日のやるせなさは、いよいよ呼吸困難に近い実感をともなって身を圧してくる。実に、子供というのは、変化のない時間に耐えられないように設計されている生き物なのであって、してみると、年末年始のもたらす空白と虚脱は、一人遊びのゲーム端末が発明されていなかった時代の子供にとっては、ちょっとした苦行だったのである。
・あの時代の正月に比べれば、21世紀の便利で快適でビビッドで娯楽満載な正月を過ごすことのできる現代の子供たちは、ずっと幸せだと思う。 もっとも、公平を期して言えば、今の子供たちには今の子供たちにしかわからない、彼らなりの苦しみがあるはずで、だとすれば、その現代の子供に特有な苦しみを感知することのできない古い世代の人間が、現代の子供たちの暮らしぶりを指して、安易に「幸せだ」と評するのは、無神経な言い方なのかもしれない。
・とはいえ、子供は、つまるところ、自分を理解しない人間に育てられる宿命を担っている。 このことは逆方向から見れば、大人が子供を育てることは、理解を絶した者に語りかける徒労の過程だということで、どっちにしても大切なのは理解しているかどうかではなくて、コミュニケーションを試みているかどうかなのだ。
・振り返ってみれば、私の世代の子供も、大人たちから 「おまえたちは恵まれている」 という呪いの言葉を折にふれて投げかけられたものだった。 たしかに、私たちは、一世代前の彼らの多くが味わったような餓えや貧困とはあまり縁がなかった。
・しかし、私自身は「恵まれている」と言われるたびに、「うっせえな、じゃああんたもう一度子供をやってみろよ」と思わずにはいられなかった。 子供はいずれ大人になる。が、大人は二度と子供に戻ることができない とすれば、両者の間で交わされている会話は、30年後にならないと意味が伝わらない。 むずかしいものだ。 話がズレてしまった。
・私が訴えたかった話の要点はこうだ。 昭和の時代の正月のあのどうにもならない停滞と無縁でいられる点に限っていえば、私は現代の子供たちの楽しそうな姿をうらやましく思っている。が、一方で、子供として生まれた者が、退屈といういわく言い難い時間を通過しないことが、果たして人間の生育過程として正しい経過なのだろうかという疑問を抱いてもいる、と、そういうことだ。
・私は、意地の悪い気持ちで、21世紀の子供たちに退屈を味わってほしいと思っているのではない。ただ、退屈に苦しむ膨大な時間を経験せずに育った子供が、きちんとした大人になれるものなのかどうかについて、確信のある答えを見出すことができずにいるということにすぎない。
・冒頭で紹介した日経新聞の記事の末尾は、「従業員が集まらなければ店は開けない。だが店を休めば売り上げは減る。経営者が解くべき方程式の変数は増え、一段と難しくなる。」 という文言で締めくくられている。 さすがに日経新聞の記事らしく、徹頭徹尾、経営側の目線で書かれている点が興味深い。
・記者は、従業員の疲労や顧客の利便よりもなによりも、売り上げと人員確保のダブルバインドに悩む店主の気持ちに焦点を当てている。 このもっぱら経営サイドオンリーの角度から事態を見渡す発想は、「プレミアムフライデー」を展開している経団連の中の人たちが、月末の金曜日に何時間か早く退社するというこの運動を、「労働時間の削減」や「従業員の休息時間の確保」という側面ではなく、「レジャー消費の増大」を第一の狙いに掲げる文脈でアピールしていることと、一脈通じる話だと思う。
・つまり、「経済」をマクロで見ている人たちは、「休日」を、「消費機会」ないしは「日常の消費とは別の新たな市場」として定義しているわけで、個々のミクロの労働者の「休息のための時間」として見る見方は、あんまりしていないということだ。 《月曜午前休で「ラグジュアリーマンデー」 自民ナイトエコノミー議連が提言》 というタイトルで配信されているこの記事も、同じ発想を共有している。
・「ラグジュアリーマンデー」なる新語の語感や「自民ナイトエコノミー議連」という紫ネオン看板じみた議連名のあまりといえばあまりな面妖さはともかくとして、大切なポイントは、この新しい休暇プランを推進している政治家たちもまた、労働者の休息を促しているのではなくて、むしろ、休日の労働者を消費に向かって駆り立てるアイディアを熱心に語っている。彼らは、「市場」なり「需要」を「創出」しようとしている。その意味では、むしろ「休むな」と言っている。正確には「寝るな。部屋を出ろ。もっと遊べ」ぐらいだろうか。
・つい昨日、安倍晋三首相が講演の中で語ったと言われている 「インスタ映えが地方活性化の鍵(こちら)」 だという言葉も、同じ文脈に連なっている気がする。 「SNS映え街道風景を増やしていきたいと思います」 という首相の言葉が、現実問題としてその街道を含む地域の経済を活性化させるものなのかどうかは、私にはよくわからない。
・ただ、首相が日本の各地域の景色を、フォトジェニックな方向に洗練しようと、本気でそう画策しているのだとしたら、その考えはいささかピントが外れていると思う。 というよりも、「写真に撮った時に魅力ある画像としてシェアできるように風景を改造する」試みは、そもそも本末転倒だと申し上げたい。
・当たり前の話だが、景色のために生活があるのではない。 人々が生活している空間を一定のアングルで切り取った結果が「景色」というタグ付きで写真に収められる。で、そのうちの特別に印象的な一枚を人々が「インスタ映え」と呼んでいる、と、そういうお話に過ぎない。
・まず最初に前提としてあるのは、地域に特有な地形と風土であり、そのうえに人々の生活と四季の移り変わりがあってはじめて「景色」が発生する。この順序は動かない。景色すなわちインスタ写真とは、煎じ詰めれば、地域の自然と人々の生活が作用してできあがった有機的な造形を、撮影者のインスピレーションが、特定の画角と焦点距離と被写界深度等の条件のもとにフレームの中に固定した結果なのであって、インスタ写真としての完成度を洗練するために太陽がのぼっているのでもなければ人々が歩いているのでもない。
・とすれば、絵に描いた餅を家族の夕食に供する家計運営が幻想であり、グラビアモデルの写真パネルと結婚式を挙げることが滑稽であるのと同じ理路において、インスタ映えを追い求めることで国民の生活の向上を達成しようとしている人間のアタマの中に入っている味噌が腐っていることは明白だと申し上げざるを得ない。
・20代の頃頻繁に行き来していた友人にF井という男がいる。 F井はとにかく活動的な男で、仕事でも遊びでもいつもスケジュールをガチガチに詰めて暮らしている若者だった。 私は、対照的に、休息が必要な性質だった。 遊びでも仕事でも、根を詰めて取り組むと、その後に必ず揺り戻しが来るからだ。なんというのか、8連勤で働いたら3日ぐらいは寝て過ごしたいし、二泊三日でスキーに行ったら、帰京して3日は家にこもらないと疲れが取れない体質だったということだ。
・ある時、そのF井に 「おまえはそんなに忙しく暮らしていて、いつ疲れをとるんだ?」 と尋ねたことがある。 この時の彼の答えがなかなかの名言で、私はその言葉をいまでも覚えている。「仕事の疲れは遊びの疲れで取るんだよ」 と彼は言った。 「っていうか、仕事の疲れはただ休んでたって取れないだろ? 思いっきり遊んではじめて仕事の疲れが消えるんだと思わないか?」 なるほど。
・ストレスの発散という意味では、確かに彼の言うことには一理ある。 私自身にも、そういう部分がなかったわけではない。 実際、あるタイプのストレスは、ただ寝転がっていれば消えるというものではない。 とはいえ、私が仕事の疲れを遊びの疲れで癒していたのは、ごく若い時代の限られた期間の話で、ある程度年齢が行ってからは、仕事の疲れには仕事用の休息が、遊びの疲れには遊び専用の不活発時間が必要な仕様になった。
・これは仕方のないことだ。 誰であれ、永遠に子供でいることはできない。 いずれ、永遠に休息することになるのだとして、その永遠の眠りに先立つ何年かの期間は、活動時間よりも休息時間の方が長い種類の人間として暮らすのが自然で、私はそういう人間になりつつある。
・さて、「仕事の疲れを遊びの疲れで取る」タイプの人間は、実は、日本のビジネス社会のコアの部分を支えている人々でもある。 だからこそ、「プレミアムフライデー」みたいなプランを企画立案するお役人や経団連企業のメンバーたちは、休日の時間を「消費」の時間と考える枠組から決して外に出ない。
・彼らは、労働者が支出もせずに休息することを、「停滞」と見て、たぶん憎んでいる。 でなくても、人間を経済学上の統計の一単位としてしか見ない一派の人々は、生産と消費のいずれにも従事していない人間(すなわち休息している人間)に対しては、軽い殺意を抱いている。 とはいえ、私たちは働かないからという理由で死ぬわけにはいかない。 休日に遊ばないからという理由でゴミ扱いを受けたいとも思っていない。
・なぜというに、20代の若者はいざしらず、大人の疲れは、遊びなんかでは取れないからだ。 休みは、停滞だ。 だからこそ、一部の人々はそれを恐れている。 開いているはずの店がシャッターを降ろし、生産が停滞し、バスが運休し、商品が流通せず、人々が歩きまわらないのが休みの本来の姿で、だから、休日は、不活発で暗く不便で退屈でなければいけない。そうでなければ、人々は本当に休むことができない。
・逆に言えば、休日に消費を促そうとする運動は、休日を休日でなくそうとする試みなのだ。あるいは、ハレの経済とは別にケの経済(注)を立ち上げようとする(逆かもしれない)試みが、レジャー産業だということなのかもしれない。
(注)ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している(Wikipedia)
・いずれにせよ、日常的な平日の産業とは別に、オルタナティブな産業活動を設定して、そこで経済をまわそうとする発想は、個人的には卑しいと思う。
・結論を述べる。 大人の疲れは、停滞と不活発によってしか癒やされない。もっと言えば、大人になった人間は退屈という過程を通じてでないと疲れから解放されることができない。 とすれば、レジャー消費などという選択肢はもってのほかだ。
・もちろん、若い人の場合は、話が違うのだろうとは思う。 そういう人たちは遊べば良い。 ただ、君たちも永遠に刺激を求めることはできないし、好奇心を満たし続けることもできない。 いずれ、必ず、退屈を求めるようになる。 というのも、大人というのは、退屈と和解した人間を指す言葉だからだ。 ん? そりゃ老人だ、と? そうかもしれない。 退屈な文章で、申し訳なかった。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/122100124/

小田嶋氏が指摘する 『年末年始のもたらす空白と虚脱は、一人遊びのゲーム端末が発明されていなかった時代の子供にとっては、ちょっとした苦行だった』、というのは思い出してみれば、確かにそうだった。 『子供はいずれ大人になる。が、大人は二度と子供に戻ることができない とすれば、両者の間で交わされている会話は、30年後にならないと意味が伝わらない。むずかしいものだ』、との指摘もなかなか興味深い。 『このもっぱら経営サイドオンリーの角度から事態を見渡す発想は、「プレミアムフライデー」を展開している経団連の中の人たちが、月末の金曜日に何時間か早く退社するというこの運動を、「労働時間の削減」や「従業員の休息時間の確保」という側面ではなく、「レジャー消費の増大」を第一の狙いに掲げる文脈でアピールしていることと、一脈通じる話だと思う』、『「自民ナイトエコノミー議連」・・・この新しい休暇プランを推進している政治家たちもまた、労働者の休息を促しているのではなくて、むしろ、休日の労働者を消費に向かって駆り立てるアイディアを熱心に語っている。彼らは、「市場」なり「需要」を「創出」しようとしている。その意味では、むしろ「休むな」と言っている。正確には「寝るな。部屋を出ろ。もっと遊べ」ぐらいだろうか』、などの鋭い指摘は私が気付かなかった視点を示してくれた。 『景色すなわちインスタ写真とは、煎じ詰めれば、地域の自然と人々の生活が作用してできあがった有機的な造形を、撮影者のインスピレーションが、特定の画角と焦点距離と被写界深度等の条件のもとにフレームの中に固定した結果なのであって、インスタ写真としての完成度を洗練するために太陽がのぼっているのでもなければ人々が歩いているのでもない・・・インスタ映えを追い求めることで国民の生活の向上を達成しようとしている人間のアタマの中に入っている味噌が腐っていることは明白だと申し上げざるを得ない』、との安倍首相へのイヤミも、言われてみればその通りだ。 『「仕事の疲れを遊びの疲れで取る」タイプの人間は、実は、日本のビジネス社会のコアの部分を支えている人々でもある。 だからこそ、「プレミアムフライデー」みたいなプランを企画立案するお役人や経団連企業のメンバーたちは、休日の時間を「消費」の時間と考える枠組から決して外に出ない。 彼らは、労働者が支出もせずに休息することを、「停滞」と見て、たぶん憎んでいる。 でなくても、人間を経済学上の統計の一単位としてしか見ない一派の人々は、生産と消費のいずれにも従事していない人間(すなわち休息している人間)に対しては、軽い殺意を抱いている』、との指摘も出色の出来だ。新年も小田嶋氏のコラムが楽しみだ。
良いお年を!
タグ:小田嶋隆 日経ビジネスオンライン アベノミクス 安倍晋三首相 (その24)「働き方改革」10(小田嶋氏の見解) 「汝、退屈を憎むなかれ」 来年のお正月は、久しぶりに、休業する店舗のシャッターが目立つ、静かな三が日をわれわれにもたらすことになるかもしれない 今度の正月は、年中無休24時間営業という、この30年ほど当たり前になっていたトレンドが、折り返し点を迎える最初の正月になる雲行きだ 日本経済新聞の電子版 「さらば年中無休 年末年始、大戸屋や携帯ショップ休業」 私の世代の人間が子供だった時代、正月は、総じて退屈な季節だった 1970年代の終わり頃までは、東京の正月は、冴えない季節だった 商店街と言わずデパートと言わず、商店という商店が軒並みシャッターを降ろしているこの時期の東京の街路は、文字通り、人通りの絶えるゴーストタウンだったからだ 昭和中期の子供たちは、冬休みが終わるまでの正月の間、まるまる家の中に閉じこもって暮らすことを半ば強いられていた 21世紀の便利で快適でビビッドで娯楽満載な正月を過ごすことのできる現代の子供たちは、ずっと幸せだと思う 大人たちから 「おまえたちは恵まれている」 という呪いの言葉を折にふれて投げかけられたものだった 子供はいずれ大人になる。が、大人は二度と子供に戻ることができない とすれば、両者の間で交わされている会話は、30年後にならないと意味が伝わらない。 むずかしいものだ 従業員が集まらなければ店は開けない。だが店を休めば売り上げは減る。経営者が解くべき方程式の変数は増え、一段と難しくなる 日経新聞の記事らしく、徹頭徹尾、経営側の目線で書かれている点が興味深い このもっぱら経営サイドオンリーの角度から事態を見渡す発想は、「プレミアムフライデー」を展開している経団連の中の人たちが、月末の金曜日に何時間か早く退社するというこの運動を、「労働時間の削減」や「従業員の休息時間の確保」という側面ではなく、「レジャー消費の増大」を第一の狙いに掲げる文脈でアピールしていることと、一脈通じる話 月曜午前休で「ラグジュアリーマンデー」 自民ナイトエコノミー議連が提言 この新しい休暇プランを推進している政治家たちもまた、労働者の休息を促しているのではなくて、むしろ、休日の労働者を消費に向かって駆り立てるアイディアを熱心に語っている 彼らは、「市場」なり「需要」を「創出」しようとしている。その意味では、むしろ「休むな」と言っている。正確には「寝るな。部屋を出ろ。もっと遊べ」ぐらいだろうか 「インスタ映えが地方活性化の鍵(こちら)」 「SNS映え街道風景を増やしていきたいと思います」 景色のために生活があるのではない 人々が生活している空間を一定のアングルで切り取った結果が「景色」というタグ付きで写真に収められる。で、そのうちの特別に印象的な一枚を人々が「インスタ映え」と呼んでいる、と、そういうお話に過ぎない 地域に特有な地形と風土であり、そのうえに人々の生活と四季の移り変わりがあってはじめて「景色」が発生する。この順序は動かない 地域の自然と人々の生活が作用してできあがった有機的な造形を、撮影者のインスピレーションが、特定の画角と焦点距離と被写界深度等の条件のもとにフレームの中に固定した結果なのであって、インスタ写真としての完成度を洗練するために太陽がのぼっているのでもなければ人々が歩いているのでもない インスタ映えを追い求めることで国民の生活の向上を達成しようとしている人間のアタマの中に入っている味噌が腐っていることは明白だ 「仕事の疲れは遊びの疲れで取るんだよ」 「仕事の疲れを遊びの疲れで取る」タイプの人間は、実は、日本のビジネス社会のコアの部分を支えている人々でもある だからこそ、「プレミアムフライデー」みたいなプランを企画立案するお役人や経団連企業のメンバーたちは、休日の時間を「消費」の時間と考える枠組から決して外に出ない 彼らは、労働者が支出もせずに休息することを、「停滞」と見て、たぶん憎んでいる。 でなくても、人間を経済学上の統計の一単位としてしか見ない一派の人々は、生産と消費のいずれにも従事していない人間(すなわち休息している人間)に対しては、軽い殺意を抱いている 大人の疲れは、遊びなんかでは取れないからだ 休日は、不活発で暗く不便で退屈でなければいけない。そうでなければ、人々は本当に休むことができない 休日に消費を促そうとする運動は、休日を休日でなくそうとする試みなのだ 大人の疲れは、停滞と不活発によってしか癒やされない。もっと言えば、大人になった人間は退屈という過程を通じてでないと疲れから解放されることができない。 とすれば、レジャー消費などという選択肢はもってのほかだ 若い人の場合は、話が違うのだろうとは思う。 そういう人たちは遊べば良い 大人というのは、退屈と和解した人間を指す言葉だからだ。 ん? そりゃ老人だ、と? そうかもしれない
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