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教育(その13)(「自分探し」を支援するデンマークの仕組み 時に立ち止まり、学び直す選択肢が必要だ、偏差値ばかり愛する「教育後進国」の淡い末路 海外の先進国にフィンランドの事例も、世界のエリート養成機関はなぜ「哲学」を教えるのか?) [国内政治]

教育については、昨年4月23日に取上げた。今日は、(その13)(「自分探し」を支援するデンマークの仕組み 時に立ち止まり、学び直す選択肢が必要だ、偏差値ばかり愛する「教育後進国」の淡い末路 海外の先進国にフィンランドの事例も、世界のエリート養成機関はなぜ「哲学」を教えるのか?)である。

先ずは、: 博報堂ブランドデザイン副代表 / 未来教育会議の原 節子氏が昨年11月16日付け東洋経済オンラインに寄稿した「「自分探し」を支援する、デンマークの仕組み 時に立ち止まり、学び直す選択肢が必要だ」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・人生100年といわれる時代。終身雇用は過去のものとなり、定年後にもまだ長い人生が待っている。乗り切るために必要になるのは、人生やキャリアの途中でときに立ち止まり、必要に応じて柔軟に人生・キャリアを再構築することではないだろうか。
・デンマークでは、社会人と学生を行き来する中で、自分が世の中でより役に立てる仕事を求める“自分探し”“学び直し”を行う仕組みがある。 デンマークならではの学びの現場から、今回は3つの事例を紹介したい。
▽生涯にわたり、「自分発見をする場」を持つ
・現在は世界一幸せな国ともいわれるデンマークだが、かつて度重なる戦争への参加により1813年に国家財政が破綻した過去がある。その頃から「デンマークの資源は“人々の頭脳”しかない」と説き、国民の眠れる才能を開花させるために教育運動を行ったのが、宗教家、作家、そして政治家でもあったニコライ・F・S・グルントヴィだった。彼の理念から、民衆の知識と教養を高めることを目的に1844年に誕生したのがフォルケホイスコーレという独自の教育機関だ。
・フォルケホイスコーレは17.5歳以上であれば誰でも入学できる全寮制の学校で、これまでの最高齢は96歳。国内に68校ある。費用の6割強を政府が助成しているものの、教育内容は各校に任されている。芸術、スポーツ、国際問題、福祉、ジャーナリズム、食など、各校にさまざまな特徴がある。
・私たちが訪れたフォルケホイスコーレの1つ、IPC(インターナショナルピープルズカレッジ)は、コペンハーゲン市近郊の港町ヘルシンオア市にある。 IPCは“グローバルシチズンシップ”を学ぶことを理念に掲げ、世界25カ国から約70人の生徒が在籍。デンマークにあるフォルケホイスコーレの中で、唯一すべての授業を英語で行う学校でもある。
・異なる文化背景を持つ生徒たちが4~6カ月、もしくは1年間にわたり寮で共同生活をしながら、環境、政治、哲学、国際問題、音楽、スポーツなどのレッスンを週に28コマ受講する(サマースクールのみの受講も可)。授業は生徒同士の対話を重視し、多様な意見をどのように統合していくかを学んでいく。 特徴的なのは、入学試験や成績評価がないこと。ここでは他人の評価ではなく、自分自身が何を学び、それを世の中でどのように生かしていくかが重要だと考えられているからだ。
・IPCには、高校卒業後、大学入学前の1年間、「ギャップイヤー」制度を利用して通う生徒のほか、社会に出てある程度のキャリアを積んでからやってくる生徒もいる。 IPCに通う30歳のハンガリー人女性は、「自分に時間を与えて、新しいスキルと可能性を発見したいと思ってここに来た。これまでの金融業界でのキャリアを捨て、今後は教育者になるという新たな目標ができた」という。 彼女のようにキャリアを見つめ直すために入学する人もいれば、他校への通学が困難になってここに来たという生徒もいる。それもこの学校の持つ重要な役割である。
・「生徒は、人生の岐路に立ったとき、また今の生活に疑問を持ったりしたとき、少しだけ人生を休んでここにやってきます。仲間と悩みを共有し、将来について考え直し、そして巣立っていくんです」とクリスチャンセン前IPC校長は話す。 フォルケホイスコーレの仕組みを使えば、学校や仕事からいきなりドロップアウトしてしまうのではなく、一度立ち止まって、これからを考えることができる。そうした教育ラボ的な仕組みとして機能しているのだ。
▽最大の目的は学力向上ではなく「人間形成」
・次にご紹介するのはエフタスコーレ。14~17歳を対象に国内に約260校存在する、デンマーク固有の全寮制の私立学校だ。デンマークでは公立学校の8、9、10年(日本の中学2、3年、中学卒業後高校入学前のギャップイヤー)を、生徒の意思でエフタスコーレに置き換えることができる。主に8年生は人間関係の悩みなどから環境を変えたかったり、9年生、10年生は自分の進路に迷ったり、親元を離れ自立して生活してみたいという子が多く通っている。
・エフタスコーレで最も重視するのは、学力向上ではなく、子どもたちがさまざまな人と出会い多彩な経験を積むことだ。 私たちが訪れたHalstedhus Efterskoleは、乗馬とスポーツを特徴としているが、音楽や演劇など、専門技術を磨くためのエフタスコーレもある。どのエフタスコーレに行くかは、地域の伝統によっても異なり、コペンハーゲンの大都市の子どもたちは、地方のエフタスコーレに行く傾向があるという。結果として多様性に富んだ生徒の構成となり、社会の視野が広がる新しい経験を求めて、全体の約3割が選択しているという。
・実際に通う子どもたちに話を聞くと、「自分が何が得意か、何をしたいのかを考えることができ、自信を持てるようになった」「共同生活を通じて最高の仲間と巡り合えた」といった声が上がった。14~17歳という多感な時期に、多様性のある集団の中で生活をすることが大きな糧になっているようだ。
▽好奇心をもってカオスに挑む力を育てる
・最後に紹介するのは、ビジネスデザインスクール「カオスパイロット」だ。1991年の創立以来、社会起業家、企業の中枢を担う人材を数多く輩出しており、国際的なビジネス誌で「世界で最も刺激的なビジネスデザインスクール」と評されるなど、注目を集める。校名の由来は、「カオスな時代をパイロット(操縦士)としてナビゲートできる人材を育てる」こと。
・「未来に受動的に対応するのではなく、未来を能動的につくり出せる人材をどうすれば育成できるか?という1つの問いからカオスパイロットが生まれた」とクリスター校長はいう。 「当時デンマークは大変な不況で、仕事をつくり出すことが大きな社会課題だった。そこで、どんな状況下でも能動的にリーダーシップを発揮し、社会で活躍する若者を育てるために、アカデミックではない実践的な教育の場としてカオスパイロットが生まれたんです」
・1学年には世界から集まった36人が在籍し、3年間を通して起業家精神やリーダーシップについて学んでいく。会社員だった人もいれば、芸術家や弁護士、アスリートもおり、生徒のバックグラウンドはさまざまだ。「誰かの背景や知識はほかの誰かの学びになる」という考えがその背景にはある。
・プログラムはとにかく実践的だ。生徒たちはクライアントと共にプロジェクトを進行させながら、実践と内省を繰り返し、互いに触発しながら、“複雑な課題を成し遂げられる”リーダーへと成長していくことを目指す。 ヒエラルキーを前提としたコントロール型のリーダーシップは役に立たない。重視されるのは、知識やノウハウよりも、まず自分は何をやりたいかという意思とそれに基づいて行動する力、そして他人と共創ができ、変化を恐れないという資質。いかにして、自分、そしてチームのクリエイティビティを最大化できるか、に日々挑戦している。
・特徴的なのは、卒業してもMBAなどの資格を得られるわけではないこと。自分が何者かを知り、どうしたら社会に貢献できるかを学んだ生徒たちは、卒業生同士の強固なネットワークと「好奇心を持ってカオスに臨んでいく」力を武器に、世界をナビゲートするリーダーとして巣立っていくという。
▽人は一生学び、成長することができる
・人生100年といわれる時代、私たちはどのように学び、どのように生きるべきだろう。デンマークで見てきた学びの現場からは、一度決めたルートを全うすることだけが是ではなく、変化し続ける時代の中で必要があれば立ち止まり、新しいことを学び、進む方向を切り替えていけばいいという、柔軟で包容力のある社会的意思が感じられた。
・また、多様性の中で自己発見し、自分の中に眠る可能性を開花させることで、混沌とした世界を恐れずポジティブに立ち向かう力に結び付けていくプロセスも目の当たりにした。 考えてみれば、これは自然な生き方ではないだろうか。人は一生学ぶことができるし、成長することができる。それを前提に考えれば、おのずと「自分はどう生きたいか」という問いに直面するのではないか。もちろん、そのためには、個人の意識だけでなく、安心して立ち止まることのできる社会制度の整備や、こうした生き方を受容する社会文化の醸成などの基盤づくりが不可欠だ。
・今回見てきたデンマークでは、フレキシキュリティ(フレキシビリティとセキュリティの造語)という、労働市場の流動性×セーフティネット×積極的な再教育の仕組みの3つを掛け合わせる、社会の仕組みが存在する。個人への投資が社会への還元につながる、という個人と社会全体の幸せを創り出す仕組みとなっている。未来の学び方と未来の働き方は不可分であり、セットで考えていくことが重要ということがわかる。
・ここまで5回にわたり、「未来の学び方・働き方はどう変わる?」をテーマに、変化の大きいVUCA時代を生き抜くヒントを探ってきた。ここから見えてきた最大のポイントは、何よりも「自分自身を知ることが大切」ということ。ある意味「自己責任」の時代となる中、社会や産業構造の変化に応じた働き方が必要になっていく。自分にはどんな可能性があるのか。自分がいちばん大切にしていることは何か。今一度、問い直してみるのもよいのではないだろうか。
http://toyokeizai.net/articles/-/196726

次に、 ジャーナリストの池上 彰氏と増田 ユリヤ氏が1月5日付け東洋経済オンラインで対談した「偏差値ばかり愛する「教育後進国」の淡い末路 海外の先進国にフィンランドの事例も」を紹介しよう(▽は小見出し、+は段落)。
・教育問題はいつの時代にも語られてきました。一国の未来を考える上で、教育は極めて重要です。『偏差値好きな教育”後進国”ニッポン』の著者である池上彰氏と増田ユリヤ氏がニッポンの教育を話し合います。
▽日本の教育は成功?失敗?
・池上:日本の小学校から高校までの教育内容の骨子を定める学習指導要領の改訂が2017年の3月に公示されました。「伝統や文化に関する教育の充実」、「道徳教育の充実」が謳われ、例えば中学校の保健体育の授業では銃剣道が選択肢として明記されました。現行の学習指導要領でも武道の中で銃剣道を教えることはできます。しかし今回あえてそれを明記した。
+武道の必修化にともなって、中学校では武道場の整備がずっと進められています。校舎の耐震化の方をもっと優先すべきような気がするのですが。こういうところにも文部科学省(文科省)の忖度が働いているのかと勘ぐりたくもなる動きですが、日本の教育はなかなか変化しませんね。
・増田:文科省から大学への天下りが問題になったりもしました。学校が文科省の意向を受け入れ易い下地はずっとあります。
・池上:文科省は、「課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び」、要はアクティブ・ラーニングを進めたいようなことを言っているけれど、それもあまり進んでいきませんね。
・増田:たとえば、さまざまな危機を乗り越えるために、なかなか答えの出ない問題をどう考えるかを課題にしている授業がフィンランドでは行われています。要するに教科書の教科を越えるような学びをしていく。つまり学んだことと現実の生活とのつながりを考えながら学ぶといったことなのですが、日本ではそういった授業ができているかというと、相変わらずあまりうまくいっていないですね。
・池上:日本では「総合的な学習の時間」が、自分で課題を見つけて考え、解決していくことを目標に打ち出しています。ただ個々の授業では成功している例もあるのだろうけれど、「総合的な学習の時間」が、基礎的な学科の授業時間を削っているなどともいわれ、学力低下の一因にされたりしていました。
・増田:日本の教育は、教科をなんでもプログラム化してきっちり教えます。そしてそれが今の日本をつくり上げたとも言えるのです。日本に住む多くの人たちの平均的な学力を上げてきたわけですから。だから一概にどちらがいいとか悪いとは言えませんが、教育の向きにも得手不得手はあります。
・池上:私が小中学校に通っていたときに受けていた全国学力テストの結果は、都道府県や地域による差がものすごく大きかった。都会は学力が上で日本海側や東北は学力が低くて、格差がすごくあったんです。 ところが、最近は都道府県や地域による学力の差はほとんどない状態になっている。1億以上の人口がある国で全国津々浦々どこであっても子どもが一定の学力をつけることができたという点では、日本の教育は大成功ですよ。
・増田:世界的に見たら、日本の教育は全然遜色ありません。
・池上:日本の教育はおかしい、問題があると、日本では多くの人がよく言うのですけれど、そう思い込んでいるフシがあります。だから、日本の教育はすばらしいという本を出しても売れそうもない。危機だ、危機だと煽った方が評判になる(笑)。
・増田:特に政治家が、自分の理想通りになっていないと嫌なのかもしれません。
▽文部科学省を解体せよ
・池上:フィンランドだと、政治から教育への影響を排除するための仕組みができていることがすごいと思っています。教育省という、日本では文部科学省にあたる役所がフィンランドにはあります。その大臣、つまり教育大臣というのは日本と同じように政治家がその要職に就くわけです。ただ、教育省は教育のための予算を考えるところであって、カリキュラムは教育省のほかに国家教育委員会という組織があって、そこが現場の先生からいろいろな情報を吸い上げたり、調査をしたりして決めている。
+カリキュラムが子どもや教育現場にとってどのような意味があるかということを踏まえて、日本でいうところの学習指導要領をつくっているわけです。その際には、専門家で議論をすることになっている。この政治家が教育の現場に口を出せないシステムはいいと思いました。
・増田:最近のフィンランドの学習指導要領の改訂では、先程言った、さまざまな危機を乗り越えるための授業はさらに推進されることになったと聞いています。この自分で何か物事を考えるために、何もないところから考える力をつけるという課題を、フィンランドの教育はたいせつにしています。
・池上:日本では、そういう教育の軸が政治家のせいでぶれる傾向が強いですね。教育を語ると聞こえはいいし、政治家が選挙のときに教育に一所懸命力を入れていますというと、なんとなくイメージがよくて票が集まるみたいなことになる。そうすると、政治家の方もそれをうまく使おうということになります。その結果、文教族と呼ばれる政治家が生まれて、それなりの一定数になる。
+さらに文科省の役人たちは転勤が多いですから、文教族の方が教育行政に関する知識や経緯について詳しくなっていく。すると法案なども文教族の許可なしには文科省の役人も進められなくなってくるのです。  文科大臣が変わると、その大臣は自分の考えを形に残したい。そうすると、中央教育審議会を開いて、何かを変えなければいけないということを前提にして議論する。
+今の教育がいいのか悪いのかということをきちんと検証することもないまま、「いじめが最近は多い」、「なんで少年事件がこんなに起こるんだ」、「異常な殺人事件が多く起きている」、「学力が低下しているんじゃないか」といったそれぞれ全くエビデンス(証拠)がない、印象をもとにした発言に引きずられて、さまざまなことが変えられていってしまう。
・増田:フィンランドの話で、いじめについてどう対処するかを思い出しました。何か起こったら、みんなが居心地がいいとはどういうことかを、あらゆる面から考えるということなんです。そうやって考えることで、いじめをなくす方向に持っていく。
+もちろんフィンランドにもいじめがあって、問題になります。でも、そういう発想の仕方というか、根本的なところでの考え方で対処していく。私にとって居心地がいいだけでいいのか。みんなにとって居心地がいい状態とはどんな環境なのかと、みんなで考えていく。日本ではなかなかそういうふうにはならなくて、道徳を教科化して、いじめにも対応するなんていうことになっていきます。
・池上:日本は、現場に任せたり、現場の先生の報告を聞いて、これからを考えていくといった仕組みになっていません。大概が上から決まっていきます。流行に飛びついて、例えばこれからはAIだと言われれば、プログラミングをはじめコンピュータについての授業を増やしましょう。英語がもっと必要だと言われれば、小さい頃から英語教育を始めましょうと。それで何がたいせつなのか、何を軸に据えなくてはいけないのかが曖昧になって、わけがわからなくなっていってしまう。
▽学力テストでわかる世界の規準、日本の規準
・池上:日本もまずは文科省を解体して、中央教育委員会をつくればいいのではないでしょうか。今は文科省が学習指導要領づくりをやっています。けれど、文科省の役人の中には教育学部出身者なんてあまりいません。 教育のことをたいして知らない役人たちより、現場の先生の状況や学力テストの結果をきちんと読み解き、子どもたちの学力のどこが強くて、どこが弱いのかを見極め、次のカリキュラムを考えていけるような専門家を集めて、政治に左右されない学習指導要領をつくる組織を新設すればいいと考えてしまいます。
・増田:全国学力テストが2007年に復活したのも政治主導でしたよね。
・池上:OECD(経済開発協力機構)が国際的に学習到達度を調査しているPISA(Programme for International Student Assessment)の日本の順位が下がったことが要因になって、小泉純一郎内閣のとき、当時の文科大臣の中山成彬が提案しました。
・増田:PISAは2000年から3年ごとに実施されていて、日本の順位が初回より2回目に下がったことが話題になり、国内の学力低下が取り沙汰されるようになったんですよね。そして中止されていた全国学力テストが再開されることになった。
・池上:PISAの順位が下がったのだけれど、実態をよく見ると、参加国が増えたことによって、日本の順位が下がったのだけれど、絶対的な成績は日本が下がっていたわけではなかったんです。しかし国内で学力低下だと言われ出したときに、昔に比べて学力が低下しているかどうかというデータがなかった。だから学力テストを始めようといって始まったんです。
・増田:ただ、日本の全国学力テストは、悉皆調査、つまり全員参加なんですよね。それも何度もやっていると試験対策をした上での調査になってしまいますから、学力を継続的に調査するには、意味がないんです。
▽日本の学力テストには意味がない
・池上:PISAというのは、統計学的に選んだ一握りの集団だけに試験をして、試験が終わったあと、問題を回収してしまいます。だから毎年、同じ問題を出せるわけですよ。全員に同じテストをしてしまったら、テストの内容が漏れるし、試験対策が次の年からできてしまいます。
+毎年、同じ問題をランダムに一定数の子どもたちで調査しているからこそ、その結果を見て、学力が上がっているのか、下がっているのかが比較できるのに、毎年違った問題が出題される悉皆調査の日本の学力テストにはあまり意味がありません。
・増田:全国学力テストが再開された2007年は、小学6年生と中学3年生が全員参加でした。それが2010年には約3割の抽出方法になったんです。その後、希望する学校も参加できるようになって、また2013年から悉皆調査に戻りました。保護者から、うちの子がテストを受けていないのはずるいという声が多くなったから、全員参加になったと言われています。
・池上:私が小中学生のときにも全国学力テストがありました。このときも都道府県別の競争が過剰になってしまって、あまりにそれがひどいということでやめたんです。テストの日に成績の悪い子どもを自宅待機させたりしていた。今も同じようなことが起こっているのでしょう。
・増田:外国人の子どもなどを参加させない学校もあるようです。日本でも最近は外国人の子たちが増えていますからね。けれど日本は、例えばヨーロッパの国のようにいろいろな国の子がいて言葉ができない、今日入ってきた子がいるなんてことが日常茶飯事でたいへんな状況ではないわけです。
+そういう環境の国と比べれば、日本でテストをしたら学力は高いと思います。だから移民が多い国、例えばフランスやイギリス、アメリカのPISAの順位と比べて日本はどういう位置にいるのか、そういう視点も必要なのではないでしょうか。
http://toyokeizai.net/articles/-/202867

第三に、人材育成コンサルタントの山口 周氏が1月18日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「世界のエリート養成機関はなぜ「哲学」を教えるのか?」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・日本ではあまり馴染がないが、欧州のエリート養成機関では昔から哲学が必須とされてきた。「自分で考える力」を養うには、ルールやシステムそのものを疑える哲学思考が必要だからだ。では、哲学という「疑いの技術」をどう学べばいいのだろうか? MBAを取らずに独学で外資系コンサルタントになった山口周氏が、知識を手足のように使いこなすための最強の独学システムを1冊に体系化した『知的戦闘力を高める 独学の技法』から、内容の一部を特別公開する。
▽いまのルールに疑問を感じ、自分の頭で考える力を鍛える――哲学には必ず大きな「否定」が含まれている
・多くのビジネスパーソンにとって、哲学という学問はもっとも「縁遠い」ものに感じられると思います。しかし、実は一方で、欧州のエリート養成機関では18世紀以来、哲学は歴史と並んで、もっとも重要視されてきた学問でもあります。 たとえば英国のエリートを多く輩出しているオックスフォード大学では、長いこと哲学と歴史が必修でした。現在、エリート政治家養成機関としてオックスフォードの看板学部となっているのは「PPE=哲学・政治・経済」です。
・日本の大学システムに慣れ親しんだ人からすると、なぜに「哲学と政治と経済」が同じ学部で学ばれるのかと奇異に思われるかもしれませんが、これはむしろ「世界の非常識」である日本の大学システムしか知らないからこそ感じることで、哲学を学ぶ機会をほとんど与えずにエリートを育成することはできない、それは「危険である」というのが特に欧州における考え方なのです。
・たとえばフランスを見てもわかりやすい。フランスの教育制度の特徴としてしばしば言及されるのが、リセ(高等学校)最終学年における哲学教育と、バカロレア(大学入学資格試験)における哲学試験です。 文系・理系を問わず、すべての高校生が哲学を必修として学び、哲学試験はバカロレアの1日目の最初の科目として実施されます。バカロレアに合格する学生は、将来のフランスを背負って立つエリートとなることを期待されるわけですが、そのような試験において、文系・理系を問わず、最重要の科目として「哲学する力」が必修の教養として位置付けられているわけです。
・では、哲学を学ぶことにはどんな意味があるのか?一言でいえば、それは「自分で考える力を鍛える」ということです。この「考える」という言葉は本当に気安く使われる言葉なのですが、本当の意味で「考える」ということは、なまなかなことではありません。
・よく「一日中考えてみたんだけど……」などと言う人がいますが、とんでもないことで、こう言う人がやっているのは「考える」のではなく、単に「悩んでいる」だけです。 これは拙著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』にも書いたことですが、現在、この「自分で考える力」は極めて重要な資質になりつつあります。なぜかというと、これまでに依拠してきた「外部の基準やモノサシ」がどんどん時代遅れになっているからです。
・知的戦闘力を高めるという文脈で考えてみた場合、与えられたルールやシステムを所与のものとして疑うことなく受け入れ、その枠組みの中でどうやって勝とうとするかを考える人よりも、与えられたルールやシステムそのものの是非を考え、そもそもルールを変えていこうとする人の方が、圧倒的に高い知的パフォーマンスを発揮するのは当たり前のことです。
・もっとわかりやすく言えば、哲学というのは「疑いの技術」だとも言えます。哲学の歴史において、哲学者たちが向き合ってきた問いは基本的に二つしかありません。それは、(1)この世界はどのようにして成り立っているのか?(2)その世界の中で、私たちはどのようにして生きていくべきなのか?という問いです。
・そして、古代の中国、あるいはインド、あるいはギリシアからスタートした哲学の歴史は連綿と続くこれら二つの問いに対する答えの提案と、その後の時代に続く哲学者からの否定と代替案の提案によって成り立っています。 哲学の提案には必ず大きな「否定」が含まれていなければなりません。物理の法則と同じで、なにか大きな「肯定」をするためには、何か大きな「否定」が必ずつきまとうのです。
・つまり、世の中で主流となっているものの考え方や価値観について、「本当にそうだろうか、違う考え方もあるのではないだろうか」と考えることが、「哲学する人」に求められる基本的態度だということになります。 さらに付け加えれば、この「本当にそうだろうか」という批判的疑念の発端となる、微妙な違和感に自分で気づくこともまた、重要なコンピテンシーです。
・昨今、世界中で瞑想を中心としたマインドフルネスに関する取り組みが盛んです。マインドフルネスと哲学というと、あまり結節点はないように思われるかもしれませんが、「自分の中に湧き上がる、微妙な違和感に気づくのが大事」という点で、両者は共通の根っこを持っているのです。
http://diamond.jp/articles/-/150375

第一の記事で、 『デンマーク・・・民衆の知識と教養を高めることを目的に1844年に誕生したのがフォルケホイスコーレという独自の教育機関』、 『最大の目的は学力向上ではなく「人間形成」』、 『好奇心をもってカオスに挑む力を育てる』、 『人は一生学び、成長することができる』、というのはうらやましいような制度だ。日本でも「生涯教育」の必要性が叫ばれているが、どちらかというと、学生数減少に悩む大学の救済策といった面もあり、似て非なるもののようだ。
第二の記事で、 『アクティブ・ラーニング・・・たとえば、さまざまな危機を乗り越えるために、なかなか答えの出ない問題をどう考えるかを課題にしている授業がフィンランドでは行われています。要するに教科書の教科を越えるような学びをしていく。つまり学んだことと現実の生活とのつながりを考えながら学ぶといったことなのですが、日本ではそういった授業ができているかというと、相変わらずあまりうまくいっていないですね』、 『文科大臣が変わると、その大臣は自分の考えを形に残したい。そうすると、中央教育審議会を開いて、何かを変えなければいけないということを前提にして議論する。 今の教育がいいのか悪いのかということをきちんと検証することもないまま、「いじめが最近は多い」、「なんで少年事件がこんなに起こるんだ」、「異常な殺人事件が多く起きている」、「学力が低下しているんじゃないか」といったそれぞれ全くエビデンス(証拠)がない、印象をもとにした発言に引きずられて、さまざまなことが変えられていってしまう』、 フィンランドでは 『カリキュラムは教育省のほかに国家教育委員会という組織があって、そこが現場の先生からいろいろな情報を吸い上げたり、調査をしたりして決めている・・・その際には、専門家で議論をすることになっている。この政治家が教育の現場に口を出せないシステムはいいと思いました』、 『PISAというのは、統計学的に選んだ一握りの集団だけに試験をして、試験が終わったあと、問題を回収してしまいます。だから毎年、同じ問題を出せるわけですよ。全員に同じテストをしてしまったら、テストの内容が漏れるし、試験対策が次の年からできてしまいます。 毎年、同じ問題をランダムに一定数の子どもたちで調査しているからこそ、その結果を見て、学力が上がっているのか、下がっているのかが比較できるのに、毎年違った問題が出題される悉皆調査の日本の学力テストにはあまり意味がありません』、 『テストの日に成績の悪い子どもを自宅待機させたりしていた。今も同じようなことが起こっているのでしょう』、などの指摘はその通りだ。日本の教育委員会は、制度的には政治からの独立を図るためだったのだろうが、今や文科省の下請け機関になり下がっているようだ。
第三の記事で、 『哲学を学ぶ機会をほとんど与えずにエリートを育成することはできない、それは「危険である」というのが特に欧州における考え方なのです』、 『世の中で主流となっているものの考え方や価値観について、「本当にそうだろうか、違う考え方もあるのではないだろうか」と考えることが、「哲学する人」に求められる基本的態度だということになります。 さらに付け加えれば、この「本当にそうだろうか」という批判的疑念の発端となる、微妙な違和感に自分で気づくこともまた、重要なコンピテンシーです』、というのは説得力がある。特に、後者は日本では、「空気を読んで主流派につく」傾向が強まりつつあるあるだけに、健全な懐疑心を如何に育てていくためにも、文系、理系を問わず、哲学を学ばせるのは大いに意味があるのではなかろうか。
タグ:教育 (その13)(「自分探し」を支援するデンマークの仕組み 時に立ち止まり、学び直す選択肢が必要だ、偏差値ばかり愛する「教育後進国」の淡い末路 海外の先進国にフィンランドの事例も、世界のエリート養成機関はなぜ「哲学」を教えるのか?) 原 節子 東洋経済オンライン 「「自分探し」を支援する、デンマークの仕組み 時に立ち止まり、学び直す選択肢が必要だ」 デンマーク 生涯にわたり、「自分発見をする場」を持つ フォルケホイスコーレ 17.5歳以上であれば誰でも入学できる全寮制の学校で、これまでの最高齢は96歳。国内に68校ある。費用の6割強を政府が助成しているものの、教育内容は各校に任されている 最大の目的は学力向上ではなく「人間形成」 好奇心をもってカオスに挑む力を育てる 人は一生学び、成長することができる 池上 彰 増田 ユリヤ 「偏差値ばかり愛する「教育後進国」の淡い末路 海外の先進国にフィンランドの事例も」 アクティブ・ラーニングを進めたいようなことを言っているけれど、それもあまり進んでいきませんね さまざまな危機を乗り越えるために、なかなか答えの出ない問題をどう考えるかを課題にしている授業がフィンランドでは行われています フィンランドだと、政治から教育への影響を排除するための仕組みができていることがすごいと カリキュラムは教育省のほかに国家教育委員会という組織があって、そこが現場の先生からいろいろな情報を吸い上げたり、調査をしたりして決めている この政治家が教育の現場に口を出せないシステムはいいと思いました 日本では、そういう教育の軸が政治家のせいでぶれる傾向が強いですね 文科大臣が変わると、その大臣は自分の考えを形に残したい。そうすると、中央教育審議会を開いて、何かを変えなければいけないということを前提にして議論する 今の教育がいいのか悪いのかということをきちんと検証することもないまま、「いじめが最近は多い」、「なんで少年事件がこんなに起こるんだ」、「異常な殺人事件が多く起きている」、「学力が低下しているんじゃないか」といったそれぞれ全くエビデンス(証拠)がない、印象をもとにした発言に引きずられて、さまざまなことが変えられていってしまう。 PISAというのは、統計学的に選んだ一握りの集団だけに試験をして、試験が終わったあと、問題を回収してしまいます。だから毎年、同じ問題を出せるわけですよ 毎年違った問題が出題される悉皆調査の日本の学力テストにはあまり意味がありません 山口 周 ダイヤモンド・オンライン 「世界のエリート養成機関はなぜ「哲学」を教えるのか?」 いまのルールに疑問を感じ、自分の頭で考える力を鍛える――哲学には必ず大きな「否定」が含まれている 欧州のエリート養成機関では18世紀以来、哲学は歴史と並んで、もっとも重要視されてきた学問でもあります 「自分で考える力を鍛える」 与えられたルールやシステムを所与のものとして疑うことなく受け入れ、その枠組みの中でどうやって勝とうとするかを考える人よりも、与えられたルールやシステムそのものの是非を考え、そもそもルールを変えていこうとする人の方が、圧倒的に高い知的パフォーマンスを発揮するのは当たり前のことです 世の中で主流となっているものの考え方や価値観について、「本当にそうだろうか、違う考え方もあるのではないだろうか」と考えることが、「哲学する人」に求められる基本的態度だということになります さらに付け加えれば、この「本当にそうだろうか」という批判的疑念の発端となる、微妙な違和感に自分で気づくこともまた、重要なコンピテンシーです
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