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原発問題(その9)(福島原発事故から7年 復興政策に「異様な変化」が起きている、この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる「福島の未来」) [国内政治]

原発問題については、昨年8月30日に取上げたままだった。今日は、首都大学東京准教授(社会学)の山下 祐介氏が政府文書を読み解いて現代ビジネスに寄稿した (その9)(福島原発事故から7年 復興政策に「異様な変化」が起きている、この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる「福島の未来」)である。記事2つの割には長めだが、大変参考になる力作なので、最後までお付き合い頂きたい。

先ずは、3月10日付け「福島原発事故から7年、復興政策に「異様な変化」が起きている 政府文書を読み解く」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽復興政策の異様な変化
・平成30年3月11日で、東日本大震災から丸7年となる。  この復興からの道のりについての私の評価はすでに本誌(誰も語ろうとしない東日本大震災「復興政策」の大失敗 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49113)や拙著『復興が奪う地域の未来』(岩波書店)で述べてきた。いまもその見解は変わらないので多くはふれない。
・ここではこの節目にあたって今一度、現在進行中の復興施策――ここでは原発事故災害についてのみ取り扱うこととする――の中身を点検したい。 とくに6年目からの「復興・創生期間」に入って生じてきた変化を、復興庁のホームページにあがっている文書を検討することから明らかにしてみたい。
・おそらくここで示すことは、今現実に動いていること――森友問題における財務省の動き――をはじめ、この2年ほどの間にこの国の中枢で次々と起きてきたおかしな現象を解読するための糸口を提供するように思われる。
・というのも、東日本大震災からの復興をめぐる政策文書をあらためてみてみると、平成28年に「復興・創生期間」へと入る前あたりから――第3次安倍内閣(平成26年12月24日)がスタートする前後から――その内容に大きな変化が起きていることがわかるからだ。 読者に理解しやすいようあえて強い言葉で表現すればこういうことだ。
・その前まではまともだった。むろん私の立場からすれば批判せざるをえない内容のものもあったが、それでもいまから見ればそんなにおかしなものではなかった。 そこにはある種の政府としての首尾一貫性があったし、なぜそうなるのかも、それなりに理解できるものが多かったのである。
・しかし「復興・創生期間」以降は、何か悪意があるのではないかと感じざるをえないものが多くなっている。  それはとくに、昨年末に出された「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」(平成29年12月12日)に象徴的だということができる。 この戦略については後ほど取り上げることとして、ここではその前提となっている平成28年末の閣議決定「原子力災害からの福島復興の加速化の基本指針」(平成28年12月20日)の内容あたりから紹介していきたい。
▽帰還にともなう被ばくは自己責任?
・「原子力災害からの福島復興の加速化の基本方針」は、震災から6年目の「復興・創生期間」にはいっていくなかで、進行する原発事故被害地域の復興についての国の取り組むべき方向性を示したものである。  その1年半前に原子力災害対策本部が示した平成27年「原子力災害からの福島復興の加速に向けて(改訂)」(平成27年6月12日)に変えたものだ。
・この平成27年6月から平成28年12月への変化については、例えば平成27年にはあった文章――「帰還に向けて、住民の方々の間では、福島第一原発の状況に対する関心が大きいことを踏まえ、廃炉・汚染水対策の進捗状況や放射線データ等について、迅速かつ分かりやすい情報公開を図る」――が、平成28年には削られているなど注目すべき点が多いが、ここでは次の点のみ分析しておきたい。
・それは、これからの「帰還に向けた安全・安心対策」についてという箇所である。 ここはまた、原子力規制委員会が以前示した「帰還に向けた安全・安心対策に関する基本的考え方」(平成25年11月20日)をふまえて国が責任を持ってきめ細かく進めていくといっている。
・まずは原子力規制委員会が、この平成25年の「考え方」の中で原発被害地域への帰還についてどのような考えを示していたかをおさえておきたい。 この「考え方」の前に提示されている「東京電力第一発電所の事故に関連する健康管理のあり方について(提言)」(平成25年3月6日)とあわせてみれば、原子力規制委員会が示した考え方とはこういうものである。
・原子力防災の目的は、公衆の過剰な放射線被曝を防止することである。避難から帰還の選択をする住民の意思は尊重しなければならないが、帰還は一定の放射線被曝を前提とする。 それゆえ帰還者は、今回の事故直後にどんな被ばくを受けたのか行動調査等による推定を行うとともに、今後の被ばくについても継続的に実測し記録を残さなくてはいけない。 でなければ健康被害を防止できないし、被害が生じた場合にもその原因を特定できない。帰還者を守れない。
・そうした被ばくの管理をおこなうこと、継続的な健康調査の実施、そして疫学研究を進めてどのような影響が起きたのか(起こらなかったのか)を検証して、住民たちの健康管理体制を維持していくことが国の責務になる――。 要するに、一定の被ばくを覚悟しなければならない場所に帰還させるのであれば、その被ばくの管理を行うのは国の責務になるからその体制をしっかりつくれ、ということである。 ここで問うているのは国の責任である。
・ところがこれを受けて作成したという、現在の政府の指針はどうなっているか。ここにはこう書いてある。  「具体的には、女性や子どもを含む住民の方々の放射線不安に対するきめ細かな対応については、御要望等に応じた生活圏の線量モニタリング、個人線量の把握・管理体制の整備や放射線相談員による相談体制の整備を引き続き進める。放射線相談の活動については、それぞれの市町村の状況に応じた多様なニーズに対応できるよう、「放射線リスクコミュニケーション相談員支援センター」等により、自治体による相談体制の改善を支援していく。加えて、放射線相談員のみならず、生活支援相談員や学校教員などの住民の方々との接点が多い方々に対しても、放射線知識の研修や専門家によるバックアップ体制の構築などのサポートを強化し、様々な場面で住民の方々から寄せられる放射線不安に対して、適切な現場対応が行える体制を整える」(下線は筆者)
・私にはこの文章は、原子力規制委員会がいうような、"被ばく管理をし、国の責任で健康被害が出ないようつとめる"という意味には読めない。 むしろ逆にこう解釈できると思う。 「被災者からの要望があれば被ばく線量を個人で測る体制はつくる。だから自分で管理するように。基本的には放射線の知識をきちんとつければ不安に思うことはないのだから、その知識が得られるようサポート体制を整える。それでも不安があるなら、その相談には乗れるようにしましょう。それは自治体の仕事だから支援してあげます」
・政府は早期帰還を推進しているのに、これでは帰還して受ける被ばくは自己責任であり、政府の責任ではありませんよといっているようなものだ。これでは人々は帰るに帰れまい。 だが筆者がここで問いたいのは次の点だ。 原子力規制委員会が示した大事な提言や指針にたいして、今、政府はまともに向き合わなくなってしまっているのではないか。
・「指針をふまえて」といいながら、全く違う内容を都合良く平気でつないでいくという姿勢。こうしたことは平成27年までの文書には見られなかった。そこまではまだきちんと原子力規制委員会の考え方が反映されていた。 一体この変化は何を意味するのだろうか。
▽国民をリスクコミュニケーションで洗脳?
・しかも、昨年末に発表された「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」(平成29年12月12日、原子力災害に対する風評被害を含む影響への対策タスクフォース)では、政府の言い方はもっと踏み込んだものになっていくのだ。
・冒頭にふれたこの戦略の最初の部分を紹介してみたい。 ここにはこんな文章が登場する。 「学校における避難児童生徒へのいじめなど、原子力災害に起因するいわれのない偏見や差別が発生している」(1頁) これはちょっと政府が出す文書としてはあってはいけないものだと私は思う。 まず日本語として間違っている。「いわれ」は、例えば『広辞苑』ではこう示されている。 「いわれ【謂れ】(由来として)言われていること。来歴。理由。」 原子力災害が理由で偏見や差別が発生していると言っておきながら、その偏見や差別には「いわれ(理由)」がないと、そういう変な文章になっている。
・だが、重要なのはこの文章が導こうとする結論だ。つづく文章はこうなっているのである。 「このような科学的根拠に基づかない風評や偏見・差別は、福島県の現状についての認識が不足してきていることに加え、放射線に関する正しい知識や福島県における食品中の放射性物質に関する検査結果等が十分に周知されていないことに主たる原因があると考えられる。このことを国は真摯に反省し、関係府省庁が連携して統一的に周知する必要がある」 要するに偏見や差別、そしていじめの原因は、原発事故ではなく、国民の無知なのだ。国民を無知のままにしてきた国はそれを反省し、国民を無知から解放しなければならない。
・それがおそらく来年度から実施されていく「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」による、「知ってもらう」「食べてもらう」「来てもらう」のキャンペーンなのである(ちなみに福島県の食品検査の取り組み――とくに米の全袋検査など――については私は高く評価している。この点は『聞く力、つなぐ力』(農文協)を参照していただきたい)。
▽国が示す文書がおかしくなっている
・だが――ここは冷静に考えていきたい。 霞が関で働くこの国の行政官僚たちは、本来こういう文章を書く人たちではない。 だいたい、いじめの原因を"放射線に関する正しい知識が欠けているからだ"というあたりからして変だ。被ばくが人にうつらないことくらい誰でも知っている。
・いじめの原因はむしろ社会的な無知だ。「賠償もらってるんだろう」「原子力の恩恵を受けてきたくせに」――とくに後者が問題なのだが、これがどんな偏見と差別をはらんだ認識なのかは紙幅の関係上ここでは説明できないので、拙著『人間なき復興』(ちくま学芸文庫)を参照してもらうしかない(そしてこれは、正確には無知というよりも国民の多くがとらわれてしまっているある種の認識の罠である)。
・ともかくこの無知の原因は、起こしてしまった原発事故に対して、国がその責任を(実質上)認めていないことにどうもありそうだ。人々が不安に思い、偏見や差別がはびこるのは、すべてはあってはいけない原発事故を起こしたからである。 国はその責任をつねに自覚していなければならない。以前はたしかにその(社会的)責任のなかで施策は進められてきた。いまや開き直って、まるで「被災者にこそ責任がある」という感じになっている。
・だが、「被災者」というが「被害者」なのだ。加害者が被害者に対して、「何でいつまでも自立できないんだ。だから差別されるんだよ」と言い始めている。そして国民についても、馬鹿だから差別するのだという認識になるのだろう。 すべては国が起こした原発事故が原因なのに。この責任転嫁をこそ「国は真摯に反省」しなければならない。
・こうした論理で構築されている「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」だから、その内容はきわめて傲慢なものだ。 風評対策についても、この戦略の前身になる「風評対策強化指針」(平成26年6月23日、平成29年7月追補改訂)と比較しておこう。
・平成26年の段階では、三つある強化指針の第1は「風評の源を取り除く」だった。「風評」という語は使っているが、この風評には原因がある。それは原発事故だ。それを認めるところから進められていた対策だったのである。 だが、昨年末にそのタガが外され、「風評払拭」と堂々と言い始めた。 「源を取り除く」努力を最大限にしているからこそ「風評だ」といえたのに、政府はもはや「原因はないのだから不安に思う方がおかしい」と、そういう方針に転換しようとしている。
・政府はこの風評払拭を世界に向けて発信し、そして全国民に向けても不安解消のリスコミを強化していくという。 だが、政府は被ばくした人々の線量推定さえまともにやっていないのだ。私たちはその声をどこまで信じることができるだろうか。
・いったいなにが起因となってこんなことになっているのだろうか。 こうした原発避難者の早期帰還政策の、過剰なまでのゴリ押しが、民主党政権から自民党政権にかわったところで起きていると分析できるなら、ある意味でわかりやすい。反自民勢力のシンパからすれば、そう考えたいところかもしれない。 だが現実には、原発避難者早期帰還のスキームは、平成23年9月に菅政権にかわってスタートした野田政権からはじまっている。その大きな転換点となったのがいわゆる「事故収束」宣言(平成23年12月16日)だった。
・だがそこが全てかといえば、当時の状況と現在はずいぶん違う。 これまで私は避難者たちの立場から政府の復興政策を強く批判してきたが、現在の政府文書の内容は、当時とは比べものにならないほど劣化していると感じる。 またとはいえ、安倍政権がその劣化のスタートかといえばそんなことでもなさそうなのだ。
・最初に述べたとおり、復興庁の文書を見ていても、第2次安倍政権まではそれほど大きな変化を感じない。変化が現れるのはやはり平成26年12月の第3次政権発足の前あたりからだ。 そしてその変化は平成28年3月からの「復興・創生」で明確に現れてくることになる。 次に、この変化の兆しと思われる「復興・創生」前の2つの事象を取り上げて、それが政府のいう「復興・創生期間」とどうつながっていったのか、迫っていこう。
▽子どもたちへの興味を失った?
・まず第一に取り上げたいのは、平成26年4月18日に提出された復興推進委員会の「「新しい東北」の創造に向けて(提言)」である。これをその後に続く奇態な変化の直前状態を示す資料として見ていきたい。 復興推進委員会は復興庁におかれた関係自治体の長及び有識者等による審議機関で、民主党政権下、復興庁設置の際に、復興推進会議とともにおかれた。
・その復興推進委員会のメンバーを、安倍政権への移行を機に平成25年3月に入れ替え、会議を重ねて作り上げたのがこの提言である。 民主党の時に策定された復興構想会議による提言「「復興への提言~悲惨の中の希望」」(平成23年6月25日)の自民党政権バージョンと思えばよいだろうか。 内容について私には批判的に思う部分もあるが、基本的には目配りよく、復興を真摯に考えて取り組もうという意欲が伝わる文書である。
・「「新しい東北」の創造」にむけて、提言がとくに掲げるのは次の5つである。 1. 元気で健やかな子どもの成長を見守る安心な社会  2. 「高齢者標準」による活力ある超高齢社会  3. 持続可能なエネルギー社会(自律・分散型エネルギー社会)  4. 頑健で高い回復力を持った社会基盤(システム)の導入で先進する社会  5. 高い発信力を持った地域資源を活用する社会
・会議録を眺めて非常に印象的なのが、「1. 元気で健やかな子どもの成長を見守る安心な社会」である。  「子ども」を上記5つの項目の中で一番はじめにおいたところに、この提言の特色・意気込みが現れていると言ってもよいだろう。 とくにこの項目に関しては、本提言を仕上げるために重ねた委員たちの苦労がよくわかる資料も会議録の中には収録されている。 
・ところがその内容が、2年後の平成28年にはどこかにいってしまうのである。 きっかけは「復興・創生期間」への移行だった。 震災6年目以降の「復興・創生期間」をどのようなものにしていくのかを書き込む、「『復興・創生期間』における東日本大震災からの復興の基本方針」の内容について、当然ながら復興推進委員会は諮問をうけることになるが、基本方針の原案を見てある委員が次のように発言しているのに注目したい。
・「骨子案を見ますと、子供という言葉が1か所しか出てこないということで、だんだんこ の会議の中でも子供というキーワードが減ってきている印象を感じております。これは仕 方ない部分なのかなということも感じるのですけれども、今回の福島県を初めとした地域 では、子供たちに健康被害が起きるかもしれない、または起きたという思いが、子育てを している方々にとっての大きな不安であり、また風評被害を呼んでいる部分だと思います。 子供たちの心と体の健康に重要点を置くということをぜひ入れていただきたいと思います」(復興推進委員会(第20回)平成28年1月19日、議事録より)
・2ヵ月後の3月11日に発表された「基本方針」は、この発言を受けてであろう、多少の文言は追加された。が、「子ども」にとくに深く言及しないままの内容で閣議決定されている。 私にはどうも「子ども」では票にならないというかたちで、政権が興味を失ったのではないかとそんな気がしてならない。 教育再生実行会議まで組織し、子どもに熱心な安倍政権がなぜこんなふうになっていくのか。 ともかくここからは、中心に位置づけられていた政策でさえ、何かのきっかけがあれば平気で切り捨てられる、そんな政治・行政の極端な力学が生じていることが読み取れよう。
▽被災者のためではないイノベーション・コースト?
・さらに別の角度からも分析を続けよう。 こうして、せっかく作成した「『新しい東北』の創造に向けて(提言)」への関心が薄れていくのに対し、それに入れ替わるようにして福島復興の中心の座についたのが、「福島イノベーション・コースト構想」である。 福島イノベーション・コースト構想は、第3次安倍内閣に移る前から動きがはじまり、第3次政権で一気に加速した。
・イノベーション・コースト構想とは、要するに今後廃炉を進めていくにあたって、廃炉産業の集積とともに、そこで進めなければならない新技術の確立(とくにロボット技術やエネルギー関連産業)をもって、福島県浜通りの新たな産業の基軸とし、そこで生まれた雇用によって帰還する人々が働ける場を作ろうというものである。
・私はこうした夢のような巨大事業には慎重であるべきと考えるが、ともかく事故プラントの管理や廃炉は進めなければならないのだから、最高の技術で絶対に放射能漏れのおきない安全な廃炉技術の確立をここで進めることに異論はない。 そしてそれがこの事故で悲惨な目にあった被災者たちの暮らしの再建に資するのならば。
・しかし、そのもととなっている「福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想研究会 報告書」(平成26年6月23日、経済産業省)には、次のような気になる文章が織り込まれているのである。 報告書は冒頭でこういう。 「一番ご苦労された地域が、一番幸せになる権利がある」(1頁) 私もそう思う。だが、その次の頁では、いとも簡単にその文言を覆すのである。
・「住民の意向調査の結果によれば、震災から3年以上が経過する中で、戻らないとの意向を示している方も多い」 「他方、国際研究産業都市の形成過程では、多くの研究者や関連産業従事者がこの地域において生活することとなる。今後は、新たに移り住んでくる住民を積極的に受け入れ、帰還する住民と一体で、地域の活性化を図っていくことが必要」(2頁) 
・帰ってこない人(被災者)はもうよい。復興は、帰ってくる人(被災者の一部)と、新しくこの町にやってくる人(被災者ではない人)で、やればよい。ここで言っているのはそういうことだ。 だが復興事業の受益者が、この地域に戻ってくる人・新たに入ってくる人でよいというのなら、それは「一番ご苦労された地域が、一番幸せになる権利がある」とは全く違う話ではないか。
・しかも驚いたのは、この構想から約1年後に出された、「福島12市町村の将来像に関する有識者検討会提言」(平成27年7月30日)で、こうした事業の結果として「震災前の人口見通しを上回る回復の可能性」があると言い始めていることである(提言のポイント)。 廃炉・除染作業員による人口増とともに、「夢の持てる地域づくり」によってそれを実現するというのだが、私にはそんなことが起きるとは夢にも思えない。
・そして文書を丹念に読めば、震災時の人口よりは減少はするのだが、今後の事業によって流入人口が増えるので、震災前になされていた人口予測よりも減り幅は小さいだろうと、そういう話なのである(「参考資料6 福島12市町村の将来像の検討に資する将来人口見通し(参考試算)」の42頁)。
・むろんそれとても私には信じられないのだが、本提言のこの文言は政府にとって大変ありがたいものであったらしく、後の「『復興・創生期間』における東日本大震災からの復興の基本方針」にもしっかりと引用されることになる。 だがイノベーション・コースト構想はまだこれからのものであって、多くの課題をはらみ、決して成功を約束されているものではない。
・ここには当然失敗のリスクもあるわけで、人口増どころか、こうした事業が結局は収益をあげられず地域のお荷物になる可能性の方が高いのではなかろうか。 政府もそうした危険性をわかっているはずなのに、なぜそれをこうも無視した文章が書けるのか。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54779

次に、上記の続きを3月11日付け「この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる「福島の未来」」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・あの大震災から7年、復興は進んでいるのだろうか。政府はその成果を自画自賛しているが、現実は大きく異なっている。首都大学東京准教授の山下祐介氏が、政府文書を読み、復興政策の矛盾を問う。
▽多くの人が帰還する――政府の根拠は?
・いくつかの政府文書を見てもわかるように、政府が福島の復興として被災地に打ち込もうとしている政策・事業は、被害者の救済からどこかで転換し、被災地への巨大な事業投資そのものを目的とするものへと大きく変わってしまっている。 かつその事業もとくに成算があるわけではないのに、いくつかの事業に決めうちして(最終的にはイノベーション・コーストと再生可能エネルギーに集約か)、それ以外の事業を細やかに多様に進めていくということにはあまり関心はないようだ。
・そして被災者の位置づけも変わってきた。原発事故被災者は大量のふつうの人々である。政府が対象とする被災者も、これまでは今回の事故で避難しているすべての人々だったはずだ。 ところが、あるところから政府にとっての被災者は、あくまで弱者だということになってきている。
・平成27年1月の「被災者支援(健康・生活支援)総合対策(被災者支援50の対策)」を見ると、被災者はあくまで要支援者であり、政策で設定した支援の対象である限り被災者なのであって、そうした対象を外れれば、どんなに困っていてももはや被災者としては位置づけられない、そんな論理に転換しつつあるようだ。  まして被災者が復興の中身を決める主体になるなどということは許されない。
・おそらくそういうことなのだろう。そして逆に、政府が進める復興事業に参加を表明すれば、被災者でなくてもその事業の恩恵が受けられるようになっている。 要するに被災者であるかどうか、復興事業の受益者になれるかどうかを決めるのは政府の方だという状況に展開しつつあるようだ。 だが、では例えばイノベーション・コースト事業を実施すれば、本当にこの地を復興させるのに必要な人材がこの地に集まるのだろうか。それはどの程度の確実性を持っているのか。
・いま避難元に帰っているという人も、多くは「通う」人たちだ。二重生活は今後も続く。それはイノベーション・コーストで働くことになる新住民にしても同じことだ。 とくに技術者・専門家は、毎日現場にいなくてもよいのだから、この場所には遠くから通うことになる。
・「イノベ」では人口は回復しない。そもそもここで短期に着実な人口回復を計画すること自体が無茶な話なのだ。 廃炉は当分できない。無理なのかもしれない。現時点での帰還は被ばくを意味する。たとえ低線量でもそこには健康を損なうリスクがある。 そして万一発病しても被害として認められるかどうかはわからない。被害は自分で証明しなくてはならない。 そんな場所に、多くの人が帰還すると言い切る政府の考えは、一体何を根拠にしたものなのか。
▽目につく復興事業の成果の自画自賛
・私はこれまでいくつかの文章でこうした早期帰還を強要する状況を、「失敗不可避の政策」をゴリ押しする非常に危ういものと警告してきた。 そして現実に、1年前の平成29年4月に避難指示を大幅解除したにもかかわらず、人々がほとんど戻っていないことは、誰の目にも明らかな真実となっている。
・問題は、そうした無理な政策が失敗する可能性が目に見えている中で、それをあらためて修正するどころか、なぜか逆に――むしろだからこそ?――これまでの政策の成功をたたえて、その成就を奉祝するかのような文言が目立ちはじめてきたことだ。
・平成28年からの「復興・創生期間」の方向を示す「「復興・創生期間」における東日本大震災からの復興の基本方針」(平成28年3月11日)こそが、まさにそうした姿勢で書かれたものである。 この基本方針の冒頭にある文章を見るだけでも、このことはよくわかるだろう。
 (1)復興の現状( 政府は、発災直後の平成 23 年7月に策定した「東日本大震災からの復興の基本方針」において、復興期間を平成 32 年度までの 10 年間と定め、復興需要が高まる平成 27 年度までの5年間を「集中復興期間」と位置付けた上で、未曽有の大災害により被災した地域の復旧・復興に向けて、総力を挙げて取り組んできた。 地震・津波被災地域においては、これまで5度にわたって講じてきた加速化措置等の成果もあり、平成 28 年度にかけ、多くの恒久住宅が完成の時期を迎える。さらに、産業・生業の再生も着実に進展しており、10 年間の復興期間の「総仕上げ」に向け、復興は新たなステージを迎えつつある。 福島の原子力災害被災地域においては、除染等の取組によって、空間線量率は、原発事故発生時と比べ大幅に減少している。また、田村市、川内村、楢葉町で避難指示の解除等が実施されるなど、復興は着実に進展しつつある。(「復興・創生期間」の方向を示す「「復興・創生期間」における東日本大震災からの復興の基本方針」、1頁。下線は筆者)
・"政府のおかげで被災地は復興している。避難指示を解除できたので復興は着実に進展している。残りの5年は復興の「総仕上げだ」"――はたしてこの自画自賛は真実なのか。 私はここに、現実を見ず、失敗を認めず、都合のよいものばかりに目を向けて、「成果はあがっている」とうそぶき、さらなる失敗への道を歩んでいった先の大戦中の日本の状況に似たものを見て取る。
・東日本大震災の被災者であり、復興の前線で関わっている知り合いが、しばらく前にこう漏らした。 「復興集中期間が終わったので、やっと復興できるなあって。……でも『創生』とか言って、まだ続くんですよ。一体いつになったら復興できるのか」
・こうした被災者たちの声を尻目に、これまでの復興事業についての自画自賛は、この文書では頻繁に現れる。現政権の成果を過剰に強調し、「どうだ、これだけやったんだぞ」として現場に押しつけようと、まるで畏怖しているかのような文章だ。 いや、おそらく書いたのは官僚の方だろうから、政権が喜ぶよう、国民がこの政権の施策を好意を持って受け取るよう、ともかく印象づけたいと苦心して書いたものなのだろう。
・そして、こうした権力へのおもねりや、へつらいのようなものが、随所で感じられるようになったのも、第3次安倍政権の前後からということができる。 そして今回私が一番、違和感を持ったのは次の資料だった。  資料 「復興の加速化に向けて」復興推進委員会(第19回)平成27年11月11日(会議資料1) これは、いま引用した「『復興・創生期間』における東日本大震災からの復興の基本方針」を策定するにあたって、その原案を復興推進委員会に示し、諮ったときの資料である。その1ヵ月前に行われた復興推進会議の内容を説明する部分が、私には何か腑に落ちない。
・前述の通り、閣僚で構成する「復興推進会議」に対して、「復興推進委員会」は関係自治体の長と民間有識者によって構成される会議だ。 総理がお願いして招集し、諮問する委員会である。その会議に対し、「総理御発言」という文言は奇妙ではないか。 内閣総理大臣はあくまで行政の長であり、かつそれは国会議員でもある与党第一党の党首が収まるポストである。 要職であり激務であろうから、私も尊敬し、その仕事に感謝するが、国民との間に上下の関係はない。これはいったいどういうことなのか。
・そして実は、この間の議事録などを丹念に見ていると、どうもある時期から、「総理の御指示」とか「大臣の御発言」とか、そういった妙な言葉遣いが(むろん文脈によっては、別に問題のないケースもあるのだが)繁く現れるようになっていった気がする。それもまた第3次安倍政権以降のようなのだ。
▽イノベ、再生可能エネ、オリンピック……
・指摘したいことはまだまだあるが、そろそろまとめに入ろう。 平成24年12月に第二次安倍政権が民主党政権から引き継いだ復興政策。すでにこの時点でこの復興政策には様々な矛盾が内包されていた。 そしてそうした矛盾した政策の現場にいた人々は、民主党から自民党に政権が移ったことで、「これで安定した回路に戻れる」と大いに期待したようにみえる。 そもそもそうした期待が広く国民にもあって、このときの自民の勝利につながったとさえ分析できそうだ。
・だがその路線は大きくは変わらなかった。それどころか、さらにその矛盾を拡大させ、あらぬ方向へと展開していったと、私には見える。 いやそれでも第2次安倍政権の段階までは、それほど大きな変化はなかったのだ。
・第3次安倍政権へと引き継がれていく中で、何か目に見えない変化が水面下で生じ、どこかの時点でハッキリと「急げ」「終わらせよ」「成果を上げよ」と、そういうスイッチが入ったようだ。 だがすでにこじれてしまった復興政策は、どんなに進めても、ボタンを掛け違えたまま、まともなものには戻らない。 本来はそれを頭から見直すべきだった。
・だがこの矛盾した政策をゴリ押ししているうちに、おそらく何かの閾を越えて、丁寧な復興から一点突破的な強引なものに変わり、しかも「やってきた政策は無駄ではない」「復興は進んでいる」とその成果を誇張するようになっていった。 政策や事業の結果を反省し調整するどころか、現状を批判することすらできなくなってしまったようだ。 一体どこでこんなスイッチが入ってしまったのか。
・そのきっかけの一つとして思い当たるのが、平成25年9月に決まった東京オリンピックの2020年招致である。 その後、「東京オリンピック2020」の文字がやたらと躍るようになってきたあたりから、復興政策の内容がおかしなものへと変化したような気がする。 先に引用した福島イノベーション・コースト構想研究会が提出した報告書「福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想研究会 報告書」(平成26年12月)が、私にはその始まりだったように見える。 本来イノベとは何の関係もないはずなのに、ここでやたらとオリンピックが強調されている。
・そして、福島12市町村の将来像に関する有識者検討会でも繰り返しオリンピックと福島復興との関係が強調され、この会議がとりまとめた提言(平成27年7月)では、避難指示解除が進むことでみなが避難元に帰ることができることになり、「家族そろって 2020 年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を応援することが可能となる」(17頁)のだと強調している。この文章はどういう意図があってここに入り込んだのだろうか。
・福島イノベーション・コースト、再生可能エネルギー、東京オリンピック――これらがいったいどれだけ被災者の役に立つというのか。 いやこれらが被災地・被災者自身が望んだものであり、人々が苦心して主体的に取り組んでやり遂げるようなものなら何も異論はないのだ。 
・だがすべては国主導、中央主導で進み、復興のための事業に多くの税金が投入されるが、その成果は被災者ではない誰かに持っていかれて、被災地には不良債権化する巨大な施設だけが残る――私にはどうもそんな未来しか見えないのだ。
・そしてすでに触れたように、被災者の支援も徐々に世の中から落ちこぼれた敗者への支援にかわってきている。 この状態を作り出したのは原発事故であったにもかかわらず、被災者政策は「かわいそうな被災者のために国が支援してあげましょう」というものに変化しつつある。
・しかも政府の文書によれば、「住民の方々が復興の進展を実感できるようにするために」(原子力災害からの福島復興の加速のための基本方針、5頁)、さらなる対策を充実させて、「心の復興」(「復興・創生期間」における東日本大震災からの復興の基本方針、3頁など)をはたしてもらうのだという。
・原発事故によってふつうに暮らしていた人を復興弱者へと落とし込んだ上で(津波被災地に関していえば、政策さえもう少ししっかりしていれば、それなりの復興をむかえられたかもしれない人を復興弱者へと落とし込んだ上で)、「復興は進んでいるのだから、それを「心の復興」で実感せよ」と、そういう話になっている。
・しかしながらまた他方で、「福島第一原発の廃止措置に向けては、安全確保を大前提に、長期的にそれぞれのリスクが確実に下がるよう、優先順位を下げていく」(「原子力災害からの福島復興の加速のための基本方針」、20頁)のだといい、廃炉にともなう様々なリスクがあの場所には長期にわたって存在することを認めている。
・放射性廃棄物の処分に関しても「中間貯蔵施設」を現地につくりながら、その最終的な行き先が決まっていないことを認めており(同5頁)、現実には容易に帰ることのでない場所であることを十分にわかった上でこれらの文書は作成されているのだ。
・しかもこうして一方的な内容を被災者に(つまりは国民にも)突きつけながら、「双方向のコミュニケーションを強化し、信頼関係の強化につなげる」とまで言い切るふてぶてしさ(「原子力災害からの福島復興の加速のための基本方針について」平成28年12月、22頁)。 平成25年度までの文書にはこんな内容はなかった。
▽国の責任が風化している?
・おそらくこの間に欠けてしまったのは、この事故に関する国の責任なのだろう。 振りかえればちょうど1年前の平成29年3月、私はあるテレビ番組で今村雅弘復興大臣(当時)にお会いし、こんなふうに現状を説明されたのを思い出す。「時間がない。恐いのは風化だ。」(拙稿「復興相辞任のウラにある「本当の問題」」を参照) いま、この言葉の重大な意味がわかってきた気がする。このとき私は、風化は国民世論の関心のことだと思っていた。
・だがどうもそうではないのだ。原発事故・東日本大震災についての関心の風化は、もしかすると政治の中に起きているのだ。そういうことなのではないか。 たしかにもはやこの震災からの復興は、政治マターとしてうまみのないものになっている。それは紛れもない現実だろう。 「そうではない」という答えを期待しながら、あえてこう問おう。 政府はもう、原発事故を起こした国の責任というものを感じなくなっているのではないか。いやそれだけではない。もしかすると、もう一度同じような事故を起こす可能性についても。
・原発事故を起こしてはいけない。人々を被ばくさせてはいけない。危険にさらしてはいけない。そういう当たり前の感覚が、政治の中で風化し、失われつつあるのではないか。 むしろ「なんだ、原発事故といってもこの程度ではないか」「被害といったってこれくらいじゃないか」「原発のリスクなどたいしたものではない」――そんな奢った感覚が、この国の中に頭をもたげはじめているような気がしてならない。
・いや、原発事故に限ったことではない。 貧しさで苦しむ人を作ってはいけない。不当な差別が生まれる環境を作ってはいけない。人々の税金を大切に生かし、適切な政策を立案していかなければならない。この国の安定と持続を、確実にしっかりとはかっていかねばならない。
・――そういう政治を担うにあたっての当たり前の責任感覚が、だんだんと現場の中から失われはじめているのではないか。 そうした政治の変質が、矛盾だらけのおかしな復興政策を生んでいる根本にある気がしてならない。
・なお私はここでいう「国の責任の風化」を、誰か特定の政治家や、特定の政党に結びつけて考えているのではない。いずれ詳しく論を展開したいと思うが、このことだけは最後に簡単に述べておきたい。 こうした「国の責任」の変化は、もとをたどればどうも「二大政党制」と「政治主導」ではじまったものだ。 2000年代前後にこの国が制度設計しようとした「政治主導」には、何か根本的な欠陥があったようなのだ。
・そしてそれが民主党政権、自民党政権へと展開し、その間に国政選挙を何度か繰り返していく中で、次第に手もつけられないほどに拡大して、政治総体として「無責任」な状況が生まれつつあるのではないかと考えている。 さらにその中で、巨大化していく政治権力に取り入ろうとして様々な欲望が侵入しはじめ、堂々とした二枚舌や、本来やるべきことを避けながら、本来やれるはずのないこと、やるべきでないことを政治・政策の中に織り込む動きが止められないものになってしまったのだろう。
・だからなのだろう。原発復興政策がおかしくなったのと軌を一にして、各方面で(各省庁で)も、似たような感じでおかしなことが起きるようになってきた。 そして平成30年に入ってからも、働き方改革法案でその根拠となる厚労省のデータ改ざんが見つかり、そして森友問題では財務省の公文書書き換え問題までもが噴出している。
・こうしたおかしな政治・行政は、その根底にある構造が変わらない限り、止まることなくつづいていくものと私は見る。 これはいったいどのようにすれば止めることができるのだろうか。 むろん私にもその解は見えない。 が、ともかくも、事象をいくつも観察しながら、その正体を探っていくことが必要なのだろう。それゆえさらに、復興問題を離れて、全く別の角度からもこのことについて考える機会を持ちたいと思っている。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54781

第一の記事で、 『東日本大震災からの復興をめぐる政策文書をあらためてみてみると、平成28年に「復興・創生期間」へと入る前あたりから――第3次安倍内閣(平成26年12月24日)がスタートする前後から――その内容に大きな変化が起きていることがわかるからだ』、 『原子力規制委員会がいうような、"被ばく管理をし、国の責任で健康被害が出ないようつとめる"という意味には読めない。 むしろ逆にこう解釈できると思う。 「被災者からの要望があれば被ばく線量を個人で測る体制はつくる。だから自分で管理するように。基本的には放射線の知識をきちんとつければ不安に思うことはないのだから、その知識が得られるようサポート体制を整える。それでも不安があるなら、その相談には乗れるようにしましょう。それは自治体の仕事だから支援してあげます」』、 『偏見や差別、そしていじめの原因は、原発事故ではなく、国民の無知なのだ。国民を無知のままにしてきた国はそれを反省し、国民を無知から解放しなければならない』、などの指摘は、言われてみれば確かにその通りと頷ける。しかし、マスコミからこうした指摘はなかっただけに、極めて新鮮だ。 『「被災者」というが「被害者」なのだ。加害者が被害者に対して、「何でいつまでも自立できないんだ。だから差別されるんだよ」と言い始めている。そして国民についても、馬鹿だから差別するのだという認識になるのだろう。 すべては国が起こした原発事故が原因なのに。この責任転嫁をこそ「国は真摯に反省」しなければならない。 こうした論理で構築されている「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」だから、その内容はきわめて傲慢なもの』、という責任転嫁のロジックはさすが「官僚」だ。痩せても枯れても、まだ責任転嫁にはスゴ腕を発揮できるようだ。 『イノベーション・コースト構想』、とは苦しまぎれにせよ、よくぞ絞り出したものだ。
第二の記事で、 『目につく復興事業の成果の自画自賛』、 『こうした権力へのおもねりや、へつらいのようなものが、随所で感じられるようになったのも、第3次安倍政権の前後からということができる』、 『2000年代前後にこの国が制度設計しようとした「政治主導」には、何か根本的な欠陥があったようなのだ  『原発復興政策がおかしくなったのと軌を一にして、各方面で(各省庁で)も、似たような感じでおかしなことが起きるようになってきた。 そして平成30年に入ってからも、働き方改革法案でその根拠となる厚労省のデータ改ざんが見つかり、そして森友問題では財務省の公文書書き換え問題までもが噴出している』、などの指摘は説得力がある。 『復興問題を離れて、全く別の角度からもこのことについて考える機会を持ちたいと思っている』、と山下氏の次作に大いに期待したい。
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