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原発問題(その10)(原発を造る側の責任と 消えた議事録 失敗のプロセスこそ周知徹底すべき、消えた避難者3万人」はどこへ行ってしまったのか 3・11後の「言ってはいけない真実」) [国内政治]

昨日に続いて、原発問題(その10)(原発を造る側の責任と 消えた議事録 失敗のプロセスこそ周知徹底すべき、消えた避難者3万人」はどこへ行ってしまったのか 3・11後の「言ってはいけない真実」)を取上げよう。

先ずは、ノンフィクション作家の松浦 晋也氏が3月15日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「原発を造る側の責任と、消えた議事録 失敗のプロセスこそ周知徹底すべき」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・一体なぜあのような事故が起きたのか。事故後、様々な意見が世間に溢れたが、実のところ責任は明確だ。「東京電力」の責任だ。一義にこれである。その上で、東電に安全性を高めるように指導できなかった経済産業省や文部科学省、さらには歴代政権の責任ということになる。
・なぜか。福島と同レベルの地震振動と津波に直面した、東北電力・女川原子力発電所は事故を起こさなかったからである。つまり、施設としての原子力発電所はあれだけの地震と津波に耐えるように設計することが十分に可能だった。前回のタイトルを引いて言えば「ちゃんと設計・運用されていれば、原子力発電は大地震に対しても危険とは言えない」のである。 東京電力はしていなかった地震・津波対策を、東北電力はなぜ行うことができたのだろうか。
▽女川原発を設計した技術者、平井弥之助
・原子力が日本に入ってきた1960年代、東北電力には平井弥之助(1902~1986)という技術系の副社長がいた。女川原発が建設された1970年代、すでに退任していた彼は東北電力の社内委員会委員として女川の安全設計に携わった。
・当初女川原発は海抜12mのところに建設されることになっていた。それを平井は14.8mまで上げさせた。原発は海水をポンプで汲み上げて冷却を行う。より海抜の高いところに建設すれば、それだけ強力なポンプが必要になり、建設にも運用にもコストがかさむ。しかし平井は頑として引かず、海抜14.8mを実現した。
・東日本大震災時、女川は高さ13mの津波に襲われた。しかも地震による地盤沈下で、女川原発は1mも地盤が低下していた。しかし14.8mで建設していたので13mの津波にも1mの地盤沈下にも80cmの余裕を残して耐え、事故を起こすことなく安全に停止した。
・平井弥之助は、 宮城県の沿岸に位置する柴田町の出身だ。東北の海沿いで、津波の怖さを実感しつつ育ったのである。東京帝国大学工学部土木工学科を卒業して東邦電力という電力会社に技術者として就職。その結果、彼の使命感は発電所の地震・津波対策へと向かった。新潟火力発電所の建設にあたっては地震時の地盤液状化対策に力を注ぎ、1964年の新潟地震では、地下10mにまで及ぶ液状化にも同発電所の施設は持ちこたえた。
・地震・津波対策のために、平井は古文書の記録を詳細に研究し、869年に起きた貞観地震に注目した。女川原発の標高14.8mは貞観地震の津波の記録から平井が独自に算出したものらしい。「技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われる」というのが平井の信条だったという。
▽1958年の東電と、2007年との差
・今、私の手元に、「原子力発電ABC」という180ページほどの小冊子のコピーがある。1958年に東京電力社内報に連載された記事を一冊の本にまとめたものだ。おそらくは社員に配布されたのだろう。 社内報連載のまとめなので、一般向けパンフレットに毛が生えた程度の内容かと思えば然にあらず。核分裂を巡る核物理学の原理解説から始めて、各種原子炉の構造と動作原理、国内外のウラン資源の分布、さらには当時の国内外の原子力開発体制に至るまで、 現在の一般書でもあり得ないほど高度な内容を平易に解説している。
・これが社内報に連載されたということは大きな意味がある。つまり1958年時点の東電経営陣は、原子力発電のなんたるかを、事務職技術職を問わず、すべての社員が熟知しているべきと考えていたということだ。これは、「責任を持つ会社」の有り様である。
・が、21世紀の東京電力にそのような責任感はあったのか? 平井弥之助が貞観地震の古記録に注目して女川原発の安全性確保に役立てた後も、貞観地震の研究は進歩し続けた。地質学者達は太平洋側沿岸各所に残る津波の堆積物を実際に調査することで、記録が残っていない福島県や茨城県の沿岸でも、貞観地震の時に非常に高い津波が襲来していたことを突き止めた。
・そこには3つもの原子力発電所、福島第一と第二、そして日本原電の東海発電所――が稼働している。なかでも危ないのは、比較的緩い安全基準で初期に建設された福島第一の1号機から4号機だ。これら4基は海抜標高10mという低い位置に建設されているのである。このままでは貞観地震と同等の津波が来たら原発設備が浸水してしまう。
・2007年、原子力発電所の耐震性基準の見直しが原子力・安全保安院で始まった。2007年7月16日に発生した新潟県中越沖地震で、東京電力・柏崎刈羽原子力発電所が事前想定以上に揺れて、火災が発生したことがきっかけだった。 見直しの中で、既存原発がどの程度の耐震性をもっているかの再検討が行われ、東電は福島第一と第二原発についても報告書を提出した。
・報告書において東電は、貞観地震(869年7月9日、推定マグニチュードM8.3~8.6)よりもはるかに規模が小さい塩屋崎沖地震(1938年11月5日、最大マグニチュードがM7.5)を前提として発電所施設の評価を行い、問題なしとしていたのである。
▽「貞観地震を前提にすべき」という指摘があった
・総合資源エネルギー調査会・原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会の地震・津波、地質・地盤合同ワーキンググループの第32回会合(2009年6月24日開催)で、経済産業省・産業技術総合研究所の地質学者・岡村行信氏がこの問題を指摘していた。貞観地震という巨大な地震が実際に過去に起きており、しかも大津波すら到達していたことがはっきり分かっているのだから、こちらを前提にして検討すべきだ、と、岡村氏は主張した。
・これに対して、東電は「貞観地震は歴史的な被害があまり見当たらない。地震の評価としては塩屋崎沖地震で問題ない」と逃げた。岡村氏は納得せず追求したが、東電はぬるぬるとあいまいな答弁でごまかした。そこで原子力・安全保安院の審議官が東電に助け船を出し、今後きちんと検討するということで、まとめてしまった。
・これが、東日本大震災前、福島第一原発の耐震性を強化する最後のチャンスだった。 ここで、貞観地震を前提にして耐震性を検討すべきとなっていれば、福島第一の抱える低い海抜という問題点が露呈し、なんらかの対策を打つことができたろう。しかしそのチャンスは、東電の小さな地震を前提とした報告書と、原子力・安全保安院の指摘の検証を先送りする態度により、潰れてしまった。
▽自らが「官」になっていった東電
・なぜこのような違いが生まれてしまったのか。 東京電力の出自を遡ると、そこには、意外かもしれないが「官への不信」に基づく経営の系譜がある。 戦争のためにすべての電力会社を統合して設立された「日本発送電」という国策会社があった。戦後もこれを温存しようとする動きに対し、「そんなバカな話があるか」と徹底抗戦し、最終的にGHQまで巻き込んで現在に続く東京電力をはじめとする「九電力体制」(その後沖縄復帰に伴い沖縄電力が加わる)を確立した男、「電力の鬼」こと松永安左エ門 (1875~1971)。そんな彼の信条は「官は信用ならん」だった。
・平井が最初に就職した東邦電力は、松永が興した会社である。資料にあたった限り、その思いは、少なくとも松永の経営面での弟子であった木川田一隆(1899~1977、1961~71まで東京電力社長)には引き継がれていたように見える。
・東京電力は、高度経済成長による電力需要の伸びと共に巨大化し、あたかも「小さな国、小さな官」のようになって、松永が蛇蝎の如くに嫌った「官の無責任」を抱え込むようになってしまった、ということなのだろう。
・東京電力と原子力発電を巡る歴史的な経緯は非常に興味深い。官の支配に抵抗する民、なんとか民を権限下に置きたい官、その間で、原発は互いの新しい領地として、技術的に最善を追求するのとは別のやり方で支配されてきた。――なんでこんなことを言っているかといえば、私は3.11のあと、今は「日経 xTECH(クロステック)」に吸収された「日経PCオンライン」で、原子力発電関連の技術や歴史を調べ、書きまくっていたのである。物好きな方は、探してみていただきたい(※編注:探しました。初回はこちら→松浦晋也「人と技術と情報の界面を探る」原子力発電を考える (第1回) 初歩の初歩から説明する原子力と原子炉)。
・さてここで、今後の原子力発電を司る組織とそのための改革案を展開すべきところだが、残念ながら今の私にはその力はない。 編集者からは「何か、ほら話でも理想論でもいいので、『かくあるべき』を書いていただけませんか。そうでないと、読んだ方が『原発は必要だけど運営する組織は信用できない』という迷路の中に、置いていかれてしまいます」と泣きつかれた。
・それは自分でも思ったし、すこしは明るい話でコラムを終えたい。だが、そんな気持ちを吹き飛ばすようなことを見つけてしまったのだ。
▽議事録がホームページから消えている
・今回の記事を書くにあたって、以前閲覧した原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会の地震・津波、地質・地盤合同ワーキンググループの第32回会合の議事録を探した。ところが、これが見つからない。  議事録は以前、原子力・安全保安院のホームページで公開されていた。
・しかし、原子力・安全保安院は東日本大震災後の2012年9月に原子力行政の改革と共に廃止され、その機能は環境省の下に設置された原子力規制委員会へ移行した。では、と原子力規制委員会にデータが継承されていないか、と探す。こちらにもない。 では、と、国会図書館が行っている行政ホームページのアーカイブサービスで検索する。第32回会合に提出された資料は見つかった。だが、なぜか議事録は残っていなかった。
・それでは誰かが非公式にファイルを公開していないだろうか、と、検索キーワードを変え、検索エンジンもとっかえひっかえして、ファイルを探す。どこにもない。 わりと知られた事実だけに、言及しているページはいくつも見つかる。それどころか、福島第一事故の事故調査の過程で、なぜ貞観地震に基づいて検討しなかったかを東電が弁明した文書(要するに、2011年の時点で貞観地震の津波に関する知見はそんなに確定したものではなかった……と主張している。彼らに平井弥之助の「技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われる」という信条を教えてあげたい)まで見つかる。
・しかしオリジナルは見つからない。   幸い私は、元の文書の「http://www.nisa.meti.go.jp/shingikai/107/3/032/gijiroku32.pdf」というURLをメモしてあった。これを使い、世界にいくつかあるインターネットアーカイブを探した。 そこに、この文書はあった。
▽隠蔽とは言わない。だが公表して当然の資料だ
・これは一体どういうことか。日本の運命を決めたと言っても過言ではない意志決定のプロセスを記録した文書が、所管の官庁で公式に保管されておらず、海外のインターネット・アーカイブで見つけるハメになるとは。 今、霞が関は文書の改ざん(彼ら曰く改ざんではなく「書き直し」だそうだが)で揺れている。が、それ以前にこの公文書保管と公開に対する意識の低さはどうしたことだろう。 公文書は国の記憶である。保管と公開を徹底しなければ、国は記憶喪失症となり、一貫性と継続性を失う。それは国の死を意味するのだが……。
・前編で書いたとおり、私は、日本にとって少なくともしばらくの間は原子力発電が必要だし、研究開発への投資も行うべきだと考えている。だが、それを管理・運営する組織について、前向きな提言をする気力が失せてしまった。いずれ、この話を続けさせていただく機会があることを祈って、今回はこれで〆させていただく。
▽追記:国会図書館のアーカイブにはありました
・Twitterで、「国会図書館アーカイブの中にもないと言っていたが、これではないか」とのご連絡を頂いた。その通り、これである。  ということで、お詫びしたい。私は国会図書館アーカイブの中の原子力安全・保安院の起点ページ(こちら)から当該文書を探していて、経済産業省のアーカイブにあることに気が付かなかった。
・ちなみにこの議事録、正式名称は「総合資源エネルギー調査会 原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤 合同WG (第32回)議事録 」である。  ではもしかすると、経済産業省のサイト(http://www.meti.go.jp/)で公表されているのだろうか。こちらで検索すると、「総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会」にたどりつく。そこで「耐震・構造設計小委員会地震・津波、地質・地盤」で検索を行うと、アーカイブがあった。ただし、「Aサブグループ」は第37回(平成22年11月26日)から。「Bサブグループ」は第20回(平成23年1月21日)からで、該当の議事録はやはり見当たらない。
・……と思って長い長いページの最後までいくと、「各審議会・研究会等の審議記録(配布資料、議事録、議事要旨)は概ね過去5年度分を掲載しています。上記以前のものは国立国会図書館の「インターネット資料収集保存事業(Web Archiving Project)」ホームページ外部リンクでご覧になることができます。」という注意書きが用意されている。結局のところ、この議事録はやはり、官庁では(庁内のルールに則って)公開されていないようだ。
・ページの最後から国会図書館の詳細検索ページに飛べるが、使いやすい民間の検索システムに慣れていると絶句すると思う。ちなみに「検索技術の稚拙なお前が、何を偉そうに言い訳するか」なのだが、国会図書館アーカイブの検索性もよくはない。トップから「総合資源エネルギー調査会 原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤 合同WG (第32回)議事録 」と文書の正式名称で検索をかけた場合、同議事録が表示されるのは10件表示で、4ページ目からである。「データを消しはしない。だが、探しやすくする気はない」という雰囲気を感じるのは、被害妄想なのだろうか。
・3月11日で東日本大震災から7年を迎えました。被災地の復興が進む一方、関心や支援の熱が冷めたという話もあちこちから聞こえてきます。記憶の風化が進みつつある今だからこそ、大震災の発生したあの時、そして被災地の今について、考えてみる必要があるのではないでしょうか。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150302/278140/031300005/?P=1

次に、新聞協会賞三度受賞の若手女性ジャーナリストの青木 美希氏が3月11日付け現代ビジネスに寄稿した「福島原発事故「消えた避難者3万人」はどこへ行ってしまったのか 3・11後の「言ってはいけない真実」」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・3.11から丸7年。避難指示解除が進んだ福島第一原子力発電所近隣地域で進む恐るべき事態とは?  見せかけの「復興」が叫ばれる一方、実際の街からは、人が消えている。 メディアが報じない「不都合な真実」を、新聞協会賞三度受賞の若手女性ジャーナリストで、『地図から消される街』の著者・青木美希氏が描いた。
▽「帰らない」ではなく「帰れない」
・福島第一原子力発電所事故のため、原発隣接地区では大小数百の集落が時を止めた。 2017年春には6年にわたった避難指示が4町村で解除された。3月31日に福島県双葉郡浪江町、伊達郡川俣町、相馬郡飯舘村、4月1日に双葉郡富岡町で、対象は帰還困難区域外で計3万1501人。 だが帰還した人は、解除後10ヵ月経った18年1月31日、2月1日時点で1364人(転入者を除く)と4.3%にとどまる。
・いま現地で何が起きているのか、人々はどうしているのか。 2017年11月中旬、筆者は浪江町の中心街を訪れた。風が強くて寒い。海側の建物が津波で根こそぎ失われたため、風がより強くなったといわれている。 福島の地方経済を支える東邦銀行浪江支店の旧店舗が静かにたたずんでいる。本屋や酒屋だった店舗の軒先には雨をしのぐ青いテントが破れて垂れ下がり、何の店だかわからなくなっている。「撤去作業中」という青いのぼり旗も立つ。更地になっている場所も目立った。
・この中心街の一角に、以前、救助活動の取材でお世話になった消防団の高野仁久さん(56)の看板店がある。 高野さんには、4月に自宅兼店舗を見せてもらっていた。静まりかえった街で、店も息をひそめているかのようだった。店舗奥の玄関の戸を横にガラガラと開ける。土とほこりのにおいがする。床に散らばる箱や食器……。床が見えないほどだ。ところどころが黒い。土も見える。居間の日めくりカレンダーは、2011年3月11日のままだ。
・「……ここ、津波には遭っていないところですよね?」 頭ではわかっていても、思わず口に出た。それぐらい、ぐちゃぐちゃだったのだ。 「みんな動物のせいだ。ほれ」 高野さんが指をさす。居間の床や床に落ちたノートの上に、黒々とした固まりが載っている。土かと思ったのは、動物の糞が山積みになっているものだった。
・「あそこから出入りしてると思うんだけど。ハクビシンだと思う」 居間の奥の壁が破られており、穴が空いている。ここから動物が出入りしているため、居間が土だらけなのだ。「もう帰れない。壊すしかないよ」と言いながら、高野さんの太い眉毛の下の目は、じっと家の中を見つめていた。
・帰還できない人たちに対し、「ふるさとを捨てる」「勝手に避難している」と非難する声を、霞が関をはじめ東京都内でも福島県内でも聞く。一方で、帰れない人が大勢いるという現実はすっかり報道されなくなった。高野さんは言う。 「子どもたちは放射線量が高いからと帰ってこない。自分一人でも帰ってこようかとも思ったけれども、誰も帰ってこないのに、どうやって看板屋をやればいい?この街で誰か商売をするか?誰が看板を必要とする?お客がいないと誰も商売が成り立たない。子どもたちを食べさせていけない。
・2017年に入って同級生が自殺していく。2人目だ。どうしていいかわからないからだ。看板の仕事も来るけれども、できる作業が限られているので外注せざるを得ない。おれもどうしたらいいのかわからない」 浪江町中心街の商店会で元の場所で再開しているのは、2018年1月時点で47事業者中、2業者だけだ。看板店の仕事は、以前は月30~40件だったが、いまは月1~2件しかない。町内の工場を閉鎖しているため、木製看板の彫刻しかできないからだ。東京電力の賠償が切れたら、貯金を食いつぶしていくしかない。
・「これからどうしたらいいのか、寝るときに布団で考えて、答えが出なくて、考えているうちに朝になっている……」 高野さんはせつせつと語る。悲痛な叫びは世間に伝わらない。
▽時間が経てば忘れていいのか
・高野仁久さんは、3月11日が近づくたび、落ち着かなくなるという。彼は浪江町の消防団幹部。あのとき、助けを求める人たちがおり、救助活動に行こうとしていた。 翌朝から捜索すると決まったが、中止になった。原発が危ないという情報が入り、避難することが決定されたのだ。ショックだった。
・救助活動に当たっていた消防団員の後輩の渡辺潤也さん(36)も行方不明になっていた。渡辺さんは、「ジュンヤ」と下の名前で呼ばれ、慕われていた。理容師で、野球で活躍していた。家族は母と妻、中学生の長女と小学生の長男がいた。 以来、消防団は毎年3月11日に捜索を行っていた。だが、5年経った2016年3月11日で打ち切られることになった。団員は避難で全国に散らばっている。もう集まるのが難しい、という判断だった。
・最後の捜索のニュースがテレビで流れた。ジュンヤさんの母親の昭子さんが「いままで5年間捜索してくれた気持ちに感謝したい」とテレビで語った。 それでいいのか。5年経てば解決するのか──。 2017年3月11日の捜索は、高野さんは自主的に参加した。ジュンヤさんのものを何か見つけて、親御さんに返してやりたいと思った、と言う。ジュンヤさんとは、年も離れているし分団も違う。1、2度、宴席で一緒になったぐらいだ。
・しかし、一人の消防団員として、打ち切っていいのかという後ろめたさがあった。捜索に参加すれば、気持ちの中で自分を許せるのかな、と高野さんは思った。捜索に参加したのは50人ほどで役場職員が多い。高野さんは「これまででいちばん少ないな」と感じた。
・請戸川や、津波が押し寄せた大平山の間を重点的に捜索した。 鍬や熊手で土を掘る。骨や身元確認につながるものがないか探す。6年の歳月が流れるうちに土をかぶってしまい、10センチ以上掘らないと何も出てこない。掘った土の間からプラスチックのかけらが出てくる。おもちゃのネックレスの一部だった。免許証、アルバムの写真。屋根のトタン。 作業することが高野さんなりの“誠意”だった。
・海沿いでは護岸強化やがれき処理、焼却などの復興工事が行われており、重機が入っていて捜索ができない。人間の手でやるのはもう限界がある。本当はトラクターで土を掘り出し、ふるいにかけないと出てこないだろう。そんな思いとは裏腹に、復興工事が進む。
・その影響もあって、不明者が見つからないのではないかと思う。 2018年3月、あの日がまたやってくる。参加するかどうか高野さんはまだ決めていない。 「毎年、3月11日が近づくと、じっとしていていいのかという思いが出てくる」
▽みんなバラバラになってしまった
・ゼンリンの住宅地図を手に、再び浪江町の中心街を歩く。 この地図は2010年に発行されて以降はつくられていない。18年1月時点ではつくる予定もないとのことだった。見ると、東邦銀行など金融機関が並び、美容院や喫茶店、商店など約60店舗がひしめいている。 ところがいまは、建物が傾いたり、壁が倒れた廃屋が並ぶ。看板がもう読み取れないものもある。
・地図をチェックしながら周囲の450メートルを歩く。約60店舗のうち、7割が廃屋状態、2割は更地になっていた。「建物解体中」の旗も立っていた。歩道にもあちこち草が生えている。通常営業しているのは、工事車両が出入りするガソリンスタンド2軒と美容室のあわせて3店舗だった。美容室は「OPEN」ののぼりが立っていたが、出入りする客を見かけることはなかった。
・「いちばん賑やかだった通りです」と避難している人に紹介されて歩いたのだが、ここは名前を何というのだろう。聞こうにも誰も歩いていない。相変わらず遮さえぎるものがないために風が冷たい。 通りから200メートル離れた警察署に行き、パトカーの横にいる警察官たちに地図を示して聞いた。 「わからないなあ」 一人が、地図を持って周りの警察官に聞いてくれた。 「駅前通りじゃないの?あそこ、十日市とかやってたから」 十日市という行事があったのを知っているということは、地元を知る警察官のようだ。しかし、「駅前」というと、一般的には駅前から延びている通りを指すと思うが、地図で示した通りは駅前を通らず、線路と平行に走っている。違うかもしれない。
・通り沿いにある「ホテルなみえ」のフロントに行った。このホテルは、もともとは中心街のホテルとして屋上ビアガーデンや宴会でも使われ、賑わっていたが、いまは町民が一泊2000円で宿泊できるようになっている。男性がいた。 「この前の通りって、なんていう名前ですかね」 「さあ、わからないね……。もともとここに勤めていないから」 
・仕方なく、翌日、福島県二本松市に移転している浪江町商工会に電話をして、「この通りの名前と商店会の名前を教えてください」とお願いし、地図をメールした。5時間後に回答があった。 「シンマチ商店会通りです。新しい町、と書きます。新町商店会通りです」  しんまち。新町商店会。通りのバス停に「新町」と書いてあったのを思い起こした。駅前通りではなかったのだ。急に、あの商店会が色彩を持ったように感じた。美容室は白地に緑色の看板、ガソリンスタンドは黄色い屋根だった。ホテルは薄い緑色の壁。
・インターネットで「新町商店会」を調べると、いくつかホームページが出てきた。浪江の中心街として、夏は盆踊り、秋には十日市という屋台が並ぶイベントを開催していたと載っていた。 中心街の名前すら、現地ではもうわからない。近所の人の消息が4年もわからない。街が名前をなくす現実を目の当たりにした。
・前出の高野仁久さんに聞いたところ、「新町ね。権現堂地区の者じゃないとわからないだろうねえ。みんな全国に散らばってるからね」と話した。
・新町商店会の仲間とともに二本松市で活動しているまちづくりNPO新町なみえの神長倉豊隆理事長に話を聞いた。 「私が商店会で経営していた花屋も取り壊す予定です。戻る人がほとんどいない。町内の自宅のある地区に戻って、そこで花の生産をやろうと思っています」 神長倉さんは、「廃炉作業には30年以上かかる。ゆっくりと町民が安全を確認しながら帰還してもいいのでは」と町外コミュニティ(仮のまち)をつくろうと呼びかけてきた一人だ。
・「結局、浪江町長の協力が得られずだめだった。外に街をつくると浪江に帰る人が少なくなるということかと思う。国がもともと帰す方針だったので、帰るのが望ましく、外に街をつくるのは認めたくなかったというのがあるのかと。チェルノブイリではできたのに、福島ではできなかった」と落胆する。
・ともに町外コミュニティを目指していた浪江町商工会の原田雄一会長は、「福島市長に要請に行ったときは、市長が『福島市浪江区にしてもいい』とまで言ってくれたのに」と悔やむ。 なぜ馬場町長は消極的で、結果的に頓挫したのか。雑誌の取材に対し興味深い発言をしている。 「(町外コミュニティのために復興特区にする)計画を国にどうしても認めてもらえなかった」と漏らし、強引に突破をはかれば、「復興予算のしめつけがあるかもしれない」と述べているのだ。 
・経緯を確かめようと、2018年2月、町秘書係に馬場町長への取材を申し込んだが、3ヵ月前から福島市の病院に入院しているため取材を受けられないとのことだった。役場内に発言の背景を知る職員は見つからなかった。 原田さんは嘆く。 「復興政策はうまくいっていない。みんなバラバラになってしまった。帰る人に手厚く、帰らない人の支援を打ち切るということでは心も離れ、浪江がなくなってしまう……」
▽「明るいコト」しか報道されない
・「報道は、復興が進んでいるという面ばかり積極的に伝える」と、県内に住む人に言われることがある。たとえば「復興の象徴」として、避難指示解除から1週間ほど経った2017年4月8日、安倍晋三首相が浪江町の仮設店舗を訪れた。スーツ姿や法被姿の人たちが出迎え、このときの模様は明るいニュースとして大きく報じられた。 東京では、いまや事故のことが口に出されることが少なくなり、いつも通りの生活が営まれている。
・現実はどうか。浪江町で避難指示解除された人は1万5191人。帰還した人は解除の10ヵ月後でも311人と2%にすぎない。その3分の1が町職員だ。 人は辛いことを忘れようとする。誰かが苦しんでいる姿は、見たくないかもしれない。 けれど福島第一原発から約30キロの南相馬市に行くと、僧侶や市議、会社員たちから口々に、「現状を伝えてほしい」と求められる。 「政府はすべて収束したとしている。とんでもない」 「解除されても70歳以下は誰も戻ってない」 その訴えは切実なものばかりだ。
▽打ち切られていく「避難者支援」
・2017年の住宅支援打ち切りで起こったのは、避難者の名目の数の大幅減少だった。 復興庁は、避難者数を各都道府県から聞いて取りまとめているが、避難者の定義を定めなかった。このため、避難者の数え方が各自治体で異なる。福島県では、復興公営住宅に入った人や住宅提供が打ち切られた人は避難者から除かれた。 そのため、自主避難者の住宅提供打ち切りを機に、避難者数は全国で2017年3月から7月の4ヵ月間で約3万人減り、8万9751人とされた。こうして「避難者」という存在は数字上、消えていく。
・「自分たちは避難しているのに、勝手に数から除外されるのはおかしい」 「数をきちんと把握せずして、国はどのように避難者支援政策をするというのか」 当事者や大学教授らからは疑問の声が上がっている。福島県庁に聞くと、県職員は「避難者として数えられていないからといって支援が届かないということはない」と言う。一方で県は、総合計画「ふくしま新生プラン」で、避難地域の再生として「2020年度に県内外の避難者ゼロ」の目標を掲げている。
・東京・多摩地域のあきる野市では、住宅支援打ち切り後、自ら避難者登録を取り下げた避難者の母子家庭の母親がいた。理由は明かさなかったという。地元市議は「もう避難者であることのメリットもないし、知られたくないということではないでしょうか」と語った。
・「打ち切られると経済的に暮らしていけないので、戻ります」と福島県に帰り、避難をあきらめた母子からも話を聞いた。 ある40代の母親は、福島市に戻っても不安で、子どもは県外で保育を行う保育園に通わせている。民間の「保養事業」にも積極的に参加し、東京都町田市などで夏休みを過ごすが、「保養の申し込みの倍率がすごく高くてたいへんです。戻ってきた母親が同じように不安を抱えているのでは」と話す。
・この保養も寄付金減のため縮小傾向にある。子ども・被災者支援法は「国は自然体験活動等を通じた心身の健康の保持に関する施策を講ずる」と定めており、国が保養を実施してほしいという要望書や署名が出されている。
・旧知の官僚幹部に見解を尋ねた。 「いつまでも甘えていると、人間がダメになる。パチンコや酒浸けになって何もいいことがない」 健康影響が心配な人たちがいるんだと言うと、断言した。 「将来、集団訴訟が起きて、国が負けたら、何か法制度をつくって救済するということになるでしょう。水俣病と一緒ですよ」
・原発事故はまだ、終わっていない。 急速に忘れ去る世間の無関心をいいことに、支援は打ち切られていく。とくに、避難指示区域外から避難してきた人たちは「自主避難者」と呼ばれ、本人たちは支援を必要としているのに、福島県や神奈川県などは避難者数から除外してきた。避難者がいるのに、いなかったことになっていく。それが帰還政策の現実だ。
・2017年3月末には双葉郡の高校5校が休校した。避難指示区域になった福島県立双葉翔陽高校(大熊町)のほか、双葉高校、富岡高校、浪江高校と浪江高校津島校だ。それぞれ避難先で授業を続けていた。再開の見通しは立っていない。 浪江町内では、浪江東中学校を改修した小中学校の整備工事が行われ、2018年4月に開校する予定だが、17年6月の子育て世帯への意向調査では、町内で小中学校を再開しても、96%が子どもを通学させる考えがないと答えている。 同年11月現在でも、通う意向がある子どもは小学生5人、中学生2人に留まる。3階建てのぴかぴかの学校。ここに実際にどれぐらいの子どもたちが通うようになるかはわからない。
・2014年4月1日に、事故後最初に大規模な政府の避難指示が解除された田村市では、原発から30キロ圏外にある廃校に一時移転し、授業を行っていた岩井沢小学校が元の校舎に戻った。しかし多くの児童たちが戻らず、児童数は3分の1に。17年3月に統廃合で閉校となり、140年の歴史に幕を閉じた。浪江町でも同様の結果にならない保証はない。
・原発事故はまだ、終わっていない。 それどころか、支援が打ち切られる中で、変わり果てた故郷に戻るかどうか、「自己責任」でそれぞれが判断することになり、さらに混迷を深めている。
・椎名誠さんの妻で、作家の渡辺一枝さんは、いまも現地に通い続けている。 「元気なように報道されているけれども、実際は違うと思います。避難者の方々はどうしたらいいか、悩んでいる。いまでもよく電話が来ます。必要なのは『私たちが忘れないこと』だと思います。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54774

第一の記事で、 『当初女川原発は海抜12mのところに建設されることになっていた。それを平井は14.8mまで上げさせた。原発は海水をポンプで汲み上げて冷却を行う。より海抜の高いところに建設すれば、それだけ強力なポンプが必要になり、建設にも運用にもコストがかさむ。しかし平井は頑として引かず、海抜14.8mを実現した』、という平井氏の姿勢は大したものだ。 『総合資源エネルギー調査会・原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会の地震・津波、地質・地盤合同ワーキンググループの第32回会合(2009年6月24日開催)で、経済産業省・産業技術総合研究所の地質学者・岡村行信氏がこの問題を指摘していた。貞観地震という巨大な地震が実際に過去に起きており、しかも大津波すら到達していたことがはっきり分かっているのだから、こちらを前提にして検討すべきだ、と、岡村氏は主張した。 これに対して、東電は「貞観地震は歴史的な被害があまり見当たらない。地震の評価としては塩屋崎沖地震で問題ない」と逃げた。岡村氏は納得せず追求したが、東電はぬるぬるとあいまいな答弁でごまかした。そこで原子力・安全保安院の審議官が東電に助け船を出し、今後きちんと検討するということで、まとめてしまった』、というのは、事故は明らかに東京電力や保安院による人災であることを物語っている。
第二の記事は、筆者が新聞協会賞三度受賞だけあって、なかなか読ませる内容だ。 『避難指示が4町村で解除された・・・対象は帰還困難区域外で計3万1501人。 だが帰還した人は、解除後10ヵ月経った18年1月31日、2月1日時点で1364人(転入者を除く)と4.3%にとどまる』、 『帰還できない人たちに対し、「ふるさとを捨てる」「勝手に避難している」と非難する声を、霞が関をはじめ東京都内でも福島県内でも聞く。一方で、帰れない人が大勢いるという現実はすっかり報道されなくなった』、 
『「報道は、復興が進んでいるという面ばかり積極的に伝える」』、 『自主避難者の住宅提供打ち切りを機に、避難者数は全国で2017年3月から7月の4ヵ月間で約3万人減り、8万9751人とされた。こうして「避難者」という存在は数字上、消えていく』、など国は復興イメージを捏造するために予想羽状に冷酷なことをしているようだ。  『浪江町内では、浪江東中学校を改修した小中学校の整備工事が行われ、2018年4月に開校する予定だが・・・同年11月現在でも、通う意向がある子どもは小学生5人、中学生2人に留まる。3階建てのぴかぴかの学校。ここに実際にどれぐらいの子どもたちが通うようになるかはわからない』、いくら除染をして線量は下がったとはいっても、放射能の影響を受けやすい子どもたちは、なるべく戻したくないというのが親心だろう。 『原発事故はまだ、終わっていない』、というのは残念ながら確かなようだ。
タグ:原発問題 (その10)(原発を造る側の責任と 消えた議事録 失敗のプロセスこそ周知徹底すべき、消えた避難者3万人」はどこへ行ってしまったのか 3・11後の「言ってはいけない真実」) 松浦 晋也 日経ビジネスオンライン 「原発を造る側の責任と、消えた議事録 失敗のプロセスこそ周知徹底すべき」 責任は明確だ。「東京電力」の責任だ 当初女川原発は海抜12mのところに建設されることになっていた。それを平井は14.8mまで上げさせた しかも地震による地盤沈下で、女川原発は1mも地盤が低下していた。しかし14.8mで建設していたので13mの津波にも1mの地盤沈下にも80cmの余裕を残して耐え、事故を起こすことなく安全に停止 「貞観地震を前提にすべき」という指摘があった 東電は「貞観地震は歴史的な被害があまり見当たらない。地震の評価としては塩屋崎沖地震で問題ない」と逃げた。岡村氏は納得せず追求したが、東電はぬるぬるとあいまいな答弁でごまかした。そこで原子力・安全保安院の審議官が東電に助け船を出し、今後きちんと検討するということで、まとめてしまった。 青木 美希 現代ビジネス 「福島原発事故「消えた避難者3万人」はどこへ行ってしまったのか 3・11後の「言ってはいけない真実」」 帰還した人は、解除後10ヵ月経った18年1月31日、2月1日時点で1364人(転入者を除く)と4.3%にとどまる 明るいコト」しか報道されない 打ち切られていく「避難者支援」 原発事故はまだ、終わっていない
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