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ハラスメント(その4)(福田財務次官セクハラ問題:「セクハラ調査お願い文書」からほとばしる財務省の強権体質、セクハラ問題で財務省とマスコミが露呈した絶望的な無理解、官僚セクハラを「色仕掛け」と批判する日本の闇) [国内政治]

ハラスメントについては、4月5日に取上げたが、今日は、(その4)(福田財務次官セクハラ問題:「セクハラ調査お願い文書」からほとばしる財務省の強権体質、セクハラ問題で財務省とマスコミが露呈した絶望的な無理解、官僚セクハラを「色仕掛け」と批判する日本の闇)である。なお(セクハラ・パワハラ・アカハラ)はタイトルから外した。

先ずは、筑波大学教授(臨床心理学、犯罪心理学)の原田 隆之氏が4月18日付け現代ビジネスに寄稿した「「セクハラ調査お願い文書」からほとばしる財務省の強権体質 どれだけ呆れてもきりがないレベルだ」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽スキャンダル連発の財務省
・それにしても、次から次へとよくこれだけスキャンダルが出てくるものだとあきれている。 財務省はいつから相撲協会のようになってしまったのかと思うくらい、連日連夜、目だけでなく、耳までも覆いたくなるような内容の報道が続いており、収束の気配すら見えない。
・確かに、メディアの格好の標的になっているのだろう。どの組織も多少は脛に傷を持っていて、叩けば埃の1つや2つは出てくるだろう。 しかし、それを割り引いても、報道される内容の酷さに加えて、対応がおそろしいくらいに稚拙なことに驚くほかない。
・財務省の福田淳一事務次官をめぐる週刊誌の「セクハラ報道」の後、週末には音声データまでもが公開され、これは辞任待ったなしかと思っていたのだが、週明けには何とびっくりの「全面否定」に出た。 そして、それに輪をかけて驚かされたのは、被害者に「名乗り出よ」という前代未聞の驚くべき呼びかけをしたことだ。  まずは、「セクハラ疑惑」から見ていきたい。
▽「胸を触っていい?」「手を縛っていい?」
・事の発端は、4月12日発売の週刊新潮において、福田次官が女性記者に対し、「胸を触っていい?」「手を縛っていい?」などと、ここに記すのも憚られるようなセクハラ発言を繰り返したと報じられたことにある。 翌13日、その生々しい発言の音声データが公開され、福田次官はいよいよ窮地に陥ったかに見えた。報道によれば、一旦は自分の声であることを認めていたという。
・麻生財務大臣は、最初の報道の際は、「緊張感をもって対応するように訓示というか訓戒を述べたということで十分だと思っております」と述べ、進退は問わない意向を表明していた。 しかし、音声が公開されるや、「これが事実ならアウト」と発言するに至った。
・そして、4月16日、財務省が一連の報道を受けてのコメントを出したのであるが、それは官房長らが次官本人に聴取した内容を踏まえてのものであった。 部下がトップに対して聴取したわけであるから、公平性や客観性という意味では十分なものでないことは想像に難くない。 しかしその内容は、発言はおろか、会ってもいない、心当たりもないという「全面否定」だったわけである。
▽女性蔑視やセクハラに対する意識の低さ
・もちろん、現時点ではどちらが本当かはわからない。これだけ強く否定するのであるから、そのような事実はなかったのかもしれない。 しかし、発表された「聴取結果」を読むと、その文面にすら、女性蔑視やセクハラに対する意識の低さが見え隠れしている。 +福田事務次官に関する報道に係る調査について  https://www.mof.go.jp/public_relations/ohter/20180416chousa.html 
・例えば、福田次官は報道されたやりとりの真偽について問われた際、発言について、「悪ふざけ」であると評している。 しかし、一連の発言は明らかに「悪ふざけ」の域を超えている。 相手を対等の人間であると見ておらず、女性の人権を冒涜する発言である。それを軽々しく「悪ふざけ」と言ってしまえるところに、彼の認識の甘さが露呈している。
・さらに、「普段からこのような発言をしているのか」と問われた際には、「業務時間終了後、時には女性が接客をしているお店に行き、お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」と答えている。 これは、「接客業の女性であれば、セクハラ発言をしても構わない」と言っているのと同じである。 もちろん、事務次官といっても一人の人間であるし、羽目を外したり、酒の上で軽口を叩いたりすることはあるだろう。 しかし、この聴取では、そのようなことが問われているのではない。セクハラ発言について聞かれているのだ。それを真摯に受け止めているとは思えない回答ぶりである。
・きわめつけは、「その相手が不快に感じるようなセクシャル・ハラスメントに該当する発言をしたという認識はない」との苦しい言い訳である。 やっていないなら、「やっていない」と明確に答えればよいものを、「認識」という「受け止め方」の問題で逃げられる余地を作ろうとしているかのような発言である。 しかし、認識の違いは言い訳にはならない。
・そもそも一般的に、ハラスメントをする人は、それがハラスメントであるという認識がないから、ハラスメント行為に出てしまうのだ。「ハラスメントをしよう」という明確な意思をもって、ハラスメント行為に出る者はまずいない。 そして、相手から異議申し立てをされた際には、決まって「そのような認識はなかった」と言い訳をする。しかし、それは言い訳になるどころか、却って本人の「意識の低さ」を露呈する結果となってしまう。
▽一番の問題である「お願い」文書
・何より驚き、唖然としたのは、コメント発表の際に官房長名で出された「福田事務次官に関する報道に係る調査への協力のお願い」と題する記者クラブのマスコミ各社に宛てた文書のことだ。 そこでは、「各社内の女性記者の方々に以下を周知いただくよう、お願いいたします」と書かれ、女性記者が自ら名乗り出て財務省の調査に協力するように依頼している。
・不利益がないように「責任を持って対応」すると述べ、調査は弁護士事務所に委託するとしている。 しかし、何をもって「責任を持っての対応」とするのか、きわめて曖昧であるし、委託先の弁護士も財務省の顧問弁護士だというから、いわば「敵の陣地に自ら名乗り出よ」と言っているのと同じである。
・実際に名乗り出ることなどできるわけがないと端から高を括っているのか、それとも本気でこれが公平な対応と考えているのか、どちらであっても、とんでもない強権体質であり、弱者に対する思いやりや共感性のかけらも感じられない対応であるとしか言いようがない。
・麻生大臣は、「福田次官にも人権がある」「女性が名乗り出なければ事実の認定のしようがない」と述べるが、もちろんそれはそのとおりである。 福田次官にも人権があるし、本人が否定している以上、予断をもって決めつけてはいけない。しかし、人権のことを言うならば、被害に遭った女性の人権が第一である。
・また、すべて財務省が調査をしなければならないわけではないだろう。 一般に、セクハラやパワハラは、同じ会社の上司と部下、従業員同士などの間で生じることが多いため、その場合は「社内」ですべての調査をするしかない。しかし、この件は財務省と民間企業の間でのケースである。 当事者の片方であり、しかも強大な権力を持っている側が、一方的にすべて調査をしようとしているところに無理がある。
・それにしても、発表されるや否や、メディアや野党は言うに及ばず、現職の閣僚までが批判し、疑問を呈しているこの「お願い」文書。 財務省内部では誰も疑問に感じなかったのだろうか。あるいは、疑問に感じていても、誰も言い出せなかったのだろうか。 いずれの場合であっても、財務省は「劣化」したとしか言いようがない。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55324

次に、ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント/株式会社ソーシャルプランニング代表の竹井善昭氏が4月24日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「セクハラ問題で財務省とマスコミが露呈した絶望的な無理解」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・複数の女性記者に対するセクハラ疑惑に揺れる財務省・福田事務次官が辞任。またテレビ朝日は、福田次官からセクハラ被害を受けたとされる女性記者たちの中に自社の社員がいた、と発表した。展開がめまぐるしい今回の疑惑事件だが、福田氏はセクハラ疑惑を依然として否定(4月19日現在)。事務次官辞任で幕引きとせず、真相は徹底的に解明すべきだ。
・今回のセクハラ騒動でわかったことは、日本の社会がいかにセクハラ問題について理解していないかということ。だから、今回のようにマスコミで大きな話題となった事件は徹底的に解明して、セクハラを生む組織の土壌や文化について日本社会も学習する必要がある。財務省の対応は相当ひどいものだったが、マスコミの対応もひどいものだった。今回はそのことについて書く。
▽ジャーナリズムの大原則を無視した財務省の対応
・まず財務省。週刊新潮が福田氏のセクハラ疑惑を4月12日発売号で報じた後、16日には公式コメントを発表。そのポイントは以下の4つだった。 以下、『産経ニュース』2018年4月16日記事より引用 一、週刊新潮で報道された女性記者へのセクハラ疑惑を否定。 一、反省の上で緊張感を持って職務に取り組むとして辞任を否定。 一、名誉毀損で新潮社の提訴を準備。 一、財務省は外部の弁護士に委託して調査を続ける。同省記者クラブの加盟各社の女性記者に調査への協力を要請。
・この時点でたいした調査もせずに疑惑を否定したのもどうかと思うが、最悪だったのが4つめの「同省記者クラブの加盟各社の女性記者に調査への協力を要請」だ。これではまるで、取材源を明らかにしろとマスコミに迫っていることになる。ジャーナリズムのなんたるかがまったく理解できていない。
・言うまでもなく「取材源の秘匿」はジャーナリズムの大原則だ。かつて、アメリカのニクソン大統領(当時)を辞任に追い込んだウォーターゲート事件があった。この時、ワシントンポストの若き記者チームが膨大な調査報道を行い、ニクソン政権を追い込んでいった。その取材活動の裏には、“ディープ・スロート”と呼ばれる内部通報者がいた。「政権内部の重要人物」とされていたが、ニクソンが大統領を辞任して、事件が収束した後も、ディープ・スロートの正体はけっして明かされることはなかった。その正体が、当時のFBI副長官だったマーク・フェルトであったことが公表されたのは、事件から実に32年経ってからのことだった。
・情報源は徹底して守る――それがジャーナリズムの正義だ。もちろん、この財務省の協力要請に対してマスコミ各社は猛反発。財務省担当の記者が所属する「財政研究会」は18日に、この調査協力には「受け入れられず、財務省に対し抗議する」との文章を提出した。
・セクハラ問題という視点からも、この調査要求はデタラメもいいところだ。セクハラに限らず、加害者側が被害者に対して自分たちが雇った弁護士の調査に協力しろと迫り、告発者の不利益にならないように配慮しますから言ったところで、誰が安心してノコノコと出てこられるだろう。被害者の心理というものをまったくわかっていない。
・レイプ事件でもセクハラ事件でも、被害者の心はデリケートだ。被害の状況を誰かに語ることは非常に苦しくて重い。僕もレイプ被害に遭った女性の話を聞いたことがあるが、その女性はその時のことを思い出しながら話すので、あまりに感情が高ぶり、ワンワン大泣きしてしまい、途中でなにを言っているかわからなくなることが何度もあった。それぐらい、被害の話をする時は感情が乱れる。被害者が被害のことを誰かに話すということは、それほどまでに大変なことなのだ。だから被害者は、聞く者との絶対的な信頼関係がなければ話はしない。加害者側の弁護士にベラベラとしゃべる気になどならないのだ。
・またレイプ事件の裁判でもそうだが、加害者側の弁護士は、被害者女性に対してひどい質問をバンバン投げかけてくる。「あなたがこの男性を誘ったのではないですか?」とか、「その最中に声をあげませんでしたか?」とか、「助けを大声で求めなかったのは、合意があったからではないですか?」とか、被害者の尊厳を踏みにじるような詰問をする。マスコミの女性記者であれば、このようなことも知っているはずだし、だから加害者側の弁護士などの調査など受けたくないはずだ。
・財務省の調査協力依頼は、被害者女性のこのような心理をまったく無視したものであり、明らかなセカンドレイプである。財務官僚といえば、官僚の中でもトップクラスの人たちで、頭がいいとされているのに、なぜにこのようなことが理解できないのか。それこそ理解に苦しむ。今後は、国家公務員試験の中に、ジャーナリズムやセクハラに関する問題も入れておいたほうがいい。
▽劣悪だった ワイドショーのコメンテーターたち
・セカンドレイプという意味では、マスコミやネットでの反応もひどいものだった。特に劣悪だったのが、ワイドショーのコメンテーターたちだ。まるでセクハラを容認するかのような発言を、こともあろうに女性コメンテーターがしている。「男性から『おっぱいもませろ』とか『キスさせろ』とか言われても、うまくはぐらかしたり、話題を変えたりして(セクハラを)避ければいい」みたいなことを言う。「私なんか、芸能界に入ったその日からおっぱいをもまれた。そういうものだと思っていた」という、非常に意識の低い発言をしている女性芸能人もいた。
・お笑いタレントの柳原可奈子にいたっては最悪だ。4月17日放送のワイドショーで、「私だったら、この流れで『おっぱい触っていい?』て言われたら、「『どこがおっぱいでしょう』とか言って、『それより森友の件どうなっていますか?』って」と語った。これはまるで、セクハラ被害を受けたらお笑いで返せとでも言わんばかりの発言。
・さらに、「切り返し、切り返しを学んで来たので、大変なセクハラだと感じなかった。私は(セクハラに)慣れてきちゃっているのかな?」とまで発言した。セクハラは慣れてはいけない、という基本的なことをなにも理解していない発言だ。女性のこのような認識がレイプやセクハラを横行させる、ということがまったくわかっていない。まさに女の敵は女である。
・また、マツコ・デラックスも16日放送のとTOKYO MX「5時に夢中!」に出演し、ワイドショーやニュース番組などマスコミがこの問題一色になっていることに、次のように苦言を呈した。「財務省を取り巻くもっと重要な案件がある。(中略)日本を取り巻くなんとかハラスメントブームの中で、ナンチャラ学園(追及)を休んでまで、これを大盛り上がりしているのは、とっても稚拙な感じがします」「あくまでも被害に遭われた女性と事務次官の問題」と発言。モリカケ問題に比べれば、財務事務次官のセクハラ問題などたいしたことではない、と言っている。しかしセクハラは、女性の人権に関わる重大案件だ。
・いま世界では、人権はあらゆるものに優先されるべきことだとされている。しかし、モリカケ問題は人権問題ではない。だから、女性の人権に関わるセクハラは、モリカケ問題より優先されるべきなのだ。 さらに言えば、人権問題はLGBTQの人たちにとっては、そうでない人たち以上にセンシティブな問題であるはずだ。
・昔の欧米では、ゲイであるだけで逮捕されていた。ドイツの暗号エニグマを解読し、連合国側に勝利をもたらし、国家的英雄となった天才数学者チューリングも、戦後にゲイであることが発覚し逮捕され、自殺にまで追い込まれた。そのような歴史があるからこそ、同性愛者でゲイであることをカミングアウトしているマツコは、人権に関しては人一倍センシティブになるべきなのに、モリカケ問題のほうが重要と、人権問題に関してまったく理解していない。そして、人権問題はけっして、加害者と被害者の間の個人的な問題ではないのだ。
・ましてや今回の件は、後述するが、ジャーナリズム全体の問題でもある。言うまでもなく、ジャーナリズムもまた、民主主義を支える根幹である。マツコの発言は、人権問題に対してもジャーナリズムに対してもまったく理解できていないということであり、そのような人物にこの問題を語らせるマスコミにも問題がある。
・被害を受けたのがマスコミの女性記者なのに、自社ではなく週刊誌に情報提供したことへの疑義を唱えるコメンテーターも複数いる。たとえばある番組では、あるコメンテーターがこのように発言していた。 以下、『週刊新潮』4月18日発売号記事より引用 本当だったらああいうことがあったら自分が属しているメディアに対して言えばいいのに、(中略)事務次官の方だって当然、誰だってことは分かるわけじゃない。彼女自身がやりにくくないのかなあと思って」
・また、別の番組の別のコメンテーターも、下記のように発言している。 以下、『週刊新潮』2018年4月18日発売号記事より引用 女性記者の方だったら、なんでそれを週刊新潮さんに持っていくんですかね。自分でできないんですかね」 
・しかし世の中には、週刊誌では報道できても、テレビや新聞ではできない記事というものがある。週刊誌を先行させて、テレビ、新聞が後追いすることもある。素人ならともかく、コメンテーターとして長年テレビ番組に出ている人間がそのようなことを知らないはずがないし、知らなかったとすれば、メディアの特性や事情をまったく知らずテレビで発言していることになり、コメンテーターとしての資質に問題ありだろう。
▽「不適切」なことをしたのは いったい誰なのか
・かつて、田中角栄の金脈問題が大きな話題となった。1974年10月に発売された『文藝春秋』が田中角栄の大特集を掲載。この中で、立花隆が「田中角栄研究―その金脈と人脈」と題した記事で、次のように書いている。 以下、『文芸春秋』1974年10月発売号記事より引用 1969年から1970年にかけて田中ファミリー企業群が信濃川河川敷における約4億円で買収した土地が、直後に建設省の工事によって時価数百億円となった信濃川河川敷問題等の資産形成を暴き、児玉隆也の「淋しき越山会の女王」は越山会の金庫番である佐藤昭と田中の関係及び田中派内での佐藤の影響力を紹介し、2つの特集は合せて60ページに及んだ。
・この記事がきっかけで、当時総理大臣だった田中角栄に金銭スキャンダルが巻き起こり、最終的には内閣総辞職に追い込まれる。この記事は当時、文藝春秋の大スクープとされ、立花隆氏は一躍、スター・ジャーナリストになった。しかし実は、この記事で書かれたことは官邸周りの新聞記者なら誰もが知っていたことで、自社の新聞では報じられなかったという。これは僕も、新聞社の人間や雑誌の人間から何度も聞かされた話だ。
・報道畑の人間ならこのような話を知らないはずがないのに、「自社で報道しないで他の週刊誌に話したのはなぜか?」と発言するのはおかしい。事実、テレビ朝日は被害を受けたという女性記者が当初は上司にしていることを明らかにしている。 以下、『日刊スポーツ』2018年4月19日記事より引用 上司にセクハラの事実を報じるべきと訴えたが、上司は本人特定などの不安を理由に、難色を示したという。記者は、財務次官のセクハラ行為が黙認されることへの懸念から、自ら新潮サイドに連絡して取材を受け、録音の一部も提供したという。
・ちなみにテレビ朝日は、女性記者が週刊新潮に情報を提供したことを「不適切」としているが、これもまたセカンドレイプである。自社では報道できないネタを他社に流すことは、マスコミ業界ではよくあることだ。それで記者の間で貸し借り関係を作って、逆に情報をもらうこともある。そうやって動いている業界事情をテレビ局の人間が知らないはずがないし、そもそもこのネタは報告を受けながら捨てたネタだ。その捨てたネタを、しかも社会正義に関わるネタを他社の媒体に提供したことを、僕は「不適切」だとは思わない。
・テレビ朝日は「財務次官のセクハラ行為が黙認されることへの懸念」と言うが、誰だって追求されなければ黙認する。それを調査報道によって黙認できないようにすることがジャーナリズムの仕事ではないのか。また、ジャーナリストとして最も大切にすべきは、社内規定でもなく取材先の都合でもなく、社会的正義であるはずだ。財務事務次官のセクハラという大きな問題を追求することは、たとえ他社の媒体を使おうとも、ジャーナリストとしての正義だ。不適切なのは女性記者ではなく、情報を葬り去った上司のほうなのだ。さらに言えば、彼女がやったことを「不適切」と言うこと自体がセカンドレイプであることも、テレビ朝日は認識したほうがいい。
・セカンドレイプを防ぐためにも、なによりセクハラ自体を生まないためにも、セクハラ加害者には不寛容が必要だ。アメリカでは「#MeeTooムーブメント」の中で、ハリウッドの大物プロデューサーやニュースショーの大物司会者などが次々と追放、あるいは辞任に追い込まれている。
・今回福田氏は、セクハラ疑惑は完全否定している。しかし新潮報道では、被害女性は複数いるという。テレビ朝日以外のテレビ、新聞各社にも被害者がいるということだ。情報源が社内にいて、しかも記者なのだから、マスコミ各社は徹底的にこの問題を追及すべきだ。
・福田氏がもしセクハラをしていたとすれば、それは事務次官辞任で済むような話ではない。懲戒解雇すべき話だ。だからこそ、マスコミは真相追及する責任がある。今回の件は、まさに日本のジャーナリズムが問われているのだ。テレビ、新聞はのんきに週刊誌に負けている場合ではないのである。
・ちなみに、ジャーナリズム業界で最も栄誉ある賞とされているのがピューリッツァー賞だ。今年は、ハリウッドの大物プロデューサー、ワインスタイン氏などのセクハラ問題を報じた『ニューヨーク・タイムズ』と『ニューヨーカー』が受賞した。同賞事務局長のダナ・カネディ氏が語った受賞理由を、最後にお届けしておきたい。
・以下、『ハフィントンポスト』2018年4月17日記事より引用 権力と富を握り、弱みに付け込み性犯罪を犯す人間たちは、長い間被害者たちを抑圧し、野蛮な行為をし、黙らせた。(ニューヨーク・タイムズやニューヨーカーなどの報道機関は)その責任を追求した。その結果、全世界的に女性に対する性的虐待について深く考えるきっかけを与えた。 いまこの言葉は、日本のメディアに対しても突きつけられている――。
http://diamond.jp/articles/-/168388

第三に、健康社会学者の河合 薫氏が4月24日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「官僚セクハラを「色仕掛け」と批判する日本の闇 米国では「#Me Too」でピュリツァー賞」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・今回は「演じざるをえない人」というテーマで、アレコレ考えてみる。 今日はどんな問題が起きているのだろうか? またもや「マジか??」といった信じがたい対応を、頭のいい人たちは繰り広げているのだろうか?  ええそうです。先週、フツーでは考えられないような対応と反応が繰り返された、財務省の福田淳一前事務次官の“セクハラ事件”である。
・この件に関しては山のような意見が語り尽くされているので、もはやネタにするのも憚(はばか)られる。と同時に、本件に女である私が意見をちょっとでも述べた途端、「感情的」「フェミニスト」「女もセクハラする」と戦闘態勢に入る人たちが想像以上に多く、少々うんざりしている。 だが、これまで散々セクハラ問題を取り上げてきた身としては、書かざるをえない。
・といっても福田氏のセクハラ行為や、責任の取り方うんぬんに今さら言及するつもりはない。 被害者の女性記者に対する“美しい言葉”を利用した対応および意見について、だ。 「人権」という美しい言葉に乗じた、麻生太郎財務大臣及び財務省の「被害者出てこい!」発言。 「不徳のいたすところ」という謙虚な言葉に乗じた、テレビ朝日の「(週刊誌に音声データを渡したのは)報道機関として不適切な行為」発言。 「全体をみれば」というもっともらしい言葉を使い、「同社がどういう調査をしたか知らないが、会話の全体をみればセクハラに該当しないことは分かるはずだ」とした福田氏の発言。
・どれもこれも、わが国の“お偉い人”たちが自らの醜い感情を隠すために放った“正論”で、私の脳内の突っ込み隊は大騒ぎだった。だが、世間は意外にもそうではなかった。 例えば、私が先週水曜日にコメンテーターで出演したテレビ番組で、「財務省の対応について、『問題なし』「問題あり』『わからない』のどれか?」と視聴者に投票してもらったところ、次のような結果になった(この時点では、まだテレ朝の会見は行なわれていない)。 「問題なし」1023票 「問題あり」1770票 「わからない」309票
・問題ありが一番多いとはいえ、問題なしの意見も多いことに正直驚いた。 しかも、私が番組内で、 「福田さんの人権を守ることに異論はない。でも、それは、音声データの分析、編集の有無を検証すればいいし、録音された日付と場所に行っていないことは、当人の行動や携帯記録、お店の人たちへの聞き取りで潔白を証明できる」 と発言したことに対しても、 「それを財務省がやってるんでしょ? 訴えた人が出てこないことには正確なことはわからない」 という、私の知能では理解不能なTwitterをもらい困惑した。
・テレ朝の発言については「労働者である以前に人間である」ということに尽きる。女性記者の言動を責めるのはおかしいし、なぜ、事務次官を辞めてから公表したのかもひっかかる。 
・そして、何よりも驚いたのは、テレビのコメンテーターたちの中に、今回の事件発覚から最後の「全体発言」に至るまで、福田氏の発言に一定の理解を示す人が相当数いたことだ。 彼らは、 「でも、福田さんって、部下からの信頼も厚い、親分肌の人みたいですね」 「仕事だけじゃなく、遊びも上手い人みたいだからね」 などと繰り返した。
・事件がほぼ黒となってからは、「福田さんは悪いけど」と前置きをしながらも…… 「ハニートラップみたいのありますからね…」 「『やめてくださ~い』と『やめてください!』じゃ、まったく違うし」 「ジャーナリストなら、自局の上司を説得しなきゃ」 「色仕掛けで、情報取ろうとする姿勢がセクハラを生んでいる」 etc……。
▽「大年増の厚化粧」のときとまったく同じ
・ふむ。 これっていったいなんなのだろう? 被害者の女性が今回取った行動は、ここまで言われてしまうほど問題あるものだったのだろうか?メディアは福田氏や財務省の発言の「世間とのズレ」を指摘してたけど、スタジオで繰り広げられたコメントも不愉快だった。
・そう。あのときの“空気”と同じ。 小池旋風が吹き荒れた2016年の東京都知事選での、「大年増の厚化粧」(by 石原慎太郎氏)のときとまったく同じだ。 自他ともに認める“権力者”である石原元都知事が、増田寛也候補を応援する決起集会で 「大年増の厚化粧がいるんだな。これが困ったもんで、あの人は嘘つきだと思いますね」 と、攻撃したのを爆笑した壇上の男たち。ニヤニヤした対立候補の増田氏。
・「あの発言は、正直うま味があったのではないですか?」「あの発言は、ありがたかったのではないですか?」と、繰り返し小池氏に詰め寄ったメディアの記者。 さらには、アノ池上彰氏でさえ、 「(選挙戦では)厚化粧と呼んだ人がいましたが、『しめた』と思ったんじゃないですか」 と、小池さんに選挙速報後に迫った。
・もし、小池氏が「香水をプンプン臭わせているジジイがいるんですよ。これが困ったもんで、あの人は嘘つきだと思いますよ」と言ったら、男性たちは同じような質問を石原氏にしたのだろうか? 結局のところ「見下している」のだと思う。
・申し訳ないけど、私にはそう思えた。だって、年を重ねると疲れてもないのに「疲れてる?」と聞かれるから、どうしたって人前に出るときの化粧は念入りになる。男性が加齢臭に敏感になるのと一緒だ。 奇しくも社会学者の古市憲寿氏が、4月19日放送の「とくダネ!」(フジテレビ系)で、こう発言した。 「そもそも何がセクハラを生んだかということから考えるべきだと思います。 今、政治家や省庁幹部にテレビ局が取材しようとした時に、取材経験はそんなにないかもしれないけど、若くてかわいい女性記者を送り込もう、みたいなことが正直たぶんあると思うんですよ。そこで政治家と仲良くなってもらって、話をいろいろ聞き出すという、メディアの手法自体がセクハラを生みやすかった」
・一見正論を言っているようだが、私にはこの発言もまったく理解不能だった。 若くてかわいい女性記者を送り込む……? いったいいつの時代のコメントなのだろう。 どこまで女の人をバカにしているのか?  確かに一般企業に比べると、メディアの現場は男尊女卑の傾向はあるかもしれない。 だが、「若くてかわいい女性記者を送り込めばネタが取れる」と、マジで考えている上司がいたとしたら、残念ながらその人は無能だ。
・そんな下世話な考えでネタが取れるほど、相手はアホじゃないし、世の中は甘くない。色仕掛けに対しベラベラしゃべる人間のネタに、いったいどれほどの信憑性と価値があるというのだ。そのことは現場の人たちが一番分かっているはずだ。
・かつてテレビの出演者に対しても似たようなことを言う人たちがいた。「アイツは“女”を使って番組を取っている」と。 もし、ホントにそんなことでネタが取れたり、番組を取れるなら、女たちはもっと狡猾に女を使うぞ。その方が楽。そんなことで仕事がもらえるのなら、私だってこんなに必死に仕事に向き合わずに“女”だけを磨く。エステに行き、化粧を厚塗りし、打ち合せはすべて夜のバーにし、猫なで声ですり寄っていく……。 
・なんだかとってもバカにされた気がしてしまうのですよ。こんなことを言われるとね。 残念というか、ガッカリというか。 あ~、これが男女差別ということなんだなぁと痛感させられてしまうのである。 そうなのだ。今回の事件で私が感じた違和感は、色仕掛けという言葉に代表される、 男性=自立、独裁的  女性=従順、やさしい といった世間に蔓延(まんえん)するジェンダー・ステレオタイプだ。そして、こういうことを書くと、今度は「感情的」と。「なんでそんなに感情的になる?」と。いかなる文章にも、私は感情を込めているのに……。いったいどうしたらいいのか。自分でも情けなくなってしまうのである。
・人が持つ価値観には「意識できるもの」と「無意識のもの」がある。親の考え、子供の時によく見たテレビや雑誌で描かれていたこと、周りの人がよく言っていたことなど、社会に長年存在した価値観は「無意識のもの」で、ジェンダーの土台となる。 ジェンダー・ステレオタイプは、いわば“社会のまなざし”であり、社会が作り出した無意識の圧力だ。
・興味深い実験がある。 被験者の大人たちに(男女含む)に、生後3カ月の子どもとおもちゃのある部屋で3分間関わってもらうもので、3つの異なる条件を与え、大人たちの行動を比較した(以下)。 第1グループ:子どもは女児であると伝える 第2グループ:子どもは男児であると伝える 第3グループ:子どものジェンダーは伝えない
・その結果、 第1グループ:人形を用いて関わろうとした 第2グループ:プラスティックの輪を用いて関わろうとした 第3グループ:女性の被験者は自分なりにジェンダーを判断し、それにしたがって関わっていたが、男性の被験者は関わりを持とうとしなかった  つまり、大人たちは赤ちゃんが女か男かによって、赤ちゃんが好むであろうおもちゃで関わりを持とうとしたのだ。
・そして、こういった親たちの行動と共に、子どもは成長する。 3歳と5歳の子どもに、生後12カ月の赤ちゃんが遊んでいるビデオを見せるという実験で、ひとつのグループには「右側の赤ちゃんは女の子、左側の赤ちゃんは男の子」と告げ、もうひとつのグループには「右側は男の子、左側は女の子」と逆パターンを告げたところ…… なんとどちらのグループも「女の子」と告げられた赤ちゃんには、「弱い、遅い、無口、やさしい」と感想を述べ、「男の子」とされた赤ちゃんには「強い、すばやい、騒々しい、元気」といった感想を述べたのである(「生まれる―つくられる男と女」細辻恵子著より)。
▽社会的役割を演じることで成熟していく
・社会的動物である人間には、社会的役割を演じつつ自己を確立するというプロセスが組み込まれている。発達心理学用語ではこれを「社会化」と呼ぶ。 社会化の過程では、先の実験のようなジェンダー・ステレオタイプを植え付けられ、自らもそれに沿った言動を学んでいくので、社会化はジェンダー化の過程でもある。子どもが男性と女性の区別を知り、ジェンダー・ステレオタイプが刷り込まれていくのは2歳頃に始まり、5歳頃には「ジェンダー・ステレオタイプ」越しに他人を見る。
・フランスの哲学者ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉は有名だが、米国の社会学者チャールズ・ホートン・クーリー博士は、「我々思うゆえに我あり」という名言を残した。 クーリー博士いわく、 「我々は自分の容姿や身のこなし方、さらには、目的や行為や性格や友達その他についての何らかの考えを、他人の心の中に想像し、その考えのいかんによって様々な影響を受ける」と。 社会的動物である人間は、常に他者との関係性で社会的役割を演じている。
・真に健康な人間とは、一方において個を確立するとともに、それが他者との分離を促進することなく、逆につながりを強化する。 「個」としての自己を生かすことと、「他者」との関係性の中で自己を生かすことを統合的に探索するプロセスを経ることで、私たちは成熟した人間になっていくのだ。
・他者との関係性の中で自己を生かすとは、社会的役割を“らしく”演じること。「演じる=悪」というイメージを持つ人がいるが、人間が健康的に社会の一員として生きるには、演じざるをえないのである。 新人らしく、学生らしく、上司らしく、部下らしく、先生らしく、リーダーらしく、父親らしく、母親らしく、年長者らしく……。それぞれの役割を“らしく”振る舞うためのスキルや能力を演じながら高めていくことで、自分の内面になかった感情や考え方、道徳的価値観などを育み、「自分は○○だ」と自分の居場所を社会の中に見いだしていく。  そこに性差は存在しない。人が人である以上、誰もが多かれ少なかれ「演じている」のだ。
・男性たちが「色仕掛け」と呼ぶことは、ただ単に「女らしく」振る舞っただけじゃないのか? もちろん仕事の場では「仕事人らしく」振る舞うことが優先されるので、「女らしさ」がそれを上回らないように気をつけなければならないこともあるだろう。 だが、今回の被害者の女性の言動は、果たしてそういったものだったのだろうか?
▽米国では「#Me Too」を合い言葉にピュリツァー賞
・福田氏がテレ朝の会見後も、セクハラを否定したことについて、夕方のニュースに出演していた某男性コメンテーターは、こうコメントした。 「僕ね、気持ちがわかるんですよ」と。 「僕もね○○にいるときに予算担当でね。みんなペコペコ頭さげてくるから、だんだんと自分がものすごい偉い人になったような気になった。すると何をやっても許されるって思っちゃうんですよ。だからね、そういう立場になった人は仕方がないんです」と。 ……。
・「仕方がない」は言い過ぎだと思いますよ。 肩書きは、他者の目を惑わす幻である。「社会的地位=自己の価値」と勘違いした人は、まるで子どものように自己中心的な感情だけの幼稚な人間に成り下がる。だからこそ、自己=自分を律する「個」を磨き続けなければならないんじゃないのか?それがリーダーに求められる資質なんじゃないのか?
・日本でセクハラ事件が盛り上がっている頃、米国では「#Me Too」を合い言葉に、社会のセクハラに対する見方を一変させたニューヨーク・タイムズ紙とニューヨーカー誌が、ピュリツァー賞を取った。 「裕福で権力を持つ性的搾取者を暴き出し、抑圧や残虐性、口止めに対する責任を追及し、女性への性的虐待を償わせる衝撃的な報道だった」(by カネディー事務局長)
・いろいろと意見はあると思う。でも、「セクハラを生み出す構造や環境」だけではなく、「私」たち自身が(男女に関係なく)、セクハラと正面から向き合う必要があると思う。 もちろん、私、自身も……。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/042300156/?P=1

第一の記事で、 『一般的に、ハラスメントをする人は、それがハラスメントであるという認識がないから、ハラスメント行為に出てしまうのだ。「ハラスメントをしよう」という明確な意思をもって、ハラスメント行為に出る者はまずいない。 そして、相手から異議申し立てをされた際には、決まって「そのような認識はなかった」と言い訳をする。しかし、それは言い訳になるどころか、却って本人の「意識の低さ」を露呈する結果となってしまう』、というのは、「認識」という言い訳を見事に論破している。 『一番の問題である「お願い」文書』、の指摘はまさに正論だ。
第二の記事で、 『「同省記者クラブの加盟各社の女性記者に調査への協力を要請」だ。これではまるで、取材源を明らかにしろとマスコミに迫っていることになる。ジャーナリズムのなんたるかがまったく理解できていない』、との指摘は私も気づかなかった重要な論点だ。 『特に劣悪だったのが、ワイドショーのコメンテーターたちだ。まるでセクハラを容認するかのような発言を、こともあろうに女性コメンテーターがしている』、というのは、ワイドショーを殆ど観ない私には、ここまでレベルが低いのかと驚きであった。あるいは、安部政権が放送法改正の意向をリークしたので、「忖度」したのだろうか。 『テレビ朝日は、女性記者が週刊新潮に情報を提供したことを「不適切」としているが、これもまたセカンドレイプである。・・・そもそもこのネタは報告を受けながら捨てたネタだ。その捨てたネタを、しかも社会正義に関わるネタを他社の媒体に提供したことを、僕は「不適切」だとは思わない』、というのはその通りだ。テレビ朝日は「ニュースステーション」でコメンテーターの古賀茂明氏を降板させることで、政権への恭順を示したが、その体質が続いているのだろうか。
第三の記事で、 『今回の事件で私が感じた違和感は、色仕掛けという言葉に代表される、 男性=自立、独裁的  女性=従順、やさしい といった世間に蔓延(まんえん)するジェンダー・ステレオタイプだ』、 『社会的動物である人間には、社会的役割を演じつつ自己を確立するというプロセスが組み込まれている。発達心理学用語ではこれを「社会化」と呼ぶ。 社会化の過程では、先の実験のようなジェンダー・ステレオタイプを植え付けられ、自らもそれに沿った言動を学んでいくので、社会化はジェンダー化の過程でもある。子どもが男性と女性の区別を知り、ジェンダー・ステレオタイプが刷り込まれていくのは2歳頃に始まり、5歳頃には「ジェンダー・ステレオタイプ」越しに他人を見る』、 『「セクハラを生み出す構造や環境」だけではなく、「私」たち自身が(男女に関係なく)、セクハラと正面から向き合う必要があると思う』、などの指摘は、大変、面白く、大いに参考になった。さすが河合氏である。
タグ:何よりも驚いたのは、テレビのコメンテーターたちの中に、今回の事件発覚から最後の「全体発言」に至るまで、福田氏の発言に一定の理解を示す人が相当数いたことだ 「官僚セクハラを「色仕掛け」と批判する日本の闇 米国では「#Me Too」でピュリツァー賞」 日経ビジネスオンライン 河合 薫 テレビ朝日は、女性記者が週刊新潮に情報を提供したことを「不適切」としているが、これもまたセカンドレイプである 劣悪だった ワイドショーのコメンテーターたち 財務省の調査協力依頼は、被害者女性のこのような心理をまったく無視したものであり、明らかなセカンドレイプである 「取材源の秘匿」 ジャーナリズムの大原則を無視した財務省の対応 「セクハラ問題で財務省とマスコミが露呈した絶望的な無理解」 ダイヤモンド・オンライン 竹井善昭 一番の問題である「お願い」文書 「悪ふざけ」 女性蔑視やセクハラに対する意識の低さ スキャンダル連発の財務省 「「セクハラ調査お願い文書」からほとばしる財務省の強権体質 どれだけ呆れてもきりがないレベルだ」 現代ビジネス 原田 隆之 セクハラ・パワハラ・アカハラ (その4)(福田財務次官セクハラ問題:「セクハラ調査お願い文書」からほとばしる財務省の強権体質、セクハラ問題で財務省とマスコミが露呈した絶望的な無理解、官僚セクハラを「色仕掛け」と批判する日本の闇) ハラスメント 、「セクハラを生み出す構造や環境」だけではなく、「私」たち自身が(男女に関係なく)、セクハラと正面から向き合う必要があると思う 子どもが男性と女性の区別を知り、ジェンダー・ステレオタイプが刷り込まれていくのは2歳頃に始まり、5歳頃には「ジェンダー・ステレオタイプ」越しに他人を見る 社会化の過程では、先の実験のようなジェンダー・ステレオタイプを植え付けられ、自らもそれに沿った言動を学んでいくので、社会化はジェンダー化の過程でもある 社会的動物である人間には、社会的役割を演じつつ自己を確立するというプロセスが組み込まれている。発達心理学用語ではこれを「社会化」と呼ぶ
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