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日本のスポーツ界(その10)(日大アメフト問題1)(日大アメフト選手に学ぶ“不正の後始末” 権力が強さではなく弱さに宿るで困難乗り越える、日大「内田・井上コンビ」にソックリな人物は日本中の会社にいる) [社会]

今日は、日本のスポーツ界(その10)(日大アメフト問題1)(日大アメフト選手に学ぶ“不正の後始末” 権力が強さではなく弱さに宿るで困難乗り越える、日大「内田・井上コンビ」にソックリな人物は日本中の会社にいる)を取上げよう。この問題は、さんざん各方面で取り上げられているので、ここではユニークな角度から分析している記事に厳選した。

先ずは、健康社会学者の河合 薫氏が5月29日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「日大アメフト選手に学ぶ“不正の後始末” 権力が強さではなく弱さに宿るで困難乗り越える」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・このコラムが公開される頃、日大アメフト部の問題はどうなっているのだろうか? 権力、不正、服従、正当化、自己保身、ウソ、無責任、密室性、心理的抑圧etc……。 これまで研究者たちが検証を試みた「心のメカニズム」が、見事なまでに再現された“事件”だった。
・内田正人前監督と井上奨コーチの節操なき会見は、「権力が強さではなく弱さに宿る」ことを知らしめる象徴的な会見だったし、先だって行なわれた日大アメフト部の選手の言葉には、「不安という感情が人を弱くも強くもする」ことが赤裸々に表れ、切なかった。
・今回のような事件は、どこの組織でも起きるし、起きてきた。過去には何人もの、“内田氏”、“井上コーチ”、“日大アメフト選手”がいたし、“外野席”にいる私たちも例外じゃない。
・そして、手を染めてしまった“あと”を、左右するもの。 SOC。Sense Of Coherence。直訳すると「首尾一貫感覚」。SOC とは人生であまねく存在する困難や危機に対処し、人生を通じて元気でいられるように作用する「人間のポジティブな心理的機能」。このコラムで何回か書いてきたとおり、SOCは生きる力であり、ストレス対処力だ。
・平たく言うと、どんな状況の中でも、半歩でも、4分の1歩でもいいから、前に進もうとする、すべての人間に宿るたくましさだ。 真のポジティブな感情は、どん底の感情の下で熟成される。この究極の悲観論の上に成立しているのが、SOC理論である。 勇気ある20歳のアメフト選手の言動は、SOCを理解する上で最良の教材である。そこで今回は、「アメフト事件に学ぶたくましさと愚かさ」をテーマにアレコレ考えてみる。
・本題に入る前に、なぜ、権力者はのうのうとウソをつくのか? なぜ、権力者に従ってしまうのか? について、説明しておく。 まず、前提として権力者が度々ウソをつくことは、世界の膨大な研究結果が一貫して証明している。私たちは一般的に、「ウソをつき、責任を回避すると、イヤな気持ちになる」と考える。ところが、ウソを貫き通すことができると、次第に“チーターズ・ハイ”と呼ばれる高揚感に満たされた状態に陥り、どんどん自分が正しいと思い込んでいくのだ。 権力者の周辺に漂う「もの言えぬ空気」が、権力者の権力を助長し、やがて権力者自身がルールとなり、彼らは「このウソは必要」だと考え、正当化する。その確信が強まれば強まるほど、チーターズ・ハイに酔いしれ、共感も罪悪感などいっさい抱かない「権力の乱用」が横行するのである。
・彼らには危機感の「き」の字もない。あるのはウソの上塗りのみ。そして、「よく言うよ、何年か前の関学が一番汚いでしょ」といった具合に、都合のいい情報を探し出し、巧みに問題のすり替えを行なうのだ。(by 内田氏 「文春オンライン」の音声データより)。
▽「自分は不正をしない」という人も不正の罠にはまる
・一方、権力に屈し、不正を犯してしまう心のメカニズムは、ミルグラム実験(別名アイヒマン実験)で明かされている。 これは50年前の心理実験だが、「権威者に従う人間の心理」を理解するための模範的な社会心理実験として、今なお評価されている(詳細はこちらに書いたので興味ある方はどうぞ)。
・どんなに「自分は不正なんかしない」と思っている人でも、極度のプレッシャーに「不安」という心理状態が重なったとき、不正の罠にはまる。他人からみればたいしたことじゃなかったり、後から考えるとたわいもないことでも、その渦中にいるときには、過度のプレッシャーに押しつぶされそうになり、つい境界線を越えてしまうのだ。だって、人間だから。
・その心情は、アメフト選手が記者会見で語ったとおりだ(以下、記者会見での質疑応答より抜粋)。
・記者:もし、これを拒否していたら、どうなっていたとお考えでしょうか? やってしまってもこのようにフットボールをできなくなった可能性も高いし、やらなかったらやらなかったで、やはりまたフットボールができなくなる現状が起きていたんでしょうか? いかがでしょうか?
・宮川:この週、試合前、まず練習に入れてもらえなかったっていうのもありますし……どうなっていたかははっきりはわからないです。けども……今後ずっと練習に出られない、そういう状況にはなりたくなかった、という気持ちです。
・不安の極限状態で“光”となるのが、権力者の悪魔のささやきである。「オマエのためを思って言ってるんだ」といった甘言に病んだ心はすがり、その言葉を妄信し、「やるしかないじゃん!」ともうひとりの自分に支配される。そして、「自分はちゃんと命令通りやっている」という満足感が、不正を犯すという罪悪感を上回り、「アレは仕方がなかった」と自らを正当化するのである。
・……が、20歳の青年は正当化しなかった。これがSOC。そう、SOCだ。SOCは、困難やストレスが生じて初めて機能する力で、ストレッサー(ストレスの原因)の多い環境ほど、SOCの高低による影響が現れやすい。言い換えれば、SOCはストレッサーが生じて初めて機能する能力であり、「ストレスに対処するための能力」でもある。
▽SOCの高い人も「鉄人」ではない
・SOCの高い人は、大きな危機に遭遇したとき、それを脅威ではなく「自分に対する挑戦だ」と考えることができる。自分の人生にとって意味ある危機であればあるほど、「これは挑戦だから、どうにかして対峙してやる」と踏ん張り、対処するのだ。
・とはいえ、SOCが高い=「鉄人」ではない。SOCの高い人でも間違いは犯すし、後悔もする。それでも絶望の淵から抜け出すための最善の策を探り、覚悟を決め前を向く。ときに傷つき、ときに悩み、自分を見失いながらも、自分を俯瞰する力を取り戻し,自分を信じる力を武器に、困難を乗りこえる度にひと回りもふた回りもたくましくなるしなやかさを、SOCの高い人は持っているのである。
・20歳の青年のSOCは高かった。それを裏付けたのが先の会見であり、彼の贖罪の気持ちが、彼の成長の糧になると確信している。
・記者:監督やコーチから理不尽な指示があってこういう形になった後に、たとえば同僚とか先輩とか周りの人たちから「いや、お前は悪くないんじゃないか。監督、コーチの責任じゃないか」という声は挙がらなかったんでしょうか?
・宮川泰介選手:挙がっていたと思います。
・記者:それを聞いて、ご本人はどういうふうに感じていらっしゃいますか?
・宮川:いや、まず、そもそも指示があったにしろ、やってしまったのは私なわけで……。人のせいにするわけではなく、やってしまった事実がある以上、私が反省すべき点だと思っています。
・記者:明らかな反則行為なわけですけども、直後から悔悟の念がよぎるその行動を、なぜしてしまったのか? 監督の指示がご自身のスポーツマンシップを上回ってしまった、その理由は何でしょう?
・宮川:監督、コーチからの指示に、自分で判断できなかったという、自分の弱さだと思っています。
・記者:ただ、今日会見に臨んでくださるような、そんな強い意志を持たれている方が断れない状況になっているということは、これはまた繰り返されてしまう可能性もあるという意味もあって。ここで伝えておかなければならないメッセージというのもお持ちかと思うのですが、そういった点いかがでしょうか。
・宮川:自分の意思に反するようなことは、フットボールにかかわらず、すべてにおいて、するべきじゃないと思います。
・記者:指導する側に求めるものもあると思いますが、いかがでしょうか?
・宮川:指導する側……先ほどから言ってる通り、僕がどうこう言うことではないと思っています。
・20歳の青年は、しっかりと自分の言葉で、自らを罰するがごとく言葉を紡いだ。記者たちが“狙った”安易な質問にも、一切のらなかった。 あれって、なかなかできることじゃない、と思うのです。あのフラッシュの中での記者会見は、本人の想像以上のプレッシャーと緊張との戦いだったはずだ。一挙手一投足を逃すまいと構えるカメラと、記者たちがしきりに繰り返した「なぜ、監督やコーチの指示に従ってしまったのか?」という「責め」にも、彼は屈しなかった。
▽弱さと向き合い、自己受容を手に入れた
・青年は、普通であれば目をつぶりたくなるような、自分の弱さ、不甲斐なさと正面から向き合い、「自己受容(self acceptance)」というリソースを手に入れていたのである。 自己受容とは、ナルシシズム的な自己愛や過剰な自尊心とは異なり、自分のいいところも悪いところも、しっかりと見つめ、自分と共存しようとする感覚である。
・SOCの高い人たちは、いくつものリソースを獲得しているだけでなく、困難に遭遇する度にリソースを動員する力もある。リソースとは、世の中にあまねく存在するストレッサーの回避や処理に役立つもののこと。お金や体力、知力や知識、社会的地位、サポートネットワークなども、すべてリソースである。
・リソースは、専門用語ではGRRs(Generalized Resistance Resources=汎抵抗資源)と呼ばれ、「Generalize=普遍的」という単語が用いられる背景には、「ある特定のストレッサーにのみ有効なリソースではない」という意味合いと、「あらゆるストレッサーに抗うための共通のリソース」という意味が込められている。
・彼は、プレッシャーと先行きの見えない不安から、監督とコーチに屈してしまったけど、ちゃんと「自分」を取り戻した。ラフプレーで退場になったあとテントで大泣きしたとき彼の内部にあった「自己受容」に気付き、ご両親や関係者のサポートというリソースに支えられながら、自己受容を強化したのだ。
・「自己受容」はSOCを高める大切なリソースのひとつだ。私の個人的な感覚では、40代以上で「自己受容」ができている人は、例外なくSOCが高い。一方、10代や20代で自己受容できている人は、幼少期での親子関係が極めて大きな役割を果たしていた。実際、私がこれまでインタビューした人たちで、自己受容できている人たちはそうだった。
・⻑くなるので具体的なことは、今回は書かないけど(いずれ機会があったら書きます。著書には書いてあるので興味ある方はそちらを読んでください。すみません)、彼にもSOCが育まれる質のいい親子関係があったに違いない。 SOCはただ単にストレスや困難に対処する力ではなく、困難や危機を成長につなげる力だ。
・20歳の青年は、今はとんでもなくしんどいかもしれない。贖罪の気持ちに押しつぶされそうになることもあるかもしれない。だが、きっと乗りこえられる。周りの力を借りながら、踏ん張り、感謝し、再び踏ん張れば、やさしくて強い人、真のしなやかなSOCを獲得できると確信している。
・今回の事件で、ひとつ残念なのは、記者会見で「信頼していた」という井上コーチが、最後まで権力に屈してしまったことだ。なんというか……、中間管理職のジレンマというか。「自分が未熟だった」という言葉を繰り返していたけど、“日大アメフト部のコーチ”という社会的地位が彼の目を曇らせてしまったのだろう。
▽13項目の質問によって測定できる
・最後にSOCについて、補足しておく。SOCは、イスラエルの健康社会学者であるアーロン・アントノフスキー博士が提唱した概念で、信頼性と妥当性が確認され、世界各地で使われている13項目の質問によって、個人のSOCを測定することができる。私は恩師である山崎喜比古先生の下で、長年にわたりSOCに関する研究を積み重ねてきた。
・SOCの高い人は、さまざまな健康に関する要因を予測する力が高い。例えば、SOCの高い人ほど、ストレスにうまく対処し、健康を保つことができる。抑うつや不安、頭痛・腹痛などのストレス関連症状だけでなく、欠勤なども予測する。SOCの高い人ほど、仕事上の疲労感が少なく、バーンアウトを起こしにくく、職務満足感が高いことも確認されている。
・欧米で行われた10年間の追跡調査では、SOCの高い人は低い人に比べて10年後の精神健康が良好であることも確認されている。SOCが寿命を予測するとの研究結果もある。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/052800161/?P=1

次に、ノンフィクションライターの窪田順生氏が5月31日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「日大「内田・井上コンビ」にソックリな人物は日本中の会社にいる」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・連日、ワイドショーで叩かれまくっている日大の内田前監督と井上前コーチ。しかし、この問題は、2人の悪者に全責任をおっかぶせれば済むほど簡単な話ではない。日本中の会社には「内田・井上コンビ」にソックリな人物がわんさかいるはず。それはかつて、山本七平も指摘した「日本人の暴力志向」が根底にあるからだ。
▽監督とコーチを連日吊るし上げ テレビの短絡的報道の危うさ
・日大アメフト部の内田前監督、井上前コーチだけの責任ではありません。 発生から1ヵ月が経とうとするのに、連日のようにワイドショーやらで報道される、日大悪質タックル問題。「もうこの話はいいよ」「他にもっと大事な問題があるだろ」などと呆れている人も多いのではないだろうか。
・ご存じのように、「反則を指示した・していない問題」や、「司会による質問潰し問題」が落ち着いてきたかと思いきや、田中英寿理事長の“他人事”感満載の対応、内田正人前監督がアメフト部OBをボコボコにした「事件」、コーチ陣の暴力によって部員20人が逃亡したことなど、耳を疑うようなスキャンダルが次々と明らかになっている
・これは彦摩呂さんの食レポ風に言えば、「不祥事の玉手箱や~」ともいうべき、テレビ的には非常においしい状況。そういう意味では、各局が毎日のように、何かしらの日大ネタをぶっこんでくるのもいたしかないと思うが、その一方で、報道の嵐の中で見受けられる「ある傾向」には、非常に危ういものを感じている。それは、内田前監督や、井上奨前コーチへの「個人攻撃」だ。
・ほとんどの情報番組では、2人の顔をどアップで映し出し、これまでの発言をパネルでまとめ、いかに彼らが嘘をつき、選手を追いつめていたかということを嬉しそうに解説している。そして、コメンテーターや評論家のみなさんが渋い顔をして「ありえません」「許せません」と彼らを叩いている。そんなやりとりを朝から晩まで見せられたら、ほとんどの視聴者は「この人たちが悪いんだな」と受け取ってしまうだろう。
・あいつらが悪いのは事実なんだから別にいいだろと思うかもしれないが、これでは「痛快TV スカッとジャパン」のような勧善懲悪ドラマを観て日頃のストレスを発散していることと変わらないので、この問題の本質に迫ることはできない。 むしろ、「パワハラ監督と、子分のコーチをスカッと成敗!」みたいな娯楽にしてしまうと、20歳の若者を、善悪の正常な判断ができないまで追いつめた「真犯人」から、人々の目を背けさせてしまう恐れがあるのだ。
▽日大フェニックスにソックリな戦時中の捕虜殺害・人肉食事件
・この構図をご理解いただくためには、日大フェニックスだけに限らず、すべての大学運動部の体育会カルチャーのルーツである旧日本軍を例にすると分かりやすい。 「上」から命じられたことは、どんな理不尽なことでも絶対服従というカルチャーは、世界中のあらゆる軍隊組織に見られるが、旧日本軍が際立って異常だったのは、「人は常軌を逸した苦痛を与えれば与えるほど強くなる」というサディスティックな教育観のもとで、「個人」を人間として正常な判断ができないところまで追いつめた点にある。
・理不尽な新兵いじめや、玉砕命令などなど、例を挙げれば枚挙にいとまがないが、日大フェニックスとソックリなのが「父島事件」だ。 第二次世界大戦末期、戦況が厳しくなってきた1944年8月から45年3月にかけて、小笠原諸島の父島の陸海軍部隊が、米軍捕虜数人を軍刀の試し切りなどで殺害、さらにその遺体の一部を食べたといわれる事件だ。
・もちろん、70年以上前の戦時中に起きた事件であり、しかも戦勝国による裁きだったから、公平性を欠いているという意見もある。「人肉食は事実ではない」ということを主張されている方たちもおられるが、「捕虜殺害」に関しては46年10月に行われた米軍グアム裁判で14人が起訴され、首謀者とされる陸軍師団長の立花芳夫中将や的場末男少佐ら5人が絞首刑にされた。
・日大フェニックスが「日大の誇り」なんて言われていたように、当時の日本人は帝国陸軍を「世界一、綱紀粛正が徹底された軍隊」と誇っていた。では、そんな「名門軍隊」でなぜ、こんな陰惨な事件が起きてしまったのかというと、これまた日大フェニックスと同じで「戦意高揚」のためだ。
・この裁判の弁護を担当した伊藤憲郎弁護士の日誌には、公判の生々しいやり取りが収められており、そこには、この組織の絶対権力者・立花中将がこんなことを言っていたというある大尉の証言が記されている。「人間の肉を食らうくらいの闘魂がなくてはいけない。この次の空襲で酒の肴が空から落ちて来ぬかなあ」(日本経済新聞2009年8月14日)
・狂っている――。内心みんながそう思ったが、誰もそれを口にしなかった。「捕虜殺害は師団長、的場少佐の命令で拒絶するわけにいかなかった」(同紙)という証言からも分かるように、「王様の言うことは絶対」なのだ。この構造は、内田前監督のことを選手たちが陰で「ウッチー」などと呼んで小バカにしながらも、いざ面と向かうと誰も文句を言えず、どんな理不尽な命令もふたつ返事で従っていたのとまったく同じである。
▽「暴力で統治しないとダメになる」日本人特有の国民性とは
・では、この事件の「真犯人」は誰だろうか。すべてを立花中将や的場少佐のせいにするのは乱暴すぎると、筆者は思う。もちろん、実際に命令を下したのは、彼らだったかもしれない。が、そこには部下たちに、「人肉を食う」という、筆舌に尽くしがたいような精神的な苦痛を乗り越えて、誰にも屈しない闘魂を持ってもらいたい、という思いがあったのではないか。 立花中将や的場少佐のような人々に誤ったマネジメント、人材育成へ走らせたものこそが、「真犯人」ではないのか。
・それは一言で言ってしまうと、「力で言うことを聞かせないと、秩序維持ができない」という日本人の国民性である。 実はそのあたりのことを、フィリピン戦線に軍属として派遣された後、捕虜収容所に送られた小松真一氏が、『虜人日記』で詳しく述べている。
・捕虜収容所では、日本人同士によるすさまじい暴力、リンチなどが横行。小松氏が「暴力団」と呼ぶ勢力が幅をきかせ、恐怖政治を行っていた。が、ある日それらが一掃され、捕虜内の選挙でリーダーが決められるという民主主義的な動きができた。喜ばしいことだと思ったのもつかの間、すぐに問題が起きる。収容所内の秩序が崩壊してしまったのである。
・「暴力団がいなくなるとすぐ、安心して勝手な事を言い正当な指令にも服さん者が出てきた。何と日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか」(同書) なぜ日本人は「力」でしか秩序を守れないのか。
・このあたりの問題を小松氏は、「日本の敗因二十一カ条」としてまとめ、日本人には大東亜を治める力も文化もなかったと結論づけている。これを読んだ評論家の山本七平は、日本人の「暴力志向」と深く関係しているのは、小松氏が二十一カ条の中に掲げたものの一つ、「思想として徹底したものがなかった事」だと考察している。
・「個人としては、天皇も東条首相もまた大本営の首脳も、何一つ、静かなる自信を持っていなかった。また確固たる思想があるわけでもなかった。従って、一個人の目から見れば、それは自分の生涯には全く関係なく、一つの無目的集団であった」(『日本はなぜ敗れるのか―敗因21カ条』 角川書店)
・これは日大フェニックスに、そのまま当てはまる。それを象徴するのが、現役部員たちが今回の問題について何日も話し合った結果に出した以下の声明だ。「これまで、私たちは、監督やコーチに頼りきりになり、その指示に盲目的に従ってきてしまいました。それがチームの勝利のために必要なことと深く考えることも無く信じきっていました」
・だが、こうなってしまうのは彼らが悪いわけではない。日本の子どもは幼い頃から「みんなのため」というスローガンのもと、自分勝手な振る舞いは禁じられる。円滑な組織運営のために「個」の思想は捨てろ、という教育を十数年間受け続けてきた彼らが、「思想なき組織」に入れば「考えないマシーン」になってしまうのは当たり前である。
▽山本七平が予言した暴力志向に落ちる日本社会
・確固たる思想がないので、組織内で権限を持つ人間の命令に従うしかない。「個」として自分のルールが確立されていないので、「組織のため」の一言を持ち出されると、どんな非人道的なことでも、どんなルール破りもやってのけてしまう。
・そしてこれは日大フェニックスだけの問題ではない。内田前監督が、選手に対して集中的にしごきを行うことを、選手たちは「ハメる」と呼んでいたが、これを耳にして、「そんなのうちの会社にもあるよ」と思った人は多いのではないか。
・見せしめのようにみんなの前で叱責されたり、何をしてもネチネチと怒られたりという人は、どんな職場にもいる。表現は差があれど、彼らは同僚たちから憐れみの目を向けられ、こんなニュアンスのことを言われるのではないか。「あいつ完全に部長にハマったよね」
・山本七平は、小松氏が指摘した「日本人の暴力志向」は、現代にも脈々と受け継がれていると考えていた。「それを認めて、自省しようとせず、指摘されれば、うつろなプライドをきずつけられて、ただ怒る」という対応で、この「暴力志向」という問題から目をそらし続けてきたからだ。そしてこのような「予言」をしている。「われわれはここに、日本全体がいずれ落ち込んでいく状態の暗い予兆を見るような気がした」(同書)
・なぜAI全盛の時代に、いまだに若者たちが体育会気質を叩き込まれるのか。なぜ「名門」をうたう組織で相次いで、パワハラやルール破りが発生しているのか。 内田前監督と井上前コーチを叩いてスッキリ、田中理事長を引きずり下ろせばみんなハッピー、なんていう考えは、あまりにも表面的で幼稚すぎる。そろそろ日本人全員が、なぜこのような問題ばかりが起きるのかを、徹底的に考えてみるべき時に差しかかっているのではないだろうか
https://diamond.jp/articles/-/171295

第一の記事は、河合氏らしく心理学的な角度から、今回の問題を見事に分析しており、説得力があると共に、大いに参考になる。中心的テーマの『SOC。Sense Of Coherence。直訳すると「首尾一貫感覚」。SOC とは人生であまねく存在する困難や危機に対処し、人生を通じて元気でいられるように作用する「人間のポジティブな心理的機能」』、については、最後の補足で、『私は恩師である山崎喜比古先生の下で、長年にわたりSOCに関する研究を積み重ねてきた』、というのでその知識の深さの謎が解けた。 『今回のような事件は、どこの組織でも起きるし、起きてきた。過去には何人もの、“内田氏”、“井上コーチ”、“日大アメフト選手”がいたし、“外野席”にいる私たちも例外じゃない』、というのはその通りだ。 『ウソを貫き通すことができると、次第に“チーターズ・ハイ”と呼ばれる高揚感に満たされた状態に陥り、どんどん自分が正しいと思い込んでいくのだ』、というのは、現在の安倍首相も陥っているのかも知れない。『「自分は不正をしない」という人も不正の罠にはまる』、『青年は、普通であれば目をつぶりたくなるような、自分の弱さ、不甲斐なさと正面から向き合い、「自己受容(self acceptance)」というリソースを手に入れていたのである』、というのもなるほどである。
第二の記事は、日本社会の特質と結び付けており、これも参考になるところ大だ。冒頭の 『日本中の会社には「内田・井上コンビ」にソックリな人物がわんさかいるはず。それはかつて、山本七平も指摘した「日本人の暴力志向」が根底にあるからだ』、で思わず引き込まれてしまい、最後まで裏切られることなく、満足した。 (現在の報道スタイル)『これでは「痛快TV スカッとジャパン」のような勧善懲悪ドラマを観て日頃のストレスを発散していることと変わらないので、この問題の本質に迫ることはできない。 むしろ、「パワハラ監督と、子分のコーチをスカッと成敗!」みたいな娯楽にしてしまうと、20歳の若者を、善悪の正常な判断ができないまで追いつめた「真犯人」から、人々の目を背けさせてしまう恐れがあるのだ』というのはその通りだ。『日大フェニックスにソックリな戦時中の捕虜殺害・人肉食事件・・・日大フェニックスだけに限らず、すべての大学運動部の体育会カルチャーのルーツである旧日本軍を例にすると分かりやすい。「上」から命じられたことは、どんな理不尽なことでも絶対服従というカルチャーは、世界中のあらゆる軍隊組織に見られるが、旧日本軍が際立って異常だったのは、「人は常軌を逸した苦痛を与えれば与えるほど強くなる」というサディスティックな教育観のもとで、「個人」を人間として正常な判断ができないところまで追いつめた点にある・・・日大フェニックスとソックリなのが「父島事件」だ』、「父島事件」は知らかかったが、言われてみてば確かにその通りだ。ただ、『「暴力で統治しないとダメになる」日本人特有の国民性とは』、というのは、日本人特有の国民性というより、暴力統治に長年慣らされた影響とも考えられるのではなかろうか。『山本七平は、日本人の「暴力志向」と深く関係しているのは・・・「思想として徹底したものがなかった事」だと考察・・・「われわれはここに、日本全体がいずれ落ち込んでいく状態の暗い予兆を見るような気がした」』、『内田前監督と井上前コーチを叩いてスッキリ、田中理事長を引きずり下ろせばみんなハッピー、なんていう考えは、あまりにも表面的で幼稚すぎる。そろそろ日本人全員が、なぜこのような問題ばかりが起きるのかを、徹底的に考えてみるべき時に差しかかっているのではないだろうか』、というのは重いが考えるべき課題であることは確かだ。
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