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働き方改革(その17)(小田嶋氏:成功者は成功ゆえに正しいか) [経済政策]

今日まで更新を休むと予告していたが、今日は、7月21日に続いて、働き方改革(その17)(小田嶋氏:成功者は成功ゆえに正しいか)を取上げよう。

コラムニストの小田嶋 隆氏が6月8日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「成功者は成功ゆえに正しいか」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/060700146/?P=1
・(「高度プロフェッショナル制度」について)『小欄としては、法案成立前にオダジマがアタマの中でうじうじ考えていたことを記録しておくことで、せめて後知恵の繰り言を並べる時のための参考資料を積み上げておく所存だ』、なるほど。
・最初に「高度プロフェッショナル制度」という用語について整理しておく。 そもそもの話をすれば、この制度の元来の名称であった「ホワイトカラー・エグゼンプション」がひどく難解だった。モロな横文字を何の工夫もなく並べ立ててみせただけのこの言葉は、当然ながら、一般には理解されなかった。 ために、この言葉が持ち出された第一次安倍内閣では、ホワイトカラー・エグゼンプションは、さんざんな悪罵の中で取り下げられ、そのまま10年ほど雌伏の時を過ごさねばならなかった。 で、その呪われたブラックオフィス・エグゼンプションならぬホワイトカラー・エグゼンプションが、第二次安倍内閣の発足とともに「高度プロフェッショナル制度」と看板を掛けかえて息を吹き返しているのが現在の状況だ』、10年ぶりに蘇った割には問題山積のままのようだ。
・『たしかに、「高度プロフェッショナル」の方が語感としてはわかりやすい。 とはいえ、わかりやすい分、誤解を招く余地が大きくなってもいる。「ミスリード」と言い直しても良い。あるいは総理周辺の人々が好む言い方を採用するなら「印象操作」という言葉で言い換えても良い。  いずれにせよ、実態を正しく説明していない。 個人的な感覚では「残業代ゼロ制度」とでも呼んでおくのが、とりあえずの呼称としては、最もその内実を穏当に説明しているのではないかと思っている・・・「高度プロフェッショナル制度」なる用語から普通に連想されるのは「高度で専門的なプロの労働者の働き方をサポートする制度」といった感じのニュアンスだ。 前向きな響きと言って良い。 ところが、制度が担保しているのは、一定額以上の報酬を得ている労働者の労働時間の制限を規制の対象から外すということに過ぎない。具体的には、1075万円以上の年収を得ている一定の業種(労働時間と成果が結び付きにくい仕事)について、労働時間の制限を撤廃し、あわせて残業代の支払いも不要とする改革が、「高プロ」の目指すところであるわけだ』、ネーミングはまさに「印象操作」だ。
・『安倍総理は、国会答弁の中で、高プロが「労働時間に対してではなく、成果に対して報酬を支払う改革」である旨の説明をしている。ゆえに「優秀な人ならば、短時間で成果を出して、これまで通りかそれ以上の給与を得られる」ということだ。残業代が出ない以上、いやでも効率を考えるようになり、結果的に時短になるということもあるだろう。 だが、この説明は十分と言えるのだろうか。 労働時間に対して対価を支払うことへの経営側の義務は外されている。 一方で「成果に対して報酬を支払う」点については・・・「労働時間に対してでなく、成果に対して報酬を支払う」という政府側の説明は、あくまでも、「時間に対して支払うのでない以上、成果に対して支払うと考えるのが自然だよね」という「感想」ないしは「観測」を表明した程度のものに過ぎない。 それ以前に、「高度プロフェッショナル」という、この、なんだか中二病くさい二つの単語を並べてみただけに見える語感が、すでにしてゴマカシの匂いを発散している』、安倍総理の国会答弁を、「感想」ないしは「観測」を表明した程度のものに過ぎない分析する手際はさすがだ。
・『制度を推進する側の人々が説明しているところによれば、「企業側から高プロの導入を打診されても、労働者の側がその申し出を拒絶する権利が保障されているので、労働者が過重労働に駆り立てられる心配はない」ってなことになっている。 私は、この説明には少しく疑問を抱いている。 というのも、現在の日本の職場環境では、経営側の申し出を拒否できる労働者が多数派であるとはどうしても思えないからだ。 30年以上前の話ではあるが、私自身、会社側からのオファーを拒絶することの困難さを、身をもって経験している(慰安旅行への参加の拒否)』、経営側の申し出を拒絶する権利が保障されている、というのは確かに形式論に過ぎない。小田島氏が慰安旅行への参加を最終的にどうしたのかまでは書かれてないが、知りたいところだ。
・『高プロの対象となるような、年収1000万円を超えるビジネスパースンは、会社にとっても欠かせない人材なのであろうからして、その彼ら彼女らなら、あるいは経営側を向こうに回して、対等の条件闘争を繰り広げることも可能なはずじゃないか、などと、そういう幻想を抱いている若者が、青年漫画誌の愛読者の中あたりにはまるでいないわけでもないのだろうが、そこには大きな勘違いがある。 ある社員が年収1000万円超の条件で高級優遇されているのは・・・その、「決してノーと言わない」資質を評価されて出世を果たした社員が、どうして高プロのオファーだけを選択的に拒絶できるものだろうか。無理だ。不可能にきまっている』、その通りだ。
・『さる企業の役員と弁護士が、ツイッターを舞台に論争的なやりとり・・・弁護士の嶋崎量氏の《解雇理由無くても、仕事干され、追出部屋送りされ、屈辱的業務やらされ、面談で自称人事コンサルにいびられ、反省文書かされ、自宅待機させられ。。。 年収1075万以上でも、大手はそんな労働者たくさんいますが、交渉力などないから労働弁護士に依頼してるのです。 幻想を語らんで欲しい。》というツイートに対して、スタートトゥデイのコミュニケーションデザイン室長である田端信太郎氏が・・・田端氏のツイートの形で現れたこれらの言葉は、あるタイプの人々が抱いている典型的な思い込みだと考えるからだ。 その「思い込み」は、最近よく言われる「生存者バイアス(生存バイアス)」という概念で説明されているところに近い。 生存者バイアスというのは、戦場なりビジネスの世界なりで成功した人が、自分の成功を基準にすることによる判断の曇りを指す言葉だ』、「生存者バイアス」まで持ち出して、事実上、論破するとはさすがだ。
・『高プロは、社会の中で発生するさまざまな軋轢や矛盾を、市場原理に委ねることで解決しようとする考え方の延長にある施策だ、と私には思える。 市場原理主義を標榜する論者は、商品だけでなく、労働力もまた、労働市場の中での自由な競争に揉まれながら、自らの商品価値に見合った適正価格に近似して行くべきだ、と考えている・・・竹中平蔵氏も、つい先日、NHKの「クローズアップ現代+」という番組に出演して、高プロの必要性について 「規制を外すのではなく、規制の仕方を変えるのです」「これを入れていかないと、日本の明日はない」「適用する人が1%じゃなくて、もっともっと増えていかないと日本の経済は強くなっていかない」と、熱弁している・・・いわゆる新自由主義者が市場原理を愛するのは、それがシンプルで強力な原理だからでもあるが、私の思うに、それ以上に、成功者に優しいからだ。 というのも、市場原理の要諦は、・・・これを逆方向に読み解くと、「富める者は正しい」「勝ち残った私は正義だ」「競争に勝ち残った人間は優れた人間である」という現世通行証の発行機関になるからだ。 かくして、「市場を通じて正しい者が生き残る」という原理は、「富める者である私は市場をお墨付きを得た正しき現代人である」という同語反復を経て無敵のオラオラ道徳として結実するに至る。 彼らのアタマの中では、経済弱者や失業者が疲弊するのは悪いことではない。 むしろ弱く劣った者に過酷な罰がくだされることこそが市場の神の託宣であるのだからして、弱者が滅びることは、それだけ社会全体が強化されることだというふうに積極的に解釈される。 でもって、弱者救済だの社会保障だのというリクツを振り回しているヤカラは、「お花畑ピーポー」「いい人ぶりっ子」「偽善左翼」「お涙リベラル」ぐらいな名前をつけて嘲笑しておけば一件落着、ってなことになる。 現在、自らを成功者であると自覚していればいるほど、高プロを受け入れてしまいやすい構図が、こうして成立する』、強烈な新自由主義批判は完全に同意できる。特に、労働力市場では、高プロの世界であっても、雇用者側と被雇用者側には圧倒的な力の格差があり、公正な交渉が働く条件が欠如していると考えざるを得ない。
タグ:市場原理の要諦は、・・・これを逆方向に読み解くと、「富める者は正しい」「勝ち残った私は正義だ」「競争に勝ち残った人間は優れた人間である」という現世通行証の発行機関になるからだ 、「市場を通じて正しい者が生き残る」という原理は、「富める者である私は市場をお墨付きを得た正しき現代人である」という同語反復を経て無敵のオラオラ道徳として結実するに至る 竹中平蔵 さる企業の役員と弁護士が、ツイッターを舞台に論争的なやりとり 決してノーと言わない」資質を評価されて出世を果たした社員が、どうして高プロのオファーだけを選択的に拒絶できるものだろうか。無理だ。不可能にきまっている 現在の日本の職場環境では、経営側の申し出を拒否できる労働者が多数派であるとはどうしても思えないからだ 「労働時間に対してでなく、成果に対して報酬を支払う」という政府側の説明は、あくまでも、「時間に対して支払うのでない以上、成果に対して支払うと考えるのが自然だよね」という「感想」ないしは「観測」を表明した程度のものに過ぎない ネーミングはまさに「印象操作」 弱者が滅びることは、それだけ社会全体が強化されることだというふうに積極的に解釈される 「高度プロフェッショナル制度」なる用語から普通に連想されるのは「高度で専門的なプロの労働者の働き方をサポートする制度」といった感じのニュアンスだ。 前向きな響きと言って良い。 ところが、制度が担保しているのは、一定額以上の報酬を得ている労働者の労働時間の制限を規制の対象から外すということに過ぎない 第二次安倍内閣の発足とともに「高度プロフェッショナル制度」と看板を掛けかえて息を吹き返しているのが現在の状況だ 弱者救済だの社会保障だのというリクツを振り回しているヤカラは、「お花畑ピーポー」「いい人ぶりっ子」「偽善左翼」「お涙リベラル」ぐらいな名前をつけて嘲笑しておけば一件落着 働き方改革 (その17)(小田嶋氏:成功者は成功ゆえに正しいか) 小田嶋 隆 日経ビジネスオンライン 「成功者は成功ゆえに正しいか」 高度プロフェッショナル制度 ホワイトカラー・エグゼンプション 安倍総理は、国会答弁 企業側から高プロの導入を打診されても、労働者の側がその申し出を拒絶する権利が保障されているので、労働者が過重労働に駆り立てられる心配はない その「思い込み」は、最近よく言われる「生存者バイアス(生存バイアス)」という概念で説明されているところに近い 高プロは、社会の中で発生するさまざまな軋轢や矛盾を、市場原理に委ねることで解決しようとする考え方の延長にある施策 市場原理主義を標榜する論者は、商品だけでなく、労働力もまた、労働市場の中での自由な競争に揉まれながら、自らの商品価値に見合った適正価格に近似して行くべきだ、と考えている
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