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役所の障害者雇用水増し問題(その1)(河合氏:障害者雇用 役所の水増しと過去最悪の虐待数 職場環境に大きな課題がある、小田嶋氏:建前の価値はそこにある) [社会]

今日は、役所の障害者雇用水増し問題(その1)(河合氏:障害者雇用 役所の水増しと過去最悪の虐待数 職場環境に大きな課題がある、小田嶋氏:建前の価値はそこにある)を取上げよう。

先ずは、健康社会学者の河合 薫氏が8月28日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「障害者雇用、役所の水増しと過去最悪の虐待数 職場環境に大きな課題がある」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/082700177/?P=1
・『今回は「不適切な行為」について考えてみようと思う。 中央省庁の「障害者雇用の水増し問題」をきっかけに、地方でも次々と呆れんばかりの実態が明らかになっている。 教育委員会でも水増ししていたり、糖尿病の職員や他の病気で休職中の人を障害者にカウントしていたり、障害者がまったくいないのに「雇用している」と国に報告していたり……。 「確認していなかった」「10年前に確認しただけだった」「認識不足だった」などと、行政のお偉い方たちが頭を下げる映像が続々と報じられている。 コンプライアンスとか、人権とか、弱者にやさしい社会とかの表現を、省庁や地方自治体のホームページやパンフレットなどで見た記憶があるが、あれは幻だったのだろうか。 「バレなきゃな何をやってもいい」って? 絵に描いた餅。とどのつまり「障害者手帳の数」だけを見て雇用率を引き上げ、ペナルティや助成金政策をとった末の歪み。いい意味でも悪い意味でも「人」を見ていないことが問題なのだ』、いつもながら手厳しい指摘だ。
・『奇しくも時を同じくして、雇用されている障害者への虐待数が過去最悪だったと報じられた。 書いているだけで気が滅入ってくるのだが、厚生労働省の発表によると、昨年度に職場で虐待を受けた障害者は1308人。前年度から35%増え、過去最悪を更新した。 具体的には、 賃金が最低賃金を下回るなどの「経済的虐待」が84%  差別的言動などの「心理的虐待」が8%  暴行などの「身体的虐待」が6%  経済的虐待では、製造業の事業所で知的障害者の賃金が最低賃金(時給ベース)を200円下回るケースがあり、労基署が是正勧告をしたそうだ。 先の水増しの影響もあいまってか、「最低賃金を200円下回る」という衝撃的な文言はSNSでも一斉に拡散。そこには障害を持ちながら働く人たちの悲痛な叫びも含まれていた。 障害者の賃金の低さはかねてから問題視されてきた極めてゆゆしき問題で、障害者の“貧困化”は、国際労働機関(ILO)からも改善要求が出されたこともある。民間団体が行なった調査によると、障害者の98%が年収200万円以下で、このうち年収100万円以下を6割が占めた。(詳しくはここ) また、厚労省によれば、雇用契約を結ばないB型の平均賃金は月額約1万5000円、雇用契約が必要なA型でも約7万1000円。前年度より増えているとはいえ、B型の平均時給は199円しかない。(詳しくはここ) B型は最低賃金の下限がないので最低賃金を大幅に下回る賃金で働かせることができる。一方、A型には、雇用契約を結んだ利用者1人当たり1日6000~8000円の給付金が国から入る。仮に障害者の労働時間が1日3時間であれば、事業者は3時間分の最低賃金を支払えば済み、給付金からこの分と事業経費を差し引いても採算が取れる計算になる。 もちろん事業所や企業の中には、障害者を積極的に雇用し生産性を上げたり、障害者の年収アップに努めたりしている企業も多い。しかしながら「悪しき行いをする事業」が後をたたないリアルが存在するのだ。 障害者自立支援法の下、障害のある人たちの課題が「働くこと」「職業的自立」へと大きく変わり、障害者が働く機会が増える半面、人間としての価値や豊かさが無視されてしまってはないだろうか。障害者総合支援法に名称は変わり、「基本的人権を享有する個人としての尊厳にふさわしい」という文言が明記されたけど、障害のある人の生活が障害のない人の生活から「隔離」されている。そう思えてならないのである』、「A型には雇用契約を結んだ利用者1人当たり1日6000~8000円の給付金が国から入る」ずいぶん手厚い給付との印象だが、そこまでしないと雇用が進まないのだろう。
・『障害者雇用の問題はそれだけではない。 経済的虐待が8割以上を占めるので、「心理的虐待8%、身体的虐待6%」という数字をつい見逃してしまいがちだが、100人のうち6~8人が心理的、身体的虐待を受けている事実は深刻に受け止めなければならない。あくまでも私の憶測だが、表面化していない虐待を入れると1ケタで収まる数字ではない。というか、それ以前に先の経済的虐待もある意味、「心理的虐待」だと個人的には考えている。 これまでフィールドインタビューに協力してくださった方の中には、障害者雇用のカウンセラーや、企業で障害者雇用担当の方たちが何人かいて、耳を疑いたくなるような数々の問題行動を教えてくれた。 耳が不自由なのに電話番をさせられたり、1日中トイレ掃除をやらされたり、「義務だから雇っているだけ」「何もしなくていい」「いいな~。来るだけでおカネもらえるんだからな」「アンタが辞めたら、楽になるなぁ~」「雇うのにコストがかかっている」などと暴言を浴びせられたり。 「健常者」たちの心ない卑劣な仕打ちがきっかけで、会社に行けなくなってしまう障害者の方が少なくない。また、心理的虐待は可視化しにくい特性もあるため、虐待が日常化して精神的なダメージを受ける人たちもいる。 逆に、現場に精通するカウンセラーによると「障害者自身が『自分には無理』と障害を言い訳にするケース」もあり、雇用する側とトラブルになることもあるという。 「苦しいのは障害者だけじゃないですよ。一緒に働いてる僕たちの苦しみもわかってほしい」こう訴えるのは障害者と同じ部署で働いている42歳の男性である。 「実は、一年くらい前に障害者の手を叩いてしまった。何度教えてもファイリングを間違えるので、つい、本当につい、自分が持っていたペンで叩き、その後も肩を大きくゆらしたり、ひどい言葉をあびせてしまったりしたんです。 余裕があるときには許せるのに、余裕がないと許せなくなる。僕だって上司にストレス感じてるのに仕方がないよ、って。自分の行動を正当化していました。 でも、あるときスーパーでおそらく知的障害がある方だと思うんですけど、店長から手をつねられているのを見たんですね。その時に『あ、これ僕だ』ってこわくなった。 そして、やっと自分のおろかさに気づきました。同僚でもある障害者の社員に申し訳ないことをした、と反省しました。 なのに、やっぱり業務が増え自分のことで精一杯になると、ちょっとしたミスが許せなくて怒りがわいてきてしまうんです。精神の障害や知的な障害の場合、本当に難しいんです。何が言いたいのか、理解できないことも多いし、それが原因で小さなトラブルになることもあります。 すると、ストレスがたまるんです。感情のコントロール法も学びましたが、完全に大丈夫とは言い切れない自分がいます。また、やってしまうんじゃないかと、自分でも怖くなることがあるんです」』、「心理的虐待」や障害者と同じ部署で働いている同僚の悩み、は確かにあり得る話だろう。
・『私は彼の話を聞き、自分が全く同じ状況に置かれたとき「怒り」を制御できるか? と問うた。 いかなる状況であれ「手を出す」ことは絶対に許されるものではない。だが「絶対に大丈夫」と言い切る自信がない。ストレスや心理の研究者の端くれなのに、自身の感情コントロールに自信が持てないのである。 障害者への虐待については国内外の研究者たちが、さまざまな角度から実態と発生要因を捉えてきた。そんな中で、「一緒に働いている人の苦しみ」を定量的に捉えた貴重な研究がある。 障害者施設や事業所に勤務する方たちに行なった意識調査を元に、「虐待に至る背景要因」を統計的に分析した論文である・・・結果の一部を以下に紹介する(就労系事業所の回答のみ。利用者=障害者)。 「職員による利用者への不適切な行為を見たことがある」24.1% 「先輩や上司から利用者を怒鳴ることも必要だ(躾の一つ)と言われたことがある」12.9% 「先輩や上司から利用者に厳しく注意することも必要だ(躾の一つ)と言われたことがある」34.1%  「無意識のうちに不適切な行為をしてしまったことがある」28.9% 「不適切な行為をしてしまう背景は?」に対し、「確信が持てない(24.4%)」「利用者からの暴力(14%)」「自分のスキル不足(11.6%)」「自分の感情コントロール(10.5%)」など。 さらに、これらのアンケート結果と職場環境(上司部下関係、チームワーク、情報共有など)を用い、「どのような職場で虐待が起きているのか?」を統計的に分析したところ次のようになった。 「上司や先輩から躾けのひとつと言われたことがある職場」では、虐待が発生しやすかった  「職員のスキル不足」が虐待にもっとも強く関連し、「障害者の特性の理解不足」「職員不足」「職場の雰囲気が悪い」と続いた  「無意識の不適切行為」は、「所得の満足度」と統計的に有意に関係していた  しかし、職場環境要因を分析に加えると「チームワークのいい職場」「情報共有ができている職場」が有意となり、「所得の満足度」は有意ではなかった ……これらの結果を踏まえると、障害者虐待の背景には職場環境が強く関係していることがわかる。 そこで働く人のスキル不足や障害者への理解不足、収入への不満、職場の雰囲気などが、独立して存在するのではなく、複雑にからまりあった結果「弱者(=障害者)」への不適切な行為が発生するのだ。 「僕だって上司にストレスを感じているから仕方がない」と先の男性が言っていたように、仕事の質へのプレッシャーは年々高まり、「ご愛嬌」なんて言葉を使うのは許されず、何かあれば速攻で責任を問われ、「自分の時間」を堪能する余裕もない。 そんなとき、つい感情が理性を凌駕し、境界線を越える。情けないことだし、単なる言い訳かもしれないけど、これが人間。そう。人間なのだ。 感情はあくまでも個人のものだが、その感情を暴発させるリスキーな社会環境の中で「雇用率」を重視する障害者雇用が進められているのである』、確かに質的側面への目配りも必要だろう。
・『『障害者基本法』の改正(2011年8月)、『障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援する法律』の成立(12年6月)、『障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律』の成立及び『障害者の雇用の促進等に関する法律』の改正(13年6月)、さらには13年12月4日、国連の「障害者権利条約」の承認案を参院本会議で全会一致で可決と、障害者の人権、尊厳、権利などを実現する取り組みが進められてきたはずなのに残念としか言いようがない。 ただ、「障害者雇用」を進めることと、「障害者をつくらない職場環境」づくりを進めることは決して別個ではない。 人は環境で変わる動物である。と同時に人には「環境を変える力」もある。 そもそも「元気でバリバリ働ける強い人」を基準とする職場では、「四肢や精神的に問題があること=障害者」ではない。 働く環境を変えずに「元気でバリバリ働ける強い人」を求め続ける限り、高齢者、がんなどの病いを患っている人、うつ傾向に陥った人、育児する人など、「障害者」はいたるところで作られる。 今回の問題発覚を「職場でつくられる障害者を生まない社会、人に仕事を合わせられる職場作りをじっくり進めていけよ!」というメッセージと捉える必要があるのではないか。「私」が虐待をする側にも、される側にもならないためにも……』、正論ではあるが、「人に仕事を合わせられる職場作り」は現実には難題なのではなかろうか。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が8月1日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「建前の価値はそこにある」を紹介しよう。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/082300155/?P=1
・『複数の省庁が障害者の雇用率を水増ししていたことが発覚した。 報道によれば、水増しは複数の省庁で42年間にわたって行われていた大掛かりなものであったのだそうだ。「久しぶりに出くわしたとんでもないニュースだ」と言いたいところなのだが、残念なことに、ニュースの受け手としての私のとんでもなさへの感受性は、順調に麻痺しつつある。 私は驚かなかった。 「まあ、そういうこともあるのだろうな」と思いながら記事を読み終えた。 そして、その自分自身のクールな受け止め方と不人情さに、いくばくかの後ろめたさを感じている次第だ。 42年間にわたって、複数の省庁が障害者雇用率の数値を偽って報告していたことは、これは、何度強調しても足りないことだが、実にとんでもない驚天動地の醜行だ。 が、その一方で、私たちは、その、おそらくかなり数多くの関係者が感知し得ていたはずの事実について、ずっと知らん顔をしていた当事者でもある。 42年間も発覚しなかったということは、「巧妙に隠蔽されていた」とか、「関係省庁が全力を挙げて秘密の保持に心を砕いていた」というようなスジのお話ではない。この間の経緯は、どちらかといえば、「公然の秘密」として見てみぬふりをされてきた前提だったことを物語るもので、つまるところ、われわれは、その種のごまかしを半ば「常識」として容認してきたのだ』、言われてみればその通りだ。
・『実際「そりゃ、お役所だって、きょうびそんなにのんびりした職場じゃないわけだしさ」てな調子で「冷徹」な見解をツイートする匿名の論客が活動しはじめている。 そういうふうに「残酷」に受け止めてみせるのが、普通の人間の普通の感覚だと、彼らはテンから信じてやまない。 彼らにしてみれば、障害者の排除に憤ってみせている「自称リベラル」こそが、「偽善者」の「お花畑」の「素敵なポエムを唱えていれば世界が素敵なファンタジーランドに変貌すると思い込んでいる夢想家」だというお話になる。 彼らが想定している「あたりまえな世間」では、中学校の公民の教科書に載っているテの話をわざわざ持ち出すタイプの人間は、この世界のリアルと、教科書が教えていたお上品な建前の区別をつけることができない低能ぐらいな扱いになる。あるいは「おリベラル」「おサヨクさま」といった調子の尊称まじりの呼びかけ方で揶揄する対象に過ぎない。いずれにしても、マトモな人間としては扱われない。 「あんたたちが学校の教室で吹き込まれてきた理念だの理想だのは、校門の外に出たら通用しないんだぜ」「な、いいかげんに学習してくれよ。学校の教室で勉強ができたという君たちのその栄光の物語は、卒業した時点でとっくに終わってるんだから」「そんなわけなんで、あんたらのその人権アヒャアヒャ踊りの輪は、どうか仲間うちだけで静かにやってくれるとうれしい。当方からは以上だ」』、「冷徹」な見解をツイートする連中も確かにいるのだろう。
・『ネット上に盤踞する冷笑系の空論家でなくても、われら一般国民にしたところで、役所の人事採用が額面通りに障害者に門戸を開いていないことに薄々気づいていながらそれを黙認していた人間たちではあるわけで、つまるところ、われわれは、駅のベンチにうずくまって苦しんでいる人のそばを通り過ぎる通勤客みたいな調子で、知らん顔をしていたのである。 そういう意味でも、お役所の罪は深い。 「過酷な市場競争にさらされていないお役所にしてからが、障害者を事実上排除してるのに、どうしてオレら一般企業がお国の指示に従って、雇用率を守る義理があるんだ?」「つまり、障害者雇用率とかいうおためごかしの取り決め自体が、どうせ集票目的の宣伝活動に過ぎなかったってことだわな」「生産性だとかいう言葉を使ったカドで非難されてた政治家がいたけど、少なくとも役人は彼女を責めるわけにはいかないだろうな。それともアレか? 口から出る言葉として生産性という用語を使うのはNGだけど、不採用通知を通じて特定の相手に思い知らせるのはOKだってことなのか?」てな調子で、官公庁が「建前」を守らないことは、おそらく一般企業の詐欺的採用やブラック雇用への追い風になる』、最後のくだりはまさにその通りだ。
・『特段に強欲な経営者でなくても「結局この世界の唯一のルールは『適者生存』に尽きるってことだよ」式の市場原理主義的な信念に共感を寄せる人は少なくない。 してみると、「リアル」であることを自負する新自由主義的な企業家にとって、障害者雇用率なる枠組みは、制度的な偽善である以上に経営への過度な介入であり、結論としては、彼ら自身の人間観を否定する古いドグマだ、ってなことになるのだろう』、多くの経営者の本音だろう。
・『毎日小学生新聞によれば、障害者雇用における水増し発覚のケースは、中央省庁のみならず、自治体の採用にも及んでいる・・・最近、私は、この種の、社会の成り立ちの根本にかかわるニュースは、いっそ小学生新聞で読むのが適切なのではないかと思い始めている。 実際、リンク先の記事は、要点をおさえつつ、シンプルかつ明快に事態を伝える素晴らしい記事だ。 今回発覚した事態は、障害者雇用という社会的包摂のうちの最も大切な部分で、模範を示すべき官庁ならびに自治体が、自ら率先して障害者差別を実行していたことを示唆している意味で、大変に深刻だ。 こういう話題に関して、報道機関は、思い切り建前寄りの記事を配信せねばならない。 でないと、「リアルな欲望」や「めんどうくささの回避」に流れがちな「現実」とのバランスがとれなくなる・・・シンプルな間違いに対しては、シンプルな論評記事を書くべきだという、考えてみれば新聞社として当然の取り組み方を、われわれは小学生向けの新聞から教えてもらわなければならない時代に生きている。 なんとも、不思議ななりゆきだ』、説得力に富んだユニークな指摘だ。
・『財務省による行政文書の改竄が発覚して以来、この社会を成立たらしめていると考えられていた根本的な倫理観が実は既にして崩壊しておりましたという感じのニュースが続いていて、こっちの現実感覚がいまひとつ正常に機能しなくなっている。 裏口入学などという昭和の時代にすっかり滅亡したはずの醜悪な不正が行われていたことに驚いていたら、なんと同じ大学で、今度は入学試験の点数データが改竄されていたことが発覚してしまう。 ちなみに申し上げれば、裏口入学が、入試制度の片隅に小さな穴があいていたことを物語る例外的な不祥事であることに比べて、試験データの改竄は、入学試験というシステムの前提が真っ赤なウソであったことを意味する、より根源的で致命的なスキャンダルだ。2つの事件を同一の基準で語ることはできない』、裏口入学と試験データの改竄の意味の違いが初めて理解できた。小田島氏の掘り下げの深さにはいつもながら脱帽だ。
・『行政文書や大学入試の点数は、この世界の公正さを担保している「基準」というか、「スタンダード」そのものだ。 偽造された人事採用資料をもとに運営されている役所が信頼できないのは、デタラメな強度計算をもとに設計された橋が安心して渡ることのできない建築物であるのと同じで、われわれは、自分たちが依って立つ基盤となるデータについてはどこまでも厳密に構えなければならないはずなのだ。 こういうものが書き換えられると、社会の前提が崩壊する。 たとえばの話、紙幣の額面が消しゴムで消して書き換え可能になったら、私たちの信用経済はその日のうちに崩壊することになると思うのだが、お役所が決裁した文書や、入試問題の答案の点数が自在に改竄可能な設定になったら、われわれの社会を下支えしている、人間の知的能力への信奉や、文書記録への信頼といった、ホワイトカラーの信仰は崩壊に瀕する』、ここまで重大な意味をもつ問題だったとは・・・。
・『でもって、今度は、国家公務員の採用にあたって、お国が採用基準をごまかしていることが発覚してしまった。しかもその採用不正はどうやら複数の省庁で42年間にわたって続けられてきた、お役所ぐるみというよりは、全国民が共犯だったと言っても良い規模での日常的な不正だった。 これは、単に書類をごまかしたというだけの話ではない。 記録という公務員にとって命の次に大切なはずのデータを冒涜していたというだけの問題でもない。 具体的な次元では、障害者の雇用機会を奪い、本来なら雇用されて報酬を得るはずだった何千人何万人の人間から生活の基盤と社会的評価の基礎を不当に奪い去っていたということだ』、その通りだ。
・『しかも、この官公庁による人事採用思想は「生産性」という呪いの言葉に強い説得力を与えてしまっている。 個人的には、この点が最もひどいと思っている。 つまり、この度の公的な機関による組織的な障害者排除事案は、杉田議員がうっかり漏らした「生産性」という言葉が、彼女の個人的な妄言ではなくて、より広範な人々によって共有されている21世紀の時代思潮の顕現であり、40年以上も続くわが国の伝統的な人事管理思想の根本を説明する用語であることを証拠立てる出来事だったということだ。 われわれは、「生産性」によって人間を評価し、雇用し、管理し、場合によっては排除し、廃棄排斥することを厭わない考え方に基づいて、集団を指揮し、企業を運営し、国策を立案し、憲法を改定しようとしている。 このことに私は恐怖感を覚えている。 それ以上に私が不気味さを感じているのは、「生産性」という言葉や考え方に、なんらの不自然さを感じない人々の数が増えていることだ』、これはまさに新自由主義の根本をなす考え方だ。
・『最近読んだ、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(吉川浩満著、河出書房新社)という本の中にちょっとおもしろい話が出てくる。 第二章の「生きづらいのは進化論のせいですか?」というインタビュー記事の中で、著者の吉川氏は、質問者に答える形で、こんな話をしている。以下、要約する。 ビジネス書や処世術の本では、「弱肉強食」の価値観を標榜するものがよくみられる。 いわゆる「進化論」を肯定する人々の中には、弱者や無能者が優遇されすぎている世の中への違和感を語る人々がいて、その彼らは競争の正しさを裏打ちする理論として進化論を援用している。 この世界を適応して生き残る者と、適応できずに死んでいく者に分類する考え方として、進化論を認識している人々は、勝ち組/負け組、モテ/非モテのような文脈にも進化論を適用する。 世間に流通している俗流進化論の大筋は、「生物の進化には目的がある」とする考え方から「発展的進化論」を展開したフランスの博物学者ラマルクの思想をもとにしているケースが多い。 そのラマルクの発展的進化論を人間社会に適用した、英国の思想家ハーバート・スペンサーの思想が、後に「社会ダーウィニズム」として一世を風靡し、優生学的な態度を広めた。 その、スペンサー主義ないしは社会ラマルク主義と呼ばれるべきものの考え方が、社会の中での競争と適応を絶対視し、弱者の滅亡を正当化する競争万能思想に影響を与えている。と、以上の前提を踏まえた上で、吉川氏はこう言っている。《 -略- 適者生存の原理は、「適者は生存する」という法則ではありません。「生存する者を適者と呼ぶ」という約束事であり、そこから仮説を作るための前提です。たとえばケプラーの法則は、実験や観察によって真偽を検証することができます。でも適者生存の原理は真偽を検証できるようなものではありません。「結婚していない者を独身者と呼ぶ」と同じように、適者の意味を定義しているに過ぎないのです。 -略- 》 なんと、われわれは、前提と結論を取り違えているようなのだ。 で、実際の進化がどのように起こるのかについては、これは、ほとんど「偶然」と「運」に依存している。ある種の「能力」と呼べる資質が生存に関与することはあるが、どの能力がどんなタイミングで生存に寄与するのかということが「運」と「偶然」に左右されている以上、「能力」は、そんなに重要な変数ではないということらしいのだが、このあたりの詳しい内容については、同じ著者の前著『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』(朝日出版社)に詳しい。興味のある向きは読んでみてほしい。 ポイントは、「進化論」・・・が「競争の効用」や「市場原理の正しさ」や「社会の進歩」を言い立てる人々にとっての「お守り」として利用されているということだ』、「適者生存の原理は適者の意味を定義しているに過ぎないのです」、「「競争の効用」や「市場原理の正しさ」や「社会の進歩」を言い立てる人々にとっての「お守り」として利用されている」など極めて重要な指摘で、その通りだ。
・『われわれは、社会的弱者を見捨てたり、貧困に苦しむ人々を放置するにあたっての、科学的裏付けというのかアカデミア発の許認可証みたいなものを求めている。 でもって、自分がその種の「科学」の立場に則ってものを言っていると思っているからこそ、自信満々で無慈悲な断言を発することができる。「かわいそうだけど、社会の進歩のためには仕方がないよね」「だって、弱者を擁護すれば、それだけ全体が弱体化するわけだから」「強い麦を育てるということは、有り体にいえば弱い麦を踏み殺すことだからな」「まあ、インテリの先生方は摘果しないで育てた小粒の痩せたリンゴ畑みたいな社会がお望みだってことで」 実際のところ、役所が障害者を雇用することは、業務の効率を妨げ、行政サービスを低下させ、税金の無駄遣いを招き、弱者利権を恒久化する事態を招くのだろうか? 私は必ずしもそうは思わない。 実際に、私は自分が出入りしている自治体で、車椅子で勤務している職員による行政サービスを受けているが、何ら不都合は感じなかった。 それどころか、障害を持った職員が働く姿は「すべての人間は果たせる役割を持っている」という、ごく当たり前の観察をPRする意味で、有効だと思っている。 「役に立たない人間は排除しなければならない」という生産性万能の思想は、あるタイプの限られたメンバーを想定して作られた組織ではそのとおりかもしれないが、すべての人間を含む「社会」を舞台に、その考えは通用しない。 人間の社会では、むしろ逆に「社会はすべての人間にしかるべき役割を割り振るように設計されていなければならない」という原則で考えられなければならない。 狭い市場で利益を生むべく生成された企業は、特定の条件を満たす人間を募集して雇用するものなのだろう。 が、「特定の条件を持って生まれた人間の能力を活かすべき機会と現場を作り出さなければならない」という発想から生まれる仕事だってあって良いはずだし、もしかしたら、この先の世界でものを言うのは、そういう場面から生まれた仕事であるのかもしれない。 お花畑だと思う人はそう思ってかまわない。 私は、自分がどちらかといえば肥溜めよりはお花畑の方を好む人間であることを恥だとは思っていない』、全面的に同意したい。
タグ:日経ビジネスオンライン 河合 薫 小田嶋 隆 役所の障害者雇用水増し問題 (その1)(河合氏:障害者雇用 役所の水増しと過去最悪の虐待数 職場環境に大きな課題がある、小田嶋氏:建前の価値はそこにある) 「障害者雇用、役所の水増しと過去最悪の虐待数 職場環境に大きな課題がある」 雇用されている障害者への虐待数が過去最悪 賃金が最低賃金を下回るなどの「経済的虐待」が84%  差別的言動などの「心理的虐待」が8%  暴行などの「身体的虐待」が6% 障害者の“貧困化”は、国際労働機関(ILO)からも改善要求が出されたこともある 障害者の98%が年収200万円以下で、このうち年収100万円以下を6割が占めた A型には、雇用契約を結んだ利用者1人当たり1日6000~8000円の給付金が国から入る 心理的虐待は可視化しにくい特性もあるため、虐待が日常化して精神的なダメージを受ける人たちもいる 苦しいのは障害者だけじゃないですよ。一緒に働いてる僕たちの苦しみもわかってほしい 「一緒に働いている人の苦しみ」を定量的に捉えた貴重な研究 働く環境を変えずに「元気でバリバリ働ける強い人」を求め続ける限り、高齢者、がんなどの病いを患っている人、うつ傾向に陥った人、育児する人など、「障害者」はいたるところで作られる 今回の問題発覚を「職場でつくられる障害者を生まない社会、人に仕事を合わせられる職場作りをじっくり進めていけよ!」というメッセージと捉える必要があるのではないか 「建前の価値はそこにある」 ニュースの受け手としての私のとんでもなさへの感受性は、順調に麻痺しつつある。 私は驚かなかった 私たちは、その、おそらくかなり数多くの関係者が感知し得ていたはずの事実について、ずっと知らん顔をしていた当事者でもある 「公然の秘密」として見てみぬふりをされてきた前提だったことを物語るもので、つまるところ、われわれは、その種のごまかしを半ば「常識」として容認してきたのだ 障害者の排除に憤ってみせている「自称リベラル」こそが、「偽善者」の「お花畑」の「素敵なポエムを唱えていれば世界が素敵なファンタジーランドに変貌すると思い込んでいる夢想家」 官公庁が「建前」を守らないことは、おそらく一般企業の詐欺的採用やブラック雇用への追い風になる 『適者生存』 障害者雇用という社会的包摂のうちの最も大切な部分で、模範を示すべき官庁ならびに自治体が、自ら率先して障害者差別を実行していたことを示唆している意味で、大変に深刻だ こういう話題に関して、報道機関は、思い切り建前寄りの記事を配信せねばならない。 でないと、「リアルな欲望」や「めんどうくささの回避」に流れがちな「現実」とのバランスがとれなくなる 裏口入学が、入試制度の片隅に小さな穴があいていたことを物語る例外的な不祥事であることに比べて、試験データの改竄は、入学試験というシステムの前提が真っ赤なウソであったことを意味する、より根源的で致命的なスキャンダルだ 行政文書や大学入試の点数は、この世界の公正さを担保している「基準」というか、「スタンダード」そのものだ お役所が決裁した文書や、入試問題の答案の点数が自在に改竄可能な設定になったら、われわれの社会を下支えしている、人間の知的能力への信奉や、文書記録への信頼といった、ホワイトカラーの信仰は崩壊に瀕する 官公庁による人事採用思想は「生産性」という呪いの言葉に強い説得力を与えてしまっている 杉田議員がうっかり漏らした「生産性」という言葉が、彼女の個人的な妄言ではなくて、より広範な人々によって共有されている21世紀の時代思潮の顕現であり、40年以上も続くわが国の伝統的な人事管理思想の根本を説明する用語であることを証拠立てる出来事だった 私が不気味さを感じているのは、「生産性」という言葉や考え方に、なんらの不自然さを感じない人々の数が増えていること 社会ダーウィニズム 優生学的な態度を広めた 社会の中での競争と適応を絶対視し、弱者の滅亡を正当化する競争万能思想に影響を与えている 適者生存の原理は、「適者は生存する」という法則ではありません。「生存する者を適者と呼ぶ」という約束事であり、そこから仮説を作るための前提です われわれは、前提と結論を取り違えているようなのだ どの能力がどんなタイミングで生存に寄与するのかということが「運」と「偶然」に左右されている以上、「能力」は、そんなに重要な変数ではない 「進化論」・・・が「競争の効用」や「市場原理の正しさ」や「社会の進歩」を言い立てる人々にとっての「お守り」として利用されているということだ 人間の社会では、むしろ逆に「社会はすべての人間にしかるべき役割を割り振るように設計されていなければならない」という原則で考えられなければならない
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