バブル崩壊(長銀問題)(長銀「最後の頭取」が語る 20年前の破綻に至った本当の理由、今だから話せる 破綻カウントダウンの日々) [金融]
昨日に続いて、バブル崩壊(長銀問題)(長銀「最後の頭取」が語る 20年前の破綻に至った本当の理由、今だから話せる 破綻カウントダウンの日々)を取上げよう。
先ずは、11月14日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した経済ジャーナリストの宮内健氏によるインタビュー記事「長銀「最後の頭取」が語る、20年前の破綻に至った本当の理由 長銀元頭取・鈴木恒男氏インタビュー(上)」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/185387
・『1998年秋、日本長期信用銀行(以下、長銀)は経営破綻し国有化された。メディアは「ずさんな経営」や「不良債権隠し」がその原因と批判し、翌年には大野木克信元頭取など旧経営陣の3名が逮捕された。起訴容疑は粉飾決算と違法配当であった。 ところが経営破綻から10年後の2008年、最高裁は無罪判決を言い渡した。ならば、長銀の経営が追い込まれたのはなぜだろうか。破綻時の頭取だった鈴木恒男氏は当時の記者会見で「急激な環境の変化」と語った。もちろん経営責任を否定しているのではなく、それも含め、短期間にさまざまな要因が重層的に絡み合って生じた事態、という意味である。 だが当時は「悪者たたき」に終始する感情的な議論が多く、冷静に総括されることはあまりなかった。国有化から20年が経過したいま、長銀「最後の頭取」である鈴木恒男氏に長銀破綻の経緯について振り返ってもらった』、悲劇を繰り返さないためにも、貴重な記事だ。
・『「営業重視・審査軽視」へと変化していったバブル期 バブル景気が始まる少し前、私は資金調達本部に属していました。その時期、長銀の各本部が集まって長期経営計画について相談する機会があったのですが、借り入れ需要が非常に少なくなっており、融資を伸ばさなければいけないのに伸びない、したがって利益もあがらない状況に陥っていました。 その後、大阪の営業に転勤になり現場に出てみると、本当に借り入れ需要がないことに驚きました。もう東京では不動産価格が上昇していましたが、大阪ではまだフィーバーしてはいなかったのです。私のいた部署は業務目標をまったく達成できず、非常に肩身の狭い思いをしたのを覚えています。 1986年に本社へ戻り、私は経営企画部企画室長になりました。もっともこれは対外的な肩書で、業務はMOF担(大蔵省との折衝担当者)と、銀行内の各セクションの利害が反するような問題を調整する内部調整的な仕事です。 この頃、長銀ではマッキンゼーのコンサルティングを受け、融資部門に権限委譲し、もっと自主性を持たせ、クイックレスポンスできる体制をつくるべきだとのアドバイスに基づき、組織改革を行って総本部制を導入。貸し出しの売り込みと審査を同じ総本部内で完結させることにしました。それは一種の当時の流行で、住友銀行(現・三井住友銀行)もマッキンゼーのコンサルティングを受けて同様の体制を構築していました。 要はもっと現場にハッパをかけて、貸し出しを増やす仕組みをつくろうとしたわけです。しかし業績を伸ばすために営業優先で審査を軽視しがちになるなど、営業の裁量の幅を広げすぎてしまったと後に反省が出て、89年2月に権限移譲をしましたが、結局は91年2月に元の組織に戻すことになりました。私もこの組織改革に関わりましたが、営業優位にはバブル期の特徴が出ていたのでしょう。その自覚が我々スタッフには足りませんでした』、マッキンゼーのコンサルティングに従ったため、住友銀行も膨大な不良債権の山を築いた。また、他の大手都市銀行も住友銀行を見習って同様の組織変更をした結果、膨大な不良債権に苦しめられることとなった。無論、組織変更をした個々の銀行の責任ではあるが、現在でも大きな顔でのさばっているマッキンゼーの罪も深い。
・『業績にプレッシャーをかけた「長信銀制度」の行き詰まり このような組織改革に踏み出したのは「業績をもっと伸ばさなければいけない」というプレッシャーがあり、それは長信銀制度が曲がり角にきていたことが背景にありました。 預金で資金を集める普通銀行と異なり、長期信用銀行は期間5年の金融債(銀行が出す社債)を発行して資金を集め、設備投資などの長期資金を貸し出す金融機関です。日本興業銀行と日本債券信用銀行、そして長銀の3行がありました。 金融制度上は長短分離という思想があり、短期貸し出しは普通銀行が行い、長期貸し出しは長信銀や信託銀行が担うことになっていましたが、当時は長短分離が事実上崩れ、都市銀行も長期貸し出しを行うようになっていました。 本来は、債券や期間の長い定期預金で資金調達をしないで長期貸し出しをすると途中で調達金利が上がるリスクがあるのですが、預金金利がそれほど乱高下しない時代になり、都市銀行は利ザヤをたくさん取れる長期貸し出しに乗り出してきたのです。 一方の取引先は、長期より金利の低い短期を選好しますから、我々に「短期で貸してくれ」と言ってきます。ところが我々は普通預金などの流動性預金の比率がとても低いので、低コスト資金がありません。仕方なく短期貸し出しをすると逆ザヤになってしまいます。このように貸し出しは増えるが収益はなかなか伸びないという状況が出現し、収益を増やすためにより長期貸し出しの量を増やさなければいけないというプレッシャーがかかっていました。 そういう面を見ると、すでに当時、長信銀制度はもはや使命を終えつつあったのでしょう。今から考えればいち早く方向転換し、他の銀行との合併も真剣に考えなければならない状況でしたが、そちらの方には気持ちが向かず、自力でなんとかしようとしていました。まだ自己資本も厚く、保有している株式に兆円単位の含み益があったので、まだまだ自力でやっていけると考えていたのです』、膨大な株式含み益が経営の目を曇らせたのは、長信銀だけでなく、都市銀行でも同様だった。
・『なぜ不動産バブル崩壊を見抜けなかったのか 1989年末の大納会で日経平均株価が史上最高値(3万8915円)をつけました。その次の営業日である翌90年1月4日、私は業務審査部長へ異動になりました。その後バブル崩壊が本格化すると同時に後ろ向きの仕事についた感じで、以後の仕事はすべて不良債権理に関するものです。 もっとも、バブル景気がおかしくなったと認識したのはもう少し先の90年秋、国内外でリゾート開発やホテル事業を行っていた不動産開発投資会社EIEインターナショナルの資金繰りが回らなくなったときです。その年の6月に一度、不足資金を貸し付けていたのですが、そのときは一時的な資金不足だろうとそれほど重くは見ていませんでした。しかし秋にもう一度、EIEから「また資金が足りなくなったので貸してくれ」との要請が来ます。 要は、日常の営業では資金が不足するようになり、資金繰りのための借り入れをEIEは必要としていたのです。資金不足が続くのは事業に異変が生じている証拠です。そこで同社を調べてみると、やはり構造的な資金不足に陥っていました。EIEはゴルフ会員権の販売とリゾート施設の転売で繰り回していたバブル型の企業だったので、株価の下落とともにゴルフ会員権などの販売に陰りが出て資金繰りが悪化しました。こういう会社が構造的な資金不足に陥るのは、まさにバブルがはじけたことを示していました。 その他の取引先でも、金利を支払えない企業がぽつぽつ出始めていました。ただ、現実のように急速な地価の下落で日本経済が急激に悪化するとまでは考えておらず、どこかで小康状態になると見ていました。オイルショック時も不動産価格は下落しましたが、比較的軽症で済んでいます。調整局面は当然あるでしょうが、不動産価格も1~2割くらい下がれば均衡状態に入るのではないかと、希望も含めそんな見方をしていたのです。 銀行が不動産融資を増やす過程で、世間では「東京を国際金融センターに」との声も強く、当時の国土庁(現・国土交通省)は「東京のオフィスは超高層ビルにして250棟分必要になる」との予測を発表していました。これだけ外貨準備高があり、それにともなって日本の存在感も増すのだから、東京もロンドンのシティーのような機能を担えるのではないか、と。東京の狭い土地を再開発して有効活用し、オフィスとしてグレードアップしていけば、付加価値が高まっていくとの希望的な観測が支配的で、我々も同様の観測をしていたということです』、東京国際金融センター構想は、金融界に地価への希望的観測をもたらした罪作りなものだった。最近、また小池東京都知事が旗を振っているようだが、当時と比べると熱気はあと1つのようだ。
・『経営破綻を招いたのはEIEではない 他行より重かった関連ノンバンク処理 一般取引先で生じた不良債権の最大のものがEIEグループ向けの貸し出しで、長銀の被った損失は1000億円を大きく超え、そのグループ会社を含めると損失はさらに数百億円増加します。 ただし、EIE問題は長銀破綻の原因ではありません。それ以上に重荷になったのが関連ノンバンク向けの融資でした。長銀の関連会社として融資業務を行っていたノンバンクが7社ほどあって、それぞれ相当な資金量を持ち、バブル期に不動産融資を増やしていました。たとえば最大の日本リースの総資産は3兆円を超え、本業のリースに加え貸し出し業務も兆円レベル。ベンチャーキャピタルのNEDや不動産の日本ランディックも数千億円の融資をしていました。 長信銀というビジネスモデルではなかなか食べていけなくなる状況で、グループのノンバンクで隣接する異分野に参入することは、長銀にとって機能補完的な意味がありました。人や店舗が少なく、縦割りの金融制度の壁があり、自由に業務展開できない長銀本体では限界があるので、関連会社でリース業やベンチャーキャピタルに進出したのです。ライフという信販会社を救済し、グループに引き込んだのもその流れです。ノンバンクは他の都市銀行も手がけていましたが、長銀は他社より熱が入っていた感があります。 バブルが崩壊した直後の1991年時点で、関連ノンバンクなどに対する長銀の貸し出し残高は1兆円を超えていました。さらに問題はこれらの会社の営業貸付金で、そのほとんどすべてが不動産担保融資であり、グループ企業全体では5兆円近い営業貸付金が、不動産の価格変動リスクを抱えていました。 これほど営業貸付金が増えたのは、バブルが崩壊するまでグループ会社の経営管理が甘かったからです。長銀はグループ会社の貸し出しをすべて掌握し、リスクが過大になっていないか厳重にチェックしながら進めるべきだったのですが、脇が甘くて気付いたときにはものすごい量になっていました。 それに加え、原因としては、関連会社のトップが本体の役員を務めあげた大先輩たちで、スタッフが苦言を呈することがはばかられる風土がありました。また、各社の本業の収益で事態を改善できるという期待もありました。たとえば日本リースはオリックスに次ぐ規模のリース会社で、いずれ上場しようかという勢いもあったので、ある程度経営の自主性を認めざるを得なかったのです。 我々としては、関連ノンバンクが苦しくなったら会社更生法や民事再生法の対象にして、一般の債権者にも負担していただく可能性も理論的にはありました。しかし、現実には許されなかった。関連ノンバンクに融資している金融機関からすれば「日本リースの信用力ではなく長銀の信用力で貸しているんだ」と。つまり、関連ノンバンクの信用ではなく親銀行=母体行の信用で貸しているのだから、関連ノンバンクの経営についての責任は母体行にあるというものです。 母体行主義が一般化したのは住専(住宅金融専門会社)問題の処理からです。住専とはもともと個人向けの住宅ローンを取り扱うノンバンクでしたが、都市銀行などの住宅ローン分野への進出で圧迫され、不動産業への融資を増やすようになりました。住専の拡大を支えたのは母体金融機関と生保、農林系統金融機関(農協とその上部金融機関)などからの長期借り入れです。長銀が野村證券との折半出資で設立した第一住宅金融も例外ではありませんでした。 大幅な地価下落に伴い住専各社は巨額の損失を出し、最終的に大蔵省主導で破綻処理されましたが、この過程で関連ノンバンクの損失処理は母体行が責任をもって処理することが原則のようになりました。農林系統金融機関が「貸し倒れ損はあくまで母体行の責任で、母体行の信用で貸したのだから我々が一部でも負担することはあり得ない」と主張し、これが大勢になったのです。 こうして関連ノンバンクの損失処理は、長銀そのものの問題となりました。本体の不良債権だけなら他行と比べ過重な負担だったとは思いませんが、長銀の場合、関連ノンバンクの負担が他行より重かったのです』、EIEは社長の豪遊ぶりなどが話題になったが、確かにこれだけであれば、長銀は苦もなく乗り切れたろう。関連ノンバンクの借入調達では、親銀行には大口融資規制の制限があるため、他行から借入ざるを得ない。他行はまた自らの関連ノンバンクの借入調達でさらの別の銀行に頼るという形で、関連ノンバンク向け貸出は、株式の相互持合に似た膨大なネットワークが形成されていた。そこには、当初から母体行責任論が暗黙の了解となっていた。住専問題でこれが顕在化した形になった。日債銀(日本債券信用銀行)の関連ノンバンク処理では、日債銀に母体行責任を果たす体力がないとの理由で、当局は貸手責任を強引に押し付けた。
・『不良債権処理とは どのような仕事だったか バブル景気で地価が高騰を続ける中、大蔵省は1990年3月に不動産融資総量規制を実施しました。内容は不動産業に対する貸し出しの伸び率を総貸し出しの伸び率以下に抑え、同時にノンバンク向けの貸し出しも定期的に報告を求める比較的穏やかなものでした。 しかし「平成の鬼平」と世の喝采を浴びた三重野康総裁率いる日銀は、その前年から相次いで利上げし、90年8月に公定歩合は6%に達し、地価の本格的な下落を招きました。さらに地価税の創設など政府の各省、各局はそれぞれに地価対策を打ち出し、総合調整機能を欠いた個々の政策の集積は、各省庁の想定を超える激震を地価にもたらしました。 地価下落により年々膨らむ一途の不良債権は、長銀をはじめ銀行の経営を圧迫していきました。そんな状況のなか、私は92年に取締役事業推進部長に就任しました。事業推進部長というと前向きに聞こえますが、内容は不良債権を専門に担当する部です。取締役に昇格してうれしくなかったかといえば嘘になりますが、それ以上に大変な時期に大変な仕事に就いたというプレッシャーがありました。 長銀がメインバンクとして推進した不動産開発プロジェクトでは、工事の途中で開発会社の資金が尽きてしまうものがありました。途中で放り出されると銀行は貸し出しを取りっぱぐれる上に撤去費用もかかり、大変な損失です。そこで7~8割できていた物件については受け皿会社をつくって簿価で引き取り、ゼネコンの力を借りたりしながら工事を継続し、完工させて売却していくのが重要な仕事でした。 EIEにはプロジェクトの途中で止まってしまった海外の案件がたくさんありました。たとえばニューヨークの五番街に建設中のホテル。こんな物件を立ち枯れさせてしまったら、日本という国自体が変な目で見られてしまいます。こうした案件も含め、世界中にあったホテルを全部1ヵ所にまとめて仕上げることになり、グループ会社の案件も一部引き取りました。 これらの行為がのちに「不良債権の隠ぺい」とか「不良債権処理の先送り」との疑念疑惑を招きましたが、隠ぺいなどではありません。ずっと抱え込んで隠すのではなく、あくまで不良債権処理の一環で完工させたら転売するものでしたから。不動産価格が値下がりしていたため貸出金額の元本までは回収できませんでしたが、それでも野ざらしで鉄骨のまま売却するよりはずっとよかったのです』、不動産融資総量規制では、何故か農林系の住専だけが対象外になったため、貸出が急増し、住専処理コストを膨らませる結果となった。大蔵省、農林省の罪は深い。内外の立ち枯れ案件を受け皿会社に引き取らせて、完成させた上売却するというのは、市場価値があるものであれば、当然で、非難される言われはないだろう。
次に、上記の続きを、11月21日付け「長銀「最後の頭取」が今だから話せる、破綻カウントダウンの日々」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/186139
・『1998年秋、日本長期信用銀行(以下、長銀)は経営破綻し国有化された。破綻時の頭取だった鈴木恒男氏は当時の記者会見で、その原因を「急激な環境の変化」と語った。長銀は長期資金の貸し付けを主に行う長期信用銀行としての役割が行き詰まり、新たな貸付先を拡大する中で、不動産バブル崩壊へと巻き込まれていった。さらに金融行政の変化、金融危機の発生という外部的な要因も、長銀を破綻へと導く大きな要因になっていた。 こうした急激な環境変化が起こる中で、長銀「最後の頭取」は、破綻を前にどのような状況に追い込まれ、対応していたのか。20年がたった今だからこそ話せる、長銀破綻までのカウントダウンの日々を鈴木恒男氏に聞いた』、最後がどうだったのかは、特に興味深い。
・『金融行政は「護送船団方式」から「自己責任原則」へと移行 さまざまな経済対策で1996年には景気回復の動きが広がり、金融機関の不良債権問題は解決へ進むかに見えました。しかし当時の橋本龍太郎首相が主導する財政緊縮政策が打ち出され、政府が97年4月からの消費税2%引き上げを閣議決定すると、景気は冷水を浴びせかけられたように委縮し始めました。 97年に入ると、それまで経験のない信用収縮が生じつつありました。地価をはじめとする資産価格の低下が実体経済の足を引っ張るデフレスパイラルにより銀行は追加の不良債権償却・引当に迫られ、自己資本比率規制をクリアしようと一段と激しく貸出金の回収に走りました。これで流通業界やゼネコン業界などで多くの企業が資金繰りに窮し、事態は不動産バブルの崩壊から、非製造業を主とする過剰債務企業を市場が追い詰める新段階へ移行しました。 一方、95年12月に「今後の金融検査・監督等のあり方と具体的改善策の取りまとめにあたって」という大蔵大臣談話が発表されました。「金融行政の転換について」という副題がつけられたこの談話で、金融機関の自己責任の徹底と市場規律が十分に発揮される透明性の高いシステムを構築することが宣言されました。 金融行政の根本を、それまでの大蔵省が行政指導する護送船団方式から自己責任原則に変えることは、邦銀の格付けにも大きく影響しました。さらに96年11月、政府は唐突に「金融ビッグバン」を打ち出しました。ただ、総論だけで具体論が見えず、金融業界の人間もメディアもそれが何を意味するのかよくわからない状態でした』、消費増税だけでなく、社会保険料引上げなども含め、国民負担は9兆円も増加したのが景気を一気に冷え込ませ、経済政策の致命的なミスである。しかも、金融機関は不良債権問題で頭を痛めているなかで、「金融ビッグバン」を打ち出したことも重大なミスだ。
・『このような経営環境の激変の中で、97年5月頃から長銀はスイスバンクコーポレーション(SBC)との業務提携に活路を見いだそうとしました。株式を持ち合い、合弁で証券会社や投資顧問会社を作る。自己資本を増強し、海外に後れを取っていたといわれる新金融技術の習得などが見込め、日本の銀行としてはかなり先を行くような提携をしたつもりでした。 しかし、後でこの提携が裏目に出ることになります。 長銀株の下落でSBCとの提携が破綻 1997年11月、ついに日本で金融危機が発生しました。三洋証券が会社更生法を申請して倒産した翌日、同社が無担保コール市場から取り入れた10億円がデフォルト(支払い不能)になったのです。 無担保コール市場は当局から認可を受けた金融機関が相互信頼に基づき、資金の貸し借りを行う場です。つまり護送船団方式を前提にした仲間内の資金融通システムで、そこで起こった戦後初のデフォルトによって、金融機関同士が疑心暗鬼に陥り「融通した資金が返ってこないかもしれない」と金融システム不安が一気に加速しました。株式、為替、債券はトリプル安となり、都銀の一角であった北海道拓殖銀行が経営破綻し、続いて山一証券の自主廃業が決定しました。 この危機に際して金融機関の資本増強のために公的資金の注入が検討され、翌年3月に長銀を含む21行に公的資金投入が行われましたが、金融システムの安定には不十分な規模で終わりました。その遠因には世間における銀行のイメージの悪さがありました。 この時期、長銀には別の難問が持ち上がっていました。ビッグバンの先兵になろうと業務提携したSBCから「ディストレスワラント条項」を付け加えることを要求されたのです。これは長銀の株価が3日間にわたって50円を下回るか、20日以上にわたって100円を切った場合は、合弁で設立する証券会社などの長銀保有株をSBCに譲渡するというものです。 突然この条項の承認が提案された常務会において反対したのは1人だけで、私を含めたその他の出席メンバーはただやり取りを聞いているだけでした。自分の部門の仕事はきちんとやるけれど、他の部門には口出ししないという官僚的な縦割り組織の弊害です。そんな縦割りの思考に私自身、どっぷり浸かっていました。 その後、後述の株価下落によりディストレスワラント条項の発効は現実のものとなりますが、長銀が力を入れてきた分野を手放すことになって、マーケットの評価を大きく落としてしまいました』、「ディストレスワラント条項」追加を審議する「常務会において反対したのは1人だけ」というのには驚かされた。投資銀行を目指すとはしたものの、その中身が全く理解してなかったようだ。
・『SBCとの合弁証券会社から大量の長銀株売り 株主総会中に「株価が50円を切った」のメモ 1998年6月に入ると思いがけない事態が生じ、長銀の経営は急速に悪化しました。5日、月刊『現代』7月号の広告に「長銀破綻」の見出しが躍ったのです。記事は新味のある内容ではありませんでしたが市場は敏感に反応し、株価は前日18円安の181円で引けました。 しかも6月9日、SBCとの合弁会社である長銀ウォーバーグ証券のロンドンオフィスは長銀株の大量の売り注文を受け、それをそのまま東京の証券取引所につなぎました。普通、日本の金融機関であれば親密な会社の信用を落とす行為なので、他の証券会社に持ち込むよう顧客を誘導します。しかし欧米のディーラーは自分の実績と報酬に直結しますから、そんなことはお構いなしに売るのです。このようなビジネス慣行の違いには思い至りませんでした。 長銀ウォーバーグ証券による長銀株の大量の売りは、「SBCは長銀を見限った」と市場に受け取られました。海外も含めて相当な投資家が空売りのチャンスだと考えたのでしょう。そうでなければ説明のつかない株価の下落が起こり、6月22日には前営業日の112円から62円へ一挙に50円も急落し、その後、長銀の株価は二度と100円台を回復しませんでした。 ちょうどこのときは、新たに設置される金融監督庁に、大蔵省から金融の企画機能を切り離して一緒にするかどうかで同省と政治家の間で綱引きが行われていた時期でした。監督機関が引き継ぎで空白の時を狙い、ヘッジファンド等が長銀を空売りのターゲットにしたのでしょう。 マーケットの巨大な力は平時には見えませんが、こうしたときに大変な猛威を発揮する。それは非常に怖いもので、株主総会の最中に「長銀株が50円まで値下がりしている」とのメモが入ったときは衝撃的でした。我々はマーケットの底知れない力に対する思慮を欠いていたというか、まさかそこまでのものだとは思っていなかったのです』、子会社の長銀ウォーバーグ証券の仕打ちにはさぞかし腹が立っただろうが、これが冷徹な投資銀行ビジネスだ。月刊『現代』7月号へのリークも「空売り」を狙った動きだったのだろう。
・『あらかじめクビが決められた頭取就任 信用低下で資金繰り困難に 根拠に乏しいメディアの報道やうわさ話が飛び交い、株式市場で長銀株がもみくちゃにされ窮地に追い込まれる中、長銀は他行との合併を模索し、住友信託銀行との合併に最後の望みを託すことになりました。 合併するためには政府から公的資金を8000億円から9000億円注入してもらい、不良債権処理を行って身ぎれいにする必要がありました。大蔵省と相談しながら作成した公的資金を入れるための再建計画では、前提条件の1つに代表取締役の辞任がありました。経営責任の明確化のためです。 一方、長銀は1998年4月に執行役員制を導入し、それまで28人いた取締役を6人に減らしていました。すると会長を除き代表権を持っていない取締役は末席にいる私を含めて2人だけ。もう1人は国際畑で役所との折衝経験があまりなく、消去法的に私が頭取に就任せざるを得なくなりました』、公的資金を入れる話があったとは初耳だ。
・『頭取といっても住友信託と合併できた暁には当然クビになる立場で、いわばワンポイントリリーフです。私自身、ずっと不良債権処理に関わってきた立場で、決してよい人選とは思えませんでしたが、誰かが引き受けなければ前には進めず長銀の幕引きもできない。腹をくくってやるしかありません。8月21日に頭取代行に就任し、翌9月29日に正式に頭取になりました。 我々が再建計画を提出し公的資金を申請したその頃、政治も混乱していました。7月の参院選で自民党が惨敗し、責任を取って辞任した橋本首相の後を受けて小渕内閣が成立。8月25日から金融再生関連法案の審議がスタートしていました。いわゆる金融国会です。焦点は長銀が破綻しているかどうかであり、破綻しているかどうかの基準は債務超過であるかどうかでした。 債務超過で破綻していれば金融安定化法による公的資金投入は健全行を対象としているため、公的資金は使えなくなり、破綻処理に移行せざるを得なくなります。しかし不良債権の認定の仕方によって、債務超過であるかどうかは大きく変わり得ます。つまり、債務超過であるかどうかについても、そう単純に決まる話ではないのです。 政府・与党は破綻状態ではない長銀に公的資金を投入する方針でしたが、野党は強く反対し破綻金融機関に対する法的な処理を行う制度を設けるべきだと主張しました。 合併後の銀行の業績が浮上すれば優先株などで投入された公的資金が返済され、国民負担にはなりません。しかし当時はより少ないコストで金融危機を収束させるという視点はほとんどありませんでした。 金融国会は9月中旬まで議論が右へ行ったり左へ行ったり膠着しました。そして長銀の信用がかかった国会審議で1ヵ月ほど衆目を集めるところとなった結果、その間に多くの風説やフェイクニュースが流布し、長銀の信用は日を追って低下し資金繰りが困難になりました。株価もどんどん下落し、住友信託では共倒れを懸念して合併に対し慎重な意見が強まりました。 結局、本格的な金融危機を防ぎ金融システムを安定化するプルーデンス政策が用意されておらず、審議が膠着している間に長銀の信用が最終的に毀損される結果となったのです。結局、金融国会では野党案の丸のみが了承されて長銀の国有化による破綻処理が動かないものとなり、経営破綻が確定。我々の合併への努力は水泡と帰しました』、銀行に破綻の噂が出たら直ちに手を打たなければならないのに、数か月放置されている間に、優良企業は逃げ出し、残ったのは不振企業ばかりとなり、企業価値は大きく棄損された。
・『長銀は1952年に施行された「長期信用銀行法」に基づく銀行で、その法律が当時の池田勇人蔵相の指揮下に成立したことから自民党の宏池会と親しい関係にありました。一方、監督官庁である大蔵省は自らが与党自民党への根回しや説明を行うとして、個別の銀行が個々の政治家に依存することを極度に嫌っていたこともあって、長銀が直接宏池会に依存することはありませんでした。というよりは、大蔵省ルートを妨害しないように、直接的な動きを避けていました。 自民党全体が宮沢喜一大臣をいただく大蔵省の原案に沿って動いてくれると思っていたのですが、自民党の「派閥政治」が曲がり角に来ており、折しも野党の若手議員と自民党の一部議員が同調して政府案に反発するという事態にさしかかっていました。「政策新人類」といわれた議員たちです。 長銀は、最終段階で宮沢大臣や当時の池田政調会長など宏池会の力を頼んだのですが、すでに政界は様子が変わっていました。頼みの大蔵省自身がイメージダウンする中、動き続ける政治の世界に一金融機関が効果的に働きかけることがいかに難しいか、肌身で感じました』、「政策新人類」は、旧民主党の枝野幸男、自民党の塩崎恭久、石原伸晃らが、金融実務を無視して原理主義的考えを振りかざしたが、マスコミは大いにもて囃した。彼らが暴れたおかげで、長銀の救済が間に合わなくなったのは、誠に不幸であった。
・『「我々が世界恐慌を引き起こすのでは…」 綱渡りの資金繰りに奔走 長銀の経営破綻が現実のものとなっても、まだまだやるべき仕事がありました。資金繰りです。国有化されるまでには時間があり、それが10月下旬であることは見当がつきました。その間、長銀が国有化されるといっても、一般のお客さまは金融債を解約し現金化しなければ不安で仕方がありません。 一方、銀行同士が取引を行うインターバンク市場では、長銀に無担保で融資してくれていた金融機関は簡単に貸してくれなくなります。金融債の解約が相次ぎ、他方でお金を貸してくれなくなれば資金ショートが起こります。これは大変危険な事態で、「あの銀行が払えないとなればこっちの銀行も危ない」と危機が伝播してしまいます。その危険が実際に起こったのが昭和金融恐慌でした。 しかもデリバティブやスワップといった金融派生商品ではかなり大きな規模の契約を国際的にしていますから、長銀がデフォルトになると国際的な騒ぎになる可能性がありました。折しもロシアで金融危機が表面化しており、金融不安は世界に広がっていました。当時の日銀理事でのちに国有化長銀の頭取やセブン銀行初代社長などを歴任する安斎隆氏にも時折呼び出され、「絶対に穴をあけるなよ」と。安斎さんは万が一の場合には、日銀特融を行わざるを得ないと考えていたようですが……。 資金不足は「10日後に8000億円から1兆円になる」といった巨額な水準でした。しかし、我々が資金ショートすると世界恐慌を引き起こすかもしれない。そんな恐怖感を持ちながら、私も含め全役職員が必死の思いで資金繰りに駆けずり回りました。 幸いにも長銀はデフォルトを起こさず98年11月4日、国有化長銀の役員が着任し、私は解任されました。頭取代行に就任してから2ヵ月半の期間でした』、アメリカの金融危機でリーマンは破綻させながら、保険会社のAIGを公的資金で救済したのは、CDSというデリバティブの最大の市場参加者だったからだ。マーケット主導型の破綻劇は、進行が速いだけに要注意だ。
・『「異論を出す力」が失われていた 長銀の経営破綻が現在の行政や金融機関にもたらした影響や教訓はたくさんあると思います。その1つは遅きに失した感もありますがプルーデンス政策、つまり、金融機関の破綻を防いだり、金融システムの安全性を維持したり、あるいは金融危機が発生した際に迅速に対応できる体制が国民的な理解を得てできたことでしょう。 アメリカではリーマンショックの際、非常に素早く対応しました。それができたのは日本も反面教師になっていると思いますが、やはりプルーデンス政策が用意されていたからです。これがあれば金融危機が生じても素早く公的資金を注入したり緊急融資を出したりして、金融機関の資金繰り危機に対応できます』、アメリカではリーマンショックが起きた9月の翌月になって、4000憶ドル(32兆円)規模の不良資産買取プログラム(TARP)が出来たので、やはり後手だった。
・『もう1つは大きな制度変更をいかに行うか、という問題です。1990年代前半まで日本の金融機関は縦割りの専門金融機関制度と行政指導に縛られていました。それが一時期は日本経済に貢献していたのですが、90年代半ばにいきなり銀行は市場原理のもとに、自己責任で経営せよ、行政は事後監視だけを行うと急激な方向転換が行われました。 この方向転換は米国のまねをしたというか、そうさせられた面が大きいのですが、長年の金融システムや慣行を変えるに際しては、自国の状況に合わせて時間をかけて行わなければ、さまざまな混乱が発生し、危機的な状況を招きかねないというのも長銀破綻の教訓だと思います。 また、危機的な状況があったとしても、当然ながら企業経営者は企業の生き残りのためにあらゆる可能性を想定して議論を尽くさなければいけないわけですが、前にも述べたように長銀は縦割り組織の弊害で、私を含め他のセクションの問題にもきちんと意見を言うべきとの自覚が乏しく、そうした風土に浸かってしまっていました。 こまごましたところにとらわれず全体を観察し「異論を出す力」を企業の中に蓄えないと、企業の弾力性が失われてしまいます。しかし異論を言う人を異端者として排除する傾向があったのは否めません。これは本当に大きな反省点で、経営者は自戒して日頃からそうした風土づくりを心掛ける必要があると思います』、正論ではあるが、同調圧力が殊の外強い日本型組織でそうした風土づくりといっても、ないものねだりのような気もする。
・『重層的な金融危機の要因を総括し、 今後に活かす取り組みを 銀行経営の側面でいえば、長銀はグローバルマーケットの一流プレーヤーになることを目標にしていた時期があり、そのために背伸びしたことも確かです。しかし日本の物差しは通用しませんでした。長銀は試行錯誤の末に反面教師としての事例を示してしまいました。 一例を挙げれば、長銀は海外の営業体制を拡充し、アメリカなどでは日本企業だけでなく現地のローカル企業にも融資先を広げましたが、現地通貨での低コストの資金調達力が伴っていないため、薄利多売の難しい仕事でした。 また、海外の大手金融機関との提携にしても、ディストレスワラント条項のようなものが普通に取り交わされているのが世界の金融界ですが、そうした危機対応まで考えて業務提携をした日本の金融機関は少なかったでしょう。長銀の事例が他の金融機関に警鐘を鳴らしたことは確かです。 現在の銀行は低金利とカネ余りで利ザヤが取れない中、どうやってもうけていくのか本当に大変だと思います。自助努力でなんとかしなさいと言われても、違う海へ漁に出て失敗し、リスクを負うことになりかねません。今回問題を起こしたスルガ銀行はその象徴のようです。 長銀が経営破綻したのは、最終的に経営陣、マネジメントの責任です。それを前提にして言うのですが、我々は長信銀制度からの転換ができなかった。ここまで述べたように破綻に至るまでには複合的、重層的な要因がありますが、究極的には長信銀が歴史的使命を終えて消滅したということなのだと思います。長銀の破綻に続き日債銀も破綻し、やはり厳しい状況にあった興銀も他の金融機関とのあまり実態のない提携で、将来の展望が開けているかのように形づくりをせざるを得ませんでした。98、99年は長期信用銀行という制度が事実上消滅した年として金融史に記録されるのでしょう。 あれから20年が経過して、経営破綻の瞬間だけにフォーカスするのではなく、かつて日本経済の中に長信銀が存在し、どのような役回りを担っていたかも含めて長銀を語ってもよいのではないか。最近はそう考えるようになりました。 アメリカではリーマンショック後、下院議会で総括作業を行いましたが、日本では金融危機対応についてそうした総括的な取り組みが行われていません。長銀国有化後に内部調査委員会が設けられ、経営陣の責任追及に絞った調査は行われましたが、複合的な要因を究明する動きは出てこなかった。 さかのぼればアメリカでは1929年のウォール街大暴落の後、1932年にペコラ委員会を上院に設置して調査を行い、グラス・スティーガル法の制定などにつながりました。アメリカはこうした取り組みをしっかりやっている。日本がそれをしないのは、非常にもったいないことなのではないでしょうか』、説得力溢れた主張で、全面的に賛成したい。
先ずは、11月14日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した経済ジャーナリストの宮内健氏によるインタビュー記事「長銀「最後の頭取」が語る、20年前の破綻に至った本当の理由 長銀元頭取・鈴木恒男氏インタビュー(上)」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/185387
・『1998年秋、日本長期信用銀行(以下、長銀)は経営破綻し国有化された。メディアは「ずさんな経営」や「不良債権隠し」がその原因と批判し、翌年には大野木克信元頭取など旧経営陣の3名が逮捕された。起訴容疑は粉飾決算と違法配当であった。 ところが経営破綻から10年後の2008年、最高裁は無罪判決を言い渡した。ならば、長銀の経営が追い込まれたのはなぜだろうか。破綻時の頭取だった鈴木恒男氏は当時の記者会見で「急激な環境の変化」と語った。もちろん経営責任を否定しているのではなく、それも含め、短期間にさまざまな要因が重層的に絡み合って生じた事態、という意味である。 だが当時は「悪者たたき」に終始する感情的な議論が多く、冷静に総括されることはあまりなかった。国有化から20年が経過したいま、長銀「最後の頭取」である鈴木恒男氏に長銀破綻の経緯について振り返ってもらった』、悲劇を繰り返さないためにも、貴重な記事だ。
・『「営業重視・審査軽視」へと変化していったバブル期 バブル景気が始まる少し前、私は資金調達本部に属していました。その時期、長銀の各本部が集まって長期経営計画について相談する機会があったのですが、借り入れ需要が非常に少なくなっており、融資を伸ばさなければいけないのに伸びない、したがって利益もあがらない状況に陥っていました。 その後、大阪の営業に転勤になり現場に出てみると、本当に借り入れ需要がないことに驚きました。もう東京では不動産価格が上昇していましたが、大阪ではまだフィーバーしてはいなかったのです。私のいた部署は業務目標をまったく達成できず、非常に肩身の狭い思いをしたのを覚えています。 1986年に本社へ戻り、私は経営企画部企画室長になりました。もっともこれは対外的な肩書で、業務はMOF担(大蔵省との折衝担当者)と、銀行内の各セクションの利害が反するような問題を調整する内部調整的な仕事です。 この頃、長銀ではマッキンゼーのコンサルティングを受け、融資部門に権限委譲し、もっと自主性を持たせ、クイックレスポンスできる体制をつくるべきだとのアドバイスに基づき、組織改革を行って総本部制を導入。貸し出しの売り込みと審査を同じ総本部内で完結させることにしました。それは一種の当時の流行で、住友銀行(現・三井住友銀行)もマッキンゼーのコンサルティングを受けて同様の体制を構築していました。 要はもっと現場にハッパをかけて、貸し出しを増やす仕組みをつくろうとしたわけです。しかし業績を伸ばすために営業優先で審査を軽視しがちになるなど、営業の裁量の幅を広げすぎてしまったと後に反省が出て、89年2月に権限移譲をしましたが、結局は91年2月に元の組織に戻すことになりました。私もこの組織改革に関わりましたが、営業優位にはバブル期の特徴が出ていたのでしょう。その自覚が我々スタッフには足りませんでした』、マッキンゼーのコンサルティングに従ったため、住友銀行も膨大な不良債権の山を築いた。また、他の大手都市銀行も住友銀行を見習って同様の組織変更をした結果、膨大な不良債権に苦しめられることとなった。無論、組織変更をした個々の銀行の責任ではあるが、現在でも大きな顔でのさばっているマッキンゼーの罪も深い。
・『業績にプレッシャーをかけた「長信銀制度」の行き詰まり このような組織改革に踏み出したのは「業績をもっと伸ばさなければいけない」というプレッシャーがあり、それは長信銀制度が曲がり角にきていたことが背景にありました。 預金で資金を集める普通銀行と異なり、長期信用銀行は期間5年の金融債(銀行が出す社債)を発行して資金を集め、設備投資などの長期資金を貸し出す金融機関です。日本興業銀行と日本債券信用銀行、そして長銀の3行がありました。 金融制度上は長短分離という思想があり、短期貸し出しは普通銀行が行い、長期貸し出しは長信銀や信託銀行が担うことになっていましたが、当時は長短分離が事実上崩れ、都市銀行も長期貸し出しを行うようになっていました。 本来は、債券や期間の長い定期預金で資金調達をしないで長期貸し出しをすると途中で調達金利が上がるリスクがあるのですが、預金金利がそれほど乱高下しない時代になり、都市銀行は利ザヤをたくさん取れる長期貸し出しに乗り出してきたのです。 一方の取引先は、長期より金利の低い短期を選好しますから、我々に「短期で貸してくれ」と言ってきます。ところが我々は普通預金などの流動性預金の比率がとても低いので、低コスト資金がありません。仕方なく短期貸し出しをすると逆ザヤになってしまいます。このように貸し出しは増えるが収益はなかなか伸びないという状況が出現し、収益を増やすためにより長期貸し出しの量を増やさなければいけないというプレッシャーがかかっていました。 そういう面を見ると、すでに当時、長信銀制度はもはや使命を終えつつあったのでしょう。今から考えればいち早く方向転換し、他の銀行との合併も真剣に考えなければならない状況でしたが、そちらの方には気持ちが向かず、自力でなんとかしようとしていました。まだ自己資本も厚く、保有している株式に兆円単位の含み益があったので、まだまだ自力でやっていけると考えていたのです』、膨大な株式含み益が経営の目を曇らせたのは、長信銀だけでなく、都市銀行でも同様だった。
・『なぜ不動産バブル崩壊を見抜けなかったのか 1989年末の大納会で日経平均株価が史上最高値(3万8915円)をつけました。その次の営業日である翌90年1月4日、私は業務審査部長へ異動になりました。その後バブル崩壊が本格化すると同時に後ろ向きの仕事についた感じで、以後の仕事はすべて不良債権理に関するものです。 もっとも、バブル景気がおかしくなったと認識したのはもう少し先の90年秋、国内外でリゾート開発やホテル事業を行っていた不動産開発投資会社EIEインターナショナルの資金繰りが回らなくなったときです。その年の6月に一度、不足資金を貸し付けていたのですが、そのときは一時的な資金不足だろうとそれほど重くは見ていませんでした。しかし秋にもう一度、EIEから「また資金が足りなくなったので貸してくれ」との要請が来ます。 要は、日常の営業では資金が不足するようになり、資金繰りのための借り入れをEIEは必要としていたのです。資金不足が続くのは事業に異変が生じている証拠です。そこで同社を調べてみると、やはり構造的な資金不足に陥っていました。EIEはゴルフ会員権の販売とリゾート施設の転売で繰り回していたバブル型の企業だったので、株価の下落とともにゴルフ会員権などの販売に陰りが出て資金繰りが悪化しました。こういう会社が構造的な資金不足に陥るのは、まさにバブルがはじけたことを示していました。 その他の取引先でも、金利を支払えない企業がぽつぽつ出始めていました。ただ、現実のように急速な地価の下落で日本経済が急激に悪化するとまでは考えておらず、どこかで小康状態になると見ていました。オイルショック時も不動産価格は下落しましたが、比較的軽症で済んでいます。調整局面は当然あるでしょうが、不動産価格も1~2割くらい下がれば均衡状態に入るのではないかと、希望も含めそんな見方をしていたのです。 銀行が不動産融資を増やす過程で、世間では「東京を国際金融センターに」との声も強く、当時の国土庁(現・国土交通省)は「東京のオフィスは超高層ビルにして250棟分必要になる」との予測を発表していました。これだけ外貨準備高があり、それにともなって日本の存在感も増すのだから、東京もロンドンのシティーのような機能を担えるのではないか、と。東京の狭い土地を再開発して有効活用し、オフィスとしてグレードアップしていけば、付加価値が高まっていくとの希望的な観測が支配的で、我々も同様の観測をしていたということです』、東京国際金融センター構想は、金融界に地価への希望的観測をもたらした罪作りなものだった。最近、また小池東京都知事が旗を振っているようだが、当時と比べると熱気はあと1つのようだ。
・『経営破綻を招いたのはEIEではない 他行より重かった関連ノンバンク処理 一般取引先で生じた不良債権の最大のものがEIEグループ向けの貸し出しで、長銀の被った損失は1000億円を大きく超え、そのグループ会社を含めると損失はさらに数百億円増加します。 ただし、EIE問題は長銀破綻の原因ではありません。それ以上に重荷になったのが関連ノンバンク向けの融資でした。長銀の関連会社として融資業務を行っていたノンバンクが7社ほどあって、それぞれ相当な資金量を持ち、バブル期に不動産融資を増やしていました。たとえば最大の日本リースの総資産は3兆円を超え、本業のリースに加え貸し出し業務も兆円レベル。ベンチャーキャピタルのNEDや不動産の日本ランディックも数千億円の融資をしていました。 長信銀というビジネスモデルではなかなか食べていけなくなる状況で、グループのノンバンクで隣接する異分野に参入することは、長銀にとって機能補完的な意味がありました。人や店舗が少なく、縦割りの金融制度の壁があり、自由に業務展開できない長銀本体では限界があるので、関連会社でリース業やベンチャーキャピタルに進出したのです。ライフという信販会社を救済し、グループに引き込んだのもその流れです。ノンバンクは他の都市銀行も手がけていましたが、長銀は他社より熱が入っていた感があります。 バブルが崩壊した直後の1991年時点で、関連ノンバンクなどに対する長銀の貸し出し残高は1兆円を超えていました。さらに問題はこれらの会社の営業貸付金で、そのほとんどすべてが不動産担保融資であり、グループ企業全体では5兆円近い営業貸付金が、不動産の価格変動リスクを抱えていました。 これほど営業貸付金が増えたのは、バブルが崩壊するまでグループ会社の経営管理が甘かったからです。長銀はグループ会社の貸し出しをすべて掌握し、リスクが過大になっていないか厳重にチェックしながら進めるべきだったのですが、脇が甘くて気付いたときにはものすごい量になっていました。 それに加え、原因としては、関連会社のトップが本体の役員を務めあげた大先輩たちで、スタッフが苦言を呈することがはばかられる風土がありました。また、各社の本業の収益で事態を改善できるという期待もありました。たとえば日本リースはオリックスに次ぐ規模のリース会社で、いずれ上場しようかという勢いもあったので、ある程度経営の自主性を認めざるを得なかったのです。 我々としては、関連ノンバンクが苦しくなったら会社更生法や民事再生法の対象にして、一般の債権者にも負担していただく可能性も理論的にはありました。しかし、現実には許されなかった。関連ノンバンクに融資している金融機関からすれば「日本リースの信用力ではなく長銀の信用力で貸しているんだ」と。つまり、関連ノンバンクの信用ではなく親銀行=母体行の信用で貸しているのだから、関連ノンバンクの経営についての責任は母体行にあるというものです。 母体行主義が一般化したのは住専(住宅金融専門会社)問題の処理からです。住専とはもともと個人向けの住宅ローンを取り扱うノンバンクでしたが、都市銀行などの住宅ローン分野への進出で圧迫され、不動産業への融資を増やすようになりました。住専の拡大を支えたのは母体金融機関と生保、農林系統金融機関(農協とその上部金融機関)などからの長期借り入れです。長銀が野村證券との折半出資で設立した第一住宅金融も例外ではありませんでした。 大幅な地価下落に伴い住専各社は巨額の損失を出し、最終的に大蔵省主導で破綻処理されましたが、この過程で関連ノンバンクの損失処理は母体行が責任をもって処理することが原則のようになりました。農林系統金融機関が「貸し倒れ損はあくまで母体行の責任で、母体行の信用で貸したのだから我々が一部でも負担することはあり得ない」と主張し、これが大勢になったのです。 こうして関連ノンバンクの損失処理は、長銀そのものの問題となりました。本体の不良債権だけなら他行と比べ過重な負担だったとは思いませんが、長銀の場合、関連ノンバンクの負担が他行より重かったのです』、EIEは社長の豪遊ぶりなどが話題になったが、確かにこれだけであれば、長銀は苦もなく乗り切れたろう。関連ノンバンクの借入調達では、親銀行には大口融資規制の制限があるため、他行から借入ざるを得ない。他行はまた自らの関連ノンバンクの借入調達でさらの別の銀行に頼るという形で、関連ノンバンク向け貸出は、株式の相互持合に似た膨大なネットワークが形成されていた。そこには、当初から母体行責任論が暗黙の了解となっていた。住専問題でこれが顕在化した形になった。日債銀(日本債券信用銀行)の関連ノンバンク処理では、日債銀に母体行責任を果たす体力がないとの理由で、当局は貸手責任を強引に押し付けた。
・『不良債権処理とは どのような仕事だったか バブル景気で地価が高騰を続ける中、大蔵省は1990年3月に不動産融資総量規制を実施しました。内容は不動産業に対する貸し出しの伸び率を総貸し出しの伸び率以下に抑え、同時にノンバンク向けの貸し出しも定期的に報告を求める比較的穏やかなものでした。 しかし「平成の鬼平」と世の喝采を浴びた三重野康総裁率いる日銀は、その前年から相次いで利上げし、90年8月に公定歩合は6%に達し、地価の本格的な下落を招きました。さらに地価税の創設など政府の各省、各局はそれぞれに地価対策を打ち出し、総合調整機能を欠いた個々の政策の集積は、各省庁の想定を超える激震を地価にもたらしました。 地価下落により年々膨らむ一途の不良債権は、長銀をはじめ銀行の経営を圧迫していきました。そんな状況のなか、私は92年に取締役事業推進部長に就任しました。事業推進部長というと前向きに聞こえますが、内容は不良債権を専門に担当する部です。取締役に昇格してうれしくなかったかといえば嘘になりますが、それ以上に大変な時期に大変な仕事に就いたというプレッシャーがありました。 長銀がメインバンクとして推進した不動産開発プロジェクトでは、工事の途中で開発会社の資金が尽きてしまうものがありました。途中で放り出されると銀行は貸し出しを取りっぱぐれる上に撤去費用もかかり、大変な損失です。そこで7~8割できていた物件については受け皿会社をつくって簿価で引き取り、ゼネコンの力を借りたりしながら工事を継続し、完工させて売却していくのが重要な仕事でした。 EIEにはプロジェクトの途中で止まってしまった海外の案件がたくさんありました。たとえばニューヨークの五番街に建設中のホテル。こんな物件を立ち枯れさせてしまったら、日本という国自体が変な目で見られてしまいます。こうした案件も含め、世界中にあったホテルを全部1ヵ所にまとめて仕上げることになり、グループ会社の案件も一部引き取りました。 これらの行為がのちに「不良債権の隠ぺい」とか「不良債権処理の先送り」との疑念疑惑を招きましたが、隠ぺいなどではありません。ずっと抱え込んで隠すのではなく、あくまで不良債権処理の一環で完工させたら転売するものでしたから。不動産価格が値下がりしていたため貸出金額の元本までは回収できませんでしたが、それでも野ざらしで鉄骨のまま売却するよりはずっとよかったのです』、不動産融資総量規制では、何故か農林系の住専だけが対象外になったため、貸出が急増し、住専処理コストを膨らませる結果となった。大蔵省、農林省の罪は深い。内外の立ち枯れ案件を受け皿会社に引き取らせて、完成させた上売却するというのは、市場価値があるものであれば、当然で、非難される言われはないだろう。
次に、上記の続きを、11月21日付け「長銀「最後の頭取」が今だから話せる、破綻カウントダウンの日々」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/186139
・『1998年秋、日本長期信用銀行(以下、長銀)は経営破綻し国有化された。破綻時の頭取だった鈴木恒男氏は当時の記者会見で、その原因を「急激な環境の変化」と語った。長銀は長期資金の貸し付けを主に行う長期信用銀行としての役割が行き詰まり、新たな貸付先を拡大する中で、不動産バブル崩壊へと巻き込まれていった。さらに金融行政の変化、金融危機の発生という外部的な要因も、長銀を破綻へと導く大きな要因になっていた。 こうした急激な環境変化が起こる中で、長銀「最後の頭取」は、破綻を前にどのような状況に追い込まれ、対応していたのか。20年がたった今だからこそ話せる、長銀破綻までのカウントダウンの日々を鈴木恒男氏に聞いた』、最後がどうだったのかは、特に興味深い。
・『金融行政は「護送船団方式」から「自己責任原則」へと移行 さまざまな経済対策で1996年には景気回復の動きが広がり、金融機関の不良債権問題は解決へ進むかに見えました。しかし当時の橋本龍太郎首相が主導する財政緊縮政策が打ち出され、政府が97年4月からの消費税2%引き上げを閣議決定すると、景気は冷水を浴びせかけられたように委縮し始めました。 97年に入ると、それまで経験のない信用収縮が生じつつありました。地価をはじめとする資産価格の低下が実体経済の足を引っ張るデフレスパイラルにより銀行は追加の不良債権償却・引当に迫られ、自己資本比率規制をクリアしようと一段と激しく貸出金の回収に走りました。これで流通業界やゼネコン業界などで多くの企業が資金繰りに窮し、事態は不動産バブルの崩壊から、非製造業を主とする過剰債務企業を市場が追い詰める新段階へ移行しました。 一方、95年12月に「今後の金融検査・監督等のあり方と具体的改善策の取りまとめにあたって」という大蔵大臣談話が発表されました。「金融行政の転換について」という副題がつけられたこの談話で、金融機関の自己責任の徹底と市場規律が十分に発揮される透明性の高いシステムを構築することが宣言されました。 金融行政の根本を、それまでの大蔵省が行政指導する護送船団方式から自己責任原則に変えることは、邦銀の格付けにも大きく影響しました。さらに96年11月、政府は唐突に「金融ビッグバン」を打ち出しました。ただ、総論だけで具体論が見えず、金融業界の人間もメディアもそれが何を意味するのかよくわからない状態でした』、消費増税だけでなく、社会保険料引上げなども含め、国民負担は9兆円も増加したのが景気を一気に冷え込ませ、経済政策の致命的なミスである。しかも、金融機関は不良債権問題で頭を痛めているなかで、「金融ビッグバン」を打ち出したことも重大なミスだ。
・『このような経営環境の激変の中で、97年5月頃から長銀はスイスバンクコーポレーション(SBC)との業務提携に活路を見いだそうとしました。株式を持ち合い、合弁で証券会社や投資顧問会社を作る。自己資本を増強し、海外に後れを取っていたといわれる新金融技術の習得などが見込め、日本の銀行としてはかなり先を行くような提携をしたつもりでした。 しかし、後でこの提携が裏目に出ることになります。 長銀株の下落でSBCとの提携が破綻 1997年11月、ついに日本で金融危機が発生しました。三洋証券が会社更生法を申請して倒産した翌日、同社が無担保コール市場から取り入れた10億円がデフォルト(支払い不能)になったのです。 無担保コール市場は当局から認可を受けた金融機関が相互信頼に基づき、資金の貸し借りを行う場です。つまり護送船団方式を前提にした仲間内の資金融通システムで、そこで起こった戦後初のデフォルトによって、金融機関同士が疑心暗鬼に陥り「融通した資金が返ってこないかもしれない」と金融システム不安が一気に加速しました。株式、為替、債券はトリプル安となり、都銀の一角であった北海道拓殖銀行が経営破綻し、続いて山一証券の自主廃業が決定しました。 この危機に際して金融機関の資本増強のために公的資金の注入が検討され、翌年3月に長銀を含む21行に公的資金投入が行われましたが、金融システムの安定には不十分な規模で終わりました。その遠因には世間における銀行のイメージの悪さがありました。 この時期、長銀には別の難問が持ち上がっていました。ビッグバンの先兵になろうと業務提携したSBCから「ディストレスワラント条項」を付け加えることを要求されたのです。これは長銀の株価が3日間にわたって50円を下回るか、20日以上にわたって100円を切った場合は、合弁で設立する証券会社などの長銀保有株をSBCに譲渡するというものです。 突然この条項の承認が提案された常務会において反対したのは1人だけで、私を含めたその他の出席メンバーはただやり取りを聞いているだけでした。自分の部門の仕事はきちんとやるけれど、他の部門には口出ししないという官僚的な縦割り組織の弊害です。そんな縦割りの思考に私自身、どっぷり浸かっていました。 その後、後述の株価下落によりディストレスワラント条項の発効は現実のものとなりますが、長銀が力を入れてきた分野を手放すことになって、マーケットの評価を大きく落としてしまいました』、「ディストレスワラント条項」追加を審議する「常務会において反対したのは1人だけ」というのには驚かされた。投資銀行を目指すとはしたものの、その中身が全く理解してなかったようだ。
・『SBCとの合弁証券会社から大量の長銀株売り 株主総会中に「株価が50円を切った」のメモ 1998年6月に入ると思いがけない事態が生じ、長銀の経営は急速に悪化しました。5日、月刊『現代』7月号の広告に「長銀破綻」の見出しが躍ったのです。記事は新味のある内容ではありませんでしたが市場は敏感に反応し、株価は前日18円安の181円で引けました。 しかも6月9日、SBCとの合弁会社である長銀ウォーバーグ証券のロンドンオフィスは長銀株の大量の売り注文を受け、それをそのまま東京の証券取引所につなぎました。普通、日本の金融機関であれば親密な会社の信用を落とす行為なので、他の証券会社に持ち込むよう顧客を誘導します。しかし欧米のディーラーは自分の実績と報酬に直結しますから、そんなことはお構いなしに売るのです。このようなビジネス慣行の違いには思い至りませんでした。 長銀ウォーバーグ証券による長銀株の大量の売りは、「SBCは長銀を見限った」と市場に受け取られました。海外も含めて相当な投資家が空売りのチャンスだと考えたのでしょう。そうでなければ説明のつかない株価の下落が起こり、6月22日には前営業日の112円から62円へ一挙に50円も急落し、その後、長銀の株価は二度と100円台を回復しませんでした。 ちょうどこのときは、新たに設置される金融監督庁に、大蔵省から金融の企画機能を切り離して一緒にするかどうかで同省と政治家の間で綱引きが行われていた時期でした。監督機関が引き継ぎで空白の時を狙い、ヘッジファンド等が長銀を空売りのターゲットにしたのでしょう。 マーケットの巨大な力は平時には見えませんが、こうしたときに大変な猛威を発揮する。それは非常に怖いもので、株主総会の最中に「長銀株が50円まで値下がりしている」とのメモが入ったときは衝撃的でした。我々はマーケットの底知れない力に対する思慮を欠いていたというか、まさかそこまでのものだとは思っていなかったのです』、子会社の長銀ウォーバーグ証券の仕打ちにはさぞかし腹が立っただろうが、これが冷徹な投資銀行ビジネスだ。月刊『現代』7月号へのリークも「空売り」を狙った動きだったのだろう。
・『あらかじめクビが決められた頭取就任 信用低下で資金繰り困難に 根拠に乏しいメディアの報道やうわさ話が飛び交い、株式市場で長銀株がもみくちゃにされ窮地に追い込まれる中、長銀は他行との合併を模索し、住友信託銀行との合併に最後の望みを託すことになりました。 合併するためには政府から公的資金を8000億円から9000億円注入してもらい、不良債権処理を行って身ぎれいにする必要がありました。大蔵省と相談しながら作成した公的資金を入れるための再建計画では、前提条件の1つに代表取締役の辞任がありました。経営責任の明確化のためです。 一方、長銀は1998年4月に執行役員制を導入し、それまで28人いた取締役を6人に減らしていました。すると会長を除き代表権を持っていない取締役は末席にいる私を含めて2人だけ。もう1人は国際畑で役所との折衝経験があまりなく、消去法的に私が頭取に就任せざるを得なくなりました』、公的資金を入れる話があったとは初耳だ。
・『頭取といっても住友信託と合併できた暁には当然クビになる立場で、いわばワンポイントリリーフです。私自身、ずっと不良債権処理に関わってきた立場で、決してよい人選とは思えませんでしたが、誰かが引き受けなければ前には進めず長銀の幕引きもできない。腹をくくってやるしかありません。8月21日に頭取代行に就任し、翌9月29日に正式に頭取になりました。 我々が再建計画を提出し公的資金を申請したその頃、政治も混乱していました。7月の参院選で自民党が惨敗し、責任を取って辞任した橋本首相の後を受けて小渕内閣が成立。8月25日から金融再生関連法案の審議がスタートしていました。いわゆる金融国会です。焦点は長銀が破綻しているかどうかであり、破綻しているかどうかの基準は債務超過であるかどうかでした。 債務超過で破綻していれば金融安定化法による公的資金投入は健全行を対象としているため、公的資金は使えなくなり、破綻処理に移行せざるを得なくなります。しかし不良債権の認定の仕方によって、債務超過であるかどうかは大きく変わり得ます。つまり、債務超過であるかどうかについても、そう単純に決まる話ではないのです。 政府・与党は破綻状態ではない長銀に公的資金を投入する方針でしたが、野党は強く反対し破綻金融機関に対する法的な処理を行う制度を設けるべきだと主張しました。 合併後の銀行の業績が浮上すれば優先株などで投入された公的資金が返済され、国民負担にはなりません。しかし当時はより少ないコストで金融危機を収束させるという視点はほとんどありませんでした。 金融国会は9月中旬まで議論が右へ行ったり左へ行ったり膠着しました。そして長銀の信用がかかった国会審議で1ヵ月ほど衆目を集めるところとなった結果、その間に多くの風説やフェイクニュースが流布し、長銀の信用は日を追って低下し資金繰りが困難になりました。株価もどんどん下落し、住友信託では共倒れを懸念して合併に対し慎重な意見が強まりました。 結局、本格的な金融危機を防ぎ金融システムを安定化するプルーデンス政策が用意されておらず、審議が膠着している間に長銀の信用が最終的に毀損される結果となったのです。結局、金融国会では野党案の丸のみが了承されて長銀の国有化による破綻処理が動かないものとなり、経営破綻が確定。我々の合併への努力は水泡と帰しました』、銀行に破綻の噂が出たら直ちに手を打たなければならないのに、数か月放置されている間に、優良企業は逃げ出し、残ったのは不振企業ばかりとなり、企業価値は大きく棄損された。
・『長銀は1952年に施行された「長期信用銀行法」に基づく銀行で、その法律が当時の池田勇人蔵相の指揮下に成立したことから自民党の宏池会と親しい関係にありました。一方、監督官庁である大蔵省は自らが与党自民党への根回しや説明を行うとして、個別の銀行が個々の政治家に依存することを極度に嫌っていたこともあって、長銀が直接宏池会に依存することはありませんでした。というよりは、大蔵省ルートを妨害しないように、直接的な動きを避けていました。 自民党全体が宮沢喜一大臣をいただく大蔵省の原案に沿って動いてくれると思っていたのですが、自民党の「派閥政治」が曲がり角に来ており、折しも野党の若手議員と自民党の一部議員が同調して政府案に反発するという事態にさしかかっていました。「政策新人類」といわれた議員たちです。 長銀は、最終段階で宮沢大臣や当時の池田政調会長など宏池会の力を頼んだのですが、すでに政界は様子が変わっていました。頼みの大蔵省自身がイメージダウンする中、動き続ける政治の世界に一金融機関が効果的に働きかけることがいかに難しいか、肌身で感じました』、「政策新人類」は、旧民主党の枝野幸男、自民党の塩崎恭久、石原伸晃らが、金融実務を無視して原理主義的考えを振りかざしたが、マスコミは大いにもて囃した。彼らが暴れたおかげで、長銀の救済が間に合わなくなったのは、誠に不幸であった。
・『「我々が世界恐慌を引き起こすのでは…」 綱渡りの資金繰りに奔走 長銀の経営破綻が現実のものとなっても、まだまだやるべき仕事がありました。資金繰りです。国有化されるまでには時間があり、それが10月下旬であることは見当がつきました。その間、長銀が国有化されるといっても、一般のお客さまは金融債を解約し現金化しなければ不安で仕方がありません。 一方、銀行同士が取引を行うインターバンク市場では、長銀に無担保で融資してくれていた金融機関は簡単に貸してくれなくなります。金融債の解約が相次ぎ、他方でお金を貸してくれなくなれば資金ショートが起こります。これは大変危険な事態で、「あの銀行が払えないとなればこっちの銀行も危ない」と危機が伝播してしまいます。その危険が実際に起こったのが昭和金融恐慌でした。 しかもデリバティブやスワップといった金融派生商品ではかなり大きな規模の契約を国際的にしていますから、長銀がデフォルトになると国際的な騒ぎになる可能性がありました。折しもロシアで金融危機が表面化しており、金融不安は世界に広がっていました。当時の日銀理事でのちに国有化長銀の頭取やセブン銀行初代社長などを歴任する安斎隆氏にも時折呼び出され、「絶対に穴をあけるなよ」と。安斎さんは万が一の場合には、日銀特融を行わざるを得ないと考えていたようですが……。 資金不足は「10日後に8000億円から1兆円になる」といった巨額な水準でした。しかし、我々が資金ショートすると世界恐慌を引き起こすかもしれない。そんな恐怖感を持ちながら、私も含め全役職員が必死の思いで資金繰りに駆けずり回りました。 幸いにも長銀はデフォルトを起こさず98年11月4日、国有化長銀の役員が着任し、私は解任されました。頭取代行に就任してから2ヵ月半の期間でした』、アメリカの金融危機でリーマンは破綻させながら、保険会社のAIGを公的資金で救済したのは、CDSというデリバティブの最大の市場参加者だったからだ。マーケット主導型の破綻劇は、進行が速いだけに要注意だ。
・『「異論を出す力」が失われていた 長銀の経営破綻が現在の行政や金融機関にもたらした影響や教訓はたくさんあると思います。その1つは遅きに失した感もありますがプルーデンス政策、つまり、金融機関の破綻を防いだり、金融システムの安全性を維持したり、あるいは金融危機が発生した際に迅速に対応できる体制が国民的な理解を得てできたことでしょう。 アメリカではリーマンショックの際、非常に素早く対応しました。それができたのは日本も反面教師になっていると思いますが、やはりプルーデンス政策が用意されていたからです。これがあれば金融危機が生じても素早く公的資金を注入したり緊急融資を出したりして、金融機関の資金繰り危機に対応できます』、アメリカではリーマンショックが起きた9月の翌月になって、4000憶ドル(32兆円)規模の不良資産買取プログラム(TARP)が出来たので、やはり後手だった。
・『もう1つは大きな制度変更をいかに行うか、という問題です。1990年代前半まで日本の金融機関は縦割りの専門金融機関制度と行政指導に縛られていました。それが一時期は日本経済に貢献していたのですが、90年代半ばにいきなり銀行は市場原理のもとに、自己責任で経営せよ、行政は事後監視だけを行うと急激な方向転換が行われました。 この方向転換は米国のまねをしたというか、そうさせられた面が大きいのですが、長年の金融システムや慣行を変えるに際しては、自国の状況に合わせて時間をかけて行わなければ、さまざまな混乱が発生し、危機的な状況を招きかねないというのも長銀破綻の教訓だと思います。 また、危機的な状況があったとしても、当然ながら企業経営者は企業の生き残りのためにあらゆる可能性を想定して議論を尽くさなければいけないわけですが、前にも述べたように長銀は縦割り組織の弊害で、私を含め他のセクションの問題にもきちんと意見を言うべきとの自覚が乏しく、そうした風土に浸かってしまっていました。 こまごましたところにとらわれず全体を観察し「異論を出す力」を企業の中に蓄えないと、企業の弾力性が失われてしまいます。しかし異論を言う人を異端者として排除する傾向があったのは否めません。これは本当に大きな反省点で、経営者は自戒して日頃からそうした風土づくりを心掛ける必要があると思います』、正論ではあるが、同調圧力が殊の外強い日本型組織でそうした風土づくりといっても、ないものねだりのような気もする。
・『重層的な金融危機の要因を総括し、 今後に活かす取り組みを 銀行経営の側面でいえば、長銀はグローバルマーケットの一流プレーヤーになることを目標にしていた時期があり、そのために背伸びしたことも確かです。しかし日本の物差しは通用しませんでした。長銀は試行錯誤の末に反面教師としての事例を示してしまいました。 一例を挙げれば、長銀は海外の営業体制を拡充し、アメリカなどでは日本企業だけでなく現地のローカル企業にも融資先を広げましたが、現地通貨での低コストの資金調達力が伴っていないため、薄利多売の難しい仕事でした。 また、海外の大手金融機関との提携にしても、ディストレスワラント条項のようなものが普通に取り交わされているのが世界の金融界ですが、そうした危機対応まで考えて業務提携をした日本の金融機関は少なかったでしょう。長銀の事例が他の金融機関に警鐘を鳴らしたことは確かです。 現在の銀行は低金利とカネ余りで利ザヤが取れない中、どうやってもうけていくのか本当に大変だと思います。自助努力でなんとかしなさいと言われても、違う海へ漁に出て失敗し、リスクを負うことになりかねません。今回問題を起こしたスルガ銀行はその象徴のようです。 長銀が経営破綻したのは、最終的に経営陣、マネジメントの責任です。それを前提にして言うのですが、我々は長信銀制度からの転換ができなかった。ここまで述べたように破綻に至るまでには複合的、重層的な要因がありますが、究極的には長信銀が歴史的使命を終えて消滅したということなのだと思います。長銀の破綻に続き日債銀も破綻し、やはり厳しい状況にあった興銀も他の金融機関とのあまり実態のない提携で、将来の展望が開けているかのように形づくりをせざるを得ませんでした。98、99年は長期信用銀行という制度が事実上消滅した年として金融史に記録されるのでしょう。 あれから20年が経過して、経営破綻の瞬間だけにフォーカスするのではなく、かつて日本経済の中に長信銀が存在し、どのような役回りを担っていたかも含めて長銀を語ってもよいのではないか。最近はそう考えるようになりました。 アメリカではリーマンショック後、下院議会で総括作業を行いましたが、日本では金融危機対応についてそうした総括的な取り組みが行われていません。長銀国有化後に内部調査委員会が設けられ、経営陣の責任追及に絞った調査は行われましたが、複合的な要因を究明する動きは出てこなかった。 さかのぼればアメリカでは1929年のウォール街大暴落の後、1932年にペコラ委員会を上院に設置して調査を行い、グラス・スティーガル法の制定などにつながりました。アメリカはこうした取り組みをしっかりやっている。日本がそれをしないのは、非常にもったいないことなのではないでしょうか』、説得力溢れた主張で、全面的に賛成したい。
タグ:バブル崩壊 日本長期信用銀行 ダイヤモンド・オンライン 、「SBCは長銀を見限った」と市場に受け取られました 欧米のディーラーは自分の実績と報酬に直結しますから、そんなことはお構いなしに売るのです 経営破綻を招いたのはEIEではない 他行より重かった関連ノンバンク処理 この条項の承認が提案された常務会において反対したのは1人だけ 不動産融資総量規制 政治も混乱 東京を国際金融センターに マーケットの巨大な力は平時には見えませんが、こうしたときに大変な猛威を発揮する 長銀がデフォルトになると国際的な騒ぎになる可能性 長銀ウォーバーグ証券 マッキンゼーのコンサルティング 金融行政は「護送船団方式」から「自己責任原則」へと移行 貸し出しの売り込みと審査を同じ総本部内で完結 地価の本格的な下落 三重野康総裁率いる日銀 我々が世界恐慌を引き起こすのでは…」 綱渡りの資金繰りに奔走 98年11月4日、国有化長銀の役員が着任し、私は解任されました 資金不足は「10日後に8000億円から1兆円になる」といった巨額な水準 日本の金融機関であれば親密な会社の信用を落とす行為なので、他の証券会社に持ち込むよう顧客を誘導 スイスバンクコーポレーション(SBC)との業務提携 「長銀「最後の頭取」が語る、20年前の破綻に至った本当の理由 長銀元頭取・鈴木恒男氏インタビュー(上)」 国会審議で1ヵ月ほど衆目を集めるところとなった結果、その間に多くの風説やフェイクニュースが流布し、長銀の信用は日を追って低下し資金繰りが困難になりました あらかじめクビが決められた頭取就任 信用低下で資金繰り困難に 金融国会 住友銀行 宮内健 不良債権処理とは どのような仕事だったか 長銀株の下落でSBCとの提携が破綻 大蔵省と相談しながら作成した公的資金を入れるための再建計画 政府・与党は破綻状態ではない長銀に公的資金を投入する方針でしたが、野党は強く反対し破綻金融機関に対する法的な処理を行う制度を設けるべきだと主張 平成の鬼平 審議が膠着している間に長銀の信用が最終的に毀損される結果となったのです 政策新人類 重層的な金融危機の要因を総括し、 今後に活かす取り組みを 「営業重視・審査軽視」へと変化していったバブル期 なぜ不動産バブル崩壊を見抜けなかったのか SBCから「ディストレスワラント条項」を付け加えることを要求された SBCとの合弁証券会社から大量の長銀株売り 株主総会中に「株価が50円を切った」のメモ (長銀「最後の頭取」が語る 20年前の破綻に至った本当の理由、今だから話せる 破綻カウントダウンの日々) デリバティブやスワップといった金融派生商品ではかなり大きな規模の契約を国際的にしていますから 異論を出す力」が失われていた 監督機関が引き継ぎで空白の時を狙い、ヘッジファンド等が長銀を空売りのターゲットにしたのでしょう 「長銀「最後の頭取」が今だから話せる、破綻カウントダウンの日々」 EIEインターナショナル 長銀問題 業績にプレッシャーをかけた「長信銀制度」の行き詰まり 長銀「最後の頭取」である鈴木恒男氏
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