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日本の構造問題(その8)(子供の熱中症死を続出させる「根性大国ニッポン」の狂気、「アイデンティティ」って何ですか、日本の労働生産性がG7で最下位にとどまる理由) [社会]

日本の構造問題については、6月8日に取上げた。今日は、(その8)(子供の熱中症死を続出させる「根性大国ニッポン」の狂気、「アイデンティティ」って何ですか、日本の労働生産性がG7で最下位にとどまる理由)である。

先ずは、ノンフィクションライターの窪田順生氏が7月26日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「子供の熱中症死を続出させる「根性大国ニッポン」の狂気」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/175658
・『災害級猛暑の中で、熱中症にかかる子どもが続出している。こんな事態になってなお、なぜ日本人は根性論から抜け出せないのか。旧日本軍に蔓延していた「狂った考え」が、今なお日本社会全体を覆っているからではないだろうか』、なかなか興味深そうだ。
・『「亡き女子マネへ…」美談にされた酷い事件  「猛暑に耐えてこそ」という根性論は旧日本軍にも蔓延していました。 気が狂いそうになるような連日の暑さのなかで、本当に気が狂ってしまったのではないかと心配するような、「子どもへの虐待」が続発している。 7月17日、愛知県豊田市の小学校ではすさまじい炎天下で高温注意情報が出ているなか、エアコンのない校舎で過ごしていた1年生112人に、さらに1キロ離れた公園まで歩かせて、昆虫採集や花摘みをさせるという暴挙に出た。 行きの道中から疲れを訴えていた男の子は、唇が真っ青になって意識を失い、そのまま帰らぬ人となった。熱中症のなかでも、重い症状にあたる「熱射病」だった。 甲子園の地方予選でも、炎天下で母校の応援に駆り出される子どもたちがバタバタと倒れている。あまりに犠牲者が出て感覚が麻痺してしまったのか、いつもは何かと「子どもを守れ」と世間にご高説を垂れる「正義の大新聞」までおかしなことを言い始めた。 新潟の私立加茂暁星高校が地方予選準決勝で敗れたことを、「練習直後に倒れ…亡き女子マネジャーへ、捧げる2本塁打」(朝日新聞デジタル2018年7月22日)と報じたのだ。 タイトルだけ聞くと、漫画「タッチ」を思わせるような甲子園感動秘話を連想するかもしれないが、正確には、この女子マネージャーは、「練習後に約3.5キロ離れた学校に戻るため、選手とともにランニングをさせられて倒れた」のである。 しかも、遺族によると、倒れた時に心室細動を発症していたが、野球部の監督は「呼吸は弱いけれどある」(朝日新聞デジタル2017年7月25日)とAEDを使わず、救急車が来るのを待っていたという。数日後、女子マネージャーは低酸素脳症で亡くなった』、朝日新聞としては、甲子園主催社として美談にまとめたのだろうが、倒れた後の野球部監督の対応は、刑事責任さえ問われておかしくないほどの酷い対応だ。
・『戦前の「軍国美談」にソックリ 異様な「甲子園美談」報道  どう考えても「いやあ、甲子園って本当にいいものですね」で済まされるような話ではないにもかかわらず、甲子園の主催社として高野連に「忖度」でもしたのか、8月5日の開幕へ向けて全国の「甲子園大好きおじさん」を煽るコンテンツにすり替えられてしまっているのだ。 太平洋戦争時、赤紙が来た夫が戦闘に集中できるようにと、自ら命を絶った妻を「日本女性の鏡」だと褒めちぎった戦前マスコミの「軍国美談」を彷彿とさせる、異常な「甲子園美談」報道といえる。 今年の暑さは異常だ。そんな言葉が日本全国にあふれているが、異常だ異常だと騒ぐわりに、大人よりも暑さに弱い子どもたちに対して、なんら特別なケアをしようとはしない。むしろ、「教育」や「鍛錬」の名のもと、積極的に殺人的な暑さのなかへ放り込む。 当然、犠牲者が出るが、大人たちは責任追及もせず、反省も促さない。普段は「子どもを守れ」とエラそうなことを言っている人たちも、「避けられなかった悲劇」みたいに妙に歯切れが悪くなるのだ。社会全体で無言の圧力をかけて、「亡くなった子どもはたまたま暑さに弱かった」という方向へ持っていく。 なんてことを言うと、「亡くなった子どもたちは気の毒だが、だからといって、あまり極端に過保護にするのもいかがなものか」みたいな反論をする人たちが必ず出てくる。 「昔の部活はもっと過酷だった。炎天下で、1人や2人ぶっ倒れるこどなど珍しくもなかった」「昔はクーラーなんてなかったから、もっと暑かった。そういうなかで遊んだり、スポーツをしたりすることで、強い子どもになる」――。 こういう「認識の決定的なズレ」を耳にするたび、デジャブというか、これと似たやりとりが延々と無限ループしているような話があったなよな、と考えていたのだが、最近ようやくそれが何かを思い出した』、「普段は「子どもを守れ」とエラそうなことを言っている人たちも、「避けられなかった悲劇」みたいに妙に歯切れが悪くなるのだ」、確かにこの発想の断絶を奇異に思わない日本人が圧倒的多数のようだ。
・『米兵に多くの死者を出した「バターン死の行進」  太平洋戦争中の「バターン死の行進」である。 フィリピン進行作戦をおこなっていた旧日本軍が、投降した米軍兵士たちをバターンからオードネルというところまでおよそ100キロ、歩かせた行軍のことである。 その過程や捕虜収容所で、米軍兵士に多くの死亡者が出たことから、旧日本軍の「捕虜虐待」として戦後に裁かれ、責任者だった本間雅晴中将は処刑されている。 おいおい、現代日本の熱中症死と、70年以上前の戦争中の出来事を一緒にするなよと思うかもしれないが、実は両者の正当性を巡る論争というのは、驚くほど似ている。というか、丸かぶりだ。 この「バターン死の行進」は、アメリカ人からすれば今も許せぬ非道な「虐待」だが、日本の愛国心溢れる方たちからすれば、「米軍捕虜のわがまま」「戦争に勝った後に日本を不当に貶めるための言いがかり」ということになっている。 要は「虐待」ではないというのである。 その根拠となっているのは、旧日本軍が歩かせた「100キロ」というのが、1日換算では20キロで、そんなに過酷ではないということだ。米軍捕虜は武装解除しているので手ぶらである。屈強な米兵が十分な休憩を与えられながら歩いたというのなら、実態としては「ウォーキング」程度のものであるにもかかわらず、大袈裟に被害者ぶっているというのだ。事実、「同じルートを同じ時期に歩いてみたけど、まったく余裕だった」みたいなことをおっしゃる方もたくさんいる。 両者の主張の是非はともかく、筆者が強く感じるのは、昨今の熱中症議論とほぼ同じ無限ループに入っている点だ』、「バターン死の行進」は「旧日本軍が歩かせた「100キロ」というのが、1日換算では20キロで、そんなに過酷ではない」というのは、初めて知ったが、それでも死者が出たのは、日本軍の責任だろう。
・『虐待の意図はなくても実際に人が死んでいるのが現実  たとえば、冒頭で紹介した豊田市のケースでは、熱射病で命を奪われた子ども側の視点に立てば、「あんな暑いなかで1キロも歩かせるなんて虐待だ」となる。しかし、これを「虐待ではない」と主張する人は、「同じことをして平気な子どももいるんだから、その子がたまたま身体が弱かっただけ」となる。 「バターン死の行進」についていまだに歴史的評価が分かれているのと同じで、子どもの熱中症死をめぐる認識のズレも、その溝を埋めることは難しく、どうしても堂々巡りになってしまうのだ。 ただ、白黒をつけることはできないものの、両者の構造が同じなのであれば、なぜこういう悲劇が起きてしまうのかという根本的な原因を探ることはできる。 実際にフィリピン・ルソン島で砲兵隊本部の少尉として敗戦・捕虜生活を送った経験のある評論家の山本七平氏は、「一下級将校の見た帝国陸軍」(文春文庫)のなかで、「バターン死の行進」についてこのように述べている。《収容所で「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は、複雑であった。というのは、本間中将としては、別に、捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである》(P.98) このあたりの認識の悲劇的なまでのすれ違いは、子どもの熱中症死にもピッタリ当てはまる。豊田市の1年生を受け持った担任も、女子マネージャーにランニングをさせた監督も、子どもたちを故意的に残虐に扱おうなどと微塵も思っていなかったはずだ。むしろ、彼らの基準では温情をもって待遇していたはずだ。 たとえば、報道によると、亡くなった女子マネージャーは監督から「マイペースで走って戻るように」(朝日新聞デジタル2017年7月25日)と言われたという。この監督なりの気遣いをみせているのだ。 しかし、結果として子どもは死んだ。温情をもって待遇した米軍捕虜がバタバタ倒れたように』、意図がどうであれ、結果には責任を取るべきだろう。
・『日本の大人が信じ込んでいる“クレイジーな基準”  「そんなのは防ぎようがないだろ」と思う方も多いかもしれないが、筆者の考えはちょっと違う。そんな言葉が出てしまうこと自体、「防ぐつもりがない」のではないか。つまり、そもそも「温情」のベースとなる「基準」が、狂っているとしか思えないのだ。 それを示唆するのは、かつて自身も「米兵への虐待」の当事者として、この問題に向き合った山本七平氏の以下のような記述である。 日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そしてこれは単に行軍だけではなくほかの面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。》(同書P.98) 一方、太平洋戦争時、既にアメリカは車社会だった。普段から長時間歩く習慣のないアメリカ人たち、しかもジャングルで戦闘を繰り広げて体力が落ちている彼らに、「犠牲者折り込み済み」のハードな行軍を基準として少しばかり優しくしても、「虐待」としか受け取られないというわけだ。 このすれ違いは、熱中症死を引き起こす大人たちにも見られる。彼らがこれまで受けてきた教育は、「暑い日は外に出ない」なんて生やさしいものではない。「炎天下のなかで体を鍛える」ためには、「1割や2割が倒れるのも想定内」というものだ。 こういうクレイジなー基準を持つ大人がいくら温情をかけても、子ども側からすれば「虐待」以外の何物でもないのだ。 保護者からの受けも良く、子どもたちからも人望のある「いい先生」が、熱中症や「しごき」で次々と子どもの命を奪うのは、彼らの人間性に問題があるからではなく、彼らが正しいと信じ込んでいる「日本的基準」が狂っているからなのである』、最後の部分は的確な指摘である。
・『甲子園だけじゃない!日本企業にも息づく狂気  この狂気はどこからくるのか。そのヒントは、やはり「死の行進」を生み出した日本軍にある。実は旧日本軍の演習でも、今の高校野球の練習を彷彿とさせるかのように、暑さでバタバタと人が倒れていた。 85年前の夏には、富士山の裾野演習をおこなっていたところ「赤坂第一聯隊 殆ど日射病で倒る 死亡七名 重軽患者百数十名」(読売新聞1933年7月3日)なんてことがちょこちょこ起きている。 なぜこういうことになるのか。そこには、戦後アメリカ軍が日本の敗因を分析したレポートの中にもある「精神主義の誇張」がある。「重傷も癒す精神力 戦場の将兵は科学を超越する」(読売新聞1940年12月28日)なんて記事からもわかるように、「精神力」を鍛えれば、どんなに体をいじめても問題なし、という考えにとらわれていたのである。 これが教育現場に持ち込まれ、今だに綿々と息づいているのが、部活動であり、甲子園である。「動じぬ精神力・打ち勝つ野球… 打倒私立へ、都立の意地」(朝日新聞デジタル×ABCテレビ 2017年7月8日)なんて見出しからもわかるように、スポーツ科学が発達した今もなお、高校球児たちは、旧日本軍的な「精神力があれば何でも乗り切れる」という「根性指導」を強いられている。 そして、もうお気づきだろうが、この「1人や2人ぶっ倒れるのは想定内」という根性論は、教育を終えた子どもたちが身を投じる企業社会にも当てはまる。強い組織を作るためには、「1人や2人ぶっ倒れるのは想定内」という厳しい鍛錬のなかで、強い組織人をつくることが求められる。 そこから脱落して、心を病んだり、自殺をしたりする人は「たまたま弱かった」で片付けられる。つまり、部活で子どもの熱中症死が何度も繰り返されるのと、ブラック企業で若手社員の自殺が後を絶たない問題は、根っこがまったく同じであり、それは「バターン死の行進」にも通じる、「犠牲者を前提とした組織運営」という狂った基準があるのだ。 今年も甲子園が開幕する。猛暑のなかで肩を酷使しながら速球を投げるピッチャーや、意識朦朧としながら白球を追いかける野手を、同じく暑さでフラフラな子どもたちが喉を枯らして応援をする。子どもたちが苦しみ悶えて、がっくりと膝をつく姿を見て大人たちは、「なんて美しい姿だ」と感動をする。 「異常な暑さ」という言葉をテレビや新聞で耳にタコができるほどよく聞くが、もしかしたら異常なのは暑さではなく、我々の社会の方ではないのか』、「「精神主義の誇張」」や「旧日本軍的な「精神力があれば何でも乗り切れる」という「根性指導」」が、いまだに社会の隅々にまで生きているというのは、不気味だ。どうすれば脱却できるのだろうか。

次に、ソフトブレーン創業者の宋文州氏が10月12日付けのメールマガジンに掲載した「「アイデンティティ」って何ですか」を紹介しよう。
・『「子供は何歳から留学すべきか」、「子供は何歳から英語を勉強すべきか」を議論する際、多くの日本人は「日本人としてのアイデンティティがまだ形成されていないのに・・・」と言います。しかし、私の記憶では中国人からこのようなアイデンティティ論を聞いたことがありません。 「日本人のアイデンティティは何ですか」と聞くとたぶん殆どの方がはっきり答えられないと思います。たぶんなんとなく自分と同様に思考し、同様に行動する人の特徴を意味するでしょう。しかし、英語のアイデンティティは単なる「識別すること」に過ぎないのです。 外国に住む中国人は華僑と言って世界中に7千万人もいますが、皆さんから見れば彼らはしっかりしたアイデンティティを持っていると思うかもしれませんが、華僑のアイデンティティは多様である上、常に激しく変化しているのです。 本来の華僑は中国国籍を持ちながら中国に生活拠点がない人たちでした』、確かに日本人は、意味不明のアイデンティティ論にこだわるようだ。
・『しかし、ここ数十年の中国では、華僑も中国に生活拠点を持つようになりました。 また、私のような、中国に生活のベースを持ちながらよく海外でも生活する人も華僑と呼ばれることがあります。華僑と国内の中国人との区別が無くなるにつれてそのアイデンティティも無くなるのです。 華僑に対して外国の国籍を取得した中国系の人のことを「華人」というのですが、これも元々は海外に住むことが前提でした。しかし、ここ数十年、旅行、留学、資産運用、政治リスクなどの理由で外国のパスポートを取得する中国人はたくさんいます。彼らは外国に家を持っても仕事や生活の中心は中国にあります。 このような人たちは華人なのか華僑なのか、本来の華僑と華人のどちらにも属さないような気がします。 私は自分のアイデンティティと子供のアイデンティティを考えたこともありません。 親の影響、環境の影響と自分が歩んできた独自の経験が自分独自のアイデンティティを形成してくれるはずです。国や文化からの影響は受けますが、国に属し国によって分類されるものではありません』、彼のアイデンティティ論は、説得力に富んでおり、言われてみればその通りだと思う。
・『先週からロサンゼルスに来ています。台湾の知人と昼食する際、彼は華人としてロサンゼルスの中国系の企業家達を纏めて中国本土と交流を行う団体のキーパーソンです。 同じ中国語を話し、同じ文化背景を持つ彼に他の中国人との区別を意識しませんが、大陸の体制や政治について話せば、その考え方の違いは歴然とします。 夜の街を散策すると路上で歌ったりダンスしたりする方々の殆どはヒスパニック系の方々ですが、その歌の歌詞は英語ではありません。 ロサンゼルスの人気レストランは殆どメキシコ系料理です。農場、建設現場、ホテルの清掃係など、メキシコの不法移民がいないと経済は回らないでしょう。 メキシコからやってきた移民たちは仕事上英語を使うのですが、同じメキシコ人とスペイン語を話しメキシコ料理を食べ故郷の歌を歌う機会はたくさんあります。 米国の影響をいくら受けても在米メキシコ人のアイデンティティはなくならないでしょう』、なるほど。   
・『私が海外で出会った日本人は皆メキシコ人以上に日本人の集まりによく参加し、日本語を話し、日本料理を楽しむのです。日本のアイデンティティを無くすどころか、むしろ日本にいる日本人よりずっと日本のアイデンティティを持っているような気がします。 アイデンティティとは家族と友人から受けた影響で自然に形成するものです。 日本人の家庭に生まれた以上、その文化に自然に染まるのです。 外国文化の影響は日本文化の影響を消すものではなく、むしろその人独自のアイデンティティを作り出してくれるのです。 印象深い人とは環境に同化する人ではなく、様々な環境の影響を受けながらも独自の生き方をする人です。その過程に形成された個性はその人を識別する最もよいアイデンティティになるのです』、海外にいる日本人は、「日本にいる日本人よりずっと日本のアイデンティティを持っている・・・アイデンティティとは家族と友人から受けた影響で自然に形成するものです」というのは、その通りだ。「印象深い人とは環境に同化する人ではなく、様々な環境の影響を受けながらも独自の生き方をする人です」は、いかにも宋氏らしい鋭い指摘だ。国に囚われたアイデンティティ論からは脱却すべきだろう。

第三に、経済的視点から、第一生命経済研究所経済調査部首席エコノミストの熊野英生氏が9月19日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「日本の労働生産性がG7で最下位にとどまる理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/179992
・『政府は「働き方改革」や「生産性革命」を掲げて生産性向上に躍起だが、日本の生産性が低いといわれるのはなぜなのか。国際的に比較することで、現状と課題を考えてみた。 日本の生産性は70年代からG7で最下位  日本生産性本部が、OECD加盟国35ヵ国で比較した時間当たりの労働生産性は、2016年のデータで20位である。 日本の生産性を100とすると、米国は151、ドイツが148、フランスが145、イタリアが118、イギリスが115、カナダが110となっている。これら7ヵ国を先進7ヵ国(G7)としてまとめると、日本はG7の中での生産性の順位は、データが遡及可能な1970年以降でずっと7番目(最下位)なのである。 私たちは、日々、生産性を上げるために働き方を工夫して、時間当たりの能率を高めようとしている。しかし、マクロの集計値から割り出した生産性は、国際的に見ると、思った以上に低い。こうした「低生産性の構造」は克服できるのだろうか』、G7で最下位を続けているとは、恥ずかしい限りだ。
・『上で述べたOECD加盟国の1時間当たりの労働生産性を示したのが、下の図表1だ。 日本の低生産性の犯人と考えられているのは、高齢化が進んで、消費が弱くなっていることだ。 確かに、単身世帯を含んだ全世帯のうち40%が無職世帯として増えてくようになると、消費者の傾向が節約志向になってしまう。年金生活者は、収入が固定的であり、かつ、所得水準も低い。厚生年金が月16.5万円で、年収ベースで約120万円の世帯が標準だとすると、そう高い買い物などはできないから、おのずと小売・サービス産業は付加価値の獲得が難しいと思われる』、主因が「高齢化が進んで、消費が弱くなっていること」だとすれば、改善する見込みは考え難そうだ。
・『サービス業の生産性の低さはどの国も共通する  そこで、日本の生産性を業種別に分解して、さらに主要国で同様の業種別生産性を計算してみた。(図表2)。ここでは、為替変動をなるべく排除して考えるために、OECDの購買力平価(PPP)で表示する加工を施した。 まず、気がつくのは、卸小売、個人サービスの生産性水準は、日本だけでなく、米国やドイツでも同様に低いことだ。 個人サービスの内訳をさらに詳しく見ても、相対的に宿泊・飲食サービスは低い。この点は各国で共通している。 日本の場合は、ヘルスケア・社会支援といった分野の生産性は4.10万ドルと特に低い。これは医療・介護・福祉が労働集約的な産業である上、財政状況が厳しいため、サービス単価が極端に抑え込まれているせいだろう。 日米欧を比較する限り、日本だけがサービスの生産性が低く、それが高齢化によって引き起こされているという要因だけではなさそうだ。どの国も、サービスの生産性は相対的に低くて、日本は高齢化や財政難によってそのことに拍車がかかっていると見た方がよい』、人手不足でロボット導入など機械化が進めば、生産性向上の余地もあるだろうが、安倍政権がやろうとしている安易な外国人導入策では、生産性は低いままだろう。
・『製造業は非価格競争力が弱点 牽引する産業がない日本  産業別の生産性を見たとき、日本の製造業は確かに相対的に高い生産性を誇っている。米国には及ばないが、ドイツとイギリスとは並んでいる。 ただ日本の場合、産業の中で、製造業が突出して生産性が高いというわけではない。米国では、全体平均に比べて製造業の生産性は1.47倍と高い。日本は1.39倍であり、米国ほどではない。 ドイツは、就業者1人当たりの製造業の生産性は米国ほど高くはないが、総労働時間は日本の約8割であり、時間当たり生産性は日本の25%ほど高い。また、時間当たり賃金は7割も高い。 日本の製造業は、生産性はそこそこ高いのだが、ドイツや北欧諸国に比べて非価格競争があるとはいえない。このことは、労働費用の安い新興国との価格競争に巻き込まれやすいことを暗示している。 また産業別に見た生産性の高さのランキングでは、日本は図表2の7ヵ国の中で、製造業が3位であることを除くと、電気・ガス・水道の4位で、他の業種は軒並み下位である。 このことは、日本で突出した生産性を誇っている産業がないことを示す。つまり、日本の生産性を上位に引っ張っていく産業の不在が、低生産性の特徴といえるのだ』、リーディング産業の欠如とは寂しい限りだ。
・『就業構造にも原因 高スキル職の割合が低い  筆者は、日本の生産性が高くない理由が、スキル=人的資本の蓄積によって製品や商品の価格やサービス単価を引き上げていこうという意識が弱いからではないかと考える。 高付加価値化の追求が必ずしも徹底されていないと言い換えてもよい。 このことは、就業者を職業別に分類してみても、専門職・技師の割合が少ないことでもわかる。 代わりに、事務補助員、サービス・販売員、単純作業の従業者は多目である。 これだけで確定的なことは言えないとしても、スキルが求められる職業の割合が低く、サービス業従業者などの汎用性のある職業の割合が高いことは、日本でスキルを重視した職業が少ないことをうかがわせる。 また、就業者の労働形態では日本は短時間労働者の割合が高く、かつ短時間労働者はフルタイム労働者の賃金の56.6%の水準しか受け取っていない(図表3)。このフルタイムとパートタイムとの賃金格差は欧州諸国と比べても大きい』、「日本の生産性が高くない理由が、スキル=人的資本の蓄積によって製品や商品の価格やサービス単価を引き上げていこうという意識が弱いからではないかと考える」というのには同感だ。もっと高付加価値化を目指さないと、生き残れないだろう。
・『高齢化のトレンドは逆風 低賃金の短時間労働者増える  今後、日本の高齢化が進んでいくと、企業内の人員構成は50・60歳代のウエイトが高まるだろう。そのとき、現在よりも、技能・専門職が増えていき、企業の高付加価値化は進むのだろうか。 2015年の総務省「国勢調査」では、55~59歳の雇用者の非正規比率は26.0%だが、60~64歳になると36.3%、65~69歳では39.0%と上昇していく。このデータは、企業内人口構成がシニア化するほど非正規する傾向を示している。 日本は短時間労働者の割合が高く、しかも低賃金であることは述べたが、おそらく、これはサービス化と高齢化に伴う変化ともいえよう。そうであるなら、今後、低賃金の短時間労働者が増える傾向がますます強まると考えた方がよい。 このことは日本が今後、生産性を高めていく場合の大きな課題になる。 また、産業別にみて、生産性上昇を牽引するセクターが見当たらないことも述べた。製造業は、米国やドイツに比べると、まだ劣位にある。 今後、非価格競争力を高めてさらに突出した生産性を目指すことが課題だろう。成長戦略として、貿易連携などを軸に、日本の強いところを伸ばしていく構想も求められる』、既に製造拠点の海外移転(垂直分業)は十分進んでいる筈だが、「貿易連携」とは水平分業を進めよという意味なのだろうか。もう少し説明して欲しいところだ。
・いずれにせよ、生産性向上は日本にとって必須の課題だ。中身のないアベノミクスなどと浮ついたことばかり言ってないで、地道な改善策を進めてほしいものだ。
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