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終末期(その3)(「どうせ死ぬなら臓器提供してから」世界で進む安楽死議論の怖さ、透析中止事件で問われる「死の在り方」と「報道姿勢」、お一人さまで「家で逝く」幸せな最期は存在する 孤立死・孤独死は必ずしも悲劇ではない) [社会]

終末期については、3月6日に取上げた。今日は、(その3)(「どうせ死ぬなら臓器提供してから」世界で進む安楽死議論の怖さ、透析中止事件で問われる「死の在り方」と「報道姿勢」、お一人さまで「家で逝く」幸せな最期は存在する 孤立死・孤独死は必ずしも悲劇ではない)である。なお、タイトルから「医療」を削除した。

先ずは、4月2日付けダイヤモンド・オンライン「「どうせ死ぬなら臓器提供してから」世界で進む安楽死議論の怖さ」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/198502
・『誰もが迎える最期の瞬間、どのように死をまっとうするのかを考える上で直面するのが、「安楽死」の問題だ。日本では法的に認められていないが、実は合法化しなくとも、すでに事実上行なわれている。東京大学大学院人文社会系研究科死生学・応用倫理センター教授で、近著に『自己決定権という罠』(言視舎)がある小松美彦氏に詳しい話を聞いた』、何気なく「安楽死」を使っていたが、実際はどういうことなのだろう。
・『“自己決定権”に基づいて推進される安楽死  「安楽死」は、大きく分けて2つに分類できる。 ひとつ目は、耐え難い苦痛に襲われている患者自らの意思で、医師に致死薬を投与してもらい、死を選択する「積極的安楽死」。ふたつ目は、助かる見込みのない末期患者の意思により、延命治療を中止する「消極的安楽死」だ。後者は、日本においては「尊厳死」と呼ばれることもある。 現在、積極的安楽死を国家として合法化しているのは、2001年に世界で初めて合法化したオランダをはじめ、ベルギー、ルクセンブルク、コロンビア、カナダの5ヵ国である。 日本も超高齢社会に突入し、これから多死社会を迎えるということで、以前よりも自らの死について考える人が多くなり、安楽死の問題もよく議論されるようになった。 特に月刊誌『文藝春秋』2016年12月号のインタビューで、脚本家の橋田壽賀子氏が「認知症にかかったり、身体が動かなくなったら、安楽死で死にたい」と発言し、大きな反響を呼んだことも記憶に新しい。 その橋田氏が2017年8月に『安楽死で死なせて下さい』(文春新書)を出版し、メディアでも多く報道されたことで安楽死という言葉が日本でも広まった』、「積極的安楽死を国家として合法化しているのは」まだ「5ヵ国」とは意外に少ない感じだ。
・『「死に方を自分で決める権利」はいまだに世界で議論されている  帯には「人に迷惑をかける前に死に方とその時期くらい自分で選びたい」とある。多くの高齢者が自らの死について考えさせられる文言だろう。この言葉は一見、説得力があるように感じる。しかし、小松氏はこう語る。 「『他人に迷惑をかけなければ、生き方、死に方を自分で決めるのは当然の権利』とする、いわゆる“自己決定権”と呼ばれる考え方が、言葉としてのインパクトがあり、過剰に説得力を持つようになってしまいました。しかし、この概念はせいぜい日本国憲法13条の幸福追求権と重ねて認められるという程度で、法学的にはさほど深い議論がされていないのが実状なのです」(小松氏、以下同) 小松氏によれば、もともと「自己決定権」は、1960年代前半頃の米国で盛んになった「患者の権利」が発展したものだ。当時は、医師が患者に対して、何の病気にかかっているのか、どのような治療を行なっているのかなど、詳しい説明をしていなかった。そのため、患者には自分の具体的な疾病を知る権利や、どの治療法にするかを選択する権利がある、という「患者の権利」が主張され、それが「自己決定権」一般に拡大したのである。しかし、安楽死というような“死の選択”までを患者に与えてよいのかどうかは、現在も世界中で議論されている。 それでは、安楽死とは具体的にどのようなものなのか。安楽死先進国・オランダの現状を見てみよう。 まずオランダでは、年々積極的安楽死を遂げる人の数が増加の一途をたどり、「死の権利協会世界連合(WFRtDS)」によると、2017年の1年間で全死亡者15万人超の約4.4%にあたる、6585人にも上っている』、「全死亡者15万人超の約4.4%」とはかなり多そうだ。
・『安楽死先進国・オランダでは認知症患者も対象者に  しかし、本来積極的安楽死の対象となる条件の幅がどんどん広がったことで、問題となるケースも出てきている。 「当初、積極的安楽死を認めるケースとして、自己決定権が前提で、まず患者に耐え難い肉体的苦痛があり、その苦しみから解放するには死をもってほかにないことが必須条件でした。しかし、それが精神的苦痛でも認められ、2006年には、意思を確認するのが困難な認知症患者も対象となったのです」 2016年には、74歳の認知症患者女性の意に反して、医師が家族と協力して積極的安楽死を行ない、そのため、この医師に対して、安楽死法施行後初の起訴が2018年に決定された。 さらに2017年には、そもそも病気を患っていない75歳以上の人なら誰でも希望すれば積極的安楽死が認められ、翌2018年には知的・発達障害者にも対象が広がっているのだ。 また、小松氏は、これから「臓器提供安楽死」なるものも、行なわれる可能性があると推測する。 「元来、心臓のように摘出したら本人が亡くなってしまう、いわゆる“不可欠臓器”に関しては、『デッド・ドナー・ルール』といい、死んだ人からしか取ってはいけないという規定が世界的にあります。ただ、『どうせ死ぬのだったら、生きのいいうちに臓器を切り出し、それによって安楽死を執行したらどうか』といった意見がアメリカの生命倫理学者から盛んに出ており、その方向に向かっていく可能性も十分あり得ます」 自己決定権が無視されている事例や、当初の安楽死とは異なる状況が刻一刻と進行しているのだ』、『デッド・ドナー・ルール』も弾力化される可能性が出てきたとは、やや恐ろしい気がする。
・『消極的安楽死は日本でも実質すでに行われている  前述の通り、安楽死の先進国・オランダでは、すでに深刻な問題が生じている。 日本ではまだ積極的安楽死はもちろん、消極的安楽死も法的に認められていない。しかし小松氏は、終末期医療の名目ですでに行われていると、その実態をこう明かす。 「2017年、日本集中治療医学会が『DNAR(Do Not Attempt Resuscitation)指示のもとに基本を無視した安易な終末期医療が実践されている。あるいは救命の努力が放棄されているのではないか』と勧告しています。DNAR指示とは、患者本人またはその家族の意思決定により、心肺蘇生法を行なわないこと。つまり、心停止時のみに有効なのですが、それ以外の場合でも、救命医療が放棄されている、とりもなおさず消極的安楽死が行われていると、警告を発しているのです」 また、オランダと同様、日本でも終末期患者の定義が徐々に変化している。 「もともと終末期患者とは、主に末期がんの患者のことだったのですが、日本病院会倫理委員会の文書によれば、寝たきりで認知症の高齢者、高齢で経口摂取できない者、意思疎通の取れない胃ろう造設者、脳血管障害で意識の回復の望めない者などへと拡大し、この人たちが消極的安楽死の対象になっているのです」』、この程度の拡大であれば、私には違和感はない。
・『老人ホーム職員が本人に代わって消極的安楽死を決定!?  さらに、厚生労働省による2007年の「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」では、医師は患者の自己決定権と最善の治療方針をとることを基本としていた。 しかし、同省が2018年に発表した「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」では、巧妙な文言の改訂が見られると、小松氏は警鐘を鳴らす。 「最新のガイドラインでは、消極的安楽死に関する患者本人の自己決定権が、家族にも、さらには、たとえば所属している老人ホームの職員や、在宅医療を受けている人なら訪問介護士にも、代理決定として、事実上認められています。これでは、患者本人の自己決定権すら、ないがしろにされている上、もはや治療することさえ前提にないといえます」 国が実質的な消極的安楽死を推進するのは、長年続く日本経済の沈滞と、急速なスピードで進行している少子高齢化による、医療費の増大が背景にあると考えられる。 このような社会状況に加えて、病院にとっても経営が厳しく、利益が少ない終末期医療を極力カットしたいというのが医療界の首脳の一般傾向であろうと、小松氏は言う。 そうなると、医師が「この患者の命を何が何でも救う」という本来あるべき気構えを失い、「どうせ助からないなら治療する必要がない」という方向に日本も向かいつつあるということになる。 かつては、「老人は敬うもの」という価値観があった。しかしこの先は、増え続ける高齢者たちが疎まれるような時代を迎えるのかもしれない』、「この患者の命を何が何でも救う」ことで、チューブだらけになって、会話も出来ないまま生かされ続けるというのも、行き過ぎだ。「患者本人の自己決定権」はやはり大切にすべきで、「代理決定」は限定的にするべきだろう。

次に、福祉ジャーナリスト(元・日本経済新聞社編集委員)の浅川澄一氏が4月24日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「透析中止事件で問われる「死の在り方」と「報道姿勢」」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/200794
・『東京都福生市の公立福生病院での人工透析治療をめぐり、様々な疑問が浮上している。透析患者の死亡までの経過にとどまらず、延命治療や終末期医療、腎臓移植、尊厳死、QOL(生活の質)、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)など多くの検討課題が俎上に載ってきた』、マスコミはやたらセンセーショナルに取り上げたが、こうした冷静な視点は興味深い。
・『「治療の中止」を許さないマスコミの報道姿勢への疑問  まず第1の問題といえるのが、報道姿勢が問われているメディアについて、だ。 3月7日の毎日新聞朝刊の「スクープ」が始まりだった。「医師、『死』の選択肢提示」「透析中止 患者死亡」「指針逸脱 都、立ち入り」という見出しを掲げる。前日に東京都が福生病院に立ち入り検査していた。 その日の夕刊で、読売新聞が「透析中止提示 患者が死亡」、日本経済新聞が「透析中止提案」とする見出しで追いかけた。翌日の朝刊では、朝日新聞が「人工透析を中止 女性死亡」「医師が選択肢提示」、産経新聞が「透析中止を提示 患者死亡」、東京新聞は「医師が『選択肢』提示」「医師の提案『倫理上問題』」とする見出しで掲載し、全国紙が一斉に取り上げることになった。 注目は、各新聞の見出しがほとんど同じこと。患者が死亡した原因は、医師が患者に透析の中止を提示したことで、問題だ、と訴えている。東京新聞の「倫理上問題」はその趣旨が最も分かりやすい見出しだ。 果たして、医師は透析の中止、その結果としての死について患者に説明してはいけないのだろうか、という疑問が真っ先に浮かんだ。医師は診察後に、あらゆる治療法を患者に説明すべきだろう。手術や服薬の種類など想定できる可能性は複数ある。そのうちのどれを選択するかは、患者の判断であろう。 提案できる選択肢の中に、「とことん治療する」「延命処置を望む」の一方、「治療をしない」あるいは「治療を中止、中断」して自然に任せる、という道が含まれてはいけないのだろうか。 この時の各紙は、医師から透析中止の提示を受けた患者は、医師に「誘導」されて死に追い込まれた、と読者に受け取らせるような論調であった。 終末期のがん患者に病名を告知しなかった時代に戻れ、と言わんばかりの論調には違和感がある。治療の拒絶から始まる緩和ケアなどはもってのほかになってしまう。死に方のひとつ、尊厳死を望む国民が少なからずいる時代に、なんと時代錯誤な見出しだろうか。 3月8日の毎日新聞は「本人に判断迫るのは酷」「透析中止問題で患者団体」と、東京腎臓病協議会の事務局長の談話を写真付きで載せ、中止の提示を問題視する。本文では「医師のさじ加減で意思決定を迫るのは、道徳的にも問題ではないか」という声を伝えた。 同日の東京新聞も同じ事務局長の話を掲載。「医師が患者に生きるか死ぬかを選ばせること自体が明らかに間違っている」「医師は患者を治すのが仕事。最後まで助けてあげようとは思わなかったのか」という内容である。 当事者の患者の言葉で、紙面造りの根拠を提示しているかのようだ。 だが、患者に対して医師が話すべきことの中に、治療の限界を含めてはならないのだろうか、と疑問が湧く。毎日新聞は7日の紙面の解説記事で「医療の枠組みの中で『死の選択』が行われていたことは驚きだ。医療機関は治療する場所なのだ」と記す。 果たして、一方的な治療だけが医療の役割だろうか。これまでの医療は「死」に向かい合わず、「敗北」としかとらえてこなかった。だが今や本人のQOLを尊重し、本人の意思決定が最優先される時代になりつつある』、マスコミの一方的報道は、記者らの勉強不足を反映しているようだ。
・『人生の幕引きを本人と周りで考える「人生会議」の重要性  高齢社会の到来で、死や終末期をめぐる議論がこの10年ほどで大きく進展している。2007年に厚労省が打ち出した「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」は昨年3月、大幅に書き換えられて、そのタイトルも「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」となった。 医療だけでなく、ケアの現場スタッフも含めて、本人などとよく話し合うべきだとされ、ケアが加わった。このガイドラインには、海外で「普及しつつあるACPの概念を盛り込み」(ガイドラインの解説編)とある。ACPとは「これからの治療・ケアに関する話し合い(アドバンス・ケア・プランニング)」のことだ。11月30日にACPの愛称として「人生会議」が命名される。 誰もが迎える人生の幕引きに際して、医療だけに委ねるのではなく、本人を中心に生活を共にする人たちと一緒に考えましょう、というものだ。昨年の診療報酬改定で、終末期の態勢を取ることが要件として組み込まれたこともあり、今や各地で開かれる医療職の研修会などでは、テーマがほぼACP一色になるほど関心を呼んでいる。 そこで重要なのは、医療やケアの専門職から提案される様々な対応を本人がじっくり考えて、本人が選択すべきだが、本人の心は揺れ動くことを十分斟酌すべきとうたわれていること。本人の意思を尊重するためには、話し合いは早くから繰り返し行うことだという。その通りだろう。 今回の福生病院問題でも、このACPの在り方こそが問われるべきことだろう。医師が提示した透析中止は、透析の継続、あるいは継続方法と並ぶ「人生会議」の際の1つの選択肢である。それは当然の提案だ。むしろ、その選択肢を提示しないのであれば、それは専門職としての責任問題だろう。根幹は、患者本人の思いがどのように人生会議の場で伝わっていたのか、だ。 話し合いの中で、家族との意識の共有を目指す努力も欠かせない。だが今回、毎日新聞は患者の夫に取材し、3月7日の紙面で「治療を再開しなかった外科医に対する不信感は消えない」と本文で夫の心情を記す。夫の言葉では「医者は人の命を救う存在だ。『治療が嫌だ』と本人が言っても、本当にそうなのか何回も確認すべきだと思う」とある。家族と病院との意思疎通が十分ではなかったようだ。 今回の患者を含め同病院でこれまで死亡した24人の透析患者について、説明がきちんと記録されていなかったとして、立ち入り検査後の東京都は4月9日に同病院に改善指導した』、患者の夫も治療中止にはいったんは同意していた筈だ。「本当にそうなのか何回も確認すべき」といっても、そんな時間的余裕があったのかは不明だ。「説明がきちんと記録されていなかった」というのは同病院の手落ちだろう。
・『「患者が透析拒否」と病院が会見 メディアの報道内容に矛盾  第2の問題は3月28日に起きた。病院の担当医と院長が初めて共同記者会見に臨み「透析中止は患者の意思です。病院から透析中止の選択肢を示していない」と話し、それまでのメディアの報道を否定してしまったのである。 その深夜に時事通信と日本テレビが報じ、翌29日の朝刊で朝日新聞、東京新聞、産経新聞が伝えた。 では、なぜ患者は透析をやめることにしたのか。29日の朝日新聞によると、「外科医は首周辺に管を通す透析治療を提案したが、女性は『シャントがだめだったら透析をやめようと思っていた』と話し拒否した」という。あくまで患者本人から拒否の言葉が出たというのだ。続けて「外科医は透析をやめると2週間ぐらいで死に至ると説明、女性は『よくわかっている』と答えたという」とある。 さらに、患者とその夫を交えての話し合いの後、「透析からの離脱証明書に女性に署名してもらった」という経緯だと記してある。東京新聞、産経新聞もほぼ同様な記述だ。 共同会見だから同じ内容になるが、日本テレビでは以下のように伝えた。 「透析を継続するため、鎖骨付近からカテーテルを入れる新たな治療方法の提案を行ったものの、女性患者は『透析はやらない』などとして、同意が得られなかったと説明した。女性患者は、透析治療を中止する文書にも署名したという」 注目したいのは、会見の際の外科医の言葉だ。 「外科医は、『透析が可能な状況でこちらから中止を提示することはない』と説明。女性は中止の意志が固く『衝撃を受けた』と振り返った」 これは産経新聞の記事である。朝日新聞でも、外科医は「拒否したために透析ができなくなった特異なケース」と話しているとしている。 両紙から、患者の相当に強い意志がうかがえる。 読者は、これを読んで疑問に思わずにいられないだろう。3月7日、8日の時点では「病院が透析中止の選択肢を示した」と報じていたはず。違うではないか。どちらが事実なのか。 その内情を明かしたのは朝日新聞だけだった。同紙は「東京都は当初、外科医が透析をやめる選択肢を示した、と説明している」と言い訳を記した。つまり、東京都からの取材で、「透析中止を提示」と断定したことが分かる。当事者の医師の確認が取れていなかったのである。 一方、朝日新聞を除いたほかのメディアは、過去の記事との矛盾を説明しないままだ。その日の共同会見を病院から拒否された毎日新聞だが、翌日に「担当医『女性が手術拒否』」との見出しで報じた。患者が透析を断った経緯だけを記し、「病院は透析中止の選択肢を提示していない」という肝心な点には触れていない』、病院の言い分はもっともだ。初めの記事の際にはマスコミからの取材はなかったのだろうか。毎日新聞が「共同会見を病院から拒否された」というのは、取材もせずに勝手に記事んいした張本人と病院から睨まれたためなのだろうか。
・『患者が臨終に至るまでが「医師」と「夫」で食い違う  次に、第3の問題点は患者が亡くなった昨年8月16日の動きだ。 3月29日の朝日新聞は「未明に、女性は呼吸の苦しさや体の痛みを訴え、看護師に『こんなに苦しいなら透析した方がいい。撤回する』と発言したことが記録に残っている。しかし、16日昼前に女性の症状が落ち着き、外科医が呼吸の苦しさや体の痛みが軽減されればよいか、それとも透析の再開を望むかと尋ねると、『苦しさがとれればいい』と答えたという。外科医は女性の息子2人にも説明して理解を得たうえで鎮静剤を増やし、女性は同夕に亡くなった」と記す。 この記述は、3月7日の毎日新聞の記事とほとんど変わらない。同じ外科医への取材だからであろう。ところが、臨終の場面の内容は大きく違っている。 3月29日の東京新聞は、共同会見した外科医の話として「鎮静剤を増し、別の病気で入院していた夫と息子2人が見守る中、落ち着いた状態で同日午後5時11分に亡くなったとしている」と書く。これは上記の朝日新聞と同じだ。 一方、3月7日の毎日新聞では、患者の夫の話として「(昨年8月)16日、麻酔からさめると女性は既に冷たくなっていた」とあり、妻を見守る状態ではなかったと記す。事実は1つ、どちらかが間違えているのだろう』、毎日新聞は「患者の夫の話」を検証もせず、そのまま載せているとすれば問題だ。
・『人工透析だけではない対処法「腎移植」という選択肢も  ここまで、新聞を中心に経緯を追ったが、腎臓病、腎不全への医療の対応法にも課題がありそうだ。これが第4の課題である。 日本の透析患者は、日本透析学会によると2017年末で33万4505人。平均年齢は68歳。1990年には10万3296人だったから年々増えている。 血液にたまる老廃物や余分な水分を除去するために受ける血液透析は、1回に4~5時間ベッドにじっと横たわりながら受ける。週3回必要で、やめてしまうと苦しみ、数週間内に亡くなるという。このため一生受け続けなければならない。 福生病院の女性患者は別の医療機関で長く透析を続けてきた。昨年8月9日の来院時に透析の「離脱証明書」に署名したが、16日の未明に呼吸が苦しくなり体の痛みを訴えたという。 血液透析の費用は月約40万円と高額だが、高額療養費制度があるため、患者の負担は月1万円強といわれる。医療機関にとって人工透析患者は、長期にわたる安定した「収入源」ともなっている。1人年間約500万円の医療費は、国全体では約1兆6000万円に及ぶ。 人口透析には、患者自身の腹膜を使って行う腹膜透析もある。透析液を自分で入れ替えられるので自宅でできる。だが、長期間は難しく、実行者は1万人に達しない。 実はもう1つの対応法がある。透析ではなく、腎臓そのものを取り換えてしまう根本的な治療法である。腎移植だ。 移植された腎臓による拒否反応が問題視された時代があった。だが、現在は移植された腎臓がきちんと機能する確率は極めて高い。移植手術は医療保険の対象なので自己負担はあまりない。 人工透析よりはるかに優れた理想的な治療法だが、残念ながら2017年には年間1742件しか実施されておらず、極めて少ない。欧米では、移植と人工透析の比率は大して変わらない。腎移植を待っている間だけ人工透析を、という考え方も強い。 ところが日本では、腎臓の提供者が少ないため、腎移植という発想がはじめからほとんどない。腎移植の9割近くは家族などからの生体腎。死後の臓器を活用する献腎は極めて少ない。そもそも臓器を提供する文化が日本では定着していないからだ。 健康保険証や運転免許証、それにマイナンバーカードには「臓器提供の意思表示」の欄があり、提供したい臓器を選ぶことができる。心臓や肺などと並んで腎臓も表記されている。2010年の臓器移植法改正で表記が始まった。臓器移植への関心を高めるにはいい手法だろう。「遺体にメスを入れたくない」ではなく、世のため人のための心意気の広がりに期待したい』、「健康保険証や運転免許証、それにマイナンバーカードには「臓器提供の意思表示」の欄があり」とあるが、私の記憶にはない。もっと大々的にPRすべきだろう。
・『「治す」だけではなく 人々の生活を「支える」医療の重要性  そして最後、第5の課題は、医療の果たす役割である。 高齢者の自宅や施設での看取りが増えてきている。2013年8月に社会保障制度改革国民会議(座長清家敦・慶應義塾大学塾長)がまとめた報告書で、新しい医療概念が打ち出された。 「QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の維持・向上を目指す医療」「治し・支える医療」「人間の尊厳ある死を視野に入れたQOD(クオリティ・オブ・デス)を高める医療」とうたわれた。 医療は「治す」だけでなく、人々の日々の生活を「支える」ことが重要と訴え、誰もが迎える死にもQOLの概念を取り入れ、QODを高める医療を新たに提言した。QODが、政府関連の正式な文書に登場したのは初めて、画期的なことだった。 死は生活の延長線上にある。本人のQOL第一という発想から死を視野に入れた考え方である。森鴎外の孫で、埼玉県新座市で訪問診療を続けている小堀鴎一郎医師は、「日本は『生かす医療』はトップクラスであるが、『死なせる医療』は大きく立ち遅れている」(著書『死を生きた人々』から)と喝破している。「死なせる医療」とは名言だろう。 苦痛を免れない延命治療から、自然の摂理に委ねる自然死、尊厳死への転換が進んでいる。人口動態統計による死亡原因で、この数年「老衰死」の急増がその転換ぶりをよく示している。 「治療」だけが医療の役割という考え方は、過去のオールド・カルチャーになりつつある。福生病院の医師たちも、こうした社会の流れに合わせた対応を取ったと理解したい』、「QOD」とは初耳だが、「苦痛を免れない延命治療から、自然の摂理に委ねる自然死、尊厳死への転換が進んでいる」というのは好ましいことだ。

第三に、医師の中村 伸一氏が4月21日付け東洋経済オンラインに寄稿した「お一人さまで「家で逝く」幸せな最期は存在する 孤立死・孤独死は必ずしも悲劇ではない」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/277026
・『金ない、人ない、施設もない。けれども、「家で逝きたい、 看取りたい」という「村人」の希望に“伴走”して四半世紀。福井県にある高齢化率38%、人口2384人の旧名田庄村(現・おおい町)にたった一人の医師として赴任し、在宅医療、介護、看取りを支援してきた中村伸一氏は、大往生とは何かを考え続けてきた。 家族に見守られずに、たった1人で亡くなっても、幸せな最期は可能だと中村氏は言う。昨今、独居世帯が急増しているが、そんなお一人さまにも朗報だ。中村氏の経験した村の人びとの最期について語ってもらった』、過疎の村で「たった一人の医師として赴任し、在宅医療、介護、看取りを支援してきた」医師の話とは興味深い。
・『孤立死・孤独死は悲劇なのか?  「孤立死や孤独死だなんて、かわいそうに」「警察沙汰で、死体検案されるなんてまっぴら」。 それが一般的な価値観でしょう。でも、本当にそうなのか?私自身、価値観の転換を感じた出来事がありました。 2012年12月中旬の某日、とても寒い夜の22時30分。東京出張からやっと自宅に戻った直後、電話が鳴りました。 「中村先生ですか?警察ですが」「えっ!僕、何も悪いことやってないっすよ」とくに心当たりはなくとも、警察から電話があると身構えてしまいます。 「いえいえ、死亡確認をお願いしたいんです。対応してくださいますか?」「ふ?。わかりました?」 不慮の死を遂げた人の死亡を確認するのも、医師の大事な仕事の1つ。警察からお迎えの車が来て、午後23時ジャスト、現場に到着しました。仏さまは70代男性。以前、私が診ていたじいさまでした。 その4年前に母親が亡くなり、1年前には奥さんに先立たれ、子どもたちは遠方に暮らすため、じいさまは一人暮らしです。3年前、非常に珍しい難病を患い、私では対応できず、とある病院の専門医に紹介しました。以降、その病院に通い、最近は病状が安定して調子はよかったと聞いています。 電話に出ないことを案じた子どもが、親戚に頼んで家に入ってもらうと、すでに冷たくなっていたようです。直後に救急車を呼ぶも、到着した救急隊は完全な死体と判断し、病院に搬送することなく、警察に連絡。そういった経緯で、警察から私に要請が入ったのです。 警察とともに行った聴き取りとご遺体の確認から、死因を特定します。警察は事件性の有無を慎重に確認しましたが、この上なく治安のよい名田庄では、もちろん事件性なしという判断になりました。死因は、嘔吐物を喉に詰まらせた窒息であり、治療中の病気との関連もなさそうです』、唯一の医師だと、深夜の呼び出しにも応じなければならないとう、ご苦労なことだ。
・『祭りの夜、酒と団欒に笑い死す  前日に地区のお祭りがあり、楽しそうにかなりの量のお酒を飲み、その酔った勢いで、夜になって子どもたちに次々と電話して、たいそう機嫌よく笑って話したのが最後の会話だったとのこと。 それがわかった時点で、改めて家の中を見渡すと、高齢男性の一人暮らしとは思えないくらい、きれいに整理整頓されています。これは想像ですが、数年のうちに母親と奥さんを亡くしたので、たとえ自分にその予兆がなくとも、自らの死を意識し、常に家の中をきれいにしていたのかもしれません。 日付をまたいだ午前1時、やっと診療所に戻って”死体検案書”を作成します。家族が取りに来るのは翌朝なので、仕上げておかねばなりません。 雪に見舞われた寒い夜中、凍えながらの死体検案はとてもつらいものです。帰宅し、すっかり凍えきった体を熱めの風呂で温めた後、寝ようとしましたが、現場の印象を引きずってなかなか寝付けません。なんとか眠りに落ちたのは、午前2時30分ごろでしょうか。 ところが。午前6時前に電話が鳴りました。老衰でそろそろお迎えかと思われていた90代のばあさまの家族からです。四世代が暮らす大きな旧家に住むばあさまで、20年来、私が主治医でした。むろん、すぐに駆けつけます。 ちょうど私が死体検案をしていた深夜0時に「ありがとう」と言ったのが最後の言葉だったそうです。自力でとれるわずかな水分だけで過ごしたためか、死に顔は安らかで、むくみもなくきれいです。 臨終の場面でも、隣の部屋では3歳のひ孫がスヤスヤ眠っています。この子も目覚めたら、ひいおばあちゃんの死を知るのでしょう。日常の中に死と、まだ新しい生があり、この一家の命のリレーを垣間見ました』、2人の死は、それぞれの事情は違い、対照的とはいえ、いずれも幸せな死だ。
・『覚悟と準備と人間関係  午前7時、今度は”死亡診断書”を書き終え、ふと考えたことがあります。実はこのじいさまとばあさまを比べると、興味深い共通点があります。最期までその人らしく家で暮らし、そのまま家で逝ったこと。 短時間に経験した2人の看取りは、”孤立死での死体検案”と”一家団欒の中での死亡診断”であり、一見すると対照的。おそらく、後者は誰もが大往生と思うでしょう。では、前者は気の毒な孤独死か? いえ。前者も決して悪くない最期だと、私には思えます。大家族に見守られ、感謝して逝くのはすばらしい。ですが、好きな酒を飲んで上機嫌、電話で子どもたち全員と笑ってしゃべって、しっかり電話団欒を堪能し、一人逝くのも案外悪くないと感じています。 警察沙汰の死体検案を嫌がる方も少なくないでしょうが、そんな方に1つだけ質問しましょう。「もしも警察のお世話になるなら、生前と死後のどちらがいいですか?」。もちろん、生前に警察のお世話になるのは避けたいですから、死後のほうがいいに決まっていますよね。 ただ1つ、お一人さま逝きで、ぜひ避けてほしいのは、死後に長期間、発見されないこと。人口2400人ほどの名田庄なら、ご近所が「あのじいさまを最近見かけない」などと気にかけてくれるので、あまり大ごとになりません。 しかし、ご近所付き合いのない都市部などでは、かなりの惨状になる場合もあるようですね。発見した人や、後のことをする人たちが受けるショックを考え、高齢になったり、逝きが近づいたりしたら、訪問診療、訪問看護、ホームヘルプなどの医療介護サービスや行政による見守り(安否を確認するための定期訪問)などを、ぜひ受け入れてほしいと思います。 ともあれ、この2人の看取りを含め、私の経験では、人生の最期の段階で本当に大切なのは、家族形態や看取られる環境ではないような気がしています。 大家族でも家族関係が悪ければ、逝き際でも家族にソッポを向かれることでしょう。逆に、お一人さまでも準備と覚悟があれば、物理的には1人でも、満足な家逝きができている。 「本当に大切なものは目に見えない」とは『星の王子さま』に登場するキツネの名言ですね。家逝きも、本当に大切なのは目に見えている家族形態や自宅の環境ではなく、目に見えにくい”覚悟”と”準備”と”人間関係”ではないでしょうか。 「1番大切なもの」は一人ひとり違うかもしれませんが、青い鳥は案外、あなたの手に乗っかっているような気がします。 今年も春が訪れました。最後に桜の季節にふさわしいエピソードを紹介します。 降りしきる雪。限りなくグレーの日々が続く北陸の冬は、寒くて長い。雪国の人なら、「ああ、春が早く来ないかなぁ」と切なく願う気持ちをわかってくださることでしょう。 名田庄では、お迎えが近づくと「次の桜は見られるやろか?」とよく問われます。厳しい冬を耐え、長く待ちこがれた春を迎える喜び、その象徴が”桜”。だから、無理な延命は願わないけれど、「あと何回、桜が見られるやろ?」と、桜が寿命のスケールになっているのです。それほど末期の桜には価値があり、実際に花を見て、大満足で逝く人々を看取ってきました』、「家逝きも、本当に大切なのは目に見えている家族形態や自宅の環境ではなく、目に見えにくい”覚悟”と”準備”と”人間関係”ではないでしょうか」、「青い鳥は案外、あなたの手に乗っかっているような気がします」、などというのはその通りなのかも知れない。
・『花咲かじいさんじゃないけれど  私には、桜にまつわるほろ苦い思い出があります。昔、桜を見たがっていた患者さんに、見せ損ねてしまったのです。咲き始めた七分咲きの枝を、他界寸前の患者さんにかざしましたが……もう、見えなかったでしょう。 春を待つ気持ちがわかるだけに、残念無念。しかし、過ぎたことをグスグス後悔し続けるなら、負のエナジーを行動に変えようと決めました。すべては無理でも、可能なら見たい人には桜を見せるんだ! 以降、私の心のなかで「お花見プロジェクト」が発動。時折花咲ドロクターに変身し、ときには看護師やケアマネジャーなど仲間をも巻き込みながら、さまざまな形で”最期の桜”を見せるようになりました。 そんなある日、私が訪問診療で診ていた、ある患者さんの奥さんから、ケアマネジャーに手紙が寄せられていました。私がそのことを知ったのは、ずいぶん後のことでしたが、とてもステキな手紙なので、了解を取って、原文をほぼそのままご紹介しようと思います。 先生と看護師さんがいつものように診察に来られました。ベッドに横たわる主人の胸元30センチくらいの高さに、先生は握り拳を差し出し、「奥さん、手を貸してください」と私の手のひらを主人の胸の上に据えました。「エーッ!先生、いつから祈祷師に??」と思いきや、「松本さん、桜ですよ」とおっしゃって、握った拳の指の隙間からヒラヒラと桜の花びらが私の手のひらと主人の胸の上に舞い落ちました。なんとも粋な計らいに、私は目頭が熱くなり、無心で落ちた花びらを主人の枕の上にちりばめていました。 主人が臥してから3年目の身体は、3度目の桜を見せてあげられる状況にはほど遠く、諦めてはいたものの、桜の花が咲き始めてから、私の心中は穏やかではありませんでした。満開の桜から散り始めた花びらに「散らないで。お父さんは、まだ見ていないんだから」と呼びかけたいような複雑な思いで、日々、窓から見える桜を眺めておりました。そんな私の思いを、先生はいとも簡単に、さりげなく成し遂げてしまわれたのです。 機器の管につながれた高度な医療よりも、はるかに心のこもった巧妙な医術に、感激やら感動で胸がいっぱいになりました。今はもう、窓から見える葉桜を、よい思い出に変えてくださった先生と看護師さんに感謝しながら眺めています。 名田庄には見事な桜並木があります。でも、そこまで行けなくても、木に咲いている状態でなくても、花びらだけでも、喜んでもらうことはできますよね。 医療者である私が言うのもヘンかもしれませんが、逝く人に「何かしてあげたい」と思ったら、医療以外にさまざまなアプローチがあるように思えるのです』、「お花見プロジェクト」とはなかなか粋だ。過疎の村の医者には苦労も多いが、こんなに家族から感謝されたとは、医療者冥利に尽きるといえるだろう。深刻な話題の最後に、「ほっこりする」話があったので、救われた気がする。
タグ:東洋経済オンライン ダイヤモンド・オンライン 終末期 70代男性 毎日新聞朝刊 浅川澄一 (その3)(「どうせ死ぬなら臓器提供してから」世界で進む安楽死議論の怖さ、透析中止事件で問われる「死の在り方」と「報道姿勢」、お一人さまで「家で逝く」幸せな最期は存在する 孤立死・孤独死は必ずしも悲劇ではない) 「「どうせ死ぬなら臓器提供してから」世界で進む安楽死議論の怖さ」 「安楽死」 小松美彦 『自己決定権という罠』 “自己決定権”に基づいて推進される安楽死 「尊厳死」 「消極的安楽死」 「積極的安楽死」 積極的安楽死を国家として合法化しているのは、2001年に世界で初めて合法化したオランダをはじめ、ベルギー、ルクセンブルク、コロンビア、カナダの5ヵ国 「死に方を自分で決める権利」はいまだに世界で議論されている “自己決定権” 法学的にはさほど深い議論がされていない 960年代前半頃の米国で盛んになった「患者の権利」が発展 患者には自分の具体的な疾病を知る権利や、どの治療法にするかを選択する権利がある、という「患者の権利」が主張され、それが「自己決定権」一般に拡大 オランダでは、年々積極的安楽死を遂げる人の数が増加の一途 全死亡者15万人超の約4.4% 安楽死先進国・オランダでは認知症患者も対象者に まず患者に耐え難い肉体的苦痛があり、その苦しみから解放するには死をもってほかにないことが必須条件 それが精神的苦痛でも認められ、2006年には、意思を確認するのが困難な認知症患者も対象となった 75歳以上の人なら誰でも希望すれば積極的安楽死が認められ、翌2018年には知的・発達障害者にも対象が広がっている 「臓器提供安楽死」 『デッド・ドナー・ルール』 生きのいいうちに臓器を切り出し 消極的安楽死は日本でも実質すでに行われている DNAR指示 もともと終末期患者とは、主に末期がんの患者のこと 寝たきりで認知症の高齢者、高齢で経口摂取できない者、意思疎通の取れない胃ろう造設者、脳血管障害で意識の回復の望めない者などへと拡大し、この人たちが消極的安楽死の対象になっている 老人ホーム職員が本人に代わって消極的安楽死を決定!? 「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」 「透析中止事件で問われる「死の在り方」と「報道姿勢」」 福生病院 人工透析治療 「治療の中止」を許さないマスコミの報道姿勢への疑問 「医師、『死』の選択肢提示」「透析中止 患者死亡」「指針逸脱 都、立ち入り」 この時の各紙は、医師から透析中止の提示を受けた患者は、医師に「誘導」されて死に追い込まれた、と読者に受け取らせるような論調 終末期のがん患者に病名を告知しなかった時代に戻れ、と言わんばかりの論調には違和感がある 尊厳死を望む国民が少なからずいる時代に、なんと時代錯誤な見出しだろうか 人生の幕引きを本人と周りで考える「人生会議」の重要性 誰もが迎える人生の幕引きに際して、医療だけに委ねるのではなく、本人を中心に生活を共にする人たちと一緒に考えましょう、というもの 「患者が透析拒否」と病院が会見 メディアの報道内容に矛盾 患者が臨終に至るまでが「医師」と「夫」で食い違う 人工透析だけではない対処法「腎移植」という選択肢も 「治す」だけではなく 人々の生活を「支える」医療の重要性 中村 伸一 「お一人さまで「家で逝く」幸せな最期は存在する 孤立死・孤独死は必ずしも悲劇ではない」 福井県にある高齢化率38%、人口2384人の旧名田庄村(現・おおい町)にたった一人の医師として赴任し、在宅医療、介護、看取りを支援 孤立死・孤独死は悲劇なのか? 死因は、嘔吐物を喉に詰まらせた窒息 祭りの夜、酒と団欒に笑い死す 90代のばあさま 四世代が暮らす大きな旧家に住むばあさま 臨終の場面でも、隣の部屋では3歳のひ孫がスヤスヤ眠っています 覚悟と準備と人間関係 お一人さま逝きで、ぜひ避けてほしいのは、死後に長期間、発見されないこと 逝きが近づいたりしたら、訪問診療、訪問看護、ホームヘルプなどの医療介護サービスや行政による見守り(安否を確認するための定期訪問)などを、ぜひ受け入れてほしいと思います。 お一人さまでも準備と覚悟があれば、物理的には1人でも、満足な家逝きができている 家逝きも、本当に大切なのは目に見えている家族形態や自宅の環境ではなく、目に見えにくい”覚悟”と”準備”と”人間関係”ではないでしょうか 1番大切なもの」は一人ひとり違うかもしれませんが、青い鳥は案外、あなたの手に乗っかっているような気がします 花咲かじいさんじゃないけれど 「お花見プロジェクト」
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