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健康(その7)(人生最後の10年 寝たきりでなく快適に過ごすには 健康寿命と平均寿命、小田嶋 隆:「不毛な困惑」が招いた空白の6時間) [社会]

昨日に続いて、健康(その7)(人生最後の10年 寝たきりでなく快適に過ごすには 健康寿命と平均寿命、小田嶋 隆:「不毛な困惑」が招いた空白の6時間)を取上げよう。

先ずは、作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督で東京大学大学院情報学環准教授と多才な伊東 乾氏が3月26日付けJBPressに寄稿した「人生最後の10年、寝たきりでなく快適に過ごすには 健康寿命と平均寿命」を紹介しよう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55871
・『「ピンピンコロリ」を模索する新学術と芸術  かれこれ1年ほど前になりますが、厚生労働省から「健康寿命」の統計調査結果が発表されました。 取りまとめに時間がかかり最新データとして示された2016年の数値ですが 男性が 72.14歳 女性が 74.79歳 という結果。あれから1年の間、この連載ではあまり触れませんが、日本学術会議の当該小委員会で「健康寿命延伸」に関する仕事を担当させられています。 昨年末からは政府答申の責任執筆者として取りまとめを行い、年明けにはシンポジウム(http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf2/271-s-3-5.pdf)なども開催しました。 大学授業としての公務なので連載のテーマにはほとんどしてきませんでした。ただ、年度末に当たって、全国民が知悉しておくべき、この問題について簡単に解説してみたいと思います』、興味深そうだ。
・『健康寿命って何?  さて、改めて上の数字を見て見ましょう。男性が約72歳、女性が約75歳。「そんなに日本の寿命って短かったっけ? 寿命は80歳を超えてるんじゃないの?」という声が聞こえそうです。 その通りなんです。日本人の「平均寿命」は、2018年夏発表のデータを引用すれば 男性が 81.09歳 女性が 87.26歳 となります。 昨今「厚労省」の「統計データ」は、いろいろな批判にさらされていますが、こちらのデータは「旧労働省」ではなく「旧厚生省」側の数字。 かつ正味の余命というのは死亡診断書などで判断されるものですから、データ改竄などの心配はない数字と考えていいと思います。 広く言われる「超高齢化社会」の到来、そのものを示す数字です。 さて、この「余命」ですが、先ほどの「健康寿命」と数年の差があります。いったい何なのでしょう? 私たち学術会議の小委員会では、便利のためにザックリした値を用いて 男性:平均寿命 約81歳 - 健康寿命約72歳= 約9年 女性:平均寿命 約87歳 - 健康寿命約75歳= 約12年 のタイムラグを念頭に、議論を進めました。この値は何か? ラフに言えば「不健康余命」。あるいは「低QOL余命」と考えることができる困った数字です。ちなみにQOLはクオリティ・オブ・ライフ、つまり生命、生活の質を示す略語です。 例えば、重い病気に罹患する、あるいは、寝たきりの状態になってしまう、さらには、認知の症状が出て社会生活に困難がある・・・。 端的に言えば、国民が「加齢によって不健康な状態になる」平均的な年月が、上に記した9年とか12年という歳月になるわけです。 とりわけ若い皆さん、人生の最後の10年内外を、不健康に過ごしたいと思われますか? 学術会議の小委員会では、どうしたらこれを短くできるか、可能であれば0に近づけられるか、様々な観点から議論しています。 明らかなことは、こうした問題は100年の計をもって、出生前や幼児期から、ライフロングのライフ・サステナビリティの課題として国が責任をもって取り組むべきものであるという事実です。 60歳、70歳になってから、初めて「対策を」といっても、できることは限られているわけですから。 問題になっている労働統計との関わりで考えるなら、2050年頃の日本では75歳、あるいは85歳といった年齢の人が「現役」として働くことが期待されてもいます。 これは、定年を75歳、85歳などまで引き上げるということも意味しますが、同時にこうした年齢まで「現役」の納税者として社会で活躍してもらいたいということでもあります。 つまり、「年金の受給」などはそれ以降に先送りしてもらわないと、国家のそろばん勘定が合わなくなるという切実な状況をも示しています。 「健康寿命」という概念は、いまだ国際的に確立されたものではなく、その数値の算出にあたっても複数の考え方があり得ますから、「改竄だ!」などと批判を受ける可能性がないとは言えません。 ただ、身体ならびに脳の状態の「平均的」な健康状態を考えるなら 男性の健康寿命 72.14歳 女性の健康寿命 74.79歳 を超えた年齢層の国民を「納税者」としてカウントして得られる見込みがあるのか? まずもって不可能であろう、という切実な問題をも示していることになります。 2020年現在の日本で考えるなら、上記の数値も参考に 男女とも70歳前後が、仕事の安全な引継ぎも含めて、現実的な<引退>年齢になっていると言えそうです。 現状では「個体差」が著しく、80歳、90歳を過ぎても元気でかくしゃくとした人がたくさんおられます。 私が親しくご一緒してきた中にも、松平頼則、團藤重光、金子兜太といった方々は90代に入ってからも主要な業績を遺しておられます。 老化の大半は「生活習慣」に起因する・・・少なくとも統計的に考えるなら、そのような前提を置いて議論をすることが可能です。 つまり、人生最後の10年ほどをどう過ごすか、という分かれ道には、自分自身の選択も浅くない関わりがある。 こうした自然科学から導かれる結論を、浅くティーチインされた政治家がリピートして失言になったりする例もあるかと思います。しかし、各々の個人が自分の問題として真剣に向き合う必要があるのは間違いありません』、私も既に健康寿命を過ぎつつあるので、身につまされるテーマだ。「こうした問題は100年の計をもって、出生前や幼児期から、ライフロングのライフ・サステナビリティの課題として国が責任をもって取り組むべきものであるという事実です。 60歳、70歳になってから、初めて「対策を」といっても、できることは限られているわけですから」というのはその通りだ。「国家のそろばん勘定」に合わせるために、「2050年頃の日本では75歳、あるいは85歳といった年齢の人が「現役」として働くことが期待」というが、このために必要な雇用、年金、健保などの仕組みをどう変えてゆくのか、というのは難題中の難題だろう。
・『老化は不可避のプロセスか?  日本では、比較的多くの方が「人間は年を取れば老化するもの」と思い込んでいないでしょうか? テレビなど見ると、そのような先入観を感じさせるものを散見します。 結局、年をとったら人間はみな寝たきりになる、あるいは認知症状が出てわけが分からなくなってしまうのでしょうか? もしそんな「諦念」があるとしたら、大変危険なことで、誤りを直ちに正しておく必要があります。 もちろん、遺伝的な要因などで、避けがたい状況は存在します。 私の知る中にも、早くから優秀で官界から企業に転じた人が、50代で早発性の疾患を発症して亡くなられたケースがあります。 ちなみに私自身の父も46歳で亡くなっており、3代遡っても男は50を超えた人がなく、私が記録を更新している状態です。 ただし戦死とかシベリア抑留とか、およそ「寿命」と別の理由で早死にしているものですが・・・。 生活習慣や栄養状態、保健衛生のコントロール次第で、人間の余命ならびにそのQOLは、大いに変化するものです。 子供の頃、日曜の夜に楽しみにしていたテレビ番組に「すばらしい世界旅行」というドキュメンタリーがありました。 後年、この番組を作っておられた岡村淳さんと近しくご一緒するようになりました。小学生時代に見る「アマゾン」や「パプアニューギニア」などの現実は、ただただ目を見張るばかり、驚異の別世界でした。 そんな中で、少年時代の私が最もショックを受けた中に、パプアニューギニアの「裸族」のお婆さんがありました。 陽に焼けて、どこから見ても「お婆さん」ですが、年齢が38歳とテロップが出たんですね。 間違いかと思いましたが、連れ合いの男性も39歳などとテロップが出る。孫を抱っこしたりして、正味の「おじいさんおばあさん」をやっている。 私は両親が晩婚で、父兄参観などで当時すでに50を過ぎていた母が来ると、周りの友達のお母さんたちより明らかに年かさで、恥ずかしく思ったりもしたのです。 その大正生まれの私の母より10歳以上若いはずの南の島の女性が、完全に「老人」であることにショックを受けました。 30代前半で大学に着任した私が、研究室の「裏番組」として「健康寿命延伸」のサイエンスを20年来続けて来た一つの原点は、このドキュメンタリーにあります。 もう一つは、30代後半で直面した親の介護で、最期まで責任を取りつつ、一個人として多くのことを考えました。 老化は、そこそこの進行度合いであれば、かなりの範囲で、より高速な進行を食い止めることができる生理現象、と考える必要があります。 既に進んでしまった老化を「取り戻す」ことは容易ではありません。しかし、地道な生活習慣からでも、自分の「老い」をゆっくり進行させることは可能です。 命の終わる日まで、できるだけ自分らしい自分の生を全うする可能性は万人に開かれているのです。 その現実をもっと多くの普通の人が認識できること、手ごたえを持って「若返り続けていくこと」こそが、世界で最初に超高齢化社会を迎える日本の2020年代最大のミッションの一つである、と考えられるわけです』、「地道な生活習慣からでも、自分の「老い」をゆっくり進行させることは可能です。 命の終わる日まで、できるだけ自分らしい自分の生を全うする可能性は万人に開かれているのです」というのはその通りだろう。
・『人生50年から人生120年へ  「人生50年」かつてはよく耳にした言葉です。ちなみに私は54歳になりましたので、この基準では人生が一度終わっている勘定になります(苦笑)。まだおよそ、やり残した仕事だらけなのですが・・・ さて、織田信長が本能寺の変で不慮の死を遂げるにあたって、「人生50年」と幸若舞を舞って自刃したらしい・・・エピソードはよく知られますが、織田信長(1534-82)当人は、満年齢で48歳、今日の観点からは十分に早死にです。 その後を襲った木下藤吉郎こと豊臣秀吉(1537-98)のケースはもっと意外で、満年齢で61歳の人生、「還暦」をようやく超す程度の期間に、善くも悪しくもあれだけ多くの出来事があった。 さらに、その後260年の日本を決定づけた徳川家康(1543-1616)にしても満73年の生涯、中国の故事にいう「古稀」古くから稀なり、という70歳をようやく過ぎて、一生涯を終えています。 <鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス>の家康も「後期高齢者」になるまでは待てなかったんですね。最高権力者も時代の医療水準には勝つことができなかった。 ここで、自然科学の観点から戦国時代の日本人と、21世紀の日本人を比較してみたいのですが、DNAのレベルで違う生物だったと考えるのは、妥当なことでしょうか? 突然変異などの生起確率は正確な評価が難しいですが、寿命を考えるうえで、そんなに大きな変化があるわけがない。 これは歴史を逆に遡ってみると、例えば平清盛(1118-1181)のように「天寿」を全うしたと思われる人が満享年63歳、天智天皇(626-672)は満享年46歳、聖徳太子こと厩戸皇子(574-622)も満享年48歳。 でも同じ時代の推古女帝(554-628)の満享年74歳など、決して現代人と変わらない「寿命」を全うした人がいないわけではないと思われるわけです。 神話の登場人物には100歳を超える寿命が伝えられますが、史料として確認できる範囲で、日本に文書主義が定着した飛鳥―奈良期以降の資料に拠るとしても、生物学的に考えてここ1500年程、人類の余命がDNAレベルで延伸あるいは短縮したとは、まず考えられません。 もっぱら保健衛生の向上と、医療の進歩によって、私たちの「寿命」は大幅に長く実現するようになった。 そんな中で、最も変化させにくいと思われる一つが、個人ないし共同体レベルでの「生活習慣」ではないか、と思われるわけです。 古来、塩分の強い食生活を送ってきた地域、古来、ヨーグルトなどの摂取で長寿が一般的な地域・・・。 こういった人間に由来する要素を「アーティファクト」と呼びます。これを習慣的なものとして外側から眺めるのではなく、物質の相互作用に立脚する厳密な科学として検討する重要性を、学術会議では議論しています。 特に人類全体の「超高齢化社会初期」に登場していると考えるべき、日本の「介護まわり用品」には、是々非々があり、かえって寝たきりを助長するような、誤った介護なども存在するのではないか、といったシリアスな議論を積み重ねています。 こうした詳細については、続稿で具体的に触れたいと思います。もう1点、本稿では「ターミナルケアの倫理」に言及しておきたいと思います』、「学術会議」での議論が有用な多くの知見を生み出してもらいたいものだ。
・『超高齢化社会のQOLから考えるターミナルケア  この連載では公立福生病院で発生した「人工透析停止」による患者死亡の問題を考えており、別原稿を準備したいと考えていますが、そこでの議論の背景の一つとして、高齢以下社会のターミナルケアとQOLの議論に触れて、このイントロの結びに代えたいと思います。 福生病院で、医師から患者への「透析停止」という選択肢の提示は、明らかな医療ガイドラインからの逸脱にほかなりません。 「厳しく検討する必要がある」というのが、この問題への私の基本的な考え方ですが、以下の議論はそれとは独立して考える必要があるものです。 秀吉や家康、あるいは清盛でも天智天皇でも、かつてはどんな最高権力者でも、延命治療の方法がなければ、そこで寿命は尽きざるを得ませんでした。 また、そうしたライフサイクルに対応した生活習慣が成立していた。「くち減らし」や「姥捨て」のような現実も確かに存在し、目を背けていては合理的な判断はできません。 さて、21世紀の今日、飛躍的に進歩した延命治療によって、以前であれば生存が困難、ないし不可能だった人たちに、新しい生の可能性が開かれました。素晴らしいことだと思います。 しかし同時に、それらの医療に支えられる人が「納税者」ではなく「年金受給者」などとして、国庫を圧迫する存在になるとしたら・・・? こういった問題が、日本の厚生行政全体を財務の観点も含めて検討するとき、問われることになってきます。 しかし、これがさらに、国全体ばかりでなく、個別の病院経営などにも影響を及ぼすとすると、様々なことが懸念されます。 極論すれば「コストパフォーマンスの高い患者/低い患者」といったことも考えることができてしまい、医は仁術からかなりの算術に変質してしまうことになりかねない。 家族の負担などによっては「無駄な延命医療などは避けて・・・」という<本人の意志>が、下手をすると姥捨同様の、経済的な判断にもなりかねないリスクも、検討する必要があります。 大局から問題を検討して、明らかな「正解」が少なくとも一つあります。 まだ若いうちから生活習慣を長寿型にシフトする、国民健康寿命延伸のための基礎科学の推進がその「半分」に当たります。 では、残りの半分は何か? そう問われると「人はパンのみに生きるものにあらず」つまり、精神的、メンタルな問題ないし、生きる希望や生き甲斐の問題が決定的に重要になります。 学術会議の提言案文には、それら全体への対案がまとめられていますが、複雑かつデリケートな問題が大半です。 段階を追って一つひとつ、議論を共有したいと思います。イントロダクションだけで大幅に紙幅を越えました。続稿で詳述したいと思います』、続稿を待っていたのだが、このテーマではまだ出てないようだ。出ればここでも紹介するつもりである。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が4月19日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「不毛な困惑」が招いた空白の6時間」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00018/?P=1
・『先週はお休みをいただきました。 当欄のお知らせコーナーでもご案内した通り、入院していました。病名は脳梗塞です。なかなか強い印象を与える言葉ですね。 私も最初に聞いた時は、驚いて「はい?」と訊き直しました。 以下、簡単に今回の顛末をご報告しておきます。 症状に気づいたのは、先週の月曜日(4月8日)の朝だった。目を覚ましてPCを起ち上げると(朝一番の最初の動作がPCの起動だというこの習慣が健康的でないことは自覚している)、画面の文字がうまく読めない。視野の左上の方に明らかに見えにくい部分がある。 で、《朝起きてしばらくしてから、視野の右上方向の約三分の一ほどが見えにくい。右目も左目も見え方は、同じ。ちょっと困っている。近いうちに何らかの検査をせねばならないかもしれない。》というツイートを書き込んだ(※見えにくいのは視界の左上方向でした)。 すると、SNSの集合知というのはありがたいもので、さっそく有益な情報が続々と寄せられてくる。 特に、医師や病院勤務のアカウントが的確(つまりわりと深刻)なアドバイスを送ってきてくれた。 「身内ならすぐに救急車を呼びます」「いまこの場で、すべてをなげうって直近の病院に行ってください」「なるべく早く検査を受けてください。最悪、脳出血か脳梗塞の疑いがあります」という感じで続々と画面を埋めるメッセージを不自由な視野で読みながら、私は「これはただごとではないのかもしれない」という感じを抱きはじめた』、小田嶋氏が「脳梗塞」になったというのには驚かされた。毎朝のツイートも、「SNSの集合知」で「有益な情報が続々と寄せられてくる」というのは確かに「ありがたいもの」だ。
・『ただ、ここから先が素人の不徹底さで、結局私は「とりあえず午後のラジオの仕事の帰りにでも病院に行ってみるか」というヌルい決断を下した。 さいわい、脳出血やクモ膜下出血のような一刻を争うタイプの疾患ではなかったので、いまのところ、結果として初動の遅さを一生涯悔やむようなことにはなっていない。だが、最初に症状に気づいてから、病院の門をたたくまでに6時間ほど空白(まあ、「普通の日常」を送ったということだが)を作ったことは、これは、絶対に犯してはならないミスだった。 この時の自分の決断の鈍さを、いまあらためて反省している。 というよりも、自分の愚かさに少々びっくりしている。 とにかく、あの段階では、一も二もなく、いくつかの真摯な忠告に従って、即座に病院に向かうべきだった。 今回の不決断が、重大な事態につながらなかったのは、単なる幸運にすぎない。 仮にこの先、似たような状況に直面したら、30分後に女優さんとの対談の仕事がはいっていても、決然とキャンセルして病院に駆けつけようと思っている。 ちなみに、決断を遅らせるべく私が自分を説得するために用意していた言い訳は、「当日のキャンセルでラジオの現場を混乱させてはいけない」という絵に描いたような建前論だった。 本当のところを申し上げるなら、ラジオというメディアの強みが、その身軽さと臨機応変な対応能力にあることは、私が一番よく知っていたはずのことだ。つまり、今回の対応の遅れの原因は、やはり私自身が自分の感情と理性において下した判断自体に求めるほかにどうしようもない』、「最初に症状に気づいてから、病院の門をたたくまでに6時間ほど空白を作った」、というのはいかにも小田嶋氏らしい。
・『グレゴール・ザムザ氏は、ある朝目覚めると毒虫に変身していることに気づいた人なのだが、その彼の主要な心配事は、毒虫になってしまったことそのものではなくて、自室から外に出て勤務先に出勤できないことだったりした。今回の私の一連の対応は、ザムザ氏の不毛な困惑とそんなに変わらない。それほど愚かだった。 当日、私がわりと落ち着いているように見えたのは、私が状況を冷静に判断できていたからではない。 どちらかといえば、「オタオタしたくない」「沈着でありたい」という虚栄心(あるいはこの感情の正体は、私が日頃から軽蔑してやまずにいる「マッチョイズム」それ自体だったのかもしれない)に従ったリアクションだった。 それゆえ、当日、私は沈着であるというよりは、むしろヘラヘラしていた。 おそらく私の感情の中では「最悪の事態」を信じたくない気持ちが半分と、「オレに限っていくらなんでも脳の病気だなんてことはあるまい」という思い上がりが半分あって、それらがあわてふためくことを強くいましめていたのだと思う。 まあ、ひとことで言えば「正常化バイアス」というヤツだ』、病院に駆けつけるのが遅れた要因を冷静に分析し、「正常化バイアス」と喝破するところも、また小田嶋氏らしい。さすがだ。
・『午後になって、私はノコノコと赤坂に出かけて、20分ほどのラジオ出演を終えた。 オンエアの中では、視野の中に見えにくい部分がある現象を説明しつつ 「いま打席に立ったら内角の高めはたぶん打てないですね」などと、半端なジョークを飛ばしていた。最悪の態度だったと思う。 あるタイプのハリウッド映画では、一分一秒を争う戦闘シーンや、命のやり取りのさなかで、マッチョな主人公は必ずジョークを言うことになっている。というよりも、あの国のマッチョは、差し迫った時や、追い詰められた時にこそ、なんとしてもジョークをカマす。そうしないと男が立たないらしいのだ。 彼らにとってジョークというのは、なによりもまず「オレはくつろいでるぜ」「オレは平常心なんでそこんとこよろしくな」「っていうか、オレはまるでビビってないわけだが」みたいなことを内外にアピールするための電飾看板みたいなもので、だからこそ、ジョーク自体が面白いのかどうかはたいした問題ではないのだろう。 2002年の日韓W杯で日本代表の監督をつとめていたフィリップ・トルシエ氏は、ハリウッド人種ならぬフランス人の肉屋の息子だったが、彼こそはまさにその種の笑えないジョークのエキスパートだった。 彼にとって、ジョークを飛ばすことは「オレは平常心だぜ」どころか 「オレはおまえたちのペースには乗せられないぞ」「この場を仕切っているのはオレだぞ」ということを宣言するための高らかなトランペットだった。 だから、彼のジョークは、ほとんどまったく周囲の人間を笑わせることはなく、多くの場合、単に当惑させていた。 で、私はそのトルシエの「場の空気に水をぶっかける」高飛車なジョークが大好きだった。「おお、トルシエがまた協会に皮肉をカマしている」「おお、オレのフィリップがまたメディアの記者連中をコケにしている」と、毎度毎度彼の不可解な発言に関係者がいら立つたびに、私は大喜びでそのトルシエ氏のエスプリの底意地の悪さを祝福していた。 話がズレた。 何を言いたかったのかというと、発症当日、私がなにかにつけてジョークを連発していたのは平静さを装うためで、ということは私は動揺していたということだ。 動揺しているならしているで、その動揺した気持ちに素直に従って、病院にすっ飛んで行けばよさそうなものなのに、男という生き物はどういうものなのか一番くだらないところで一番くだらない見栄を張るようにできている。 反省しなければいけない』、「男という生き物はどういうものなのか一番くだらないところで一番くだらない見栄を張るようにできている」というのは言い得て妙だ。
・『午後、いったん帰宅した後、自宅から直近の総合病院を訪れてみると、すでに外来の診療時間は終わっていて、救急外来の担当医が、その場でCTの検査を手配してくれた。 その時に受けた説明によると 「まず脳に出血がないかどうかを確かめるために、CTを撮ります。で、出血が無いことが確認できたら、今夜のところはとりあえず血液をサラサラにする薬を飲んで、明日の朝、あらためて脳神経外科に予約を入れておきますので、MRIでより詳しい脳内の診断をしてもらってください」ということだった。 結果、幸運にも脳出血はなかった。 大事には至らなかったわけだ。 とはいえ、無邪気に幸運を喜ぶ気持ちになってはいけないと思っている。 翌日、MRIの検査を受けて検査室を出ると、車椅子を押した姿のナースさんが待っている。 「これはもしかして私の乗り物ですか?」と、私はこういう場面でもつまらないジョークを言わずにおれない。 主治医の指示で、急性期の脳梗塞の患者については急に転倒するなど万が一の事故を防ぐために、車椅子で病室まで運ぶことになっているのだそうだ。 とにかく、そんなこんなで、MRI検査室から出てそのまま入院という運びになった。 以来、10日ほどがたつ。 その間、毎日点滴(最初の2日間は24時間の点滴だった)を続けながら、ホルター心電図、頸動脈のエコー、心臓のエコーなどの検査を受け、土日以外は、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士によるそれぞれのリハビリメニュー(簡単なストレッチや、エアロバイクによる有酸素運動、それから各種の知能テストみたいなもの)をこなした。 入院患者はそんなにヒマなわけでもない。 ようやくヒマができると、ヒマを出される。 というわけで、おかげさまで、土曜日(4月20日)に退院という運びになった。 医師としては、まだいくつか気になる点があるのだそうだが、自宅も近いことだし、今後は通院でなんとかできると判断したようだ。 現状では、運動麻痺、言語障害はまったくない。記憶や思考力について、細かいところは永遠にわからないが、本人の自覚では問題はない。問題を自覚するに足る能力を喪失しているという見方も可能なのだろうが、その見方は採用しない。理由は、不快だからだ』、ナースさんにも「つまらないジョークを言わずにおれない」というのも、「一番くだらないところで一番くだらない見栄を張るようにできている」の一例だろう。
・『本当は、ごく簡単に今回の経過を報告した上で、このほど政府の経済財政諮問会議が打ち出してきた「人生再設計第一世代」という言葉についてあれこれ検討するつもりでいたのだが誌面が尽きてしまった。なので、この話題についてはまた稿を改めて論じてみたいと思っている。 一言だけ申し上げるなら、「人生再設計第一世代」は、粗雑で無神経なレッテルだと思っている。 基本的には 「一億総活躍社会」「働き方改革」「人づくり革命」と同じく、国民を将棋の駒かレゴのピースみたいに扱う気分の人間が発案した標語だと思うのだが、今回のこれはとりわけ異様だ。もしかしたら、われわれは緊急事態に足を踏み入れつつあるのかもしれない。 とはいえ、一方で、 「まあ、どうせこういう感じのがやってくると思ってたよ」という醒めた感慨もある。 この感慨が正常化バイアスの結果でないことを祈りたい』、いずれにしろ、大事にならずに済んだのは喜ばしいことだ。次の「人生再設計第一世代」も期待できそうだ。
タグ:超高齢化社会のQOLから考えるターミナルケア 命の終わる日まで、できるだけ自分らしい自分の生を全うする可能性は万人に開かれているのです 生活習慣や栄養状態、保健衛生のコントロール次第で、人間の余命ならびにそのQOLは、大いに変化する 日経ビジネスオンライン 精神的、メンタルな問題ないし、生きる希望や生き甲斐の問題が決定的に重要になります 各々の個人が自分の問題として真剣に向き合う必要があるのは間違いありません 最も変化させにくいと思われる一つが、個人ないし共同体レベルでの「生活習慣」 「コストパフォーマンスの高い患者/低い患者」といったことも考えることができてしまい、医は仁術からかなりの算術に変質してしまうことになりかねない 小田嶋 隆 「「不毛な困惑」が招いた空白の6時間」 動揺しているならしているで、その動揺した気持ちに素直に従って、病院にすっ飛んで行けばよさそうなものなのに、男という生き物はどういうものなのか一番くだらないところで一番くだらない見栄を張るようにできている 学術会議の提言案文には、それら全体への対案がまとめられています 家族の負担などによっては「無駄な延命医療などは避けて・・・」という<本人の意志>が、下手をすると姥捨同様の、経済的な判断にもなりかねないリスクも、検討する必要があります 彼らにとってジョークというのは、なによりもまず「オレはくつろいでるぜ」「オレは平常心なんでそこんとこよろしくな」「っていうか、オレはまるでビビってないわけだが」みたいなことを内外にアピールするための電飾看板みたいなもの 「人生再設計第一世代」 経済財政諮問会議 「正常化バイアス」 あるタイプのハリウッド映画では、一分一秒を争う戦闘シーンや、命のやり取りのさなかで、マッチョな主人公は必ずジョークを言うことになっている SNSの集合知というのはありがたいもので、さっそく有益な情報が続々と寄せられてくる 最初に症状に気づいてから、病院の門をたたくまでに6時間ほど空白 重大な事態につながらなかったのは、単なる幸運にすぎない MRI検査室から出てそのまま入院 ここから先が素人の不徹底さで、結局私は「とりあえず午後のラジオの仕事の帰りにでも病院に行ってみるか」というヌルい決断を下した 土曜日(4月20日)に退院 朝起きてしばらくしてから、視野の右上方向の約三分の一ほどが見えにくい。右目も左目も見え方は、同じ。ちょっと困っている。近いうちに何らかの検査をせねばならないかもしれない。》というツイート 脳梗塞 さいわい、脳出血やクモ膜下出血のような一刻を争うタイプの疾患ではなかったので、いまのところ、結果として初動の遅さを一生涯悔やむようなことにはなっていない 男性が 72.14歳 女性が 74.79歳 「オタオタしたくない」「沈着でありたい」という虚栄心(あるいはこの感情の正体は、私が日頃から軽蔑してやまずにいる「マッチョイズム」それ自体 幸運にも脳出血はなかった 日本学術会議の当該小委員会で「健康寿命延伸」に関する仕事を担当 もっぱら保健衛生の向上と、医療の進歩によって、私たちの「寿命」は大幅に長く実現するようになった 「人生最後の10年、寝たきりでなく快適に過ごすには 健康寿命と平均寿命」 国民が「加齢によって不健康な状態になる」平均的な年月が、上に記した9年とか12年という歳月になるわけです 老化は不可避のプロセスか? 2050年頃の日本では75歳、あるいは85歳といった年齢の人が「現役」として働くことが期待 不健康余命 こうした問題は100年の計をもって、出生前や幼児期から、ライフロングのライフ・サステナビリティの課題として国が責任をもって取り組むべきもの 健康寿命って何? 60歳、70歳になってから、初めて「対策を」といっても、できることは限られているわけですから 現状では「個体差」が著しく JBPRESS 「ピンピンコロリ」を模索する新学術と芸術 健康 地道な生活習慣からでも、自分の「老い」をゆっくり進行させることは可能です 人生50年から人生120年へ 定年を75歳、85歳などまで引き上げるということも意味 こうした年齢まで「現役」の納税者として社会で活躍してもらいたい 国家のそろばん勘定が合わなくなるという切実な状況 伊東 乾 低QOL余命 (その7)(人生最後の10年 寝たきりでなく快適に過ごすには 健康寿命と平均寿命、小田嶋 隆:「不毛な困惑」が招いた空白の6時間) 「健康寿命」
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