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安倍政権の教育改革(その9)(愚策の極み「学テで校長評価」 現場が失う大事なもの、「日の丸・君が代」教員らに強制 ILO 政府に是正勧告、「センター試験の大改革」に秘められた深い意味 大学入試センターの山本廣基理事長に聞く) [国内政治]

安倍政権の教育改革については、昨年7月13日に取上げたままだった。久しぶりの今日は、(その9)(愚策の極み「学テで校長評価」 現場が失う大事なもの、「日の丸・君が代」教員らに強制 ILO 政府に是正勧告、「センター試験の大改革」に秘められた深い意味 大学入試センターの山本廣基理事長に聞く)である。

先ずは、健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏が2月12日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「愚策の極み「学テで校長評価」、現場が失う大事なもの」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00008/?P=1
・『今回は「働かされ感」についてあれこれ考えてみようと思う。 なんとも唐突なテーマなのだが、私の中ではかなり前から温め続けていたネタ。いつか書こうと思いつつも、どんな言葉で、どんな風に綴ればいいのかが固まらずで。要するに、自分の中で十分に噛み砕けていなかったのである。 が、物議を醸している「大阪市の校長評価」に関する報道やら、記事やら、コメントやらをボ~ッと見ていたら、散在していた点と点がつながった! というわけで、今回取り上げようと思った次第だ。 先月29日、大阪市教育委員会が、市内の小中学校の校長の人事評価に、生徒の学力を測る目的で府や市が実施している独自テストの結果を反映する方針を固めたとの報道があった。 評価に使われるのは、「学力経年調査」(小3~6年生対象)と、「チャレンジテスト」(中学生対象)。両テストの学校ごとの結果を校長の人事評価の20%分に反映させるとともに、賞与の半分程度を占める勤勉手当の評価材料として使うそうだ。 また、2020年度からはテストの結果に応じて割り当てる特別な予算として年間1.6億円を用意。成績が向上した学校に配分することで学校間の競争を促すのが狙いだ。 要するに、“ニンジンぶら下げ方式”。…ふむ。大阪って、ホントに好きね、というのがこの件に関する個人的な率直な感想である。 「大阪」といえば、全国学力テストの成績が2年連続で全国最低レベルに低迷した08年、当時の橋下府知事が学力テスト結果の公表を巡って「クソ教育委員会」と暴言を吐いたり、「このざまは何だ!」と罵声を浴びせたり、ついには「教育非常事態宣言」を出して学校教育に介入したりと、すったもんだがあった。松井一郎府知事になってからも、学力テストが実施される直前に、「来春の高校入試の際に提出する内申点に、全国学力テストの学校別結果を反映させる!」と突然発表する “事件”もあった。 当時、知事が唐突にぶら下げた“ニンジン”に、現場の先生たちはてんやわんや。急遽過去の問題などを子どもたちに配布したり、「最後まで諦めるな!」と尻を叩いたり、そりゃあもう、大騒ぎだった。 結果的には、「やればできることがはっきりした」と松井知事がドヤ顔したとおり、それまで、全国で下位に低迷し続けていた屈辱を晴らし、大躍進を遂げた。 が、所詮、“ニンジン”は“ニンジン。文部科学省が「学力テストの趣旨を逸脱している」と“ニンジン方式”を禁止したことで、翌年には、中3の国語、数学の平均正答率がいずれも全国平均を下回り、空白の解答欄も目立つなど、残念な結果に。快挙はわずか一年で幕を閉じてしまったのである。 で、今回。再び大阪、いや、正確には「大阪府」ならぬ「大阪市」で、吉村洋文大阪市長が、「おい、おい、おい!! このざまは何だ! 学力テストの平均正答率が、全国の政令都市で最下位! ビリ、ビリだよ! う~~~ぅ、ニンジンだ! そうだ。あのときもニンジンぶら下げたら大躍進したよね? 子供にぶら下げちゃダメっていうなら、教員にぶら下げろ!」(あくまでも個人的な妄想に基づく仮想発言です)と狼煙を上げ、校長先生に白羽の矢が立ったというわけ』、維新の会は教育問題に熱心とPRしている割には、思い付き的政策が多いようだ。
・『おっちょこちょい市長による、とんでも政策  「どうにかしてビリを脱出したい」という気持ちが全くわからないわけではない。 が、子どもの学力テストの結果を校長の評価に使うとは、愚策……以外の何ものでもない。もう少し丁寧に言えば、「『先生も生徒も人である』という当たり前を忘れた、おっちょこちょい市長による、とんでも政策」である。 ニンジンはお馬さんを走らせるために使うものである。それを人間に使えば、結果的に人は腐る。しかも、それを教育の現場に持ち込むとは、「人を育てる」という言葉の意味を、大阪市のお偉い方たちは微塵もわかっていないのだろう。 テレビや新聞などのメディアやSNSでも、 「そんなことしたら、テストの点数が悪い子どもが担任や校長にいじめられるぞ!」「知的障害や発達障害のある子どもは、どうなる?」「不登校の子どもだっているじゃん!」「先生同士の人間関係も悪くなりそ~」「つーか、学校の先生って子どもの学力を上げるためだけにいるのか?」「結局さ、こんなことしたら、現場の教師も子どもも単なる道具。“使い捨て”にする超ブラック校長が評価されて、えらくなっていくんだよ」「企業と同じだな」……などなど、批判的な意見が相次いだ。 そもそも子供たちの学力が低いと先生の指導に問題があるように言われるけど、どんなに先生たちが頑張っても学力が上がらない学校はある。例えば、県でトップクラスの学力を誇っている学校の先生全員が、学力の低い学校に行って頑張ったとしても、そんなに簡単には学力は伸びない。先生たちだけじゃ、どうにもできないことが現実には存在する。 以前、こちらのコラム(「幸せな国」発言と持てる者の自己責任論)でその理由が推測できるデータに触れたが、学力に関してのみ抜粋すると以下のとおりだ。 ――朝日新聞は6月28日、「成績・進学期待 収入に比例」との見出しで、お茶の水女子大学の調査結果を報じた。全国学力テストを受けた小6と中3の保護者約12万2000人を対象に調査し、両親の収入や学歴(SES)で「上位層」「中上位層」「中下位層」「下位層」の4群に分割したところ、層が上がるほど学力調査の平均正答率が高く、中3の数学Aは「上位層」77.1%に対して「下位層」は52.8%。層が上がるほど子供への進学期待が高く、「大学」と答える人は、小6の「上位層」で80.8%に対し「下位層」33.2%、中3の「上位層」で81%に対し「下位層」は29.3%――』、「「人を育てる」という言葉の意味を、大阪市のお偉い方たちは微塵もわかっていないのだろう」との批判はその通りだ。大阪府知事選挙と大阪市長選挙では、松井氏と吉村氏が入れ替わって当選したが、吉村氏を引き継ぐ松井新市長も、当然、吉村路線を踏襲するのだろう。やれやれ・・・。
・『ただ「点数」を取るための道具にするな  そもそも、テストとは「オトナたちがやっていることの正しさを確認し、子供に順位をつけるため」に大人が準備した物差しであり、「教育」という視点から考えれば、学力に関するテストはあくまでも結果の“一つ”でしかない。 大切なのは、いかに子供が「楽しい!」と感動し、「もっと知りたい!」と知的好奇心がくすぐられるか、だ。僭越ながら中学校理科の教科書づくりに、かれこれ10年以上関わっている身からすると、「現場をなめんなよ!」と大阪市長に言いたい。 「もっと子供たちが興味を抱くように」「もっと子供たちが『役に立つ』と思うように」「もっと子供たちが『分かった』と自信が持てるように」「もっと子供たちが『学んでよかった』と満足できるように」と、天気図一枚、言葉の一言一句まで、オトナたちが喧々諤々必死で考える。小学校の振り返りができるように工夫したり、発達障害の子どもが置いてきぼりにならないような手立てをしたり、「もっと先を知りたい!」と望む子どもの熱が継続するような仕掛けを施したりもする。 その教科の専門家と現場の先生たちが、汗水流して必死で作った結晶が「教科書」だ。それをただ「点数」を取るための道具にするな、と。 だいたい学校という現場には、さまざまな能力を秘めた子供たちがいる。それらは、大人が大人のために用意した「学力テスト」のような数値化したものだけでは決して測ることのできない「力」だ。教育者としての大事な役割の一つは、その力を引き出したり、大きく育てたりすること。 このことが分かっていないから、愚策を繰り返すんだな、きっと。 もし、「子どもの学力テストの結果=校長の評価」として使われるようになれば、数値化できない「力」は切り捨てられ、目に見える数字を追いかける校長が量産され、学力テストの結果が悪いクラスの担任は校長に尻を叩かれ、授業は学力テストのためだけの授業になり、子どもには「勉強させられ感」が強まり、学力は向上するどころか低下するリスクが高まる。そう思えてならないのである』、「僭越ながら中学校理科の教科書づくりに、かれこれ10年以上関わっている身からすると」、河合氏がこんな活動までしていたとは、驚かされた。「「子どもの学力テストの結果=校長の評価」として使われるようになれば・・・」のリスクは大いにあり得る話だ。
・『先生たちの「働かされ感」が高まるだけ  「何か問題を起こす子供がいるとするでしょ? 1つの原因だけで問題を起こすってことはなくて、いくつかの要因が絡み合っている場合がほとんど。だから『みんなの問題』として考えることが大切なの。 でも今は、何か問題が起きるとそれに関係のある1人の先生だけがやり玉にあげられる。管理職は自分の責任問題になるから、その先生だけに問題があったのかのような追及をする。今の先生に求められているのは、間違いを起こさないこと」 数年前、中学校の先生がこう話してくれたことがある。 ただでさえ先生たちは、管理職のための仕事(=教育委員会や文科省への提出物など)の多さに疲れきっているのに、学力テストが校長の評価に反映されるようになれば、テスト結果に直接つながらないことは避けるようになるに違いない。 「そんなことやってるから、お前のクラスは点数が低い」「それって学力テストに関係あるのか?」などなど、教育者としてのやる気を失せさせる言葉が無尽蔵に増え、先生たちの「働かされ感」が高まるだけだ。 そう。これぞ「働かされ感」。モチベーションが下がりまくり、言われたことだけをする受け身の先生をさらに量産させることになっていくのだ。 実は今回のテーマである「働かされ感」は、米国で金融関係の会社を渡り歩いている学生時代の友人と話していて、私の中で生まれた言葉である。 年明けに、学生時代の友人たちと久々に飲む機会があり、帰国していた彼も合流した。医師として活躍していたり、航空会社に勤めていたり、金融関係やら食品メーカーなどあちこちの業界に散らばっている仲間と、あれこれ“居酒屋トーク”していたとき、私たちの話を聞いていた彼が、突然、こう切り出した。 「ねぇ、さっきから言ってる『働かされている』ってどういうこと?」と』、「学力テストが校長の評価に反映されるようになれば、テスト結果に直接つながらないことは避けるようになるに違いない」、というのはその通りだろう。
・『ニンジンをぶら下げる前に、校長先生に投資せよ!  一瞬、私には彼が何を言ってるのか理解できなかった。だが、どうやら私たちは「働かされている」という言葉を多用していたようだったのである。 「パイロットもさー、人手不足でひどい働かされ方してるよね~」「医者も同じだよ。肉体に鞭打って働かされてま~す」「娘が入った会社が、結構なブラックでさ。かわいそうなくらい働かされてるよ~」「働き方改革とかさ、働かせ方改革だもんね」 私たちにとっては日常のたわいもないこんなトークが、彼にとっては“異常”だった。 「自分のありたい姿に近づきたかったり、成長したかったり、たくさん稼ぎたかったりするから、働くんでしょ? なんで働かされなきゃならないの?」 多くの日本人が忘れかけている“当たり前”を彼は訴えたのである。と同時に、2年前から勤めている米国日本法人のマネジャーへの不満をぶちまけた。 「本来、マネジャーの仕事はチームメンバーのやる気を上げることなのに、実際にやっているのは周りのやる気が失せることばかり。これは米系企業のマネジャーではありえないレベル。 たとえ目標を達成できなくても、定性と定量による分析を使い分けて、メンバーがどこまで自己肯定できるかをマネジメントするのがマネジャーの仕事でしょ。そもそも人事権や報酬に係る評価権のない管理職はマネジャーと呼べるのか? って思っちゃうよね。 しかも、ひとつひとつのジャッジが遅い。なのに、偉そうに言うことだけは言うんだよね。誰が見たって、金融畑でキャリアを積んできたメンバーの方がわかってるのに。しかもさ~、それが結構、若いやつなわけよ。 そんなだから、みんなモチベーション下がりまくってる。で、最初はガンガンやってたのに、いつの間にか『定年までタラタラいてやるか』って感じになってきてるし。日本の会社はダメだね。これじゃ、長くは持たないだろうね」 ……全くもっておっしゃるとおりだ。ここでの定量とは「数値目標」、定性とは目に見えない、あるいは数値化できない業務上の貢献であり、協調性や積極性などがその代表例になる。 彼が言うとおり、米系企業ではマネジャーになるためのトレーニングをかなり早い段階から受けさせる。プロマネジャーとなるべく、企業が投資するのだ。一方、残念ながら多くの日本企業のマネジャーは、名ばかりマネジャー。マネジャーとしての教育も受けていなければ、裁量権もない。 そして、それは「学校のマネジャー=校長」も同じではないだろうか。 もし、もしも、校長先生に「定性と定量を使い分けて評価し、メンバー(先生たち)のやる気を喚起させられる能力」があれば、“上の立ち枯れた木々”がとんでも政策を押し付けようとも構いやしない。学校現場で求められる教育を徹底的に行い、その“結果”としての「学力テストの向上」を目指し、現場の先生たちのモチベーションを高めることができる。 つまり、問題はそういうマネジメント能力のある校長先生が、どこにいるのか? ってこと。ニンジンをぶら下げる前に、校長先生に投資せよ!と。それをやらずして、すべてを「校長の責任」に押し付けるようなとんでも政策を進めれば、「勉強させられ感」の子供と、「働かされ感」の先生により、学力はますます低下する。 そもそも働くことは「生きている価値」と「存在意義」をもたらす、とても大切な行為だ。ところが、最近は「仕事=しんどいもの」になってしまっていることからして、極めて異常なのだ』、説得力溢れた主張で、全面的に同意する。

次に、3月30日付け東京新聞「「日の丸・君が代」教員らに強制 ILO、政府に是正勧告」を紹介しよう。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201903/CK2019033002000143.html
・『学校現場での「日の丸掲揚、君が代斉唱」に従わない教職員らに対する懲戒処分を巡り、国際労働機関(ILO)が初めて是正を求める勧告を出したことが分かった。日本への通知は四月にも行われる見通し。勧告に強制力はないものの、掲揚斉唱に従わない教職員らを処分する教育行政への歯止めが期待される。 ILO理事会は、独立系教職員組合「アイム89東京教育労働者組合」が行った申し立てを審査した、ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(セアート)の決定を認め、日本政府に対する勧告を採択。今月二十日の承認を経て、文書が公表された。 勧告は「愛国的な式典に関する規則に関して、教員団体と対話する機会を設ける。規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする」「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒の仕組みについて教員団体と対話する機会を設ける」「懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせる」ことなどと求めた。 一九八九年の学習指導要領の改定で、入学式や卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱が義務付けられて以来、学校現場では混乱が続いていた。アイム89メンバーの元特別支援学校教諭渡辺厚子さんは「教員の思想良心の自由と教育の自由は保障されることを示した。国旗掲揚や国歌斉唱を強制する職務命令も否定された」と勧告を評価している。 これまで教育方針や歴史教科書の扱いなどを巡る勧告の例はあったが、ILO駐日事務所の広報担当者は「『日の丸・君が代』のように内心の自由にかかわる勧告は初めてだ」と話している』、妥当な判断だ。「日本への通知は四月にも行われる見通し」とあるが、私が検索した限りでは見つけられなかったが、官邸の圧力で記事にはならなかったのかも知れない。

第三に、5月2日付け東洋経済オンラインが掲載したジャーナリストの池上 彰氏と作家・元外務省主任分析官の佐藤 優氏、大学入試センター理事長の山本 廣基氏による対談「「センター試験の大改革」に秘められた深い意味 大学入試センターの山本廣基理事長に聞く」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/277999
・『2020年度、教育が大々的に改革され、新たな「大学入学共通テスト」の実施が始まる。国語と数学に記述式の問題を取り入れ、英語は「聞く、読む」に加え、「話す、書く」力まで求められるようになるという。しかし、そもそも、なぜいま入試改革なのか。教育現場も予備校も大学生も大混乱。センター試験の何を反省したのかもよくわからない。 自ら教壇に立ち、教育問題を取材し続ける池上彰氏と、「主体的な学び」を体現する佐藤優氏が、めったにマスコミなどに登場しない大学入試センターの山本廣基理事長と対面。入試改革の真の狙いを聞いた・・・』、興味深そうだ。
・『入試に表れる“ふたこぶラクダ”現象とは?  佐藤優(以下、佐藤):センター試験の問題自体は、国際基準の学識を測るという点から見ても、よくできていると思います。ただ、原則全教科受験という形になっていれば問題ないのだけれど、1科目つまみ食いできるとか、科目を自由に組み合わせられるとかで、試験が複雑系みたいになっているんですね。そこにさまざまな受験テクニックの入りこむ余地も生まれて、結果的にそのよさが十分発揮できない状況になっているような気がします。 山本廣基(以下、山本):おっしゃるとおりで、非常に複雑です。さらに今ご指摘のことに加えて、国公立だけだった共通一次のときとは違う、悩ましい問題があります。 今、センター試験の受験生は約55万人いるのですが、だいたい4分の1ずつ、4つのグループに分類できるんですよ。国公立専願、国公立・私立併願、私立専願、そして残りの4分の1は何かというと、大学から成績提供の請求がない人たちです。例えば、すでに推薦やAO入試で合格しているけれど、一応受けておこうという人たちです。30年前とは、受験者層が様変わりしているんですね。 佐藤:そのとおりです。 山本:でも、自分が「残りの4分の1」の受験生だったらどうでしょう?是が非でも高得点を取らなければ、という気持ちにはならないと思います。 池上彰(以下、池上):それはそうだ(笑)。 山本:その結果、誤解を恐れずに言えば、その層が平均点を引き下げることになるのです。ところが、そういう受験生も含めて平均点を60点程度にしようとすると、共通一次時代よりも、問題をかなりやさしくせざるをえません。 佐藤:ということは、母集団が正規分布していないわけですね。グラフにすると、得点分布が真ん中で高くなるのではなくて、”ふたこぶラクダ”みたいなカーブになっている。 山本:そんなに極端なことにはなりませんが、分布の形としてはいびつになるのは否めません。 池上:平均点が下がると「今年の問題は難しかった」と言って騒ぐのだけれど、かつては国公立志望オンリーだった受験生が「多様化」すれば、平均点は下がって当たり前。テストの本来の趣旨からすれば、見かけの得点ではなく、共通一次時代の平均60点の問題レベルを維持するのが筋だと思うのですが。 山本:まったくそのとおりだと思います。ところが、メディアや高校サイドは、「難しくなったではないか」と言うわけです。 佐藤:「ますます学力が低下している」と言ったり。まず、実情をきちんと理解してもらう必要がありますよね。 山本:あえて付け加えれば、公平を期すという理由で、科目間の平均点に20点を超える差がついたときには、得点調整を行うことになっているんですね。これもメディアの大関心事ですが、どう調整するのか、そもそも調整することが「公平」なのかというのは理論的には難しい問題です。 池上:完璧な答えは、誰にも出せないんじゃないですか。 山本:そうした試験の中身に関わる話は、今までタブー視されていました。しかし、おっしゃるように実態を知ってもらわなければ、改革もままなりません。最初に言ったように、私は必要なことはできるだけ発信していこうと考えているんですよ。 ただし、今お話しした得点分布のデータなどは、ちゃんと理屈を聞いてもらえるときにはいい素材なのですが、それだけが独り歩きするとまた別の問題が生じたりする危険性があります。ですから、目的や場面に応じて結構、神経を使っているんですよ。内輪の話になりますけれど。 池上:今の指摘は、従来センターの内部の人たちしか知らなかった話ですが、大学入試の根幹に関わる問題ではないでしょうか。実態をオープンにして、教育関係者が正しい認識を持つ意味は、非常に大きなものがあると思います。 佐藤:同感です』、センターとしても、「私は必要なことはできるだけ発信していこうと考えている」ようだが、池上氏がいうように、可能な限りもっとオープンにしていくべきだろう。
・『記述式の導入は高校生へのメッセージでもある  池上:では、2021年スタートの新テストの中身に話を進めましょう。なんと言っても注目されるのは、国語と数学の一部に記述式問題を採用することです。 先ほども話に出たように、選択式であっても練りに練ったものを出題していたわけだけれど、あえて記述式の導入に踏み切ったのはなぜか?同時に書かせるのはいいけれど、採点はどうするのか?この点についてお聞かせください。 山本:われわれは、2021年からの導入に向けて、高校生を対象にした試行調査(プレテスト)を2017年と2018年の2度実施しました。2018年の国語の記述式は、言語に関する2つの文章を読んで設問に答えるという問題。そこで問われたのは、2つを関連付けながら構成や展開を捉えるといった、テキストを正確に読み取る力、思考したことを表現する力です。 佐藤:実際に書かせる意味は大きいと思うんですよ。逆に言うと、記述式が入らない試験というのは、とにかく端から端まである種の物量主義で覚えこむ「パターン暗記」で、ある程度までは攻略できるんですね。受験生は若くて記憶力がいいですから。受験産業の得意なのは、そういうテクニックをたたき込むことにほかなりません。 山本:そうなんですが、実際には池上さんが指摘された採点の問題がまた、悩ましいわけです。選抜試験である以上、公平性、客観性のある採点が不可欠です。 加えて、センター試験の結果が出る前に個別大学に出願しなければならない受験生が、何点取れたのか速やかに自己採点できないといけないという条件もある。大規模一斉試験の性質上、どうしても問える力は限られたものにならざるをえないのです。 今おっしゃった受験産業の問題についても、2、3年たったら、彼らは記述式問題必勝テクニックを売りにしているのではないかという気がします。解答欄には、必ずこういうことを書かないと駄目、とか(笑)。 池上:ありえますね、それは。そこが腕の見せどころ(笑)。 佐藤:どんな問題にしても、受験産業とのある程度のいたちごっこ自体は、避けられないでしょう。 山本:まあ、受験産業対策というわけではないのですが、問題は結構短いスパンで見直しをしていくことになるのではないかという感じを、個人的には持っています。そうしたことも含めて、われわれは当然、よりよい問題になるよう努力を続けたいと考えています。 共通テストに記述式問題を入れるというのは、何より「こういう問題に対応できる力を鍛えよう」という、高校生に対するメッセージだと思いますから。 池上:大事な視点ですね。 山本:同時に、この場をお借りして言っておきたいのは、受験生の思考力、判断力、表現力といったものを記述式できちんと見るという点では、やはり大学の個別試験の役割が大きいと思うんですよ。入学者選抜においては、共通試験と個別試験が「両輪」であるべきで、共通試験になんでも盛り込もうというのは、違うと思います。 佐藤:盛り込もうと思っても、限界はある。 山本:実際には、センター試験イコール大学入試だと思っている人が、世の中にはたくさんいるんですね。採点に半年くらいの時間をいただけるのなら、記述式の理想的な問題を作って、じっくり学力を測ることも可能かもしれませんが、55万人の受験生がいるわけですから。 池上:個別試験をきちんとやっている大学では、記述式問題は1人の答案を2、3人の先生が見て、平均を取りますよね。それもなかなかに骨の折れる作業なのだけれど、真面目に学生を選抜しようと思ったら、そこで手を抜くわけにはいきません。 佐藤:大学入試センターの試験で基礎的な学力を見るから、その先は個々の大学が責任を持って学生を選ぶということですよね』、センター試験と個別試験の役割分担は確かに明確にしておくべきだろう。
・『英語の試験に「話す」は必要なのか  池上:新テストでは、記述式問題の採用に加えて、民間の力も借りつつ英語力を4技能フルで測るという「改革」が行われます。この点については、どうでしょう? 佐藤:私の意見から言わせてもらうと、この試験に少なくとも「話す」はいらないと思うんですよ。かつて私が受けた外交官試験の外国語は、英語だったら英文和訳と和文英訳のみ。これは明治時代から変わらないのだけれど、語学力に関してはそれで完璧に測ることができるのです。 山本:今の池上さんの質問には、ちょっと答えづらいですね。民間の活用という点から言えば、本来は大学入試センターがすべての問題を作り、時間をかけて評価していくということが許されればいいのですが、そういうわけにはいきません。そこはノウハウを持ったところにお任せして、後は公正にやっていただけるように見守っていくということですね。 私の立場でこんなことを言っていいのかどうかわかりませんが、大学教育の基礎力として4技能を均等に求めるのかどうか、もっと議論が必要だと個人的には思っています。 佐藤:理屈で考えてほしいのですが、後天的に身に付いた言語力で、読む力を、聞く力・話す力・書く力が上回ることは、絶対にないんですよ。読む力が「天井」で、同じ文章をしゃべれるけれど読めないということは、ありえないのです』、「読む力が「天井」」というのは言われてみれば、その通りなのだろう。
・『「英語4技能」は学生選抜に歪みが生じる可能性がある  山本:少なくとも「共通テスト」では、大学で教育を受けるために必要な英語力を測定するわけですよね。もちろん分野によって異なりますが、最低限必要な力が何かと考えてみても、英語で書かれたいろんな文献などを読める力ではないでしょうか。少なくともそこをきちんと見ておきましょう、というスタンスがあってもいいのではないかと、私も思います。 佐藤:4技能を見れば英語の総合力が測れると考えているのかもしれませんが、実際の試験では「話せる」帰国子女が圧倒的に有利になるでしょう。具体的に言えば、英語の4技能に秀でていて、新テストで満点に近い得点をした帰国子女は、ほかの科目は軒並み合格ラインに達していないにもかかわらず、志望校に合格する可能性があるということです。 大学でも、留学生はその母語では外国語の単位を取れないようにしているところもあります。楽勝で単位が取れてしまうのは、フェアネスの観点から問題だということですね。ましてや、公平性が大前提の「共通テスト」で、そういうことが許されていいのでしょうか。 せっかく全体としてよくできた試験問題になりそうなのに、「英語4技能」を極度に重視するあまりに、肝心の学生の選抜に歪みが生じないか、私は心配しています。 山本:いろいろな方が、「10年近く英語を習ったのに、自分はろくに話せない。教育が間違っている」とおっしゃるのです。そうした意見が、4技能への拡充の背景にあったのでしょう。 佐藤:それは教育ではなく、本人の問題です』、「10年近く英語を習ったのに、自分はろくに話せない」というのは、「それは教育ではなく、本人の問題です」との佐藤氏の指摘は言い得て妙だ。
・『池上:国際会議に出かけて、夜のパーティーで外国人と話をしようと思っても言葉が出てこない。いつも言うのですが、だったら語学力以前に自らの教養を問うべきですよね。話すべき中身がなければ、しゃべりたくても、しゃべれませんから(笑)。 中身があって、どうしても英語でしゃべりたいというモチベーションがあれば、言われなくても英会話をマスターしようと勉強するでしょう。 佐藤:逆に言えば、ただ話せたらいいのか、ということです。イギリス・アメリカ以外のいろんなところで英語が普及し、日常的に使われているのはどういうことかといったら、そういう国では、生活のためにそれを習得せざるをえないという事情があるからです。日本は、日本語空間の中で生活が成り立つわけで、そういう意味で「大国」なんですよ。 山本:先人のおかげで、高等教育も日本語で受けられるんです。 池上:そうです。みんなそれを当たり前だと思っているのだけれど。 佐藤:例えば、イギリスのブリティッシュ・カウンシルなどが運営する英検のIELTS(アイエルツ)がありますよね。2010年から日本英語検定協会が、日本での共同運営を始めました。 このIELTSには、アカデミック・モジュールとジェネラル・トレーニング・モジュールがあるのですが、後者はありていに言えば、移民労働者になるための英語です。最初からそういう試験をやっているわけですよ。言葉とは、そういうものです』、「日本は、日本語空間の中で生活が成り立つわけで、そういう意味で「大国」なんですよ」というのは英語下手には格好の言い訳材料だろう。
・『中途半端なレベルで「話す」をテストしても意味がない  山本:そもそも、英語であいさつができて、オリンピックに来た人に道案内ができるぐらいしゃべれるようになったところで、学問もできなければ、商取引もできないでしょう。 佐藤:私は、スターバックスに行って、最近ほっとするのです。あそこでは10年ほど前には、例えば“caramel macchiato one, extra hot”とかいう「英語」が使われていました。文章に動詞も入らなければ、前置詞も入らない。 山本:単語だけをつなげる。 佐藤:これはpidgin English(ピジン・イングリッシュ)といって、植民地での英語なのです。要するに、命令を聞くためだけの言葉。しかし、最近は「キャラメルマキアート、1つ」「ミルク、熱くしてください」などと、店員が言うようになりました。「宗主国」のマニュアルどおりには、やらなくなったわけですね。 山本:マニュアルが変わったんじゃないですか(笑)。 佐藤:でも、あのpidgin Englishが大手を振ってまかり通るようなことにならなくて、本当によかったと思う。わが国の文化はかろうじて維持された、とほっとしたわけです。 山本:今の話で思い出しましたが、アメリカに行ったときに、ダウンタウンのファストフード店に入って注文しようと思ったら、店員が何を言っているのかわからないわけです。こちらは一応、向こうの先生たちと研究室では、なんとか会話できるのだけれども。 池上:ブロークンで聞き取れない。 山本:聞き返しても、やはり同じように言う。まさにマニュアルどおりで、「この相手は英語があまり得意ではないようだから、やさしい言葉でゆっくり話してやろうか」という対応をしようともしないんですね。結果的にコミュニケーションが成立しないのです。 佐藤:やはり、英会話ができればいい、という話ではないのです。もちろん、ブロークン・イングリッシュが試験問題になるわけではないのでしょうが、中途半端なレベルで「話す」ことを試しても、ほとんど無意味ですよ』、その通りなのだろうが、「話す」を外すと、高校生の「話す」ことへの意欲を失わせる懸念もあるので、やはり入れておくべきなのかも知れない。
タグ:安倍政権の教育改革 (その9)(愚策の極み「学テで校長評価」 現場が失う大事なもの、「日の丸・君が代」教員らに強制 ILO 政府に是正勧告、「センター試験の大改革」に秘められた深い意味 大学入試センターの山本廣基理事長に聞く) 河合 薫 日経ビジネスオンライン 日本は、日本語空間の中で生活が成り立つわけで、そういう意味で「大国」なんですよ それは教育ではなく、本人の問題です いろいろな方が、「10年近く英語を習ったのに、自分はろくに話せない。教育が間違っている」とおっしゃるので 帰国子女が圧倒的に有利に 「英語4技能」は学生選抜に歪みが生じる可能性がある 読む力が「天井」で、同じ文章をしゃべれるけれど読めないということは、ありえないのです 英語の試験に「話す」は必要なのか 入学者選抜においては、共通試験と個別試験が「両輪」であるべき 大学入試の根幹に関わる問題ではないでしょうか。実態をオープンにして、教育関係者が正しい認識を持つ意味は、非常に大きなものがあると思います 実態を知ってもらわなければ、改革もままなりません 私は必要なことはできるだけ発信していこうと考えている だいたい4分の1ずつ、4つのグループに分類できるんですよ。国公立専願、国公立・私立併願、私立専願、そして残りの4分の1は何かというと、大学から成績提供の請求がない人たちです センター試験の受験生は約55万人 入試に表れる“ふたこぶラクダ”現象とは? 新たな「大学入学共通テスト」 「「センター試験の大改革」に秘められた深い意味 大学入試センターの山本廣基理事長に聞く」 対談 山本 廣基 佐藤 優 池上 彰 東洋経済オンライン 愛国的な式典に関する規則に関して、教員団体と対話する機会を設ける。規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする」「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒の仕組みについて教員団体と対話する機会を設ける」「懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせる」 日本政府に対する勧告を採択。今月二十日の承認を経て、文書が公表 ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会 「「日の丸・君が代」教員らに強制 ILO、政府に是正勧告」 東京新聞 学校現場で求められる教育を徹底的に行い、その“結果”としての「学力テストの向上」を目指し、現場の先生たちのモチベーションを高めることができる。 つまり、問題はそういうマネジメント能力のある校長先生が、どこにいるのか? ってこと ニンジンをぶら下げる前に、校長先生に投資せよ! 先生たちの「働かされ感」が高まるだけ 「子どもの学力テストの結果=校長の評価」として使われるようになれば、数値化できない「力」は切り捨てられ、目に見える数字を追いかける校長が量産され、学力テストの結果が悪いクラスの担任は校長に尻を叩かれ、授業は学力テストのためだけの授業になり、子どもには「勉強させられ感」が強まり、学力は向上するどころか低下するリスクが高まる その教科の専門家と現場の先生たちが、汗水流して必死で作った結晶が「教科書」だ。それをただ「点数」を取るための道具にするな 僭越ながら中学校理科の教科書づくりに、かれこれ10年以上関わっている ただ「点数」を取るための道具にするな 成績・進学期待 収入に比例 どんなに先生たちが頑張っても学力が上がらない学校はある 「人を育てる」という言葉の意味を、大阪市のお偉い方たちは微塵もわかっていないのだろう おっちょこちょい市長による、とんでも政策 文部科学省が「学力テストの趣旨を逸脱している」と“ニンジン方式”を禁止したことで、翌年には、中3の国語、数学の平均正答率がいずれも全国平均を下回り、空白の解答欄も目立つなど、残念な結果に それまで、全国で下位に低迷し続けていた屈辱を晴らし、大躍進を遂げた 知事が唐突にぶら下げた“ニンジン”に、現場の先生たちはてんやわんや 松井一郎府知事になってからも、学力テストが実施される直前に、「来春の高校入試の際に提出する内申点に、全国学力テストの学校別結果を反映させる!」と突然発表する “事件” 全国学力テストの成績が2年連続で全国最低レベルに低迷した08年、当時の橋下府知事が学力テスト結果の公表を巡って「クソ教育委員会」と暴言を吐いたり、「このざまは何だ!」と罵声を浴びせたり、ついには「教育非常事態宣言」を出して学校教育に介入したりと、すったもんだがあった “ニンジンぶら下げ方式” 両テストの学校ごとの結果を校長の人事評価の20%分に反映させるとともに、賞与の半分程度を占める勤勉手当の評価材料として使う 大阪市教育委員会が、市内の小中学校の校長の人事評価に、生徒の学力を測る目的で府や市が実施している独自テストの結果を反映する方針を固めた 「愚策の極み「学テで校長評価」、現場が失う大事なもの」 中途半端なレベルで「話す」をテストしても意味がない
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