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メディア(その14)(小田嶋氏:「迷惑をかけた」の半分以上は) [メディア]

メディアについては、3月1日に取上げた。今日は、(その14)(小田嶋氏:「迷惑をかけた」の半分以上は)である。

コラムニストの小田嶋 隆氏が3月15日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「迷惑をかけた」の半分以上は」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00011/?P=1
・『ミュージシャンで俳優のピエール瀧さんがコカインを使用したとして逮捕された。 逮捕されたということは、ここから先は、「ピエール瀧こと瀧正則容疑者(51)=東京都世田谷区」といったあたりの主語を使って原稿を書き進めるべきなのだろうか。 なんということだ。 最初の、主語の選び方の時点で気持が萎えはじめている。 個人的に、平成の30年間は、この種の事件に関連する原稿を書くに当たって、メディア横断的な横並び圧力が強まり続けてきた30年だったと感じている。特に、犯罪に関わった人間を扱う際の主語や敬称の使用法がやたらと面倒くさくなった。 なんというのか、 「主語の運用において、礼法に則った書き方を採用していない書き手は信用に値しません」 みたいな、七面倒臭いマナーが、業界標準として定着してしまった感じを抱いている。 「ハンコを押す時には、相手の名前に向かって軽く頭を下げる角度で押印するのがビジネスマナーの基本です」 みたいな、どこのマナー講師が発明したのかよくわからない原則が、いつの間にかオフィスの定番マナーになりおおせているのと同じく、記事の書き方に関しても、この半世紀の間に、不可解な決まりごとが増えているということだ』、言われてみれば、確かにその通りで、読み手からみても、同調圧力の強さには不気味さを感じる。
・『私がライターとして雑誌に文章を書き始めた1980年代当時は、タレント、政治家、一般人、容疑者、肉親、友人、被告、受刑者などなど、どんな立場のどんな人物についてであれ、あらかじめ定型的な表記法が定められていたりはしなかった。私自身、その時々の気分次第で、犯人と名指しされている人間を「さん」付けで呼ぶケースもあれば、政治家を呼び捨てにした主語で原稿を書くこともあった。それで誰に文句を言われたこともない。 というよりも名乗る時の主語が、「私」だったり「おいら」だったりするのが、本人の勝手であるのと同様の理路において、文章の中に登場する人物のうちの誰に「さん」を付けて、誰を呼び捨てにするのかは、書き手の裁量に委ねられていた。別の言い方をするのなら、敬語敬称の運用法も含めて、すべては個人の「文体」とみなされていたということでもある。 それが、ある時期から新聞記事の中で 「○○容疑者」「○○被告」「○○受刑者」という書き方が作法として定着し、さらに 「○○司会者」「○○メンバー」といった、一見ニュートラルに見える肩書無効化のための呼称までもが発明されるに及んで、文章の中に登場する人物への呼びかけ方は、独自の意味を獲得するに至った。 つまり、 「誰をさん付けで呼び、誰を呼び捨てにするのかによって、書き手のスタンスや立場が計測されるようになった」ということだ。 これは、著しく窮屈なことでもあれば、一面理不尽なことでもある。 というのも、書き手から見た文章中の登場人物への距離なり感情なりを示す手がかりである「呼びかけ方」は、必ずしも世間におけるその人物の序列や評価と一致しているわけではないからだ。ついでに申せば、犯罪者への共感であれ、国民的英雄への反感であれ、ひとつの完結した文章の中で表現されることは、本来、書き手の自由意志に委ねられている。 早い話、どれほどトチ狂った言動を繰り返しているのだとしても、私にとってルー・リード(注)先生はルー・リード先生だし、世間がどんなに尊敬しているのだとしても、大嫌いな○○を「さん」付けで呼ぶのはまっぴらごめんだということだ』、その通りだ。(注)ルー・リード:アメリカのロックなどのミュージシャン。
・『今回、私が、本題に入る前に、敬称の有無や種類のような表現の細部にこだわってみせているのは、ピエール瀧氏について、私がどんな感情なり見解を書くことになるのかは、私が自分の原稿の中で彼をどんな名前で呼ぶのかということとに深く関連していることを、強く自覚しているからだ。 「ピエール瀧容疑者」という主語を使ってしまったが最後、その後の部分で私がどんなに真摯な共感を表明したのだとしても、それらは言葉どおりには響かない。 「ピエール瀧容疑者よ。私はあなたの自在なトークが大好きでした」と、こんな書き方で、いったい何が伝わるというのだろうか。 新聞や雑誌のような媒体が、特定の人物について呼称なり表記の統一を要求したがるようになったのは、おそらく単に、メディアとしての統一性を確保したいからに過ぎない。彼らとて、犯罪の容疑者である人物に対して、共感を抱いたり好意を持つことを一律に禁じようとしているわけではないはずだ。 しかし、表記の統一がもたらす効果について言うなら、それはまた別だ。 ある人物について呼称を統一することは、その人物への感情の向けられ方を定型化せずにはおかない。 書き手の立場からすれば、「容疑者」と表記した人物については、その呼称にふさわしい書き方でしか描写できなくなってしまう。 これは、なんでもないことのようだが、実は、とんでもないことだ。 なんとなれば、「容疑者」なり「受刑者」なりという呼称は、一個の人間から人間性を剥奪するスティグマ(烙印)として機能するはずだからだ』、「呼称」の意味を改めて深く考えさせられた。
・『事件が発覚した一昨日の深夜以来、テレビの情報番組は、ひたすらにピエール瀧氏が犯した犯罪の深刻さを強調し続けている。 テレビの画面を見ていて私が感じるのは、彼が犯したとされる 「罪」のかなりの部分が、メディアによってアンプリファイ(増幅)された 「騒動」だということだ。 瀧氏が、報道されている通りに、違法な薬物を使用していたのであれば、そのこと自体は、無論のこと犯罪だ。 その点については、ご本人も認めている。 しかしながら、午前中から夕方にかけての時間枠の長い情報番組が、何度も何度も繰り返し繰り返し同じ映像を使い回ししながら、しきりに強調し続けているのは、瀧氏のかかわった仕事が、次々と配信停止になり、あるいは発売中止や公演停止に追い込まれ、店頭から回収され、一緒に働いていた仲間の努力が水泡に帰し、貧しい劇団員たちの収入が途絶え、損害が発生し、関係者が事態収拾に走り回り、事務所の人間が頭を下げ、相棒が涙を流し、ファンが落胆し、テレビ司会者が「裏切られた」と訴えている経緯や展開だったりするわけなのだが、それもこれも、結局のところ「メディアの主導によって引き起こされている事件の余波」によるものだ。 もちろん、最も根本的な部分の原因は、瀧氏の不適切な行動にある。 このことははっきりしている。 しかし、火種を大きくし、見出しの級数を拡大し、関係者に対応を問い合わせしまくり、肉親に直撃取材を試み、ファンにコメントを求めているのは、テレビ局のスタッフでありスポーツ新聞の記者たちだ。 そもそも、映画会社が配信を断念し、ゲーム制作会社が販売を延期し、放送局が収録済みの番組のネット配信を引き上げるに至った理由は、消費者による問い合わせや抗議の声が拡大し、現場のスタッフが縮み上がったからなのだが、その問い合わせや抗議のネタ元となった騒動の拡大を煽ったのは、ほかならぬテレビの情報番組だったりしている。 ということは、10億円以上と言われている賠償額をより大きくすることでニュースバリューの引き上げにかかっているのは、実は彼らメディアの人間たちであり、結局のところ、われわれが真っ昼間のテレビの画面上で見せられているのは、進行中のメディアによるマッチポンプだということだ。 「世間をお騒がせして申し訳ない」という、不祥事に関連した有名人が謝罪する時に吐き出す定型句が、はからずも示唆しているのは、 「騒いでる世間って、要するにあんたたちメディアのことだよね」ということだったりする。 つまり、「迷惑をかけた」と、タレントさんが謝罪する時の具体的な「迷惑」のうちの半分以上は、メディアが自作しているということだ。なにしろ彼らは、騒動が鎮火しそうになる度に新たな燃料を投下して、コンテンツの延命化を図っている。 というのも、彼らにとっては、誰かの迷惑のタネを生産し続けることが自分たちの商売の前提だからだ』、「われわれが真っ昼間のテレビの画面上で見せられているのは、進行中のメディアによるマッチポンプだ」とは言い得て妙だ。「彼らにとっては、誰かの迷惑のタネを生産し続けることが自分たちの商売の前提だからだ」、メディアもずいぶん罪作りなことをしているようだ。
・『さらに言えば、メディアは、自分たちが騒ぎを起こしている理由すら自作している。 この理屈はちょっとわかりにくいかもしれない。 説明すれば以下のようなことだ。 彼らは、薬物事犯が極めて反社会的かつ破廉恥な犯罪であり、その罪を犯した人間を断罪し追及することこそが自分たちメディアの使命であるという意味の宣伝を繰り返している。 で、彼らは、違法薬物が人間の精神を蝕む悪魔の粉であり、反社会的組織の資金源でもある旨を、深い事情を知らない視聴者に向けて啓蒙することが自分たちに与えられた神聖な役割であることをアピールしている。 要するに、テレビの関係者としては、自分たちが、この種の薬物事犯の報道を大きく扱う理由は、VTRの尺を稼ぐためでもなければ、視聴者の注意を惹くためでもなく、ただただ「社会のため」だということを強調しているわけだ。 でも、本当のところ、彼らは、騒ぎが起こったから報道しているのではない。 どちらかといえば、メディアが寄ってたかって報道していることで騒ぎが発生していると言った方が実態に近い。 しかも彼らは、瀧氏の関わった作品が次々とお蔵入りになっているプロセスを粛々と伝えているそのニュースの背景映像として、瀧氏のコンサート映像を流し続けている。 瀧氏が映りこんでいる映像の販売や配信については、不謹慎だからという理由で自粛させておいて、自分たちは瀧氏の映像を間断なく再生し続けているわけだ。 無論、彼らには彼らの理屈があって、薬物犯罪の容疑者を断罪する文脈の中で、その容疑者が過去に関わった映像を流すことは何ら問題ないとか、そういう話になるのだろう。 違法薬物の使用なり所持が発覚すると、その瞬間から苛烈な吊し上げ報道が展開され、あらゆる関連作品が自粛の波に飲み込まれることは、誰であれ制作物に関わっている21世紀の人間であれば、ある程度あらかじめ承知していることだ。 そういう意味で、メディアによるリンチ報道は、未体験の人間を薬物の誘惑から遠ざける役割を果たしていると思う。 私自身、「幻覚」だとか「多幸感」だとかみたいな言葉を繰り返し聞かされているうちに、試してみたいと思う瞬間が無いわけでもないのだが、のりピーや瀧さんの扱われ方の残酷さを見ていると、とてもではないが、いまさらハイエナのエサに手を出す気持にはなれない。 違法薬物への入り口を塞ぐ意味で貢献しているのだとしても、薬物からの出口というのか、依存症に陥った人間を更生に導く意味では、現状のメディア・スクラムは、逆効果しかもたらしていない。 ひそかに薬物を使っている人間にとっては、薬物摂取の習慣をなんとしてでも隠蔽する理由になるだろうし、現実問題として、内心で薬物依存からの脱却を願っていたとしても、断薬への道を歩み始める手前の段階に 「人間やめますか」のハードルが課されている現況はどうにもキツすぎる』、「メディアによるリンチ報道は、未体験の人間を薬物の誘惑から遠ざける役割を果たしている」、しかし、「依存症に陥った人間を更生に導く意味では、現状のメディア・スクラムは、逆効果しかもたらしていない」というのはかなり深い分析だ。
・『最後に、断酒中のアルコール依存症患者としての立場からの言葉を残しておきたい。 断酒には(あるいは断薬にも)ある頑強な逆説がかかわっている。 この逆説は、とても説明しにくい。 他人に説明しにくいくらいだから、本人にとっても極めてわかりにくいのだが、なんとか説明してみる。 以下、ややこしい話になると思うが、なんとかついてきてほしい。 アルコール依存者の自助組織であるAA( Alcoholics Anonymous =直訳は「匿名のアルコール依存症者たち」)では、伝統的にアルコール依存からの回復の手順として「12ステップのプログラム」と呼ばれるものが伝えられている。 ウィキペディアの項目が比較的よく整理されているので、興味のある向きは参照してみてほしい。 これは、薬物やギャンブルなどの依存症にも適用されている有用な手法なのだが、当事者にとって(特にわれわれのような一神教の信仰を持っていない日本人にとって)最初の2つのステップが難物だ。しかも、この最初の関門を突破しないとその先の回復のステップを進むことができない仕様になっている。 念のために列挙してみると、以下のような文言だ。 1.私たちはアルコールに対して無力(powerless)であることを自覚した(admitted)-自分自身の生活がコントロール不能(unmanageable)である。 2.偉大なパワー(Power greater)が、私たちを正気に戻してくれると考えるようになった。 1で言っていることはつまり「自力では酒をやめられないこと」を認めることではじめて、「酒をやめるためのスタートライン」に立つことができるということだ。 全体としては「自分の無力さを自覚することではじめて再出発できる」というお話なのだが、この理屈には「自己放棄による再出発」というかなりあからさまなダブル・バインド(注)が介在している。それがどうしても腑に落ちない。だって、再出発する当の本人が自分自身を信用しないでどうする? と、どうしてもそう思えてしまうからだ。 ジョンレノンの「HOW」という歌の最初の一行は、 " How can I go forward when I don't know which way I'm facing?" と歌いはじめられている。私はこのフレーズを思い出したものだった。 「自分がどの道を歩いているのかもわからないで、どうして前に進むことができるだろう?」 その通りだ。自分を信じない人間が、どうやって自分をいましめることができるんだ? で、その答えが、2番めの、「大いなる力」というわけなのだが、これが、モロにキリスト教の「神」っぽくて、普通に育った日本人の私には、やはり受け入れがたい。 率直に言えば「うそつけ」「だまされてたまるもんか」とそう思えるわけだ。実のところ、私はいまでもちょっとそう思っている。 ただ、この二つのステップの絶妙なところは、「自分の(アルコールに対する)無力さ」という依存症の本態を、これ以上ないシンプルな言葉で言い当てているところだ。 多くのアルコール依存者が断酒に失敗するのは、 「自力で」「気力で」「強い意志の力で」アルコールなり薬物なりへの欲望をねじふせようとするところにある。 これをやると、遅かれ早かれいずれ忍耐が決壊するポイントに到達する。 我慢には、限界がある。 限界までは我慢できるけれど、限界が来たら、我慢はやぶれる。当たり前の話なのだが、この当たり前のところがなかなか理解できない』、なるほど。
(注)ダブル・バインド:ある人が、メッセージとメタメッセージ(メッセージは伝えるべき本来の意味を超えて別の意味を伝えるようになっていること)が矛盾するコミュニケーション状況におかれること(Wikipedia)。
・『薬物使用者を断罪する報道を見ていると、いずれも、依存症患者を 「我慢の足りない人」「自己制御のできていない人間」「自分に甘えている人」というふうに規定するドグマから一歩も外に出ていない。 違法の薬物に手を出して、それをどうしてもやめることができずに、いずれ発覚したらすべてを失うことをよく理解しているのに、それでもやっぱり常習的に使用することを断念できずにいたのは、意志が弱いとか見通しが甘いとか、そういう話ではない。 病気だったということだ。 病気だということの意味は、自力では治せないということでもあれば、自分を責めても仕方がないということでもあれば、治療法については他人の力を借りなければならないということでもある。 依存症患者が陥りがちなループから逃れることがまず最初の課題だということでもある。 そのループとは、 +自分は誰よりも酒(あるいはクスリ)を理解している。 +自分ほど自分を理解している人間はいない。 +自分は自分をコントロールできている。 +酒(クスリ)は、時に自分を失わせるが、その酒(クスリ)を自分は自分の意思で制御している。 +ということは自分は酒(クスリ)を通して自分をコントロールできている。 みたいな奇妙な理屈なのだが、これは、酒(あるいはクスリ)とセットになると無敵の自己弁護になる。 この境地から外に出ることが、つまり、自分の無力さを自覚することになるわけだ。 わかりにくい話をしてしまった』、さすが、アルコール依存症に苦しんだ小田嶋氏だけある。
・『ピエール瀧さんとは3度ほど同席させてもらったことがある。その都度、心底から愉快な時間を過ごすことができたと思っている。とても感謝している。 私の知る限り、どの芸人さんやタレントさんと比べても、あんなに爆発的に面白い人はほかにいない。 無論、個々の芸人さんたちとて、本筋の芸を演じる時には、見事な面白さを発揮してくれる。そのことはよくわかっている。 でも、瀧さんは、私がこれまでの人生でナマで話した人の中で、誰よりも素の会話の面白い人だった。これは自分の中では動かない事実だ。 その面白さがクスリの作用だったとは私は考えていない。 クスリや酒は、気分を動せても、アタマの中身そのものを変えることはできない。 そのアタマの中身の素晴らしさをもう一度取り戻すためにも、ぜひ断薬してほしいと思っている』、私はピエール瀧のことは殆ど知らないが、小田嶋氏がここまで褒めるのであれば、それなりの人物なのだろう。再起を期待したい。
タグ:メディア 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 (その14)(小田嶋氏:「迷惑をかけた」の半分以上は) 「「迷惑をかけた」の半分以上は」 ピエール瀧さんがコカインを使用したとして逮捕 平成の30年間は、この種の事件に関連する原稿を書くに当たって、メディア横断的な横並び圧力が強まり続けてきた30年だったと感じている 主語の運用において、礼法に則った書き方を採用していない書き手は信用に値しません」 みたいな、七面倒臭いマナーが、業界標準として定着してしまった感じ 誰をさん付けで呼び、誰を呼び捨てにするのかによって、書き手のスタンスや立場が計測されるようになった 書き手から見た文章中の登場人物への距離なり感情なりを示す手がかりである「呼びかけ方」は、必ずしも世間におけるその人物の序列や評価と一致しているわけではない 「ピエール瀧容疑者」という主語を使ってしまったが最後、その後の部分で私がどんなに真摯な共感を表明したのだとしても、それらは言葉どおりには響かない 新聞や雑誌のような媒体が、特定の人物について呼称なり表記の統一を要求したがるようになったのは、おそらく単に、メディアとしての統一性を確保したいからに過ぎない ある人物について呼称を統一することは、その人物への感情の向けられ方を定型化せずにはおかない 彼が犯したとされる 「罪」のかなりの部分が、メディアによってアンプリファイ(増幅)された 「騒動」 「メディアの主導によって引き起こされている事件の余波」 結局のところ、われわれが真っ昼間のテレビの画面上で見せられているのは、進行中のメディアによるマッチポンプだということだ メディアは、自分たちが騒ぎを起こしている理由すら自作している 物事犯が極めて反社会的かつ破廉恥な犯罪であり、その罪を犯した人間を断罪し追及することこそが自分たちメディアの使命であるという意味の宣伝を繰り返している メディアが寄ってたかって報道していることで騒ぎが発生していると言った方が実態に近い メディアによるリンチ報道は、未体験の人間を薬物の誘惑から遠ざける役割を果たしていると思う 依存症に陥った人間を更生に導く意味では、現状のメディア・スクラムは、逆効果しかもたらしていない 断酒中のアルコール依存症患者としての立場 アルコール依存者の自助組織であるAA( Alcoholics Anonymous 伝統的にアルコール依存からの回復の手順として「12ステップのプログラム」 1.私たちはアルコールに対して無力(powerless)であることを自覚した(admitted)-自分自身の生活がコントロール不能(unmanageable)である 2.偉大なパワー(Power greater)が、私たちを正気に戻してくれると考えるようになった 常習的に使用することを断念できずにいたのは、意志が弱いとか見通しが甘いとか、そういう話ではない。 病気だったということだ
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