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無差別殺人事件(その2)(小田嶋氏:「死にたい人」の背中を押すなかれ) [社会]

昨日に続いて、無差別殺人事件(その2)(小田嶋氏:「死にたい人」の背中を押すなかれ)を取上げよう。

コラムニストの小田嶋 隆氏が5月31日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「死にたい人」の背中を押すなかれ」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00023/?P=1
・『川崎市の登戸でひどい事件が起こった。 詳しくはリンク先を見てほしい。私はあまりコメントしたくない。 登戸は、20代の頃、仕事上で行き来のあった人が住んでいた場所だ。その人はもう亡くなってしまったのだが、いつも自分の生まれ故郷である登戸について「ニコタマ(二子玉川)なんかよりずっと素敵な街だ」という言い方で自慢していた。 つい半年ほど前に所用で訪れた時にも、私の生まれ育ったあたりと同じ河川敷に近い街の空気に親近感を抱いた。なので、今回の事件は胸にこたえた。 宮崎勤による一連の幼女殺害事件が発覚したばかりの頃、保育園に通う女の子を持つ知り合いがとても怒っていたのを記憶している。 当時独身だった私は、いつもは温厚なその知り合いが、どうしてそこまで強い憤りを表明しているのかを、いぶかっていたのだが、後に、自分が子供を持ち、同じ立場の保育園児の親たちとやりとりするようになって、幼児を養育している親が、あの種の子供を被害者とする事件を決して他人事とは考えないことを学んだ』、「宮崎勤による一連の幼女殺害事件」は1988年から89年にかけての事件だったようだ(Wikipedia)。
・『今回の事件でも、幼いお子さんを持つ親御さんたちの反応は、やはりとてもビビッドだ。当然だと思う。 そんな中、Yahoo!ニュースの「個人」のトピックに 《川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい》という見出しの記事が掲載された。 ツイッター上で話題になっていたので、早速読みにいった私は、この記事を書いた藤田氏の見解に、おおむね共感を抱いた。「おおむね」というのは、全面的に同意したわけでもないからそう書いているわけなのだが、でもまあ、全体として彼が書いていることはもっともだと思っている。 記事の内容そのものとは別に、私がより強い興味を惹かれたのは、この記事に対してツイッター上やその他の媒体を通じて論評のコメントを寄せている人々の口調が、並外れて激越なことだった。 あの記事の主張に賛成できない人がいることは理解できる。藤田氏の見解を「的外れ」だとか「読みが浅い」というふうに評価する見方にも一定の論拠はあると思う。 ただ、藤田氏が書いたテキストは、内容も文体も至極穏当なものだ。誰かを非難したり攻撃したりしている文章でもない。とすれば、読んでみて共感できなかったにしても、口汚く罵倒したり、「弱者救済」商売というような言い方で中傷したりせねばならないような記事ではないということだ。 にもかかわらず、氏の記事は強い怒りを持った人々を呼び寄せている。で、その怒りに燃える彼らは、犯人に浴びせていたのと同じ口調で藤田氏を攻撃している。 どうしてこんな理不尽なことが起こるのだろうか。私にとっては、なによりこの点が不可解だった。 今回は、「怒り」について考えてみたいと思っている』、昨日の本ブログでも藤田氏の主張とそれへの攻撃を紹介した。
・『どうやら、あるタイプの人々は、怒りに水を差されるとさらに怒る仕様になっている。 いったい、何がそんなに彼らを憤らせるのだろうか。 その日の夜になって、私は《「死にたいなら一人で死ね」というメッセージの発信に注意を促した人は、殺人犯を擁護したのではない。「死にたいなら一人で死ね」というその言葉が、不安定な感情をかかえた人々への呪いの言葉になることを憂慮したから、彼はそれを言ったのだ。どうしてこの程度のことが読み取れないのだろうか。》というツイートを投稿した。 と、怒りは私のアカウントに向けられることになった。 このツイートには、5月30日の18時時点で、約18000件のリツイート(RT)、約44000件の「いいね」が集中している。 直接のリプライもこれまでに565件届いている。 リプライの多数派は、私の書き込みに対する怒りだ。 「どうしてこのタイミングでそれを言うのか」「お前が被害者の親でも同じことが言えるのか」「冷静ぶった偽善者の発言には虫唾が走る」とまあ、ケチョンケチョンのありさまだ。 もっとも、私のアカウントに直接語りかけるカタチでリプライを届けてきた人々の多数派が、私を罵倒していることは承知した上で、そのこととは別に、私は自分のツイートがツイッター世界の多数派に拒絶されたとは考えていない。むしろ、「いいね」の数や「RT」の数との対比から、私は、自分の書き込みに共感してくれた人の方が多かったと感じている。 その根拠になるのかどうかはわからないが、ツイッターのようなSNSでは、怒っている人間や憎しみを抱いているアカウントの方が多弁になりがちで、共感を抱いている人々はより沈着な反応を示すものだからだ。 悲しみが人々をフリーズさせ、彼らから言葉を奪うのに対して、怒りはそれを抱いている人間を饒舌にさせ、行動を促す。 であるからSNSには、悲しみや落胆よりは、怒りと憎しみがより目立つカタチで集積することになる』、「SNSでは、怒っている人間や憎しみを抱いているアカウントの方が多弁になりがちで、共感を抱いている人々はより沈着な反応を示すものだからだ」、SNSでの反応の本質を突いているようだ。
・『もう一つ、私が、藤田氏の記事の中では特に触れられていなかった点で個人的に懸念を持ったのは、「死にたいなら一人で死ね」というメッセージが、孤独な人間を犯罪に追いやる可能性とは別に、それらの言葉が希死念慮を抱いている人間の背中を押す結果にならないかどうかだった。 で、先ほどのツイートのすぐ後 《希死念慮を抱いていながらギリギリのところでなんとか生きながらえている人間は、それこそ何十万人もいる。そういう人々にとって「死にたいなら一人で死ね」というメッセージは、本当に破滅的なスイッチになり得る。強くいましめなければならない。当然だ。》というツイートを連投した。 これにも同じように、反発の声が多数寄せられている。 「希死念慮を抱いている人間を犯罪予備軍と一緒くたにするのか!」「『希死念慮を抱いている人間』なんていう気取った言葉を振り回さずに、『死にたい気持ちを持っている人』と言えばもっと伝わるのに」などなど、さんざんな言われようだ。 ひとこと申し添えておく。「希死念慮」という言葉は、たしかにガクモンくさいし、いかにも持って回った言い方に聞こえる。 ただ、私は、このある意味で難解な言葉は、「死にたい」と考える気持ちを、外側から客体化して表現している点で適切な言い方だと思っている。「自分は希死念慮を抱いている」という観察は、自分自身を少し離れた位置から見つめている分だけ、しっかりしている』、さすがコラムニストだけあって、言葉遣いには神経を使っているようだ。
・『いずれにせよ、自分自身の死について考えることが当面の慰安であるような局面に追い詰められている人の数は、のんきに暮らしている私たちが考えているよりずっと多い。 自分の人生の中で希死念慮を抱いていた一時期を経験している人ということになると、その数はさらに多くなるはずだ。さらに、血中のアルコール濃度がある水準を下回った時の、半ばオートマチックかつケミカルな反応として希死念慮を抱く習慣を持っているアルコール依存症予備軍を勘定に入れれば、「死にたい」と一瞬でも考えたことのある人間の数はもしかしたら、日本人の半数を超えるかもしれない。 そういう人々にとって 「死にたいなら一人で死ね」という言葉は、自死を促すスイッチになりかねない。私はそのことを強く懸念する』、「血中のアルコール濃度がある水準を下回った時の・・・希死念慮を抱く習慣を持っているアルコール依存症予備軍」、これは初めて知ったが、依存症経験のある小田嶋氏ならではの表現だ。
・『上記で紹介した罵倒とは別に、私のアカウントに寄せられたリプライの中には 「あなたの言いたいことはよくわかるし、もっともだとも思う。ただ、いまがそれを言うべき時であるのかを考えてほしい。あなたの主張は被害者遺族に対して配慮を欠いた物言いではないだろうか」という感じのやんわりとした指摘もあった。 もっと強い言い方で同じ趣旨のことを言ってくる人は、もっとたくさんいた。 おそらく彼らが指摘したかったのは、「犯人への憎悪と怒りが渦巻いている空気の中で、その空気に水を差す発言は、結果として犯人サイドを擁護することになるのではないか」「一番寄り添わなければならないのは、被害者であり被害者の遺族であるはずなのに、どうして事件が起きた当日に犯人やその予備軍に配慮した発言を発信しているのか」というようなお話なのだと思う。 毎度のことだが、この種の扇情的な事件が起こると、マスメディアもそうだが、特にネットメディアは、その「扇情」をさらに煽りにかかる傾きを持っている。 ちょっと前に「弱者憑依」(注)というなんともいやらしい言葉がちょっとバズったことがあって、私はこの言葉が大嫌いなのだが、今回のようなこの種の事件に際しては、毎度「被害者憑依」「被害者遺族憑依」とでも言うべき感情のアンプリファイが横行することになっている。 どういうことなのかというと、「被害者に寄り添う」という大義名分のもとに、犯人への憎悪や、事件への怒りや憤りを共有し増幅し、煽り立て、それらの感情的な同調をメディアぐるみで消費することで、あるカタルシスを得る運動が勃発するということだ。 より簡単に言えば、怒りや義憤や憎悪をかき立てることで、アドレナリンを分泌させて、感情的な負荷の棚卸しをする人たちが大量発生するということでもある。うん。あんまり簡単な言い方になっていなかった。 この点についても同じ日にツイートしているので、参考までに引用しておく。 《「怒り」という感情は快感をもたらすのだろうね。だから嗜癖する人は嗜癖する。というよりも、怒りは悲しみに比べてずっと対処しやすい感情で、だから、あるタイプの人々は、悲しむべき場面であっても、なんとかそれを怒りに変換しようと躍起になっていたりする。いずれにせよはた迷惑な話だ。》リンク 《なるほど。ツイッターは、怒りや憎しみの持って行き先を探している人々のための、マッチングサイトでもあるのだな。》リンク この世界の中には、何かに怒っていたり、誰かを憎んでいたりしないと自分を保てない人々が一定数暮らしている。彼らの心にはまず怒りがあって、それゆえ常にその怒りの持って行き先を探していたりする』、小田嶋氏のツイートのなかでも、「ツイッターは、怒りや憎しみの持って行き先を探している人々のための、マッチングサイトでもあるのだな」とのは秀逸だ。
(注)「弱者憑依」をネット検索したところ、「弱者や少数派を代弁する人々について、佐々木俊尚氏@sasakitoshinao氏は「その当事者性を自分の所有物であるかのように振る舞う(○○の前で言えますか?)のは間違ってると思う」と批判しています(togetter 2011/5/3)。
・『思えば、犯人もそういう人間の一人だったのかもしれない。 人々による怒りの表明とその怒りへのより多数の同調は、鬱屈した怒りを内在させている人々にとっての発火点になり得る。 その意味で、テロ報道はテロを呼ぶし、過剰な自殺報道は新たな自殺を誘発するし、扇情的な通り魔犯罪への言及はさらなる同種の事件へのヒントになってしまいがちだ。 おそらく、今回のこの原稿のコメント欄にも、怒りのコメントがたくさん投じられるだろう。 怒りを吐き出すことで、すっきりするタイプの人もいるが、怒りを表現することでさらなる怒りに嗜癖していくタイプの人間もいる。 こういう原稿は、なるべくヌルく締めくくりたい。 ここは一番「そんなおこらんといてや」とつぶやいておく。 関西方面のアクセントで読んでいただくとありがたい。 さらば』、「人々による怒りの表明とその怒りへのより多数の同調は、鬱屈した怒りを内在させている人々にとっての発火点になり得る」、というのは新たな視点で、説得力に富む。「ここは一番「そんなおこらんといてや」とつぶやいておく」というのも秀逸な締めだ。
タグ:「死にたいなら一人で死ね」というメッセージが、孤独な人間を犯罪に追いやる可能性とは別に、それらの言葉が希死念慮を抱いている人間の背中を押す結果にならないかどうか SNSには、悲しみや落胆よりは、怒りと憎しみがより目立つカタチで集積することになる ツイッターのようなSNSでは、怒っている人間や憎しみを抱いているアカウントの方が多弁になりがちで、共感を抱いている人々はより沈着な反応を示すものだからだ 小田嶋 隆 (その2)(小田嶋氏:「死にたい人」の背中を押すなかれ) より強い興味を惹かれたのは、この記事に対してツイッター上やその他の媒体を通じて論評のコメントを寄せている人々の口調が、並外れて激越なことだった 「自分は希死念慮を抱いている」という観察は、自分自身を少し離れた位置から見つめている分だけ、しっかりしている 毎度「被害者憑依」「被害者遺族憑依」とでも言うべき感情のアンプリファイが横行することになっている 「弱者憑依」 「死にたいなら一人で死ね」というその言葉が、不安定な感情をかかえた人々への呪いの言葉になることを憂慮したから、彼はそれを言ったのだ。どうしてこの程度のことが読み取れないのだろうか。》というツイートを投稿 この記事を書いた藤田氏の見解に、おおむね共感を抱いた この種の扇情的な事件が起こると、マスメディアもそうだが、特にネットメディアは、その「扇情」をさらに煽りにかかる傾きを持っている 血中のアルコール濃度がある水準を下回った時の、半ばオートマチックかつケミカルな反応として希死念慮を抱く習慣を持っているアルコール依存症予備軍 不安定な感情をかかえた人々への呪いの言葉になることを憂慮 あるタイプの人々は、怒りに水を差されるとさらに怒る仕様になっている 人々による怒りの表明とその怒りへのより多数の同調は、鬱屈した怒りを内在させている人々にとっての発火点になり得る ここは一番「そんなおこらんといてや」とつぶやいておく 怒りを吐き出すことで、すっきりするタイプの人もいるが、怒りを表現することでさらなる怒りに嗜癖していくタイプの人間もいる ツイッターは、怒りや憎しみの持って行き先を探している人々のための、マッチングサイトでもあるのだな 登戸でひどい事件 《川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい》 怒りに燃える彼らは、犯人に浴びせていたのと同じ口調で藤田氏を攻撃 宮崎勤による一連の幼女殺害事件 「「死にたい人」の背中を押すなかれ」 日経ビジネスオンライン 無差別殺人事件
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