哲学(その1)(AI時代だからこそ哲学を学ぶ、「正義の教室」:正義を哲学すると「3つ」に分類できる、悪を哲学すると「3つの行為」に行きつく、多数決を哲学すると、なぜ「悪」になるのか?) [社会]
今日は、哲学(その1)(AI時代だからこそ哲学を学ぶ、「正義の教室」:正義を哲学すると「3つ」に分類できる、悪を哲学すると「3つの行為」に行きつく、多数決を哲学すると、なぜ「悪」になるのか?)を取上げよう。
先ずは、元ボストンコンサルティング社長の堀 紘一氏が6月3日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「AI時代だからこそ哲学を学ぶ」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/203804
・『ボストンコンサルティング社長として名を馳せたビジネス界きっての読書家が、どう読書と向き合ってきたか、何を得てきたか、どう活かしてきたかを縦横無尽に語り尽くす。 自分を高める教養と洞察力が身につき、本を武器に一生を楽しむ、トップ1%が実践する『できる人の読書術』を説き明かす。 リーダーになるには哲学が不可欠であり、古今東西の哲学書を読むことはリーダーシップの育成につながる。 そう私は常々説いてきた。 本格的なAI時代を迎えると、ビジネスパーソンが哲学を学ぶ重要性は、さらに高まってくる。 AIとロボットが全盛の時代になるほど、その対極にある人間について勉強して、よく理解している人が重宝がられる。 そのためにも、哲学を学んでおきたい。 AIとロボットの組み合わせは最悪である。 こちらの立場や感情を汲んではくれないし、自分たちが絶対に正しいと知っている(と思い込んでいる)から、価値観を一方的に押しつけてくる。 哲学を学ぶと、AIとロボットという最悪コンビと大きく差別化できる。 哲学を学んだ人と学んでいない人では、何が違うのか。 哲学とは、人間の核心に迫ろうとする学問である。 哲学を学ぶと人間理解が深まり、考える力が格段に上がる。 超一流になるための洞察力も身につく。 哲学を学んでいない人は考える力に乏しく、そのうえ読書量も少ないと、自分の体験と価値観という狭い了見だけに頼って何でもかんでも判断しようとする。 人間理解が浅く、自分自身を客観的に認知するメタ認知(注)ができていないから、相手から底の浅さを見透かされてしまい、全てが独善的な振る舞いだと思われてしまう。 これでは、お互いに有意義な関係は結べない。 哲学を学んでいる人は、おそらく読書量も総じて多いはずだ。 メタ認知ができるから、安易に自分の体験と価値観を他人に押しつけたりはしない。 考える力があり、「ひょっとしたら相手は自分とは違った価値尺度を持っていて、違う感じ方をするかもしれない」と想定できる。 人間理解も深いから、相手の立場に立った良好なコミュニケーションが取れる。 だから、人間関係もスムーズになる。 単純化するなら、哲学を学んだ人材は超一流の予備軍であり、学んでいない人材はせいぜい一流止まりで終わってしまう可能性が高い。 あなたが上司だったら、一体どちらの人材がほしいか。それは自明である』、「哲学を学ぶと、AIとロボットという最悪コンビと大きく差別化できる」、「哲学を学んだ人材は超一流の予備軍であり、学んでいない人材はせいぜい一流止まりで終わってしまう可能性が高い」、などいうのは、確かにその通りだろう。
(注)メタ認知:自己の認知のあり方に対して、それをさらに認知すること・・・自分の認知行動を正しく知る上で必要な思考のありかたを指すことが一般的(Wikipedia)
・『未来志向の肯定的な最適解を見つけ出す 実社会では、数学の試験問題のように、正解を1つに絞れないケースが多い。 そこで正解を見つけ出すのに役立つのも、哲学の学びを通じて磨かれた考える力である。 ある商品が売れないというマーケティング上の課題に直面し、「その理由は何かを考えろ」と上司から指示を受けたとしよう。 そこでなぜ売れないかという理由を考えるだけでは足りない。 聞かれたことには答えているから、学校の宿題なら及第点がもらえる。 しかし、ビジネスの世界では、聞かれたことに答えるだけでは落第なのだ。 なぜ売れないのかという問題の核心を見極め、それを踏まえてどうすれば売れるようになるかの最適解を導き出し、上司に斬新な提案ができて初めて正解といえる。 売れない理由を導き出すだけなら、コンピュータで過去のマーケティングのケーススタディをたくさん集めれば済む。 それはAIが何よりも得意とする分野だ。 AIとコンピュータは過去を振り返って「~してはいけない」という否定的な答えを導き出すのは得意だが、これから先に「~すればいい」という未来志向で肯定的な答えを出すのは不得意である。 未来志向で肯定的な答えを導き出すのは、世の中に存在していなかった最適解を見つけるクリエイティブな作業である。 誰も考えなかったことを考えなくてはならない。 しかも「~すればいい」という正解は、1つに絞れないのが普通である。 そこで活きてくるのが、哲学を通して学んだ考える力であり、洞察力なのである。 AIとコンピュータが集約した過去のケーススタディでピラミッドの土台を作り、その天辺に人間が洞察した正解をのせる。 現在、AIと人間は、そういうスタイルで協業している。 この先AIが進歩すれば、土台作りから天辺に正解をのせるところまで、すべてをこなす時代がやってくる。 少なくともそれまでは、哲学を学んだビジネスパーソンとAIの協業がベストマッチングなのである』、「この先AIが進歩すれば、土台作りから天辺に正解をのせるところまで、すべてをこなす時代がやってくる」ということは、人間が関与する余地や、哲学の存在意義すら無くなってしまうような恐ろしい時代のようだ。
次に、会社経営者で哲学サロンを主宰している飲茶氏がダイヤモンド・オンラインに掲載した「正義の教室」シリーズのうち、6月17日付け「正義を哲学すると「3つ」に分類できる。」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/206021
・『哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第2章を特別公開します。 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?』、以前にNHKでマイケル・サンデル教授によるハーバード白熱教室のシリーズをやっていたが、それに近いものなのだろう。興味深そうだ。
・『そもそも「正義」とは何か? 「正義とは何か?」 風祭封悟(かざまつりふうご)先生は、倫理の授業が始まるやいなや生徒たちを見回し、そう問いかけた。 もちろん答える者はいなかった。というより、まともに話を聞いてる生徒の方が少なかったと言うべきかもしれない。 うちの学校の生徒たちは、特別授業として「日本史、世界史、地理、倫理」のいずれかを選択できるのだが、なかでも倫理は一番人気が少なく、そのため教室は閑散としていた。なぜ倫理の授業は人気がないのか。それは、なんとなくわかる気がする。だって、日本史や地理は何を勉強するのかはっきりわかるが、倫理は何を勉強する科目なのかあまりピンとこないからだ。 「さて、今日からキミたちは倫理の授業を受けるわけだが、この授業は何を学ぶ授業だろうか」 生徒からの回答がないのも気にせず風祭先生は授業を進めた。スキンヘッドにタートルネック、そして少し赤みの入った色眼鏡という、およそ教師とは思えない個性的な風貌の先生は、学校でも変わり者で有名だ。 「まず辞書的に言えば、倫理とは、『人として守るべき道』『道徳』『正義』といった意味を持つ言葉である。ゆえに、『倫理の授業』とはすなわち『正義の授業』だと言える。つまり、この授業は、『正義とはどういうものなのかを学ぶ授業』だと思ってもらえればいいだろう」 この話を聞いて、僕はちょっとガッカリした。なんだ、倫理って「正義」について学ぶ授業だったのか。それを知ってたら選択なんかしなかったな。だって、そんなものに答えなんてあるはずがないからだ。 「山下正義(まさよし)くん、君は、生徒会の会長だったね」 考え事の最中にいきなり先生に声をかけられ、僕は一瞬ドキリとした。が、よく考えてみればそれはそんなに不思議なことではなかった。 なぜなら、僕は一番前の席、先生の目の前に座っていたからだ。ちなみに、数少ない他の生徒たちは、みな後ろの方の席に座っている。基本的にこの倫理の授業を受けている者たちはジャンケンに負けた者たち―日本史、世界史の授業が定員オーバーになったのでジャンケンに負けてしかたなく倫理を選択する羽目になった者たち―である。 当然彼らにやる気はなく、ただでさえ閑散とした教室の後方の席を陣取り、各々勝手に違う教科の勉強をしていた。正直に言えば、僕だってそうしたかった。一番後ろの席でのんびりとしていたかった。だが、そんなことは隣に座っている副会長の倫理(りんり)が許すはずがない。 「生徒会役員は、全校生徒の模範たれ」それが座右の銘の副会長が、「前の席が空いてるのに、後ろの席に座って授業を受ける」なんてことを認めるわけはないのである。 というわけで、僕は今、一番前の席。左右を倫理と千幸に挟まれて座っていた。ちなみに、ミユウさんはというと、一番後ろの席でいつものようにだらんと座っている。彼女は、上級生だが、今年は生徒会メンバーに合わせて倫理の授業を選択したそうだ。副会長の圧力に屈せず、マイペースに後ろに座るミユウさんのメンタルが本当に羨ましい。 ともかく、そんなわけで、生徒会メンバーは全員この授業を受けていた。 「生徒会長のキミに問おう。正義とは何だろうか?」 「え、えーっと、正義とは……正しい行為をすること……でしょうか」 さすがに建前だとは言えなかったので、咄嗟に別の答えを用意したのだが、我ながらなんて稚拙な答えだろうか。頭痛とは何かと問われて「頭が痛いことです」と答えてしまったみたいで、ちょっと恥ずかしい。後方席の一般生徒はともかく、隣の生徒会メンバーの顔を見るのが怖い。 「なるほど。正義とは、正しい行為をすること……。シンプルな答えであるが……、いやいやどうして大正解だ。素直でとても好感の持てる答えでよろしい」 先生的にはどうやら満足のいく回答だったみたいだ。 「いま彼が述べたように、たしかに正義とは『正しい行為をすること』である。しかし、ではどうすればその『正しい行為』ができるだろうか? これは簡単な問題ではない。たとえば、『少数を殺せば多数が助かる』というような状況を思い浮かべてみてほしい。そういう状況に置かれたとして、果たしてキミたちは『正しい行為』、すなわち『正義』を選択することができるだろうか?」 たしかそれって「トロッコ問題」とかいうやつだったかな』、私の高校時代は、「倫理」の科目はなかったが、あれば取っていたと思う。
・『70億人を殺して、1人を救う? 1. 暴走したトロッコの先に5人がいて、そのままトロッコが突っ込むと5人全員が死んでしまう。 2.でも、あなたが路線を切り替えるレバーを引けば、5人の命を助けることができる。 3.しかし、そうすると今度は切り替えた路線の先にいる別の1人にトロッコが突っ込み、本来無関係のはずの人間が1人犠牲になってしまう。 つまり、こうした状況設定において「さあ、あなたならどうするか」という話で、ようは「そのまま5人を見殺しにすべきか? それとも1人を犠牲にして5人を救うべきか?」という問題だ。少し前に、そういうことを話し合う海外の授業が話題になったからよく覚えている。 「多数の人間を助けるためには少数の人間の命は奪ってもよい、というのはどう考えても正義に反するように思える。しかし、だからといって、それにこだわって目を覆うような大惨事の発生を見過ごすというのも間違っているような気がする。 たとえば極端な話だが、多数が70億人で、少数が1人でしかも殺人鬼の死刑囚だった場合を考えてみてほしい。それでもキミたちは、70億人が死ぬという大惨事を見過ごすべきだと思うだろうか?」 いや、さすがにそれは思わない。思わないけど……、でも、逆に、その1人が自分の恋人だったり、家族だったり、唯一かけがえのない人だったらどうだろう……。 その場合には、多数が100人でも1000人でも、それこそ全人類であったとしても、少数の1人の命を優先しようとする人もいるんじゃないだろうか。うーん、だとしたら、この問題の答えは……。 「生徒会長はどう思うかな?」「え? やっぱり人それぞれ、かなと」 しまった。突然、先生に質問され、ついそのまま答えてしまった。 もちろん、この答えは僕の本心だ。 だが、この手の問題に「人それぞれでしょ」なんて一番言ったらダメな言葉であろう。ましてや僕は生徒会長で、一応、さまざまなトラブルを解決する立場にあるのだから、本心はともかく考えることを放棄している感満載のこの回答は非常にマズい気がする。 ふと心配になり、首は動かさず視線だけで左隣を見てみると、副会長の倫理がうつむいて口元をおさえながらぶるぶると震えていた。やばい、怒りをおさえてる。やっぱり、この回答は彼女的に完全にアウトだったようだ。 「人それぞれか、なるほど、それもとても素直な答えだね」 先生やさしい……。空気を読まない僕の発言に対し、風祭先生は不快感をいっさい示すことなく、そのまま授業を続けてくれた。日頃、ちょっとした軽率な言動にも必要以上のツッコミを入れられる身としては、とてもありがたい。 「いま彼が言った通り、一見すると、この問題は人それぞれで答えが異なるもののように思えるし、実際その通りであろう。であるならば、こうした問題について『正義』を問いかけるのは、そもそもがナンセンスなのだろうか。いや、そうではない。たしかに、この問題に明確な答えは存在しないかもしれない。だが、人がこういう状況に置かれたとき、どのように『正義』を判定するのか、その判断基準を分析し、妥当性を議論することはできるはずだ」』、「トロッコ問題」はサンデルの白熱教室でも出てきた有名な話だ。
・『正義の判断基準はたった3つ 先生は背を向け、何ごとかを黒板に書き始めた。 「では、人が何かを正義だと判断するとき、それはどのような判断基準によって行われるのか? 実のところ、その判断基準は大きく分けると3種類しかない」 え? それは初耳だ。何が正義かなんて、そんなものは、それこそ人それぞれ。正解なんてあるわけがない。そう思ってきたし、だからこそ正義について考えたり議論しても意味がないとも思ってきた。 でも、人それぞれと言いつつも、実は「その判断基準はたったの3種類しかない」と風祭先生は言うのだ。その話に、不覚にも僕は少し興味をそそられてしまった。 先生は、黒板に3つの単語を書き終え、振り返ってこう述べた。 「人間が持つ3種類の『正義の判断基準』、それは『平等、自由、宗教』の3つだ」 意外にあっさりとした答えだった。本当にそんなものなのかな。 「本当にこの3つだけなのか? そう疑問に思う人もいるだろう。だが、少し視野を広げて、世界レベルで考えてみてほしい。実際のところ世界を見渡せば、『平等』を尊重する国、『自由』を尊重する国、『宗教』を尊重する国の3種類があって、それぞれが自国の正義を訴えて、いがみ合っていることに気がつくはずだ」 あっ! と思った。言われてみればたしかにそうだ。 「たとえば、共産主義や社会主義といった『平等』を絶対的な正しさとする国がある。 一方で、そんな国を抑圧的だと批判して『自由』を絶対的な正しさだとする国がある。 そして、最後に、何らかの『宗教』すなわち『自分たちの国の伝統的な価値観』を絶対的な正しさだとする国がある」 なるほど。今まで考えたこともなかったが、世界レベルで「自国の正義を主張する国」を大きく分ければ、たしかに3色で色分けができてしまう。 次回に続く』、『正義の判断基準』、それは『平等、自由、宗教』の3つだ」というのは、言われてみればその通りなのだろう。
第三に、この続き、6月20日付けダイヤモンド・オンライン「悪を哲学すると「3つの行為」に行きつく。」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/206178
・『・・・「悪いこと」とは何か? 今まで考えたこともなかったが、世界レベルで「自国の正義を主張する国」を大きく分ければ、たしかに3色で色分けができてしまう。 「さて。では、その3種類……『平等、自由、宗教』。これらの判断基準によってなされる行為が、なぜ『正義』だと言えるのか。それは、それぞれの逆を考えてみればわかりやすいだろう。たとえば、平等の逆、すなわち、不平等。これは普通に考えて悪いことだと言えるはずだ」 それはまあ、そうだろうな。みんなが同じ仕事をして、ひとり1個のリンゴを報酬としてもらっているときに、何の理由もなく―もしくは暴力や生まれの差などによって―ある人だけが10個のリンゴをもらっていたら、それはどう考えてもおかしいわけで、善い悪いで言えば間違いなく「悪いこと」だろう。 「もしもキミたちが、『特定の誰かが特権的に利益を得ている』もしくは『差別的に損害をこうむっている』といった不平等な状況を『悪いこと』だと思うなら……、当然、それを改善しようとする行為、すなわち平等を目指す行為は『正義』だということになる」 あー、そういうことか。「正義の反対は悪」なのだから、ある行為が「正義」かどうかを確かめたければ、その反対の行為が「悪」かどうかを問いかけてみればいい。で、その理屈で言えば、実際僕たちは「不平等や差別」を悪だと思っているわけだから、その反対である「平等」は僕たちにとって正義ということになるわけか。 「では同じように、自由の逆……、不自由についても考えてみよう。不自由とは、つまり強制や拘束や支配などによって、自由に生きる権利が奪われた状態を指すわけだが、『誰かを不自由にする』つまり『人の自由を奪う』なんてまさに典型的な悪の行為だと言えるだろう」 それは完全に同意だ。ヒーローものに出てくる悪の組織が、なぜ悪なのかと言えば、それは彼らが世界を征服したり幼稚園バスをジャックしたりすることが、人々の自由を奪うことにつながっているからだ。 結局、彼らはその一点のみで「悪」だと評されているわけであり、もし彼らが無人島で同じことをやったとしたら、誰も彼らを「悪」とは呼ばないだろう。 ためしに、「わはは、無人島を支配した! 誰も乗っていないイカダをジャックしてやったぞ!」という組織を想像してみたが……、うん、ぜんぜん悪じゃない。だから、やはり「悪の組織」は、人々の自由を奪うからこそ「悪」なのであり、「正義のヒーロー」はその悪を食い止めるからこそ「正義」なのだ。 「最後に、宗教の逆、反宗教だが……、これは、宗教になじみのない人には少しわかりにくいかもしれない。とりあえずは『社会の伝統的な価値観に反する行為』を思い浮かべてみてほしい。たとえば、お墓をむやみに壊したり、老人を粗末に扱うような行為だ。他には複数の異性と仲良くする行為も入るだろうか。これらについても、おそらくキミたちは不正義という感覚を得るはずだ」 そう言いながら、風祭先生は、ジーッとにらみつけるような視線で僕の顔を見つめた。え? いやいや、たしかに僕の両隣には女の子がいますけど、全然そういうんじゃないですから! しかし、そんな僕の狼狽を無視し、先生は「ちょっとまとめてみよう」と言って次のことを書き出した。
(1)不平等:正当な理由もなく、人間を差別して平等に扱わない行為 → 悪
(2)不自由:人間の自由に生きる権利を奪う行為 → 悪
(3)反宗教:宗教または伝統的な価値観を破壊する行為 → 悪
「と、このように、我々が悪と呼ぶものは、おおよそこの3種類に分類できるわけだが、逆にこれらの悪を犯さず改善しようとする行為を『正義』だと言うことができる。つまり、『平等、自由、宗教』を推し進める行為が『正義』だと定義できるわけだ。では、これらの正義を具体的に実現するには、どのような思想、考え方が必要になるだろうか? 次回に続く』、「反宗教」を『社会の伝統的な価値観に反する行為』としたのは、巧みな言い換えだ。
第四に、この続きを、6月22日付けダイヤモンド・オンライン「多数決を哲学すると、なぜ「悪」になるのか?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/206450
・『・・・「平等は正義である」。なぜか? 「前回の授業では、正義には『平等、自由、宗教』の3種類の判断基準があるという話をした。今日は、このうちの『平等』についてより詳細に説明していこうと思う」 「さて、『平等は正義である』……という言葉を聞いてキミたちはどう思うだろうか。必ずしもすべてを平等にする必要はないと考える人も多いかと思うが、とりあえずは、特別な理由がないかぎり『不平等よりは平等の方が善い』、そう考えてよいのではないだろうか」 「たとえば、大多数の人間が飢えに苦しみながら貧乏な生活を送っているなか、一部の人間が特権により働かず搾取した富で裕福な生活を送っているという状況を思い浮かべてみてほしい」 「この状況について、当然キミたちは『不平等であり善くないことだ』と思うだろうし、可能なら改善すべきだとも思うだろう」 「つまり、今述べたような『特権』『搾取』『差別』といった『人間を不当に不平等に扱う行為』を、我々は基本的に悪いことだと考えているというわけだ」 「しかし、とはいえだ。不平等より平等の方が善いと言いつつも、『何をもって平等とみなすか』という難しい問題がある。たとえば、みんなで荷物を運ぶとき、事故で怪我をした人や病気の人にも同じ重さの荷物を均等に持たせることは、決して平等でも正しいことでもないだろう」 「もしくは、一生懸命仕事をしている人と、ぐうたらで何もしない人、そのどちらにも同じ報酬を支払うべきだとはキミたちも思わないはずだ。このように、単純に物事を『均等に分ける』ということが必ずしも平等ということにはならない。人それぞれの違い、個人の努力や才能を無視して、すべて完全に同じにしようという行為は、『悪平等』とも呼ばれ、一般的にも悪いこととされている」 「では、どのようにすれば、個々の違いを考慮した『真の平等』を達成することができるだろうか? 生徒会長の正義くん」 「あ、はい」 「君はこの学校で、できるだけ平等に何かを決めたいと思ったときどうするかな?」 「えっと、そうですね……多数決とかですかね」 突然の質問だったので、平等に物事を決めると言えば、という連想でなんとなく答えただけであり特に深い考えはない。というか、僕はこれからもずっとこんなふうに授業中に質問され続けるんだろうか。もう一番前に座るの止めたい……。 と、そのとき、隣からフッとあからさまにバカにしたような鼻息が聞こえてきた。もちろん千幸だ。イラッときて反射的に右に顔を向けるが、予想以上に千幸の顔が近くにあり、僕は慌てて前を向いた。 「隣の彼女は、今の答えに何か不満がありそうだね」 「はい! 多数決は、ぜんぜん平等な決め方ではないと思います!」 「ほう、どうしてかな?」先生に続きを促され、千幸は立ち上がる』、確かに「多数決」の正当性は難しい問題だ。
・『どんなに残酷で不当で愚かなことでも多数決なら、、、 「多数決は、みんなの意見を尊重した平等な物事の決め方のように思えますが、実際には『多数派による少数派への不当な暴力』を正当化した不平等なやり方だと思います」 「たとえば、たまたまうちの学校で男子が過半数だったとして、多数決をしたら『少数派の女子を奴隷として扱う』という結果が出ても―もちろんそれは『正しいこと』だと言えないと思いますが―多数決ではそれが『正しいこと』になってしまいます」 「つまり、結論として多数決というのは、多数派の利益のために少数派を不当にないがしろにすることができてしまう、不完全な選択システムだと言えると思います。ね、そうでしょ?」 最後の「そうでしょ」は、僕に顔を向けてのものだった。まあ、言いたいことはわかる。そして、実際なるほどなとも思った。千幸に論破されるなんてとても悔しいことではあるが。 いや、待てよ。よくよく考えたら、やりたくもない学級委員に僕がさせられたのは、千幸が煽動した不当な多数決のせいだったじゃないか。あれこそまさに多数派の暴力。その中心にいたおまえが多数決の問題点を語るなど、まさしく語るに落ちるであり、釈然としないものがあるぞ。 そんなふうに当てこすってやろうかと思ったが、「じゃあ、生徒会長もやりたくないのになったのですか」と、今度は左隣の倫理に責められそうなのでやめておいた。 「いま彼女が言ったことは基本的に正しい。多数派の意見を採用することが必ずしも正義になるとは限らない。どんなに残酷で不当で愚かなことでも多数派によって選択されてしまうことがありうる。多数決の問題は、たしかにそこにあると言える」 「しかし、ではどうすればよいか? どうすれば物事を真に平等に決めることができるだろうか? 単純に均等に分けるのはダメ。多数決もダメ。そこで、人類は『功利主義』という新しい考え方を発明する」 待ってました、という顔で千幸の顔がほころぶ。そして満足したのか、そのまま席に座った』、『功利主義』もサンデルの白熱教室に出てきた。
・『功利主義とは何か? 「功利主義とは、『物事の正しさを功利によって決めよう』という考え方のことであるが、功利は日常的に使う言葉ではないから、あまりピンとこないかもしれない。もともと功利とは、効能とか有用といった意味を持つ言葉であるのだが、より日常的な単語である『幸福』という言葉に置き換えてみるとわかりやすい」 「つまり、功利主義とは、幸福主義……、すなわち『物事の正しさを幸福の量によって決めよう』という考え方のことだと思ってもらえればよいだろう」 「ただし、この説明で特に気に留めておいてほしいのは、幸福の『量』という部分だ。ここはとても重要なところで、この『量』という概念を無視して単純に幸福になる『人数』で正しさを決めてしまうと、多数決と変わりなくなってしまう」 そりゃあそうだ。ある法律を決めるとして、それが1000人を幸福にする一方で100人を不幸にするものである場合、幸福になる人数の方が多いからといってその法律を採用するなら、それは多数決と同じだと言える。 「だから、功利主義においては、『幸福になる人数』ではなく、あくまでも『幸福の量』を問題にする」 「あ、はいはい! つまり、ハッピーポイントを計算して、その合計値が大きくなるような選択をすることが正義ってことですよね」 突然、千幸が手を挙げて先生の説明に割り込んだ。おいおい、いきなりハッピーポイントとか、おまえのオリジナル用語を言ったところで先生に通じるわけないだろうが。 「ハッピーポイント……? それは、幸福度の指標値という意味かな? なるほど、そちらの方がわかりやすい名称かもしれないな」 通じたし、受け入れられてしまった……。 「さて、功利主義の理念を表すものとして『最大多数の最大幸福』という有名な言葉がある。これは文字通り『なるべく大勢の人間について、その幸福度の総量が最大になるような行動をすべきだ』という意味であるが、功利主義者は、この理念に従って全員の幸福度の総量……つまりハッピーポイントの合計値がより大きくなるような選択を行うことが正義だと考える」次回に続く』、「功利主義」のベンサムの主張まで出てくるとは、かなり高度だ。この続きは、後日、ある程度まとめて紹介したい。
先ずは、元ボストンコンサルティング社長の堀 紘一氏が6月3日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「AI時代だからこそ哲学を学ぶ」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/203804
・『ボストンコンサルティング社長として名を馳せたビジネス界きっての読書家が、どう読書と向き合ってきたか、何を得てきたか、どう活かしてきたかを縦横無尽に語り尽くす。 自分を高める教養と洞察力が身につき、本を武器に一生を楽しむ、トップ1%が実践する『できる人の読書術』を説き明かす。 リーダーになるには哲学が不可欠であり、古今東西の哲学書を読むことはリーダーシップの育成につながる。 そう私は常々説いてきた。 本格的なAI時代を迎えると、ビジネスパーソンが哲学を学ぶ重要性は、さらに高まってくる。 AIとロボットが全盛の時代になるほど、その対極にある人間について勉強して、よく理解している人が重宝がられる。 そのためにも、哲学を学んでおきたい。 AIとロボットの組み合わせは最悪である。 こちらの立場や感情を汲んではくれないし、自分たちが絶対に正しいと知っている(と思い込んでいる)から、価値観を一方的に押しつけてくる。 哲学を学ぶと、AIとロボットという最悪コンビと大きく差別化できる。 哲学を学んだ人と学んでいない人では、何が違うのか。 哲学とは、人間の核心に迫ろうとする学問である。 哲学を学ぶと人間理解が深まり、考える力が格段に上がる。 超一流になるための洞察力も身につく。 哲学を学んでいない人は考える力に乏しく、そのうえ読書量も少ないと、自分の体験と価値観という狭い了見だけに頼って何でもかんでも判断しようとする。 人間理解が浅く、自分自身を客観的に認知するメタ認知(注)ができていないから、相手から底の浅さを見透かされてしまい、全てが独善的な振る舞いだと思われてしまう。 これでは、お互いに有意義な関係は結べない。 哲学を学んでいる人は、おそらく読書量も総じて多いはずだ。 メタ認知ができるから、安易に自分の体験と価値観を他人に押しつけたりはしない。 考える力があり、「ひょっとしたら相手は自分とは違った価値尺度を持っていて、違う感じ方をするかもしれない」と想定できる。 人間理解も深いから、相手の立場に立った良好なコミュニケーションが取れる。 だから、人間関係もスムーズになる。 単純化するなら、哲学を学んだ人材は超一流の予備軍であり、学んでいない人材はせいぜい一流止まりで終わってしまう可能性が高い。 あなたが上司だったら、一体どちらの人材がほしいか。それは自明である』、「哲学を学ぶと、AIとロボットという最悪コンビと大きく差別化できる」、「哲学を学んだ人材は超一流の予備軍であり、学んでいない人材はせいぜい一流止まりで終わってしまう可能性が高い」、などいうのは、確かにその通りだろう。
(注)メタ認知:自己の認知のあり方に対して、それをさらに認知すること・・・自分の認知行動を正しく知る上で必要な思考のありかたを指すことが一般的(Wikipedia)
・『未来志向の肯定的な最適解を見つけ出す 実社会では、数学の試験問題のように、正解を1つに絞れないケースが多い。 そこで正解を見つけ出すのに役立つのも、哲学の学びを通じて磨かれた考える力である。 ある商品が売れないというマーケティング上の課題に直面し、「その理由は何かを考えろ」と上司から指示を受けたとしよう。 そこでなぜ売れないかという理由を考えるだけでは足りない。 聞かれたことには答えているから、学校の宿題なら及第点がもらえる。 しかし、ビジネスの世界では、聞かれたことに答えるだけでは落第なのだ。 なぜ売れないのかという問題の核心を見極め、それを踏まえてどうすれば売れるようになるかの最適解を導き出し、上司に斬新な提案ができて初めて正解といえる。 売れない理由を導き出すだけなら、コンピュータで過去のマーケティングのケーススタディをたくさん集めれば済む。 それはAIが何よりも得意とする分野だ。 AIとコンピュータは過去を振り返って「~してはいけない」という否定的な答えを導き出すのは得意だが、これから先に「~すればいい」という未来志向で肯定的な答えを出すのは不得意である。 未来志向で肯定的な答えを導き出すのは、世の中に存在していなかった最適解を見つけるクリエイティブな作業である。 誰も考えなかったことを考えなくてはならない。 しかも「~すればいい」という正解は、1つに絞れないのが普通である。 そこで活きてくるのが、哲学を通して学んだ考える力であり、洞察力なのである。 AIとコンピュータが集約した過去のケーススタディでピラミッドの土台を作り、その天辺に人間が洞察した正解をのせる。 現在、AIと人間は、そういうスタイルで協業している。 この先AIが進歩すれば、土台作りから天辺に正解をのせるところまで、すべてをこなす時代がやってくる。 少なくともそれまでは、哲学を学んだビジネスパーソンとAIの協業がベストマッチングなのである』、「この先AIが進歩すれば、土台作りから天辺に正解をのせるところまで、すべてをこなす時代がやってくる」ということは、人間が関与する余地や、哲学の存在意義すら無くなってしまうような恐ろしい時代のようだ。
次に、会社経営者で哲学サロンを主宰している飲茶氏がダイヤモンド・オンラインに掲載した「正義の教室」シリーズのうち、6月17日付け「正義を哲学すると「3つ」に分類できる。」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/206021
・『哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第2章を特別公開します。 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?』、以前にNHKでマイケル・サンデル教授によるハーバード白熱教室のシリーズをやっていたが、それに近いものなのだろう。興味深そうだ。
・『そもそも「正義」とは何か? 「正義とは何か?」 風祭封悟(かざまつりふうご)先生は、倫理の授業が始まるやいなや生徒たちを見回し、そう問いかけた。 もちろん答える者はいなかった。というより、まともに話を聞いてる生徒の方が少なかったと言うべきかもしれない。 うちの学校の生徒たちは、特別授業として「日本史、世界史、地理、倫理」のいずれかを選択できるのだが、なかでも倫理は一番人気が少なく、そのため教室は閑散としていた。なぜ倫理の授業は人気がないのか。それは、なんとなくわかる気がする。だって、日本史や地理は何を勉強するのかはっきりわかるが、倫理は何を勉強する科目なのかあまりピンとこないからだ。 「さて、今日からキミたちは倫理の授業を受けるわけだが、この授業は何を学ぶ授業だろうか」 生徒からの回答がないのも気にせず風祭先生は授業を進めた。スキンヘッドにタートルネック、そして少し赤みの入った色眼鏡という、およそ教師とは思えない個性的な風貌の先生は、学校でも変わり者で有名だ。 「まず辞書的に言えば、倫理とは、『人として守るべき道』『道徳』『正義』といった意味を持つ言葉である。ゆえに、『倫理の授業』とはすなわち『正義の授業』だと言える。つまり、この授業は、『正義とはどういうものなのかを学ぶ授業』だと思ってもらえればいいだろう」 この話を聞いて、僕はちょっとガッカリした。なんだ、倫理って「正義」について学ぶ授業だったのか。それを知ってたら選択なんかしなかったな。だって、そんなものに答えなんてあるはずがないからだ。 「山下正義(まさよし)くん、君は、生徒会の会長だったね」 考え事の最中にいきなり先生に声をかけられ、僕は一瞬ドキリとした。が、よく考えてみればそれはそんなに不思議なことではなかった。 なぜなら、僕は一番前の席、先生の目の前に座っていたからだ。ちなみに、数少ない他の生徒たちは、みな後ろの方の席に座っている。基本的にこの倫理の授業を受けている者たちはジャンケンに負けた者たち―日本史、世界史の授業が定員オーバーになったのでジャンケンに負けてしかたなく倫理を選択する羽目になった者たち―である。 当然彼らにやる気はなく、ただでさえ閑散とした教室の後方の席を陣取り、各々勝手に違う教科の勉強をしていた。正直に言えば、僕だってそうしたかった。一番後ろの席でのんびりとしていたかった。だが、そんなことは隣に座っている副会長の倫理(りんり)が許すはずがない。 「生徒会役員は、全校生徒の模範たれ」それが座右の銘の副会長が、「前の席が空いてるのに、後ろの席に座って授業を受ける」なんてことを認めるわけはないのである。 というわけで、僕は今、一番前の席。左右を倫理と千幸に挟まれて座っていた。ちなみに、ミユウさんはというと、一番後ろの席でいつものようにだらんと座っている。彼女は、上級生だが、今年は生徒会メンバーに合わせて倫理の授業を選択したそうだ。副会長の圧力に屈せず、マイペースに後ろに座るミユウさんのメンタルが本当に羨ましい。 ともかく、そんなわけで、生徒会メンバーは全員この授業を受けていた。 「生徒会長のキミに問おう。正義とは何だろうか?」 「え、えーっと、正義とは……正しい行為をすること……でしょうか」 さすがに建前だとは言えなかったので、咄嗟に別の答えを用意したのだが、我ながらなんて稚拙な答えだろうか。頭痛とは何かと問われて「頭が痛いことです」と答えてしまったみたいで、ちょっと恥ずかしい。後方席の一般生徒はともかく、隣の生徒会メンバーの顔を見るのが怖い。 「なるほど。正義とは、正しい行為をすること……。シンプルな答えであるが……、いやいやどうして大正解だ。素直でとても好感の持てる答えでよろしい」 先生的にはどうやら満足のいく回答だったみたいだ。 「いま彼が述べたように、たしかに正義とは『正しい行為をすること』である。しかし、ではどうすればその『正しい行為』ができるだろうか? これは簡単な問題ではない。たとえば、『少数を殺せば多数が助かる』というような状況を思い浮かべてみてほしい。そういう状況に置かれたとして、果たしてキミたちは『正しい行為』、すなわち『正義』を選択することができるだろうか?」 たしかそれって「トロッコ問題」とかいうやつだったかな』、私の高校時代は、「倫理」の科目はなかったが、あれば取っていたと思う。
・『70億人を殺して、1人を救う? 1. 暴走したトロッコの先に5人がいて、そのままトロッコが突っ込むと5人全員が死んでしまう。 2.でも、あなたが路線を切り替えるレバーを引けば、5人の命を助けることができる。 3.しかし、そうすると今度は切り替えた路線の先にいる別の1人にトロッコが突っ込み、本来無関係のはずの人間が1人犠牲になってしまう。 つまり、こうした状況設定において「さあ、あなたならどうするか」という話で、ようは「そのまま5人を見殺しにすべきか? それとも1人を犠牲にして5人を救うべきか?」という問題だ。少し前に、そういうことを話し合う海外の授業が話題になったからよく覚えている。 「多数の人間を助けるためには少数の人間の命は奪ってもよい、というのはどう考えても正義に反するように思える。しかし、だからといって、それにこだわって目を覆うような大惨事の発生を見過ごすというのも間違っているような気がする。 たとえば極端な話だが、多数が70億人で、少数が1人でしかも殺人鬼の死刑囚だった場合を考えてみてほしい。それでもキミたちは、70億人が死ぬという大惨事を見過ごすべきだと思うだろうか?」 いや、さすがにそれは思わない。思わないけど……、でも、逆に、その1人が自分の恋人だったり、家族だったり、唯一かけがえのない人だったらどうだろう……。 その場合には、多数が100人でも1000人でも、それこそ全人類であったとしても、少数の1人の命を優先しようとする人もいるんじゃないだろうか。うーん、だとしたら、この問題の答えは……。 「生徒会長はどう思うかな?」「え? やっぱり人それぞれ、かなと」 しまった。突然、先生に質問され、ついそのまま答えてしまった。 もちろん、この答えは僕の本心だ。 だが、この手の問題に「人それぞれでしょ」なんて一番言ったらダメな言葉であろう。ましてや僕は生徒会長で、一応、さまざまなトラブルを解決する立場にあるのだから、本心はともかく考えることを放棄している感満載のこの回答は非常にマズい気がする。 ふと心配になり、首は動かさず視線だけで左隣を見てみると、副会長の倫理がうつむいて口元をおさえながらぶるぶると震えていた。やばい、怒りをおさえてる。やっぱり、この回答は彼女的に完全にアウトだったようだ。 「人それぞれか、なるほど、それもとても素直な答えだね」 先生やさしい……。空気を読まない僕の発言に対し、風祭先生は不快感をいっさい示すことなく、そのまま授業を続けてくれた。日頃、ちょっとした軽率な言動にも必要以上のツッコミを入れられる身としては、とてもありがたい。 「いま彼が言った通り、一見すると、この問題は人それぞれで答えが異なるもののように思えるし、実際その通りであろう。であるならば、こうした問題について『正義』を問いかけるのは、そもそもがナンセンスなのだろうか。いや、そうではない。たしかに、この問題に明確な答えは存在しないかもしれない。だが、人がこういう状況に置かれたとき、どのように『正義』を判定するのか、その判断基準を分析し、妥当性を議論することはできるはずだ」』、「トロッコ問題」はサンデルの白熱教室でも出てきた有名な話だ。
・『正義の判断基準はたった3つ 先生は背を向け、何ごとかを黒板に書き始めた。 「では、人が何かを正義だと判断するとき、それはどのような判断基準によって行われるのか? 実のところ、その判断基準は大きく分けると3種類しかない」 え? それは初耳だ。何が正義かなんて、そんなものは、それこそ人それぞれ。正解なんてあるわけがない。そう思ってきたし、だからこそ正義について考えたり議論しても意味がないとも思ってきた。 でも、人それぞれと言いつつも、実は「その判断基準はたったの3種類しかない」と風祭先生は言うのだ。その話に、不覚にも僕は少し興味をそそられてしまった。 先生は、黒板に3つの単語を書き終え、振り返ってこう述べた。 「人間が持つ3種類の『正義の判断基準』、それは『平等、自由、宗教』の3つだ」 意外にあっさりとした答えだった。本当にそんなものなのかな。 「本当にこの3つだけなのか? そう疑問に思う人もいるだろう。だが、少し視野を広げて、世界レベルで考えてみてほしい。実際のところ世界を見渡せば、『平等』を尊重する国、『自由』を尊重する国、『宗教』を尊重する国の3種類があって、それぞれが自国の正義を訴えて、いがみ合っていることに気がつくはずだ」 あっ! と思った。言われてみればたしかにそうだ。 「たとえば、共産主義や社会主義といった『平等』を絶対的な正しさとする国がある。 一方で、そんな国を抑圧的だと批判して『自由』を絶対的な正しさだとする国がある。 そして、最後に、何らかの『宗教』すなわち『自分たちの国の伝統的な価値観』を絶対的な正しさだとする国がある」 なるほど。今まで考えたこともなかったが、世界レベルで「自国の正義を主張する国」を大きく分ければ、たしかに3色で色分けができてしまう。 次回に続く』、『正義の判断基準』、それは『平等、自由、宗教』の3つだ」というのは、言われてみればその通りなのだろう。
第三に、この続き、6月20日付けダイヤモンド・オンライン「悪を哲学すると「3つの行為」に行きつく。」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/206178
・『・・・「悪いこと」とは何か? 今まで考えたこともなかったが、世界レベルで「自国の正義を主張する国」を大きく分ければ、たしかに3色で色分けができてしまう。 「さて。では、その3種類……『平等、自由、宗教』。これらの判断基準によってなされる行為が、なぜ『正義』だと言えるのか。それは、それぞれの逆を考えてみればわかりやすいだろう。たとえば、平等の逆、すなわち、不平等。これは普通に考えて悪いことだと言えるはずだ」 それはまあ、そうだろうな。みんなが同じ仕事をして、ひとり1個のリンゴを報酬としてもらっているときに、何の理由もなく―もしくは暴力や生まれの差などによって―ある人だけが10個のリンゴをもらっていたら、それはどう考えてもおかしいわけで、善い悪いで言えば間違いなく「悪いこと」だろう。 「もしもキミたちが、『特定の誰かが特権的に利益を得ている』もしくは『差別的に損害をこうむっている』といった不平等な状況を『悪いこと』だと思うなら……、当然、それを改善しようとする行為、すなわち平等を目指す行為は『正義』だということになる」 あー、そういうことか。「正義の反対は悪」なのだから、ある行為が「正義」かどうかを確かめたければ、その反対の行為が「悪」かどうかを問いかけてみればいい。で、その理屈で言えば、実際僕たちは「不平等や差別」を悪だと思っているわけだから、その反対である「平等」は僕たちにとって正義ということになるわけか。 「では同じように、自由の逆……、不自由についても考えてみよう。不自由とは、つまり強制や拘束や支配などによって、自由に生きる権利が奪われた状態を指すわけだが、『誰かを不自由にする』つまり『人の自由を奪う』なんてまさに典型的な悪の行為だと言えるだろう」 それは完全に同意だ。ヒーローものに出てくる悪の組織が、なぜ悪なのかと言えば、それは彼らが世界を征服したり幼稚園バスをジャックしたりすることが、人々の自由を奪うことにつながっているからだ。 結局、彼らはその一点のみで「悪」だと評されているわけであり、もし彼らが無人島で同じことをやったとしたら、誰も彼らを「悪」とは呼ばないだろう。 ためしに、「わはは、無人島を支配した! 誰も乗っていないイカダをジャックしてやったぞ!」という組織を想像してみたが……、うん、ぜんぜん悪じゃない。だから、やはり「悪の組織」は、人々の自由を奪うからこそ「悪」なのであり、「正義のヒーロー」はその悪を食い止めるからこそ「正義」なのだ。 「最後に、宗教の逆、反宗教だが……、これは、宗教になじみのない人には少しわかりにくいかもしれない。とりあえずは『社会の伝統的な価値観に反する行為』を思い浮かべてみてほしい。たとえば、お墓をむやみに壊したり、老人を粗末に扱うような行為だ。他には複数の異性と仲良くする行為も入るだろうか。これらについても、おそらくキミたちは不正義という感覚を得るはずだ」 そう言いながら、風祭先生は、ジーッとにらみつけるような視線で僕の顔を見つめた。え? いやいや、たしかに僕の両隣には女の子がいますけど、全然そういうんじゃないですから! しかし、そんな僕の狼狽を無視し、先生は「ちょっとまとめてみよう」と言って次のことを書き出した。
(1)不平等:正当な理由もなく、人間を差別して平等に扱わない行為 → 悪
(2)不自由:人間の自由に生きる権利を奪う行為 → 悪
(3)反宗教:宗教または伝統的な価値観を破壊する行為 → 悪
「と、このように、我々が悪と呼ぶものは、おおよそこの3種類に分類できるわけだが、逆にこれらの悪を犯さず改善しようとする行為を『正義』だと言うことができる。つまり、『平等、自由、宗教』を推し進める行為が『正義』だと定義できるわけだ。では、これらの正義を具体的に実現するには、どのような思想、考え方が必要になるだろうか? 次回に続く』、「反宗教」を『社会の伝統的な価値観に反する行為』としたのは、巧みな言い換えだ。
第四に、この続きを、6月22日付けダイヤモンド・オンライン「多数決を哲学すると、なぜ「悪」になるのか?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/206450
・『・・・「平等は正義である」。なぜか? 「前回の授業では、正義には『平等、自由、宗教』の3種類の判断基準があるという話をした。今日は、このうちの『平等』についてより詳細に説明していこうと思う」 「さて、『平等は正義である』……という言葉を聞いてキミたちはどう思うだろうか。必ずしもすべてを平等にする必要はないと考える人も多いかと思うが、とりあえずは、特別な理由がないかぎり『不平等よりは平等の方が善い』、そう考えてよいのではないだろうか」 「たとえば、大多数の人間が飢えに苦しみながら貧乏な生活を送っているなか、一部の人間が特権により働かず搾取した富で裕福な生活を送っているという状況を思い浮かべてみてほしい」 「この状況について、当然キミたちは『不平等であり善くないことだ』と思うだろうし、可能なら改善すべきだとも思うだろう」 「つまり、今述べたような『特権』『搾取』『差別』といった『人間を不当に不平等に扱う行為』を、我々は基本的に悪いことだと考えているというわけだ」 「しかし、とはいえだ。不平等より平等の方が善いと言いつつも、『何をもって平等とみなすか』という難しい問題がある。たとえば、みんなで荷物を運ぶとき、事故で怪我をした人や病気の人にも同じ重さの荷物を均等に持たせることは、決して平等でも正しいことでもないだろう」 「もしくは、一生懸命仕事をしている人と、ぐうたらで何もしない人、そのどちらにも同じ報酬を支払うべきだとはキミたちも思わないはずだ。このように、単純に物事を『均等に分ける』ということが必ずしも平等ということにはならない。人それぞれの違い、個人の努力や才能を無視して、すべて完全に同じにしようという行為は、『悪平等』とも呼ばれ、一般的にも悪いこととされている」 「では、どのようにすれば、個々の違いを考慮した『真の平等』を達成することができるだろうか? 生徒会長の正義くん」 「あ、はい」 「君はこの学校で、できるだけ平等に何かを決めたいと思ったときどうするかな?」 「えっと、そうですね……多数決とかですかね」 突然の質問だったので、平等に物事を決めると言えば、という連想でなんとなく答えただけであり特に深い考えはない。というか、僕はこれからもずっとこんなふうに授業中に質問され続けるんだろうか。もう一番前に座るの止めたい……。 と、そのとき、隣からフッとあからさまにバカにしたような鼻息が聞こえてきた。もちろん千幸だ。イラッときて反射的に右に顔を向けるが、予想以上に千幸の顔が近くにあり、僕は慌てて前を向いた。 「隣の彼女は、今の答えに何か不満がありそうだね」 「はい! 多数決は、ぜんぜん平等な決め方ではないと思います!」 「ほう、どうしてかな?」先生に続きを促され、千幸は立ち上がる』、確かに「多数決」の正当性は難しい問題だ。
・『どんなに残酷で不当で愚かなことでも多数決なら、、、 「多数決は、みんなの意見を尊重した平等な物事の決め方のように思えますが、実際には『多数派による少数派への不当な暴力』を正当化した不平等なやり方だと思います」 「たとえば、たまたまうちの学校で男子が過半数だったとして、多数決をしたら『少数派の女子を奴隷として扱う』という結果が出ても―もちろんそれは『正しいこと』だと言えないと思いますが―多数決ではそれが『正しいこと』になってしまいます」 「つまり、結論として多数決というのは、多数派の利益のために少数派を不当にないがしろにすることができてしまう、不完全な選択システムだと言えると思います。ね、そうでしょ?」 最後の「そうでしょ」は、僕に顔を向けてのものだった。まあ、言いたいことはわかる。そして、実際なるほどなとも思った。千幸に論破されるなんてとても悔しいことではあるが。 いや、待てよ。よくよく考えたら、やりたくもない学級委員に僕がさせられたのは、千幸が煽動した不当な多数決のせいだったじゃないか。あれこそまさに多数派の暴力。その中心にいたおまえが多数決の問題点を語るなど、まさしく語るに落ちるであり、釈然としないものがあるぞ。 そんなふうに当てこすってやろうかと思ったが、「じゃあ、生徒会長もやりたくないのになったのですか」と、今度は左隣の倫理に責められそうなのでやめておいた。 「いま彼女が言ったことは基本的に正しい。多数派の意見を採用することが必ずしも正義になるとは限らない。どんなに残酷で不当で愚かなことでも多数派によって選択されてしまうことがありうる。多数決の問題は、たしかにそこにあると言える」 「しかし、ではどうすればよいか? どうすれば物事を真に平等に決めることができるだろうか? 単純に均等に分けるのはダメ。多数決もダメ。そこで、人類は『功利主義』という新しい考え方を発明する」 待ってました、という顔で千幸の顔がほころぶ。そして満足したのか、そのまま席に座った』、『功利主義』もサンデルの白熱教室に出てきた。
・『功利主義とは何か? 「功利主義とは、『物事の正しさを功利によって決めよう』という考え方のことであるが、功利は日常的に使う言葉ではないから、あまりピンとこないかもしれない。もともと功利とは、効能とか有用といった意味を持つ言葉であるのだが、より日常的な単語である『幸福』という言葉に置き換えてみるとわかりやすい」 「つまり、功利主義とは、幸福主義……、すなわち『物事の正しさを幸福の量によって決めよう』という考え方のことだと思ってもらえればよいだろう」 「ただし、この説明で特に気に留めておいてほしいのは、幸福の『量』という部分だ。ここはとても重要なところで、この『量』という概念を無視して単純に幸福になる『人数』で正しさを決めてしまうと、多数決と変わりなくなってしまう」 そりゃあそうだ。ある法律を決めるとして、それが1000人を幸福にする一方で100人を不幸にするものである場合、幸福になる人数の方が多いからといってその法律を採用するなら、それは多数決と同じだと言える。 「だから、功利主義においては、『幸福になる人数』ではなく、あくまでも『幸福の量』を問題にする」 「あ、はいはい! つまり、ハッピーポイントを計算して、その合計値が大きくなるような選択をすることが正義ってことですよね」 突然、千幸が手を挙げて先生の説明に割り込んだ。おいおい、いきなりハッピーポイントとか、おまえのオリジナル用語を言ったところで先生に通じるわけないだろうが。 「ハッピーポイント……? それは、幸福度の指標値という意味かな? なるほど、そちらの方がわかりやすい名称かもしれないな」 通じたし、受け入れられてしまった……。 「さて、功利主義の理念を表すものとして『最大多数の最大幸福』という有名な言葉がある。これは文字通り『なるべく大勢の人間について、その幸福度の総量が最大になるような行動をすべきだ』という意味であるが、功利主義者は、この理念に従って全員の幸福度の総量……つまりハッピーポイントの合計値がより大きくなるような選択を行うことが正義だと考える」次回に続く』、「功利主義」のベンサムの主張まで出てくるとは、かなり高度だ。この続きは、後日、ある程度まとめて紹介したい。
タグ:この先AIが進歩すれば、土台作りから天辺に正解をのせるところまで、すべてをこなす時代がやってくる 不平等:正当な理由もなく、人間を差別して平等に扱わない行為 社会の伝統的な価値観に反する行為 『悪平等』 反宗教:宗教または伝統的な価値観を破壊する行為 哲学を学んだ人材は超一流の予備軍であり、学んでいない人材はせいぜい一流止まりで終わってしまう可能性が高い マイケル・サンデル教授 反宗教 「悪いこと」とは何か? 正義の判断基準はたった3つ 功利主義とは、幸福主義 飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』 飲茶 『功利主義』 不自由:人間の自由に生きる権利を奪う行為 「トロッコ問題」 どんなに残酷で不当で愚かなことでも多数決なら、、、 『倫理の授業』とはすなわち『正義の授業』だと言える 平等に何かを決めたいと思ったときどうするかな? なるべく大勢の人間について、その幸福度の総量が最大になるような行動をすべきだ』 哲学 どうすれば物事を真に平等に決めることができるだろうか? 平等、自由、宗教』の3つだ 「平等は正義である」。なぜか? 「悪を哲学すると「3つの行為」に行きつく。」 (その1)(AI時代だからこそ哲学を学ぶ、「正義の教室」:正義を哲学すると「3つ」に分類できる、悪を哲学すると「3つの行為」に行きつく、多数決を哲学すると、なぜ「悪」になるのか?) ダイヤモンド・オンライン 未来志向で肯定的な答えを導き出すのは、世の中に存在していなかった最適解を見つけるクリエイティブな作業である 未来志向の肯定的な最適解を見つけ出す 「正義の教室」 そもそも「正義」とは何か? あくまでも『幸福の量』を問題にする 哲学を学んでいる人は、おそらく読書量も総じて多いはずだ。 メタ認知ができるから、安易に自分の体験と価値観を他人に押しつけたりはしない 多数決というのは、多数派の利益のために少数派を不当にないがしろにすることができてしまう、不完全な選択システム 堀 紘一 『物事の正しさを功利によって決めよう』という考え方 「多数決を哲学すると、なぜ「悪」になるのか?」 多数決 哲学を学ぶと人間理解が深まり、考える力が格段に上がる 『最大多数の最大幸福』 哲学とは、人間の核心に迫ろうとする学問 AIとロボットが全盛の時代になるほど、その対極にある人間について勉強して、よく理解している人が重宝がられる。 そのためにも、哲学を学んでおきたい リーダーになるには哲学が不可欠 「正義を哲学すると「3つ」に分類できる。」 ハーバード白熱教室 できる人の読書術 「AI時代だからこそ哲学を学ぶ」
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