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随筆(その1)(小田嶋氏2題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味) [文化]

今日は、随筆(その1)(小田嶋氏2題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味)を取上げよう。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が5月17日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「書く人間に最も有害な態度」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00021/?P=1
・『先週はまたしてもお休みをいただいた。 名目は、表向き「検査のための入院」ということになっている。 この説明に間違いがあるわけではない。 ただ、今回の入院は、単に検査のためだけのものではない。 もう少しこみいった事情がある。 以前どこかに書いたことがあるのだが、書く仕事をする人間にとって最も有害な態度は隠し事をすることだ。 別の言い方をすれば、隠し事が苦手であることが、書く仕事にたずさわる人間にとって最も大切な資質だということでもある。 そんなわけなので、ここでは、今回の入院について情報公開をするつもりだ。 とは言っても、現時点ですべてを明らかにすることはできない。とりあえず、いまの段階で読者の皆さんに提供できる範囲の情報をお伝えするにとどめる。理由はいずれ説明することになると思う。 簡単に言えば、現在、私はある疾患を疑われている。 こんな事態になったのは、前回の(脳梗塞での)入院の折におこなったいくつかの検査のうちのひとつで、偶然、ある異変が見つかったからだ。 で、脳梗塞の治療を終えて退院した後、異変の原因である病気を見つけるために、私は、さらにいくつかの検査を受けることになった。 ここまでのところは、当欄の通知欄や、私個人のツイッターアカウントを通して説明していた情報に含まれている。 それが、5月8日に受診した折、採血の結果からちょっとやっかいな数値が見つかって、現在は、その数値が示唆する症状を改善するために入院している次第だ。 その数値が意味するところは、主に 1.どこかに病変があるぞ ということと 2.この症状をこのまま放置しておくことは望ましくないぞ ということなのだが、困ったことに、 3.この数値が示唆する症状は、その症状をもたらしている病因をさぐるための検査の障害になるぞ という、なんだかちょっと錯綜した状況を招いている。 で、医師団の当面の選択としては 4.とりあえず、対症療法で、当面の症状を改善して
5.その上で必要な検査を実施する。 そして 6.症状の原因となっている病気の正体を見極めつつ 7.1~6までの経緯を踏まえて治療方針を決定しようではないか と、現在はそういう話の運びになっている。 なんだかややこしい話なのだが、病気というのはどのみちややこしい出来事なのである。 ちなみに、現時点のオダジマは、上記のフローのうちの4番目あたりに位置している』、どう見ても健康的とは言えない生活を送ってきたらしい小田嶋氏が、「脳梗塞」をきっかけに、「異変が見つかった」のはある意味でラッキーだったのかも知れない。
・『抽象的で中身のない話だと思うかもしれないが、現段階でこれ以上の詳細を明かすことはできない。理由は、憶測を語ったところで誤解を広めるだけだし、結論が出ていない事態についての無用な情報漏えいは、単に混乱を招くだけだと考えるからだ。どうかご理解いただきたい。 大切なのは、私が現在、宙ぶらりんの状態にあり、診断のつかない段階で、診断の準備のための治療に専念しているということだ。 体調そのものは、だから、入院中とはいえ、そんなに悪くない。 というよりも、ここしばらくのあれこれで体重が落ちた分、軽快に動けているかもしれない。 ただ、検査や採血や採尿のスケジュールはずっと続いているし、点滴やモニタの管やらケーブルやらもカラダにぶら下がったままだ。 で、有線(ワイヤードな)の端末として最先端医療の恩恵にぶらさがっている状態のオダジマは、体調万全に見えて、事実上は無力だったりする。 というのも、何をするにも、ケーブルがつながった人間は、古い時代のダイヤル式の黒電話みたいに鈍重で、最終的に個人としての尊厳を欠いているからだ。 にもかかわらず、そんな不自由な状態で私が原稿を書いているのは、ありていに言えば原稿料が必要だからだ。 なんだかなまぐさい話をしてしまった。 治療にはそれなりのカネがかかる。 その一方で、病気で休んでしまうと、いきなり収入が途絶する。 フリーランスの泣き所というヤツだ。 もっとも、書き手の側が原稿料を欲しているからというだけの理由でコラムが掲載されて良い道理はない。 ウェブマガジンであれ、紙ベースの雑誌であれ、読者の側から見て、読むに値する文章でなければ、そのテキストは掲載されるべきではないし、それ以前に原稿料の対象になるべきではない。 そうやって考えてみると、ここまでの何十行かは、書き手であるオダジマの個人的な近況を報告したのみで、情報としての有用性に乏しい。個人的な知り合いなら、あるいは注目して読むかもしれないが、逆に知り合いであれば、上に箇条書きにしたような奥歯に医療用手袋がはさまったみたいなテキストには満足しないだろう』、「何をするにも、ケーブルがつながった人間は、古い時代のダイヤル式の黒電話みたいに鈍重で、最終的に個人としての尊厳を欠いているからだ」、場面が目に浮かび、思わず微笑んでしまった。
・『ではオダジマと直接の面識を持たない読者はどう思うだろうか。 たぶん、「何を言ってやがる」「お前のプライベート情報なんかオレには一文の価値もないぞ」「しかも、そのプライベート情報自体中身スカスカじゃねえか」と、おそらくその程度の感慨しか抱かないだろう。 そんなわけなので、以上、私の個人的な病状やこれから先の診療計画の話は、ひとまずおしまいにして、この5年間に4回の入院生活を経験した62歳の男として、入院生活から感知し得た感慨を書き記しておくことにする。 この情報は、おそらく、中高年の読者に限らず、若い人たちにも役立つはずだ。 テーマとしては、人間と病気、入院と日常、あるいは人生と時間といった感じの、やや哲学的な話になろうかと思う。着地点は単なる悲鳴になるかもしれない。書き終わってみるまでは何が出てくるのかわからない。原稿はそうやって書かれるべきものだ。 入院すると、わりとすぐに、目に見える変化として、時間の感覚が失われる。この点については入院という事態を経験した人のほとんどが同意してくれるはずだ。 まず曜日の感覚が曖昧になる。しばらくするうちに、昨日と一昨日の区別がはっきりしなくなる。 別の言い方をすれば、自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくるというだ(注:最後の「だ」は不要?)。 たとえば、日常の中で生活している人間は、1週間とか1ヶ月といった単位で時間を区切っている。 で、その、ひとかたまりの時間の長さを一単位として、自分の日常の時間を四則演算の可能なブロックみたいにして取り扱う。 だから、現実世界の中で日常を生きている人間は、日、週、月といった、いくつかの実用的な時間単位を使い分けながら時間を管理し、最終的にそれらを支配しているつもりになる』、「自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくる」、私の場合の入院は3日程度だったが、長くなればそんなふうになるのだろう。
・『ところが病院という施設に閉じ込められて外部の世界との接触を失うと、人はまず週単位での約束事や月単位での計画から見離されてしまう。 と、彼は、もっぱら極端に長いタイムスケール(たとえば「人の一生」とか「オレの30年」だとか)か、でなければ極端に短い尺度(「5分前」とか「次の検温までに」とか「次の食事は」だとか)でしか世界と関わらなくなる。もちろん、来週の月曜日に誰某が見舞いに来るとか、次の水曜日にMRIの検査があるといった感じの予定がないわけではないのだが、それらの予定は、こちらが主体となって仕事をしたり準備をするための予定ではなくて、単にカレンダーの進行とともに先方の意思で勝手に流れてくる出来事に過ぎなかったりする。 要するに、入院中の人間は通常の意味で言う「現実感」を喪失するわけだ。 しかしながら入院している当事者に言わせれば、彼は、「病院の中の現実」に適応しているに過ぎない。 というよりも、入院中の人間は、「いま・ここ」に集中する以外に選択の余地を持っていないのであって、むしろ彼に必要な現実感覚は、時間を無化することなのである。 であるから、入院患者にとって「一週間後に何をする」とか「1ヶ月後にどうする」といった「計画」や「野心」は、むしろ邪魔になる。そうしたことを考えれば、焦りがつのることになる。 入院を別にすれば、私は、これまで、そんなふうに時間の感覚を喪失した時期を、二度ほど経験している。 そのうちのひとつは、大学に合格した直後に半年間ほど、極端な無気力状態に陥った時期だ。 いま風の言葉で言えば「バーンアウト」ということになるのかもしれない。 とにかく、受験生から大学生にいきなり立場が変わった時、私は、寝る間も惜しんで丸暗記の作業に没頭していたそれまでの数ヶ月間の生活が突然終了したことにうまく適応することができなかった。 おそらく、目先の課題とその日その日の勉強量とその成果にばかり囚われていた時期の、極度に近視眼的な視野が、大学生活という茫漠とした荒野をとらえきれなかったのだと思う。 ともあれ、その時、私は、自分が何をどうやって一日をしのいだら良いのかが皆目わからなくなって、ほとんど3ヶ月ほど外出もろくにできない状態に陥っていた』、「入院患者にとって「一週間後に何をする」とか「1ヶ月後にどうする」といった「計画」や「野心」は、むしろ邪魔になる。そうしたことを考えれば、焦りがつのることになる」、まさに「目から鱗」の気分だ。これまで、このことを知らずに、入院患者の見舞いに行って、ひょっとして傷つけるようなことを言ったのではと、遅ればせながら自責の念を感じた。
・『もう一回は、アルコール依存の診断を受けて、断酒に取り組んでいた最初の数年間だ。 この時期、私は「いま・ここ」に集中せずにおれなかった。 ここでいう「いま・ここ」とは、「とりあえず今日一日酒を飲まない」ということだ。 断酒をはじめたアルコホリックは、今日一日以上の長い単位での目論見や計画はとりあえず視界から除外して、ひたすら、その日その日を無事に過ごすことに注力する。そうすることで、ようやく断酒のための最初の一歩を踏み出すことができるようになる。 これは、AA(アルコホリック・アノニマス)やその他の断酒のための組織で言われている一番最初の教条の受け売りに過ぎないのだが、実際に、困難の中で一歩を進める人間は、断酒者であれ、病人であれ、改悛した悪党であれ、誰もが同じように「いま・ここ」に集中するほかに現状を打開する方途を持っていないのだ。 さて、入院患者は、その日その日の細切れのスケジュールとは別に、ぼんやりとした頭の中で、「人生」という単位の時間で抽象的思考を遊ばせる習慣を持つ。 これも、実は現実生活には何ら寄与しない。 だから、入院患者は、次第に浮世離れして行く。 われわれが浮世離れするのは、番外地に暮らす者としての適応過程でもある。 というのも、こんな世俗から遠ざけられた場所で、週に2回の会議と月に3回の地方出張をこなしている営業マンみたいな調子のタイムスケールを持ちこたえていたら、身が持たないからだ。 本当なら、日常人も、月に一度かそこらは、入院患者の目(つまり、極端に短いタイムスケールと、極端に長いタイムスケールで世界に対峙すること)を持つべきで、同じように、入院患者も、事情が許すタイミングで、外界の俗人たちが味わっているのと同じ試練を味わうべきなのだろう。 そういう意味で、この連載枠が、私の役に立ってくれることを願っている 読者の役に立つのかどうかは、これは、私の側からは、わからない。 目安としては、読み終わって頭がクラクラしているのであれば、少しは役立っているということだ。 理由は説明できない。 いつか、近い将来か遠い将来に、入院したタイミングで、思い当たるかもしれない』、「入院患者は、次第に浮世離れして行く。 われわれが浮世離れするのは、番外地に暮らす者としての適応過程でもある」、言い得て妙だ。

次に、小田嶋氏が9月6日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「ライターが原稿を書くことの意味」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00035/?P=1
・『8月9日更新分の記事をアップして以来、当欄に原稿を書くのはおよそ1カ月ぶりだ。 その間は、形式上、夏休みをいただいたことになっている。 もっとも、「夏休み」というのは言葉のうえだけの話で、私自身は、必ずしものんびりしていたのではない。 むしろ、物理的に執筆が困難な環境の中で、もがいていたと言った方が正確だろう。 苦しんだことで何かを達成したわけではないし、特段に成長したこともなかったのだが、とにかく私は苦しんでいた。 「えっ? 8月中もいつもと変わらずにツイッターを更新してましたよね?」「ああいう頻度でツイートできていたのだから、原稿だって書けたんじゃないですか?」というのは、一見もっともなご指摘に聞こえる。というよりも、ほとんど図星ですらある。 しかし、実際に私の立場で、このセリフを聞かされてみればわかることだが、ツイッターと有料原稿は、読む側にとってどう見えるのであれ、書く人間の側の立場からすると、まるで性質の違うものだ。 ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。 それゆえ、準備も推敲も要さない。 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている。 多少言い回しの工夫に苦労する部分があるにしても、その苦労もまた気晴らしの一部だったりする。 というのも、文章を書くことを好む人間は、技巧的な努力(原稿執筆におけるテクニカルな部分での苦労)に嗜癖しているからだ。だから、書き方を工夫するための苦心には、ほとんどまったく辛さを感じない。まあ、ボールを蹴っている子供と一緒だということです。 引き比べて、ヒトサマから原稿料をいただいて、不特定多数の読者のために書く原稿には、相応の準備が要る。手間もかかる。なにより責任の大きさがまるで違う。 この場を借りて、ぜひ強調しておきたいのは、原稿を書く人間を苦しめるものが、執筆前の取材や、執筆中の技巧上の煩悶ではなくて、なにより記事公開後に発生する責任の面倒臭さだということだ。 責任さえなければ、執筆ほど楽しい作業はないと申し上げてもよい。 商業的なメディアに署名原稿を提供する書き手は、事実誤認や誤記があれば、すぐさま謝罪のうえ訂正しなければならない。誰かの名誉を毀損したり、見も知らぬ他人の尊厳を傷つけたりする文章を公開してしまったケースでは、それなりの責任を取る必要が出てくる。 それでも、時には、読者のうちに一定の割合を占めるセンシティブな人々の感情を傷つけるリスクを、あえて冒さなければならない場面もある。 そういう時は、詫びる場合でも、謝罪しないケースでも、どっちにしても書き手が苦しむ選択肢を避けることはできない』、「ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。 それゆえ、準備も推敲も要さない。 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている」、なるほどズバリ本質を言い当てている。
・『してみると、署名原稿に発生するギャランティーは、そうした回避できないリスクに対して支払われていると考えることも可能なわけで、そこからさかのぼって考えるに、原稿を書く作業が苦しみを伴わない可能性は、原理的にあり得ない話だということだ。 今回は、当欄の原稿が3回にわたって掲載されなかった事情を説明しつつ、この際なので、ライターが原稿を書くことの意味について考えてみようかと思っている。 時事的なニュースにいっちょかみをすれば、ネタはいくらでもある。そういう書き方に意義や正当性がないと考えているわけでもないのだが、今回はとりあえず、世間を騒がせている話題からは距離を置いて、自分の仕事について考えることを優先したい。 あらためて振り返ってみるに、一カ月近くまとまった原稿を書かずに過ごしたことは、私の人生の中では、何十年ぶりの経験ということになる。これだけ長い間、執筆という作業から遠ざかってみると、かえって書くことについて考えさせられる。 で、意外だったのは、自分にとって「書かない生活」が予期していたよりはずっと重苦しい時間だったということだ。 カンの鋭い読者はすでにある程度見当をつけておいでだと思うのだが、お察しの通り、私は、7月の半ばからしばらくの間、入退院を繰り返していた。 その、今回の入退院をめぐるあれこれは、4月上旬に脳梗塞を発症して以来続いているすったもんだの一部でもある。 より詳しく述べれば、4月の脳梗塞での入院中に発覚したある異変が、以来、断続的な60日間ほどの入院やら検査を呼び寄せていたわけだ。 で、7月の下旬に至って、さまざまな検査や二度にわたる手術を伴う生検の結果、ついに原疾患と見られる病名を特定するところにこぎつけた次第だ。 8月中の当連載の中断は、その新たに判明した疾患の治療が本格的に始まったことを受けてのものだ。 当然、治療は今後も続くことになる。 が、この治療がいつまで続くのか、先のことは分からない。 治るのかどうかも、当面は分からないというのが適切な言い方になると思う。 で、肝心要のその「病名」なのだが、私は、それを明らかにしないつもりだ。 理由は、ありていに言えば、読者(というよりも、インターネット上の無料メディア経由で拡散した情報をやり取りしている不特定多数の見物人たち)を信頼していないからだ。 私に関して、仮に、「ずっと昔からの忠良な読者」といったような人々が存在しているのだとすれば、その彼らは、どんな病名を知らされたところで、適切な対応を取ることができる人たちであるはずだ。このことに関して、私は疑いを持っていない。また、通りすがりの読者であっても、人としての当たり前の常識を備えた穏当な人間であれば、他人の病気に対して特別に奇妙な反応の仕方はしないだろう。このこともよく分かっている』、「ついに原疾患と見られる病名を特定するところにこぎつけた」、というのは何よりだ。
・『しかしながら、無料のウェブメディアに文字情報の形でアップされた特定個人の病名は、あらゆる個人情報がそうであるように、いずれ、文脈から切り離されたデータとして野放図に拡散する宿命のうちにある。その「娯楽情報」は、悪意ある第三者を含む不特定多数の群衆にとっての、格好の玩具に成り果てる。このなりゆきは誰にも阻止できない。 「病名」は、どんな人間のどんな病名であれ、ちょっとした誇張を施すだけで、特定の人間の悲惨な未来を示唆する凶悪な情報に変貌させることが可能だ。 ということになれば、悪意ある人間は、その誇張した部分によって引き起こされる騒動から利益を得ようと考えるはずだし、特段の悪意を持っていない人々も、ひとたび群れ集まって行動する段になると、他人の生老病死を玩弄するゲームへの熱中を制御できない。 とすれば、個人の病名を公共の場で公開するような愚かなマネは、絶対に避けなければならない。 さて、私が執筆意欲を半ば喪失していた理由は、体調と病名以外に、もう一つある。 それは、ツイッター上の些細なやりとりの中で頂戴することになった 「偉いコラムニスト様」というレッテルだ。 これは、こたえた。 この言葉を浴びせられた瞬間から10日間ほど、私は、すっかり意気阻喪してしまった。 もともと体調がすぐれなかった事情もあるといえばあるのだが、ほかならぬ同業者から 「偉いコラムニスト様にはわからないのでしょうが」 みたいな言い方をされてみると、なんだか、マジメに仕事に戻る気持ちになれなかったのだ。 私がこの言葉に気力をくじかれた理由のうちの半分までは、この「偉いコラムニスト様」という言い方の示唆する内容が、図星だったからだと思う。 実際、私のやっている仕事は、ある立場の書き手からすれば、 「偉いコラムニスト様」と形容するにふさわしい、お気楽な書き飛ばし仕事に見えているはずだ。 というのも、コラムニストの仕事は、「取材」や「文献渉猟」や「研究」を伴わない、「個人の感想」にすぎないと言ってしまえばそれまでの、「腕一本の安易な作文」だからだ。 私の立場からすれば、自分の書き方で書くほかにどうしようもないという、それだけの話ではあるのだが、一方、私とは違うタイプの書き手から見ると、オダジマの書き方と仕事ぶりは、まるで「地を這う取材みたいなヨゴレ仕事を軽蔑している貴族の書きっぷり」に見えている可能性はある。 実際、ツイッター上で、「それ、あなたの感想ですよね」という定番のツッコミ(←2ちゃんねる創設者であるH氏がこの言葉を発しているテロップ付きの静止画コミのリプライも含めて)を投げつけられた回数は、おそらく何百回を数える。 それほど、コラムニストの「感想」は、軽んじられている』、「「偉いコラムニスト様」というレッテルだ。 これは、こたえた。 この言葉を浴びせられた瞬間から10日間ほど、私は、すっかり意気阻喪してしまった」、想像以上に小田嶋氏も繊細な神経の持ち主のようだ。もっとも、そうでなければ、コラムニストなど務まらないのかも知れないが・・・。
・『ちなみに付け加えれば、私は、この、「個人の感想を軽視する態度」が、21世紀に入ってからこっちの時代思潮と呼んでも過言ではない考え方なのだと思っている。 「ファクトに基づかない記事は無価値だ」「取材をしていない書き手による文章は女優さんのエッセーと選ぶところのないものだ」という感じの、漫画の中に出てくるジャーナリズム学校の先生が言いそうなセリフを、なぜなのかSNSに蝟集している素人が二言目には繰り返すのが、この20年ほどのネット上での論争でのおなじみの展開になっている。 してみると、私のような取材をしない書き手は 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。 これは、なかなか辛い境涯だ。 なぜというに、さきほども申し上げた通り、この指摘は、半分までは図星でもあるからだ。 ただ、この半月ほどの間、私が、図星を突かれてすっかりヘコんでいたのかというと、そうとばかりも言えない。 図星を突かれた残りの半分で、私は、「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた。 私は、自分を偉い人間だと思っているから、取材に出かけることを忌避しているのではない。 自分が特別な才能に恵まれた類いまれな書き手であるという自覚のゆえに、取材抜きの素朴な感想を書き起こして事足れりとしているのでもない。 私は自分を「偉い」ビッグネームだと考えたことは一度もない。むしろ、一介の売文業者にすぎないと思っている。無論「コラムニスト様」と呼ばれるに足る巨大な報酬を得ているわけでもない。 私の側から言わせてもらえるなら、私は、あるタイプの書き手がなにかにつけて持ち出す 「自分は取材しないと一行も書けないライターなので……」という、一見謙虚に構えたセリフの背後にこそ、強い自負の存在を感じる。 もっと言えば、「取材もせずに文章を書いているあなたは、よほど自分の中にある才能やら知識やら技巧に自信がおありなのでしょうね」という感じの当てこすりの響きを聴き取ることさえある』、「私のような取材をしない書き手は 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。 これは、なかなか辛い境涯だ」、と自省しつつ、「「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた」、反撃に転じたところはさすがだ。
・『こっち側からは、逆に「取材しないと一行も書けないのだとすると、あなたのしている取材というのは、そりゃ拾い食いとどこが違うんですか?」と言いたくもなる。 この言い争いが不毛であることは分かっている。 だからこれ以上は言わない。この場ではとりあえず、個々の書き手には、それぞれの書き方があって、それは多くの場合、途中から変更できるものではないということだけを申し上げておくことにする。 ジャーナリズムの世界で働く人間は、取材結果を書き起こすことを何よりも重視する。であるから、記事の中に半端な「個人の感想」を付け加える態度を強く戒めてもいる。 「最後のパラグラフは、全削除な。理由? お前の感想なんか誰も聞いてないからだよ」「いいか。取材したことだけを書け。足とウデだけで書け。アタマなんか使うな。分かったかタコ」「お前がお前のアタマで考えたことなんかには毛ほどの価値もないということをよく覚えておけこの腐れ外道が」 てな調子で記者修行を積んできた人たちからすれば、個人の感想でメシを食っている人間は、よほど偉そうに見えるのだろう。 実際、新聞記者の世界で、「個人の感想」を書く人間は、競争を経て論説委員の座を勝ち取った人間か、でなければ「天声人語」みたいな新聞コラムの書き手として抜擢されたエリート記者に限られる。 そういう観点からすると、ひとっかけらの記者修行も経ていないまるっきりのド素人が、個人の感想を書き散らして糊口をしのいでいる姿は、見ていてムカつくものなのかもしれない。 とはいえ、当たり前の話だが、私には私にできることしかできない。だから、私は結局のところ、自分にできるやり方で仕事をすることになるはずで、それができないのであれば諦めるほかにないと思っている。 この半年ほどの闘病を経て、私は、自己決定と自己責任という物語にうんざりし始めている。 具体的に言えば、自分にかかわるすべてを自分が決めるべきだという考え方に、ある安っぽさを感じるようになったということだ。 とにかく、大事なことであれくだらないことであれ、なるようにしかならない。ということは、どうにもならないものはどうにもならないのだからどうしようもない。 奇妙な結論になってしまったが、自分としては、これはこれで前向きな態度だと思っている。 とにかく、私は自分のできることを、できる範囲で粛々とこなしていく所存だ』、事実を取材などに基づいて書く記者の仕事と、コラムニストの仕事の本質的な違いを、入院生活で探り当てた姿勢は、さすがプロだ。「私は自分のできることを、できる範囲で粛々とこなしていく所存だ」、ますます磨きがかかるであろうコラムに大いに期待したい。
タグ:随筆 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 (その1)(小田嶋氏2題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味) 「書く人間に最も有害な態度」 今回の入院について情報公開 何をするにも、ケーブルがつながった人間は、古い時代のダイヤル式の黒電話みたいに鈍重で、最終的に個人としての尊厳を欠いている この5年間に4回の入院生活を経験した62歳の男として、入院生活から感知し得た感慨 入院すると、わりとすぐに、目に見える変化として、時間の感覚が失われる しばらくするうちに、昨日と一昨日の区別がはっきりしなくなる。 別の言い方をすれば、自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくるというだ 自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくる 外部の世界との接触を失うと、人はまず週単位での約束事や月単位での計画から見離されてしまう もっぱら極端に長いタイムスケール(たとえば「人の一生」とか「オレの30年」だとか)か、でなければ極端に短い尺度(「5分前」とか「次の検温までに」とか「次の食事は」だとか)でしか世界と関わらなくなる 入院中の人間は、「いま・ここ」に集中する以外に選択の余地を持っていないのであって、むしろ彼に必要な現実感覚は、時間を無化することなのである 入院患者にとって「一週間後に何をする」とか「1ヶ月後にどうする」といった「計画」や「野心」は、むしろ邪魔になる。そうしたことを考えれば、焦りがつのることになる 断酒をはじめたアルコホリックは、今日一日以上の長い単位での目論見や計画はとりあえず視界から除外して、ひたすら、その日その日を無事に過ごすことに注力する。そうすることで、ようやく断酒のための最初の一歩を踏み出すことができるようになる 入院患者は、次第に浮世離れして行く。 われわれが浮世離れするのは、番外地に暮らす者としての適応過程でもある 「ライターが原稿を書くことの意味」 ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。 それゆえ、準備も推敲も要さない。 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている 原稿料をいただいて、不特定多数の読者のために書く原稿には、相応の準備が要る。手間もかかる。なにより責任の大きさがまるで違う 自分にとって「書かない生活」が予期していたよりはずっと重苦しい時間だった ついに原疾患と見られる病名を特定するところにこぎつけた次第だ ツイッター上の些細なやりとりの中で頂戴することになった 「偉いコラムニスト様」というレッテルだ。 これは、こたえた この言葉を浴びせられた瞬間から10日間ほど、私は、すっかり意気阻喪してしまった コラムニストの仕事は、「取材」や「文献渉猟」や「研究」を伴わない、「個人の感想」にすぎないと言ってしまえばそれまでの、「腕一本の安易な作文」だからだ ファクトに基づかない記事は無価値だ 私のような取材をしない書き手は 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。 これは、なかなか辛い境涯だ 「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた 「自分は取材しないと一行も書けないライターなので……」という、一見謙虚に構えたセリフの背後にこそ、強い自負の存在を感じる 「取材しないと一行も書けないのだとすると、あなたのしている取材というのは、そりゃ拾い食いとどこが違うんですか?」と言いたくもなる ひとっかけらの記者修行も経ていないまるっきりのド素人が、個人の感想を書き散らして糊口をしのいでいる姿は、見ていてムカつくものなのかもしれない 私は自分のできることを、できる範囲で粛々とこなしていく所存だ
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