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終末期(その5)(「人生会議」PRポスター騒動で 厚労省が気づかない本当の失敗、家族に丸投げ「人生会議」ポスターの大ウソ、小田嶋氏:人生会議に呼びたい人は?) [社会]

昨日に続いて、終末期(その5)(「人生会議」PRポスター騒動で 厚労省が気づかない本当の失敗、家族に丸投げ「人生会議」ポスターの大ウソ、小田嶋氏:人生会議に呼びたい人は?)を取上げよう。

先ずは、百年コンサルティング代表の鈴木貴博氏が11月29日付けダイヤモンド・オンラインに掲載した「「人生会議」PRポスター騒動で、厚労省が気づかない本当の失敗」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/221879
・『厚労省が提唱する「人生会議の日」 啓蒙ポスターが大炎上の誤算  明日11月30日は「いい看取り、いい看取られ」のゴロ合わせから「人生会議の日」となっているそうです。人生会議は、厚生労働省が推進するアドバンス・ケア・プログラムの愛称です。 この人生会議の普及のためのPRポスターが炎上しました。これは人生会議のキャンペーン事業を受託した吉本興業が、お笑いタレントの小籔千豊さんを起用して作成したポスターですが、死の間際に昏睡状態にあると思われる小籔さんが、以下のようにつぶやいているという内容です。 まてまてまて俺の人生ここで終わり? 大事なこと何にも伝えてなかったわ それとおとん、俺が意識ないと思って隣のベッドの人にずっと喋りかけてたけど全然笑ってないやん 声は聞こえてるねん。 はっず! 病院でおとんのすべった話聞くなら家で嫁と子どもとゆっくりしときたかったわ ほんまええ加減にしいや あーあ、もっと早く言うといたら良かった! こうなる前に、みんな「人生会議」しとこ この啓蒙ポスターに対して、がん患者団体が抗議をし、それに続いてその抗議に賛同する声が広がりました。そのことが報道されると、厚生労働省は以下のようなお詫びを出したうえで、ポスターの配布中止を決定します。 「この度、『人生会議』の普及・啓発のため、PRポスターを公開したところですが、患者団体の方々等から、患者や遺族を傷つける内容であるといったご意見を頂戴しております。厚生労働省としましては、こうしたご意見を真摯に受け止め、掲載を停止させていただき、改めて、普及・啓発の進め方を検討させていただきます」』、なんともお粗末極まる「厚生労働省」の対応には、開いた口が塞がらない。
・『がん患者を取り上げたポスターだと読み取ることはできるか  このポスターの何がどう問題だったのかを、検証してみたいと思います。最初のきっかけは、11月25日にがん患者やその家族への支援を行っている団体「スマイリー」の代表が、厚生労働省に抗議の文書を送付したことのようです。 公表されている抗議文によれば、「『がん=死』を連想させるようなデザインだけでもナンセンスだと思います」としたうえで、「これを目にする治療に苦慮する患者さんや残された時間がそう長くないと感じている患者さんの気持ちを考えましたか?そしてもっと患者と話をすれば良かったと深い悲しみにあるご遺族のお気持ちを考えましたか?」「医療の啓発をするのにその当事者や患者の心情を配慮しないなんてことがあってはならないと強い憤りを感じています」と、このポスターの表現について強く再考を求めています。そして厚生労働省が再考をした結果、このポスターを使わないことに決めたというのが、現時点における最新のニュースです。 日ごろから真摯にがん患者やその家族の支援をしている団体のトップが、このような憤りを感じることは自然だと思います。実は私も昨年、家族をがんでなくしています。「生きているうちに、もっとああしておけばよかったな」といった後悔はありますし、今回の騒動で改めてそのことを思い出して、少し悲しくなったのも事実です。 ただ、どうなのでしょうか。このポスターに関しては、私は正直、がん患者を取り上げた内容だと読み取ることはできませんでした。そもそも私が体験したがんによる身内の死は、ポスターのような状況ではありませんでした。告知があって本人が悩み、家族も悩み、話し合いも行い、おそらく本人が望む最良の治療を家族で考えて、最期を看取った。そのような体験でした。 そうではなく、このポスターのような状態になるのは、不慮の事故か、脳卒中のような突然の病気による可能性が高いでしょう。病気が発症してこん睡状態に陥り、その時間が一定期間続く――。そのような状態で、一定数の患者は外部から「植物状態」と診断されても、本人には意識があることが知られています。おそらくポスターの製作者は、そうした知見を基にポスターの場面設定を考えたのではないでしょうか。 だから病室に来た父親が、植物状態の小籔さんに必死に声をかけるのではなく、むしろ隣の患者に話しかけているのでしょう』、『人生会議』なるネーミングには違和感を感じる。
・『リスクを感じていない一般の人向け 「お笑いタレント」を起用するのもあり  要するにこのポスターは、がんを告知され、そのステージから一定の覚悟もできている患者とその家族の姿を描いたものではなく、そうしたリスクをまだ感じていない一般の人たちに対して、「関係ないと思わないで、人生会議を始めたほうがいいですよ」ということを啓蒙しようとしたポスターなのだと、私は当初から捉えていました。 がん患者の支援団体は、このようなポスターが病院に貼られることを危惧しています。私もこのポスターを病院、特に入院病棟に貼るのは配慮が足らない行為だと思います。しかし、かかりつけの医院や、市役所、一般の職場に貼るのであれば、許容すべきPR活動だとも思います。ポスターが悪いのではなく、「貼る場所を考えることが重要だ」という考え方です。 厚生労働省によれば「誰でも、いつでも、命に関わる大きな病気やケガをする可能性があります」という前提で、「命の危険が迫った状態になると約70%の方が、これからの医療やケアなどについて自分で決めたり、人に伝えたりすることができなくなるといわれています」と問題提起をしています。 そのために、もしものときにどのような治療を望むのかについて、予め家族と話し合っておいたほうがいいと考える人の割合は、厚生労働省の調査によれば65%に達するそうです。しかし、そのことについて詳しく話し合っている人は全体の3%、意思表示の書類を作成している人は8%と、何かを実行に移している人はごくわずかという実情があります。 つまりPRのターゲットは、深刻な闘病に直面する家族ではなく、「その他大勢の一般市民」であって、そのターゲット層に啓蒙活動を行う場合は、お笑いタレントを起用するのも常道だし、笑いの要素をクリエイターが入れ込むことも理解できます。 にもかかわらず、なぜ批判を招いたのか。ここが難しいところで、「笑い」というものは本質的に誰かを必ず傷つけます。どんな人でもTPOによっては、お笑いを不謹慎に感じるものだからです。病院を舞台にしたコメディ映画も、お医者さんと患者のコントも、真剣に死と闘っている人が不快な場面設定だと感じることはあるでしょう』、「笑いの要素をクリエイターが入れ込むことも理解できます」、私は笑いの要素を入れたのは、間違いだと思う。
・『クレームはもっともだが 本質的なミスは他にある  だから、支援団体の代表がこのポスターを見て「『がん=死』を連想させるようなデザイン」と感じたこと自体は、誰も否定できません。そう感じてしまう人は、必ずいるわけですから。 しかし、「笑いからすぐに不謹慎さを連想するような抗議」が相次いでいる現状は、社会にとっても闘病者にとってもマイナスだとしか、私には思えません。病気や人生の困難を乗り越えるために笑いは実に有効なものであり、かつ、たくさんのお笑い芸人さんがボランティアとして、そうした人たちを励ます活動をしていることも知られています。私は笑い声が絶えない病室のほうが、他の患者さんや家族の気持ちを考えて笑ってはいけない病室よりも、好ましく感じます。 おそらく、厚労省が犯した最大のミスは、「患者や遺族を傷つける内容である」という抗議を受け入れ、ポスターの回収を判断した結果、現場に「お笑い禁止」のムードを広めてしまった、ということではないでしょうか。 アングリー(怒り)がスマイル(笑い)を殺す――。今回の騒動に後味の悪さを感じたのは、私だけでしょうか』、「笑い声が絶えない病室のほうが・・・好ましく感じます」、一般論としてはその通りだが、終末期の患者がいる場合には、あり得ないのではなかろうか。

次に、健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏が12月3日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「家族に丸投げ「人生会議」ポスターの大ウソ」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00051/?P=1
・『今回のテーマは「家族に丸投げするな!」。 これはテーマであり結論なのだが、取り上げるのは先週問題となった厚生労働省による「人生会議」についてだ。 センシティブな問題なので、少々長くなるがまずはおさらいをしておく。 26日、厚労省は患者の終末期にどのような医療やケアを受けるか事前に家族や医師と話し合っておくよう啓発するポスターに、患者団体から抗議を受けたことから、同日予定していた自治体へのポスター発送を中止した。 ポスターは厚労省が「人生会議」と愛称を付けた取り組みを普及させるために、吉本興業に委託して作成したもので、お笑い芸人の小籔千豊さんが酸素チューブを鼻につけ、病院のベッドに横たわる写真と共に、以下の文言が記されていた。 まてまてまて 俺の人生ここで終わり? 大事なこと何にも伝えてなかったわ それとおとん、俺が意識ないと思って 隣のベッドの人にずっと喋りかけてたけど 全然笑ってないやん 声は聞こえてるねん。 はっず! 病院でおとんのすべった話聞くなら 家で嫁と子どもとゆっくりしときたかったわ ほんまええ加減にしいや あーあ、もっと早く言うといたら良かった! こうなる前に、みんな 「人生会議」しとこ 「人生会議」という愛称はACP(アドバンス・ケア・プランニング)の普及を目指し、厚労省が昨年(8月13日から9月14日)に募集。応募総数1073件の中から、愛称選定委員会により選定。また、11月30日(いい看取り・看取られ)を「人生会議の日」とし、人生の最終段階における医療・ケアについて考える日としている』、「人生会議という愛称は・・・愛称選定委員会により選定」、というのは初めて知ったが、厚労省の責任逃れに委員会が使われた印象を受ける。
・『相次ぐ抗議で啓発ポスター採用が見送りに  抗議文を提出した卵巣がん体験者の会スマイリーは、「医療の啓発をするのにその当事者や患者の心情を配慮しないなんてことがあってはならないと強い憤りを感じています」とし、「『がん』=死 を連想させるようなデザインだけでもナンセンス」と指摘した。 他にも患者さんなどからも抗議が相次いだとされ、厚労省は「こうしたご意見を真摯に受け止め、掲載を停止させていただき、改めて、普及・啓発の進め方を検討させていただきます」とHP上に見解を掲載した。 また、加藤勝信厚労相は、28日の参院厚労委員会で、「患者や遺族を傷つけるとの意見を真摯に受け止める。伝わり方を常に考えないといけない。もう少し丁寧な対応をしておけば良かった」と釈明している。 ……さて、今回の問題の本質は「理解不足」に尽きる、と私は考える。 これまで厚労省は長年、終末期医療について議論を進めて、ガイドラインを作るなど頑張ってきたのに、なんでこんなにもトンチンカンなポスターになってしまったのか。残念というか、正直あきれている。 ポスターを作った人たちが「インパクト」を狙ったのは分かる。だが、ACPとは何なのか? ACPがなぜ、必要なのか?ということをきちんと理解していれば、あのような乱暴なポスターにはならなかったはずだ。 個人的には「人生会議」という“愛称”にも違和感を抱いているのだが、この案件に関わったすべてのメンバーが、ACPをきちんと理解していれば、ポスターに記された心の声に「おとん=家族」しか出てこないような事態に、絶対になるわけがないのである。 もっとも、これがACPではなく、AD(アドバンス・ディレクティブ)なら、おとんだけでもいい。ADは、事前指示書と訳され、「病気のあるなしにかかわらず、いつかは理性的判断ができなくなることがあることを想定し、自分自身の人生の終末期には、このようにしてほしいと希望を述べておく書類」のこと。 例えば、心肺が停止したときに、心肺蘇生術を希望するか? 拒否するか? 輸血や輸液は? どこまでの治療を希望するか? などだ』、「AD(アドバンス・ディレクティブ)なら、おとんだけでもいい」、ACPの正しい理解はどのようなものなのだろう。
・『ACPは医療従事者が関与してはじめて成り立つもの  一方、今回問題となったACPは、「今後の医療や療養場所の希望について患者・家族と医療従事者があらかじめ話し合い、共有する自発的なプロセス」を意味する。 つまり、冒頭で書いた通り「家族に丸投げする」問題じゃない。医療従事者がいてはじめて成立するもの。特に「医療従事者の役割」は極めて大きく、ただ単に「家族で人生の最後について話し合いましょう」的なものではない。 ACPについて具体的に書く前に、歴史的な流れを振り返っておくと、1990年代はADが評価され注目された。それまで、医師と患者の関係は「患者は黙って医師に任せておけばいい」という従属関係にあった。 これは父親が小さな子の意向を聞かず、よかれと思って決定するのと同じなのでパターナリズム(父権主義)と呼ばれた。 だが、医師と患者との関係は人間として対等であり、医療行為を受けるのは患者自身であり、死の危機にさらされるのも患者だ。なので、「患者が主体であるべきではないか?」という考え方から、パターナリズムへの反省が広がるようになった。 その中で生まれたのがインフォームドコンセントであり、ADだったのである。 ところがADは「病気のあるなしにかかわらず、いつかは理性的判断ができなくなることがあることを想定」しているため最終的には、役に立たないという否定的な意見や調査研究が相次いだ。 ADを書いたからといって、将来、自分の命を脅かす病気が何なのか? いつ、病気になるのか?は予測できない。入院した際に患者にADを書いてもらっても、そもそも患者が病状の理解を深めたり、治療の選択肢を知ったりしければ、ADの内容を医療やケアの選択に生かせない。 また、病状によって患者の意思が変わることが度々認めらることもあるし、患者の家族などの代理人も「患者がなぜ、そうしたいのか?」が分からないと、患者の代弁者になることもできない……などなど。 そういった問題点が明らかになり、「医療従事者が舵(かじ)取り役をする必要がある」という認識の下で生まれたのが、ACP=「今後の医療や療養場所の希望について患者・家族と医療従事者があらかじめ話し合い、共有する自発的なプロセス」というわけ』、さすが河合氏の見識には脱帽する他ないが、肝心の厚労省がきちんと理解してないとは信じられないような失態だ。
・『患者・家族・医療従事者の信頼関係が必須  少々説明的なことばかりで疲れたかもしれないけれど、私は大学院の恩師から医療と健康社会学研究における「患者=当事者参加」の重要性を死ぬほど学んだ。患者=当事者が参加する意義は、患者が自分自身の存在意義を高め、精神的な支えを得ることにある。と同時に、「医療従事者=専門家」が知見を広め、情報を蓄積することにも役立つ。両者が信頼関係を構築し、互いに意見を交わし、リテラシーを高め、共通理解の下で目的に進むことは価値あることだ、と。 であるからして、今回のポスター事件は、ACPの重要性をたくさんの人に知っていただくきっかけになったと考えている。なので、もう少し堅苦しい説明にお付き合いしてください。 では、ACPについて、具体的にお話しする。 ACPは、大前提として医療従事者が、患者が大切にしていることや価値観を理解し共有することで、患者の価値観を重視した意思決定を患者が行えるようにエビデンスや知識を提供し、支援することが根底にある。価値観は「Values」と複数形だ。つまり、いくつもの「価値=大切なもの」がある中で、何を優先すべきかを両者が考えていくプロセスなのだ。 その上で、 +医療従事者(介護提供者も含む)は、いつ、どの段階で話を行うか?といった適切なタイミングを計る必要がある +話し合った内容は、患者の同意のもと記述する +患者が意思決定できなくなったときに、患者に変わって意思決定する人を決めておく必要があり、代理人は話し合いに加わっていくことが望ましい +患者の病状や患者のニーズに応じて何回も行ったり、記述した内容を見直したりすることも不可欠 要するに、医療従事者なくしてACPは成立しないのだ。なのにポスターには医者がいない。患者・家族・医療従事者に信頼関係がなければ成り立たないのだ。なのにポスターには患者しかいないのである。) 厚労省は2014年から、全国10カ所の医療機関でモデル事業としてACPを実施したり、患者の相談に対応できる医療・ケアチーム(医師、看護師など)の育成研修なども行ったりしてきた。2018年には、「人生の最終段階における医療・ケアの 決定プロセスに関するガイドライン」も策定している。 その流れの最終形として、今回の一般向けの啓蒙活動に至ったのだと個人的には理解している。 ならば、患者となる「私たち」がまず知っておくことは、ACPとは何なのか?ということ。なぜ、ACPが大切なのかを理解すること。そして、「選択肢は1つじゃない」ということを知ることだ。 ネットなどにあふれる疑わしい情報ではなく、きちんとした情報を提供するサイトやらミニ番組やらを提供すること。自分が選ぶ道は画一化された一本道ではなく、側道もあれば、休憩所もあるし、遠回りもあるという、「決める自由が自分にはあるんだよ」ということを周知することだ』、厚労省は「「人生の最終段階における医療・ケアの 決定プロセスに関するガイドライン」も策定している」、にも拘らず、「その流れの最終形として、今回の一般向けの啓蒙活動に至った」、のであれば、吉本興行に入れ挙げている首相官邸から、吉本興行を使えと指示されたので、やむなく使ったとしか考えようがなさそうだ。
・『患者が自分で自由に決めることの重要さ  「自分で自由に決めることができる権利がある」という感覚は人の生きる力を高める最高のリソースである。職務満足感や人生満足感を高め、寿命をも左右する。病気であればなおさらのこと。同じきつい治療であっても、医師から一方的に施されるより、最終的には自分で「やります!」と決めた方が治療後の予後が順調だったり、QOL(生活の質)が保たれたりするという報告もある。 また、同じ治療法でも人によって副作用が違ったり、効果が変わったり、予期できないことは多い。そんなとき「自分で決めた」という行為自体が、予測できなかったネガティブな状況に役立ったりもする。 人は誰しも自分で自由に決めたいのだ。 誤解ないように言っておくと、私は何が大切かを家族で会話する機会、いわば「人生会話」には大賛成だ。病気は常に予想外だからこそ、不確実な将来に備えて、どうするか?を考えておくことは、プロアクティブコーピング(proactive coping、「コーピング」は問題に対応する・切り抜けるという意味)と呼ばれる対処法だ。 これは、「ストレッサー(ストレスの要因)」に直面してからの事後的なリアクティブコーピングとは異なり、不確実な将来に向けた積極的で前向きな対処法で、より満足のいく人生を手に入れるためには、プロアクティブコーピングを行った方がいい。 平たく言えば、突然の雨に備えて、傘を準備するようなもの。雨が降り出したときにどこに向かって歩いていけばいいかを考え、そこにたどり着くまでにぬれずに済む傘を準備する。たとえ予期した雨とは違う降り方であっても、自分の中にある選択肢を考えた経験がストレスを和らげる効果をもたらす。なので、年末年始など家族が集まったときに、人生の会話を楽しめばいい。 最後に今回問題になったポスターの文言について、「ポスターの趣旨=ACPの啓蒙活動」とは無関係な極めて個人的なことを書きます。 親の変化は突然にくる。私の父はすい臓がんが見つかる前の日まで、「100歳まで生きる」と誰も疑わないほどバリバリ元気だったので、がんが身体にすみついていたなんて、本人も家族も想定外中の想定外だった。 しかも、父は80歳だったけど脳も元気で、認知レベルは私以上だったが、がんの宣告を医師からされたときに「自分ががんに侵されている」ことを自覚できなかった。自ら「手術できないのは年だからですか?」と質問までしていたのに自覚できてなかった。 お見舞いに行ったときに「今日、病院の中をお散歩していたら隣の病室に先輩がいたんだよ。びっくりしちゃったよ。胃がんなんだって。気の毒になぁ」と言われたときは金縛りにあった』、河合氏の父親が「「自分ががんに侵されている」ことを自覚できなかった」、本人にはその方が幸せだったのかも知れない。
・『闘病は答えがない禅問答のようなものと実感  抗がん剤の治療が始まり、手引きなるものを医師から渡され、そこにはデカデカと「がん細胞」と書いてあるのに、自分ががんであると受け入れるまで、ひと月以上かかってしまったし、その後も「今月で治療終わるよね? 来月の予定入れていい?」と聞くなどしていた。 その一方で、体力も気力も劇的に衰えた。抗がん剤治療については色々な意見があるが、父にとっては「治療できること」自体が希望の光だった。なので副作用で抗がん剤が中止になったときは、かわいそうなぐらい落ち込んだ。 余命2カ月といわれながらも7カ月も頑張ったし、抗がん剤治療も通院だったので最後まで自宅だったけど、最後を迎えた後も、本当にあれでよかったのか? 抗がん剤治療をしない選択をしていたら、もっと最後まで元気だったのではないか?という思いは、心の奥底に残り続けている。 結局、何が正解かは答えがない禅問答のようなもの。「あのときはあの選択がベストだったんだ」と自分を納得させるには、医師に質問できるだけの治療や病気へのリテラシーを持っていることがとても大事である。私は幸運にも医師や薬剤師といった専門家の先生が周りにいて相談できたので、担当医師とその都度、話し合うことができた。そうしたリテラシーがないと結局はパターナリズムに身を委ねることになってしまうように思う。 厚労省には、病気に関するリテラシーを普及させる活動にもっと力を入れてほしい。家族に丸投げしないで!』、「闘病は答えがない禅問答のようなものと実感」、その通りなのだろう。「厚労省」こそ、「病気に関するリテラシー」を高めて、今回のような問題を起こさずに済むようにしてもらいたいものだ。

第三に、コラムニストの小田嶋 隆氏が11月29日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「人生会議に呼びたい人は?」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00046/?P=1
・『厚生労働省が制作したポスターが炎上している。 リンク先の記事によれば、批判が集中しているのは、 「人生の最終段階でどんな治療やケアを受けたいかを繰り返し家族や医師らと話し合っておく」ための「アドバンス・ケア・プランニング」(以下「ACP」と略称します)と呼ばれる取り組みを一般に広く宣べ伝えるための掲示物だ。 なお、ACPについて、厚労省は昨年「人生会議」という愛称を決めている。で、その「人生会議」を啓発するためのPR活動の一環として制作されたポスターが、このたび炎上を招いたというなりゆきだ。 ポスターの中では、吉本興業所属の小籔千豊という芸人が、ベッドに横たわった状態(鼻に酸素吸入のチューブを入れている)の入院患者に扮している。で、その瀕死と思われる患者の内心のつぶやきが桃色の文字で印字されている。 記事に添付された写真を見ればわかる通り、なかなか衝撃的な制作物だ。 良い意味の衝撃ではない。 「嫌なものを見せられた」という感慨を抱く人が多数派だと思う。 「人生の最終段階」に直面している当事者やその家族にしてみれば、広く一般の注目を引くためとはいえ、家族の死というこれ以上ない重い体験を、お笑い芸人を起用した半笑いの啓発ポスターに委ねた厚労省のやりざまに、裏切られた気持ちを抱いてもおかしくない。 というのも、件のポスターは、ACPを「ネタ」として消費する文脈の中で制作されているからだ。 21世紀のお笑いの多くは、他人の人格や人生を対象化しつつ、「ネタ」としていじくりまわすことで成立している。今回のポスターも例外ではない。外部に向けて自分の意思を伝えることがかなわない病状に立ち至っている瀕死の主人公が、もっと早い段階でACPに取り組んでこなかったことを悔やむ思いを関西弁のボヤキ口調で述懐する設定になっている。 言いたいことはわかる。 ある意味、わかりやすい作風だとも思う。 ただ、ポスターが情報として告知している内容とは別に、「形式」「文体」というのか「口調」の部分に漂っている「不真面目さ」が、見る者を困惑させることは、この場を借りて、強く指摘しておきたい。 おそらく、自分自身の死を意識せざるを得ない状況に置かれている、あるタイプの疾患の患者や、自分の家族や近しい人の中に余命宣告を受けたメンバーをかかえている人々は、このポスターが醸している「不真面目さ」に、「からかわれた感触」をおぼえるはずだ。 無論のこと、この軽佻な関西弁のPR宣材に触れて、どんな反応を示すのかは、ACPと対峙している当事者といえども、人それぞれではある。 率直に憤る向きもあるだろうし、悲しみに打ちひしがれる人もいることだろう。笑って済ませる人だっていないとは限らない。が、大部分の当事者は、少なくとも愉快な気持ちではいられないはずだ。 重要なのは、このポスターを見て、一般の、ACPをよく知らない人々が、ACPなるものに興味を抱いたり啓発されたりするとも思えない一方で、現実にACPについて真剣に考えざるを得ない立場にある当事者の多くが、このポスターに感情を害されるであろうことだ』、「「形式」「文体」というのか「口調」の部分に漂っている「不真面目さ」が、見る者を困惑させる」、全く同感である。
・『とすれば、このポスターは害を為すことしかしていない。 なにより、ACPに「人生会議」という「愛称」をつけてその普及をPRしようとしている厚労省の狙いが理解を絶している。 ACPはACPのままで良い。 というよりも、ACPのような一般の人々にとってなじみにくい用語は、そのなじみにくさと深刻さを含みおいたうえで、なじみにくい頭文字略称のままで、辛抱強く理解を求めていくべきだと思う。 たしかに「ACP」は、はじめてその言葉を知った人間が、一発で理解できる言葉ではない。 とはいえ、わかりにくいのは、用語が不適切だからではない。 そもそも概念として難解であり、様々な予備知識や広大な思索の余地を含んでいるからこそ、簡単には理解できないというだけの話だ。 言い換えれば、こういう言葉を理解するためには、それなりの時間と労力が必要だということで、してみると、ACPのような概念に、安易な理解を拒む難しげな名前が冠せられていることは、実は、妥当ななりゆきなのである。 というのも、地道な説明と、真面目な啓発を根気よく繰り返すのでなければ、このテの重苦しくも厄介な言葉は、決して広く世間に共有されないはずだからだ。 難解なカタカナ用語に安易な日本語をハメこんで、上っ面だけをわかりやすく装っても、概念としてののみこみにくさが緩和されるわけではない。 むしろ、平易に見せかけた日本語が当てられることで、誤解の余地が生じるデメリットの方が大きくなる。 実際、こういう例(難解な概念に親切ごかした訳語を当てはめたおかげで、一般の人々がその用語を正しく理解しなくなっている例)は、いくらでもある。 たとえば、一時期、OS(オペレーティング・システム)に対して、新聞各社が「基本ソフト」という訳語を当てることを書き手に義務付けていた時代があったが、あの「基本ソフト」という用語は、響きがやさしげなだけで、内容的にはOSの機能や役割をほとんどまったく説明していなかった。 OSはOSとして、その言葉が成立した背景やそれらにまつわる周辺技術コミコミでそのまま理解・使用する方が適切であるに決まっている。 パソコンやITの周辺にはこういう言葉がヤマほどある。 「パラメーター」の訳語は、一応「媒介変数」ということになっているが、漢字を当てたからといって、この用語の難解さが少しでも薄まっているわけではない。だとしたら、パラメーターはパラメーターとして、そのまま記憶する方がベターだと私は少なくともそう思っている。 このほか、たとえば、「接続」と翻訳される言葉には、「アクセス」「リンク」「ログイン」「ログオン」「サインイン」「コネクト」「コンタクト」といった、それぞれに少しずつニュアンスの違う用語がズラリと並ぶ。これらの近接概念は、ヘタに日本語にせず、それぞれ、元の英語をカタカナに開いただけのカタカナ用語として取り扱った方が読者を混乱させない意味で親切な翻訳になる。「マウス」を「鼠」、「ジョイスティック」を「快楽棒」に訳出するみたいな闇雲な翻訳は、誰もしあわせにしない』、「難解なカタカナ用語に安易な日本語をハメこんで、上っ面だけをわかりやすく装っても、概念としてののみこみにくさが緩和されるわけではない。 むしろ、平易に見せかけた日本語が当てられることで、誤解の余地が生じるデメリットの方が大きくなる」、その通りだ。
・『もっとひどい話もある。 第2次世界大戦当時の大日本帝国では、敵国たる「鬼畜米英」の使用言語である英語を「敵性言語」として憎悪する愚かな国粋主義者が、思うさまに跳梁跋扈していたものなのだが、その彼らは、野球用語についても、「ストライク」を「よし」に、「ボール」を「駄目」といった調子で、順次腐った日本語に置き換えずにはおかなかった。 しかし、考えてみてほしい。野球の世界で言う「ストライク」は、「ストライクゾーン」(打撃可能範囲)の略称であると同時に、「打撃」という行為自体を指す動詞でもある。さらにその一方で、スコアブックに記録される時には「打撃意図の失敗」すなわち「空振り」もしくは「見逃し」を意味していたりする。 「ボール」の方も一筋縄ではいかない。「ボール」は、なによりもまず、野球で使う「使用球」「硬球」それ自体を指す言葉だ。しかしながら、他方、スコアブック上では「ストライクゾーンから外れた投球」を意味してもいる。してみると、こういう油断のならない言葉に一対一で日本語の単語を対応させて、それで良しとするようなバカな翻訳は、成立する道理がないのである。 「人生会議」は、意訳である分だけ、さらに真意が伝わりにくい。 いや、「人生会議」は、「翻訳」ですらない。ただの「愛称」だ。 「愛称」? ゆるキャラでもないのに? そもそも、どうして、人の生き死にを扱うフレーズに「愛称」が必要なんだろうか。 ともあれ、ふつうに考えれば、「愛称」をつけたからといって、ACPがポジティブだったり可愛かったりする言葉に生まれ変わるわけではない。 あたりまえの話だが、死についての用語はどう取り繕ったところで明るい話題にはならない。明るく語ろうとすれば、そこには当然のことながら欺瞞が生じる。 つまり、今回の事態は、その厚労省による「欺瞞」が視覚化された過程そのものだったわけだ。 厚労省のホームページには、ACPについて詳しく解説した文書がアップされている。 読んでみればわかるが、これまた衝撃的な文書で、通読した人間は、必ずや憂鬱にとらわれる。 事実、私は読んだあとしばらくふさぎこまなければならなかった。 なにしろ、印刷してみればA4の用紙2枚半に満たない分量のページ内に、「人生の最終段階」というフレーズが20回登場するのである。 びっくりだ。ほぼ2行に1回の頻度で、「死」ないしは「死の直前」の過ごし方が語られている。たしかに、これは世間の善男善女にうっかり共有してもらえるような甘ったるい話ではない。 おそらく、厚労省のお役人は、「人生の最終段階」「終末期医療」「死」といった、どうにも重苦しい言葉を繰り返すことでしか説明できないACPの話題をつくづく扱いかねたのだと思う。 だからこそ、彼らは、その啓発活動を吉本興業に丸投げにした。 ヨシモトなら、この重苦しくも暗鬱なACPを、明るく心あたたまる話題に作り変えてくれるはずだ……とまでは思わなかったにせよ、厚労省が難航しているACPのPR活動に、外部からのヘルプを求めていたことは確かだと思う。 で、失敗したわけだ。 当然だ。失敗するに決まっている。 そもそも、こういう仕事にお笑いの世界の人間を持ってくること自体がどうかしている』、「死についての用語はどう取り繕ったところで明るい話題にはならない。明るく語ろうとすれば、そこには当然のことながら欺瞞が生じる。 つまり、今回の事態は、その厚労省による「欺瞞」が視覚化された過程そのものだったわけだ」、「そもそも、こういう仕事にお笑いの世界の人間を持ってくること自体がどうかしている」、いずれもその通りだ。
・『お笑いの世界の人間は、単に笑いを取ることはできても、対象を貶めずに話題に「軽み」をもたらすような演出手法は持っていない。特に令和の時代のお笑い関係者は、相方なり共演者なりを泥まみれにすることでしか笑いを生み出すことができない仕様になっている。 とすれば、彼らが「死」に軽みをもたらすことなど、できようはずがなかったのである。 問題は、厚労省が「死」ないしは「終末期医療」という話題の重苦しさに真正面から対峙することを嫌って、その話題から逃避したことだ。 あるいは、邪推すればだが、このお話は、老人医療ならびに終末期医療の予算削減を画策する厚労省が、延命治療の放棄に向けた議論の下地作りのために、吉本芸人の知名度と好感度を利用したということだったのかもしれない。 だとすると、「人生会議」という、一見前向きに見えるこの名前は、実のところ、後期高齢者や重篤な患者の「人生」に適切な(ということはつまり「医療保険制度にとって過重な負担とならない」)タイミングでの「ピリオド」を打つための施策で、その「会議」の主たる議題は「適切な死」だったわけだ。 ついでのことにもう一つの邪推として、「人生会議」での吉本興業の起用が、「総理案件」であった可能性について簡単に触れておきたい。 11月にはいってからこっち、例の「桜を見る会」に関連して、「行政の私物化」「政治家の公私混同」「政権内外を席巻するネポティズム(縁故主義)の影響」といったフレーズが、連日新聞紙面を賑わせているわけなのだが、私個人の直感では、この案件にも同じ匂いを嗅ぎ取らざるを得ない。つまり、まるで畑違いの厚労省の仕事にわざわざ吉本興業の芸人が押し込まれた経緯に、官邸周辺と吉本幹部の蜜月の影響を感じるということだ。 この夏、何人かの吉本興業所属のタレントが、反社会的勢力との取引や付き合いを取り沙汰されて、謹慎処分になった時点で、私は、彼らの雇用主である吉本興業が、明示的なカタチで責任を取っていないことに強い違和感をおぼえていた。もう少し具体的に言えば、会長や社長が辞任しないまでも、少なくとも、政府関連の仕事からは撤退するのがスジだと、そう考えていた。 ところが、吉本興業は、五輪や万博の関連で様々な経路で請け負っている公的な仕事を従来どおりに受注している。行政の側も、まったくアクションを起こしていない。クールジャパン機構から提供されることになっている資金を返上する様子もない。 で、今回のこの事態だ。 私には自業自得案件にしか見えない。 最後に「人生の最終段階」という今回のパワーワードについて、思うところを述べておきたい。これも邪推といえば邪推なので、あくまでも個人の感想として書き記すにとどめる。 ACPを推進しようとしている最も積極的な論者は、「人生の最終段階」という言葉に、おそらく「治癒する見込みのない患者の延命治療」という意味をこめているはずだ。 そういう人たちのアタマの中では、「何カ月か意味のない延命をすることだけのために、何百万円何千万円の医療費をかけるのなら、もっと若くて体力のある生産性の高い患者の治療に投入するべきだ」式の理屈が行ったり来たりしているのだと思う。 大筋において、私は、彼らの主張を理解しないわけではない。 ただ、「人生の最終段階」は、他人が思うほど計量可能な指標ではない。 この言葉は、使いようによっては、どこまでも危険な尺度になるはずだ。 寝たきりの患者を眺めている見舞客の立場からすれば、もう何カ月も一言すら発し得ない重篤な患者は、まさに「人生の最終段階」に到達した人間に見えるはずだ。 でも、本人はそう思っていないかもしれない。 家族の思いもまた別であるはずだ』、「「人生会議」という、一見前向きに見えるこの名前は、実のところ、後期高齢者や重篤な患者の「人生」に適切な・・・タイミングでの「ピリオド」を打つための施策で、その「会議」の主たる議題は「適切な死」だったわけだ」との「邪推」は見事な謎解きだ。「畑違いの厚労省の仕事にわざわざ吉本興業の芸人が押し込まれた経緯に、官邸周辺と吉本幹部の蜜月の影響を感じる」、同感だ。「ACPを推進しようとしている最も積極的な論者は、「人生の最終段階」という言葉に、おそらく「治癒する見込みのない患者の延命治療」という意味をこめているはずだ。 そういう人たちのアタマの中では、「何カ月か意味のない延命をすることだけのために、何百万円何千万円の医療費をかけるのなら、もっと若くて体力のある生産性の高い患者の治療に投入するべきだ」式の理屈が行ったり来たりしているのだと思う」との「邪推」も、薄気味悪いが、新自由主義的政策の極致のようだ。
・『私が懸念しているのは、厚労省がホームページの中で20回にわたって繰り返している「人生の最終段階」というこのおだやかならぬ言葉が、一人歩きを始める近未来だ。 たとえば、あるタイプの最新のがん治療薬は、投与1回分で数百万円と言われる高価な薬である一方で、ある確率で著効をあらわす夢の薬だとも言われている。 とはいえ、仮に20%の患者に著効をあらわすのだとすれば、残りの80%の患者にとって、そのクスリに使われた金額(保険料も)は、結果として「無駄」ということになる。 死の側から逆算すれば、治療にかかった薬価は、そのまま「浪費」ということにもなるだろう。 一方、著効例で、延命効果があらわれたケースでも、それはそれで、「無駄」は生じる。 というのも、高額な治療薬のおかげで延命がかなったのだとしても、患者は、延命期間中、その高額な治療薬を投与し続けなければならない(完全に治癒すれば、話はまた別だが)からだ。 とすると、たった2回か3回でもびっくりするような金額を要するその治療薬を、延命した患者は何年間も投与し続けるわけで、これはかなりとてつもない出費になる。 幸い、現在のわが国では、高額療養費制度のおかげで、薬価のかなりの部分は、国が負担してくれる。 もっとも、お国ならびに厚労省は、続々と開発される高額な新薬の登場を横目に、高額療養費制度の存続をどうやら疑問視しはじめている。実際、2カ月ほど前だったか、NHKのニュース解説に出てきた解説委員のおじさんは、高額療養費の国庫負担が限界を超えつつあることについて、極めて厚労省寄りの見解を述べていた。 なんということだ。 近い将来、最新の薬による延命は、富裕層の特権になるかもしれないわけだ。 話を整理しよう。 薬が効いて延命が実現したのだとして、その人間の生は、他人から見れば、たぶん「人生の最終段階」にすぎない。 あるいは、ネオリベ的な経済合理性の割り算で考えると、特定個人のそれぞれの延命は、その人間の残りの人生が薬価を費やすに足る価値を持っているかどうかを勘案しつつ、それぞれ個別に審査しないといけないってな話になる。 若くて生産性があって人望があって能力の高い人間の人生は、何千万円かけても延命させる価値を持っている。 一方、延命したところで飯を食ったり寝たり考え事をしたり不機嫌に黙り込んでいたりするだけの年寄りの人生は、たとえ何百万円でなんとかなるのだとしても、あえて延命するには足りないということになる。 いずれにせよ、他人に決められるのはごめんだ。 なので、会議には誰も招集しない。 あしからず』、「若くて生産性があって人望があって能力の高い人間の人生は、何千万円かけても延命させる価値を持っている。 一方、延命したところで飯を食ったり寝たり考え事をしたり不機嫌に黙り込んでいたりするだけの年寄りの人生は、たとえ何百万円でなんとかなるのだとしても、あえて延命するには足りないということになる」、ここまで「邪推」出来る小田嶋氏の能力には脱帽するしかない。
「人生会議」について、3人の論者の見方を紹介したが、冒頭の鈴木氏のは駄作だが、河合氏のはACPを幅広い角度で説明しており、読みがいがあった。小田嶋氏の様々な「邪推」は本当に考えさせられ、傑作だ。
タグ:鈴木貴博 日経ビジネスオンライン ダイヤモンド・オンライン 河合 薫 終末期 小田嶋 隆 (その5)(「人生会議」PRポスター騒動で 厚労省が気づかない本当の失敗、家族に丸投げ「人生会議」ポスターの大ウソ、小田嶋氏:人生会議に呼びたい人は?) 「「人生会議」PRポスター騒動で、厚労省が気づかない本当の失敗」 厚労省が提唱する「人生会議の日」 啓蒙ポスターが大炎上の誤算 がん患者を取り上げたポスターだと読み取ることはできるか リスクを感じていない一般の人向け 「お笑いタレント」を起用するのもあり クレームはもっともだが 本質的なミスは他にある 厚労省が犯した最大のミスは、「患者や遺族を傷つける内容である」という抗議を受け入れ、ポスターの回収を判断した結果、現場に「お笑い禁止」のムードを広めてしまった、ということではないでしょうか 「家族に丸投げ「人生会議」ポスターの大ウソ」 相次ぐ抗議で啓発ポスター採用が見送りに ACPは医療従事者が関与してはじめて成り立つもの 患者・家族・医療従事者の信頼関係が必須 患者が自分で自由に決めることの重要さ 闘病は答えがない禅問答のようなものと実感 「人生会議に呼びたい人は?」 「形式」「文体」というのか「口調」の部分に漂っている「不真面目さ」が、見る者を困惑させる 難解なカタカナ用語に安易な日本語をハメこんで、上っ面だけをわかりやすく装っても、概念としてののみこみにくさが緩和されるわけではない。 むしろ、平易に見せかけた日本語が当てられることで、誤解の余地が生じるデメリットの方が大きくなる 死についての用語はどう取り繕ったところで明るい話題にはならない。明るく語ろうとすれば、そこには当然のことながら欺瞞が生じる。 つまり、今回の事態は、その厚労省による「欺瞞」が視覚化された過程そのものだったわけだ そもそも、こういう仕事にお笑いの世界の人間を持ってくること自体がどうかしている 「人生会議」という、一見前向きに見えるこの名前は、実のところ、後期高齢者や重篤な患者の「人生」に適切な・・・タイミングでの「ピリオド」を打つための施策で、その「会議」の主たる議題は「適切な死」だったわけだ 畑違いの厚労省の仕事にわざわざ吉本興業の芸人が押し込まれた経緯に、官邸周辺と吉本幹部の蜜月の影響を感じる ACPを推進しようとしている最も積極的な論者は、「人生の最終段階」という言葉に、おそらく「治癒する見込みのない患者の延命治療」という意味をこめているはずだ。 そういう人たちのアタマの中では、「何カ月か意味のない延命をすることだけのために、何百万円何千万円の医療費をかけるのなら、もっと若くて体力のある生産性の高い患者の治療に投入するべきだ」式の理屈が行ったり来たりしているのだと思う 若くて生産性があって人望があって能力の高い人間の人生は、何千万円かけても延命させる価値を持っている。 一方、延命したところで飯を食ったり寝たり考え事をしたり不機嫌に黙り込んでいたりするだけの年寄りの人生は、たとえ何百万円でなんとかなるのだとしても、あえて延命するには足りないということになる
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