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随筆(その2)(小田嶋氏3題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味、箱根の天使が走って救う 三が日の不仲な家族たち) [文化]

随筆については、昨年10月17日に取上げた。今日は、(その2)(小田嶋氏3題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味、箱根の天使が走って救う 三が日の不仲な家族たち)である。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が10月18日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「和田誠さんがまいたサブカルの種子」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00041/?P=1
・『和田誠さんが亡くなった。 どう言ってよいのやら、適切な言葉が見つからない。 この20年ほどは、メディアを通じて配信される記事や報道の中で、お名前を見かける機会がなくなっていた。それゆえ、私自身、和田誠さんのことを思い出さなくなって久しい。私は、忘れてはいけない人の名前とその作品を、本当に長い間、思い出すことさえせずに暮らしていた。何ということだろう。 訃報に触れて、あれこれ考えるに、自分がいかにこの人の作品から多大な影響と恩恵を受けていたのかを、あらためて思い知らされている。今回は、そのことを書く。 テレビや新聞の回顧報道を眺めながら、その回顧のされ方に時間の残酷さを感じることは、誰の訃報に触れる場合でも、毎度必ず起こる反応ではあるのだが、今回の和田誠さんの業績のまとめられ方には、ことのほか大きな違和感を覚えている。 何より、扱いが小さすぎる。 誰の訃報と比べてどんな風に小さいという話ではない。 和田誠という人が残した仕事の量と質と範囲の広さと、それらの作品を生み出した才能の非凡さに比べて、その死の扱われ方が、あまりにも軽く感じられるということだ。 私が和田誠という名前を初めて知ったのは、たぶん1977年のことだ。 「たぶん」という言い方をしているのは、訃報を知ってから検索やら何やらでかき集めた情報と、アタマの中に記憶として残っている知識の間に、かなり深刻な食い違いがあることが判明して、我がことながら、自分の記憶が信じられなくなっているからだ』、私は「和田誠」氏を知らなかったので、Wikipediaで見たところ、イラストレーター、エッセイスト、映画監督、音楽評論家で、料理家 平野レミの夫と多才な人だったようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E8%AA%A0
・『私の頑迷な記憶の中では、私が和田誠さんの『倫敦巴里』を読んだのは高校時代の話ということになっている。 ところが、Wikipediaを見ると、『倫敦巴里』の出版は、77年だ。ということは、私はすでに大学に進んでいる。年齢で言えば、20歳だ。 どうしてこんな偽の記憶が育ったのだろうか。 想像するに、私は、『倫敦巴里』を初めて見た時、 「これこそ自分がやるはずの仕事だった」と思ったはずで、その強い思いが記憶をゆがめたのだろう。このセンは大いにあり得る。 というのも、『倫敦巴里』の中で展開されていた文体模写やおとぎ話の翻案ネタは、まさに私自身が高校時代に夢中になって取り組んでいたことだったからだ。 で、自分がやっていたそれらのお遊びのおふざけを、プロのクリエーターがプロの作品として世に問うた初めての書籍が『倫敦巴里』だったわけで、それゆえ、作品そのものの素晴らしさへの賛嘆の念はともかくとして、私が 「ああ、先を越された」と生意気にもそう考えたであろうことは容易に想像できる。 自信を持てない一方で思い上がった若者でもあった20歳のオダジマは 「おい、これはオレが高校生の時からやってた遊びだぞ」「パクリじゃないか」と考えた可能性さえある』、「『倫敦巴里』の中で展開されていた文体模写やおとぎ話の翻案ネタは、まさに私自身が高校時代に夢中になって取り組んでいたことだった」、小田嶋氏もずいぶんマセた高校生だったようだ。
・『もちろん、東京の片隅にある高校のそのまた教室の片隅で密かにやり取りされていた稚拙な文体模写ごっこを、当時の和田誠さんが知っていたはずもなければ、パクる理由も必要も必然性もない。当然だ。が、それでもなお、20歳の私が 「ああ、やられた」と思った可能性はあるのだ。 くすぶっている20歳は、自分に似た優越者を見るたびに 「やられた」と思う。 まして、くすぶっている上に思い上がっている20歳は、手の届かない場所にある果実を見れば、必ずや 「あれはオレが取り逃がしたリンゴだ」という風に考えるものなのである。 もっとも、「やられた」と思う一方で、私は、「こういうものが評判を取っているということは、オレのやってきたこともそうそう捨てたもんじゃないってことで、つまり、オレも案外この分野でやっていけないわけでもないんではなかろうか」とも感じていた。この時のこの感慨は、今でもありありと思い出すことができる。実際、私は、あの本に大いに勇気づけられた。このことについては、どれほど感謝しても足りないと思っている。 『倫敦巴里』以前は、面白随筆であれ冗談企画であれ、「笑い」に足場を置いた作品を書籍として出版するのは、いわゆる「文壇」の中にいる一握りの人々に限られていた。『倫敦巴里』が刊行された77年以前に文体模写や「もし◯◯が××だったら」式の「IF」を題材としたお笑い企画が存在していなかったわけではないが、それらは、もっぱら雑誌の読者投稿コーナーや深夜ラジオの投稿はがき企画として一部で盛り上がっているに過ぎない、いわば「素人企画」だった』、「私は、「こういうものが評判を取っているということは、オレのやってきたこともそうそう捨てたもんじゃないってことで、つまり、オレも案外この分野でやっていけないわけでもないんではなかろうか」とも感じていた」、小田嶋氏に自信を植え付けた意味は大きそうだ。
・『その素人のお遊びを完成形の作品に結実させて世間の評価をひっくり返すに至った画期的な書籍が、あの見事な『倫敦巴里』だったわけで、あれを見て勇気を鼓舞された若者は、無論のこと、私だけではなかった。日本中の夢多き中高生やくすぶっている大学生が、あの本を見て、 「おい、オレもやれるぞ」と思ったはずなのだ。 極言すればだが、1980年代に花開く「サブカル」の種子は、実に、1977年に和田誠が『倫敦巴里』を世に問うた時に、全国津々浦々にまかれていたということだ。 私自身、もし『倫敦巴里』を読んでいなかったら、自分が本を書く人間になることを想像すらしなかったはずだ。 それまで、本を出すのは、小説を書く人間に限られていた。小説以外の文章は、言ってみれば「色物」みたいなもので、そんなものは、小説家が「余技」として取り組めば十分だ、と、少なくとも私はそう思い込んでいた。それゆえ、小説を書くつもりも才能も持っていない自分のような者は、書籍の出版とは一生涯縁のない人間なのだと、20歳になるまでは完全にそう思い込んでいた。 その思い込みを、洒脱な魔法とともに解除してくれたのは、あの素晴らしい『倫敦巴里』の自在さだった。 和田誠さんは、自分自身をPRすることに長けた人ではなかった。 私が残念に思っているのは、ここのところだ。 和田さんに、もっと積極的な自己アピールを心がけてほしかったという意味ではない。 私が言いたいのは、和田誠さんのような、自己プロデュースに熱心でないクリエーターについて、作品本位で高く評価するメディアがもっと積極的に情報発信すべきだということだ。 いったいに、現代の商業メディアは、作品を制作している人間を遇するに当たって、クリエーター本人の「キャラクター」を消費する以外の術をあまりにも知らない。このことを、私は大変に残念な傾向だと考えている。 和田誠さんが、単にシャイな性格で、それゆえ人前に出ることを好まなかったのか、あるいは、作品で勝負すべきクリエーターが自己宣伝に労力を割く態度に反発を感じていて、それで、あえてメディアへの露出を避けていたのか、詳しいところは私には分からない。いずれにせよ、和田さんは、ほとんどまったく自分の顔やナマのしゃべりや、私生活上のエピソードを商業メディアに提供することをしない人だった。 引き比べて、1980年代以降に世に出たクリエーターは、おしなべて自己アピールの上手な人が多い。 というよりも、時代が進めば進むほど、作品が作品として評価されることよりも、作者の知名度が作品のオーラを高めるカタチで売り上げを伸ばしていくケースが目立つようになってきている。もう少し露骨な言い方をすれば、この国のエンターテインメント市場は、作品を売ることよりも、自分の名前を売ることに熱心な表現者が勝利をおさめる場所になってしまったということだ』、「素人のお遊びを完成形の作品に結実させて世間の評価をひっくり返すに至った画期的な書籍が、あの見事な『倫敦巴里』だった」、確かに1つのジャンルを切り開いたというのは大変なことだ。「小説を書くつもりも才能も持っていない自分のような者は、書籍の出版とは一生涯縁のない人間なのだと、20歳になるまでは完全にそう思い込んでいた。 その思い込みを、洒脱な魔法とともに解除してくれたのは、あの素晴らしい『倫敦巴里』の自在さだった」、小田嶋氏の恩師といってもいいぐらいだ。
・『和田誠さんの訃報は、彼自身が有名であることに冷淡だったことの当然の帰結として、不当にひっそりと報じられて、すでに忘れられようとしている。それは残念なことでもあるのだが、同時に、和田さんらしい身の処し方の結果だと思えば、ふさわしい結末でもある。 この原稿を書いていてふと気づいたのだが、私は、映像の中で動いてしゃべっている和田誠さんの姿をついぞ見たことがなかった。それどころか、不思議な話なのだが、私は和田誠さんの顔を知らない。ご自身の肖像は今回の訃報に関連して初めて拝見した次第だ。 にもかかわらず、訃報に触れて以来の喪失感の大きさは、この数年の間にこの世を去った誰の時のそれと比べても、ひときわ大きく深い。 そんなわけなので、今は、顔も知らない人をこれほどまでに深く敬愛していた自分の純真さを、ほめてあげようと思っている』、最後のオチはなかなかよく出来ている。

次に、同じ小田嶋氏による12月13日付け日経ビジネスオンライン「ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00049/?P=1
・『奇妙な夢を見た。 今回はその話をする。時事問題をいじくりまわしたところで、どうせたいして実のある原稿が書けるとも思えない今日このごろでもあるので、こういう時は身辺雑記を書き散らすことで当面の難局をしのぎたい。 夢の中で、私は、古い家族のメンバーとクルマに乗っている。私は明らかに若い。30歳より手前だと思う。運転はなぜなのか母親が担当している。クルマの少し前を父親の原付きバイクが走っている。父親は既に老人になっている。亡くなる少し手前。たぶん70歳前後ではなかろうか。 と、その父親の操縦する原付きバイクが交差点でモタついたせいで、右折してきた対向車とぶつかりそうになる。見たところ、トラブルの原因は父親の運転の危うさにある。 そこで、私が出ていって相手方に謝罪してその場をおさめる。行きがかり上、原付きバイクには私が乗って行くことになる。 すると、しばらく走ったところで、二人の警察官に呼び止められてバイクをその場に止めるように指示される。 警察官たちはニヤニヤ笑っていて態度を明らかにしない。どうやら私がヘルメットをかぶっていないことをとがめるつもりでいる。余裕の笑顔でこっちを見ている。 この時、私と母親の間で議論がはじまる。 「あなたがヘルメットをかぶっていないのが悪い。まったくなんということだ」「オレはあの事故寸前の現場を収拾することで精いっぱいだった。バイクの運転なんか想定していないのだから、ヘルメットを持って歩いているはずがないではないか」「それでも非はおまえにある。致命的なミスだ」私は激怒してこう宣言する。 「わかった。もうごちそうしてもらいたいとは思わない(←なぜか、この日は母のおごりでレストランで会食することになっていたようだ)。オレは一人で歩いて帰る」 で、その空き地のような場所から見知らぬ街路に向かって歩き始めると、何人かの人間(著名な芸能人が一人と妹の友人だというはっきりしない人物が二人ほど)が、私をなだめにかかる。 「こういう場面で怒りにまかせて行動すると、必ず後悔することになる」「お母様も年齢が年齢なのだから、あなたの方が折れてあげるのがスジだ」などと、彼らは、口々に私の軽挙をいましめ、再考を促す。 ここで私が再び激怒する。「何を言うんだ。オレは少しも悪くないぞ。どうしてオレばかりが責められなければならないんだ」と、大きな声をあげたところで目が覚めた。 心臓がドキドキしている。夢から覚めたことはわかっているのだが、しばらくのあいだ、怒りの感情がおさまらない。仕方がないので、未明の中、起き出してメールチェックやらツイッターの新着メッセージの確認やらを済ませて、再び床に就いたわけなのだが、おどろくことに、夢で目覚めた時点で、すでに9時間は眠っていたのに、そこからまた4時間ほど熟睡してしまう。 この一週間ほど、体力が衰えているからなのか、丸1日をマトモに起きていることができない。今週に入ってからは、毎日14時間以上眠っている。どうかしている。昔からそうなのだが、私は、過眠傾向に陥っている時期に、奇妙な夢を見ることが多い。たぶん、肉体のみならず、アタマも相応に疲れているのだろう。夢の中で激怒せねばならなかったのは、おそらく私が疲労しているからだ。 さて、再び目を覚ましてみて、あらためて思うのは、夢の中で爆発させた自分の怒りの激しさと、その後味の悪さについてだ。 あんなに怒ったのは何年ぶりだろうか。いや、何十年ぶりかもしれない。 いまでも、怒りの余韻がカラダの節々に残っている。この感じは、端的に言って不快だ。 ちょっと前に、ツイッターのタイムライン上でどこかの誰かが言っていた言葉を思い出す。 彼は、現代の日本人が「怒りを表明したり怒りに基づいて行動したりすることの快感に嗜癖している」ように見える旨を指摘していた。それというのも、怒りは、多くの人々にとって、不快さよりはむしろ快感をもたらすもので、特に激怒して大きな声を出した後には、ストレスがきれいに発散されているもので、だからこそ、人々は怒りに嗜癖する、と彼は言うのだ。 そうだろうか』、小田嶋氏が夢をよく覚えているのには驚かされた。「怒りに嗜癖する」との説には、私も違和感を覚えた。
・『私の抱いている感触は正反対だ。 私個人の観察の範囲では、自分自身が怒っていることや怒りを表明することに快感を覚える人間が、日本人の中で多数派を占めているようには思えない。 どちらかといえば、怒りという感情に対して居心地の悪さを感じる人間の方が多いはずだ。 事実、私は、夢の中で激怒して大声を上げたことに、目覚めてなおしばらくの間、後味の悪さを感じなければならなかった。怒鳴ることでストレスの発散を実現している人間がいないとは言わないが、そのタイプの人々にしたところで、怒鳴った後にすみずみまでスッキリしているわけではない。必ずや一定の居心地の悪さに苦しんでいるはずだ。 もう一つ思うのは、2019年の日本というのか、あの大震災以来の現在のわが国が、怒りという感情をかつてないほどネガティブに評価する社会に変貌しているということだ。 「アンガーマネジメント」だとかいう言葉に関連する書籍が、この数年、一貫して高い売り上げを記録している事実を見ても明らかな通り、われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している。 怒りは、恥ずべき逸脱であり、未熟な人格の現れであり、知的であることから最も遠い感情であると、われら現代人は、そんなふうに考えている。であるから、怒りは芽のうちに摘むのか、あるいは、抑圧して摺り潰すのか、いずれにせよ、なんらかのマネジメントの力を発揮して雲散霧消させるべき呪われた対象であると見なされている。 つまり、怒りは、どうやら文明人にとっての恥辱であるらしいのだ。 ほんの少し前まで、怒りは、ごく自然な人間の感情の一つであると見なされていた。 いや、ほんの少し前ではない。年寄りの記憶は常に歪んでいる。怒りが、自然な感情として社会的に容認されていた時代の話をするためには、時計の針を最低でも30年分は巻き戻さなければならない。 以下、しばらくの間、昭和の時代の話をする。 30歳以下の人々には見当もつかないことだと思うのだが、われら日本人は、ほんの半世紀前までは、かなり怒りっぽい人々だった。 授業中に大きな声で恫喝したり、生徒に手を挙げたりする教師はそれこそ日本中のあらゆる学校に遍在していたし、部下を殴る上司や、駅員や店員のような人々に向かって怒鳴り散らす客もそこら中に散在していた。もちろん、怒鳴る駅員や客を叱りつける店主もいた。 私が大学に通っていた40年前は、学生の素行も現代の学生のそれと比べれば、明らかに粗野だった。のみならず、暴力的でもあれば直情的でもあり、どう手加減したところで、感情的と言ってあげるのが精いっぱいだった。 感情的であることが良いとか悪いとかの話をしたいのではない。 ただ、どういう理由でそうなったのかまではわからないのだが、この30年か50年ほどの間に、わたくしども日本人が、自分たちの怒りを抑圧するマナーを身に付けたことは事実で、その事実を、まず読者のみなさんにお知らせするべく、私は昔話をほじくり出しにかかっている次第なのである。 昭和40年代の12月に歌舞伎町に飲みに行く機会があった場合、終電間際の帰り道では、かなり高い確率で路上で殴り合いをしているサラリーマンに遭遇することができた。 殴り合いは、駅のホームでも盛り場の暗がりでも、わりと日常的に勃発していて、そのほとんどは、警察沙汰になることもなく有耶無耶のうちに終結していた。そういう時代の空気の中で、われら昭和の人間たちは、誰かが大声で怒鳴ることや、課長待遇の社員が机を威圧的に叩く仕草を、そんなにびっくりすることなく横目で眺めながら暮らしていた。 何を言いたいのか説明しておく。 こういう話をすると、「ジジイがいきがってやがる」「はいはい殴り合いに動じなかった自慢ですね。続きをどうぞ」「へぇー、野蛮な時代に生まれ育ったとかそういうことでマウント取りに来るわけですか?」みたいな反応が返ってくる。そういう定番のやりとりのくだらなさに、私はうんざりしている。 違うのである。私は武勇伝を語っているのではない。自慢をしているのでもない』、「われら日本人は、ほんの半世紀前までは、かなり怒りっぽい人々だった」のが、「われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している。 怒りは、恥ずべき逸脱であり、未熟な人格の現れであり、知的であることから最も遠い感情であると、われら現代人は、そんなふうに考えている。であるから、怒りは芽のうちに摘むのか、あるいは、抑圧して摺り潰すのか、いずれにせよ、なんらかのマネジメントの力を発揮して雲散霧消させるべき呪われた対象であると見なされている。 つまり、怒りは、どうやら文明人にとっての恥辱であるらしいのだ」、と変質したのは確かなようだ。しかし、それは何故なのだろう。
・『ただ、自分が見てきた時代の様相と、いま目の前で動いている社会の雰囲気があまりにもかけ離れているから、その違いを、できるだけわかりやすく伝えようとしているだけなのだ。 実際、われわれが若者だった時代の若者は、いまの若者に比べてずっと率直に喜怒哀楽を表現したものだし、そのことを(少なくとも当時は)特段に異常な振る舞い方だとは考えていなかった。 わりと簡単に暴力に訴えたことも事実だし、直情的であることを若さの特権であるぐらいに考えていたことも半分ほどはその通りだと思っている。 ただ、ぜひわかってほしいのは、私がこんな昔話をしているのは、昔の若者が本当の若者で、いまの若者は若者らしくないとかいった、そういう腐れマッチョな結論を提示したいからではないということだ。 なにより、私は当時の若者としては、滅多に喜怒哀楽を表現しない煮え切らない男であったわけで、その意味では、現代の20代の人々にずっと近いタイプだった。そのことを踏まえて、自分自身の好みの話をするなら、私は、昔の若者よりも、いまの若者のほうがずっと好きだし付き合いやすいとも思っている。 ただ、ここは良し悪しの話をしている場所ではない。 私は、ある時点から、わたくしども日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会にもたらしている変化について語る目的で、以上の話を振ったのである。 もう10年以上前になると思うのだが、BSの放送で、「男はつらいよ」の第一作が放送されたことがある。 その時、私は、あらためて目の前で動いている40年前(当時から数えて)の映像を鑑賞しながら、自分が多くのシーンに共感できなくなっていることに、あらためて衝撃を受けた。 40年前には、この同じ映画を笑いころげながら劇場で見ていた記憶がある。 それが、いま、シラけた気持ちで画面を眺めている。 ほとんどのシーンは、笑えない悪ふざけにしか見えない。 変わったのは映画ではない。 変わってしまったのは、映画を見ている私のアタマの中身だったのだ。 映画の中で、寅次郎は、「その場の空気を読むことをせずに、自分自身の喜怒哀楽をそのまま表現してしまう、正直で不器用なトラブルメーカー」 として、ストーリーを活性化させる役割を担っている。 空気を読まない寅次郎が、立場や儀礼から外れた振る舞いを敢行することで、権威主義者は顔色を失い、気取り屋は顔をしかめ、間に立つ人間は立場を失い、寅の将来を案ずる妹と血縁の者は、ただただオロオロするという、そこのところの悲喜劇が、物語に血肉を与えている。 この物語の世界を共有できる観客は、映画を楽しむことができる。 おそらく、50年前の日本人は、この設定をわがことのように楽しめたはずだ』、「ある時点から、わたくしども日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会にもたらしている変化」、なるほど。「男はつらいよ」を観た感想の変化は、社会の変化を雄弁に物語っている。
・『というのも、寅のような日本人は、街のあちこちに実在していたし、親戚中をひとわたり見回してみれば、「正直で裏表が無い半面、考えが浅くて、それがためにのべつトラブルを引き起こしている困ったおっさん」が、一人や二人は、必ずいたものだからだ。実際、昭和のある時期まで、親戚というのは、そういう「困ったおっさん」が持ち込む笑い話を織り込んだ上で運営されている、一種演劇的な集団であったと言っても言い過ぎではない。 しかし、時が流れて社会のデフォルト設定が変われば、寅次郎の物語は無効になる。 私が、10年前にこの作品を見て当惑したのは、この偉大な映像作品の前提のところにある「がさつで直情的な一方で、計算のない正直な愛すべき人柄」としての寅のキャラクターが、平成令和の日本人には、どうしてもハマらなくなってしまっていたからだ。 じっさい、一緒に映画を見ていたメンバーのうちの若い人々は、完全にドン引きしていた。 「なにこのヒト」「最悪じゃん」 じっさい、妹のサクラの見合いの席で酔っ払って下品なジョークを連発する寅の姿は、平成のスタンダードからすると 「最悪」以外のナニモノでもない。 妹の晴れ姿を見た嬉しさに思わずはしゃぐ寅、とかなんとか言うト書きの中の説明文は、言い訳にもならなければ免罪符にもならない。ただただ最悪。無神経で身勝手で浅慮で低能で最悪なうえにも最悪。二度と顔も見たくないタイプの親戚。絶縁モノである。 とはいえ、寅を弁護したくて言うのではないのだが、あの時代には、ああいう日本人が、たくさん生き残っていたのである。寅次郎ほど極端ではなかったにせよ、タイプとして寅次郎おじさんと同一集合の中に含められる人間は、私の親戚の中にも確実に3人は交じっていた。 昭和の日本人は、無遠慮で、不作法で、直情的で、なおかつ偏見丸出しで差別意識のカタマリでもあった。 ついでに言うなら、乱暴で不潔で押し付けがましい説教垂れの口臭持ちだった。 そこから比べれば、現代の日本人は、夢みたいに上品だ。このことは何度強調しても足りない。 で、ここにある令和と昭和の彼我の違いを踏まえた上で、上品さや賢さの話はともかくとして、昭和の時代の人間の感情は令和平成の人間の感情よりもずっと正直だった、と、私はそのことを申し上げたいのである 昔の方が良かったなんてことは、口が裂けても言いたくない。 実際、昭和はあらゆる意味で地獄だった。 ただ、欠点だらけの昭和の社会の中で、一つだけ好もしい点を挙げるとすれば、それは他者への寛容さだったということは言えるように思うのだな。 昭和の人間は、おしなべて自分勝手だった。ついでに自分本位でもあれば、無神経かつ無遠慮でもあった。 で、それらの迷惑千万な性質の反作用として、彼らは、他人の喜怒哀楽やマナーの出来不出来に対して、おおむね寛大だった。 実際のところは、自分の考えや目論見でアタマがいっぱいで他人の言動には無関心だったというそれだけの話なのかもしれないわけだが、それでも、40年前の日本人が、他人の怒鳴り声をなんということもなく聞き流す人々であったということだけは、この場を借りて記録しておきたい。 現代の日本人は、自分が他人に迷惑をかけることを死ぬほど恐れている一方で、他人が自分に及ぼす迷惑を決して容認しようとしない。 この点においてのみ言うなら、私は、昭和の社会の方が住みやすかったと思っている。まあ、他人に迷惑をかけることの多い人間にとっては、ということなのだが。 最後に、どうして他人の怒鳴り声を聞き流す態度を好ましく思うのかについて、簡単に説明しておく。納得していない読者がたくさんいると思うので。 1カ月ほど前のことだが、ツイッターのタイムラインに以下の趣旨のツイートのスクリーンショットが流れてきた。 《twitter見てると毎日毎日なにかに怒っていて、しかもその怒りの内容が日替わりってヒトがけっこういて、そんなにいろんなことに毎日怒ってばかりいて、長い人生なのに健康大丈夫なのでしょうか。》 誰のツイートであるのかは、この際、たいした問題ではない。というのも、この種の、「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやきは、現代のSNS社会における最大多数の声でもあるからだ』、「「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやき」の流行は、本当に困った風潮だ。
・『この種のつぶやきに「いいね」をつけることでやんわりとした支持を表明しているのは、「怒り」や「ギスギスしたもの言い」や「対抗的な言説」や「批判的な立場」を、内容の如何にかかわらず、「円満な人々による円滑なコミュニケーションをかき乱すノイズ」として排除しようとしている人々だ。 で、私の思うに、その人々は、自分のことを「上機嫌で、自足していて、あたりのやわらかい、上品で、裕福で、恵まれた」人間であるというふうに考えている人々でもある。今年の流行語で言えば、「上級国民」ということになるのかもしれない。 「ギスギスした人たちっていやですね」「うーん。議論ばっかりしている界隈ってあたしちょっとNGかな」「ものごとの良い面を見たいよね」「そうだね。誰かの悪い面だとかなにかの欠点をあげつらう前に、共通のうれしいポイントを見つけたいよね」「最低限ニコニコしてるってことが条件なんじゃないかな」「うんうん」「そうだよね。素敵になるためには素敵なことに敏感でなきゃね」てな調子で無限にうなずきあっている人たちだけで、この世界が動かせるとは私は思っていない。 世界は、不満を持った人間や怒りを抱いた人間が突き回すことで、はじめて正常さを取り戻す。 なんだか古典的な左翼の言い草に聞こえるかもしれないが、私は、デカい主語でなにかを語る時には、古典的な左翼の分析手法はいまもって有効だと思っている。 ともあれ、私は、しばらく前から、平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている。 もう少し単純な言い方をすれば、彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ。 ちょっと前に《「いつもニコニコしていること」を自分自身の信条として掲げるのは、個人の自由でもあるわけだし、好きにすれば良いと思う。ただ、他人にそれを求めることが、あからさまな抑圧だという程度のことは、できれば自覚してほしいと思っている。》というツイートを投稿したのだが、いくつか届いたリプライが、私の真意をまったく理解していなかったことに、大きな失望を感じた。 自分が自分のためにニコニコすることは、抑圧ではない。 でも、他人にニコニコを求めることは、巨大な抑圧になる。 多くの日本人が正直で無遠慮だった昭和の時代、ニコニコしている人間は、おおむね機嫌の良い人だった。 令和のこの時代に、ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか。 私は、必ずしもそうは思わない。義務としてニコニコしている人間が少なからずいると思うからだ。 もっとも、義務で笑っているのか心から笑っているのかは、外側からは判断できない。 あるいは、本人にも、わからないのかもしれない。 私個人は、いつも真顔でいることを心がけている。 真顔ほど正直な表情はない。 真顔を不機嫌と解釈する人間が増えたのは、単に社会の不正直さの繁栄に過ぎない』、「彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ」、安倍政権の嘘、隠蔽にも拘らず、支持率が堅調なのは、国民が「飼いならされた」ためなのかも知れない。

第三に、同じ小田嶋 隆氏による1月10日付け日経ビジネスオンライン「箱根の天使が走って救う、三が日の不仲な家族たち」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00052/?P=1
・『正月休みは何もしなかった。 2月刊行(予定)の書籍のゲラを3件と、正月に締め切り(建前上の締め切りはそのまたずっと前だったりするのだが)を設定されている単発の原稿をいくつかかかえていて、本来なら年末年始は仕事に専念しているはずだったのだが、何もできなかった。 私は、まるまる10日間ほど、機能不全のまま過ごしていたことになる。とすれば、少なくとも仕事をしていなかった期間分だけは休めていたはずなのだが、そういう実感はない。むしろ疲労している。何かに追いかけられながら立ち尽くしていた後味だけが体内に残っている感じだ。 おそらく、生来の貧乏性で、長い休みを心安く過ごすことが苦手なのだろう。 ところが、松が明けて、ほぼ10日ぶりに原稿を書き始めてみると、案の定、執筆のための手がかりが、まるで思い浮かばない。 うっかりものを考える人たちは、10日間も無為のままに過ごした後であるならば、それだけリフレッシュして、さぞやアイディアが自在に湧き出てくるはずだと考えたりする。 でも、違うのだ。 休めば休むだけ、アイディアは枯渇する。少なくとも、私の場合はそうだ。 アイディアは書けば書くほど湧き出してくるものだ、と、ポジティブに言えばそう言い換えることもできる。 実際、原稿のネタは、原稿を書いている最中でないと出てこないものだ。だからこそ、Aの原稿を書いていると、別のBの原稿のアイディアが、ふと思い浮かんできたりする。 ということはつまり、アイディアは、瓶の中に入っている有限な液体よりは、むしろ地下水脈に似ているわけだ。掘り進めば掘り進めるだけいくらでも湧いてくる半面、掘る手を休めると、その時点で枯渇してしまう、と、そう考えるのが、たぶん、勤勉な書き手であるための有効な考え方なのだろう。 別の言い方をすれば、勤勉な時間の過ごし方に快適さを感じる意識のあり方を、才能と呼ぶわけだ。 さてしかし、新年の最初の仕事は、怠惰な自分を起動する困難な作業から出発せねばならない。 思うに、正月は、令和の日本の中に残された古い日本の名残というのか、昭和の呪いだ。 日本の正月は、古い血族が実家に参集するところからはじまる。というのも、正月は、カレンダーに刻印されたスケジュールである以上に「血族の紐帯」が綾なす重苦しい意図をはらんだ、一連の儀式であるからだ。 ポール・サイモンの古いアルバム(“Paul Simon”)の中の一曲に「Mother and Child Reunion」という歌がある。邦題は「母と子の絆」(直訳では「母と子の再結合」ぐらいか)ということになっている。 この歌が収録されているLPレコードを、私は高校生の時に手に入れて、それこそレコード盤が擦り切れるまで愛聴したものなのだが、当の「母と子の絆」については、長い間、母子の間の相克や葛藤を描いた思わせぶりな歌なのだろうくらいに思っていた』、「正月は、令和の日本の中に残された古い日本の名残というのか、昭和の呪いだ。 日本の正月は、古い血族が実家に参集するところからはじまる。というのも、正月は、カレンダーに刻印されたスケジュールである以上に「血族の紐帯」が綾なす重苦しい意図をはらんだ、一連の儀式であるからだ」、面白い捉え方だ。
・『歌詞カードには、わりとぞんざいな訳詞が印字されていたのだが、全体として了解困難だった。 翻訳を担当した人間が、途中で作業を投げ出したのかもしれない。そういう感じの訳文だった。 英語の歌詞を自力で翻訳することにも挑戦してみたのだが、難解な単語こそ出てこないものの、書いてある内容の抽象性がどうにも手に負えない、やっかいな歌だった。なので、最後まで翻訳することはできなかった。 ところが、そのやっかいな曲について、何十年後かに、私は、インターネット上で、ある海外通の同好の士(つまりポール・サイモンのファンということ)のブログの中で、実に衝撃的な解釈を発見することになる。 ブログ主氏によれば、この歌は、ポール・サイモン氏が、ニューヨーク市内のとある中国料理店で見かけた「mother and child reunion」(←「母子再会」)という名前の中華料理のメニュー(鶏肉と鶏卵を使った料理ですね。日本にも「親子丼」というよく似た名前の料理がありますが)名を面白がって、それを題材に作詞した歌だというのだ。 なんと、わが偏愛するところのヒットソング「母と子の絆」は、親子丼ソングだったのである。 たしかに、ニワトリとタマゴが中華鍋の中で対話をしている場面を想定しつつ聴き直してみると、 「こんな奇妙な悲しみに満ちた日に、あたしはあんたたちに偽りの希望を語りはしないよ」 「あたしゃこんな低いところに寝かされるなんて思ってもみなかった」 とか「さらに深い悲しみがやってくるその日になれば、あの人らは、『あるがままであれ』とかなんとかいうに違いない」「だけど、そうは行かないよ。人生が続くかぎり、どうせ同じことが繰り返されるんだから」 といった調子の奇天烈で難解だった歌詞の断片が、いちいち得心のいく言葉として聴こえてくるではないか。なるほど。 詳しい歌詞の内容は、JASRACの顔を立てて紹介しない。上記のカギカッコ内の文も、歌詞の正確な翻訳ではない。あくまでもざっとした内容紹介にすぎない。なので、ジャスの人たちは摘発を思いとどまってほしい。 さて、「母と子の絆」の楽曲としての魅力は、本当に中国料理を題材にした歌であったのかは別にして、歌の中で、母親と思しきキャラクターが繰り返している言い分の身勝手さと素っ頓狂さが、母子がともに遭遇しているかに見える意味不明の悲劇の中で、いきいきと描写されている点だ。 その「かあちゃんっぽさ」に、私はいつも励まされたものだった。 なんというのか、母という存在の、圧倒的に理不尽でありながらそれでいてなおかつありがたい後ろ姿が、この歌にある崇高さをもたらしているということだ。 正月にも似たところがある。 ただ、その感触の順序は歌の感想とは逆になる』、「わが偏愛するところのヒットソング「母と子の絆」は、親子丼ソングだったのである」、事実か否かは別として、面白い。
・『基本的にありがたいものではあるものの、身に降りかかる実感としては、とにかくうっとうしくもめんどうくさい存在としての「家族」が、期間限定のロードショーとして上演されるのが、わたくしども日本の国の「正月」なのである。 1月1日の朝、私は《おせち料理は、「一番おいしいのがかまぼこ」である時点で、ほかのメニューのマズさが証明されている。今年はかまぼこしか食べなかった。もちろん、かまぼこだって、大好きなわけじゃない。かろうじて食べる気持ちになれる食材がかまぼこだけだったという話です。》2020年1月1日-7:33 《お正月は好きになれない。おせち料理、松飾り、年賀状、お年玉、振り袖……どれもこれも血縁と地縁から一歩も外に出ない閉鎖的な人間関係を反映した陋習に見える。でなくても、オレたちをクソ田舎のムラ社会に引き戻そうとする習俗ではある。そもそも全国民が一斉に休む設定がきもちわるい。》2020年1月1日-23:19  《なにかと話題の「同調圧力」の基本設定は、たぶん「お正月」から発生している。つまり、「周囲の人々と同じような人間としてふるまうこと」へのやんわりとした強制を、「正月を正月らしく過ごすあらまほしき日本人の姿」として、目に見える形で規範化したのが、お正月という習俗だったりするわけだね。》2020年1月1日-23:36 《「田舎」という言葉を使うと、毎度のことながら過剰反応する人たちが湧いて出てくる。私としては、「東京とそれ以外の土地」を対比する意味ではなくて、単に「閉鎖的」ぐらいなニュアンスでこの言葉を使用しているのだが、わかってもらえないようだ。》2020年1月2日-0:05 といういくつかのツイートを書き込んだのだが、結果としては、正月早々、少なからぬ人々の感情を害することになってしまった。 原因は、「田舎」という言葉の使いかたが無神経だったからだと思っている。 実のところ、私は、同じミスを、過去にも何回か繰り返している。 「田舎」という言葉を説明抜きで持ち出す時、私は、「東京生まれ東京育ちの人間」と「地方出身者」を区別するための言葉としてそれを持ち出しているのではない。 だから、私自身は、この言葉を差別のための言葉であるとは思っていない。 とはいえ、「田舎」という言葉に差別のニュアンスを感じる人たちがいる以上、私の側に差別の意図があろうがなかろうが、実際にそこに差別が生じていると考えなければならない。 ことほどさように、差別は、微妙なものだ。このことを強く自覚しなければならない』、「《なにかと話題の「同調圧力」の基本設定は、たぶん「お正月」から発生している。つまり、「周囲の人々と同じような人間としてふるまうこと」へのやんわりとした強制を、「正月を正月らしく過ごすあらまほしき日本人の姿」として、目に見える形で規範化したのが、お正月という習俗だったりするわけだね。》」、「「田舎」という言葉に差別のニュアンスを感じる人たちがいる以上、私の側に差別の意図があろうがなかろうが、実際にそこに差別が生じていると考えなければならない。 ことほどさように、差別は、微妙なものだ。このことを強く自覚しなければならない」、その通りなのだろう。
・『さて、私が自分の中で思っているニュアンスでは、あくまでも「因習的、閉鎖的な、地縁、血縁のコミュニティーから脱却できていない人々の集合」 に対して「田舎」という言葉を当てはめているつもりでいる。 であるからして、その意味での「田舎」に対する反義語の「都会」は、「故郷を捨ててきた人々が集っている場所」「固定的な地縁や血縁とは違う複数のコミュニティーの間を自在に行き来している人々が暮らしている空間」「複線的な人間関係を構築している自立した人々が暮らしている町」 てなことになる。 ということは、東京で暮らしている人々のうちの東京生まれの人間たちは、「自分の住処のすぐ近所に地縁や血縁を持っている人間」であるという意味で、「田舎者」ということになる。実際、東京にはそういう東京在所の閉鎖空間の中で暮らしている田舎者がそこそこ暮らしている。 わがことながら、変な理屈をふりまわしてしまったものだと思っている。 私が独自の意味をこめて使っている「都会人」「田舎者」という2つの言葉は、わかりにくいのみならず紛らわしい。なにより誤解を招きやすい。その点で、端的に申し上げて、愚かな用語法だと思う。その点はさすがに了解した。なので、今後は封印しようと考えている。 文脈にあわせて「閉鎖的な人」「オープンマインドな人」「島国根性」「コスモポリタン」あたりの言葉を代置していった方が賢明だし、それ以前に、多数派の人間に誤解されるような用語法は結局のところ独善にすぎないと思うからだ。 とはいえ、正月に連投した一連のツイートの顔を立てて、ここでは、正月という時間が、単なるカレンダー上の設定ではないことを強く主張しておきたい。正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。 であるからして、正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい。 われわれは、年に一回は、必ずその場所(つまり、「個々の日本人の内なる田舎としての正月」)に立ち戻らなければならない。そういう決まりになっている。 もし、日本から正月がなくなったら、日本は日本でなくなってしまう。 私個人は、日本が日本でなくなったところでかまわないではないかと思っているのだが、どうやら、日本人の多数派は、日本が日本であるために、あるいは、日本人が日本人らしくあるために、せめて正月の三が日ぐらいは、正月らしく過ごさなければならないと、そんなふうに心に決めていたりする。そのわれわれ一人ひとりの悲壮な決意が、互いにとってうっとうしい圧力となって降りかかってくる、おそらくは、正月という習俗の正体なのである。 であるからして、われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか』、「正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。 であるからして、正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい」、「われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか」、面白い捉え方だ。
・『個々の家族内のメンバーは、正月の間、現時点でのキャラクターとは別の古い役割を担わなければならない。 長男は長男として、次男は次男として、何十年か前に演じていたのと同じ家族内の役柄としての「子供」を演じ切らなければならない。そうでないと、「一家団欒」という群像劇の舞台が成立しないからだ。 とはいえ、家族芝居は、再会の挨拶をかわしてからこっちの2 時間で終わるショートムービーではない。紅白歌合戦を眺めながらの和気あいあいの2時間で無罪放免になるのであれば、こんなに楽な話はない。 が、家族芝居は、へたをすると三が日いっぱい上演される。 とてもじゃないが、やっていられない。 白々しい仲良しごっこを演じるノルマが致し方のない仕様なのだとして、本当のところ、久しぶりに会う家族たちは、互いに尋ねてはいけない質問を山ほどかかえながら、相手に無神経な質問をされることに辟易してもいれば、自分が本当に訊きたいことを言い出せずにいることにも飽き飽きしている。 こんな状態が3日間ももちこたえられるはずはない。 そうこうするうちに、アルコールの入ったメンバーが、酔いにかこつけて不穏なことを言い出す。そういう決まりになっている。というか、必ずそうなるのだ。 「えっ? 今年30歳て、マジ? なんで結婚しないの?」「兄さんのところはまだ子供ができないわけ?」「長男はそろそろ大学入試だろ? どこを受けるんだ?」「なに? 受けない? 何を考えてるんだ? ◯◯にでもなるつもりか?」 この種のめんどうくさい質問の後にやってくるよりめんどうくさい回答をなんとか回避させるべく、箱根駅伝の若者たちは一心に国道1号線を走っている。 こじつけだと思うかもしれないが、これは本当の話だ。 箱根駅伝の選手たちは、自分たちの記録のためにだけ走っているのではない。 彼らは、日本中の不仲な三が日の家族たちが、要らぬ口論をはじめないためにこそ走っている。 「今年は、法政がいきなり遅れちゃったね」「東京国際大っていつからこんなに強くなったんだ?」「青学はさすがにたいしたもんだなあ」などと、家族が共通に見つめる先に箱根駅伝が映る液晶画面がなかったら、日本の正月がどれほど荒廃したものになっていただろうか 奇妙な結論になった。 正月が田舎だったというのは、まあ、わりと迷い込みそうな筋書きではあったのだが、その田舎の地獄から家族を救済するのが箱根の天使たちだったという着地点は、さすがに私も想像がつかなかった。 なんと無責任な結論だろうか。 でもまあ、トシのはじめは毎度こんなものなのだ。 ダメな正月から少しずつ立ち直って行くことで、われわれは毎年自分を作り直している。 ダメな自分のダメな故郷に帰るべく、正月が設定されているのは、福音であるのかもしれない。 などと、無責任なことを申し述べつつタイプを終えたい。今年もよろしく』、「久しぶりに会う家族たちは、互いに尋ねてはいけない質問を山ほどかかえながら、相手に無神経な質問をされることに辟易してもいれば、自分が本当に訊きたいことを言い出せずにいることにも飽き飽きしている。 こんな状態が3日間ももちこたえられるはずはない」、現在の家族の仮面を鋭く指摘している。「箱根駅伝の選手たちは、自分たちの記録のためにだけ走っているのではない。 彼らは、日本中の不仲な三が日の家族たちが、要らぬ口論をはじめないためにこそ走っている」、こじつけ的色彩はあるが、なかなか面白い捉え方でもある。
タグ:「和田誠さんがまいたサブカルの種子」 和田誠 随筆 小田嶋 隆 (その2)(小田嶋氏3題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味、箱根の天使が走って救う 三が日の不仲な家族たち) 日経ビジネスオンライン 『倫敦巴里』 その素人のお遊びを完成形の作品に結実させて世間の評価をひっくり返すに至った画期的な書籍が、あの見事な『倫敦巴里』だった 『倫敦巴里』の中で展開されていた文体模写やおとぎ話の翻案ネタは、まさに私自身が高校時代に夢中になって取り組んでいたことだった 小説を書くつもりも才能も持っていない自分のような者は、書籍の出版とは一生涯縁のない人間なのだと、20歳になるまでは完全にそう思い込んでいた。 その思い込みを、洒脱な魔法とともに解除してくれたのは、あの素晴らしい『倫敦巴里』の自在さだった 怒りに嗜癖する 「ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか」 「サブカル」の種子 怒りという感情に対して居心地の悪さを感じる人間の方が多いはずだ あの大震災以来の現在のわが国が、怒りという感情をかつてないほどネガティブに評価する社会に変貌している 「アンガーマネジメント」だとかいう言葉に関連する書籍が、この数年、一貫して高い売り上げを記録 われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している この30年か50年ほどの間に、わたくしども日本人が、自分たちの怒りを抑圧するマナーを身に付けたことは事実 怒りは、恥ずべき逸脱であり、未熟な人格の現れであり、知的であることから最も遠い感情であると、われら現代人は、そんなふうに考えている ある時点から、わたくしども日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会にもたらしている変化について語る目的で、以上の話を振った われら日本人は、ほんの半世紀前までは、かなり怒りっぽい人々だった 一つだけ好もしい点を挙げるとすれば、それは他者への寛容さだった 昭和の時代の人間の感情は令和平成の人間の感情よりもずっと正直だった 昭和の日本人は、無遠慮で、不作法で、直情的で、なおかつ偏見丸出しで差別意識のカタマリでもあった 「男はつらいよ」 ほとんどのシーンは、笑えない悪ふざけにしか見えない。 変わったのは映画ではない。 変わってしまったのは、映画を見ている私のアタマの中身だったのだ 世界は、不満を持った人間や怒りを抱いた人間が突き回すことで、はじめて正常さを取り戻す 現代の日本人は、自分が他人に迷惑をかけることを死ぬほど恐れている一方で、他人が自分に及ぼす迷惑を決して容認しようとしない 「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやきは、現代のSNS社会における最大多数の声でもあるからだ なにかと話題の「同調圧力」の基本設定は、たぶん「お正月」から発生している。つまり、「周囲の人々と同じような人間としてふるまうこと」へのやんわりとした強制を、「正月を正月らしく過ごすあらまほしき日本人の姿」として、目に見える形で規範化したのが、お正月という習俗だったりするわけだね 平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている 彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ わが偏愛するところのヒットソング「母と子の絆」は、親子丼ソングだったのである 「箱根の天使が走って救う、三が日の不仲な家族たち」 正月は、令和の日本の中に残された古い日本の名残というのか、昭和の呪いだ。 日本の正月は、古い血族が実家に参集するところからはじまる。というのも、正月は、カレンダーに刻印されたスケジュールである以上に「血族の紐帯」が綾なす重苦しい意図をはらんだ、一連の儀式であるからだ 「田舎」という言葉に差別のニュアンスを感じる人たちがいる以上、私の側に差別の意図があろうがなかろうが、実際にそこに差別が生じていると考えなければならない。 ことほどさように、差別は、微妙なものだ 正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。 正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい 箱根駅伝の選手たちは、自分たちの記録のためにだけ走っているのではない。 彼らは、日本中の不仲な三が日の家族たちが、要らぬ口論をはじめないためにこそ走っている われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか 本当のところ、久しぶりに会う家族たちは、互いに尋ねてはいけない質問を山ほどかかえながら、相手に無神経な質問をされることに辟易してもいれば、自分が本当に訊きたいことを言い出せずにいることにも飽き飽きしている。 こんな状態が3日間ももちこたえられるはずはない
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