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パンデミック(新型肺炎感染急拡大)(その9)(「新型コロナ対策一律10万円」にうんざりな理由 なぜ国民は「意味不明な政策」を絶賛するのか、社会的距離を越えてコロナの時代と向き合う 世界の知性が問う今後の「グローバル経済」、小田嶋氏2題:「ひとりひとり」は羊の群れではない、「空気の読めなさ」の原因は) [国内政治]

昨日に続いて、パンデミック(新型肺炎感染急拡大)(その9)(「新型コロナ対策一律10万円」にうんざりな理由 なぜ国民は「意味不明な政策」を絶賛するのか、社会的距離を越えてコロナの時代と向き合う 世界の知性が問う今後の「グローバル経済」、小田嶋氏2題:「ひとりひとり」は羊の群れではない、「空気の読めなさ」の原因は)を取上げよう。

先ずは、元財務官僚で慶應義塾大学大学院准教授の小幡 績氏が4月18日付け東洋経済オンラインに掲載した「「新型コロナ対策一律10万円」にうんざりな理由 なぜ国民は「意味不明な政策」を絶賛するのか」を紹介しよう(4頁目まで)。
https://toyokeizai.net/articles/-/345239
・『もう新型コロナウイルスの議論はうんざりだが、世の中コロナで真っ暗なのに、なぜか株価は元気に上がっている。なので、今回はこの議論でもしようかと思ったのだが、4月16日木曜日の夜、安倍晋三首相は緊急事態宣言を全国に適用することを決定した。同時に、コロナショックで所得が大きく減った世帯に30万円を給付するという政策を撤回し、全国民に1人10万円を配る政策に変更すると発表した。今回はこちらの話をせざるを得ない。ということで結局、今回も残念ながらコロナだ』、小幡 績氏は斬り方がユニークなので、面白そうだ。
・『「理解できない」一律10万円の政策  なぜ、いまさら緊急事態宣言を全国に広げたのか。確認感染者ゼロの岩手県や1人の鳥取県を指定する必要があるのか。一方、感染拡大が続き、小池百合子知事がロックダウンを煽って政府に緊急事態宣言を出させた東京でも、夜間の外出禁止令すら出ない。飲酒も夜7時までならできる。 埼玉にいたっては、緊急事態宣言が出ているにもかかわらず午後7時以降飲酒が可能で、東京から車で(!)飲酒のために訪れる人もいる(17日からは埼玉県でも酒の提供を午後7時までとすることを要請)。茨城県のパチンコ店にも、他県から人が流れ込む(18日からは茨城県でも休業を要請)。 一方、全国民に10万円が配られることになった。所得制限なしである。これを総理に迫った公明党は絶賛され、一律10万円を合唱していたネット民たちは凱歌をあげる。「コロナで仕事が減り、所得が激減した世帯に30万円配る」という法案は突然なくなった。コロナショックで所得を失って生活に困窮した低所得者を救うための政策が、年金生活者で1円も所得が変わっていない人も、子供も、1億円プレーヤーも、そして私にも私の妻にも10万円が配られる。通常の消費がしにくい環境での消費刺激策が行われようとしている。 そしてこれら「意味不明の政策」に対して、国民は大絶賛。渋々政策転換をした政府に対しては「遅すぎる」と非難殺到。国民の望みどおりやっておきながら、非難されるなら、やはり最初からそうやっておけばよかった。安倍総理はそう思っているに違いない。 不思議なことがあるものである。理解できない。しかし、私にはできなくとも、つまらない行動経済学という学問では、少し分析できそうだ。 まずは、まともな部分から行こう。 なぜ緊急事態宣言の網を全国に拡げるのか。これは、対象地域以外に抜け出そうとする人々に、そのインセンティブを与えないようにするためである。 「接触機会8割削減策がズレていると考えるワケ」でも書いたように、彼らは、普通のインセンティブ誘導は効果がない。「リスクがある」といっても、「社会の迷惑だ」といっても、それを無視して移動する(生活のためやむを得ずという場合もあれば、欲望を抑えられないという場合もあるだろう)。 東京都との境を封鎖するのでない以上、彼ら、彼女らを止めることはできないから、移動先でのインセンティブを奪ってしまおうということである。ギャンブルも風俗店も夜の店も、本来可能であれば午後5時以降の飲酒も全国的に禁止するのがベストだが、そこまではできなくても、それに少しでも近い効果を狙って、緊急事態宣言の網を全国にかける。これが目的だ。不要不急の移動を防止するだけでなく、本人の主観的には必要に迫られた移動も禁止するための緊急事態宣言だ』、私は「所得が激減した世帯に30万円配る」当初案には対象の認定という難問があるので、「一律10万円」の方が望ましいと考えている。「緊急事態宣言の網を全国に拡げる」ことは、「移動先でのインセンティブを奪ってしまおう」との狙いだったようだ。 
・『なぜ最初から「全国」にしなかったのか  当初の7都道府県に福岡、千葉、埼玉を入れたのはそういう理由だ。同じ趣旨で、今回、北海道、茨城県、石川県、岐阜県、愛知県および京都府の6道府県が「特定警戒都道府県」に加えられた。 ではなぜ最初から全国にしなかったのか。それは自分の都合や欲望で移動する人々を甘く見ていたためである。7都府県への緊急事態宣言をためらっていて遅れてしまったように見えた理由は、この移動を恐れていたからだった。それは行動経済学というほどでもなく、社会をよく観察すれば予想できていたことだったのだが。分かっていてもできなかったのかもしれない。 それが、当初は全国を対象にしなかったもうひとつの理由だ。全国をいっぺんにやってしまうと日本経済が一気に冷え込んでしまうので、必要なところにとどめたかったのだ。 さて、そう考えるとおかしな点が出てくる。なぜ、埼玉県は居酒屋での夜の飲酒を当初制限しなかったのか。 それはおそらく怖かったからである。有権者の反発が怖かったからである。ほとんどの知事たちが緊急事態宣言を要求したのはなぜか。全部ではないが、一つの理由は、選挙活動である。毎日、記者会見でテレビに出る。コロナと戦っている勇姿を見せられる。有権者のために、有権者の健康を守るために戦っている姿を毎日見せ付けられる。だから、知事がやる必要もない感染者の報告を毎日自ら行い、不要不急の無意味な記者会見を頻繁に行う。 これはきわめて合理的で最高の選挙活動だ。そして、休業補償を国に要求し続けた。有権者のために戦い、カネも配る。そして、その財源は国に出させる。最高だ。しかし、国は、有権者の不評を買っても、そこは譲らなかった。際限がなくなり、実施不可能であるからだ。 「国が折れる」と思い込んでいた知事たちは焦った。そして、諦めた。その結果、緊急事態宣言をしながら、休業要請はしない、というちぐはぐなことが起きた』、「ほとんどの知事たちが緊急事態宣言を要求したのはなぜか。全部ではないが、一つの理由は、選挙活動である」、「知事がやる必要もない感染者の報告を毎日自ら行い、不要不急の無意味な記者会見を頻繁に行う」、やれやれだ。
・『勝負に出た小池都知事、挽回を狙った官邸  ここで、財政の豊かな東京の知事は、勝負に出た。ここぞとばかりカネをばら撒くことにした。他の県がどうなろうと知ったこっちゃない。東京が他県に配るわけではないので損はしない。そして、人気が出た。まわりの知事たちはやむを得ず、お茶を濁す程度の休業に対する何らかのカネを配ることにした。 さて、今度は緊急事態宣言に入らなかった知事たちも(一部の市長も)、自分たちも表舞台に立ちたいと、「緊急事態宣言をしてくれ」の大合唱となった。その結果、官邸側は困った。多くの追加指定をせざるを得なくなったが、7都道府県といったばかりですぐに追加するのも、「政策の失敗」と責められる。どうしよう。困っていたところに、10万円の話が降って湧いた。多少責められるのを承知で、少しでも挽回しようと官邸はこれにかけた。 「1世帯30万円で所得が大幅に減った世帯に絞って行う」という、一見もっとも適切な政策に対して非難が寄せられていた。とりわけ有識者、ネットから批判が大殺到し、それで、官邸も弱りきっていたし、そもそも安倍さんのテイストとしても全員に10万円のほうが好きだった可能性があり、後悔していたところだったかもしれない。) そこへ自民党および公明党から1人10万円の要求。これに乗って、かっこ悪くとも、評判がこれ以上落ちるのを食い止めようと、前代未聞の閣議決定後の変更に踏み切った。そして、これを利用して全国に緊急事態宣言という政策転換を正当化した。本来ならば7都道府県で十分なはずだったが、分かりやすく、そして世論が望んでいるようなら(なぜか東京の人々が他の地域の緊急事態宣言を強く支持し、鳥取など当事者は戸惑うばかりだが)、「やってしまえ」、となった。以上が私の推論である。 行動経済学的な議論の出番はここである。なぜ、人々は「全員に10万円」のほうが、「本当に困っている人たちに手厚く30万円」よりも良いと思うのか。これは財政支出よりも消費税減税が、人気があるのと同じで、有権者の数としては、困っていない人のほうが遥かに多いからである。 困っている人は本当に困っているので、そもそもSNSをやったり、テレビやネットで意見を表明したりする余裕も気力もないのである。だから、みんなにいきわたるものが支持されるし、政治的にも票数は圧倒的に稼げるのである。 そして、もう一つ重要なのは、コロナショックでカネに困っているのは働き手、仕事が減った働き手であり、消費者は言ってみれば何も困っていない。また、年金生活者にしても、収入は減っていないし、働き手は国民の半分、50%に過ぎないのに、半分を無駄に配る必要ない。ましてや金持ちにおいておや。 「制限つけずに全員に配れ」、と言っている人はカネを配るタイミング、スピード感にこだわっているが、カネを配るという景気刺激はどうなのか。いまは消費行動を抑圧されていて消費できなくて困っているのに、カネを配られても仕方がないから、無意味だし、急いで配っても景気対策にはならない』、「人々は「全員に10万円」のほうが・・・よりも良いと思うのか・・・有権者の数としては、困っていない人のほうが遥かに多いからである・・・みんなにいきわたるものが支持されるし、政治的にも票数は圧倒的に稼げるのである」、面白い解釈だ。「「制限つけずに全員に配れ」、と言っている人はカネを配るタイミング、スピード感にこだわっているが・・・いまは消費行動を抑圧されていて消費できなくて困っているのに、カネを配られても仕方がないから、無意味だし、急いで配っても景気対策にはならない」、言われてみればその通りだ。
・『人々の不安と欲望と政治の打算  「本当に困って飢え死にしそうな人に早く」、というが、「それなら10万円ではすぐに飢え死にしてしまうし足りない」といっても、「とにかくスピードが大事だ」という。 この理由は、カネに困っていないが、皆、不安にさいなまれているからである。コロナはこの先どうなるか分からない、不安だ。それを払拭したいのである。都知事も不安を払拭するために8000億円と言っている。 この不安とは「仕事が失われる不安」のような「具体的な不安」ではなく、「今後コロナが、社会がどうなるかわからない」、という「とらえどころのない、いたたまれない不安」である。こういうときに慰めるには、マスク2枚ではない。カネである。不安なときはカネをわたしておけば、何か困ったときにはこれを使いなさい、と渡すのがもっとも効果的である。 だから、政治活動としては、全員にただちに現金を配ることがもっとも効果的なのである。すぐ配ることが重要なのである。しばらくすれば不安は軽くなるだろう。そのときにカネが届いても、悪い気はしないが、感謝はしない。「もらってやるか」、というぐらいなものである。しかし、今、全員不安なときに、その状態でカネをもらえば、ありがたい。くれた人に感謝する。だから、いますぐ、全員に配るのである。 私はコロナよりも政治に、人間の欲望と感情に、うんざりだ・・・』、「不安なときはカネをわたしておけば、何か困ったときにはこれを使いなさい、と渡すのがもっとも効果的である。 だから、政治活動としては、全員にただちに現金を配ることがもっとも効果的」、さすが行動経済学者らしく説得力がある。

次に、NHKエンタープライズ制作本部番組開発エグゼクティブ・プロデューサーの丸山 俊一氏が4月18日付け東洋経済オンラインに掲載した「社会的距離を越えてコロナの時代と向き合う 世界の知性が問う今後の「グローバル経済」」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/344417
・『新型コロナウイルスによる社会の変容について、世界の知性たちはどのように捉えているのか。 「BS1スペシャルシリーズコロナ危機「グローバル経済複雑性への挑戦」」(NHKBS1で4月18日土曜夜7時から)では、「欲望の資本主義」「欲望の時代を哲学する」などの「欲望」シリーズに出演してきたジョセフ・スティグリッツ、トーマス・セドラチェク、マルクス・ガブリエル、ニーアル・ファーガソンらにインタビューしている。世界の知性たちが、新型コロナウイルスによるパンデミックが世界の経済、社会にもたらした衝撃の本質を分析し、今後の展望を語る』、「欲望の資本主義」はこれまでから面白く観てきたが、今日も放映があるとのことで録画予約した。
・『ノーベル賞経済学者が語る「未知の領域」  「家の中にいても、人々が緊張しているのは明らかです。聞こえてくるのは、救急車のサイレンの音だけなのですから……」 われわれ取材チームの急な依頼に、ニューヨークの自宅から自らコンピューター画面を動かし調整しながら答えてくれたジョセフ・スティグリッツは、早速現状分析を始めた。 「短期的には、今日、ヨーロッパの経済指標が急落しているのは、社会的距離と呼ばれるものがもたらしています。しかし、中長期的には、さまざまな問題が顕在化してくるでしょう。個人や企業のバランスシートが侵食されそうです。 多くの企業は強い流動性の問題に直面するでしょう。それは、もちろん重要なこととして総需要の問題がありますが、流動性の問題であり、供給側の問題でもあります。この問題から抜け出すためには、ある種の技術と思慮深さが必要になり、未知の領域と呼べるかもしれません」 スティグリッツが「未知の領域」と表現する、世界経済の混乱。経済の問題としても、もはや長期戦になることは避けられない状況だが、今回の場合、そこにはなんとももどかしい、人と人との壁が存在する。「技術」と「思慮深さ」はどのように発揮されるべきか?) ソーシャル・ディスタンス=社会的距離。コロナ危機のさなか、にわかに浮上したキーワードだ。そして、それは、ポスト産業資本主義と呼ばれる、サービス、ソフトなどの第三次産業に関わる人々が多数を占める現代、その日常の働き方にも複雑な影を落とした。 「社会的」な「距離」は、結果、テレワーク、オンライン会議など、ネットを駆使し、距離を置いてつながる新たな行動様式を加速させる。しかし、そうした転換でしのげる人はよいが、もちろん、もっと切実な、ネットでは代替できない仕事を持つ人々のことを考えねばならない。 「優先事項は、最も脆弱な人々を助けることです。それも、その国の社会保障システムの性質にもよりますし、どの程度個人がギリギリの生活をしているかにもよります」』、「優先事項は、最も脆弱な人々を助けること」、正論だが、現実に政策対応していくには、先の「小幡 績氏」の記事にもあるように、難しい課題だ。
・『新実在論の旗手が語る「新自由主義の終焉」  「新型コロナウイルス(COVID-19)は現代の世界秩序の発展を根本から変えます。これまでの「モダニティ=近代性」の中で目の当たりにしてきたどの出来事とも異なります。私の予測では、われわれが現在目の当たりにしているのは、新自由主義の終焉です」 いきなり強い言葉で、大きな転換点であることを宣言したのは、マルクス・ガブリエルだ。彼はドイツの自宅のそばにある森で、現地クルーのカメラに答えてくれた。 「新自由主義は、連帯や国家、制度的組織の構造を、純粋な市場戦略によって支配されるシステムと置き換えることができる基本的経済概念でした。そして、そのシステムはまさにコロナウイルスに直面してひどく機能不全になるのです。 というのも生物学的な構造は経済的構造と完全に異なるモデルに依存するからです。ウイルスの論理は私が生物学的普遍主義と呼ぶところの概念の真実を浮かび上がらせます。生物学的普遍主義とは、ウイルスからすればすべての人や動物は平等であることを意味しています」 ウイルスこそが、現在の経済システムの「機能不全」をもたらすというガブリエルの指摘は、本質的だ。実際、隅々までシステマチックに整序された現代の都市は、テクノロジーの粋を極め、資本主義の原理を極限まで推し進めているかに見える。無駄がなく、隙がない、都市。 そうしたデジタルな人工世界に、原始以来の生命体、ウイルスという「異物」が入り込んだときのもろさを、今私たちは現在進行形で経験している。日々、「社会的距離」など取りようもない満員電車で、「人材」を詰め込むだけ詰め込んで運ぶことで「効率」性を生んできた都市、経済、社会システム。その前提が壊されようとしているのだ』、「われわれが現在目の当たりにしているのは、新自由主義の終焉です」、「デジタルな人工世界に、原始以来の生命体、ウイルスという「異物」が入り込んだときのもろさを、今私たちは現在進行形で経験している」、「新自由主義の終焉」とは喜ばしいことだが、次にはどんな考え方が出てくるのだろう。
・『異端の奇才が語る「人類への連帯テスト」  例によって、いかにも彼らしいと思わずにはいられない表現で、現在の試練を語り出してくれたのは、トーマス・セドラチェクだ。幼少期に社会主義を経験し、自由主義化した後のチェコ共和国で大統領の経済アドバイザーも務めた「異端の奇才」の言葉は、例によって静かだが熱い。 「なぜなら、アイデンティティーや連帯感、グループ感を形成できるものは外敵以外にありません。欧州統合の問題点の1つは、外敵がいないことです。統合するまでは、私たちはいつも争ってきました。ドイツ人対チェコ人、スコットランド人対イギリス人、フランス人対誰か、カタルーニャ人対スペイン人、等々。 しかし、外敵はいませんでした。欧州の紙幣に英雄の肖像がないのは、これが理由です。今では橋や門しか印刷されていません。他国から見て悪者だと思われていない欧州の英雄について、各国の意見が一致することは非常に難しいのです。 だから今、初めて、もしかするとこの地球の歴史上初めて、人類は共通の敵を相手にしています。そしてこれもまた、誰のせいでもありません。裏切り者はいません。ただ起きてしまっただけで、どこでも起こりうることなのです。 しかし、ここで相手にするのは共通の敵であり、私たちを団結させることができるものをやっと手に入れたのです。地球に向かって飛んでくる小惑星やエイリアンの侵略がその役割を果たすかもしれませんね。エイリアンの侵略をきっかけに世界が1つになるという映画はありますよね。今回の危機は、少しソフトな形の侵略かもしれません。 私たちには共通の敵がいます。人種や国境、富、重要性、どれ程賢いかなど関係なく、全人類にとって。これは本当にきちんと対応すれば、チェコ人、スロバキア人、ドイツ人、イタリア人、フランス人……それぞれが集まる小さな集団ではなく、人類が一丸となる1つの大きな集団として強くなれるはずです」 こうしたシナリオでいい方向に進めばよいのだが、もちろんこうした希望的観測ばかりではなくリアル、かつユニークな認識もたっぷり披露してくれた。資本主義がいよいよ曲がり角にあるときに、逆転の発想はどこにあるのか』、「ここで相手にするのは共通の敵であり、私たちを団結させることができるものをやっと手に入れたのです」、とはいうものの、新コロナウィルスとの戦いは1,2年で終了するので、その後は再び前の状態に戻ってしまうのではなかろうか。
・『歴史学者が語る「ネットワーク論」  『マネーの進化史』『スクエア・アンド・タワー』などでも知られる歴史学者、ニーアル・ファーガソン。かねてから著書でも、現代の資本主義を脅かすのはウイルスの拡散であることを指摘してきた彼は、こう切り出した。 「巨大なネットワークというのはいいものも悪いものも伝達する、ということです。私たちはこれまで、自分たちのネットワークはいいものしか伝えないと考える傾向にありました。 ところが残念ながら、皆さんもよくご存じのとおり、ウイルスというものは、デジタルであれ、生物学的であれ、迅速性を重視して作られた巨大なグローバルネットワークを通れば非常に素早く移動ができるのです。今回はそれが起きてしまいました。ですから私は驚いてもいませんし、自分が予言者だとも思っていません。 今回は金融危機ではありません。財政的症状を持つ公衆衛生の危機です。2008年、2009年に効果があった対策、つまり大規模な金融・財政刺激策が今回も効果があると期待するのは、危機の本質を見誤っていることになります。 刺激策は、今回は適切ではありません。自分からシャットダウンした経済を刺激することはできません。今行っているのは、仕事を失った人々や閉鎖を余儀なくされた企業に救済策を提供しているだけです。大多数の人々が状況を見誤っていると思います。この危機の本質を十分に理解していないからです。 投資家や銀行家や金融の専門家の間では、2008-2009年の記憶があまりに鮮やかであるため、2008-2009年の戦略本をまた持ち出して、量的緩和やゼロ金利、そして財政刺激策といったことを話しているだけなのです」 ではどうするのか。歴史学者の読み解く「危機の本質」は、歴史のどのポイントまでさかのぼることで見えてくるのか。そして、今後に向け、どんなマインドで、どんなビジョンを持って立ち上がり歩き始めるべきなのか』、今回は、リーマン・ショックとは異なるというのは確かだが、処方箋はどうあるべきなのだろうか。
・『私たちはどんなビジョンを持つべきか  番組の制作中、2019年の夏に放送された「欲望の貨幣論2019」において、かねてより資本主義のはらむ本源的な不安定性を追究してきた岩井克人さんが口にした言葉が、脳裏をかすめた。 「資本主義ほど単純な原理はないんです。利潤が多ければ多いほどいいんですから。私はこれ以上、単純な原理を知りません。ゆえに必然的にグローバル化するんです」 岩井さんが繰り返し強調された「単純」さ。それに対抗する「複雑」さは、今どこに? このほかにも、ルチル・シャルマ、ペリー・メーリングらの俯瞰した洞察、そしてまた日本では小幡績氏、飯田泰之氏、早川英男氏ら、それぞれの視点から今回の事態を読み解くみなさんへの緊急取材でお送りする。 単純化=グローバル化だからと言って、複雑化=ローカル化と、「単純」には考えず、こちらも番組でご一緒にお考えいただければ幸いだ』、NHKの番組の録画を観てみたいものだ。参考になる点が多いようであれば、改めて紹介したい。

第三に、コラムニストの小田嶋 隆氏が4月10日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「「ひとりひとり」は羊の群れではない」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00065/?P=1
・『東京など7つの都府県に緊急事態宣言が出された。 このたびの緊急事態に関しては、気になることがあまりにも多すぎる。言及しておきたい論点をすべてチェックしにかかると、間違いなく支離滅裂な原稿になる。 なので、当稿では、当面、最も大切に思えるポイントだけを、なるべく簡潔に書くよう心がけたいと思っている。 緊急事態宣言が出されたのは、4月7日の夕刻だった。 それが、翌日の8日には、はやくもほころびはじめている。 「どこが緊急なんだ?」と思わざるを得ない。 共同通信が伝えているところによれば、西村康稔経済再生担当大臣は、4月8日、7都府県知事とのテレビ会談の席で、休業要請を2週間程度見送るよう打診したことになっている。 ん? 休業要請を見送ってほしい、だと? どうしてだ? なぜ、そんな話になるんだ? 大臣はいかなる根拠から2週間の猶予が必要であると判断したのだろうか。 意味がわからない。 そもそも、緊急事態宣言を出したのはお国だ。 休業要請は、その、政府による「緊急事態宣言」のメインの内容というのか、宣言の柱に当たる施策であるはずだ。 それを、どうして一日もたたないうちに、いきなり撤回しにかかっているのだろうか。 思うに、お国が都府県による各業界への休業要請を阻止したがっている理由は、小池百合子都知事をはじめとする複数の知事が、住民に向けて「休業要請と損失補償がセットである」旨をアナウンスしたからだ。 つまり、政府としては、7都府県の住民に対して休業中の損失補償をせねばならなくなる事態を避けたかった。そう考えないと説明がつかない。 とすると、この先少なくとも2週間ほどは「補償を伴わない休業要請」がやんわりと展開されることになる。と、これまでに各自治体が発令してきた「自粛要請」なる摩訶不思議なお願いが、引き続き連呼され続けることになる。ということはつまり、何にも変わらないわけだ』、確かに「休業要請」と「緊急事態宣言」は、付け焼き刃の典型だ。
・『ちなみに解説しておくと、「自粛要請」というこの政策用語は、日本語として明らかに破綻している。その意味で、政治家はもとより、行政にかかわる官僚が国民に対して使って良い言葉ではない。 というのも「自粛」は、そもそも自粛をする当人の判断でおこなわれるべき行動で、本人以外の人間の判断が介在したら、それは「自粛」ではないからだ。であるからして、当然、「自粛」は、他人(もちろん政府であっても)が自分以外の人間(つまり国民)に対して「要請」できるものではない。 「自粛」が「要請」できるのであれば、「自殺」も「要求」できることになる。とすると、「依願退職」すら「命令」可能で、このほか、喜怒哀楽や真善美を含めてすべての感情や判断や評価は、他人のコントロール下に入ることになる。と、料理を提供する側が舌鼓乱打要請を提出したり、演奏家が感動要求を持ち出したり、コラムニストが目からウロコ剥落申請を示唆するみたいなことが頻発する世の中がやってくる。こんな無茶な日本語を政府が使っていること自体、あり得ない不見識なのである。 さて、政府が、「補償とセット」として扱われる「休業要請」を、「自粛要請」という言語詐術の次元に後退させなければならなかった理由は、おそらく「政府」の立場が必ずしも一枚岩ではないからだ。 一言で「政府」と言っても、その内実は、さまざまな立場や部署や役割に分かれている。なるべく広範な「補償」を配布したいと考える部門の人々もいれば、無駄な支出を抑制することが役目であるような人々もいる。であるから、「政府」の総体としては、「休業によって経済的に困窮する国民の生活を補償」しつつ、その一方で「巨額の支出でお国の経済が傾く」ことは極力回避せねばならないわけで、彼らは、常にいくつかの相反する思惑に引き裂かれているわけなのである。 まあ、ここまでのところはわかる。 補償を実現したいのはヤマヤマだが財源を考えると二の足を踏む、と、お役人の発想では、どうしてもそういったあたりを行ったり来たりすることになっている。 だからこそ、政治家の決断で、時には、思い切った緊急の政策を打ち出さなければいけない。それが政治決断と呼ばれているものであるはずだ。 個人的には、赤字国債を発行するとか現金を余計に印刷するとかして財源を確保しつつ、とにかくこの急場をしのぐのが第一の選択なのではなかろうかと思っている。 現金を大量にばら撒けば、当然、それなりの副作用もあるのだろうが、それをしなかった場合の経済の落ち込みを考えれば、広く国民に当座の現金を給付する政策は、景気浮揚策としても好ましい効果を発揮するはずだ。 ところが、西村新型コロナウイルス対策担当大臣は、休業補償をすんなりと約束しようとしない。 「2週間待ってくれ」  と、この期に及んで極めてヌルい緊急事態対応を打ち出している。 なぜなのか』、「「自粛要請」というこの政策用語は、日本語として明らかに破綻している」、言われてみればその通りだ。「補償を実現したいのはヤマヤマだが財源を考えると二の足を踏む、と、お役人の発想では、どうしてもそういったあたりを行ったり来たりすることになっている」、的確な観察だ。
・『こんなことが起こってしまっている原因の一半は、おそらく、西村新型コロナ対策担当大臣が、経済再生担当大臣でもあれば、全世代型社会保障改革担当大臣でもあるという、不可思議な事情に関連している。 ん? これは、いったいどういうことなのだろうか。 片方の手で新型コロナウイルス対策のための思い切った施策を打ち出さなければならない担当大臣が、もう一方の手で、経済再生のことをあれこれ考えて慎重な財源管理を考慮せねばならないのだとしたら、これは、世間でよく言われている「利益相反」ということになるのではないのか? そうでなくても、大臣はダブルバインドの中で、にっちもさっちも行かなくなるはずだ。 たとえばの話、プロ野球の球団で、打撃コーチがボールボーイを兼任していたりしたら、そんなファールゾーンに転がっているボールを拾って歩いているみたいなコーチの助言に、いったい誰が本気で耳を傾けるというのだ? 西村大臣の苦衷は理解できる。 新型コロナ対策担当大臣としては、財源を度外視してでもなんとかして思い切った救済策を打ち出したいはずだ。 一方、経済再生担当大臣としては、目先の対策のために野放図な支出をする計画には絶対に反対せねばならない。 とすると、彼自身、どうして良いのやら判断がつかなくなる。それがマトモな反応というものだ。 責任は、西村大臣にはない。 このバカげた状況の責任は、経済再生担当大臣に新型コロナ対策担当大臣を兼任させるような、たわけた人事を敢行した政権中枢に求めなければならない。 あるいは、経済再生担当大臣として活躍している大臣に、このたびの新型コロナ対策の采配を委ねた時点で、首相は、本気でこの事態に対処する気持ちを持っていなかったということなのかもしれない。 単に手が空いてそうな大臣にケツを持って行ったのか、それとも、あえて全力でウイルス対策に取り組むことのできない立場の大臣を担当に持ってくることで、カネをケチろうと考えたのか、どっちにしてもあまりにも不誠実な判断だったと申し上げなければならない』、「新型コロナ対策担当大臣としては、財源を度外視してでもなんとかして思い切った救済策を打ち出したいはずだ。 一方、経済再生担当大臣としては、目先の対策のために野放図な支出をする計画には絶対に反対せねばならない。 とすると、彼自身、どうして良いのやら判断がつかなくなる。それがマトモな反応というものだ・・・このバカげた状況の責任は、経済再生担当大臣に新型コロナ対策担当大臣を兼任させるような、たわけた人事を敢行した政権中枢に求めなければならない」、鋭い指摘だ。
・『さて、自治体から各業界に向けての休業要請が2週間先延ばしにされたことで、何が起こるのかを考えてみよう。 いや、考えるまでもないことだ。お国や自治体から休業補償を約束されていない状況下で、休業を余儀なくされた人々は必ずや腹を立てる。これは、人間として当然の反応でもあれば、生物としての必然でもある。 で、腹を立てた結果どういう行動に出るのか。 私だったら、自暴自棄になるか、そうでない場合、無気力に陥るだろう。 どっちにしても、ろくなことにはならない。 おとなしいと言われている私以外の平均的な日本人とて、永遠におとなしいわけではない。 休業補償が行き届かない状況下で収入減を強いられた多くの日本人は、おそらく、なんとかして働こうとするはずだ。休業要請を強いられていようが外出自粛を促されていようがおかまいなく、だ。 緊急事態宣言は、追い詰められた人々の耳には届かない。 なんとなれば、今日明日の食い扶持に困る事態に追い込まれた人間にとって、現段階では8割が軽症で済むと言われているウイルス感染なんかより、貯金が底をつくことのほうがずっと恐ろしい身に迫る恐怖だからだ。 私にも経験のあることだが、貧乏は人間のメンタルを削る。このことは何度強調しても足りない。最低限の貯金を持っていない人間は、最低限の良心を持ちこたえることができなくなる。さらに、ある程度以上の借金を抱えた人間は、カネのことしか考えられなくなる。つまり、貧困に陥った人間は、事実上思考力を失う。 もちろん、気力も失うし希望も持たなくなる。 カネがほしいということ以外はほとんどひとつも考えられなくなる。 そういう人間がどういう行動に出るのかは明らかだ。当たり前の話だが、彼らはカネを求めて街をさまよい歩く。 ウイルス? そんなものはまるで問題じゃない。 病気で死ぬことをほのめかされても、まるで恐ろしいとは思えない。オレは現実にいま死ぬことよりもキツい貧乏に苦しんでいる。それに比べればウイルス感染なんてファンタジーでしかない。オレは少しも恐ろしくない。正直なところを述べるに、他人に感染させることもこわいとは思えない。どちらかと言えばざまあみろと考える。ほめられた考え方でないことはわかっている。でも、いまのオレには別の考え方はできない。オレをマトモな人間に戻したいのなら、とにかくカネをつかませてくれ。カネさえあれば、マトモな良心を取り戻せるかもしれない。話はその後だ。 と、政府が給付策を誤れば、こういう人たちが数十万人単位で街に溢れ出ることになる』、人間の本性を踏まえた冷徹な指摘だ。
・『テレビ画面の中に出てくるきれいに着飾ったキャスターのみなさんたちは、先日来、ことあるごとに 「私たちひとりひとりが自覚を持って」といった感じの素敵なご発言を繰り返している。 安倍総理ご自身も、先日のテレビ演説の中で 「自分は感染者かもしれないという意識を持って行動していただきたい」という旨の言葉を発信していた。 私は、それらの言葉を片耳で聞きながら、はるか半世紀ほど昔、中学校の生徒だった時代に 「ひとりひとりが◯◯中学を代表する生徒としての意識を持って……」という担任教諭の説教を 「うるせえばか」と思いながら聞き流していた時の気持ちを、ありありと思い出していた。 「ひとりひとりが◯◯の意識を持って」 というのは、指導的な立場に立つことになった日本人が必ず持ち出しにかかる話型で、これを言っている人間は、多くのケースにおいて、人間の集団を教導している自分の権力の作用に酩酊している。 彼らは、自分の言葉に耳を傾けている有象無象を、羊の群れ程度にしか考えていない。だからこそ 「ひとりひとりが」などという人を人とも思わない調子ぶっこいた忠告を撒き散らすことができるのだ。 さてしかしところがどっこい、演説を聞かされている側の人間たちが、永遠に羊の群れを演じてくれるのかというと必ずしもそうは行かない。何割かは狼に変貌する。実態がどうかはともかく、狼の気持ちで話を聞いている人間が必ず現れる。少なくとも中学時代の私はそういう生徒だった。 何が言いたいのかを具体的に説明しておく。 つまり、休業補償も約束されずに、現金給付には煩雑な条件をつけられている中で、 「ひとりひとりの自覚」だの 「自分が感染者かもしれないという意識」だのという、おためごかしの説教を浴びせられる状況がこの先何カ月も続くのであれば、いかにおとなしい日本人といえども、いずれは暴発するということだ。 政権中枢に座を占めている人間たちは、日本人を、どこまでもおとなしくて品行方正な我慢強い国民であると思っていたいのだろう。 われら日本人が、戦後からこっちの80年ほどの期間を、突然の収入減を耐え忍び、外出禁止要請を受け入れ、貧困にも生活苦にも文句を言わずに、感染したらしたで四方八方に謝罪してまわり、感染しなかったらしなかったで一日中びくびくして左右のソーシャルディスタンスを30秒ごとに測定しているタイプのいとも統治しやすい国民であったのは、われわれが、右肩あがりの社会の中で暮らす希望を持った人々であったからだ。 未来に希望が持てない場所で、貧困を余儀なくされているのであれば、われわれとてそうそういつまでもおとなしくしてはいない。 政府の中の人たちは、現金給付の金額やタイミングを、単に景気対策の一環として考えているのかもしれない。 私はそう思っていない。 新型コロナ対策担当大臣ならびに内閣総理大臣閣下には、現金給付が、現状におけるほとんど唯一の治安対策である旨を、この場を借りてあらためてお伝えしておきたい。 一億人の人間が何カ月もおとなしく家の中に引きこもっていると思ったら大間違いだ』、「「ひとりひとりが◯◯の意識を持って」 というのは、指導的な立場に立つことになった日本人が必ず持ち出しにかかる話型で、これを言っている人間は、多くのケースにおいて、人間の集団を教導している自分の権力の作用に酩酊している」、「未来に希望が持てない場所で、貧困を余儀なくされているのであれば、われわれとてそうそういつまでもおとなしくしてはいない」、「現金給付が、現状におけるほとんど唯一の治安対策である」、不吉な啖呵だが、その通りなのかも知れない。

第四に、同じ小田嶋 隆氏が4月17日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「「空気の読めなさ」の原因は」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00066/?P=1
・『4月8日の緊急事態宣言からこっち、流れてくるニュースのざっと半分は、新型コロナウイルス関連の話題で埋められている。大変な事態だ。 ところで、政府はこのたびの「緊急事態宣言」に際して、「発出」という、耳慣れない動詞を使っている。 思うに「発令」という言葉の醸し出す緊迫感を嫌ったのだろう。 たしかに、「発令」は、語感として、そのまま「戒厳令」を連想させる。お国としては、自分たちが強権を発動している印象を薄めたかったに違いない。 で、選ばれた用語が「発出」だったわけだが、これは、多くの日本人がはじめて聞く言葉で、私自身、最初に耳で聞いた時は 「なんだそりゃ?」「飛翔体かよ」と思った。 でもまあ、初耳の言葉は、先入観に汚れていない意味で、フラットに受け止めてもらえる利点を持っている。 してみると、お国はうまい言葉を見つけてきたのかもしれない。 辞書を引いてみると、日本国語大辞典は、「発出」について 「ある物事や状態が生じて外に現われること。また、現わし出すこと。」と説明している。 ちなみに、「発令」には 「法令、辞令などを発布・公表すること。」(日本国語大辞典)という、より具体的な語義が当てられている。 この二つの言葉の辞書解説を踏まえた上で、うがった見方をすればだが、政府の中の人たちが「発令」(←「発令者」の意思の介在を感じさせる)でなく「発出」(←「発出者」の意思や責任とは関係なく、法令なり布告なりが「おのずから生じて外に現れ」出てきた印象がある)の方を採用した意図は、彼らが「宣言」の「責任」を取りたくなかったからだったと考えるのは、そんなに無理な解釈ではない。 つまり、政府の人間たちは、このたびの「緊急事態宣言」を、政府の責任による布令ではなく、「天から降ってきた災厄」として印象づけたかったからこそ、「発出」などというホコリをかぶった古語を辞書の奥底から引っ張り出してきたわけだ……という、この解釈は、私の邪推と考えてもらってもかまわない。 発令という言葉の大時代な響きにビビった、という、それだけの話なのかもしれない。 ともあれ、宣言は発出され、街は閑散としている。 で、いきなりの蟄居生活を余儀なくされているわたくしども罪なき衆生は、地上波テレビの圧倒的なつまらなさにあらためて驚愕したりなどしつつ、将来のおぼつかなさと、今ここにある手持ち無沙汰に苛まれている。 そこへ持ってきて、首相の「コラボ動画」なるものが舞い込んできた』、「政府の中の人たちが「発令」・・・でなく「発出」・・・の方を採用した意図は、彼らが「宣言」の「責任」を取りたくなかったからだった」、読みの深さには改めて驚かされる。
・『説明する。 ここで言う「コラボ動画」とは、ミュージシャンの星野源さんがインスタグラムに投稿した「素材動画」に反応(コラボ)して、様々な音楽家や舞踏家が、それぞれの演奏や踊りの動画を重ねることで動きはじめている一大運動体としての「コラボ動画群」を指している。 朝日新聞の解説記事は 《―略― 発端となったのは、星野さんが今月3日にインスタグラムに投稿した動画だ。「うちで踊ろう」という楽曲をギターで弾き語りをする動画で、「この動画に楽器の伴奏やコーラスやダンスを重ねてくれないかな?」とメッセージを添えた。外出自粛が広がる中、ミュージシャンらがこの動画に合わせて歌ったり踊ったりする「コラボ」動画を相次ぎ発信し、話題になった。―略―》と説明している。 つまり、星野源さんは、塗り絵のためのアウトラインの絵柄に相当する、音楽的なスケッチを無償提供したわけだ。 首相による「コラボ」に触れる前に、星野源さんの話をしておく。 最初にこの試みを知った時、私は、星野氏の世間をアジテーションする間合いの良さにほとほと感心した。 このトライアルには、 音楽著作権をめぐる厄介な縄張り根性のおかげで、自由なコラボレーションが困難になっている音楽界に風穴をあけるコロンブスのタマゴである点 多くのミュージシャンが発表の場や作品公開の機会を失って茫然自失している当面の状況を一旦解除するカンフル剤の役割を果たしていること プロ・アマを含めた広い範囲の音楽家に、星野源の作品に乗っかることによる知名度上昇ならびに才能告知の機会を提供している点 ナマの音楽に触れることができなくなっている聴き手に、ふだんとは違うチャンネルを介して制作現場のリアルを伝える音楽を提供していること という、ざっと考えて、以上4点の素晴らしさがある。 続々とアップされてくるコラボ作品の面白さもさることながら、こういう企画をとっさに思いつく発想の柔軟さと、それをまたさらりと実現してしまう機敏さに、あらためて感じ入ってしまう。 で、この星野源さんの動画の横に自撮り(←まあ、官邸のスタッフによる撮影なのでしょうが)の自宅くつろぎ動画を付け加えるカタチで、「コラボ」したのが、首相によるこのたびの「コラボ動画」ということになるわけなのだが、私はこの物件を「コラボ動画」と呼んでしまったメディア(毎日新聞がこの言葉を使って首相の蟄居動画を紹介していました)の紹介の仕方に、そもそもの間違いがあったのではないかと考えている。 なので、《「安倍首相と星野源さんのコラボ動画」という言い方は、星野源さんに失礼なのでやめてあげてほしい。仮にマイセンのソーサーの中に犬が用をたしたのだとして、そのブツを「マイセンと犬のコラボ作品」と呼ぶのはマイセンにとってダメージだとオレは考える。》2020年4月12日午後11時28分) 実際、首相は、一切「コラボ」(「コラボレーション」という言葉に値する協働的な取り組み)らしいことはしていない。 単に星野さんの音楽をBGMとして利用して、彼の人気に「便乗」しただけだ。 とすれば、「便乗動画」「タダ乗り自撮り映像」くらいに呼ぶのが相当で、これをいきなり「コラボ動画」と認定してしまうのは、星野源さんに対してはもちろん、楽器演奏やコーラスや舞踏の映像を重ねることで見事なコラボ映像をアップしてきているほかの動画投稿者の皆さんに対しても、失礼に当たる。 もっとも、私は、今回の首相による便乗動画が 「星野さんの善意を踏みにじった」とか 「音楽の純粋さを政治の醜悪さによって台無しにしている」とまでは思っていない。 単に、ダサい動画で狙いを外しただけの話なのだと評価している。 むしろ心配なのは、この緊張感を欠いた動画が、首相の好感度向上に寄与するであろうと考えた、首相ならびにその側近の、感覚のズレっぷりだ。 で、さきほど引用したツイートに先立って、私は、大阪大学の仲野徹先生が投稿した、首相の例の動画を引用した上で「誰か真意を教えてほしい」という旨のツイートへの回答として、 《「466億円マスク二枚郵送案件」と同じで、 官邸のガバナンスが壊死していてトップに進言できる人間が皆無 首相、官邸官僚、主要閣僚含めて全員が莫迦揃い 総理の愚かさを国民に思い知らせようとしている君側の奸が暗躍している 安倍ちゃんが致命的に嫌われてる のどれかですね。》2020年4月12日午後4時48分 というツイートを発信した。 現時点から見ると、ここに並べた推測も、十分な説明にはなっていない。 思うに、今回のコラボ動画のダメさ加減も、17日以降、続々と全国の各世帯に届くであろう「布マスク2枚」の素っ頓狂さも、あるいは、お肉券やお魚券を引っ込めた経緯や、二転三転したあげくにどうやら実現しそうな雲行きになっている「所得制限なしでの全国民への10万円現金給付」も含めて、すべては「官邸周辺がネット世論に振り回されている」ことの表れであると見なさなければならない。 ネット世論であれ何であれ、世論の動向に敏感であることそのものは、決して悪いことではないはずだと考える人もいるはずだ。 実際、「お肉券」が結局実現しなかったのは、ネット上での圧倒的な不評を政権幹部が重く見たからだと言われていて、もし本当にその通りだったのだとすると、それは、良い変化だったということになる。 私は、結果はともかく、より大切なのは、ここで言う「ネット世論」なるものが、いったい誰の意見で、それを「世論」と認定しているのは、いったいどこの誰なのかということだと思っている。 つまり、このお話は 「ネット世論は、果たして世論なのか」という問題に還元される』、「官邸のガバナンスが壊死していてトップに進言できる人間が皆無 首相、官邸官僚、主要閣僚含めて全員が莫迦揃い 総理の愚かさを国民に思い知らせようとしている君側の奸が暗躍している 安倍ちゃんが致命的に嫌われてる のどれかですね」、最大限の嫌味だ。「「便乗動画」「タダ乗り自撮り映像」くらいに呼ぶのが相当で、これをいきなり「コラボ動画」と認定してしまうのは、星野源さんに対してはもちろん・・・ほかの動画投稿者の皆さんに対しても、失礼に当たる」、同感だ。
・『この問いにどう答えるのかをしっかりと考えないと、次にやってくる 「政権がネット世論に敏感であることをどう評価すべきなのか」という問いに正しい答えを提供することができない。 以下に、私の現時点での暫定的な回答を示しておく。 私は、現政権がネット世論に敏感であること(あるいは敏感であるように見えること)を、必ずしも高く評価していない。 むしろ、彼らがネットに淫していることを強く警戒している。 というのも、「ネット世論」なるものは、それを観察する人間の定義の仕方次第(あるいは、観察対象の置き方次第)で、どうにでも変化してしまう極めて恣意的な幻覚だからだ。 首相のコラボ動画に付記されていた文言を見れば、このことがよくわかる。 首相は、《友達と会えない。飲み会もできない。 ただ、皆さんのこうした行動によって、多くの命が確実に救われています。そして、今この瞬間も、過酷を極める現場で奮闘して下さっている、医療従事者の皆さんの負担の軽減につながります。お一人お一人のご協力に、心より感謝申し上げます。》と書いている。 首相は、どうやら、国民(あるいは「若者」)が、友達と会えないことや、飲み会を開催できないことに苦しんでいると思っている。 いや、奥様は苦しんでいるのかもしれない。 でも、本当に苦しんでいる国民が苦しんでいることは、そんなお気楽な話ではない。 友達だとか飲み会だとかいったお話は、変な言い方になるが「苦しんでいない国民がかかえている悩み事」だ。 そんなものはうっちゃっておけばよろしい。今日食べるパンが無くて死にそうな人々を放置して、どうしてケーキの切り方の話をしているのだろう。 私は首相のツイートに対して脊髄反射で 《「友達と会えない。飲み会もできない」って、サークルの2年生あたりがブログに書いてるクソ甘ったれた日記かと思ったぞ。少なくとも還暦を過ぎた人間の言葉選びではない。舐めるな。じぶんのことをしろ。》2020年4月12日午後7時32分 というツイートを返している。 こんな言い方をしたのは、首相が勘違いをしていると思ったからだ。 そして、その勘違いは、首相(ならびにその周辺)が「ネット世論」経由で獲得したものであるに違いないのだ。 彼らは、新聞が書いている記事に目を通さず、メディアが報じているニュースを信じない。 この傾向は現政権が発足した当初からはっきりと確認できる傾向だったのだが、森友問題以来、ますます顕著になってきている。 支持者も同様だ。彼らの多くは、既存のメディアを「マスゴミ」と呼ぶ。 では、マスメディアを信じない彼らが、何を信奉しているのかというと、ネット上のまとめサイトやSNS上にアップされている書き込みだったりする』、《「友達と会えない。飲み会もできない」って、サークルの2年生あたりがブログに書いてるクソ甘ったれた日記かと思ったぞ。少なくとも還暦を過ぎた人間の言葉選びではない。舐めるな。じぶんのことをしろ。》とのツイートも傑作だ。
・『おそらくこれを読んでいる読者の中にも 「右であれ左であれ、どっちにしても偏向している既存メディアなんかより、ネット上の声の方が国民のナマの意見を反映しているんじゃないのか?」「少なくともネットにはすべての国民の正直な声が溢れているはずだよね?」「っていうか、ネットなんか見てないで新聞読めとか、どこの老害のセリフですかって話だよなwww」と思う人たちが相当数含まれているはずだ。 勘違いしてもらっては困る。 私はネットには程度の低い素人の偽言が溢れているとか、紙の新聞や出版物には訓練を受けた記者や、専門的な勉強をした研究者による賢明で正確な情報が掲載されているとか、そういうお話をしているのではない。紙にもネット媒体にも良い記事はあるし、同じように、紙の媒体にもネットのメディアにもダメな記事は混入している。どちらかが一方的にダメなメディアだというわけではない。そんなことはわかっている。 前提として、既存の(あるいは紙の)メディアが、まがりなりにも、「編集」と「文責」を意識した上で書かれているのに対して、ネット上の情報は、あくまでも読者側の自己責任に任せる書き方で配信されていることが多い。 と、両者の違いは、扱っている情報の質の違いそのものよりは、それを見に行く「読者」の「姿勢」の問題をより強く反映する。 どういうことなのかというと、つまり、紙とネットという二つのメディアの違いは、書かれている情報の質の違いそのものよりも、むしろそれを読む、読者の「読み方」の差を反映するカタチで顕在化するということだ。 紙のメディアを読む読者は、記事制作者が紙面を整えた順序で読み進める。 一方、ネットの読者は、自分が気に入った情報だけを、好きな順序で拾い読みするカタチで情報を摂取する。 この違いは、非常に大きい。 たとえば、レストランに行くと、ディナーのコースは、シェフが考えた順序にしたがって、シェフの指示したレシピ通りのメニューが、順次テーブルに運ばれて来ることになっている。 と、客は、単に食材を摂取するだけでなく、あわせて、シェフの「作品」なり「思想」なり「食の哲学」なりを食べることになる。 一方、ホテルの朝食バイキングでは、客は、自分の好みの料理を自分の好きな順序で好きなだけ食べて良いことになっている。 と、ケーキばかり5つも6つも食べる客もいれば、フォアグラやキャビアみたいな高価なメニューだけを平らげにかかる客も現れるということになる。 どちらが良いとか悪いとかの話をしているのではない。 いずれが美味であるか否かを問うているのでもない。 私が、言いたいのは、バイキングを食べている人間は、どうしても偏向せざるを得ないというその一点に尽きる』、「紙のメディアを読む読者は、記事制作者が紙面を整えた順序で読み進める。 一方、ネットの読者は、自分が気に入った情報だけを、好きな順序で拾い読みするカタチで情報を摂取する。 この違いは、非常に大きい・・・バイキングを食べている人間は、どうしても偏向せざるを得ない」、両者の相違の的確な表現には、改めて感心した。
・『私自身、ネットにはあらゆる声がアップされていると考えている。ネット上にぶちまけられているすべての声をまんべんなく聴くというようなことが、仮に原理的に可能であるとするならば、ネット世論に耳を傾けることは、為政者にとって有効な取り組みになり得るのだろうとも思っている。 でも、それは不可能なのだな。 ネットニュースを見ている人間は、必ず偏向する。 ネット世論から本当の世論をすくい上げようとしている人々も同じだ。 彼らは、いつしか、耳に心地よい意見にしか耳を傾けなくなる。 個人的な見解を述べればだが、私は、たとえば、麻生財務大臣の言動が、この5年ほどの間に少しずつ尊大さの度を加えつつあるのは、彼が、新聞を読み、テレビのニュースをチェックすることよりも、もっぱらネットにまとめられたご意見や、秘書官なり側近なりを経由して寄せられる称賛の声にばかり触れているからなのだろうと考えている。 以前から、身勝手な言葉の目立つ人物ではあったが、10年前はこれほどまでにモノのわからない人ではなかった。 それが、ネット上に蝟集している麻生応援団の大声援の中で、いつの間にやらとんでもない人間に仕上がってしまっている。 ネットという「偏見固定装置」ないしは「自尊感情拡張ツール」を通して世界を見るようになった人間は、必ずや偏向する。 このことは、よろしく肝に銘じておかねばならない。 結論を述べる。 私の見るに、新型コロナウイルスがもたらした危機に際して、現政権が露呈しつつある「空気の読めなさ」は、彼らが、それぞれにネット世論を読みすぎていることに起因している。 自宅に蟄居するのは良いのだとして、首相閣下には、できればwifiを遮断することを進言しておきたい。 wifeに関しては、私から申し上げることはない。 心のおもむくまま、自由にふるまっていただきたいと思っている』、「ネットという「偏見固定装置」ないしは「自尊感情拡張ツール」を通して世界を見るようになった人間は、必ずや偏向する」、鋭く的確な指摘だ。「wifi」に「wife」をかけたシャレも素晴らしい。
タグ:ネットという「偏見固定装置」ないしは「自尊感情拡張ツール」を通して世界を見るようになった人間は、必ずや偏向する バイキングを食べている人間は、どうしても偏向せざるを得ない 紙のメディアを読む読者は、記事制作者が紙面を整えた順序で読み進める。 一方、ネットの読者は、自分が気に入った情報だけを、好きな順序で拾い読みするカタチで情報を摂取する。 この違いは、非常に大きい 官邸のガバナンスが壊死していてトップに進言できる人間が皆無 首相、官邸官僚、主要閣僚含めて全員が莫迦揃い 総理の愚かさを国民に思い知らせようとしている君側の奸が暗躍している 安倍ちゃんが致命的に嫌われてる のどれかですね 「便乗動画」「タダ乗り自撮り映像」くらいに呼ぶのが相当 星野源さんがインスタグラムに投稿した「素材動画」に反応(コラボ)して、様々な音楽家や舞踏家が、それぞれの演奏や踊りの動画を重ねることで動きはじめている一大運動体としての「コラボ動画群」 コラボ動画 「「空気の読めなさ」の原因は」 現金給付が、現状におけるほとんど唯一の治安対策である 未来に希望が持てない場所で、貧困を余儀なくされているのであれば、われわれとてそうそういつまでもおとなしくしてはいない 「ひとりひとりが◯◯の意識を持って」 というのは、指導的な立場に立つことになった日本人が必ず持ち出しにかかる話型で、これを言っている人間は、多くのケースにおいて、人間の集団を教導している自分の権力の作用に酩酊している このバカげた状況の責任は、経済再生担当大臣に新型コロナ対策担当大臣を兼任させるような、たわけた人事を敢行した政権中枢に求めなければならない 新型コロナ対策担当大臣としては、財源を度外視してでもなんとかして思い切った救済策を打ち出したいはずだ。 一方、経済再生担当大臣としては、目先の対策のために野放図な支出をする計画には絶対に反対せねばならない。 とすると、彼自身、どうして良いのやら判断がつかなくなる。それがマトモな反応というものだ 補償を実現したいのはヤマヤマだが財源を考えると二の足を踏む、と、お役人の発想では、どうしてもそういったあたりを行ったり来たりすることになっている 「自粛要請」というこの政策用語は、日本語として明らかに破綻している 緊急事態宣言 休業要請 「「ひとりひとり」は羊の群れではない」 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 資本主義ほど単純な原理はないんです。利潤が多ければ多いほどいいんですから。私はこれ以上、単純な原理を知りません。ゆえに必然的にグローバル化するんです 岩井克人 私たちはどんなビジョンを持つべきか ニーアル・ファーガソン 歴史学者が語る「ネットワーク論」 ここで相手にするのは共通の敵であり、私たちを団結させることができるものをやっと手に入れたのです トーマス・セドラチェク 異端の奇才が語る「人類への連帯テスト」 デジタルな人工世界に、原始以来の生命体、ウイルスという「異物」が入り込んだときのもろさを、今私たちは現在進行形で経験している マルクス・ガブリエル われわれが現在目の当たりにしているのは、新自由主義の終焉です 新実在論の旗手が語る「新自由主義の終焉」 優先事項は、最も脆弱な人々を助けること ソーシャル・ディスタンス 「未知の領域」 スティグリッツ ノーベル賞経済学者が語る「未知の領域」 「欲望の資本主義」 BS1スペシャルシリーズコロナ危機「グローバル経済複雑性への挑戦」 「社会的距離を越えてコロナの時代と向き合う 世界の知性が問う今後の「グローバル経済」」 丸山 俊一 不安なときはカネをわたしておけば、何か困ったときにはこれを使いなさい、と渡すのがもっとも効果的である。 だから、政治活動としては、全員にただちに現金を配ることがもっとも効果的 人々の不安と欲望と政治の打算 勝負に出た小池都知事、挽回を狙った官邸 知事がやる必要もない感染者の報告を毎日自ら行い、不要不急の無意味な記者会見を頻繁に行う ほとんどの知事たちが緊急事態宣言を要求したのはなぜか。全部ではないが、一つの理由は、選挙活動である なぜ最初から「全国」にしなかったのか 移動先でのインセンティブを奪ってしまおう 緊急事態宣言の網を全国に拡げる 「理解できない」一律10万円の政策 パンデミック 「「新型コロナ対策一律10万円」にうんざりな理由 なぜ国民は「意味不明な政策」を絶賛するのか」 新型肺炎感染急拡大 小幡 績 (その9)(「新型コロナ対策一律10万円」にうんざりな理由 なぜ国民は「意味不明な政策」を絶賛するのか、社会的距離を越えてコロナの時代と向き合う 世界の知性が問う今後の「グローバル経済」、小田嶋氏2題:「ひとりひとり」は羊の群れではない、「空気の読めなさ」の原因は) 東洋経済オンライン
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