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メディア(その21)(新型コロナウイルス拡大防止の総理会見を茶番劇にした官邸と官邸記者クラブの愚、牧野洋 日米ジャーナリズムの違い~元NHK立岩陽一郎のLIFE SHIFT㉙<前編>、牧野洋 日経の編集委員から主夫へ【元NHK立岩陽一郎】<後編>) [メディア]

メディアについては、2月29日に取上げた。今日は、(その21)(新型コロナウイルス拡大防止の総理会見を茶番劇にした官邸と官邸記者クラブの愚、牧野洋 日米ジャーナリズムの違い~元NHK立岩陽一郎のLIFE SHIFT㉙<前編>、牧野洋 日経の編集委員から主夫へ【元NHK立岩陽一郎】<後編>)である。

先ずは、元NHK記者で「インファクト」編集長の立岩陽一郎氏が3月1日付けYahooニュースに掲載した「新型コロナウイルス拡大防止の総理会見を茶番劇にした官邸と官邸記者クラブの愚」を紹介しよう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/tateiwayoichiro/20200302-00165551/
・『2月29日、新型コロナウイルスの感染防止策について安倍総理が記者会見を行った。それは、日本のメディアと権力との癒着を如実に物語るものだった。 私の手元に、1枚の書面がある。それはこの会見を前に、官邸記者クラブの幹事社が各社に回したものだ。そこには「内閣総理大臣記者会見の幹事社質問」(案)と書かれている。 それが冒頭の写真だ。「朝日新聞」と書かれているのは、これは官邸の新聞社幹事である朝日新聞の質問ということだ。因みに、幹事社とは記者クラブのとりまとめ役で、各社持ち回りで担当することになっている。通常、新聞・通信社の幹事社と後述するようにテレビ局の幹事社がある。その質問には以下の様に書かれている。 臨時休校について伺います。総理は27日に突然発表しましたが、その日のうちに政府から詳しい説明はなく、学校、家庭など広く社会に不安と混乱を招きました。説明が遅れたことをどう考えますか。 この後、ひとり親、共働き家族への対応、授業時間の確保について質している。また、国民生活や経済への影響、感染の抑え込みについて見通しを問うている。更に、クルーズ船への対応に海外から批判が出ていることを挙げて、これまでの政府の対応について「万全だとお考えでしょうか」となっている。加えて、中国の習近平主席の訪日、東京オリンピックを予定通り行うかどうかも「あわせてお聞かせください」となっている。 次にテレビ幹事社のテレビ朝日の質問が書かれている。 総理は先日の対策本部で新しい法律を整備する意向を表明された。与野党から補正予算を求める声もあるが、具体的にどのようなものを想定しているのか。法案は早期に成立させなければならない。そのために野党側に与野党党首会談も含めて協力を呼び掛ける考えはあるか? この書面には、「ご意見の有る方は」と書かれ、幹事社まで連絡するよう求めている。これは質問案に欠けている質問が有れば加えるという趣旨だろう。その時間は記者会見前日の28日午後9時までとなっている。つまり、この時間をもって、質問を事前に官邸側に送ることになる。因みにこの行為を、「投げる」と言う。 これは今回に特別なことではない。これまでもそうだった。日本のリーダーの記者会見とは、このように事前に質問事項がまとめられて記者から官邸側に渡され、それに基づいて総理大臣の答弁が決められて答弁書が作られる。総理大臣は答弁書を読むだけとなる。それを記者と総理大臣が演じる一種の茶番劇となる。 今回の安倍総理の会見は36分ほどだった。その最初の19分は安倍総理がプロンプターに出てくる原稿を読むものだった。そして、残りの17分で記者との質疑が行われ、先ず幹事社の朝日新聞とテレビ朝日が質問しているが、それは私の持つ書面の文面の通りに行われている。少し違うのはテレビ朝日の質問に、「さらに生活面でマスクやトイレットペーパーといった日用品がお店に行っても買えないという現象が起こっている」と付け加えられたくらいだ。これは答弁を変えるほどのものではなく、答える安倍総理も、用意された答弁書と見られる紙を読んで終えている。 続いてNHK、読売新聞、AP通信の記者が質問しているが、これらの答弁も安倍総理は紙を読む形で答えている。 この会見に出ていたフリー・ジャーナリストの江川紹子氏は自身のYahoo!個人ニュースの記事で次の様に書いている。 スピーチの間は、首相の前に立てられた2つのプロンプターは、質疑の時間になると下ろされる。首相は、会見台の上に広げられた書面を見ながら質問に答える。複数の証言によると、首相会見では事前に質問者が指名されており、質問内容も事前に提出している、とのこと。会見開始直前に駆け込んできた男性は、佐伯耕三首相秘書官で、彼が提出された質問への回答を用意し、安倍首相はそれを読んでいる、というわけだ 出典:Yahoo!個人ニュース「新型コロナ対策・首相記者会見で私が聞きたかったこと~政府は国民への説明責任を果たせ」』、「記者との質疑」がここまで事前に提出され、それへのの回答も用意されていたとは、想像以上で、まるで茶番劇だ。
・『質疑について「彼(秘書官)が提出された質問への回答を用意し、安倍総理はそれを読んでいる」は指摘の通りだろう。つまり総理大臣自身が「本当に大変なご苦労を国民の皆さんにはおかけしますが、改めてお一人おひとりのご協力を深く深く、お願いする次第であります」と語り、国民の協力を求めている記者会見の場は、事前にやり取りが決められた茶番劇だったということだ。 当然、そこには権力者と取材者との緊迫したやり取りなど存在しない。あらかじめ用意された紙を読んで質問をしたことにする記者。それに応えて予め用意された答弁を行うことで誠実に対応しているように見せる首相。それが20分弱繰り返されたというわけだ。各社、原稿もある程度は事前に書いている筈だ。 会見が終わる際に、予定の時刻を過ぎたとの説明がなされているが、これも想定通りと見て良い。事前に質問者と質問内容に加えて答弁の分量もわかっており、想定を超えて時間が過ぎたわけではない。そして、予定された質疑が終わったところで会見は打ち切りとなることが既に決まっていた筈だ。 では、こうした「茶番劇」の何が問題なのか?それは、記者会見が事実関係を問いただす場にならないということだ。普通、質問は一発で回答を得ることはできない。その為、記者は関連質問を行う。これを「二の矢、三の矢を放つ」と言う。それによって、初めて回答を得られる。実際、江川氏は、最初の朝日新聞の質問に安倍総理が明確に答えていなかったと指摘している。ところが朝日新聞の記者は二の矢を放っていない。放てないのだ。なぜなら、総理大臣会見では二の矢を放つことは想定されていないからだ。否、別の言い方を敢えてする。二の矢を放つことは許されていないのだ。 仮に、ここで朝日新聞の記者が二の矢を放ったらどうなるか?官邸側と朝日新聞の信頼関係に傷がつくことになる。その結果、朝日新聞は官邸での取材で不利益を被ることが予想される。例えば、官邸幹部へ取材などで朝日新聞だけが外されるという事態は容易に想像できる。 そう書くと、「この新型コロナウイルスという緊急時に際して、そんな些末なことで事実の確認という重要な仕事を放棄することなどあり得ない」と思う人もいるかもしれない。しかし、残念ながらそれが実態だ。なぜか?予め決められた内容をやり取りすることで総理大臣を答えに窮するといった困った立場に置かずにすむからだ。それは官邸側の意向ではあるが、それを認めているのは記者の側だ。 それでも厳しい質問をするのが記者ではないのか?」と思う人はいるかもしれない。ところが、日本の記者、特に政治権力を取材する官邸記者クラブの記者はそうではない。一般的に日本の記者は権力の側から情報をとることが仕事となっており、そのためには権力の側を怒らせることに極めて消極的だが、その最も典型的な例が官邸記者クラブだと言って間違いない。 勿論、「記者会見は国民の知る権利に応えるための場」とは、日本の主要メディアで掲げられる言葉だ。それが嘘だとは言わない。しかし、完全にこの言葉に忠実かというと、そうではない。国民の知る権利に応えようと記者会見で頑張って二の矢、三の矢を放って、総理大臣を立ち往生させるか?官邸を困らせるか?その結果は見えている。取材で不利になる選択肢は当然の様に取らないし、取れない』、「二の矢を放つことは許されていない」、「記者会見が事実関係を問いただす場にならない」、やはり「茶番劇」以外の何物でもない。こうした現状に抵抗して、質問しようとする東京新聞の望月記者が「官邸記者クラブ」からも無視されるのは、嘆かわしいことだ。
・『では、世界中どこでもそうなのか?残念ながらこんなことをしている国は民主主義の国では日本くらいだろう。日本のリーダーの記者会見に特有の現象と言っても良いかもしれない。 記者会見での言動が常に批判を受けるアメリカのトランプ大統領にしても、この様な茶番劇は演じていない。記者会見は日本の首相会見とは大きく異なり、そこは権力者と取材者との真剣勝負の場となっている。だからこそ、トランプ大統領が、「お前は失礼な奴だ」とか、「お前らの会社はフェイクニュースだ」などと記者を罵倒する状況が生まれる。怒りのあまり会見の場で、「この人殺しのテレビ記者ども」と口走った姿を確認したこともある。それは、それが本当の記者会見の場だからだ。核廃棄という専門性の高いテーマだった一回目の米朝首脳会談の後の記者会見でも、「北朝鮮がどこまで核廃棄を進めれば、廃棄したとなるのか?」といった質問に、「専門家に言わせれば、ある段階まで廃棄を進めれば、再開が難しい段階が有る・・・」と自分の言葉で語っている。 日本の総理大臣の記者会見では、トランプ大統領の言うところの「失礼」な質問は出ない。そもそも官邸側と調整した質問しか出ず、「失礼」な質問が投げかけられる余地が無いのだ。 一度、ニューヨークの国連で安倍総理が会見を開いた際、アメリカの記者がこの慣例を破って二の矢を放ったことが有った。その時、安倍総理がそのまま用意された答弁を読んでしまった。当然、二の矢のための答弁は準備されていない。安倍総理が読んだのは、次の記者の為の答弁だったと見られる。当然、質疑は意味不明なものになってしまった。異変に気付いた官邸スタッフが割って入り、記者会見は途中で終わっている。私はその会見に出ていたアメリカ人記者からその話を聞き、返す言葉が無かった。 私はYahoo!個人で、総理と主要メディア記者との会食の問題を取り上げてきた。総理会見の在り方も権力者と取材者との癒着という意味で全く同じ話だ。 Yahoo!個人ニュース「総理大臣と記者との会食が引き起こしている問題の深刻さに気付かないメディア」 またこうも言える。こうした会見と総理大臣と記者との会食は表裏だ。会見で本音が聞けないから、会食で本音を探るということになる。しかしこれはおかしい。極めて不透明且つ不健全な会食などをせず、透明性の高い記者会見を堂々とやれば良いだけのことだ。 NHKは安倍総理の会見を伝える29日のニュースで、「安倍総理が自ら説明」と報じている。これは一種のフェイクニュースだ。用意された文章を読み、質問には準備された回答を読み上げる。それは、「自ら説明」したことにはならない。 更に言えば、これはもう記者会見ではない。これは単なる演説会だ。質問に答えない記者会見を記者会見と呼んではいけない。官邸記者クラブの記者に言いたい。次からは「記者クラブ主催総理演説会」と名称を変えた方が良い。そうでなければ、記者会見を本物の記者会見、つまり権力者と取材者との真剣勝負の場に変えなければいけない。この未曾有の事態に際して人々を茶番劇には付き合わせてはいけない』、「ニューヨークの国連で安倍総理が会見を開いた際」の「安倍総理」のとんちんかんな回答は、国辱ものだ。「次からは「記者クラブ主催総理演説会」と名称を変えた方が良い」、全く同感である。

次に、2月25日付けGOETHE「牧野洋 日米ジャーナリズムの違い~元NHK立岩陽一郎のLIFE SHIFT㉙<前編>」を紹介しよう。
https://goetheweb.jp/person/slug-nc5ca86fd7b0
・『このLIFE SHIFTで人を取材していて、世の中には格好良い生き方というのがあるものだと感じる。その格好良さはどこから来るか? いろいろあるかとは思うが、一つには、安易に勝ち馬に乗らないということかと思う。結果的にうまくいくことは否定しないが、その時、その時の判断の基準には、目先の利益はない。そういう人に私は格好良さを見出し、結果的に、それがLIFE SHIFTの主人公となっている。そう思う。それで言うと、今回の主人公である牧野洋は際立った格好良さと言って良いのではないか。ちょっと真似できないその半生に、これから迫りたい』、「牧野洋は際立った格好良さと言って良い」、どういうことだろう。
・『ピーター・フォンダ似の先輩ジャーナリスト  新年が明けた1月5日、JR広島駅に隣接するグランビアホテルに向かった。今回の主人公に会うためだ。ロビーに入ると、「立岩さん」と声をかけられた。約束より15分早かったが、既にその人はティーラウンジにいた。 「お待たせしました」と私が言うと、「勝手に早めに来ていただけですから」と笑った。 牧野洋(59)。先輩ジャーナリストだが、ここはLIFE SHIFTの流儀に則って敬称略でいかして頂く。元日本経済新聞(以後、日経新聞)編集委員で、今はフリーのジャーナリスト兼翻訳家として活躍する。 「苦み走ったいい男」などという言葉は今は使わないのかもしれないが、その言葉があてはまる。端正な顔立ちに無精ひげ。白髪交じりの髪はのびるままに任せているといった感じか。似ていると思うのは、映画「イージーライダー」の故ピーター・フォンダだ。と、思っていたら、昔の話をしている際に「イージーライダー、好きな映画なんですよ」と言われて驚いた。 「『福岡はすごい』読ませて頂きました。面白かったですね」 「ありがとうございます」 2018年に出た「福岡はすごい」(イースト新書)は、福岡の新たな取り組みを自身が長く過ごしたカリフォルニアとの類似点から、その可能性を探っている。面白いのは、福岡を良い事例として紹介することで、日本全体の問題点を浮かび上がらせている点だ。 なぜ「福岡はすごい」だったのか? それは夫人の仕事の関係で福岡に住んでいたからだ。その時に書いたのが「福岡はすごい」。そして今、私が広島にいるのは、夫人の職場が広島になったからだ。その点が、他人……少なくとも私には真似できない凄さ、格好良さなので、そろそろ本題に入る。 牧野は1960年、東京生まれ。練馬生まれだが主に現在のあきる野市で育った。最寄り駅が福生駅だったので、アメリカ軍横田基地のある福生市とも縁が深い。その影響なのか、老舗出版社の雑誌編集長だった父親の影響なのか、かなり早い段階でアメリカへの憧れやジャーナリストへの憧れを抱いていたという。 大学は慶応大学経済学部へ進んだ。大学ではESSに入る。ESSはディベート、ディスカッション、スピーチ、ドラマといったセクションに別れていて、それぞれを英語でこなす。私も一橋大学でESS(一橋大学ではISと呼んでいたが)に片足を突っ込んでいたので知っているが、どのセクションも「文化系の体育会」と呼ばれるほどハードだ。牧野はそこで4年間、ディスカッションに所属したが、逆に「体育会系のノリが肌に合わずあまり熱心ではなかった」と言う。 「でも、良い仲間ができ、今も当時の仲間とは付き合いが続いています」 「イージーライダー」は大学には真面目に通っていたという。 「大学には真面目に通いましたよ。福生駅から毎日、時間をかけて」 福生から三田……それは大変だ。 「早く社会人になって一人暮らししたい、といつも思っていました。ただ、新聞を読むのにはいい時間になりましたね」。 当時父親が自宅で購読していた日経新聞を電車の中で読んでいたという』、「福生」にはいまだに横文字の看板が残っているなど、「かなり早い段階でアメリカへの憧れ」を抱いたのも頷ける。
・『日経からコロンビア大学ジャーナリズムスクール  就職は新聞と決めていた。経済を主戦場としたい。それ故の慶応大学経済学部だ。それで日経新聞を受験して合格。1983年、日経新聞記者となる。最初の配属は英文日経だった。英語で記事を書く日々だ。 「海外特派員をイメージして英文日経を希望したのですが、実際はちょっと違いました。でも、ニューヨーク・タイムズ紙やウォールストリート・ジャーナル紙を読む毎日は勉強になりました。すぐにアメリカのジャーナリズムへの憧れが芽生えました」 最初は日経本紙の記事を翻訳するのが主な仕事だったが、時々外国人読者向けに独自記事を書くこともあった。そのうち、英文記者としてスタートしたのなら、中途半端には終わりたくないと思うようになった。目標はすぐに決まった。ジャーナリズム教育の世界最高峰とされる米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール、通称Jスクールへの留学だ。何しろ、当時としては異例だったのだが、小さな英文日経編集部の上司の中にJスクール出身者が3人もいたのだ。職場で日ごろからJスクールの話を聞かされ、牧野はますますアメリカのジャーナリズムへの関心を強めた。 面白いのは、そこからだ。 「そこで、会社に無断で1年以上前から準備し、勝手に受験したんです。TOEFLを受けて、エッセイを書いて。そしたら合格しちゃった。それで会社に行かせてくれと言ったんです」 たまたま当時はバブル絶頂期の1980年代後半で、その追い風を受けて日経は英語での情報発信の強化を目指していた。当時のキーワードである「国際化」だ。これが幸いし、上司に留学の意向を伝え既に合格を得ていることを伝えると、叱られるどころか、とんとん拍子で話が進んだ。そして会社派遣の留学でJスクールへ。これが牧野にとっての最初のLIFE SHIFTだった。 後述するように牧野はその後、日経に反発を覚えて辞める。それでも、「留学を認めてくれた日経には今も感謝している」と話した。 ところが、と言うべきか、やはりと言うべきか、その留学生活は過酷なものだった。英語で書いたり読んだりするのは大学時代だけでなく、新聞記者としても経験済みだ。「Jスクールはスパルタ教育で有名」と聞いていたが、それなりになんとかなると思っていた。だが、その自信は直ぐに崩れる。開校初日のオリエンテーションでいきなり指導教官から課題を与えられたのだ。 「ブルックリンの行商人について取材して明日までに記事を提出せよ」 「ブルックリンってどこだ?」から始まってやっと現地に入って取材するが、プレッツェルやネックレスを売っている行商人は「このネクタイ姿の東洋人は誰?」といった表情を見せるだけで、誰も取材には応じてくれない。それでもプロの新聞記者が「書けない」とは言えない。地元の商工会議所を探して飛び込むが、なしのつぶて。憔悴しきって大学に戻る。それでも、となんとか商工会議所の関係者に電話取材をして記事を出す。で、ボツ。ボツとはつまり、却下だ。 「当事者、つまり行商人の取材がないということで、ボツでした。当事者の取材のないものはダメだ、と。関係者取材というのは、基本的にダメだということです。頭ではわかっていた日米の違いを初日に突き付けられた感じでした」 日本では当事者取材なしで記事を書くのは、良いか悪いかは別にして普通に行われている。失業者に直接取材しないで失業問題を書いたり、納税者に直接取材しないで税金問題を書いたりする。関係者にすぎない官僚やエコノミストに取材するだけで記事を書いてしまう。それはダメだということだ。留学時代は、その日米の違いを突き付けられる繰り返しだったという。 例えば、日本人学校を取材してフィーチャー記事を書く課題だ。学校に行って教師や校長に話を聞いたり、教育の専門家を電話取材したりして記事を書いた。数字も入れた。学校側の狙いを書くのが日本では普通だ。しかし、当然の様にそれはJスクールでは、否、アメリカではボツとなる。 「これではまるで当局発表のプレスリリースみたいだ」 指導教官は厳しい表情でそう言った。 「当局発表のプレスリリース」。まさに、これこそ、日本の新聞記者が日々記事にするものだ。霞が関の役所から全国の市町村の庁舎の掲示板まで、日々、あらゆる記者発表が貼りだされる。それを記事にすることに追われるのが日本の記者の姿だ。指導教官は続けた。 「学校の主役は子供なのだから、子供に取材しない記事は成立しない。校長や教師の話は付け足し程度でいい。学校にもう一度行って、授業の様子を丸一日かけて見てきなさい。そしてできるだけたくさんの子供に話し掛けなさい。その際には子供と目線を同じにすること。それともう一つ。キャンディーを持っていくといいですよ」 最後は笑顔で言ってくれたが……。 「やっぱり、衝撃でした。日米のジャーナリズムの違いをこれでもかというほど突き付けられた日々でした これには後日談がある。日本人学校を取材し直して指導教官から今度はOKしてもらえた。日本に関係した記事だったので、英文日経にも掲載してもらった。ところが、紙面を見てびっくり。丸一日かけて授業の様子を観察した部分がばっさりカットされ、ボツにされた「リリース記事」へ逆戻りしていたのだ。 「アメリカと比べて言うと、日本の新聞は市民目線を忘れがちです。それは日本のマスメディアに特有な記者クラブ制度とも密接に絡んでいると思うんですが、どうしても政府などの『当局』の発表を書くことが主眼になってしまう。そして、市民がどう考えているかという報道にはならない……」 その「当局」とは、コロンビア大学初日の課題で言えば、「商工会議所」や「学校の教師や校長」ということになる。それらは、物事を作る側の人々であり、それによって影響を受ける人たちではない。ジャーナリズムとは、影響を受ける人の側から考えないといけない。牧野は、アメリカのジャーナリズムに本物を感じた。 そういう日々にも終わりは来る。なんとか無事に卒業して帰国した。NHKから留学した私もそうだったが、派遣留学は会社に報告書の提出を求められる。牧野は報告書をまとめ、それは後に、日本のマスメディアの構造的な問題などに切り込んだ「官報複合体」(講談社)として本になっている』、「米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール、通称Jスクールへの留学・・・会社に無断で1年以上前から準備し、勝手に受験したんです。TOEFLを受けて、エッセイを書いて。そしたら合格しちゃった。それで会社に行かせてくれと言ったんです」、これでは日経もイヤとはいえないだろう。「「これではまるで当局発表のプレスリリースみたいだ」・・・これこそ、日本の新聞記者が日々記事にするものだ」、「ジャーナリズムとは、影響を受ける人の側から考えないといけない。牧野は、アメリカのジャーナリズムに本物を感じた」、貴重な体験だ。「報告書」を受け取った日経も、その過激さに驚いただろう。
・『帰国、そして再び海外へ  牧野は帰国後、英文日経を経て証券部に異動。証券部とは兜町を中心に、マーケットを取材するということだ。コロンビア大学で市民目線でのジャーナリズムを学んだ牧野だが、「郷に入れば郷に従え」となることはやむを得ない。特に日経は経済記事で他社に後れをとることは許されない。となると当局取材を徹底する必要がある。機関投資家や証券会社、上場企業、東京証券取引所の幹部らを取材。そうした中で、他社を慌てさせる一面記事を書かなければならない。 しかし、コロンビア大学で学んだことは骨の髄に染みていた。やがて、取材の対象は株主へと移っていく。あたかも、株主の権利が言われ始めた時期でもある。牧野は1990年代初め、株主代表訴訟についてのニュース記事を初めて日経新聞一面に書いた記者となる。当時は株主代表訴訟という言葉を知っている人間は日経社内にもほとんど存在しなかった。93年には同僚と一緒に共著「株主の反乱」も出版した。株主代表訴を正面から取り上げた本が出たのも初めてのことだった。 1994年9月、牧野のもとに米ノースウェスタン大学ロースクールから冊子と手紙が送られてきた。ノースウエスタン大学とはアイビーリーグと並ぶ名門大学だ。冊子は日米の株主代表訴訟制度をテーマにした学術論文で、その中で「株主の反乱」に触れて「日本の株主代表訴訟を包括的に取り上げた初めての本」と紹介していた。手紙は論文の筆者マーク・ウエストによるもので、そこには「あなたの記事は大変役に立ちました。本書でも引用させていただきました」と書かれていた。 まさに、日経で記者としての人生を謳歌しているという感じだ。 「やりたい放題だったんですね?」そう水を向けると、「そうですね……でも、そんな感じでした」と言って苦笑いした。 そして再び、海外へ出る。それも牧野の希望だ。スイスのチューリヒ支局長になる。93年、ちょうど入社して10年目だ。「そこで当時、日本では知られなかったプライベートバンクについて取材しました。それまでに日経新聞もあまり取材していなかった未開拓分野。知られていないからこそ本になるとにらんだんです」 富裕層向けの銀行業務だ。プライバシー保護が徹底したスイスの銀行には世界の富裕層から資金が集まっていた。それがプライベートバンクだが、当然、裏の顔もある。マネーロンダリングだ。まだ日本ではあまり語られていなかった国際金融の光と闇に入社10年目の牧野は切り込み、日経金融新聞に何度も連載を書いている。 牧野はコメントにあるように、既に、本を書くことを自らの目標に掲げるようになっていた。当然、この連載も本にしたい。「プライベートバンク」、「マネーロンダリング」……いずれも、今後の日本と無縁ではない。しかし出版化は当時の上司の判断で叶わなかった』、「株主代表訴訟についてのニュース記事を初めて日経新聞一面に書いた記者となる」、大したものだ。「プライベートバンク」、「マネーロンダリング」の「出版化は当時の上司の判断で叶わなかった」、さぞかし悔しい思いをしただろう。
・『最強の投資家を取材  それでも、チューリヒ支局での記事は国内銀行界ではよく読まれ、社内でも好評だった。それが次の道につながる。ニューヨーク総局への異動だ。ニューヨークのウォール街担当は牧野自身も在籍した兜クラブのキャップの指定ポストだったが、チューリヒからニューヨークへの異例の横滑りとなった。1996年のことだ。 日経新聞のニューヨーク総局の編集部は当時現地採用も含めて15人前後。そこで牧野はウォール街を担当する取材チームのキャップとなった。ウォール街と言えば世界の金融の中心地だ。それは刺激に満ち溢れた日々だったのだろうと思ったら、牧野は意外なことを言った。 「ウォール街の取材は忙しいし、毎日の様に記事を求められるんですけど、ここを取材しても本にはならないんですよ」「え? 本ですか?」「ええ」 本にするには独自のテーマや切り口が必要だ。日々の動きを追う取材からは、そうした深い内容を取材するのは難しいということだ。牧野にとって、既に新聞記事そのものより本の執筆がメインになっていた。 「プライベートバンクの本が実現しなかったから、なおさら本を書きたいという思いが強くなっていました」 実はこれはアメリカのジャーナリズムの世界では、極めて自然なことだ。私自身、NHKに入って17年ほどしてアメリカに留学し、アメリカのジャーナリストと付き合うようになったが、10年以上の経歴のジャーナリストで著書がないというのはアメリカでは珍しかったと思う。当時の私は著書など1冊もないNHK記者だ。これは日本ではさほど異常なことではないが、アメリカでは珍しい。新聞記者は新聞記事を書く以上に、自著の出版にこだわる。それが自身の記者としての評価にもなる。 そこで、牧野は一計を講じたと言う。 「ウォーレン・バフェットに注目したんですよ。当時日本で彼の知名度は低く、彼についての本も出ていませんでした。だから常時ウォッチしていけば、必ず本になるチャンスがやって来ると考えたんです」 ウォーレン・バフェット。天才的な投資家として知られ、その発言がメディアで取り上げられることも多い人物だ。ただ、そう簡単に接触できるわけではない。牧野の主な仕事はアメリカ市場であり世界のマーケットの動向を取材することだ。その合間のぬっての取材となる。それでも、アンテナを張り巡らせることで、この投資家の行動半径を絞ることは可能だ。 ウォール街の取材の合間に取材したのがバフェットの会社の株主総会だ。ニューヨーク赴任から2年目の1998年のこと。ネブラスカ州オマハにあるバークシャー・アザウェイ社で開かれる総会で、バフェットが個別の取材に応じるという話になった。しかし大物だけに全米の記者が集まっている。日本から来た記者に割り振られる時間はあるのだろうか……と考える間もなく滑り込んだ。そして単独取材に成功。日本のマスコミとの単独インタビューは初めてのことだった。直接取材ができたことで、ニューヨーク総局勤務の3年間で本にできるだけの取材を終えることができた。 そして帰国。ただ、まだ本は書けていない。是非とも本を書きたい。否、書かなければ意味がない。そこで牧野は、帰国後の異動に際して、通常とは異なる希望を出す。ニューヨーク総局のウォール街担当は証券部のポストだから、通常は証券部に戻る。証券部は花形でもあるが、それだけに忙しい。 「証券部に行ったらバフェットを本にできないかもしれない」そう思った牧野は帰国後の異動先に「日経ビジネス」と書く。勿論、理由は本だけではない。 「雑誌はいろんな取材ができて、ジャーナリズム的にもいろいろ自由があると思いました」。 そして、またこれが認められる。 「本当に、やりたい放題ですね?」と言って笑うしかない私。 「ええ……そうですね。とても恵まれていたと思います」と言って苦笑いで返す牧野。 1999年に帰国。そして日経ビジネスに行って、その年に念願の単著を出す。「最強の投資家バフェット」(日経ビジネス文庫)がそれだ。これが評判を呼び、9刷まで重版がかかった。考えてみると、バフェットはなぜか「最強の投資家」と評されることが多いが、ひょっとしたら牧野の本の影響によるものかもしれない。 牧野は、このニューヨーク赴任時に知り合った日本人女性と結婚する。彼女は牧野と同じコロンビアのJスクールで学んだ後に日経のニューヨーク総局で現地採用記者として働いていた。この後、牧野は自身がアメリカで学んだ市民目線のジャーナリズムを実践して日経で孤立していく。その際、この結婚が、牧野の新たな選択を可能にする。否、牧野は言った。 「そういう相手しか結婚相手には考えていませんでした」 「そういう相手」とはどういう相手なのか。そこで牧野はどういうLIFE SHIFTを見せるのか』、「10年以上の経歴のジャーナリストで著書がないというのはアメリカでは珍しかったと思う・・・アメリカでは・・・新聞記者は新聞記事を書く以上に、自著の出版にこだわる。それが自身の記者としての評価にもなる」、初めて知った。「証券部」に行かずに、「日経ビジネスに行ったことで、「最強の投資家バフェット」をまとめた」、日経での社内昇進よりも、自分のジャーナリストとしての夢実現を優先したようだ。

第三に、この続き、3月22日付けGOETHE「牧野洋 日経の編集委員から主夫へ【元NHK立岩陽一郎】<後編>」を紹介しよう。
https://goetheweb.jp/person/slug-n79472a1eff9
・『「0歳児が、夜泣くわけです。そうすると泣き止ませる術は一つ、母乳を与えるしかない。しかし妻が出張でいないときもあるんです。それは男の私にはできない話ですよね。そうすると朝まで抱いてあやすんですが、最後に泣き疲れてくれるまではずっと抱いていなきゃいけない」——ピーター・フォンダ似の敏腕ジャーナリストが赤ちゃんをあやして困っている姿というのは、想像すると失礼ながら笑ってしまう。日経で着々と、というより思う存分にキャリアを積み上げてきた牧野洋。彼はなぜ夜通し赤ちゃんをあやす生活を始めることになったのか』、この大きな断絶は興味深そうだ。
・『日本のジャーナリズムは死んでいる  1999年、ニューヨークでの4年間のウォール街取材を経て牧野は帰国する。希望通りに日経ビジネス誌の担当となり、編集委員となる。 この編集委員とは新聞社特有の制度で、普通の記者ではない。俗に大記者と呼ぶ。普通の記者の様にデスクの指揮下に入って取材をするのではなく、それまでに蓄積された専門性を生かして自由に取材することが許される。因みに、NHKを含めてテレビにはこの大記者制度はない。だから私の場合は、記者が終わるとデスクになる。そしてデスクになると、記者の取材の面倒を見るのが仕事となり、自分で取材をすることはほぼなくなる。豊富な取材経験を備えた編集委員の存在は新聞の取材力を担保していると言って良いだろう。 それはともかく、牧野は先ず前編で触れた様にウォーレン・バフェットについて本を書く。これが「最強の投資家 バフェット」として好評を博したことも前編で触れた。日経ビジネス誌で暫く自由に取材をした後、証券部に戻ることになる。 今度は証券部の編集委員だ。牧野は、自分の取材を始める。それは、「もの言う株主」だった。その1人は、村上ファンド代表の村上世彰だ。この元経産官僚の投資家の言動を、チューリッヒやニューヨークのウォール街で取材してきた牧野は極めて合理的だと考えた。 牧野は言う。「経済ジャーナリストとしての私のポリシーは明確です。自由経済。オープンなマーケット。官僚がぎちぎちにした市場では駄目」 一方で、日本は牧野から見れば、そうではない。 「歴史を見ると、外からの投資を迎え入れたところ、移民に窓を開いたところが発展している。では日本はどうか? 海外からの直接投資が最低でした。その大きな理由は海外からの買収が少ない。このままで良い筈がない」 そういう思いが村上にも通じた。既に時代の寵児となっていた村上だが、牧野の取材には積極的に応じていた。村上は、欧米を知る経済ジャーナリストの牧野に他の記者にはないものを感じていたのかもしれない。 牧野は、村上ら投資家の動きを追う中で、「ハゲタカファンドが日本を救う」という特集記事を書いている。これは、かなり刺激的なタイトルだ。 こうした中、村上は東京地検特捜部に逮捕される。2006年6月、あのインサイダー事件だ。 実は逮捕当日の朝、牧野は村上から電話をもらっている。「きょう、生まれて初めて公の場で嘘をつきます」 牧野は村上にそう言われたという。それが、村上が罪を認めたとされる記者会見だ。自分が罪を認めなければ部下の会社幹部らも逮捕されてしまうと検察から言われたという。そして村上は牧野に言う。「ちゃんと本当のところはわかってくださいね」 この時のやり取りは後述する牧野の著書「官報複合体」(講談社)にその詳細が書かれている。この会見の後に村上は出頭。そのまま逮捕された。既に新聞、テレビでは村上叩きが始まっていた。それは「関係者」を情報源としているものの、全て検察のリークだ。牧野には、それが検察の世論操作であることがわかる。 村上の逮捕後、牧野は村上について記事を書いていない。正確には、書く機会を与えられなかったということだ。村上については勿論、「ものを言う株主」の存在を最もよく知る自分が記事を書けない……牧野の中で、既に芽生えていた日経、否、日本のメディアに対する違和感が大きくなっていく。 「おかしいでしょ。検察のリークをそのまま流す。そういう日本のジャーナリズムの異常さを見せつけられた感じでした」 村上の話が終わった時、牧野が突然、私に問うた。「民主主義を考える時、選ばれる政治家のための政治を行うことが民主主義なんですかね? それとも、選ぶ有権者のための政治を行うことが民主主義なんですか? どっちですかね?」 それは当然、「有権者のための政治」だ。 「ですよね? 企業にあてはめたら、それは経営者のための経営なのか? それとも株主のための経営なのか? となるわけです。日本は圧倒的に経営者のための経営を是とするわけです。それが健全な経済であるわけがないんです」 本人は意識していないかもしれないが、10年以上前の話をする牧野の言葉には怒りがこもっている感じだった。 「それがコーポレートガバナンスですよ」と牧野は言った。つまり、日本のコーポレートガバナンスは見せかだということだ。 牧野の日経への違和感は徐々に不信感となっていく。当時、牧野が取材していた世界の企業の流れがある。「三角合併」だ。三角合併とは、国境をまたいだ形での株式交換を使ったM&A(企業の合併と買収)の手法だ。外国企業が日本企業を買収する際には日本に子会社を設立する必要があり、外国企業、日本子会社、そして買収する日本企業という「三角形」で買収が行われることからこの名で呼ばれる。 「本来の意味は株式交換による企業買収です。それは、世界で国境を越えた形での企業買収では、当然に行われていたことです。現金での買収なんて言っているのは日本くらいだった。ところが、それを、政府、経団連は、『三角合併』と呼んで、極めて異例なことというイメージを流した」 なぜ嫌がったのか? 「時価総額の大きい企業が株式交換で企業が買えるとなると、時価総額の大きな外国の企業が有利になるということでしょう。それを政府も経団連も嫌がっていた」 今でこそ時価総額はニュース用語の一つとなっているが、当時は、そういう意識も希薄だった。その上、日本の企業は日の丸にこだわっている。それでどうやって世界で生き残ることができるのか? 牧野は取材しつつ、疑問に思う日々を過ごす。 そうした記事を書いていく中で、ある人物の逆鱗に触れる。経団連会長(当時)の御手洗冨士夫だ。日経の編集幹部らが経団連に呼ばれて、経団連の方針について説明を受けたという。 「何度も呼ばれていたようです。三角合併を支持するような記事は書かないで欲しいということでした。そして日経のスタンスも決まっていくわけです」 日経は三角合併について「慎重に」と書き始める。 その動きと連動していると見た方が自然だろうが、牧野は証券部から産業部に異動を命じられる。産業部とは、まさに日本の産業界、つまり経団連傘下の企業を取材する部署だ。 編集局長から辞令を受ける際、「経団連も知っておいた方が良い」と言われている。なぜか? ここで、牧野が「できれば書かないでくれ」といったエピソードを敢えて書く。この時、牧野は「将来、君をコラムニストにと考えている」と編集局長に言われている。コラムニストは論説委員より上の、新聞社の顔だ。当時の日経でも、数人しかいない。まさに、日経を代表する記者ということだ。そうなるためには、経団連を知っておいた方が良い……という判断だったと見て良い。 これもまた牧野は否定するが、私には、これは日経のある種の親心だったのかと思う。その際、編集局長から、日本の経営者100人に取材して記事にするというプロジェクトを任される。 しかし牧野にはその気はない。 「なぜ経団連に合わせた記事を書かないといけないのか? 日本は自由経済ではないのか?」 当然、産業部の水は牧野には合わない。合うわけがない。部の雰囲気が、「外資の導入はシャットアウトしろという感じ」(牧野)だった。そんな記事、どう魂を売っても牧野には書けない。いつからか、部内で、「市場原理主義者」とのレッテルまではられている。 しかし牧野は魂を売る気は全くない。このままでは日本企業はいずれ世界から取り残される。外資の脅威論ばかり振りかざしていて日本の企業は世界経済の荒波に立ち向かっていけるのだろうか? その疑問をコラムに書いた。署名記事だ。ゲラもチェックした。ところが、突然、それが下ろされる。掲載見送りだ。夜中になって、掲載されないことが決まったという。前代未聞だ。 担当の編集局幹部は「いずれ復活させるから」と牧野に申し訳なさそうに言った。理解ある上司だったので我慢した。しかし、ボツにしたのがその幹部の判断だと後に知る。 「もう日経では、自分が書きたい記事を書けない」そう牧野は思った。そして、帰宅して妻の恵美に言った。「もう日経を辞めたい」 すると恵美は言った。「いいよ、私が稼ぐから」 そして、「本書きたいんでしょ? 本を書けば良いじゃない」と言った。 前編で書いた通り、牧野はコロンビア大学ジャーナリズムスクール(Jスクール)留学中に、日米のジャーナリズムの違いを知る。その違いは記者、特派員、編集委員を通じて、埋められないほど大きくなり、それが牧野を苦しめている。なぜ苦しむのか? 「日本のジャーナリズムは死んでいる」と、牧野の喉元まで出かかっている。 それを同じくコロンビア大学のJスクールで学んだ恵美は知っている。牧野が世に問いたいことも知っている。では、日経にいて、日本の新聞を批判する本は書けるか? 答えは自明だ。 恵美の言葉が牧野の背中を押す。2007年5月、牧野は日経を辞める。理由は、「妻のキャリアアップのため」とした。会社への不満は当然あったが、それを理由にして辞めたくはなかった。 その時のことを恵美に尋ねた。恵美は淡々と話した。 「私が稼ぐから……とその時に言ったかどうかは覚えていませんが、そういう意識ではいましたから別に驚くこともなく、『じゃあそうしましょう』という感じでした」 勿論、恵美にはそれなりの計算はあった。恵美は既にプロの会議通訳として仕事をしていた。子育ての合間に仕事を受ける感じだったが、仮に牧野が育児、家事をするのであれば、「収入を倍にするくらいは可能だった」と話した。 どういうことか。実は、牧野の日経退職は、再就職を伴うものではなかった。恐らく日経の編集委員なら他の新聞社でも編集委員になる道はあっただろう。しかし牧野の、否、牧野と恵美の選択は違った。 それは、恵美が今後の一家の稼ぎ頭になるということだった。それには恵美がキャリアアップする必要がある。それは恵美も同感だったという。恵美は言った。 「会議通訳は恐らくAIがとってかわる仕事になる。そうなると出来てもあと10年かと思った。だからキャリアアップはしたいと思っていた」 牧野は、「それは妻への投資でした」と振り返ったが、恵美も同じだったのだ。恵美は更に、こうも言った。「子供への投資でもありました。子供に英語での教育を受けさせることも意味があると考えたんです」』、「「おかしいでしょ。検察のリークをそのまま流す。そういう日本のジャーナリズムの異常さを見せつけられた感じでした」、その通りだ。「日本は圧倒的に経営者のための経営を是とするわけです。それが健全な経済であるわけがないんです」、同感だ。「ある人物の逆鱗に触れる。経団連会長(当時)の御手洗冨士夫だ。日経の編集幹部らが経団連に呼ばれて、経団連の方針について説明を受けたという。 何度も呼ばれていたようです。三角合併を支持するような記事は書かないで欲しいということでした。そして日経のスタンスも決まっていくわけです」、当時も経団連と日経は場所的には近かったが、何度も呼びつけるという圧力のかけ方には驚かされた。
・『カリフォルニアで家族との信頼関係を築く  そして牧野一家は渡米する。東京に持っていた家は売却してローンを精算した。そして牧野の退職金を渡米後の費用に充てる。 行先はカリフォルニアだ。恵美は、カリフォルニアにあるクレアモント大学院大学(CGU)のMBAに進む。ドラッカー・スクールだ。あのピーター・ドラッカーが設立したコースだ。実は、牧野はピーター・ドラッカーの「私の履歴書」の執筆を編集委員として手伝っている。その時に、ドラッカーを訪ねてクレアモント大学院大学に行っている。 「その時の印象で、移住するならここが良いというイメージがありました」 既にピーター・ドラッカーは他界していた。しかしドラッカー夫人は家に呼ぶなどしてもてなしてくれた。  「家族で家にしょっちゅう御呼ばれしていました。本当に感謝しています」 しかしアメリカの大学院での研究は生半可ではない。出張しての学会発表などもある。既に牧野家には、子供が3人。長女は6歳、長男は4歳、そして次女が0歳だ。 当然、牧野のカリフォルニアでの生活は、食事、洗濯、掃除、育児に追われるものとなる。 「もう朝は戦争状態でした。妻は研究で忙しいし、出張でいないときもある。自分の無力感を思い知らされた日々です」 今となっては、なのか、しかし牧野は、実に楽しそうに話す。その笑顔が素敵でもある。ただ、本当に大変だったのだろう。牧野が当時書き綴っていたブログがある。2009年7月7日に「毎朝が嵐のよう」と題して次の様に書いている。 「けさの状況を振り返ってみます。妻が7時前に家を出ていなくなり、同時に3人の子供が目覚めます。まずは3人分の朝食をつくらなければならない……」 朝食に加えて昼食も同時に作る。次女に離乳食を中心とした別の食も作る。そして次女のオムツ替え、長女、長男の学校の支度……と、まさに「重労働」だと書いている。 私にも次の様に話した。 「0歳児が、夜泣くわけです。そうすると泣き止ませる術は一つ、母乳を与えるしかない。しかし妻が出張でいないときもあるんです。それは男の私にはできない話ですよね。そうすると朝まで抱いてあやすんですが、最後に泣き疲れてくれるまではずっと抱いていなきゃいけない」 カリフォルニアで始まった牧野の主夫生活。「毎朝の嵐」の後は、車で子供3人を小学校、保育園に送る。そしてやっと一人になれるのが朝の8時、9時だ。その時にはへとへとになっている。それでも子供を送った後にスターバックスに車を停め、そこでコーヒーを買って過ごすひと時が唯一の自分の時間となる。 「その時くらいですからね。自分の時間って。そのひと時は大切に使いました」 そのひと時に、牧野はパソコンを開き、雑誌のコラムを書いた。前編で触れたコロンビア大学時代の体験から始まる日米のジャーナリズムの違いを、講談社の現代ビジネスに連載で書いている。それは後にまとめられ450ページを超える大著、「官報複合体」(講談社)となっている。そのための取材で、0歳児を抱えてカリフォルニアからニューヨークに行ったこともあったという。  これまでいろいろな人のLIFE SHIFTを取材してきたが、これほどの変化を伴ったLIFE SHIFTを私は知らない。社会の矛盾に立ち向かったジャーナリストが、一転、家庭に入り主夫となる。それは実際のところ、どういうものだったのか? 「良かったですよ。本当に良かった。普通のレベルでは考えられないくらい子供たちとコミットできた。子供たちと同じ体験をするんです。子供にとって一番親と接したいときに一緒にいることができた。妻ともそうです。妻も頑張ってくれた。そしてこのカリフォルニアで家族との信頼関係が築けた。それは本当に大きなポイントだった」 無理に言っているわけではないことは、牧野の笑顔でわかる。 カリフォルニアに来て5年目、MBAからPhDに進んだ恵美はPhDも修了。そして九州大学から教職の話が来る。そして家族で帰国。福岡での生活を始め、それが前編の冒頭で触れた著書「福岡はすごい」となる。 そして恵美が広島大学で教職を得たのをきっかけに、家族で広島へ。それで私が2020年早々に広島へ行ったというわけだ。 「今後はどうするんですか?」と問うと、少し考えて、「暫くは広島で過ごしますよ。でも、やっぱりまたカリフォルニアに行きたいですね」 カリフォルニアで育った長女は今や高校生。そして長男が中学生、0歳児だった次女も小学校高学年になる。 「次女はもう英語は忘れてしまっているんで、もう一度、アメリカにみんなで住みたいと思っています」 牧野は、「家族一緒に」と言って笑った。 カリフォルニアでの牧野の「嵐のような」日々について、恵美は次の様に話した。 「彼(牧野)にとって、カリフォルニアでの子育ては初めてだったし大変だったと思うんですが、彼がそういう体験をしたかったということはあります」 そして加えた。「育児、料理と、男女に限らず人間としてのライフステージとして重要な体験だと思うんです。それを夫婦一緒に経験できたということかと思います」 牧野が恵美と同じ考えであることは間違いない。 牧野は次にどのようなLIFE SHIFTを見せるのか? そのLIFE SHIFTは、当然、家族と一緒に迎え、そして一緒に乗り切るものになるのだろう』、「子供を送った後にスターバックスに車を停め、そこでコーヒーを買って過ごすひと時が唯一の自分の時間となる・・・そのひと時に、牧野はパソコンを開き、雑誌のコラムを書いた。前編で触れたコロンビア大学時代の体験から始まる日米のジャーナリズムの違いを、講談社の現代ビジネスに連載で書いている。それは後にまとめられ450ページを超える大著、「官報複合体」(講談社)となっている」、やはり只者ではないようだ。「普通のレベルでは考えられないくらい子供たちとコミットできた。子供たちと同じ体験をするんです。子供にとって一番親と接したいときに一緒にいることができた」、主夫生活もエンジョイしたようだ。今後の牧野洋氏の活躍に期待したい。
タグ:アメリカと比べて言うと、日本の新聞は市民目線を忘れがちです。それは日本のマスメディアに特有な記者クラブ制度とも密接に絡んでいる これこそ、日本の新聞記者が日々記事にするものだ。霞が関の役所から全国の市町村の庁舎の掲示板まで、日々、あらゆる記者発表が貼りだされる。それを記事にすることに追われるのが日本の記者の姿だ これではまるで当局発表のプレスリリースみたいだ 日本では当事者取材なしで記事を書くのは、良いか悪いかは別にして普通に行われている 当事者、つまり行商人の取材がないということで、ボツ なんとか商工会議所の関係者に電話取材をして記事を出す。で、ボツ 「ブルックリンの行商人について取材して明日までに記事を提出せよ」 開校初日のオリエンテーションでいきなり指導教官から課題 会社に無断で1年以上前から準備し、勝手に受験したんです。TOEFLを受けて、エッセイを書いて。そしたら合格しちゃった。それで会社に行かせてくれと言った 日経からコロンビア大学ジャーナリズムスクール アメリカへの憧れ 福生 ピーター・フォンダ似の先輩ジャーナリスト 「牧野洋 日米ジャーナリズムの違い~元NHK立岩陽一郎のLIFE SHIFT㉙<前編>」 GOETHE 次からは「記者クラブ主催総理演説会」と名称を変えた方が良い 安倍総理がそのまま用意された答弁を読んでしまった。当然、二の矢のための答弁は準備されていない。安倍総理が読んだのは、次の記者の為の答弁だったと見られる。当然、質疑は意味不明なものになってしまった アメリカの記者がこの慣例を破って二の矢を放った ニューヨークの国連で安倍総理が会見を開いた際 トランプ大統領にしても、この様な茶番劇は演じていない。記者会見は日本の首相会見とは大きく異なり、そこは権力者と取材者との真剣勝負の場となっている こんなことをしている国は民主主義の国では日本くらいだろう 日本の記者は権力の側から情報をとることが仕事となっており、そのためには権力の側を怒らせることに極めて消極的だが、その最も典型的な例が官邸記者クラブ 「プライベートバンク」、「マネーロンダリング」 二の矢を放つことは許されていない 記者会見が事実関係を問いただす場にならないということだ。普通、質問は一発で回答を得ることはできない。その為、記者は関連質問を行う。これを「二の矢、三の矢を放つ」と言う。それによって、初めて回答を得られる 記者会見の場は、事前にやり取りが決められた茶番劇 首相会見では事前に質問者が指名されており、質問内容も事前に提出している 総理大臣が演じる一種の茶番劇 事前に質問事項がまとめられて記者から官邸側に渡され、それに基づいて総理大臣の答弁が決められて答弁書が作られる。総理大臣は答弁書を読むだけ 次にテレビ幹事社のテレビ朝日の質問 新聞社幹事 「内閣総理大臣記者会見の幹事社質問」(案) 「新型コロナウイルス拡大防止の総理会見を茶番劇にした官邸と官邸記者クラブの愚」 yahooニュース 立岩陽一郎 (その21)(新型コロナウイルス拡大防止の総理会見を茶番劇にした官邸と官邸記者クラブの愚、牧野洋 日米ジャーナリズムの違い~元NHK立岩陽一郎のLIFE SHIFT㉙<前編>、牧野洋 日経の編集委員から主夫へ【元NHK立岩陽一郎】<後編>) メディア 証券部の編集委員 日本は圧倒的に経営者のための経営を是とするわけです。それが健全な経済であるわけがないんです ウォーレン・バフェットに注目 ある人物の逆鱗に触れる。経団連会長(当時)の御手洗冨士夫だ。日経の編集幹部らが経団連に呼ばれて、経団連の方針について説明を受けたという。 「何度も呼ばれていたようです。三角合併を支持するような記事は書かないで欲しいということでした。そして日経のスタンスも決まっていくわけです 0歳児が、夜泣くわけです。そうすると泣き止ませる術は一つ、母乳を与えるしかない。しかし妻が出張でいないときもあるんです。それは男の私にはできない話ですよね。そうすると朝まで抱いてあやすんですが、最後に泣き疲れてくれるまではずっと抱いていなきゃいけない 帰国、そして再び海外へ ジャーナリズムとは、影響を受ける人の側から考えないといけない。牧野は、アメリカのジャーナリズムに本物を感じた 「官報複合体」(講談社) 会社に報告書の提出 カリフォルニアで家族との信頼関係を築く 検察のリークをそのまま流す。そういう日本のジャーナリズムの異常さを見せつけられた感じでした 自分が罪を認めなければ部下の会社幹部らも逮捕されてしまうと検察から言われた 10年以上の経歴のジャーナリストで著書がないというのはアメリカでは珍しかった 最強の投資家を取材 実は逮捕当日の朝、牧野は村上から電話をもらっている。「きょう、生まれて初めて公の場で嘘をつきます」 村上世彰 帰国後の異動先に「日経ビジネス」と書く 「牧野洋 日経の編集委員から主夫へ【元NHK立岩陽一郎】<後編>」 「最強の投資家バフェット」 出版化は当時の上司の判断で叶わなかった 日本のジャーナリズムは死んでいる 日本のマスコミとの単独インタビューは初めて 「もの言う株主」 チューリヒ支局長 普通のレベルでは考えられないくらい子供たちとコミットできた。子供たちと同じ体験をするんです。子供にとって一番親と接したいときに一緒にいることができた 子供を送った後にスターバックスに車を停め、そこでコーヒーを買って過ごすひと時が唯一の自分の時間となる。 「その時くらいですからね。自分の時間って。そのひと時は大切に使いました」 そのひと時に、牧野はパソコンを開き、雑誌のコラムを書いた 株主代表訴訟についてのニュース記事を初めて日経新聞一面に書いた記者となる 朝は戦争状態でした。妻は研究で忙しいし、出張でいないときもある
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