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経済学(その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い) [経済政治動向]

経済学については、昨年7月23日に取上げた。今日は、(その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い)である。

先ずは、昨年11月29日付けNewsweek日本版が掲載したフォーリン・ポリシー誌上級特派員のマイケル・ハーシュ氏による「グローバル化の弊害を見落とし、トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/11/post-13509_1.php
・『<グローバル化の行き過ぎと米製造業の空洞化を見抜けず、結果的にトランプ政権誕生を助けたポール・クルーグマンがついに自己批判した> ノーベル賞の受賞者でコラムニストとしても知られる経済学者のポール・クルーグマンは、論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調で名をはせてきた。 1990年代初めから精力的に著書や論説を発表。急速に進むグローバル化に疑義を唱える論客には片っ端から「経済音痴」のレッテルを貼ってきた。特に中国との競争を危惧する議論を聞くと、「バカらしい」のひとことで切って捨てる。心配ない、自由貿易が自国経済に及ぼす負の影響など取るに足らない。それがお決まりのセリフだった。 そのクルーグマンが突如、宗旨変えした。今年10月、「経済学者(私も含む)はグローバル化の何を見誤ったか」と題した論説を発表。自分をはじめ主流派の経済学者は「一連の流れの非常に重要な部分を見落としていた」と自己批判したのだ。 クルーグマンによれば、経済学者たちはグローバル化が「超グローバル化」にエスカレートし、アメリカの製造業を支えてきた中間層が経済・社会的な大変動に見舞われることに気付かなかった。中国との競争でアメリカの労働者が被る深刻な痛手を過小評価していた、というのだ。 ラストベルト(さびついた工業地帯)の衰退ぶりを見ると、ようやく認めてくれたか、と言いたくもなる。謙虚になったクルーグマンは、さらに重大な問いに答えねばならない。彼をはじめ主流派の経済学者が歴代の政権に自由貿易をせっせと推奨したために、保護主義のポピュリスト、すなわちドナルド・トランプが大統領になれたのではないか、という問いだ。 公平を期すなら、クルーグマンはここ数年、過去の見解の誤りを率直に認めるようになっていた。彼は経済学者でありながら経済学者に手厳しいことでも知られる。2008年の金融危機後には、過去30年のマクロ経済学の多くの予測を「良くても驚くほど役に立たず、最悪の場合、明らかに有害」だったと総括した。 クリントン政権で労働長官を務めた経済学者のロバート・ライシュは、国際競争の激化を懸念し、良質の保護主義的な政策と製造業の労働者の再訓練を推進しようとした。このライシュについて、クルーグマンは1990年代当時、私に「気の利いた言い回しが得意なだけで、物事を深く考えない嫌な奴」と評したものだ。 クルーグマンの宗旨変えについてライシュにコメントを求めると、「彼が貿易の何たるかをやっと理解してくれてよかった」とメールで答えてくれた。クルーグマンもメールで「ライシュについて言ったことは後悔している」と述べたが、「もっとも彼が超グローバル化を予測し、チャイナショックの影響を最小限にとどめようとしたと言うのなら、それは初耳だが」と嫌みも付け加えた。 経済学者たちはようやく自分たちの傲慢ぶりを認め、2009年にクルーグマン自身が書いたように「数学という素敵な衣装をまとった美しい理論を真実と思い込んでいた」ことに気付いたが、時すでに遅しの感もある。 経済学者たちは1960年代末から連邦政府の政策立案に大きな影響を与えるようになり、アメリカを間違った方向に導き、社会の分断を助長したと、ジャーナリストのビンヤミン・アッペルボームは指摘している。多くの経済学者が福祉を犠牲にし、効率性を最優先して「高賃金の雇用を切り捨て、低コストの技術産業に未来を託した」というのだ』、「ポール・クルーグマン」の「論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調」を私は好んでいたので、「突如、宗旨変えした」ことで楽しみが1つなくなったとすれば、寂しい気がする。
・『「修正を試みても手遅れだ」  マサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学者、デービッド・オートーは、中国の急成長がアメリカの労働市場に及ぼした影響をデータで示してきた。オートーによればより大きな問題は、多くの経済学者が自由貿易は善だと無条件で信じていたことだ。「貿易は万人にとって有益だと政策立案者に助言するのが自分たちの務めだと思い込んでいた」 ハーバード大学の経済学者、ダニ・ロドリックは1997年に『グローバル化は行き過ぎか』という著書を発表した。当時は異端と見なされたこの本を書いたのは「経済学者がグローバル化に全く危機感を持っていなかったから」だと、彼は言う。今ではロドリックの見方が主流になっている。 さしもの経済学者たちも、自分たちが引き起こした事態に対処すべく重い腰を上げ始めた。ロドリックも元IMFチーフエコノミストのオリビエ・ブランシャールと共に格差をテーマにした会議を主宰したばかりだが、もう手遅れかもしれないと言う。トランプ政権下では、まともな議論すらできないからだ。 トランプは、アダム・スミスの時代の重商主義者もかくやの短絡的な保護主義を信奉している。貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ。経済学のイロハも知らない無知ぶりは「現代アメリカの大統領の中でも際立ってお粗末だ」と、アッペルボームは嘆く。 それでもトランプは、中国の台頭に対するアメリカ人の不安を背景に、史上最大の貿易戦争に打って出た。不安が広がったのは、経済学者の読み違いのせいでもある。中国の急成長でアメリカの製造業の雇用がこれほど迅速かつ大量に失われるとは、彼らは夢にも思っていなかった。 クルーグマンも指摘しているように、「2000年以降、製造業の雇用は恐ろしいほど急減」し、その急カーブはアメリカの貿易赤字、特に対中赤字拡大の急カーブと一致していた。こうしたデータが、ただのデタラメにすぎないトランプの主張に信憑性を与えたのだ。 貿易問題や所得格差、労働者のための適切な保護策に関する「まともな議論を完全に消し去ったことが、最も理不尽なトランプ効果の1つだ」と、ロドリックは言う。 クルーグマンに、彼自身も含めて経済学者がトランプ政権の誕生を助けたのではないか、と聞いてみた。「それについては、まだ議論している最中だ」と、彼は答えた。「これは私の考えだが、トランプの(保護主義的な)貿易政策はさほど支持されておらず、トランプ人気に貢献したとは思えない。その意味でトランプ現象を経済学者たちのせいにするのはいささか酷ではないか」』、「トランプは・・・貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ」、超一流経済学者が多いアメリカでよりにもよってこんな大統領が出現したとは、経済学の無力さを露呈したのかも知れない。
・『レッテル貼りと締め出しと  そうは思わない人もいるだろう。問題の一端は、グローバル化は善だというコンセンサスが姿を現しつつあった1990年代、経済学者たちは貿易問題を「自由貿易主義」か「保護主義」かの2つに1つという単純な図式で捉える傾向があったことだ。 クルーグマンもおおむね自由貿易論者の立場を取った。ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていたことを思うと皮肉な話だ。 一方で政策論争に関わった人々の中には、急速なグローバル化にクルーグマンよりずっと強い懸念を抱いた人々もいた。その代表格が、ロドリックやライシュ、クリントン政権で国家経済会議議長を務めたローラ・タイソンといった人々だ。彼らは自由貿易こそ善という考え方に異議を唱えたり、タイソンのようにアメリカの競争力を高めるための産業政策を推進したりした。クルーグマンはこうした考え方も忌み嫌った。 クルーグマンは、自身の読み違えは貿易が労働者や経済格差に与えた影響に関するものであり、あくまでも「限定的なものだった」と言う。確かにその言い分は間違っていない。 だが冷戦終結後、貿易をめぐる議論は、自由市場vs政府による介入という、より幅広い議論の「代理戦争」となっていた。クルーグマンは「戦略的貿易論者の、経済学に対する無知の表れ」と彼の目に映ったものを大々的に攻撃した。戦略的貿易論者とは、人件費の安い途上国との競争で、アメリカの雇用と賃金は深刻な影響を受けると主張する人々だ。 ジャーナリストのウィリアム・グレイダーは著書の中で、途上国の攻勢により「アメリカが勝つ分野と負ける分野」が出てくるだろうと警告したが、クルーグマンからは「全くバカげた本」と評された。シンクタンク、ニューアメリカ財団のマイケル・リンド共同創立者が、アメリカの生産性が伸びても「世界の搾取工場である国々」にはかなわないかもしれないと指摘した際も、クルーグマンは経済の「事実」を知らない門外漢のくせに、と一蹴した。 クルーグマンに言わせれば、この手の議論はいわゆる「悪い経済学」だった。他の国の動向など気にし過ぎてはならない。あらゆる国が開かれた貿易から利益を得ることができるという新古典派経済学の概念が安定をもたらすはずだ──。自由貿易よりも市場への政府の介入に類するものや公正貿易(関税や失業保険、労働者保護の拡充と同義だ)を支持する人は、「保護主義者」の烙印を押され議論から締め出された。 確かにクルーグマンは、医療保険制度や教育の改革といった中間層に対する保護政策は大切だと常に考えてきた。また、貿易問題での見誤りを認めたからといって、いわゆるワシントン・コンセンサスを正しいと言っていたことにはならないとも述べている。ワシントン・コンセンサスとは、財政規律と急速な民営化、規制緩和を支持するネオリベラル(つまり自由貿易主義)的な考えだ。 「私たちを批判していた人全てが正しかったわけではない。肝心なのは彼らが何を言ったかだ。私の知る限り、これほど(中国などが)貿易で台頭することを予見した人も、それが一部地域に与える悪影響について注目していた人もほとんどいなかった」と、クルーグマンは言う。 だがグローバル化を善とする考え方はさらに深い問題もはらんでいた。やはりノーベル賞を受賞した経済学者のジョセフ・スティグリッツは90年代、ロドリックと同様に貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告していた。彼は「標準的な新古典派的分析」の問題点は「調整に全く無頓着だったところだ」と述べた。「労働市場の調整コストは驚異的なほど少ない」』、「クルーグマン」自身も「ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていた」、のに単純化して自由貿易推進派になったのは、確かに矛盾している。「ジョセフ・スティグリッツ」や「ロドリック」のように、「貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告」していた人々もいたことを知って、少しは安心した。
・『大統領選では左派候補を支持  スティグリッツはクリントン政権で大統領経済諮問委員会委員長を務め、国際的な資本の流れにブレーキをかけることを訴えるなどした(が実現しなかった)。つまり彼はタイソンやライシュと同じ非主流派だったのだ。また彼は「通常、雇用の破壊は新たな雇用の創出よりもずっと速く進む」と主張していた。 スティグリッツはフォーリン・ポリシー誌でこう論じている。「(グローバル化の)コストを背負うのは明らかに、特定のコミュニティー、特定の場所になるだろう。製造業が立地していたのは賃金の安い地域だった。つまりこうした地域では調整コストが大きくなりがちだった」 また、グローバル化の負の影響は一過性のものでは終わらない可能性も明らかになってきている。アメリカ政府が途上国との貿易を急速に自由化し、投資に関する合意を交わしたために「(労働組合の弱体化や労働規制の変化の影響も相まって)労働者の交渉力は劇的に変わってしまった」とスティグリッツは指摘した。 最大の負け組はやはり、アメリカの労働者だ。経済学者はかつて、好況下では労働者は自分たちの賃金を引き上げる力を持つと考えていた。だが最近の見方はちょっと違う。多国籍企業が全世界を自らの縄張りに収めて四半世紀がたち、グローバル化した資本は国内に縛られたままの労働者よりも優位に立った。 主流派の経済学者たちがこれほど急に左寄りになったことに驚いているのは当の経済学者たちだ。多くは前述の格差問題に関する会議でこのことに気付かされた。来年の米大統領選挙では、経済学者たちの支持は中道のジョー・バイデン前副大統領よりもエリザベス・ウォーレン上院議員やバーニー・サンダース上院議員などの革新派候補に流れているとの声も参加者からは聞かれた。 「私はフランスでは社会主義者なのに、ここに来たら中道だった」と、ブランシャールは冗談を飛ばした。これぞ1990年代の読み違えが残した「置き土産」かもしれない。 タイソンは言う。「みんな、いかに状況が急激に変わり得るかに気付いていなかった」 From Foreign Policy Magazine)』、「自由貿易」や「グローバル化」論議は、EUの市場統合、英国のEU離脱にも影響を与える幅広い問題で、今後の展開が1つの注目点だ。

次に、本年3月20日付け東洋経済オンラインが掲載した作家・元外務省主任分析官の佐藤 優氏による「自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/337633
・『今から20年前の2000年を超えたあたりから、アメリカ流の新自由主義的な考え方が日本に流れ込んできました。そのとき、セットで取り上げられたのが「自己責任論」です。 実はこの「自己責任論」が大手を振るう中で、それに振り回される形でさまざまなものを抱え込み、心を病んでしまう人が少なくありません。「自己責任論」が持つ矛盾と、それを振りかざす論者たちの本当の思惑を知ることで、心の病に陥るスパイラルから脱することが大切です。拙著『メンタルの強化書』をもとに解説します』、興味深そうだ。
・『一見、まともに見える自己責任論  まず「自己責任」が声高に言われ始めたのが金融業界でした。金融自由化で銀行をはじめ金融機関はさまざまな商品を扱えるようになります。そしてリテール部門、つまり個人顧客の開拓に力点が置かれるようになりました。 ここで「自己責任論」が出てくるのです。要は、顧客が購入した金融商品が元本割れをした際、その責任を誰が取るのかという問題です。当時、金融機関はバブル処理がまだ完全に終わっていないところもあり、決して安定している状況ではありませんでした。 まして護送船団方式が解除され、諸外国の金融機関も含めた競争の激化が予想されました。リテール部門での責任をいちいち追及されたらたまったものではありません。先手を打って自己責任という言葉を出してきたと思われます。 商品にリスクがあることを自分たちはしっかりと説明する責任を果たす。購入する方はその説明を聞いたうえで、自分で判断する。だから結果に対しては「自己責任」を取らなければいけないという論理でした。 一見、至極当然のようにも聞こえるところがミソなのです。しかし、言葉の意味をしっかりと吟味したら、この「自己責任論」がおかしいことがわかります。 まず、彼らの言う「自己責任」とは、英語で言うところの「own risk」です。すなわち「危険の負担」であって、責任の概念とは違うものです。own riskとは「自分で利益を求めようとして自分で決定した場合には、予期せぬ不利益(リスク)も併せて背負わなければいけない」という考え方です。 これは、株式投資などで資本を調達する資本主義の大前提であり、改めて自己責任などという、いかめしい言葉を出す必要などありません。「商品購入の際はリスクも併せて負担しましょう」ということでいいのです』、「貯蓄から投資へ」の流れも「自己責任論」が強まった背景だ。
・『「自己責任」は不自然な言葉だ  そもそも「自己責任」という言葉自体がおかしな言葉です。まず、「責任」という言葉は英語でresponsibilityと訳されますが、そのもとはラテン語のrespondereだとされます。その本来の意味は、古代ローマにおいては法廷で訴えられた人物が、自分の行為について説明したり弁明したりすることを指しているとされます。 また、近代の市民革命によって市民が自由を獲得した際、「自由」の行使には「責任」が伴うとされました。「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は表裏、セットの概念となりました。 先ほどのラテン語の意味と合わせると、「責任とは自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方です。 ですから欧米で責任(responsibility)と言った場合、他者とのコミュニケーションが前提とされます。なぜなら説明義務が生じるのは本人であることは自明ですから、改めて「自己」をつける必要がないからです。 さらに言えば、「own responsibility」という言葉もありますが、日本語の責任とはニュアンスを異にする独断という意味です。このような言葉をあえて掲げなければならない状況自体がすでに不自然であり、おかしいのです。 この不自然な言葉である「自己責任」が、やたらと使われた場面がもう1つありました。それが非正規雇用の拡大の場面です。小泉内閣のときに行われた労働法の改正で、非正規雇用の枠組みが広げられました。それによって非正規雇用が一気に増え、ワーキングプアなどの問題が噴出しました。 当時、年末の日比谷公園などに、ネットカフェで寝泊まりする非正規雇用者や路上生活者などが集まり、ボランティアの人たちから炊き出しを受けている光景がニュースになったのを覚えているでしょうか? そのときにしきりに論じられたのが「自己責任」という言葉です。彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした。 当時は、職場でもプライベートでも「自己責任でやってくれ」とか、「自己責任をきちんと果たしてください」などと、猫も杓子も「自己責任」という言葉を使っていました。 その言葉とともに使われるようになったのが「努力」という言葉でした。先ほどのワーキングプアも、結局彼らの「努力」が足りないために非正規雇用で働かざるをえなかったのだから、それは「自己責任」だという論理です。 「自己責任」はいつしか「自助努力」とパラレルで語られるようになりました。いかにも新自由主義的な発想だと考えますが、ここにこの問題のすり替えがあります』、「彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした」、日本国民としての仲間意識などは微塵も感じられない非常に冷たい見方だ。
・『労働者に責任を転嫁する人たち  そもそも「責任」という概念は「自由」という概念とはつながっていますが、「努力の有無」とはまったく関係のない概念です。「努力しなかったことの責任が問われる」としたら、それはいったいどういう社会なのでしょう?もちろん「努力しなかった結果はしっかりと受け入れなければならない」という道義的な理屈は成り立っても、そこに「責任」が生じるという理屈は、あまりにも飛躍があります。 新自由主義的な競争社会においては、まさにそのような考え方がフィットするのだと思いますが、本質をはき違えた論理だと思います。努力は本人が自主的、主体的にするものであって、第三者が努力しろと強制する権利は本来どこにもありませんし、努力しなければいけないという義務など存在しないのです。当然そこに責任など生じるものではありません。 「責任」は「自由」と表裏だとしたら、雇用者と被雇用者ではどちらの自由度が高いでしょうか?マルクスは、資本家は生産手段を持っていて、だからこそ労働者よりもはるかに有利で自由な立場に立っていると言います。自由と責任は表裏一体だとするならば、自由度の高い雇用者のほうがより責任が大きくなるということは当然の帰結です。 そう考えるならば、正規雇用と非正規雇用の二極化によって起きるさまざまな出来事に対して、本来責任を持つべきは雇用者であり、資本家の側だという結論になるはずです。 私は、非正規雇用者に向けられた「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます。むしろ「自己責任」を追及されるべきは雇用者側ではないでしょうか? 流動性が高く、いつでも辞めさせることができる安い労働力を必要としていたのは、雇用者のほうです。自分たちの都合で仕組みを変えておきながら、その責任を被雇用者に押し付けるというのは、二重の意味で厚かましい。それこそ「下品」なやり方です。 ことほどさように、世の中は下品力あふれる人たちの厚かましい論理が、あたかも正論のようにマスメディアに乗って流布されるのです。この転倒した世の中で、下品になりきれない多くの人たちが、心を折り、心を病んでしまっています。 ですが、世の中の構造やカラクリを解きほぐし、その欺瞞や嘘を知ることで、少しは心が軽くなるのではないでしょうか?少なくとも自己責任論のようなめちゃくちゃなロジックに振り回される必要などないということが、わかっていただけると思います』、「「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます」、同感だ。
・『神の前で反省し、悔い改めればいい  ちなみに、先ほどの「責任」という考えは、キリスト教ではまったく違った捉え方をします。キリスト教では人間は堕落した存在であり、到底自由を与えられるべき存在ではありません。 「自由」がもともと与えられていないのですから、「責任」など人間には最初からないということになります。逆に、自分のしたことに対して「責任」を取ろう、あるいは取れると考えること自体が、愚かで不完全な人間の傲慢なのです。 人間は不完全で愚かであるから、必ずどこかで失敗し、罪を犯します。その時に神に向かってrespons、すなわち弁明することは許されています。そして神の前で反省し、悔い改めることだけが求められているのです。 では、人間の罪の責任はだれが負うのでしょう?それは人間を作り出した神が自ら負うのです。神の子イエスがゴルゴタの丘で自らの命を捧げたのは、まさに愚かな人間の罪を贖うためでした。 そんな視点から改めて世の中を見ると、巷間言われている「自己責任論」など、なんともちっぽけでつまらないものに思えてこないでしょうか?詳しくは拙著『メンタルの強化書』に書きましたが、愚かな人間は互いに手を取り合うことなく、取ることもできない責任を勝手に作り出し、それによって同胞をおとしめ、自分だけが這い上がろうと足掻いているのです。なんとも哀れで滑稽な姿に見えてきます。 現代社会の価値観にどっぷりつかっていると、えてしてその価値だけが唯一のように錯覚してしまいます。しかし、視野を広げ、時間と空間を広げてみれば、考え方や価値観、生き方の解は決して1つではないことに気がつくでしょう』、『メンタルの強化書』が、「新自由主義」的な「自己責任論」に苦しめられている人々に救いになることは確かなようだ。

第三に、4月17日付けダイヤモンド・オンライン「岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」、シンプルで難解な問い」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/234917
・『日本を代表する経済学者が30年以上にわたって挑み続けてきた全記録  「貨幣とは何か?」「その価値の根拠はどこにあるのか?」 これは誰でも一度は考えてみたことがあり、古代ギリシアの哲人アリストテレス以来、多くの哲学者や経済学者によって考察がなされてきた、シンプルでありながら実は極めて難解な問いである。マルクスの言葉を借りれば、貨幣とは「形而上学的な不思議さに満ち満ちた存在」なのである。 本書『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』は、日本を代表する経済学者で、稀代の教養人である岩井克人が、アリストテレスからアダム・スミス、カント、モンテスキュー、ゲーテ、シュンペーター、ケインズ、ハイエク、フリードマンに至るまで検証し、30年以上にわたってこの問題に挑み続けてきた全記録である。 岩井は、正統派の近代経済学からスタートして、東京大学、イエール大学、プリンストン大学などの超一流大学で教鞭をとる傍ら、『ヴェニスの商人の資本論』『貨幣論』『二十一世紀の資本主義論』『会社はこれからどうなるのか』『経済学の宇宙』といった著書を通じて、貨幣や会社など様々な社会問題について思想的考察を行なってきた。 岩井が貨幣の本質に迫った『貨幣論』を書いたのは1993年だが、貨幣の研究を本格的に始めたのは1980年代の初め頃である。それ以来、岩井の貨幣論の基本は全く変わっていない。それどころか、グローバル化の進展によって地球全体がひとつの資本主義社会になり、より純化したことで、現実の方が『貨幣論』で描いていた理論的な世界にどんどん近づいてきている。 貨幣がおカネとしての価値を持つ根拠として、「貨幣商品説」と呼ばれるものがある。金銀がおカネとして使われるのは、それが多くの人が手に入れたがる価値の高い商品だからという説明である。しかしながら、これは、「あるモノがおカネとして流通しているときには、おカネとしての価値はモノとしての価値を必ず上回っている」という事実に反している。 これに対して、国家や君主や共同体などにその根拠を見いだそうとするのが、「貨幣法制説」である。法律や命令などで貨幣として定めたからおカネは流通するのだという説明であり、今日では、この貨幣法制説が経済学者の間での通説になっている。今話題の「現代貨幣理論(MMT)」は、正にこの貨幣法制説に依拠しているのだが、岩井に言わせれば、この説もやはり不十分である。 1741年にオーストリアで発行されたマリア・テレジア銀貨はヨーロッパ全土で流通し、更には時代を超えて、中東や東アフリカで使われ続けた。ハプスブルク家が支配した帝国は1918年に滅んだにも関わらず、エチオピアのカファ地方では、1970年代までコーヒー取引のための貨幣として流通していた。これは、貨幣が貨幣として流通するためには、法律や命令は必ずしも必要がないということを示している』、確かに「マリア・テレジア銀貨」が、今に至るまで「中東や東アフリカで使われ続けた」、というのは、「貨幣法制説」の「不十分」さを示している。
・『貨幣と商品とはどこが違うのか  岩井に言わせれば、我々がおカネを受け取るのは、「ほかの人」がその価値があるおカネとして次に受け取ってくれると信じているからである。つまり、貨幣の価値というのは、商品と同様に社会が与えているのである。 それでは、貨幣と商品とはどこが違うのか。おカネには、人間のモノに対する欲望のような実体的な根拠は存在しない。誰もが貨幣として受け取るから貨幣なのであり、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」という自己循環論法になっているのである。 貨幣商品説だけでなく貨幣法制説をも明確に否定して、人類がこの自己循環論法にまでたどり着くには、 17世紀末にスコットランドで生まれ、フランスの中央銀行総裁と財務大臣にまで登り詰め、世界三大バブルのひとつ「ミシシッピバブル」を招いた、ジョン・ローというトリックスターの登場を待たなければならなかった。 ジョン・ローは、『貨幣と商業』という著作の中で、のちに「ローのシステム」と呼ばれることになる、中央銀行による「銀行貨幣制度」を提案し、そこで貨幣の自己循環論法を提示している。現代の金融システムは、この「ローのシステム」そのものであり、経済の効率性を大いに高めると同時に、経済の不安定性をも大いに高めるという、「効率性と安定性の二律背反」を背負ったものなのである。 「自分がモノとして使うためではなく、将来、ほかの人に売るために何かを買うこと」というのが投機の定義である。その意味で、おカネを使うこと、即ち、それ自体何の使い道もないおカネをおカネとして流通させるという行為こそが、実は最も純粋な投機だと言える。 我々が生きているのはおカネに全面的に依拠した社会であり、そのおカネを使うことが純粋な投機なのだとすれば、資本主義社会は本質的に不安定性を抱え込んでいることになる。なぜなら、投機は必ずバブルを生み出し、膨れ上がったバブルは必ず崩壊し、それは必ず混乱とパニックを招くからである。 ▽法だけではなく、おカネの下でも人間は平等(マルクスは『資本論』の中で、「貨幣はレヴェラーズだ」と言っている。「レヴェラーズ」とは「平等派」という意味で、17世紀半ばのピューリタン革命の時に、法の下での平等を唱えた急進的な政治グループのことを指す。マルクスが言おうとしたのは、人間は貨幣を持つことにより匿名性を獲得する、つまり、法だけではなく、おカネの下でも人間は平等だということである。 貨幣は、互酬的交換によってお互いが緊密に結びつけられた共同体的な束縛から個人を自由にし、一人一人が独立した市民として投票する民主制の発展を促した。つまり、おカネの下の平等が、法の下の平等を生み出したのである。 このように、貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる。そして、その行き着く先は、ポピュリズムや全体主義という悪夢である。このように、貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的であり、自由を守るためには自由放任主義と決別しなければならないのである。 アリストテレスは、今から2300年以上も前にこの貨幣の不思議に気づき、『政治学』の中で次のような言葉を残している。 「貨幣による財獲得術から生まれる富は際限がない。なぜならば、その目的を可能な限り最大化しようと欲するからだ。生きる欲望に果てはないのだから、彼らは満たしうる際限のない財を欲することになる。貨幣は元々交換のための手段。しかし、次第にそれを貯めること自体が目的化する。」 あらゆるモノを手に入れる「手段」である貨幣が、具体的なモノと切り離されて、それ自体がひとつの「目的」に転化した。終極点が新たな出発点になり、新たな終極点が更に新たな出発点となっていくこのプロセスに終わりはない。ここで、より多くの貨幣を絶えず求め続ける「貨幣の無限の増殖活動」としての資本主義が始まることになる。アリストテレスが嘆いたように、人々は「善く生きることではなく、ただ生きることに熱中する」ようになるのである』、「貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる」、「貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的」、その通りなのだろう。。
・『「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成  『欲望の資本主義』シリーズに登場する哲学者マルクス・ガブリエルは、今日の資本主義を、「商品生産に伴う活動全体」と再定義している。そして、資本主義は「商品の生産」そのものになり、これ自体が見せるためのショーになっているという。ただ差異を生み続けるためだけの果てしない資本の運動、つまり、絶対的な価値を見出すことよりも相対的な価格競争が勝ってしまい、差異を生むこと自体が自己目的化していく世界である。 そして今や、「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成つつある。繰り返される金融危機、拡大する所得格差、そして急速に進む地球温暖化といった形で、資本主義に本来的に内在している不安定性や不平等性や不可逆性が一気に顕在化してきている。 こうした際限のない貨幣への欲望に対抗し、社会の不安定性を抑えるために、岩井は、アメリカ独立やフランス革命などの動乱期のヨーロッパにあって、大陸合理論とイギリス経験論を調停したと言われる哲学者カントの倫理学に着目する。即ち、「他のすべての人間が同時に採用することを自分も願う行動原理によって行動せよ」と命ずる、カントの道徳律である。 ここでもう一度繰り返すと、貨幣は人間を自由にする。自由とは、自分自身の領域を持っていて、自分で自分の目的を決定できることである。そして、これが「人間の尊厳」なのである。しかし、自由と安定は両立せず、常に二律背反的である。 岩井に言わせれば、資本主義というのは人類の歴史の中から生み出された普遍的な存在である。その中で人間の尊厳を守り続けるためには、同情、共感、連帯、愛情といった個々の感性に依拠するのではない、より普遍的な原理を持ってくる必要がある。それが、他者を邪魔しない最低限の義務としての「規範」なのである。そして、人はその規範を守る限りにおいて、誰からも侵されることのない領域である「人間としての尊厳」を保てるのである』、「哲学者カントの倫理学」は「大陸合理論とイギリス経験論を調停した」、初めて知った。なかなか巧みな「調停」のようだ。
・『世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる  岩井は『貨幣論』の中で、資本主義における最悪の状況である「恐慌」(おカネのバブル)と「ハイパーインフレーション」(おカネのパニック)に関して、次のように語っている。 「人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである。」 こうした不安定さの中においても、岩井は資本主義そのものを否定することはしない。岩井が思い描く「規範」に基づく資本主義の新しい姿というのは、「倫理」という言葉で表されるものである。それは、2018年の京都大学経済研究所でのシンポジウムをベースにした近著『資本主義と倫理:分断をこえて』の中で垣間見ることができるが、その全貌を一刻も早く我々に見せてもらいたい。 新型コロナウィルスがグローバル経済を一気に破壊していく様を見ながら、皆、改めて世界が一体となったグローバル資本主義社会に生きていることを実感していると思う。世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる正にこの瞬間にこそお勧めしたい一冊である』、「資本主義における最悪の状況である「恐慌」(おカネのバブル)と「ハイパーインフレーション」(おカネのパニック)に関して、次のように語っている。 「人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである」、この「対応関係」を詳しく知るには、『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』を読むしかなさそうだ。
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