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人権(その3)(実は世界中で行われていた「強制不妊」〜弱者に優しい福祉国家でも…、《東大特任准教授ヘイト炎上》「30代アカデミック男性はなぜイキるのか」、「偏見や差別」はなぜ生まれる 社会心理学の観点から読み解く、小田嶋氏:「日本人感」って何なんだろう) [社会]

人権については、昨年3月20日に取上げた。久しぶりの今日は、(その3)(実は世界中で行われていた「強制不妊」〜弱者に優しい福祉国家でも…、《東大特任准教授ヘイト炎上》「30代アカデミック男性はなぜイキるのか」、「偏見や差別」はなぜ生まれる 社会心理学の観点から読み解く、小田嶋氏:「日本人感」って何なんだろう)である。

先ずは、昨年5月6日付け現代ビジネスが掲載した立命館大学教授の美馬 達哉氏による「実は世界中で行われていた「強制不妊」〜弱者に優しい福祉国家でも…不妊が忌避される時代をどう考えるか」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64409
・『強制不妊の「救済法」成立  2019年4月24日、旧「優生保護法(1948〜96)」の下での障害者らに対して行われた強制的な不妊(男女の生殖の能力を奪うための外科手術や放射線照射)に対する「おわび」と一時金320万円の支給を行うと定めた救済法が可決成立した。 強制不妊は法的には「優生手術」と呼ばれていたもので、その目的は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護すること」と書かれている。 これは20世紀初頭に、「日本民族」の遺伝的な質を改善するためには、遺伝病と決めつけられた精神・身体・知的障害者に子孫を残させないようにすることが必要だとする「優生学」の考え方から生まれたものだ1。 この意味での優生学は現在では科学として否定されている。 マスメディアでも、本人の意志を無視し、時には麻酔を使ったり(盲腸の手術と)騙したりしてまで強制的に生殖能力を奪った日本政府の過去の行為は許されない、という論調一色だ。 だが、ここで振り返ってみる必要があるのは、なぜそんな常識的に考えて非道なことが1996年まで(実際の手術は1992年まで)合法的に行われ続けてきたのか?という点だ。 強制不妊に関わった行政職員も医師もわざわざ障害者を苦しめようと思っていたり、不妊手術で喜びを得るサディストだったりしたわけではない。 むしろ、法律に従った福祉の業務の一つとしてこなしていたはずだ。 じっさい、1970年代までは「人権意識」の高いはずの欧米先進諸国でも、障害者に対して強制不妊や事実上の強制的な不妊が行われていた。 つまり、障害者に対する強制不妊を国が責任を持って行うことは、20世紀のかなりの期間、ある種のグローバル・スタンダードだったのだ。 1 そもそも障害の多くは単一の遺伝子だけで定まっているものではない。また、仮に遺伝子と関連した障害であった場合でも、そうした遺伝子の突然変異は自然に生じることがあり、その遺伝子があっても発症していない人もいる(劣性(潜性)遺伝の場合)ため、障害者の生殖能力を不能にすることは、その障害の根絶にはつながらない』、「一時金320万円の支給」とは「強制不妊」への補償としては少ない気もするが一歩前進ではある。
・『「国民優生法」の時代  「優生保護法」の前身は戦時中の「国民優生法(1940年)」だった。 この法律は、優生学の立場から障害者に対する強制不妊や妊娠した場合の中絶を政策として推し進めるために、厚生省(当時)によって1937年から提案されていた。 だが、戦時中には「産めよ、殖やせよ」と出産が奨励されていたため、いかなる理由であれ不妊手術や中絶手術を法的に認めること自体に強い批判が議会で浴びせられ、最終的には中絶の規制が中心の法律となったという。 そのため、「国民優生法」での強制不妊は実際には500件程度だった。 強制不妊が積極的に行われたのは、民主化されたはずの戦後1948年にできた「優生保護法」以降である(確認されるだけでも16000件程度と言われる)。 戦後は、植民地の喪失による多数の引き揚げ者の存在や兵士の復員によるベビーブームなどのため、過剰人口が問題視されており、人口政策の中で強制不妊や中絶は受け入れられやすかったのだろう。 そして、優生学は非科学的でしかも障害者差別だとの批判が1970年代から存在したにもかかわらず、1996年まで「優生保護法」は漫然と存在していた』、「1996年まで「優生保護法」は漫然と存在」、とはいかにも日本の厚労省らしい不作為の罪だ。
・『世界の強制不妊  日本の優生政策の直接のモデルはナチスドイツの「遺伝病子孫予防法(1933年)」だったとされる。 ただし、こうした立法は第二次世界大戦での枢軸側のファシズム国家だけに特有なものではなかった。 同じ20世紀前半に、障害者に対する強制不妊の法律は、米国、カナダ、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドなどで成立していた。 優生学的な立法の最初は米国インディアナ州の「不妊法(1907年)」であり、1920年代には米国の多くの州で障害者に対する強制不妊が立法化されていた。 そして、強制不妊にもっとも野心的だったのは、最初の不妊法を1909年に制定したカリフォルニア州で、ナチスドイツの「遺伝病子孫予防法」のモデルともなった。 米国の最高裁判所が、1927年に州法に基づいた強制不妊を合憲とみとめた有名な判決(バック対ベル判決)では、次のように述べられている(S・トロンブレイ、藤田真利子訳『優生思想の歴史』明石書店、139頁)。 欠陥を持った子孫が罪を犯しそれを処刑したり、自らの痴愚のために餓死するのを手をこまねいて待つよりも、明らかに不適な人間が同類を増やすのを社会は防ぐことができる。強制ワクチン接種と同じ原則が、卵管切除の場合にもあてはまる。 いま読み直すとひどく差別的で驚くが、当時はこれが社会改良のための進歩的で人間的な手法(しかも低コスト)だったのだ。 しかも、こうした優生学はイデオロギーとはあまり関係なく、第二次世界大戦で連合国の中心となった米国と枢軸国の中心となったドイツの両方が推し進めている。 優生学は(当時の)「科学」に基づいた政策として、どちらかというとリベラルないし左翼側に支持されていた。 とくに注目すべきは社会民主主義だった北欧諸国(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)でも、先進的な福祉政策とセットで1970年代まで障害者に対する強制不妊が積極的に行われていたことだ。 ちなみに、ナチスドイツは敗戦までに40万件以上の強制不妊を行っていたとされ、戦後の旧西ドイツ政府は被害者に補償を行っている(1980年に一時金、1987年からは年金)』、「強制不妊にもっとも野心的だったのは、最初の不妊法を1909年に制定したカリフォルニア州で、ナチスドイツの「遺伝病子孫予防法」のモデルともなった」、「優生学は(当時の)「科学」に基づいた政策として、どちらかというとリベラルないし左翼側に支持されていた」、「社会民主主義だった北欧諸国(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)でも、先進的な福祉政策とセットで1970年代まで障害者に対する強制不妊が積極的に行われていた」などの事実は初めて知った。
・『スウェーデンでのスキャンダル  強制不妊の被害者への補償の問題が国際的に大きく取り上げられたのは1997年、福祉先進国として知られるスウェーデンで、1935〜1975年に行われていた強制不妊(およそ6万人)を告発する記事が新聞報道されたことをきっかけとしている。 このとき、とくに問題となったのは、強制不妊の「強制」の中身だ。 つまり、法律として強制になっているかどうかではなく、本人の同意がある場合でも実質的に強制だったかどうかが問われたのだ。 具体的にいえば、次のような脅しが政府職員から障害者に対して行われていたという。 貧困者やマイノリティに対して、不妊手術に同意する申請書を書かないなら、手当や住居を取り上げる、と脅す。 シングルマザー女性に対して、申請書を書かなければ親権を取り上げて子どもと引き離す、と脅す。 中絶希望する女性に対して、申請書を書かなければ中絶を許さない、と脅す。 障害者や子どもという弱者に「優しい」はずの福祉国家が、「親となる資格がない」と判断された人びとに対して、事実上の不妊を強制していたことがスキャンダルとなったのだ。 強制不妊に対するスウェーデンの国としての対応は素早く、1999年には補償と謝罪を行っている』、「スウェーデン」では「脅しが政府職員から障害者に対して行われていた」のであれば、確かに「実質的に強制だった」。
・『リプロダクティブ・ヘルス/ライツ  日本での「優生保護法」改正には外圧の影響が大きかった。 1994年にカイロで行われた国際人口・開発会議で、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(すべてのカップルと個人が性と生殖に関して自ら決定する権利を持つという考え方)が打ち出された頃から、「優生保護法」の時代錯誤に対する批判は国際的に高まったからだ。 その結果、1996年には「不良な子孫の出生防止」という優生学的な条項を削除した「母性保護法」に改訂された。 だが、その際には「当時は合法的な措置だった」との理由から強制不妊の被害者への補償や謝罪は議論されず、その後、補償や法的救済を求める国連人権委員会からの勧告(1998年)があっても日本政府は動かなかった。 事態が動いたのは2018年、宮城県の60代女性が国家賠償訴訟を起こしてからだ。 さまざまな問題を積み残してはいるが、それなりのスピード感で2019年には「救済法」が成立したのが現状である。 「強制不妊16000件」という数字の記録ではなく、一人の人間が苦しみの経験を語る生々しい記憶こそが、人びとの共感を呼び、社会を動かしたのだ』、「国連人権委員会からの勧告(1998年)があっても日本政府は動かなかった」が、「事態が動いたのは2018年、宮城県の60代女性が国家賠償訴訟を起こしてから」、厚労省はやはり尻に火がつくまでは動かないようだ。
・『不妊が忌避される時代  だが、社会学者の習性かもしれないが、私は、2010年代の日本で強制不妊を悪と見なす風潮が高まったところに若干の気持ち悪さを感じている。 もちろん、優生学による強制不妊に対して弁護すべき点は皆無だ。 だが、強制不妊がネガティブに見られる時代とは、(不妊を含めて)子どもを産まないことがネガティブに見られる時代と一致するように思えるのだ。 子どものない夫婦が白眼視された戦時中、優生学的な強制不妊や中絶は(戦後に比べて)あまり行われていなかったことはすでに指摘した。 2010年代の日本では、国民全体での「産めよ、殖やせよ」は否定されているが、個々人のレベルで、不妊はカップルや個人の努力で克服すべき病気としてネガティブにとらえられている。 じっさい、不妊症の治療として体外受精で生まれた子どもは18人に1人となり、(主に女性が)妊娠に向けて体調管理に気をつける「妊活」という言葉も市民権を得ている。 生殖技術=生殖補助医療の存在によって自分と遺伝的につながった子どもを持ちたいという欲望が増強され、妊活や不妊治療への努力が奨励される時代だからこそ、不妊を強制された被害者に共感が集まっているのではないだろうか。 さらに、障害者に対する強制不妊が否定されると同時に、出生前診断が一般的になり、体外受精では障害児が生まれないように細心の注意が払われている時代が現代であることを思うと、なんとも複雑な気分になってしまうのだ』、「社会学者」らしい鋭い指摘だ。

次に、12月7日付け文春オンラインが掲載した文筆家の古谷 経衡氏による「《東大特任准教授ヘイト炎上》「30代アカデミック男性はなぜイキるのか」」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/17518
・『〈弊社 Daisy では中国人は採用しません〉〈中国人のパフォーマンス低いので営利企業じゃ使えないっすね〉 AI開発などを行う「Daisy」代表で、東京大学大学院情報学環・学際情報学府の特任准教授・大澤昇平氏(31)が自身のTwitterに投稿した内容に、人種差別だという批判が殺到している。24日には東大も「書き込みは大変遺憾」とする見解を発表、28日には対応措置を検討する調査委員会を設置する騒動になっている。 なぜ若手研究者として活躍している彼はこのような投稿をしたのか。そこから見えてくるものは何か。テレビ・ラジオなど多方面で活躍する文筆家で、『「意識高い系」の研究』(文春新書)の著者、古谷経衡氏(37)が紐解いた。 東京大学“特任”准教授・大澤昇平の「中国人は採用しない」等のツイッター発言が、「最高学府」東京大学の公式謝罪に至り、大澤の寄付講座のスポンサーが全社降板を発表するなど、事態は拡大の様相を見せている。 私が所謂「大澤騒動」を俯瞰してみるに、大澤の一連のヘイト発言は典型的なネット右翼そのものである。大澤が30代前半であることを考えると、もはやアラフィフがその主力を占めるネット右翼の中では、かなり若手であるという第一印象を持った。 今どきの30代前半で、ここまで露骨なヘイト発言を実名と役職を公開して開陳する人物というのも珍しい。ネット右翼界隈での左翼の通称である「パヨク」という言葉を躊躇なく使用するところをみると、“ネット右翼偏差値”は50くらい。つまりどこにでもいる平均的なネット右翼像そのものなのだ。 ただし、大澤が凡庸なネット右翼と決定的に違うのは、ナルシシズムに満ちた選民意識が見え隠れするところである。自らを「上級国民」と呼称し、自分を批判する者を「下級国民のパヨク」と呼ぶ。このような大澤のナルシシズム・選民意識的差別思想はどこから生まれたのか』、「東京大学“特任”准教授・大澤昇平」が「どこにでもいる平均的なネット右翼像そのもの」だが、「ナルシシズムに満ちた選民意識が見え隠れする」、とはさすが「ネット右翼」に詳しい「古谷氏」ならではの鋭い指摘だ。
・『〈異例の飛び級昇進を実現、31歳にして准教授となった〉  手掛かりになるのは、大澤の唯一の著作、2019年9月に刊行したばかりの『AI救国論』(新潮新書)である。 本書は、福島高専(高等専門学校)から筑波大学に編入した大澤の「自分自慢」のナルシシズムで全編の約1/3が占められている。さらに大澤は、自身が「最年少の東京大学准教授」であることを何度も書き、なぜに自分がこのような名誉ある地位を手に入れたか、についての自慢が続く。 〈簡単に自己紹介をしよう。私は東京大学の准教授。(略)その後、学内での熾烈な出世争いを勝ち抜き、大学としては異例の飛び級昇進を実現、31歳にして准教授となった〉(11頁) 〈たとえば、優秀な若手を評価する言葉に「若いのに優秀」という文言がある(私もこれまで何度も言われてきた)〉(19頁) 大澤は本文中で、おそらく意図的に「特任准教授」という自らの正式な役職を「准教授」と置き換えて使用している(ただし批判を恐れてか、ごく一部「特任准教授」という正式名称が登場する)。「東京大学准教授」と「東京大学特任准教授」では、ソ連軍のT-34とイタリア軍の豆戦車ぐらい意味合いが違うが、大澤はおそらく意図的に自分が「東大准教授」であることを繰り返して、権威付けに利用している。 本書には分かりにくい文章が多く、支離滅裂さは際立っている。後半に登場する一文を引用しよう。 〈原理的に、自律分散型システムは、単一障害点を持たないため安定的に長期運用され寿命が長い点と、自由競争がプレイヤーの進化を促進するという点から、持続的にイノベーションを産むことを可能にしている〉(54頁) この一文を読んでこれが何を意味するのか分かる人は、行間を読む能力が高すぎるか、妄想家のどちらかだ。私はこれに似た言葉遣いをする人間を咄嗟に思い出した。東京都の小池百合子知事である。 ダイバーシティ、アウフヘーベン、ワイズ・スペンディング……。小池は、横文字を多用することによって、中身のない話をさも何か権威的な話をしている様にみせる。いわば「意識高い系」の典型だ。私の考える「意識高い系」を構成する要素は、「実際には何も中身がないが、必要以上に自己を過大に評価して他人に喧伝する」こと。このように大澤は、「意識高い系」と「ネット右翼」が合体した存在である。 私の知る範囲では、この2つの特性を併せ持つ人は少ない。いわば異形の存在である。なぜなら「意識高い系」は、漠然と多幸的で抽象的な横文字や世界観を好むので、具体的な国名や民族を指して憎悪感情を露わにする「ネット右翼」とは正反対の考え方を持つのが一般的だからだ』、「「東京大学准教授」と「東京大学特任准教授」では、ソ連軍のT-34とイタリア軍の豆戦車ぐらい意味合いが違う」、面白い比喩だ。「「意識高い系」と「ネット右翼」が合体した存在」とは確かに「異形の存在」だ。大澤氏は東大で博士号を取ったようだ。なお、東大は本年1月15日付けでヘイトスピーチ投稿で懲戒免職処分とした(Wikipedia)。
・『さらに大澤は、強烈な市場原理主義を信奉している。それはどういうことか。次の一文が象徴的だろう。 〈今生き残っている生物は生存競争というゲームを勝ち抜いた生物であり、脳の仕組みは生存競争を戦い抜くのに適した構造をしているということ、こうしたルールは、市場と企業との関係でも同様であるということである。(略)自然というのは弱肉強食なので、勝った生物だけが生き残るようにできている。生き残れるかどうかは、環境の変化にいかに合理的に適応できるかに大きく依存する〉(12頁) これが冒頭の、大澤による「中国人は採用しない=市場の中で非効率な労働者は差別されて当然」という発想の根幹にあると私は踏んだ。ただ、この「生存競争」という考え方は巷にあふれる「ダーウィンの進化論」の誤った解釈そのままだ。 ダーウィンが言ったのは、生物の競争による淘汰ではなく適者生存による「棲み分け」であった。そして、このダーウィンの進化論を同じように誤解釈し、人間社会にあてはめた「社会ダーウィニズム」(社会的な競争の結果の脱落の肯定)を政策として実行したのはナチスのユダヤ人迫害政策である。 断っておくが私は、大澤をナチスと同列だと言っているわけではない。ただ、大澤の本を読むと、この「社会ダーウィニズム」的な世界観を日本社会に広げるべきだと説得されているようにすら読めるのだ』、大澤氏はどうも一知半解なまま割り切って考えるくせのようだ。
・『〈歴史は雑学だと思って切り捨てたんだわ〉  大澤がこのような極端な考え方に至ったのは、人文科学分野での基礎的知識の欠如にあるように思えてならない。たとえば、次のような部分だ。 〈かつてドイツやロシアが社会主義国だった頃〉(55頁)〈日本も敗戦後に資本主義に移行し、高度成長期を迎えている〉(55頁) ドイツが社会主義国であったことは歴史上ない。東ドイツのことを言っているのかと思ったが、どうも大澤は文脈からするに、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の字面だけをみてナチスドイツが社会主義国家だったと思っているようだ。草葉の陰でムッソリーニが泣いているぞ。 当然、日本が敗戦後資本主義に移行した、という事実も存在しない。日本の資本主義がどこから開始されたかは、近世中期とも殖産時代とも見解が分かれるが、少なくとも敗戦後ではない。渋沢栄一もビックリの嘘が堂々と書かれている。本書の校閲には、もうちょっとしっかりして欲しい。 実際に彼のTwitterでは、基礎教養を軽視した発言が目に付く。 〈歴史は雑学だと思って切り捨てたんだわ。ごめんな。〉〈そんな雑学学んでどうすんの?アタック25でも出るの?〉(ともに11月23日)』、「歴史は雑学だと思って切り捨てた」にも拘らず、誤った歴史観で発言するとは、信じ難い。. 
・『差別ツイートは〈AIが適応し過ぎた結果である「過学習」〉  30代のアカデミック(本当にアカデミックかどうかは兎も角)な世界には、大澤のように“イキる”(意気がる)男性がしばしば現れる。「特任准教授」という肩書を振り回して、「目立ちたい、チヤホヤされたい」と公言して、テレビやネット空間で中身の無い無教養なナルシシズムを全開にしている者も散見される。彼らは、往々にして、やはり大澤と同じように炎上していく。 格好の悪さや洗練されていない部分を排除する彼らは、自らの都合の悪い部分から目を背け、そして、努力せずにして承認欲求を満たそうとする。無教養・反知性主義を肯定し、己の「無知」を平然と開き直る。だが、いかに相対的に他者に優越しているかを自分からことさらに喧伝する人間の心理とは、強烈なコンプレックスを苗床とした一種の心理的防御反応の結果に他ならない。それはえてして、読者や視聴者に見透かされる。大澤の世界観の根底にも、何かしらの埋めがたいコンプレックスがあったのだろう。 大澤は12月1日、自身のTwitterに英語で「Apology」(謝罪)と題した投稿を行った。そこには、今回の言動を陳謝するとともに、次のように今回の発言の背景を説明している。 〈一連のツイートの中で当職が言及した、特定国籍の人々の能力に関する当社の判断は、限られたデータにAIが適応し過ぎた結果である「過学習」によるものです。〉 都合の悪いことが起こると、「AIの過学習」とAIのせいにする。あれ、AIは救国の道程ではなかったのだろうか? 支離滅裂な謝罪の雑文に、見るべきところは何も無い。(文中敬称略)』、「無教養・反知性主義を肯定し、己の「無知」を平然と開き直る」、「都合の悪いことが起こると、「AIの過学習」とAIのせいにする」、こんなトンデモ人物を一時的にせよ「特任准教授」としていた東大にも大きな責任がありそうだ。

第三に、本年5月8日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した東洋大学社会学部教授の北村英哉氏による「「偏見や差別」はなぜ生まれる、社会心理学の観点から読み解く」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/236219
・『社会的カテゴリー(性別、人種、年齢、出身地、職業など)によって、生じてしまう「偏見・差別」。してはいけないことだとわかっていながらも、なかなかなくならないのも事実だ。なぜ偏見や差別が生じてしまうのか、どうすればなくすことができるのか。東洋大学社会学部教授で、編著『偏見や差別はなぜ起こる?』(ちとせプレス)がある北村英哉氏に詳しい話を聞いた』、興味深そうだ。
・『社会集団から生まれる偏見や差別  偏見や差別をゼロにするのは難しいが、社会全体で取り組めば減らすことはできるはず 人間が営む生活において、あらゆる状況や場面で偏見や差別が生まれているといっても過言ではない。 たとえば、心の中で偏見だとは思いながらも、「女性のほうが家事や育児に向いている」「男性のほうがリーダーシップがある」といった固定観念(ステレオタイプ)を持つ人は案外多いのではないだろうか。 『偏見や差別はなぜ起こる?』(ちとせプレス)によると、社会心理学ではステレオタイプ、偏見、差別は、それぞれに定義があるという。 まずステレオタイプとは「ある集団に属する人々に対して、特定の性格や資質をみんなが持っているように見えたり、信じたりする認知的な傾向」、偏見は「そのステレオタイプに好感、憧憬、嫌悪、軽蔑といった感情を伴ったもの」。そして差別は「ステレオタイプや偏見を根拠に接近・回避などの行動として現れたもの」としている。 また、一般に社会心理学では、一個人の先入観ではなく、なんらかの社会集団、社会的カテゴリーから生じる偏見や差別を対象にしている。偏見や差別については、これらの区別を前提にして考えなければならないのだ』、なるほど。
・『敵を見下すことで自己肯定感を高めるのが本  それでは、なぜ人間社会において、偏見や差別が起きてしまうのだろうか。北村氏はこう説明する。 「簡潔に言うと、『人には自分が有利になりたい、偉くなりたい』という心理があるからです。心理学用語では『自尊心』、今のはやり言葉だと『自己肯定感』とも言い換えられます。たとえば、自己肯定感が低い人が、違うタイプの人をけなして、自分のほうが上だと思うことで、相対的に自己肯定感を補うのが一般的なケースといえます」 社会心理学では、人は味方と敵を分ける心理が働き、自分にとって大切な味方を「内集団」、それ以外の敵を「外集団」と区別するのが基本的な考え方とされる。 外国人差別はこの典型的なパターン。特にヘイトスピーチの対象となりがちな在日韓国人や中国人は、日本人にとって身近な存在だからこそ敵だと判別されやすく、偏見や差別が頻発するのだ。 偏見や差別にさらされる対象は、LGBTや障害者などのようにマイノリティー側であることが多い。日本のマイノリティー差別の問題について、北村氏は以下のように指摘する。 「日本は諸外国と比べても、自分たちが社会の中で『普通』の存在だと考えることで安心感を得る人が多い傾向があります。障害者問題、性的マイノリティー問題、民族差別の問題においても、偏見や差別を持つ側がマジョリティーであることに安堵感を抱き、日々の生活を送っています」 民主主義国の日本では、原理的にあらゆる意見が多数決によって決められることが多く、少数者の意見が黙殺されやすいのも確かだ。 とはいえ、それでは少数派が常に負け続けることになり、人権的な価値が侵害され、不公正な社会になります。そのような社会にしないためにも、マイノリティーへの配慮が必須なのです」』、「原理的にあらゆる意見が多数決によって決められることが多く、少数者の意見が黙殺されやすいのも確かだ。 とはいえ、それでは少数派が常に負け続けることになり、人権的な価値が侵害され、不公正な社会になります。そのような社会にしないためにも、マイノリティーへの配慮が必須なのです」、その通りだろう。
・『マイノリティーへの理解が必要不可欠  偏見や差別が生じてしまうのは仕方のないことであり、決してゼロになることはないと考える人のほうが多数派かもしれない。しかし、北村氏は社会全体で真剣に取り組めば、それほど難しいことではないと語る。 「現実問題として、偏見や差別をゼロにすることは難しいかもしれませんが、少なくとも努力次第で極力減らすことはできるはずです。そのためには、マイノリティーの人への理解を深めることが重要。たとえば、義務教育の段階で、障害者施設を訪問するなど、障害者と触れることで知ることが何よりも大切です。ただ、接触仮説といって、理解が深まることでますます嫌悪感を抱くケースも少なくありませんが、そこは教師の力量によって感情を変えることもできなくはないと思っています」 個人的な感情はどうしようもできないと考える人も多いかもしれない。ただ、それを仕方がないことだと社会が認めてはいけない。感情を法律で罰することはできないが、モラルが低いとはいえるだろう。 日本社会も徐々に偏見や差別がいけないことだという認識が深まりつつあるようにも思えるが、現実ではまだまだマイノリティーへの理解は足りていない。差別根絶のためには、まず知識を得ることが最初の一歩のようである』、正論ではあるが、一般論過ぎて、残念ながら実践的な処方箋とは程遠いようだ。

第四に、6月19日付け日経ビジネスオンラインが掲載したコラムニストの小田嶋 隆氏による「「日本人感」って何なんだろう」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00075/?P=1
・『Netflixの『13th -憲法修正第13条-』というドキュメンタリーを見た。 現在、この映画は、Netflixの契約者以外にもYou Tube経由で無料公開されている。 お時間のある向きは、ぜひリンク先をクリックの上、視聴してみてほしい。 世界中の様々な場所に、BLM(Black Lives Matter)のスローガンを掲げたデモが波及している中で、Netflixが、2016年に制作・公開されたこのオリジナル作品を、いまこの時期に無料で公開したことの意味は小さくない。 世界の裏側の島国でステイホームしている私たちとしても、せめて映画を見て考える程度のことはしておこうではありませんか。 ただ、視聴に先立ってあらかじめ覚悟しておかなければならないのは、1時間40分ほどの上映時間いっぱい、間断なく表示される大量の字幕を、ひたすらに読み続けることだったりする。この作業は、字幕に慣れていない向きには、相当に負担の大きい仕事になる。 私自身、途中で休憩を入れることで、ようやく最後まで見ることができたことを告白しておく。なんと申し上げて良いのやら、45分ほどのところで一度休みを取らないと、集中力が続かなかったのですね。 面白くなかったからではない。 今年見たドキュメンタリーフィルムの中では間違いなくベストだったと申し上げて良い。 とはいえ、評価は評価として、視聴の間、集中力を保ち続けることは、私にとって、とりわけハードなノルマだった。 理由は、中身が詰まりすぎていて、視聴するこっちのアタマがオーバーフローしてしまうからだ。それほど情報量が多いということだ。大学の授業でも、こんなに濃密な講義は珍しいはずだ。 上映が始まると、大学の先生や、歴史研究者、ジャーナリスト、政治家といった各分野の専門家たちのマシンガントークが延々と繰り返されることになる。その闊達なしゃべりの合間を縫うようにして、合衆国建国以来の黒人(←当稿では、『13th』の字幕にならって、アフリカ系アメリカ人を「黒人」という言葉で表記することにします。「黒人」と呼んだ方が、広い意味での歴史的な存在としての彼らを大づかみにとらえられるはずだと考えるからです)の苦難の歴史を伝えるショートフィルムや写真が挿入される構成になっている。 視聴者は、ひたすらに字幕を読み続けなければならない。なので、見終わった直後の感覚は、むしろ一冊の分厚い書籍を読了した感じに近い。私の場合、画面がブラックアウトした後は、疲労のため、しばらくの間、何も手につかなかった。 視聴する時間を作れない人のために、ざっと内容を紹介しておく。 『13th』というタイトルは、「合衆国憲法修正第13条」を指している。タイトルにあえて憲法の条文を持ってきたのは、合衆国人民の隷属からの自由を謳った「合衆国憲法修正第13条」の中にある「ただし犯罪者(criminal)はその限りにあらず」という例外規定が、黒人の抑圧を正当化するキーになっているという見立てを、映画制作者たちが共有しているからだ。 じっさい、作品の中で米国の歴史や現状について語るインタビュイーたちが、繰り返し訴えている通り、この「憲法第13条の抜け穴」は、黒人を永遠に「奴隷」の地位に縛りつけておくための、いわば「切り札」として機能している』、「憲法第13条の抜け穴」は、黒人を永遠に「奴隷」の地位に縛りつけておくための、いわば「切り札」として機能している」、とは初めて知った。
・『13条が切り札になった経緯は、以下の通りだ。 1.南北戦争終結当時、400万人の解放奴隷をかかえた南部の経済は破綻状態にあった。 2.その南部諸州の経済を立て直すべく、囚人(主に黒人)労働が利用されたわけなのだが、その囚人を確保するために、最初の刑務所ブームが起こった。 3.奴隷解放直後には、徘徊や放浪といった微罪で大量の黒人が投獄された。この時、修正13条の例外規定が盛大に利用され、以来、この規定は黒人を投獄しその労働力を利用するための魔法の杖となる。刑務所に収監された黒人たちの労働力は、鉄道の敷設や南部のインフラ整備にあてられた。 4.そんな中、1915年に制作・公開された映画史に残る初期の“傑作”長編『國民の創生(The Birth of a Nation)』は、白人観客の潜在意識の中に黒人を「犯罪者、強姦者」のイメージで刻印する上で大きな役割を果たした。 5.1960年代に公民権法が成立すると、南部から大量の黒人が北部、西部に移動し、全米各地で犯罪率が上昇した。政治家たちは、犯罪増加の原因を「黒人に自由を与えたからだ」として、政治的に利用した。 6.以来、麻薬戦争、不法移民排除などを理由に、有色人種コミュニティーを摘発すべく、各種の法律が順次厳格化され、裁判制度の不備や量刑の長期化などの影響もあって、次なる刑務所ブームが起こる。 7.1970年代には30万人に過ぎなかった刑務所収容者の数は、2010年代には230万人に膨れ上がる。これは、世界でも最も高水準の数で、世界全体の受刑者のうちの4人に1人が米国人という計算になる。 8.1980年代以降、刑務所、移民収容施設が民営化され、それらの産業は莫大な利益を生み出すようになる。 9.さらに刑務所関連経済は、増え続ける囚人労働を搾取することで「産獄複合体(Prison Industrial Complex)」と呼ばれる怪物を形成するに至る。 10.産獄複合体は、政治的ロビー団体を組織し、議会に対しても甚大な影響力を発揮するようになる。のみならず彼らは、アメリカのシステムそのものに組み込まれている。 ごらんの通り、なんとも壮大かつ辛辣な見立てだ。 私は、これまでアメリカ合衆国の歴史について、自分なりにその概要を把握しているつもりでいたのだが、この作品を見て、その自信を、根本的な次元で打ち砕かれてしまった。 というよりも、自分の歴史観に自信を抱いていたこと自体が、不見識だったということなのだろう。 私は、白人の目で見た歴史を要領良く暗記しているだけの、通りすがりの外国人だった。白人のアタマで考え、白人の手によって記されたアメリカの歴史を読んで、それを合衆国の歴史だと思い込んでいたわけだ。 黒人の立場から見れば、当然、もうひとつの別の歴史が立ち上がる。その、黒人の側から観察し、考え、分析し、描写した歴史を、これまで、私は知らなかった。というよりも、歴史にオルタナティブな側面があるということ、あるいは、正統とされている歴史の裏側に、別の視点から見たまったく別の歴史が存在し得るという、考えてみれば当たり前の現実を、私は、うかつにも見落としていたのである』、私も自分が知っていた「合衆国の歴史」の浅さを改めて痛感させられた。
・『このことは、私が、これまで生きてきた長い間、音楽とスポーツの世界で活躍する黒人に敬意を抱いている自分を、ものわかりの良い、フェアで、偏見に毒されていない素敵にリベラルな人間だと考えていたこと自体、どうにも浅薄な態度だったということでもある。 反省せねばならない。 もちろん『13th』の中で展開されていた主張だけが正しい歴史認識であり、その見方と相容れない歴史観のすべてが間違っているということではない。 とはいえ、アタマからすべてを鵜呑みにしないまでも、合衆国の歴史に私たち日本人が気づいていない角度から光を当ててみせた、この見事なドキュメンタリー映画を見ることの価値は依然として大きい。 世界を吹き荒れているBLMの背景を理解するためにも、読者諸兄姉にはぜひ視聴をおすすめしたい。 さて、人種・民族や国籍をもとにした差別構造は、世界中のあらゆる場所に遍在している。 今回は、一例として、モデル/俳優の水原希子さんが発信したツイートをターゲットとして押し寄せているどうにも低次元なクソリプを眺めながら、うちの国に特有なみっともなくみみっちい差別について考えてみたい。 発端は、「水原希子は、日本人感出すのやめてほしい」という趣旨の一般人のツイートだった。 当該のツイートが既に削除されている(投稿者が削除したと思われる)こともあるので、その内容についてここであえて詳しく追及することはしない。 ここでは、元ツイートが、民族的には米韓のハーフであり国籍としては米国籍である水原希子さんが、日本人っぽい名前で芸能活動をしていることを非難する内容であったことをお知らせするのみにとどめる。 このツイートに対して、水原さんは16日に 《私がいつ日本人感出しましたか?日本国籍じゃなかったら何か問題ありますか?29年間、日本で育って、日本で教育を受けてきました。何が問題なのか全く分かりません。》 という引用RTを発信した(引用元のtwは、現時点では既に削除済み)。 これが、このたびの炎上のきっかけだった。 なお一連の経緯は以下のリンク先で記事になっている。 ちなみに申し上げればだが、水原希子さんが発信した引用RTにぶらさがっているリプライにひと通り目を通せば、21世紀の日本における差別的言辞の典型例を、過不足なく観察することができる。その意味で、これは通読するに値するスレッドだと思う』、「水原さん」を巡る騒動は初めて知ったが、「水原さん」を「非難」する輩は心の狭い連中のようだ。
・『もっとも、うんざりしたりショックを受けたりして、途中で読むのをやめた人も少なくないはずだ。 どうか、びっくりして自分たちの国に絶望しないでほしい。 寄せられているクソリプは、この国の、ひとつの現実ではある。 とはいえ、それだけが日本のすべてではない。 私たちの国は、クソリプを投げる人々を大量に含む中で運営されている。 でも、それを読んでうんざりしているあなたのような人がいる限り、希望を捨てるべきではない。そう思って、なんとかやり過ごそうではありませんか。 思うに、「日本人感」という言葉が醸している「日本国籍を持っていない人間が、あたかも日本人であるかのように振る舞うことはやめてほしい」という要求のあり方自体が、明らかに差別的であることに、この言葉を持ち出した本人が気づいていないところが、どうにも痛々しい。 仮に「日本人感」といったようなものがあるのだとして、それは日本国籍保有者の特権ではないはずだ。民族的に純血な日本民族(←これだって、何代かさかのぼれば誰も確かなことは言えなくなる)にだけ許されている民族的に固有な表現形式でもない。日本の社会の中で育ち、日本語を駆使する日常を送っている人間であれば、誰であれ醸し出している、「雰囲気」に過ぎない。 ついでに申せば「日本人感」なるものは、特定の個人が意識的に「出す」ものではない。むしろ、特定の誰かを見てほかの誰かが「感じ取る」要素であるはずで、だとすれば、そんな曖昧模糊としたものを材料に他人を非難したり断罪したりすることは、差別そのものではないか。 水原希子さんは、引用したツイートでもわかる通り、自分の考えをはっきりと表明する人物で、その点でわが国の平均的な芸能人とは一線を画している。 そして、彼女のような「はっきりとものを言う女性」は、その発言内容の如何にかかわらず、必ずや(注:「あ」が抜けている)るタイプの人々から攻撃されることになっている。 それほど、うちの国の社会は風通しがよろしくない。 上でご紹介したツイートをきっかけに、彼女の発言が、続々と発掘されて、次々に炎上している。 《水原希子さん、最高では…?》これは、水原希子さんのファンとおぼしきアカウントが、「最も美しい顔ランキング2020」というサイトが、知らないうちに自分をノミネートしていたことを知った水原希子さんが、そのサイトの取り扱いと、他人の容貌を勝手にランク付けして評価する「ルッキズム」全般に対して苦言を呈する旨の発言をしたことを賞賛するツイートなのだが、これに対して 《ルックスでお金を稼ぐ仕事の人がこれいうのは流石におかしいのではないか》という言い方で、元のツイートを引用した投稿がまたRTを稼ぐことになる。 と、かねて「ルッキズム批判」への批判やフェミニズム言説の揚げ足をとることに熱心だった論客が、この炎上に乗っかる形で自説を開陳しはじめたりして、事態はさらに混沌としている。 なんとバカな展開ではあるまいか。 かように、わが国では、黒人vs白人、有色人種orWASPといった、わかりやすい対立軸が見えにくい半面、在日外国人、混血、二重国籍、被差別部落、先住民、女性、犯罪被害者といった一見しただけでは判別しにくい少数者や弱者への隠微な差別を繰り返すことで、差別趣味の人々の需要を満たしている』、「わが国では・・・わかりやすい対立軸が見えにくい半面、在日外国人、混血、二重国籍、被差別部落、先住民、女性、犯罪被害者といった一見しただけでは判別しにくい少数者や弱者への隠微な差別を繰り返すことで、差別趣味の人々の需要を満たしている」、さすが鋭い指摘だ。
・『冒頭で紹介した『13th』によれば、アメリカでは、人口の6.5%に過ぎない黒人が、刑務所の収容人数の中の40%を占めているのだそうだ。 別の計算では、アメリカの黒人男性が一生の間に刑務所に収監される確率は、30%以上で、つまり、黒人男性のうちの3人に1人が、生涯のうちに一度は受刑者としての生活を経験することになっている。この割合は、白人男性の17人に1人という数字と比べてあまりにも高い。 日本には黒人差別がない、ということを声高に主張している人たちがいる。 彼らの言明は事実とは異なっている。 当連載でも取り上げたことがある通り、うちの国には、大坂なおみさんを漫才のネタにして「漂白剤が必要だ」と言ってのけた芸人が実在している。 これを差別と言わずに済ますことは不可能だ。 ただ、アメリカに比べて、うちの国には黒人が少ない。 だから、黒人に対する差別を目の当たりにする機会を、日本に住んでいる私たちは、あまり多く持っていないという、それだけの話だ。 その代わりにと言ってはナンだが、在日コリアンや二重国籍者に対する差別はこの国のあらゆる場所で日常的に繰り返されている。 『13th』を視聴して、目が開かれたのは、差別が、単なる「心の問題」「お気持ちの問題」ではなくて、それに加担する人々の利益問題でもあれば、差別を内包する社会のシステムの問題でもあるという視点だった。 単に無知であるがゆえに差別に加担してしまっている人間がたくさんいることもまた一面の事実ではあるものの、差別構造はそれほど無邪気なばかりのものではない。 一方には、差別に苦しむ人々の不利益を前提に成立しているシステムが稼働しており、差別被害があることによって利益を得ている人々が差別の固定化のために意図的な努力を払っていることもまた厳然たる事実だ。 日本とアメリカでは、差別の現れ方に大きな違いがあるように見える。 でも、本当のところ、大差はない。 あの人たちがやらかしている差別と、われわれの中で育ちつつある差別は、区別も差別もできないほどそっくりだと、少なくとも私はそう思っている』、「『13th』を視聴して、目が開かれたのは、差別が、単なる「心の問題」「お気持ちの問題」ではなくて、それに加担する人々の利益問題でもあれば、差別を内包する社会のシステムの問題でもあるという視点だった」、「日本とアメリカでは、差別の現れ方に大きな違いがあるように見える。 でも、本当のところ、大差はない。 あの人たちがやらかしている差別と、われわれの中で育ちつつある差別は、区別も差別もできないほどそっくりだ」、改めて「差別」の問題を深く考えさせられた秀逸なコラムだ。
タグ:東京大学大学院情報学環・学際情報学府の特任准教授・大澤昇平氏 貧困者やマイノリティに対して、不妊手術に同意する申請書を書かないなら、手当や住居を取り上げる、と脅す 優生保護法 人文科学分野での基礎的知識の欠如 「Daisy」代表 日本は諸外国と比べても、自分たちが社会の中で『普通』の存在だと考えることで安心感を得る人が多い傾向があります。障害者問題、性的マイノリティー問題、民族差別の問題においても、偏見や差別を持つ側がマジョリティーであることに安堵感を抱き、日々の生活を送っています 歴史は雑学だと思って切り捨てたんだわ ダイヤモンド・オンライン 『偏見や差別はなぜ起こる?』(ちとせプレス) 社会ダーウィニズム ダーウィンが言ったのは、生物の競争による淘汰ではなく適者生存による「棲み分け」であった 敵を見下すことで自己肯定感を高めるのが本 大澤の一連のヘイト発言は典型的なネット右翼そのもの 〈弊社 Daisy では中国人は採用しません〉〈中国人のパフォーマンス低いので営利企業じゃ使えないっすね〉 《東大特任准教授ヘイト炎上》「30代アカデミック男性はなぜイキるのか」 北欧諸国(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)でも、先進的な福祉政策とセットで1970年代まで障害者に対する強制不妊が積極的に行われていた 優生学は(当時の)「科学」に基づいた政策として、どちらかというとリベラルないし左翼側に支持されていた 強制不妊にもっとも野心的だったのは、最初の不妊法を1909年に制定したカリフォルニア州で、ナチスドイツの「遺伝病子孫予防法」のモデルともなった 世界の強制不妊 1996年まで「優生保護法」は漫然と存在 強制不妊が積極的に行われたのは、民主化されたはずの戦後1948年にできた「優生保護法」以降である(確認されるだけでも16000件程度 戦時中には「産めよ、殖やせよ」と出産が奨励されていたため、いかなる理由であれ不妊手術や中絶手術を法的に認めること自体に強い批判が議会で浴びせられ、最終的には中絶の規制が中心の法律となった 「国民優生法」の時代 大澤が凡庸なネット右翼と決定的に違うのは、ナルシシズムに満ちた選民意識が見え隠れするところ スウェーデンでのスキャンダル 日本とアメリカでは、差別の現れ方に大きな違いがあるように見える。 でも、本当のところ、大差はない。 あの人たちがやらかしている差別と、われわれの中で育ちつつある差別は、区別も差別もできないほどそっくりだ 社会集団から生まれる偏見や差別 障害者に対する強制不妊を国が責任を持って行うことは、20世紀のかなりの期間、ある種のグローバル・スタンダードだった 憲法第13条の抜け穴」は、黒人を永遠に「奴隷」の地位に縛りつけておくための、いわば「切り札」として機能している 『13th -憲法修正第13条-』 「「日本人感」って何なんだろう」 どこにでもいる平均的なネット右翼像そのもの 今どきの30代前半で、ここまで露骨なヘイト発言を実名と役職を公開して開陳する人物というのも珍しい 「ダーウィンの進化論」の誤った解釈そのまま 強烈な市場原理主義を信奉 異形の存在 「実は世界中で行われていた「強制不妊」〜弱者に優しい福祉国家でも…不妊が忌避される時代をどう考えるか」 古谷 経衡 文春オンライン 大澤は、「意識高い系」と「ネット右翼」が合体した存在 「意識高い系」を構成する要素は、「実際には何も中身がないが、必要以上に自己を過大に評価して他人に喧伝する」こと 「東京大学准教授」と「東京大学特任准教授」では、ソ連軍のT-34とイタリア軍の豆戦車ぐらい意味合いが違う 障害者に対する強制不妊が否定されると同時に、出生前診断が一般的になり、体外受精では障害児が生まれないように細心の注意が払われている時代が現代である 小田嶋 隆 日本人っぽい名前で芸能活動をしていることを非難する内容 米韓のハーフであり国籍としては米国籍である水原希子 日経ビジネスオンライン 美馬 達哉 現代ビジネス (その3)(実は世界中で行われていた「強制不妊」〜弱者に優しい福祉国家でも…、《東大特任准教授ヘイト炎上》「30代アカデミック男性はなぜイキるのか」、「偏見や差別」はなぜ生まれる 社会心理学の観点から読み解く、小田嶋氏:「日本人感」って何なんだろう) 都合の悪いことが起こると、「AIの過学習」とAIのせいにする 不妊が忌避される時代 「「偏見や差別」はなぜ生まれる、社会心理学の観点から読み解く」 事態が動いたのは2018年、宮城県の60代女性が国家賠償訴訟を起こしてからだ 補償や法的救済を求める国連人権委員会からの勧告(1998年)があっても日本政府は動かなかった 『13th』を視聴して、目が開かれたのは、差別が、単なる「心の問題」「お気持ちの問題」ではなくて、それに加担する人々の利益問題でもあれば、差別を内包する社会のシステムの問題でもあるという視点だった 北村英哉 これは20世紀初頭に、「日本民族」の遺伝的な質を改善するためには、遺伝病と決めつけられた精神・身体・知的障害者に子孫を残させないようにすることが必要だとする「優生学」の考え方から生まれたもの 自らの都合の悪い部分から目を背け、そして、努力せずにして承認欲求を満たそうとする 差別ツイートは〈AIが適応し過ぎた結果である「過学習」 「水原希子は、日本人感出すのやめてほしい」 マイノリティーへの理解が必要不可欠 外国人差別はこの典型的なパターン 人権 脅しが政府職員から障害者に対して行われていた リプロダクティブ・ヘルス/ライツ 人は味方と敵を分ける心理が働き、自分にとって大切な味方を「内集団」、それ以外の敵を「外集団」と区別するのが基本的な考え方 強制不妊の「救済法」成立 無教養・反知性主義を肯定し、己の「無知」を平然と開き直る わが国では、黒人vs白人、有色人種orWASPといった、わかりやすい対立軸が見えにくい半面、在日外国人、混血、二重国籍、被差別部落、先住民、女性、犯罪被害者といった一見しただけでは判別しにくい少数者や弱者への隠微な差別を繰り返すことで、差別趣味の人々の需要を満たしている 『AI救国論』(新潮新書) 水原希子さんが発信したツイートをターゲットとして押し寄せているどうにも低次元なクソリプ それでは少数派が常に負け続けることになり、人権的な価値が侵害され、不公正な社会になります。そのような社会にしないためにも、マイノリティーへの配慮が必須なのです 異例の飛び級昇進を実現、31歳にして准教授となった
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