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メディア(その23)(産経・フジ「世論調査不正」が投げかけたもの マスコミ電話世論調査は本当に信頼できるか、BBCの英首相会見で痛感 日本メディアの情けなさ 欧米の健全なジャーナリズムが羨ましい それに引き換え日本は、小田嶋氏:スポーツ新聞を憂う) [メディア]

メディアについては、6月10日に取上げた。今日は、(その23)(産経・フジ「世論調査不正」が投げかけたもの マスコミ電話世論調査は本当に信頼できるか、BBCの英首相会見で痛感 日本メディアの情けなさ 欧米の健全なジャーナリズムが羨ましい それに引き換え日本は、小田嶋氏:スポーツ新聞を憂う)である。

先ずは、7月21日付け東洋経済オンラインが掲載した東洋大学教授の薬師寺 克行氏による「産経・フジ「世論調査不正」が投げかけたもの マスコミ電話世論調査は本当に信頼できるか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/364194
・『産経新聞とFNN(フジテレビ系28局によるニュースネットワーク)が合同で実施していた電話による世論調査の不正が発覚して1カ月余り経つ。この問題を大きく取り上げるマスコミもないまま、不正はすでに忘れ去られつつある。 2000年代に入ってマスコミの間で広く実施されている電話による世論調査は以前から専門家の間からさまざまな問題点が指摘されており、今回の不正はその一端を示したにすぎない。両社は不正が行われた理由を「オペレーターの人集めが難しかった」などと説明しているが、詳細は解明されないまま、世論調査自体を打ち切っている。 同じような電話世論調査を行っている他のマスコミにとっても他人事ではないはずだが、自分のところは不正防止策を講じており、問題ないという立場を報じるだけで、電話調査が持っている構造的問題には踏み込もうとしていない。電話による世論調査が本当に国民の意見の縮図を正確に示すものなのか。国民の意見を科学的に正確にくみ取ることのできる調査と言えるのか。今回の不正問題を機に、いくつかの疑問点を示してみたい』、「他のマスコミ」が黙殺しているのは、武士の情けというよりも、自分たちも同様の問題を抱えているためでは、と勘繰りたくもなる。
・『面接方式と手順が異なる電話調査  以前の世論調査は、自治体の選挙人名簿から無作為に抽出された対象者の自宅を調査員が訪問して回答を聞き取る「面接方式」が主流だった。回答者の全体を全国の有権者の縮図とするため、対象者の抽出は年齢や性別、地域などに偏りが生じないよう厳密に行われていた。 一方、現在、広く行われている電話調査の手順は面接方式とはまったく異なる。朝日新聞や日経新聞などが公表している手順の概要によると、多くの電話調査は固定電話と携帯電話の両方を使って実施される。固定電話と携帯電話で実際に使用されている局番を使って無作為に1万3000~1万4000件を選び、その中から実際に使われている番号、約5000件を自動判定システムで選ぶ。 オペレーターはこの番号に電話をし、個人が契約している電話と判明したら、電話に出た相手に調査を依頼する。過去の経験では、このうち約2000件が個人が契約している電話だという。新聞社やテレビ局によって異なるが、900~1000件程度の回答を目標としているケースが多い。 固定電話の場合、個人の電話とわかり、調査に協力してもらえるとなったら、家族の中の有権者数を聞き、ランダムに「年齢が上から〇人目の方」と調査対象者を決め、その人に回答してもらう。電話に出る人に回答を求めると、在宅の可能性が高い女性や高齢者に回答者が偏ってしまうためだ。携帯電話の場合も、出た人に個人のものであることを確認して協力を求める。 以上のような電話調査をRDD(Random Digit Dialing)方式などと呼んでいる。) 当然、いくつかの疑問がわいてくる。 かつて主流だった面接調査が電話調査にとって代わられた理由の1つが回答率の低下だった。筆者も経験がある1980年代の面接調査は、多くの学生アルバイトを雇い、市役所などに行って選挙人名簿を閲覧し、本社に指定された地域や性別などの条件を満たす有権者を無作為に抽出する作業から始めた。 当時は回答率80%が目標で、70%台を割るようなことがあると社内で問題になることもあった。調査結果の精度を高めるために回答率は最も重要視されていたが、回答率は年々、低下の一途をたどっていった』、「電話調査の手順は面接方式とはまったく異なる」、初めて知った。「面接方式」は「回答率の低下」で、「電話調査」が主流になったのはやむを得ないのだろう。
・『新聞社によって異なる回答率  これに対し電話調査は、いくら回答を拒否されても次の回答者を見つけ、とにかく調査実施時間内にサンプル数が目標にたどり着けばいいようだ。従って、どのくらいの人に拒否されたかがわかる回答率は面接調査ほど重視されていない。 世論調査で最も重要なことは、回答者が母集団(マスコミの世論調査の場合の多くは全国の有権者)をきちんと代表しているか、母集団の縮図となっているかという点である。サンプル数がいくら多くても、特定の階層などに偏った調査結果を国民の声であるとは言えない。 電話調査における回答率の分母は、調査対象となった電話番号のうち個人の電話と判明した数字で、分子はその中の回答数になる。しかし、オペレーターに「この電話は個人のものか企業などのものか」と聞かれ、世論調査に答えたくない人はそれが個人の電話であっても「会社のものです」と答えるかもしれない。それは事実上の回答拒否であり、本来なら分母に含まれるべきだが、そうなってはいない。 さらに各社の調査結果を見ると、電話調査の回答率は新聞社などによって大きく異なっており、中には回答率を記していない記事もある。回答率はもはや眼中にないのかもしれない。 そして、一定の回答数に達するまで次々と新しい回答者に電話をするという手法にも問題があるように思える。このやり方だと積極的に応じる人の回答が必然的に多くなり、その結果、調査結果が偏る可能性がある。 世論調査の世界では1936年のアメリカ大統領選でのジョージ・ギャラップ氏の成功は有名な話となっている。 当時は「リテラリーダイジェスト」という総合雑誌社の世論調査が圧倒的に有名で、かつ信頼されていた。この大統領選でも購読者、自動車保有者などを対象に200万人の回答を得る大規模な調査を実施し、フランクリン・ルーズベルト大統領の再選はないと予測した。 一方、新参者のギャラップ氏は、収入や居住地、性別などを偏りのないようアメリカ全体の比率に合わせて抽出し(この方法を「割り当て法」と呼ぶ)、わずか3000のサンプルでルーズベルトの再選を予想した。結果はルーズベルトの勝利で、ギャラップ氏は一躍有名になった』、「ギャラップ氏」は「世論調査」にイノベーションを生み出したようだ。
・『母集団の縮図をきちんと反映しているのか  ところが、そのギャラップ氏は1948年の大統領選でトルーマン候補の当選を外すという失敗をしている。調査方法は同じ割り当て法だったが、調査員が割り当てられた属性の対象者を見つける際、回答を得やすそうな人を主観的に選ぶなどしたため、結果に偏りが生まれてしまったのだ。この失敗から、調査員の主観を排除する「無作為抽出法」が生み出されることになった。 現在の電話調査も無作為抽出の形はとっている。しかし、調査対象は事実上無制限にあり、目標の回答数が得られるまで新たな調査対象に電話をかけることが可能となっている。逆に言えば、目標数に達した段階で調査が終了となる。これで母集団の縮図がきちんと反映していると言えるのだろうか。 疑問点はほかにもある。最近の電話調査は固定電話と携帯電話の両方を同時に行う「デュアルフレーム方式」の調査が広がっているが、両者のサンプル数の比率は会社によってまちまちである。母集団を正確に反映する比率をどう考えればいいのであろうか。 回答数が少ない世代について、各メディアはその数字を人口比に合わせて補正し、全体の数字に加算している。例えば20代の回答数が人口比に比べ極端に少ない場合、人口比に合わせて大きな回答数に増やす。しかし、少ない回答はその世代の縮図になっているのかも疑問であり、単純な補正が結果をより正確にしているかどうかはわからない。 国民の生活様式やプライバシーについての考え方が変化し、回答率の低下から新しい方法を取り入れざるをえなくなっている事情は理解できる。電話調査については科学的側面だけでなく、経験も積み重ね、国民の声をうまく引き出していると証明されているようだ。 しかし、現代における世論調査が持つ問題点は、その技術的側面もさることながら、メディアの対応にも問題があるように思う。 電話調査が急速に普及した理由は、回答率の低下という問題のほかに、その簡便さがある。全国を対象とする面接調査は、質問・回答用紙の作成や印刷に始まり、多くの調査員の募集や教育など膨大な手間と時間がかかる。費用は億単位にのぼる。 これに対して電話調査は、準備は簡単で時間がかからないうえ、コストも格段に少なくて済む。何か大きな問題があったときに、臨機応変に新聞紙面を飾る材料を作るための調査が実施できる』、「現在の電話調査も無作為抽出の形はとっている」が、残された問題点も少なくないようだ。
・『重視される世論調査の速報性  ただし、電話を使っての調査ゆえに、複雑な問題などについてじっくりと考えてもらって回答を得ることは難しい。質問数にも内容にも限界があるのだ。 また一定の回答数を集めなければならない。回答者の中には「政治のことはわからない」という人もいる。すると、「そういう人の声も含めて世論ですから、わからないというのも立派な答えです」と意味不明の言葉で回答を促しているという。一部の専門家が厳しく指摘しているように、こうなると世論調査とは言いにくくなり、世論の名を借りた「反応調査」、あるいは「感情調査」でしかない。 鳩山由紀夫首相が退陣して菅直人氏が後継首相になり、政治が大きく揺れた2010年。主要な新聞、テレビ局が実施した世論調査は年間230回を超えた。そこまでではないだろうが、近年は以前に比べると世論調査の頻度は増えている。そこで重視されているのが世論調査の速報性だ。 「Go Toトラベル」事業をめぐって東京を除外して始めるなど政府の対応が右往左往すると、一部の新聞は即日、電話による世論調査を実施した。組閣や内閣改造で新閣僚が就任の記者会見をやっている最中に世論調査をスタートさせることも今では当たり前となっている。 世論調査というのは各メディアが自主的に行う調査であり、その記事は一般的なニュースとは本質的に異なる性格のものである。にもかかわらず、一般のニュースと同じように速報性を競うのはなぜなのか。その結果、回答者の感情や反応が集積された数字が独り歩きし、政治の世界に影響を与えることもある。中には社説の主張の根拠に使っているケースもみられる。 電話調査による結果が有権者全体の縮図となっていることが構造的に疑わしいにもかかわらず、世論調査結果の数字があたかも「民意」であるかのように扱う昨今の風潮は、残念ながらマスコミ自身が作り上げたものである。 一方で産経新聞とFNNの起こした世論調査の不正問題が示すように、世論調査には構造問題が存在している。感情や反応を集めただけの数字が政治や社会に過剰な影響を与えることのないよう、マスコミや世論調査の意味について見直すべきであろう』、「電話調査による結果が有権者全体の縮図となっていることが構造的に疑わしいにもかかわらず、世論調査結果の数字があたかも「民意」であるかのように扱う昨今の風潮は、残念ながらマスコミ自身が作り上げたものである」、「世論調査には構造問題が存在している。感情や反応を集めただけの数字が政治や社会に過剰な影響を与えることのないよう、マスコミや世論調査の意味について見直すべき」、「世論調査の意味」を改めて考えさせるいい記事であった。

次に、7月28日付けJBPressが掲載した在英作家の黒木 亮氏による「BBCの英首相会見で痛感、日本メディアの情けなさ 欧米の健全なジャーナリズムが羨ましい、それに引き換え日本は」を紹介しよう。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61461
・『日本の大手メディア(新聞、テレビ)が政治家の疑惑追及に消極的なのは、国民が常々不満に思っていることである。政府・安倍首相の森友・加計問題、桜を見る会疑惑、小池都知事の学歴詐称疑惑などが、メディアのこうした姿勢のために、今も野放し状態だ。メディアの機能不全は、民主主義の根幹にもかかわる重大な問題である。 筆者は英国に住んで32年になるが、欧米メディアの政治家に対する妥協のない報道姿勢を見るにつけ、日本のメディアの根本的改革の必要性を痛感させられる。 7月24日の英国の公共メディアBBCによるボリス・ジョンソン首相の単独インタビュー(https://www.youtube.com/watch?v=3rm45jiPrdw)もそうした思いをあらためて強くするものだった』、「日本の大手メディア・・・が政治家の疑惑追及に消極的なのは、国民が常々不満に思っていることである」、全く同感だ。
・『首相とのサシのインタビューでコロナ対策を追及する記者  首相をインタビューしたのは、ポリティカル・エディター(政治部長的職位)のローラ・キューエンスバーグ氏(女性)。 13分半のインタビューの冒頭は、「新型コロナ問題に関して、あなたは何を間違えたと思いますか?」という質問で始まっている。 これに対して首相は「政府は最初の2、3週間ないしは2、3カ月、新型コロナのことを十分に理解していなかったと思う。特に無症状でうつるという点に関して」と認めた。これは「政府は適切な時期に適切な対策をとってきた」という従来の姿勢からの転換だった。 キューエンスバーグ氏が「理解が十分でなかったので、対策が遅かったということですね?」と問うと、首相は「人々が求めているのは次の段階の準備のために今何をするかだ。過去のことではない」と話題を変えようとした。 キューエンスバーグ氏は「人々は何が起きたか知りたがっている。4万5000人が亡くなっているのですよ。何が間違いだったと思いますか?」と反論し、「新型コロナのことを当初は十分に理解できなかったというのはよく分かります。しかし、あなたは最初から事態を十分真剣に受け取りましたか? 3月3、5、7、9日、あなたは人々と握手をしていますね。しかし、その時点で政府はそういうことをするなと人々にアドバイスをしていました」とたたみかける。 首相は「いや、それは当時の政府のアドバイスではない」と逃げようとしたが、キューエンスバーグ氏は「政府は3月3日にそうアドバイスしています」と指摘する。 この後も「大事なことは今後について話すことだ」と言う首相と、「そのためにこそ、何が間違いだったかを明らかにすべきだ。ロックダウンはtoo lateだったと後悔していないか?」と言うキューエンスバーグ氏の応酬が繰り返される。 苛立った首相は「あなたはインクワイアリー(第三者調査)をしようとしている」と不満を口にするが、キューエンスバーグ氏「政府は当初、集会も禁じなかったし、マスク着用も推奨しなかったし、地域における検査も実施しなかった。今後は速やかに対策を実行できるのか?」と譲らない。) インタビュー半ばで高齢者介護施設への対応が話題となり、首相が介護施設に対する政府の種々の施策を説明し、キューエンスバーグ氏は「今後は従来とは違う(きちんとできる)ということですね?」と念を押している。 その後、キューエンスバーグ氏が「(首相が新型コロナに感染したとき)死ぬと思いましたか?」と訊き、これは答えやすい質問だったせいか、首相の顏をごく一瞬笑みがよぎり、「自分自身もそうだが、太り過ぎが英国の問題の一つだ」と、結構長く喋った(首相は、健康に悪い食品のオンライン広告を禁止する等の太りすぎ対策を近々発表する予定)。 終わりのほうに、「今、あなたの優先課題は何ですか?」と訊かれ、首相は新型コロナに限らずこれまで取り組んできた様々な国家的施策とともに、新型コロナによる不況対策、脱炭素化社会など、今後の目標も列挙した。ここは演説的だったが、首相の考えを視聴者も聞きたいだろうと思ったのか、キューエンスバーグ氏は遮らず、これでインタビューを終えている』、「冒頭は、「新型コロナ問題に関して、あなたは何を間違えたと思いますか?」という質問」、日本では考えられないような厳しい質問だ。 逃げようとしても質問をたたみかけるなど、これぞ本物のインタビューだ。日本のように安部首相の大本営発表的なインタビューとは大違いだ。
・『訊くべきことを訊く記者、ごまかさず懸命に答える首相  この動画を観ると、英語が分からない人でも、両者が対等に話し合い、互いに言うべきことは言い、訊くべきことは訊き、首相もごまかさずに懸命に答えているのが分かるはずだ(それ以外にも、意見が対立したときの典型的な英国人の議論の仕方や、片手の拳を使って意思を表現するジョンソン首相の一風変わった話し方も見られて面白い)。 なお英国の新型コロナ対策は、3月23日に法的強制力のあるロックダウンに踏み切り(違反すると最高で960ポンドの罰金)、同25日には新型コロナ関連法案である「2020年コロナウイルス法」が制定された。 日本の「お願いベース」とは違う強制力のある政策で、4月には毎日5000人ほどいた新規の感染者数は、現在700人前後まで減り、日々の死者数は1000人前後から100人以下になった。PCR検査数は毎日10~15万件と、日本の10倍程度が実施されている。 経済対策も矢継ぎ早に実施しており、筆者のところにも政府からコロナで影響を受けた自営業者に対する補償の案内が届いた(日本のような金のバラまきはない)』、確かに「訊くべきことを訊く記者、ごまかさず懸命に答える首相」、真剣勝負のやり取りなので、動画は観ていて面白い。
・『記者クラブに安住し訊きやすいことだけ訊いているのだから読者離れも必然か  話は戻って、英国では政治家が厳しい説明責任を負っていることは、一般人と政治家の討論会などを見ていても分かる。以前、トニー・ブレア首相がテレビ番組で、一般の参加者から「英国が核兵器を持っているのは、核廃絶の流れに反しているじゃないか」ともっともな指摘をされ、「いや、我々は戦争目的では核を使用しないのです」と、若干苦しい言い訳を必死の形相でしていたのを観たことがある。 2003年のイラク戦争に関しては、日本のNHKに類似した公共メディアのBBCが、45分以内に配備できる大量破壊兵器をイラクが保持しているという確かな情報を政府が持たないまま、イラク攻撃に踏み切ったとすっぱ抜き、政府と大激論になった。このときは、「タイムズ」や「ガーディアン」などの全国紙も、事件を連日大きく報道した。 ところが日本の政治家の記者会見やインタビューでは、政治家が訊かれたくない質問をするのは、記者クラブに属していないメディアの記者やフリーの記者だけと言っても過言ではない。記者クラブに所属している大手メディアのサラリーマン記者は、政治家のご機嫌を取り、時々、政治家からちょっとした情報をもらえれば、バッテンも付かず、結構な給料ももらえるという居心地のよい地位に安住し、真実を追求し、権力の暴走を阻止するという最も重要な役割を放棄している。 そうした態度は政治家につけ込まれる原因にもなる。石井妙子著『女帝 小池百合子』には、小池都知事が、自分を好意的に報じるメディアに優先的に情報を与えて、他社に恥をかかせ、自分に否定的な報道ができないようコントロールしていることが書かれている。学校の授業で、「新聞は社会の木鐸(ぼくたく)」と習ったが、日本ではまったく絵に描いた餅に終わっているのである。 ただし、大手のメディアでも例外はある。東京新聞の望月衣塑子記者は、内閣官房長官の会見で、加計学園問題やジャーナリスト伊藤詩織さんの加害者に対する逮捕状の問題などに関し、積極的な質問を繰り返したし、かつてNHKの「クローズアップ現代」では国谷裕子キャスターが、当時の石原慎太郎都知事に新銀行東京の問題について突っ込んだ質問をし、石原氏が不機嫌になっても、追及の手を緩めなかった。 最近では、小池氏が都知事に再選された直後に、テレビ東京系の報道番組などで池上彰氏が「コロナ対策で連日記者会見をしたのが結果的に選挙運動になったのではないか?」「東京でコロナ感染者が4日連続で100人を超えているが、知事としての責任をどう考えているか?」「新しいモニタリング指標を作成したのは、選挙期間中に新たに休業要請を出したくなかったからではないか?」「『女帝 小池百合子』を読んだか?」「4年間の任期を全うするのか?」といった質問をずばずばとした。 このように日本のメディアでもやろうと思えば、やれるのである。できていない原因の一つは、すでに述べた記者クラブ所属の大手メディアの「小サラリーマン的」な姿勢である。 日本の政治家は、厳しい質問に対して、ごまかしたりはぐらかしたりするので、その手の質問をしても話が噛み合わず、字(記事)になりにくい。真実を追求するより、「字になる」小ネタを聞き出すことに熱心な大手メディアの記者たちの中には、望月記者やフリーの記者の態度を冷笑する者も少なくない。これに対して、欧米のメディアは「字にならない」質問を何人もの記者が繰り出すことによって、政治家に非を認めさせ、権力の暴走を阻止する。EBRD(欧州復興開発銀行)の経費を濫用し、恣意的な運営を行っていた同行総裁ジャック・アタリを1993年に辞任に追い込んだのは、英仏を中心とするメディアの追及だった。 1974年に「文藝春秋」誌に『田中角栄研究―その金脈と人脈』を発表し、田中首相を退陣に追い込んだジャーナリストの立花隆氏は近著『知の旅は終わらない』の中で、記事を発表したとき、真っ先に駆け付けたのは「ワシントン・ポスト」や「ニューズウィーク」など外国メディアで、日本の新聞記者の多くは「あんなことはオレたちは前からみんな知っていたんだ」とうそぶくだけだったと書いている。 大手メディアの記者の中にも、能力があり、やる気のある記者はかなりいる。彼らが力を発揮できていないのは、第一にメディアの経営者の問題であり、第二に取材や記事の方向性を決める現場のデスクの問題である。もう一つ指摘したいのは、そうした消極的なメディア文化の温床になり、政治家との癒着の原因にもなる記者クラブの存在だ。こういうものは解散するか、少なくとも会見での質問者は政治家が指名するのではなく、クラブに所属していないメディアやフリーの記者を含め、くじ引きか順番制にすべきだろう。 最近は、新聞の発行部数が減り、テレビも視聴率が下がって斜陽産業だという嘆きをよく耳にする。しかし、それは国民が知りたいことを伝える努力をしていないことも一因だ。メディア各社は、望月記者やフリーランスの記者を冷笑するような自分たちの姿勢が、権力者をつけ上がらせ、読者からの信頼も失わせ、自分たちの価値を下げていることを認識すべきである。 6月15日には一般の商店が、7月4日には、レストラン、パブ、理髪店、映画館などの営業再開が認められた。 バスや地下鉄内では、マスク着用が義務付けられ(時々守っていない人を見かける)、商店の中でもマスクを着用しないと、最大で100ポンドの罰金が科される。政府はこの冬にインフルエンザが流行して病院の新型コロナへの対応能力を圧迫しないよう、インフルエンザワクチンの接種を50歳以上の人などに無料で行う。BBCのキューエンスバーグ氏も首相とのインタビューの中で認めているが、前例がない難しさがあるのは事実で、そうした中では、今のところ、そこそこ手堅い対策を打ってきたのではないかという印象である』、「記者クラブに所属している大手メディアのサラリーマン記者は、政治家のご機嫌を取り、時々、政治家からちょっとした情報をもらえれば、バッテンも付かず、結構な給料ももらえるという居心地のよい地位に安住し、真実を追求し、権力の暴走を阻止するという最も重要な役割を放棄している。そうした態度は政治家につけ込まれる原因にもなる」、「メディア各社は、望月記者やフリーランスの記者を冷笑するような自分たちの姿勢が、権力者をつけ上がらせ、読者からの信頼も失わせ、自分たちの価値を下げていることを認識すべきである」、説得力溢れる主張で、全く同感である。

第三に、6月12日付け日経ビジネスオンラインが掲載したコラムニストの小田嶋 隆氏による「スポーツ新聞を憂う」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00074/?P=1
・『新型コロナウイルス関連の話題には、できれば触れたくないと思っている。 にもかかわらず、気がつくと自分からコロナの話をはじめている。私は、メンタルをやられているのかもしれない。 「コロナ神経症」という病名が、すでに存在しているものなのか確かなところは知らないのだが、でも、自分がそれに罹患しているかもしれないということは、なんとなくわかる。私は正常にものを考え続けることができない。とてもつらい。 世間の人々は、いったいどうやってこのバカげた騒動に耐えているのだろう。不思議でならない。私は、限界だ。とにかく、コロナという言葉は二度と聞きたくない、と、日々、そう思いながら、毎日コロナの話をしている。 多くの人々が、毎日のように同じ話を繰り返している。 テレビ画面に出てくるMCは、この3月以来、何千回というオーダーで告知してきた同じ注意事項や基礎知識を、今朝もまたリピートしている。 「とにかく3つの密を避けることが大切ですね」「ここで気の緩みが出ないように」「マスクは感染防止の決め手にはなりませんが、飛沫の拡散を防ぐためには一定の効果を発揮します」  専門家としてスタジオに招かれているデクノボウの皆さんも、この種の耳タコの常套句を、さも重大な情報を分かち与えるかの体で開陳して恥じない。 「感染者の唾液などの飛沫がウイルスを拡散するわけですが、たとえば通勤電車の手すりやエレベーターのボタンなどに付着したウイルスを触った指で……」 うるせえその話は300回聞いたぞ、と、そう叫び出して液晶画面を破壊せずに済ませることのできる視聴者が、どうして、この国にはこんなにたくさん暮らしているのだろうか。私にはそれが不思議でならない。 そんなこんなで、震災からこっち、ろくに見なくなっていたテレビ放送の中で、ただ二つの例外として、日常的なチェックの対象にしていたスポーツ中継とニュース番組の視聴からも、結局、撤退することになった。 スポーツ関連は、なにしろ競技自体が開催中止に追い込まれている。それゆえ、中継放送が成立していない。テレビ各局は、古いコンテンツの再放送で急場をしのいでいるのだが、いかんせん、その種のレガシー動画のありがたみは、この5年ほどの間にすっかり色あせてしまった。 というのも、その種の「歴史的名勝負」タイプの動画は、ネット内をひとまわりすれば、いくらでも発掘可能だからだ。個人的な好みを申し上げるなら、私は、たとえば同じ「サッカー日本代表・栄光の足跡」でも、テレビ局が下賜してくれる高画質の番組映像よりは、ネット経由であれこれ見比べる動画群の方が好きだ。理由は、随時早送り&一時停止可能な断片として供与されているネット動画の手軽さを愛するからなのだが、それ以上に、もったいぶった有識者の演説やスタジオゲストの軽佻なしゃべりを含まない、YouTubeのスポーツ動画の簡明さに慣れてしまったからだ。 ということはつまり、テレビ局の人間たちが「番組」の仕上げとして練り上げている「味付け」の部分は、スポーツ愛好家たるオダジマにとっては、まるごと邪魔だったということだ。ファンは、試合映像だけ提供してもらえれば十分だと思っている。このことはつまり、あんたたちがコース料理に仕上げるためにゴテゴテと付け加えていた前菜だのスープだのアペリティフだのは、鬱陶しいだけだったということでもある。 ニュース番組を見なくなった理由は、あえて説明するまでもない』、「デクノボウの皆さんも、この種の耳タコの常套句を、さも重大な情報を分かち与えるかの体で開陳して恥じない・・・うるせえその話は300回聞いたぞ、と、そう叫び出して液晶画面を破壊せずに済ませることのできる視聴者が、どうして、この国にはこんなにたくさん暮らしているのだろうか。私にはそれが不思議でならない」、「テレビ局の人間たちが「番組」の仕上げとして練り上げている「味付け」の部分は、スポーツ愛好家たるオダジマにとっては、まるごと邪魔だったということだ」、同感である。
・『2020年のテレビは、つまるところ、1945年の新聞とそんなに変わらない制作物だと思う。10年後に振り返ってみればわかるはずだ。いずれも、国策標語(「進め一億火の玉だ」であるとか「3密を避けましょう」だとか)と大本営発表の部分を取り除くと、ほとんど中身は残らない。大量生産のゴミだ。 そんな中、つい昨日(つまり、6月10日の水曜日)、さるお笑い芸人の不倫を暴いたゴシップのニュースが、しばらくぶりに昼の時間帯の液晶画面を席巻したらしい。 でもって、それらを見たツイッタラー諸氏が、異口同音に 「やっと日常が帰ってきた」 という旨のツイートを投稿した。 私は、視点の独自さをアピールせんとするアカウントたちが、結果的にほとんど同じ内容のツイートを同時発信する結果に立ち至っているSNSの末期症状を眺めながら、コロナ禍の傷の深さに感じ入っていた。 コロナのせいで死んだのは、テレビだけではない。 新聞も雑誌も、果ては個人発信のSNSまでもが俗悪な集団舞踏と化している。 とりわけ、ジャンルとしての生存が危ぶまれるレベルで劣化しているのが、スポーツ新聞だ。 今回は、スポーツ新聞の話をする。 私にとっては、高校生だった時分から、最も深く愛読し、愛着をいだき続けてきたメディアでもある。 そのスポーツ紙が死のうとしている。なんともさびしいことではないか。 スポーツ新聞は、スポーツや芸能まわりの記録とゴシップを丹念に収集しつつ、一般の新聞が扱わない下世話なネタを直截な文体で伝える、良い意味でも悪い意味でも男らしいメディアだった。だからこそ、時代を代表する突発的な名文は、むしろ、全国紙よりもスポーツ紙の紙面に載ることが多かった。そういう意味で、個人的には、スポーツ新聞こそが20世紀を代表する媒体だったのではなかろうかと思っている。 その、スポーツ紙が、コロナ騒動からこっち、ひどいことになっている。 事情は、わからないでもない。 なにしろ、生命線であるプロ野球が、開幕していない。 Jリーグも開幕直後に中断して、いまだに再開していない。 夏の甲子園も中止が決まってしまった。ということは、各地でおこなわれるはずだった県大会も開催されない。 大相撲も、バスケットボールも、ラグビーも、ゴルフも、その他、新聞の記事になりそうな競技はほとんどすべて中断したままだ。 こんな状況で、例年通りのマトモな紙面を作れようはずがないではないか。 と、ここのところまではわかる。 とはいえ、そこのところの事情を最大限に汲んでさしあげるのだとしても、いくらなんでもこの3ヶ月ほどの現状は、あまりにもひどい。 主たる取材源である競技スポーツのスタジアムと、リーグ戦のタイムテーブルを失ったスポーツ紙が、紙面を埋めるための当面のネタ元として白羽の矢を立てたのが、テレビとツイッターであったという事実は、突然の在宅勤務で時間のツブしように困った勤め人諸氏の立ち回り先が、結局のところバカなテレビとSNSの中にしかなかったという現実に、ピタリと一致している点で、いたしかたのないなりゆきであるのだろうとは思うものの、その内容は、やはり、いくらなんでもあんまりひどすぎる』、「コロナのせいで死んだのは、テレビだけではない。 新聞も雑誌も、果ては個人発信のSNSまでもが俗悪な集団舞踏と化している。とりわけ、ジャンルとしての生存が危ぶまれるレベルで劣化しているのが、スポーツ新聞だ』、「スポーツ新聞」は購読してないが、どういうことなのだろう。
・『1.「テレビのバラエティー番組で、どこだかの芸人がこんなことを言って、それを聞いたタレントの誰某がこんな返事をして笑いを誘ったよ」式の、番組内のトークを書き起こしただけのコピペ記事 2.ツイッター論客の◯◯さんが、自身のツイッターで「〇〇は◯◯だ!」と、自説を開陳したよ。という、これまた個人のツイッター投稿をそのままコピペしただけのRT拡散記事  といったあたりが、ご覧の通り、この春以来、大量出稿されているゴミ記事の実相だ。 品質は、はっきり申し上げて「素人のブログ以下」だ。 じっさい、ちょっと気のきいたブロガーなら、同じテレビ番組の感想を書き起こすにしても、もう少しうがった文章を書く。というよりも、個人名で発信するブログの世界では、こんな恥ずかしいレベルのエントリーは、無料執筆者のプライドからして自分でボツにする。 こんな恥ずかしい文章は、カネになるのならまだしも、とてもではないが、タダではヒトサマに読ませるわけにはいかない。当たり前だ。それが文章を書く人間の最低限の矜持というものだ。 さて、この種のコピペ書き起こし記事のネタ元になる「芸人」や「論客」には、結果として、ある「偏向」が介在する。 どういうことなのかというと、以下の特徴を備えた人物の発言が、記事になりやすいということだ。 a.ネット内に信奉者の多いお笑い芸人 b.これまでに多数の炎上歴を持っている揮発性の高いツイッター論客 具体的な名前を挙げるのなら、松本人志氏、ほんこん氏、つるの剛士氏、百田尚樹氏、高須克弥氏、橋下徹氏、吉村洋文大阪府知事、東国原英夫氏といったあたりの面々になる。 こういう人たちの言葉を顔写真付きの記事にしてウェブ上にアップすると、一定数のページビューが見込めるわけだ。 「信者」と呼ばれる人々は、言説の内容にではなく、発言者の「顔」や「名前」に惹かれて群れ集まる性質を備えている。 ということは、その種の「信者」をかかえている以上、特定の「偏向」なり「教祖的熱狂」なりに殉じている人物だということでもある。 実のところ、スポーツ各紙が、これらのタレント論客の発言を無批判に拡散する記事を定期的に配信しはじめたのは、昨日今日の話ではない。 ツイッターならびにテレビ番組コピペ記事は、もう10年以上も前から続いているスポーツ紙編集部の収益源のひとつだった。というのも、駅売りと宅配の部数が長期低落傾向で推移する中、広告収入の点でも型通りの低迷を続けているスポーツ紙にとって、ウェブ版の記事を通じてのアフィリエイト広告収入と、他の媒体(ヤフーニュースやスマートニュースのような、ニュースアプリやキュレーションメディア)への記事の転載によってもたらされる掲載料は、バカにならない現金収入であるはずだからだ。 そんなわけで、スポーツ各紙は、目先の収入のために、本来の記事制作とは別のルートと人員(←この部分はオダジマの臆測です)で、ウェブ用の記事を粗製乱造してきたわけなのだが、このたび、いきなりのコロナ禍に直面して、本来の紙面作成ならびに取材記事執筆ができなくなってみると、副業のクリック収入稼ぎであったコピペ記事作りが、メインになってしまったというわけだ』、「この種のコピペ書き起こし記事のネタ元になる「芸人」や「論客」には、結果として、ある「偏向」が介在する」、「スポーツ各紙が、これらのタレント論客の発言を無批判に拡散する記事を定期的に配信しはじめたのは、昨日今日の話ではない。 ツイッターならびにテレビ番組コピペ記事は、もう10年以上も前から続いているスポーツ紙編集部の収益源のひとつだった」、「コピペ」が広がった理由の一端が理解できた。
・『さてしかし、スポーツ新聞は、その一方で、たくさんの優れた記者をかかえている媒体でもある。 私がいたましく思っているのは、実は、ここのところだ。 紙面を見る限り、記事が劣化していること自体は否定しようのない事実なのだが、では、あの記事を作っている人たちがどうにもならないバカ揃いなのかというと、決してそんなことはないわけで、だからこそ、この話はどうにもいたたまれない悲しい話なのである。 大学に入学した時点では、私は、スポーツ新聞社を第一番の就職先として望んでいる学生だった。 しかし、4年生になってみると、その気持ちは萎えていた。 というのも、私は、マスコミ志望の学生が積み重ねているタイプの準備を完全に怠っていたからだ。卒業時の成績も最低だった。で、倍率の高さと試験の難しさにひるんで、面接にすら行かなかったカタチだ。 私は、自分をあきらめたわけだ。 言っておきたいのは、オダジマが就職活動をしていた1980年代のはじめの時点では、スポーツ新聞社は、学生にとってそれほど困難な就職先でもあれば、憧れの職場でもあったということだ。 その、少なくとも1990年代までは、第一級の憧れの職業であった、スポーツ紙の記者がこんな仕事をせねばならなくなっている。 ここのところが、この話の泣けるポイントだ。 以下にご紹介するのは、いくつかの場所で話したことがあって、そのたびに、聴き手の皆さんに微妙にいやな顔をされる話なのだが、こういう機会なので、読者の皆さんにシェアしておくことにする。いやな気持ちになるであろう人にはあらかじめ謝罪しておく。 1980年代の半ばの3月の半ば頃、私は、とあるパソコン誌の創刊準備号の制作のために築地にある新聞社の社屋で連夜の徹夜作業に従事していた。 深夜の編集部で、眠る前のアタマを落ち着けるべく、手近にあった冊子をパラパラとめくっていて衝撃を受けたというのがこの話の発端だ。 私が手にしていたのは「朝日人」(←いまは名前が変わっているそうです)という名前のちょっとした電話帳(←若い人にはわかりませんね。つまり「数百ページ超、厚さ5センチ超の冊子」ということです)ほどもある、巨大な冊子だった。 一緒に作業をしていた社員の記者さんによると、その冊子は、海外も含めて何十とあるその新聞社の支局に勤務する記者たちが寄稿している「社内誌」だった。 「えっ? ってことは、これ、社内の人間しか読まないんですか?」「そうだよ」「で、社内の人間だけが書いてるわけですか?」「うん。クローズド・サーキットだよね」「で、この厚さなんですか?」「うん。自分の足を食べてるタコみたいな話だろ?」「……これ、べらぼうな本ですね」「べらぼうだよね。いろんな意味で」などと無駄話をしつつも、私は、そこに寄稿されている記事の多彩さと完成度に心を打たれていた。軽めの評論や、身辺雑記や、エッセー、書評や時事コラム、取材こぼれ話や、地域紹介の雑文などなど、どれをとっても整然としていて、当たり前の話だが、文章がきちんとしている。 「なんという才能の浪費だろうか」と、正直、そう思った』、「社内誌」の「朝日人」に「寄稿されている記事の多彩さと完成度に心を打たれていた」、さすが朝日新聞も記者だ。「うん。自分の足を食べてるタコみたいな話だろ?」、「なんという才能の浪費だろうか」、には笑ってしまった。
・『この会社には、これだけの文章を書ける人間が何千人も働いている。で、新聞を発行する会社としては、それらの、それぞれに筆力を備えた記者たちに、一人アタマ数行分の執筆スペースしか与えていない。ということは、この会社は、毎年何十人もの選りすぐりの文章家を選抜して、雇用し、その彼らを一定のメソッドに従って訓練し、育成しながら、結果としては、書く場所も与えずに飼い殺しにしているわけだ。 だからこそ、外部の人間に販売するわけでもない、社内誌にこれほどの水準の文章が満載されている。 なるほど。 「朝日人」は私にとっては、ちょっとした発見だった。ざっと読んでみて、あらためて身の引き締まる思いを味わった。 というのも、これは、逆に考えれば、この新聞社みたいな会社が、毎年何十人もの筆力を備えた人間を飼い殺しにしてくれているからこそ、私のような人間にも出番が回ってくるというお話にほかならなかったからだ。 スポーツ新聞の記者の中にも、素晴らしい文章家がたくさんいる。 私は、さる週刊誌で、スポーツ関連書籍の書評をなんだかんだで10年以上担当しているのだが、その書評欄のために私がこれまでに読んだ何百冊かのスポーツ関連書籍の著者にも、スポーツ新聞の記者出身の書き手はたくさんいる。そして、元スポーツ新聞記者には、名文家が少なからず含まれているのである。 ちょっと残念なのは、現役のスポーツ記者が自分の職場であるスポーツ新聞本紙に書く記事は、必ずしも名文ではないということだ。 というよりも、新聞の記事というのは、その本旨からして、「名文」であってはいけないことになっている。というのも、記事は、余韻や感動よりは、情報の正確さを第一とすべき文章で、その意味で、情緒纏綿であるよりは無味乾燥であるはずのものだからだ。 最後に、最近いくつか読んだスポーツ新聞の記者さんの文章の中から特に気に入ったものをひとつご紹介しておく。 ついでに、この記事を紹介する目的で書いた自分のツイートも引用しておく。 《スポーツ紙は、競技の休止で紙面づくりに困っているのなら、ツイッター発のコピペに頼ってばかりいないで、こういう現場の記者の取材ウラ話みたいなテキストに紙面を割いたらどうだろうか。記者さんたちはきっといい話をいっぱい持っている。こういう時こそそういう記事を読みたい。》 現場で取材している記者は、いい話をたくさん蓄えているし、それらを文章化する表現力も十分に持っている。 インターネットの時代になって、新聞の紙面では、必ずしも持ち前の文章力を発揮する機会に恵まれていない記者たちが、思う存分にペンを振るえる場所が少しずつ整ってきている。 個人的には、文章の世界には、凡庸で直截で平明で飾り気のない無味乾燥な記事文体の文章を山ほど書いた人間にだけ身につく文章力というものが存在する気がしている。なんというのか、素振りを1万回繰り返した人間にだけ身につく本物の実践的なスイングみたいな、ことです。 私の場合は、手遅れだと思っている。長い間好き勝手に来たタマを打ちすぎたので。 この先、スポーツ新聞が生き残るのは難しいと思うのだが、記者の皆さんには、それぞれ、ふさわしい活躍の場が与えられることを祈っている』、「この会社は、毎年何十人もの選りすぐりの文章家を選抜して、雇用し、その彼らを一定のメソッドに従って訓練し、育成しながら、結果としては、書く場所も与えずに飼い殺しにしているわけだ。 だからこそ、外部の人間に販売するわけでもない、社内誌にこれほどの水準の文章が満載されている」、「インターネットの時代になって、新聞の紙面では、必ずしも持ち前の文章力を発揮する機会に恵まれていない記者たちが、思う存分にペンを振るえる場所が少しずつ整ってきている」、「記者の皆さんには、それぞれ、ふさわしい活躍の場が与えられることを祈っている」、現実には「活躍の場が与えられる」前にリストラされてしまう可能性もありそうだ。 
タグ:メディア 東洋経済オンライン 日経ビジネスオンライン JBPRESS 黒木 亮 薬師寺 克行 小田嶋 隆 (その23)(産経・フジ「世論調査不正」が投げかけたもの マスコミ電話世論調査は本当に信頼できるか、BBCの英首相会見で痛感 日本メディアの情けなさ 欧米の健全なジャーナリズムが羨ましい それに引き換え日本は、小田嶋氏:スポーツ新聞を憂う) 「産経・フジ「世論調査不正」が投げかけたもの マスコミ電話世論調査は本当に信頼できるか」 面接方式と手順が異なる電話調査 「面接方式」は「回答率の低下」 新聞社によって異なる回答率 ギャラップ氏 わずか3000のサンプルでルーズベルトの再選を予想 母集団の縮図をきちんと反映しているのか 現在の電話調査も無作為抽出の形はとっている 重視される世論調査の速報性 世論調査には構造問題が存在している。感情や反応を集めただけの数字が政治や社会に過剰な影響を与えることのないよう、マスコミや世論調査の意味について見直すべき 「BBCの英首相会見で痛感、日本メディアの情けなさ 欧米の健全なジャーナリズムが羨ましい、それに引き換え日本は」 日本の大手メディア(新聞、テレビ)が政治家の疑惑追及に消極的なのは、国民が常々不満に思っていることである BBCによるボリス・ジョンソン首相の単独インタビュー 首相とのサシのインタビューでコロナ対策を追及する記者 冒頭は、「新型コロナ問題に関して、あなたは何を間違えたと思いますか?」という質問 日本のように安部首相の大本営発表的なインタビューとは大違い 訊くべきことを訊く記者、ごまかさず懸命に答える首相 記者クラブに安住し訊きやすいことだけ訊いているのだから読者離れも必然か 大手メディアのサラリーマン記者は、政治家のご機嫌を取り、時々、政治家からちょっとした情報をもらえれば、バッテンも付かず、結構な給料ももらえるという居心地のよい地位に安住し、真実を追求し、権力の暴走を阻止するという最も重要な役割を放棄 「新聞は社会の木鐸(ぼくたく)」と習ったが、日本ではまったく絵に描いた餅に終わっている 望月衣塑子記者 メディア各社は、望月記者やフリーランスの記者を冷笑するような自分たちの姿勢が、権力者をつけ上がらせ、読者からの信頼も失わせ、自分たちの価値を下げていることを認識すべきである 「スポーツ新聞を憂う」 デクノボウの皆さんも、この種の耳タコの常套句を、さも重大な情報を分かち与えるかの体で開陳して恥じない うるせえその話は300回聞いたぞ テレビ局の人間たちが「番組」の仕上げとして練り上げている「味付け」の部分は、スポーツ愛好家たるオダジマにとっては、まるごと邪魔だったということだ コロナのせいで死んだのは、テレビだけではない。 新聞も雑誌も、果ては個人発信のSNSまでもが俗悪な集団舞踏と化している。とりわけ、ジャンルとしての生存が危ぶまれるレベルで劣化しているのが、スポーツ新聞だ この種のコピペ書き起こし記事のネタ元になる「芸人」や「論客」には、結果として、ある「偏向」が介在する スポーツ各紙が、これらのタレント論客の発言を無批判に拡散する記事を定期的に配信しはじめたのは、昨日今日の話ではない。 ツイッターならびにテレビ番組コピペ記事は、もう10年以上も前から続いているスポーツ紙編集部の収益源のひとつだった 「朝日人」 「社内誌」 うん。自分の足を食べてるタコみたいな話だろ? どれをとっても整然としていて、当たり前の話だが、文章がきちんとしている 「なんという才能の浪費だろうか」 この会社は、毎年何十人もの選りすぐりの文章家を選抜して、雇用し、その彼らを一定のメソッドに従って訓練し、育成しながら、結果としては、書く場所も与えずに飼い殺しにしているわけだ スポーツ新聞が生き残るのは難しいと思うのだが、記者の皆さんには、それぞれ、ふさわしい活躍の場が与えられることを祈っている インターネットの時代になって、新聞の紙面では、必ずしも持ち前の文章力を発揮する機会に恵まれていない記者たちが、思う存分にペンを振るえる場所が少しずつ整ってきている
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