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人権(その4)(黒人差別問題から省みる日本人の「普通」地獄、女子アナの登竜門「大学ミスコン」は もう全大学で中止すべきだ もう論点は「女性差別」だけではない、小田嶋氏:一億総祖父母時代に 大坂なおみ選手をたたえる) [社会]

人権については、6月28日に取上げた。今日は、(その4)(黒人差別問題から省みる日本人の「普通」地獄、女子アナの登竜門「大学ミスコン」は もう全大学で中止すべきだ もう論点は「女性差別」だけではない、小田嶋氏:一億総祖父母時代に 大坂なおみ選手をたたえる)である。

先ずは、6月23日付け日経ビジネスオンラインが掲載した健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏による「黒人差別問題から省みる日本人の「普通」地獄」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00079/?P=1
・『今回は感情の赴くままに書く。なので、読んだ方も感情の赴くままに考えて欲しい。 「まず、俺は誰も責める気はない。文句を言うつもりもない。これが差別だとかどうとかそんなの本当にどうでもいい話」 これは6月15日に、東北楽天ゴールデンイーグルスのオコエ瑠偉選手が「自分のものすごく嫌だった過去」を、ツイッターでさらけだした際に、冒頭に書かれていた言葉だ。 オコエ選手が「周りと違うと初めて認識させられた」のは、保育園で先生が「みにくいアヒルの子」を読んでくれたときの周りの子供たちのまなざしだった。うつむき耳をふさぎ、孤独を感じたオコエ選手は、その後も“心が無くなる瞬間”をたびたび経験する。 「親の似顔絵を書くとき、顔は肌色で描きなさいと言われた」「おまえの家で虫とか食うんだろうと罵られた」「甲子園に黒人は出るなとか聞こえてきた」……etc.etc 「ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかな、と考えていた。今となっては、この普通とはなんだろうといまだに考えている」「心が無くなるのは本当に怖い」──。 そして、3ページにわたるオコエ選手の“嫌だった過去”は、こう締めくくられた。「今後、自分の子供ができて同じ経験をさせないようにするにはどうすればいいのだろう。と考えている人。そういう人たちの共感につながればいいな」と。 #BlackLivesMatter のハッシュタグが付けられたこの投稿は、6月22日現在で19万3000件の「いいね」が付き、5万2000件リツイートされている。このツイートはさまざまなメディアでも取り上げられたので、ご覧になった人も多いかもしれない。 一方、オコエ選手はメディアが、「楽天オコエ、差別受けた過去明かす」という見出しを付け報じていることに対し、ツイッターを更新し、「メディアがこうやって勝手に差別とかいうけど、日本人一部にとって差別って言葉自体刺激的だし、これが差別なのか俺でも分からないから俺は使わない」と記している』、「保育園で先生が」「親の似顔絵を書くとき、顔は肌色で描きなさいと言われた」、とは酷い話だ。混血の児童も増えていることから、先生に最低限の人権教育をするべきだろう。
・『米国に端を発した差別反対の動き  差別。確かに刺激的な言葉だ。なのに「差別された」「差別されてんだよ」などと、この言葉を日常的に使うこともある。「それ差別だろ?」とののしれば、「差別じゃないよ、区別だよ」と言い返されることも。学歴差別、男女差別、年齢差別など、理不尽な差別に悩み、苦しむ人たちもいる。 オコエ選手の投稿は、#BlackLivesMatter のハッシュタグが付けられているとおり、白人警察官による米ミネソタ州の黒人暴行死事件が引き金となった全米の抗議デモに関連して、「自分のものすごく嫌だった過去」を書いたものだ。 亡くなったミネソタ州の男性の最期の言葉は、“I can't breathe”。男性は警官らに首と背中を圧迫され続け、脳への血流が止まって死亡し、事実上の即死状態だった。現場にいた警察官4人全員が懲戒解雇され、起訴されている。 これまでも黒人男性が警察官に射殺される事件は繰り返された。今回の抗議デモの最中も、米ジョージア州アトランタのハンバーガー店で黒人男性が射殺された。どれもこれも不合理な事件で、そこに「黒人の人権」はなかった。 相手が黒人だから発砲しているんじゃないのか。黒人の命を軽んじてるんじゃないのか。400年前にアフリカから黒人を「奴隷」として買ってきた時代は、とっくに終わっているのに、黒人の「生きる意志」さえ奪う人たちが後を絶たない。 つまり、#BlackLivesMatterとは、言葉が示す通り「命」の問題なのだ。 日本のメディアは今回の抗議デモが過激化している背景を、「人種差別とコロナ禍で浮かび上がった所得や医療水準の格差の広がり」と説明するが、それは「イエス」であり「ノー」だ。 米国には日本人が決して理解できない「感情」がある。少なくとも私はそう考えている。幼少期に私が米国に住んでいたときも、ティーンになって留学したときも、大人になって米国人の友人とお酒を交わしたときも、「私たち日本人には理解できない“感情”」を、たびたび感じてきた。それは外からは決して見えない、皮膚の下に潜んでいるものだった。 奴隷制という歴史と、多種多様な人たちがつくり上げた国だからこそ、オバマさんのような理想を掲げ、平和を追求し「I」ではなく、「we」を主語にするリーダーが必要だった。だが、トランプ大統領になってから、そうした米国の“建前”がどんどん崩れていってしまったのだ。 その一方で米国には、属性ではなく「個人」をきちんと評価し、「異物」を受け入れる土壌もある。アフリカ系米国人であっても、スポーツ選手、俳優、芸能人、ミュージシャン、政治家、実業家として活躍する人たちもいるし、スパースターとして米国のアイコンになっている人はたくさんいる。例えば野球の世界を見ればいかに米国が「個人」をきちんと認めるかが分かるはずだ』、「米国には日本人が決して理解できない「感情」がある・・・幼少期に私が米国に住んでいたときも、ティーンになって留学したときも、大人になって米国人の友人とお酒を交わしたときも、「私たち日本人には理解できない“感情”」を、たびたび感じてきた。それは外からは決して見えない、皮膚の下に潜んでいるものだった」、さすが米国での生活体験が長い河合氏ならではの捉え方だ。
・『多様性を認める米国で花開いた野茂とイチロー  1995年に、ドジャースとマイナー契約を結んで米国に渡った野茂英雄さんは、トルネード投法で瞬く間に人気者になり、米国で一番有名な日本人になったし、イチローさんもメジャーリーグに新しい風を吹かせた。 野茂さんがメジャーに挑戦することになったとき、多くの日本人は「無理に決まってる」と冷たく言い放ち、イチローさんのときも「あの体格じゃ無理に決まってる」と冷ややかな見方が多かった。実際に米国で活躍してヒーローになって初めて評価した。そしてその名声を逆輸入したのだ。 そう。これこそが日本の問題であり、オコエ選手の経験が、問うていることではないだろうか。「ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかな、と考えていた。今となっては、この普通とはなんだろうといまだに考えている」と、オコエ選手が吐露したように、日本には「普通」という、至極曖昧で、それでいてとんでもなく重い“まなざし”が社会のいたるところに刷り込まれている。 日本という国が持つ「異物への厳しいまなざしの根深さ」と言い換えてもいい。 個人的な話で恐縮だが、私は9歳から米国で過ごし13歳のときに日本に帰国した。当時の日本は、「帰国子女」が珍しい存在だった。なので、毎日のように同級生が“米国帰り”の私を見物にきた。まるでパンダのようだった。 そんなある日、「事件」が起こる。学校に行ったら、上履きがズタズタに切り裂かれ、「米国帰り、ばーか!」「調子に乗るな!」「目立ちすきぎなんだよ!」と サインペンで書かれていたのだ。 その数週間前にも、1つ上の女の先輩に「目立ってるんじゃないよ!」と突然怒られたことがあったので、おそらく同級生の中に「異物である私」を快く思わない生徒がいたのだと思う。 日本に帰国してから漠然とした息苦しさを感じていたが、上履き事件でやっとその正体が理解できた。それは「普通が一番」という暗黙のルールだった。「普通」とはみんなと一緒。見た目、キャラクター、能力、思考性などのありとあらゆる場面で、「普通」が求められてしまうのだ』、「「普通が一番」という暗黙のルールだった。「普通」とはみんなと一緒。見た目、キャラクター、能力、思考性などのありとあらゆる場面で、「普通」が求められてしまう」、同質性を強く求める日本社会の狭量さが如実に表れているようだ。
・『小さな違いも許せない「普通の日本人」という価値観  米国では常に「自分MAX」になる教育を受けた。勉強好きな子は勉強し、駆けっこの速い子は陸上チームに入り、おませな女の子たちは口紅を塗り髪の毛をブリーチし、誰もが「最高の自分」を目指していた。 ところが日本では「みんなと一緒」じゃないと嫌われる。それまで「自分の意見を言いなさい」と教育されてきたのに、日本では黙っている方が安全。手を挙げて意見を言うと、ダサい、でしゃばり、目立ちたがりと揶揄(やゆ)される。それは私にとって拷問だった。だって、米国では人と違うことが前提で社会が成立していたのだ。 一方、日本社会は同質性の高い集団なので、小さな不一致が目立つ。そのことに日本人は耐えられない。不一致=目立つ存在がいることで、多数派は「普通の日本人」という意味不明の価値観で結託する。 フランスに本社がある某企業に勤める知人が、実に面白いことを嘆いていたことがある。その会社では、フランス人が日本に出張したり、転勤したりするときのためのマニュアルがあり、そこには次のような一節がある。 「スーツは紺かグレー。ネクタイはストライプ。それ以外は、日本人には受け入れられない」と。 彼にこの話を聞いたあと、大手町かいわいでビジネスマンウオッチングをしたら、笑えるほどそのとおりだった。いったい誰の指示でニッポンの会社員は “ドレスコード”を守っているのか。 毎年行われる新卒採用の合同企業説明会に“黒スーツ軍団”が押し寄せる光景も、まるで「国葬」だ。企業側がどんなに「リクルートスーツじゃなくていい」とアナウンスしても、“喪服”を選ばない学生は一向に増えない。 「人それぞれだよね~」だの「個性は大切だよね~」と言うくせに、「その方が無難だね」と、「みんな一緒」の選択をする。服装にまで「普通」を好む日本人のマインドは、平均以上効果に関する調査でも示されている。 「平均以上効果」は、「私は平均より上」と自己評価する心理で、かつては人の「基礎的な性質」と考えられてきた。例えば「あなたのリーダーシップ能力は、このクラスの中で上から何%くらいに入りますか?」という質問をした場合、「上位20%」と答える人の割合が「上位80%」と答える人より圧倒的に多く、「半分より下」と答える人はごくわずかといった具合だった。 ところが世界中で研究が蓄積され、この平均以上効果が文化的な影響を受けることが分かってきた。日本をはじめとするアジアの国々では、「私は平均より上」と答える人の割合が欧米に比べ少ない、あるいは「平均以上効果」自体が認められないケースが相次いで報告されたのだ。 そんな中、日本には日本独特の傾向があることが分かった。 平均以上効果自体は認められたが、そのサイズが欧米に比べ小さいだけでなく、「自分は普通=みんなと一緒」と考えている人ほど満足感が高いという、極めて肌感覚に近い結果が認められたのだ』、「それまで「自分の意見を言いなさい」と教育されてきたのに、日本では黙っている方が安全。手を挙げて意見を言うと、ダサい、でしゃばり、目立ちたがりと揶揄される。それは私にとって拷問だった」、大学でも学生に質問を促しても、殆どが黙っているだけのようだ。「日本には日本独特の傾向があることが分かった。 平均以上効果自体は認められたが、そのサイズが欧米に比べ小さいだけでなく、「自分は普通=みんなと一緒」と考えている人ほど満足感が高いという、極めて肌感覚に近い結果が認められた」、その通りなのだろう。
・『差別する側は気づかない地獄のまなざし  フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルは、社会のまなざしをregardと名づけ、以下のように論じている。「人間は自分で選択したわけでもないのに、気づいたときには既に、常に状況に拘束されている。他人から何ものかとして見られることは、私を1つの存在として凝固させ、他者のまなざしは、私を対自から即自存在に変じさせる。地獄とは他人である」(『存在と無』より抜粋して要約)と。 私たちの言動の多くは社会との関わりの中で生まれ、他者のまなざしという、えたいのしれない空気に操られ、他者に支配されている。地獄とは他人。まさに「普通の日本人」というまなざしに、オコエ選手は心を無くしたのだろう。 ところがやっかいなことに、まなざしを注いでいる人には「まなざしに拘束される息苦しさ」も、そこに地獄が存在することすら分からない。 だから#BlackLivesMatterのデモが、日本でも行われたことに対し、「日本には黒人差別なんてないのにこの人たちなにやってんだ」と平気で罵倒したり、このデモを支持する投稿をしたテニスの大坂なおみ選手に心ない書き込みをしたりする人たちがいたのではないか。 そして、「普通」という意味不明のまなざしに、悩み、苦しみ、生きづらさを感じている人たちがいたるところに存在することすら、「普通」の人たちには理解できない。 障害のある人、LGBT、外国人、結婚しない女性、子供がいない夫婦、イクメン、などなど、普通の日本人というマジョリティーからはみ出るマイノリティーは、異物と判断され、「普通」に同化するか、排除されるか、はたまた屈辱的な扱いに耐えるかという、究極の選択を迫られる。オコエ選手と同じように、心が無くなる経験をする日本人もたくさんいる。 「今後、自分の子供ができて同じ経験をさせないようにするはどうすればいいのだろう。」 オコエ選手のこの言葉に秘められた闇は深い。実に深い。無意識に普通を求める社会。普通って、何なんだよ』、「普通」(「同質性」)を極端にまだ求める日本社会の闇は深い。一挙に打開するのは到底無理で、部分的に改善してゆく他ないのかも知れない。

次に、7月10日付けPRESIDENT Onlineが掲載した教育ジャーナリストの小林 哲夫氏による「女子アナの登竜門「大学ミスコン」は、もう全大学で中止すべきだ もう論点は「女性差別」だけではない」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/36847
・『多くの大学の学園祭では「ミスコンテスト」が行われている。だが、上智大、法政大、国際基督教大などは「多様性の尊重」という観点から中止を決めた。教育ジャーナリストの小林哲夫氏は「これまでもミスコンは『女性差別』と批判されてきた。今回、さらなる論点が出てきたことで、ミスコンを中止する流れが加速しそうだ」という――』、興味深そうだ。
・『再燃する廃止論、「大学ミスコン」はこれからも続くのか  2020年4月、上智大ではコンテストの主催者が、大学祭=ソフィア祭でのミスコンを廃止すると決定し、次のような声明を出した。 「現状のミス・ミスターコンが孕む外見主義的な判断基準という問題や『ミス=女性らしさ』『ミスター=男らしさ』という性の画一的な価値観の押し付けを助長するようなコンテスト名からしても、LGBTQや多様性という観点から批判を受けることは然るべきであり、致し方ないと言わざるを得ません。(略)このような状況を鑑みて、今年度からミス・ミスターコンを廃止する決断に至り、時代に沿った新たなコンテストを開催することになりました」(2020年4月1日 ソフィア祭実行委員会コンテスト局)。 上智大がミスコンを廃止した理由として、「LGBTQや多様性という観点」をあげている。これと同じ理由でミスコンをいっさい認めないと宣言した大学があった。法政大である。昨年11月、同大学は田中優子総長名義でこう訴える。 「本学では、2016年6月に『ダイバーシティ宣言』を行いましたが、ダイバーシティの基調をなすのは『多様な人格への敬意』にほかなりません。『ミス/ミスターコンテスト』のように主観に基づいて人を順位付けする行為は、『多様な人格への敬意』と相反するものであり、容認できるものではありません」(大学ウェブサイト 2019年11月29日)』、「ソフィア祭実行委員会」では、新企画Sophian's Got Talent、Sophian's Contest、で候補者の人間性やスキル、SDGsなど社会への歩み寄りといった内面を競うものとしている。
https://www.sophiafes.com/
・『「多様性の尊重」という新しい潮流  こうした動きは10年ほど前からあった。 2011年、国際基督教大では、学生がミスコンについて、「多様な人間のあり方が尊重」されなければならないことを理由に反対し、それ以降、開催されていない。当時、「ICUのミスコン企画に反対する会」がこう訴えている。 「私たちは、人種的、身体的、階級的に画一的な女性の美のイメージの強化をもたらし、女性の性的対象化の道具として機能してきた歴史をもつミスコンに、そもそも反対します。ですから私たちは、ICUの外においても、差別的な電車の釣り広告やミスコンに反対します。基本的な人権、および多様な人間のあり方が尊重される社会をめざす私たちは、当然ICUでのミスコン開催にも反対します」(同会のウェブサイト)。 上智大、法政大、国際基督教大で唱えられた、多様性を尊重するという気運は、さまざまな性のあり方が尊重される、たとえば、トランスジェンダーの人たちが快適に生活できる社会づくりを目ざすものだ。人権問題でもある。大学、学生のこうした理念と大学ミスコンはおよそ相容れない、というわけである』、「ミスコン」ぐらい、目くじらを立てなくてもと思うが、時代の要請なのだろう。
・『女性差別批判をよそに広がった「大学ミスコン」  大学ミスコンへの風当りの強さは、きのう今日はじまった話ではない。常に批判がついてまわった。大学ミスコンは1970年代後半から各地で広まっているが、当初から女性に対する差別として厳しい批判を受けてきた。 1978年、名古屋大では大学祭で予定されていた「ミス・キャンパスコンテスト」が、女性問題研究会からの抗議を受けて中止となった。同会はこう訴えている。 「出場した女性に賞品を与えることで女性を商品化し、しかもそれが男性にとっての商品、見せ物、人形であることは女性が男性にとっての性的対象物であるという歴史的な男性中心の論理をそのまま受け継ぐものである。」(『週刊朝日』1978年6月23日号) 1987年、東京大駒場祭で「東大生GALコンテスト」では乱闘騒ぎが起きている。東京大学新聞がこう伝えている。 「開会後しばらくして、急に会場内の照明が消され、数ケ所で爆竹が鳴らされ、様々な姿に変装して花火のようなものを手にした学生がつぎつぎと舞台にあがった。主催者側と合わせて約四十人が舞台上で乱闘状態となり、会は中止となった。乱闘の中で、水をかけたりイスを投げた者もあった」(同新聞1987年11月24日) しかし、大学ミスコンは廃れることはなかった。 1980年代半ばから1990年代にかけて、「女子大生ブーム」が起こり、女子学生がたいそう注目されたことも大きい。一方で、ミスコンに登場したいという女子学生も増えた。その動機には「自分を磨きたい」「キャリアアップとしたい」などがあり、女性差別という批判を打ち消さんばかりの勢いだった』、歴史的にも賛否両論が対立してきたようだ。
・『ブランド化し、協賛企業が群がった「ミス慶應」  1990年代から2000年代、かつてミスコンを粉砕した強硬な「反対勢力」はほとんどなくなった。バブル経済はとうに崩壊し、ITバブルを迎えるがそれもはじける中、大学ミスコンは元気だった。 なかでも、「ミス慶応」は大学ミスコンのなかで圧倒的なブランド力を持っていた。ミスコンを主催するのは広告学研究会である。彼らは「ミス慶応」といいイベントの流れを次のように話している。 「候補者は広研のホームページの告知と学内のポスター掲示によって募集しました。また、自薦、他薦だけでなく私達がスカウトした方もいます。それは四五月に行いました。そして、六月に日吉でお披露目イベント、七月には七夕祭への参加、八月には当サークルが経営している海の家でのイベントというように学内でのプロモーションを積極的に行いました。そして今年十月十六日、十七日は109でのプレイベントを開催しました。このプレイベントと三田祭での会場投票、Web投票、携帯での投票数によって『ミス慶応』は決まります」(慶應塾生新聞2004年11月10日号) 「ミス慶応」には、協賛企業が群がっていた。2000年代後半、こんな報道がある。 「優勝者への賞品も豪華で、06年のミスには、外車のBMWが贈られた。昨年はティアラだった。(略)協賛金の総額について、研究会は教えられないとしているが、慶大広報室によれば、数百万円規模という」(朝日新聞2009年11月16日)』、「06年のミスには、外車のBMWが贈られた。昨年はティアラだった」、さすが『ミス慶応』だけあったようだ。
・『「女子アナの登竜門」不祥事連発でも注目される理由  これほどまでに熱狂しエスカレートしたのは、大学ミスコンが社会的に影響力を持つようになったからだ。「ミス○○大学」はメディアでもてはやされてしまう。そして、何より大きいのはアナウンサーの登竜門の役割を果たしことだ。 TBSの元アナウンサーがこんな話をしてくれた。 「アナウンサー採用にあたってミスコン入賞者を現場のアナウンス室がダメ出しをしても、なぜか最終面接まで残ってしまう。幹部、役員レベルがはじめにミスコン入賞者ありきでピックアップさせたからです。それで失敗したケースはいくつもあるんですけどね」 慶應義塾大のミスコン出身のアナウンサーには中野美奈子、秋元優里、細貝沙羅、小澤陽子(以上、フジテレビ)、小川知子、青木裕子、宇内梨沙(以上、TBS)、竹内由恵、桝田沙也香(以上、テレビ朝日)などがいる。 「ミス慶応」のブランド力は大きい。それを運営する広告学研究会の学生たちの感覚はときにマヒすることがあるようで、不祥事をよく起こす。2009年、同会部員が駅構内を裸で走るなどして書類送検される。2016年には部員が女性部員を泥酔させて集団で強姦、動画まで撮影されたと報じられる。 2019年、2つの団体が慶應ミスコンを企画したが、のちに一団体が取りやめるというゴタゴタがあった。大学当局もかなり気にしており、公式にこんな告知を出している。 「近年、学外において、『ミス慶応』あるいはそれに類する名称を掲げたコンテストが開催されていますが、それらを運営する団体は本学の公認学生団体ではなく、コンテスト自体も慶應義塾とは一切関わりがありません。しかしながら、それらのコンテストには本学の学生も参加しており、一部報道に見られるようなトラブルも発生しています。本学はこうした事態を深く憂慮しており、状況によって今後の対応を検討していきたいと考えます」(大学ウェブサイト 2019年9月)。慶應義塾大学ウェブサイトより』、「広告学研究会・・・不祥事をよく起こす・・・2016年には部員が女性部員を泥酔させて集団強姦、動画まで撮影」、これはよく覚えているが、確かにお粗末な事件だった。
・『学生、参加者、企業が築いた「ウインウインの関係」  それでも大学ミスコンはなくならない。学生はキャンパスを盛り上げたい、参加者はミスコンに出てキャリアアップにつなげたい、企業はミスコン活用で商品宣伝し金儲けしたい、などのさまざまな思惑で利害が一致してしまうからだ。ウインウインの関係が成り立つ以上、やめられないようだ。 ミスコンが盛んな大学は青山学院大、立教大、学習院大、そして東京大などがある。なお、早稲田大は2000年代に入って、「早稲田」と名のつくミスコンは禁じられている。同大学学生部はこう話している。 「きちんとした審査員がいるわけでもなく、容姿で女性を選ぶのは、どんな口実をつけてもダメです」(朝日新聞2009年11月6日)。 今年、東京大学新聞がミスコン開催の是非を問う記事を掲載した。反対する「ミスコン&ミスターコンを考える会」はこう訴える。 「女性は日々否応なしに外見や『女子力』などを男性に評価され、苦しむ人もます。コンテストはこうした日常的な行為を大々的に学園祭の企画として行い追認するものです。(略)コンテストは支持者が男性であろうと女性であろうと、ある一定の「女性はこうあるべき」というジェンダー規範を再生産し社会に浸透させています。このジェンダー規範が多くの女性を傷つけているのです」。 この主張について、「ミス東大」となった女子学生は次のような談話を寄せている。 「自分の人生を自分で切り開きたい人にとっていい機会だと思う、ミスコン自体は表面的な美の闘いだけではないと思う」(賛否いずれも、東京大学新聞2020年4月7日号)』、「ミス東大」の言い分はやはり手前勝手な印象だ。
・『「多様性の尊重」の潮流がもたらすインパクト  女性差別を助長する。これまで大学ミスコンへの批判はこのような視点がメインだった。ところが、はじめに紹介した上智大、法政大、国際基督教大のように「多様性の尊重」が加わったことで、大学ミスコンを批判する層は広範囲になるとみていい。 昨今、LGBTQなど、さまざまな性のあり方を抱える人たちを差別してはならない。尊重し共に生活していこうという考え方であり、世界じゅうで広がっている。これは人権の尊重、平等社会を根底とするテーマであり、黒人差別反対運動など同じ潮流と言える。 人間が等しく生きる、だれもが尊重される社会を築くために、先人が多くの思想を残してきた、それは教養知、学問知と言ってもいい。 そういう意味で、大学という知の最先端の場では、「多様性の尊重」とは相容れないとされるミスコン開催は、問われることになるだろう。実際、海外の大学でミスコン開催は少ない。たとえば、「ミス・ハーバード」「ミス・ケンブリッジ」などは聞いたことがない』、確かに「大学でミスコン」と「多様性の尊重」とは相性が悪いようだ。
・『今こそ大学の矜持を示すべき  もう、大学ミスコンはやめるべきではないか。 大学がアカデミズムという自覚を持ちたければ、「多様性の尊重」を追求するために。 慶應義塾大はこう掲げている。「自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味する、慶應義塾の基本精神です」(大学ウェブサイト)。ならば、「自他の尊厳を守」るためにも。諸外国から非難されたので大学ミスコンをやめる、などという、外圧に弱い日本らしい、恥ずかしい思いをしないよう、大学は考えてほしい。 ミスコン廃止について、「ひがみはないか」「たかがコンテストなのに」「女性が出たいといっているのに」「美人を評価して何が悪い」などという意見に、大学あるいは学生が理路整然と答えていく。それが大学の矜持だと思う』、「大学ミスコンはやめるべき」だが、その大きなカギを「慶應義塾大」が握っているようだ。

第三に、9月18日付け日経ビジネスオンラインが掲載したコラムニストの小田嶋 隆氏による「一億総祖父母時代に、大坂なおみ選手をたたえる」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00086/?P=1
・『菅義偉氏が第99代の内閣総理大臣に就任した。各メディアは新首相および新内閣の話題で持ち切りだ。 私個人としては、「ああそうですか」と申し上げる以外に伝えるべき言葉が見つからない。 もう少し事態がはっきりしてきたら、あるいは、何かを言うことになるかもしれないが、何も言わないかもしれない。私が何かを言う前に、政権の方が倒れているかもしれない。どっちにしても、先のことはわからない。 今回は、大坂なおみ選手の全米オープンテニス大会での優勝をめぐって、いくつかのメディアで取り上げられた話題を振り返ってみたいと思っている。 この話題には、いくつかの重要な問題の糸口が顔をのぞかせている。その「いくつかの重要な問題」を思いつくままに箇条書きにすれば、 アメリカにおける黒人差別の問題に、われら日本人は、どのようなスタンスで関与すべきであるのか。 スポーツ選手や芸能人などの著名人が社会的な問題や政治的な事象について発言することを、わたくしども一般人はどう受け止めたら良いのか。 女性のスポーツ選手を「真央ちゃん」「なおみちゃん」と、いつまでたっても「娘呼び」にしたがる国民の心情の奥底には何が隠されているのか。 女性差別や人種差別など、なんであれ差別について発言する人間を「反差別界隈」などと呼んで揶揄したがる人たちの真意は那辺にあるのだろうか。 という感じになる。 最初の黒人差別問題についての議論は、一見、わりと単純に見える。 というのも、原則論を述べるなら、どこの国の誰に対する差別であれ、人間が人間を差別することは、許されないことであるはずだからだ。 してみると、不当な差別に抗議の声を上げている人々を支援するのが21世紀の人間として当然の反応だということになる。 ただ、世界は原理原則だけで動いているわけではない。 たとえばの話、中国政府によるウイグル人やチベット民族への差別待遇に抗議の声を上げている人たちは、アメリカの黒人差別に比較的冷淡だったりする。逆にアメリカの黒人差別問題を取り上げることに熱心な論客は、ウイグル、チベットの問題にはさしたる関心を示していないケースが多い。 これらの問題への評価は、差別が良いとか悪いとかいった原則の話よりも、差別に関与している人々と、それを話題にしている人々の関係の近さをより大きく反映している。 であるから、中国政府に難癖をつけたいと考えている人々は、なにかにつけてウイグル・チベットの話題を持ち出したがるし、逆にアメリカの現政権に言いがかりをつけたいと考えている向きは、彼の国の国論を二分している黒人差別問題を話題にしたがる。そういうことになっている。 大坂なおみ選手が全米オープンテニスのコート上に持ち込んだBLM(Black Lives Matter)についても、人々の反応は一様ではなかった。 わかりやすい例をひとつご紹介する。 大坂なおみ選手が優勝を決めた9月14日、自民党所属の参議院議員・松川るい氏がこんなツイートを投稿した。(←現在は削除済み) 《大坂なおみさん、優勝おめでとうございます!! 優勝だけでも凄いのに、7枚のマスクに込めたメッセージは凄いインパクトを米国に世界に与えました。日本人として誇りに思います。米国警察は黒人の命を軽視するのをやめてほしい。》 すると、このツイートに対して、主に自民党の支持層から反発が殺到する。 代表的なご意見としては 「大坂なおみは無謬ではない」「アメリカの警察が黒人の命を軽視していると断じるのは軽率」「国会議員が公の場で発信することではない」「民主党に利用されている」「暴力的な暴動に発展している運動を無批判に支援するのか」といったあたりだったろうか』、「松川るい氏」の「ツイート」は「自民党議員」らしからぬ内容で、「主に自民党の支持層から反発が殺到」、あり得る話だ。
・『で、これらの批判にこたえる形で、松川るい議員は、9月16日午後、《下記Twitterについて。殆どの警官の皆様は命懸けで市民を守っています。それにもかかわらず、軽率なコメントをしてしまったことを関係者の方々に心からお詫び申し上げます。本当に申し訳ありませんでした。》 と、既に削除・撤回した9月14日のツイートのスクリーンショットを添付した上で謝罪を発信した。 以上に見るように、BLMへの反応は 「差別に反対しているのだから善意の運動であるに決まっている」 というシンプルな見方に終始するものではない。 当然、「人種間の複雑な対立感情を大統領選挙のための投票行動に結びつけるための策動のひとつだ」というおなじみの方向から警戒する人々もいれば、中には「裏では中国共産党が糸を引いている」というトンデモな陰謀論を持ち出して批判する向きもある。 運動そのものへの個々人の評価とは別に、米国内では、トランプ支持派/反トランプ陣営、あるいは、共和党支持層/民主党支持層の別によって、運動への評価が180度異なっていたりする。もちろん、米国外でも、論者が親米/反米、親中/反中のいずれであるかによって運動へのスタンスはまるっきり違っていたりする。それらの立場の違いとは関係なく、とにかくデモ全般を嫌う人たちもいれば、どんな体制に対してであれ、反体制の旗を掲げることそのものへの忌避感を隠さない人々もいる。 いずれにせよ、BLMへの評価は、運動の実態そのものよりも、それを見つめる人々の立ち位置をより大きく反映している。 私個人は、BLMを、米国の歴史を正面から問い直す歴史的な運動として眺めている。その意味で、この運動を大統領選挙の戦術であるとか民主・共和両党の対立だとかいった短期的で政治的な戦術の問題に矮小化している人々は、いくらなんでも視野が狭すぎると思っている。 そう考えてみると、大坂なおみ選手は、まさに米国の歴史の一大転換期に立ち会う形で、その一部として、大切な役割を担っているわけで、その大舞台で堂々と振る舞ったその彼女の知性のしなやかさと勇気は、最大限に評価せねばならない。みごとだと思う。 ところが、うちの国のSNSでは、その大坂なおみ選手の行動に対して 「テニス選手ならテニスのプレイでアピールしてほしい」「政治的な問題をコートに持ち込まないでほしい」「スポーツ選手がスポーツのファンに上から説教をする態度には反発を感じる」といった調子の反発の声が大量に寄せられている。 これらの声に対しては、大坂なおみ選手本人が、9月16日付で、以下のようなコメントをツイッターのタイムラインに発信している。 《All the people that were telling me to “keep politics out of sports”, (which it wasn’t political at all), really inspired me to win. You better believe I’m gonna try to be on your tv for as long as possible.》 ちなみに、ツイッターの「翻訳」ボタンを押した結果は以下の通り。  《「政治をスポーツから遠ざける」ようにと私に言っていたすべての人々(それはまったく政治的ではありませんでした)は、本当に勝つために刺激を受けました。私はできるだけ長くテレビに出演するつもりだと信じた方がいいです。》 なるほど。翻訳がやや生硬なので補足すると、こんな感じだろうか。 《私が勝てたのは「スポーツに政治を持ち込むな」と言ってきた人たちのおかげです(実際、黒人の生命の問題は政治以前の問題ですが)。私はあなたたちの見ているテレビに一秒でも長く映るつもりなのでよろしくね。》 なんとみごとなリターンエースではないか。 私が付け加える言葉はひとつもないのだが、それではこっちの商売が立ち行かないので、以下、いくつか蛇足を並べてみる』、「大坂なおみ」の「ツイッター」発信は確かに「みごとなリターンエース」だ。
・『スポーツ選手でも歌手でも、あるいはコラムニストでも絵描きでも同じことだが、自分の顔と名前を世間に晒した上で、自分の作品なり技倆なりを売っている人間は、知名度を足がかりに稼いでいることに伴う責任と覚悟を持っていなければならない。 その責任とは、自分の発言や行動が人々に大きな影響を与えることへのあらかじめの決意であり、覚悟というのは、その影響によってもたらされる結果を引き受ける心構えのことだ。 であるからして、アイドルであれ作曲家であれ、世間に名前や顔を晒している人間は、自分の言動がもたらす社会的な影響力に無知であってはならない。 もちろんこれは、「発言してはいけない」ということではないし 「発言せねばならない」ということでもない。 具体的な指針としては、「自分の発言がどんなふうに波及するのかをよく考えた上で発言すべきだ」ということになる。 その点において、大坂なおみさんは、十分に思慮深かったと思う。 巨大な知名度を持っている人間が軽率に発言すべきでないことは、たしかにその通りではある。 しかしながら、その一方で、知名度を持った人間が、自身の知名度に見合った発言を心がけることもまた、大切な覚悟だと思っている。 どういうことなのかというと、大坂選手のような立場の人間(ワールドクラスの著名なアスリート)は、たとえば、BLMのような運動について、黒人として、女性として、アスリートとして、あるいは複数の民族ならびに複数の国籍、文化を代表する人間として、自分なりの見解を表明することを期待されているということだ。 当該の問題について、考えがまとまっていないのであれば、沈黙してもかまわない。また、考えがあっても、その考えを堂々と表明することに気後れを感じるのであれば、その場合も黙ることは決して恥ではない。 ただ、ある程度まとまった考えを持っているのであれば、それを率直に表明することを期待されている立場の者として、発言することは決して「出過ぎたマネ」ではない。 自分が発言したことの反響を受け止める覚悟ができているのであれば、自身の知名度を活用して広く世界に自分の考えを訴えることは、意義のあることだ。 そして、知名度の反作用をすすんで引き受けることは、21世紀という情報社会にあっては、著名人に求められる責任のひとつですらある。 もちろん、テニスの選手は政治の専門家ではないし、社会的な様々な問題についての研究者でもない。大坂なおみ選手とて、テニスが上手であることを除けば、あたりまえな22歳の若い女性に過ぎないのだろう。 とはいえ、あたりまえな22歳の若い女性であるからという理由で、自由な発言が許されないということはあり得ない。どんな立場のどんな人間であっても、アタマの中にある考えを自分の口で表現する権利は等しく持っている。それは有名人であろうと勤め人であろうと学生であろうと同じことだ。 とすれば、世界中にいる22歳の等身大の女性の一人として、リキまずに自分の中にある率直な心情を表明する手段を持っている人間が、思っているそのままを表現することは、価値のあることだ。 ところが、実際には、大坂なおみ選手のような若い女性のアスリートの場合、とりわけその政治的発言が疎まれる背景がある。 なぜというに、女性アスリートに関しては、スポンサーやファンやスポーツマスコミが総力をあげて、 「なおみちゃん」と呼びかけ得るイメージを着せかけにかかる風潮が、いまだに消えていないからだ。 「真央ちゃん」「ミキティ」「愛ちゃん」「桃子」「さくら」「聖子」と、メディアは、女性アスリートを、同じ教室で学ぶ同級生の女子か、でなければ自分の「娘」みたいな呼び名で呼ぶことを好む。そうすることで、彼女たちの人柄を、実態よりずっと幼いイメージの中に閉じ込めようとするのだ』、「自分が発言したことの反響を受け止める覚悟ができているのであれば、自身の知名度を活用して広く世界に自分の考えを訴えることは、意義のあることだ。 そして、知名度の反作用をすすんで引き受けることは、21世紀という情報社会にあっては、著名人に求められる責任のひとつですらある」、その通りだ。「女性アスリートに関しては、スポンサーやファンやスポーツマスコミが総力をあげて、 「なおみちゃん」と呼びかけ得るイメージを着せかけにかかる風潮が、いまだに消えていない」、困った傾向だ。
・『理由は、たぶん、その方が扱いやすいからでもあれば、キャラクター商品の売り上げに貢献するからでもあるのだろう。 このスポーツマスコミによる「娘呼び」問題については、10年前のバンクーバーオリンピックの直前に当欄で原稿を書いたことがあるのだが、残念なことにリンク切れになっている。 自分のブログに再掲しておいたので、興味のある向きは見に行ってみてください。 コロナ下の断末魔にあえぐわれらがスポーツメディアは、この期に及んで、いまだに女性アスリートを「娘」や「孫」のように扱いたがる。 このことは、スポーツ観戦者たるわれわれが、孫の運動会を見に行く祖父母の目線で競技を眺めていることを物語っている。 一億総祖父母。 いやな時代に生まれ合わせてしまったものだ。 最後に、大坂なおみさんのツイッターに向けて、大量に寄せられた反発と非難のリプライを眺めながら考えたことを記録しておく。 女性差別でも黒人差別でも、あるいは沖縄の人々への不当な扱いへの抗議でも、いつも同じタイプの罵倒の書き込みを繰り返す人々がいて、その中には、いわゆる「ネトウヨ」に分類される人たちが大量に含まれている。 このことは、もはや誰もが知っている退屈な事実でもある。 実際、大坂なおみさんに醜い言葉をぶつけている人々の7割以上は、いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちだった。 この人たちに対して、私の方から特に伝える言葉はない 逆に言えばだが、私は、あの人たちには、何を言っても無駄だと思っている。 彼らは、あるタイプの動員の笛に呼応して集結した、個体識別不能なボット型プログラムみたいなものだ。マジメに応対すべき対象ではない。 むしろ、面倒なのは、ネトウヨとは別の人たちだ。 ネトウヨとはまるでタイプの違う、もう少し知的なものの言い方で大坂選手をやんわりとたしなめにかかっている人たちこそが、実は、差別を固定することに最も熱心に情熱を傾けている人々なのである。 彼らは、たとえば大坂選手に 「あなたは、他人の差別を指摘できるほど完璧な人間なのですか?」という感じの質問を投げかけていたりする。 これは、一見すると、なんということもない自然な問いかけに見える。しかしながら、この問いは、実のところ、相当に念の入った嫌味を含んでいる。 事実、この問いは、翻訳すれば 「完璧な人間でなければ他人の差別を指摘できるはずはないと思うのですが、あなたはその完璧な人格者なのですか?」 という厄介なトラップ(罠)でもある。 差別の問題を扱うと、必ずこの種のトラップに手を焼くことになる。 というのも、反差別の運動を敵視する人々(彼らは、差別に反対する人々を「反差別界隈」という呼び方で分類していたりする)は、「反差別運動に従事している人間こそが、差別を助長している」という魔法のような論陣を張って、差別への抵抗運動を貶めにかかっている人々でもあるからだ』、「「反差別運動に従事している人間こそが、差別を助長している」という魔法のような論陣を張って、差別への抵抗運動を貶めにかかっている人々でもある」、高度な攻撃手法のようだ。
・『彼らの理屈はこうだ。反差別の人々は、差別を絶対悪として敵視している。それゆえ、彼らは自分たちの中には、絶対に差別意識が存在しないという自覚を抱いている。で、彼らは、世界を「差別意識を持っている邪悪な彼ら」と「差別意識を持たない正しく清潔な自分たち」の2つに分断して、邪悪な人間たちを叩く運動に邁進する。その結果、反差別運動に従事している人間たち自身の中にある差別意識は、抑圧、否定され、こじれた攻撃欲求となって他者に向かう。 なんだか手品みたいな理屈だが、これを信じている人間は、少なくない。悪夢みたいだ。 「あなたは他人の差別を指摘できるほど完璧な人間なのですか?」 という問いは、一方で 「完璧な人格者以外は他人の差別を指摘してはいけない」 という不可能な禁忌を設定しにかかっている。 さらに、もう一方の側面では、論敵を 「はいそうです、私は差別意識なんか持っていない倫理的に完全な人間です」というあり得ない立場に追い込もうとする罠を仕掛けている。 最初の前提に戻って言うなら 「不完全な人間同士が、お互いの差別を注意し合うことでわたくしども人類の社会は少しずつ前進して行くのですね」 というのが、われわれすべての人間の例外のない立ち位置なのであって 「完全な人間でなければ他人の非を指摘してはいけない」という前提の方が明らかに狂っているという、それだけの話なのだ。 どんな人間であれ、差別意識をまったく持っていないなんてことはあり得ない。あたりまえの話だ。こんなことは、私がいまさらことあげて言うまでもなく、誰もが認めている21世紀の常識に属する話だ。 差別に反対している人々が、自分たちの中の差別意識を絶対に認めない人々であるのかというと、そんなこともない。少なくとも、私の観察範囲では、そういう人間には会ったことがない。 あるいは、広い世の中には「自分は絶対に差別なんかしないし、差別する気持ちを持ったこともありません」と言い張る人間もいるのかもしれない。しかし、そういう人は、そもそも差別に反対する運動には冷淡なタイプなのではなかろうか。 差別に反対している人たちの多くは、 「誰もが持っている差別の気持ちや、自分でも気づかずにいる差別感情も含めて、差別には注意しないといけない」「仮に差別意識がすぐには消えないのだとしても、それをなるべく外に出さないように努力するのが現代の人間に求められる心がけですよね」 「すべての差別がすぐに根絶できなくても、それらを少しずつでも減らすように努力していこうではありませんか」 といった程度のことを繰り返しているに過ぎない。 その「反差別界隈」の人々を 「お前たちは差別者で、われわれは差別糾弾者だ」てな調子で、世界を分断しにかかる狂信者の悪党として描写せねばならないのは、たぶん、差別を指摘された人々の中に、その指摘を 「上から」言われたと思い込んだ人がいるからなのではあるまいか。 もしかして、彼らは、22歳の「女の子」に何かを教えられたことを、屈辱と感じるタイプの感受性を持っているのだろうか。 本当は、こんな話に上も下もないのである。誰かが誰かを差別していることに心を痛めるのは、あたりまえな人間のあたりまえな心情であるに過ぎない。 ところが、反・反差別界隈の人たちは、そのあたりまえな市民のあたりまえな心情を 「お気持ち」というような言葉で揶揄嘲笑していたりする。 理性とは、感情を軽んじることではない。 こんなバカバカしい、1たす1は2ですよ、みたいな、あまりにもあたりまえな話は、できれば文章にしたくなかった。 残念だ。 大坂なおみさんは、不当に殺害された実在の黒人の被害者たちの名前をもう一度思い出してほしい旨を訴えたに過ぎない。 彼女は、自分だけが正しくて、それを認めない世界が間違っていると宣言したのではない。 その十分に抑制のきいた彼女の落ち着いたメッセージを、平常心で受け止めることができなかった人々の圧力に屈して不必要な謝罪を表明した議員さんには、もう一度謝ってほしいと思う。 誰も間違っていませんでした、と』、「反・反差別界隈の人たちは、そのあたりまえな市民のあたりまえな心情を 「お気持ち」というような言葉で揶揄嘲笑していたりする」、全くイヤラシイ姿勢だ。「その十分に抑制のきいた彼女の落ち着いたメッセージを、平常心で受け止めることができなかった人々の圧力に屈して不必要な謝罪を表明した議員さんには、もう一度謝ってほしいと思う」、同感である。
タグ:人権 日経ビジネスオンライン 広告学研究会 PRESIDENT ONLINE 河合 薫 大坂なおみ 小田嶋 隆 (その4)(黒人差別問題から省みる日本人の「普通」地獄、女子アナの登竜門「大学ミスコン」は もう全大学で中止すべきだ もう論点は「女性差別」だけではない、小田嶋氏:一億総祖父母時代に 大坂なおみ選手をたたえる) 「黒人差別問題から省みる日本人の「普通」地獄」 オコエ瑠偉選手 保育園で先生が」「親の似顔絵を書くとき、顔は肌色で描きなさいと言われた 米国に端を発した差別反対の動き 米国には日本人が決して理解できない「感情」がある 幼少期に私が米国に住んでいたときも、ティーンになって留学したときも、大人になって米国人の友人とお酒を交わしたときも、「私たち日本人には理解できない“感情”」を、たびたび感じてきた。それは外からは決して見えない、皮膚の下に潜んでいるものだった 多様性を認める米国で花開いた野茂とイチロー 「普通が一番」という暗黙のルールだった。「普通」とはみんなと一緒。見た目、キャラクター、能力、思考性などのありとあらゆる場面で、「普通」が求められてしまう 小さな違いも許せない「普通の日本人」という価値観 それまで「自分の意見を言いなさい」と教育されてきたのに、日本では黙っている方が安全。手を挙げて意見を言うと、ダサい、でしゃばり、目立ちたがりと揶揄される。それは私にとって拷問だった 日本には日本独特の傾向があることが分かった。 平均以上効果自体は認められたが、そのサイズが欧米に比べ小さいだけでなく、「自分は普通=みんなと一緒」と考えている人ほど満足感が高いという、極めて肌感覚に近い結果が認められた 差別する側は気づかない地獄のまなざし 「普通」(「同質性」)を極端にまだ求める日本社会の闇は深い 小林 哲夫 「女子アナの登竜門「大学ミスコン」は、もう全大学で中止すべきだ もう論点は「女性差別」だけではない」 再燃する廃止論、「大学ミスコン」はこれからも続くのか ソフィア祭実行委員会 Sophian's Got Talent Sophian's Contest 候補者の人間性やスキル、SDGsなど社会への歩み寄りといった内面を競う 「多様性の尊重」という新しい潮流 女性差別批判をよそに広がった「大学ミスコン」 ブランド化し、協賛企業が群がった「ミス慶應」 06年のミスには、外車のBMWが贈られた。昨年はティアラだった さすが『ミス慶応』だけあったようだ 「女子アナの登竜門」不祥事連発でも注目される理由 学生、参加者、企業が築いた「ウインウインの関係」 「多様性の尊重」の潮流がもたらすインパクト 「大学でミスコン」と「多様性の尊重」とは相性が悪い 今こそ大学の矜持を示すべき 「一億総祖父母時代に、大坂なおみ選手をたたえる」 「松川るい氏」の「ツイート」は「自民党議員」らしからぬ内容 「みごとなリターンエース」 自分が発言したことの反響を受け止める覚悟ができているのであれば、自身の知名度を活用して広く世界に自分の考えを訴えることは、意義のあることだ。 そして、知名度の反作用をすすんで引き受けることは、21世紀という情報社会にあっては、著名人に求められる責任のひとつですらある 女性アスリートに関しては、スポンサーやファンやスポーツマスコミが総力をあげて、 「なおみちゃん」と呼びかけ得るイメージを着せかけにかかる風潮が、いまだに消えていない 「反差別運動に従事している人間こそが、差別を助長している」という魔法のような論陣を張って、差別への抵抗運動を貶めにかかっている人々でもある 反・反差別界隈の人たちは、そのあたりまえな市民のあたりまえな心情を 「お気持ち」というような言葉で揶揄嘲笑していたりする その十分に抑制のきいた彼女の落ち着いたメッセージを、平常心で受け止めることができなかった人々の圧力に屈して不必要な謝罪を表明した議員さんには、もう一度謝ってほしいと思う
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