科学技術(その1)(STAP細胞事件が覆い隠した科学技術立国ニッポンの「ヤバい現実」「史上最悪の研究不正」をご存知か?、日本の科学者は「給料安い」「ポンコツ多い」(一流科学者・覆面座談会)、科学者と名乗ると「外国ではカッコいいと言われる」(一流科学者・覆面座談会)) [科学技術]
今日は、科学技術(その1)(STAP細胞事件が覆い隠した科学技術立国ニッポンの「ヤバい現実」「史上最悪の研究不正」をご存知か?、日本の科学者は「給料安い」「ポンコツ多い」(一流科学者・覆面座談会)、科学者と名乗ると「外国ではカッコいいと言われる」(一流科学者・覆面座談会))を取上げよう。
先ずは、昨年11月27日付け現代ビジネスが掲載した病理専門医で科学・技術政策ウォッチャーの榎木 英介氏による「STAP細胞事件が覆い隠した科学技術立国ニッポンの「ヤバい現実」「史上最悪の研究不正」をご存知か?」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68646?imp=0
・『あのSTAP細胞事件の後も、多くの研究不正が明らかになっている。中には「史上最悪の研究不正」と言われるほどのケースも。一体なぜ不正はなくならないのか。『研究不正と歪んだ科学』編著者の榎木英介氏が警鐘を鳴らす。 夢の万能細胞と騒がれ、のちにその存在が否定されたSTAP細胞に関する事件、いわゆるSTAP細胞事件から、早くも5年以上の月日が経過した。 5年前、あれほど世間を揺るがした事件も、忘却の彼方に消え去ろうとしている。大学には事件そのものを知らない学生も増えているという。 それは私たちとて似たようなものだ。STAP細胞事件は、号泣県議や佐村河内事件など当時世間を騒がせたネタの一つに過ぎず、令和になった今、平成に起こった一つの事件として振り返ることがせいぜいだ。 しかし、STAP細胞事件があらわにした、日本の研究が抱える様々な問題は、実は何も解決していない。 いったい研究の現場で何が起こっているのか』、「日本の研究が抱える様々な問題は、実は何も解決していない」、とは驚かされた。
・『史上最悪の研究不正 STAP細胞事件を「世界三大研究不正事件」と呼ぶ声がある。 研究不正とは、狭義には存在しないデータを作る捏造、データを加工する改ざん、他の研究者のアイディアや文章などを許可や表示なく流用する盗用の3つの行為を指す。STAP細胞に関する論文には、この3つが含まれていた。 たしかに報道の量だけをみれば、少なくとも日本国内では、研究不正の事件としてはダントツだろう。 しかし、私はこれに全く同意しない) 史上最悪とさえ呼ばれる日本の研究者が起こした事件が、今世界を震撼させている。それは、元弘前大学教授で医師のS氏が起こした事件だ。 ・元弘前大学医学部所属教員による研究活動上の不正行為(捏造・改ざん・盗用)の認定について(文部科学省) http://www.mext.go.jp/a_menu/jinzai/fusei/1404087.htm ・研究活動の不正行為に関する調査結果について(弘前大学)https://www.hirosaki-u.ac.jp/30242.html S氏は骨粗鬆症などの専門家で、論文の多くが患者の治療ガイドラインに取り入れられるなど、影響力があった。 ところが、やったとされる臨床研究が実際は行われていないなど、論文に多くの研究不正が見つかった。その他不適切な行為も多数確認された。 2019年11月21日現在、撤回された論文数は実に87報に及ぶ。 撤回論文を除くと、患者の治療ガイドラインの結論が変わってしまうという。つまり、S氏の不適切な論文のために、患者が不適切な治療を受けていたことになる。患者への影響は計り知れない。 これは、発表後比較的短期間に撤回され、他の研究に引用されることがなかったSTAP細胞論文どころの話ではない。史上最悪の研究不正と言われるわけだ。 この事件は世界で最も影響力があるとされる科学雑誌サイエンスとネイチャーが共に誌面を割いて大きく取り上げたほどだ。 しかし、これほどの事件でありながら、日本国内ではほとんど報道されていない。STAP細胞に関係する報道の0.1%にも満たない報道量だろう。 なお、S氏は研究不正を追及され、自死したとされる。STAP細胞事件のときの笹井芳樹氏の自死を思い起こさせる。日本では責任の取りかたの一つとされる自死だが、残念ながら諸外国から批判されている。真相を明らかにすることなく死ぬことは、責任を取ったことにはならないと思われているのだ』、「元弘前大学教授で医師のS氏が起こした事件」、初めて知ったが、「患者の治療ガイドラインの結論が変わってしまう」、深刻な影響があったようだ。
・『世界中から懐疑的な目 研究不正を含めた不適切な論文の撤回を監視するサイト「論文撤回」によれば、S氏の撤回論文数87報は、個人別の論文撤回数ランキングの3位にあたる。それだけでも驚きであるが、もっと驚きなのは、撤回論文数ランキングの上位に日本人が多数入っていることだ。 このランキングのトップはF氏。日本人の麻酔科医だ。その撤回数は実に183報。当分記録は更新されないだろう。 第4位は元慶應義塾大学の研究者I氏の69報。実はI氏は元弘前大学のS氏の共同研究者だった。そして第6位のS氏(撤回論文数53報)は麻酔科医。トップのF氏とは、お互いの研究には無関係ながら、業績を水増しするために論文の著者になる協定を結んでいた。そのS氏だが、F氏の論文撤回に巻き込まれただけでなく、自身も研究不正を行なっていたのだ。 このように、撤回論文数が多い研究者のランキングのトップ6のうち4人が日本人だ。そして4人全員が医者だ。 撤回論文数ランキングをさらに見ていくと、11位に東大教授だった医師ではない研究者のK氏が(撤回論文数40報)、14位に医師のM氏(撤回論文数32報)がランクインしている。M氏は研究不正が認定され、研究費の受給停止処分を受けているが、地位保全の処分を裁判所から勝ち取り、いまだ某大学の現役教授のままだ。 このように、日本人の医師を中心とする研究者が、研究不正や不適切な行為による論文撤回を繰り返しており、世界中に恥をさらしている。 なぜ医師が研究不正や不適切な行為による論文を作り続けることができたのか。 それには相互批判ができない医師特有の文化が影響している。上意下達が徹底し、学閥や診療科による分断が進む医師の世界では、たとえおかしな行為が行われているのを知ったとしても、簡単には批判ができない。 思えばSTAP細胞の研究も医師が関わり、秘密裏に行われ、批判を受けることがなかった。チームリーダーなどある程度の地位に就いた研究者を他の研究者が批判しにくいという環境もあった。 上述の撤回論文は、多くがSTAP細胞事件の前に書かれたものだが、事件後、科学界に相互批判ができる研究環境が広がっているのだろうか』、「撤回論文数が多い研究者のランキングのトップ6のうち4人が日本人だ。そして4人全員が医者だ」、「相互批判ができない医師特有の文化が影響している」、国際的な恥辱であり、何とかすべきだ。
・『大学・研究機関のずさんな対応 STAP細胞事件では、理化学研究所(理研)は対応のまずさを厳しく批判されていた。しかし、このことが、STAP細胞事件のような大事件が起こったのは理研だったからという誤った認識につながってしまったのではないか。 しかし、研究不正の事例を適切に扱えないのは理研だけではない。 たとえば弘前大学の元教授の研究不正の事例では、不正論文の共著者に現学長らが入っていた。しかし弘前大学は、学長は論文に名前を掲載されただけで研究に関わっていなかったからと、とくに処分を科さなかった。 研究に関わっていないにもかかわらず論文の著者になることは、ギフトオーサーシップ(注)と言われる不適切行為だ。不適切行為を行なったから処分されないとは理解に苦しむ。 東京大学の事例では、匿名の告発者が分子細胞生物学研究所(分生研;当時)の研究者と医学部に所属する研究者の論文におかしなところがあると大学当局に訴えた。1年ほどの調査期間を経て出された結論は、分生研の研究者のみ研究不正が認められ、医学部の研究者は研究不正ではないと認定された。 匿名の告発者の告発文はネット上にも公開されているが、読むと分生研と医学部の論文のおかしな部分に差がないように思われた。しかし、結論は明確に分かれた。 報道機関が情報公開法を通じて入手した非公開資料を見せていただいたところ、医学部では論文の結論に影響がないから、不適切なグラフなどがあっても研究不正ではないとされていた。 これでは、STAP現象が再現できれば研究不正ではないという考えと同じではないか。呆れてものが言えなかった。 このような研究機関のずさんな対応は枚挙にいとまがない。 集団で研究不正の疑いがかけられたケースでは、調査に対して正直に話した研究者処分され、ダンマリを決め込んだ研究者は 処分から免れたという。 ある大学では、研究不正の疑いを大学当局に訴えた研究者が、逆に大学から不適切な行為をしたとして処分された。 世界的な科学雑誌ネイチャーは、日本の研究機関の研究不正に対する対応のまずさを厳しく批判している』、「研究機関のずさんな対応は枚挙にいとまがない」、どうも自浄作用は期待できそうもなさそうだ。
(注)ギフトオーサーシップ:名誉著者、研究に意義ある貢献を何らしていないにもかかわらず、研究が行われた学部の学部長などを著者とすること(Editage Insight)。
・『何も学ばなかった科学界 ほかにも、利益相反の問題など、STAP細胞事件があらわにした問題で手付かずのものがある。これらも含め、STAP細胞事件で明らかになった課題はまったく解決していない。 研究者たちの意識も変わっていない。 私はSTAP細胞事件後、様々な大学や研究機関、学会などで、健全な研究を行っていくために何をすべきか講演行脚をしているが、よく聞くのが、一部のけしからん輩のために、まっとうな研究者が迷惑をしているという、いわば被害者意識の吐露だ。 しかし、最近日本人研究者や日本人医師が、留学先で行った行為を研究不正とみなされ、処分される事例が相次いでいる。日本では当たり前に行っていた行為が研究不正と認定されてしまうのだ。 その背景には、医師を中心に、どのような行為が不適切な行為なのかといった基礎的な知識が身についていないことや、研究不正を他人事と考えて、自らの行為を見つめなおさないことから来ていると言える。 このように誰しも研究不正や不適切な行為を行う可能性があるのだが、当事者意識を持つ研究者が多くないのは、研究不正を特異な個人が起こす問題だということを強く印象づけてしまったSTAP細胞事件の負の遺産だと言わざるを得ない。 研究機関も研究者も科学界も、そして行政も、STAP細胞事件から何も学んでいないのだ』、「最近日本人研究者や日本人医師が、留学先で行った行為を研究不正とみなされ、処分される事例が相次いでいる。日本では当たり前に行っていた行為が研究不正と認定されてしまうのだ」、「その背景には、医師を中心に、どのような行為が不適切な行為なのかといった基礎的な知識が身についていないことや、研究不正を他人事と考えて、自らの行為を見つめなおさないことから来ている」、誠に恥ずかしいことだ。
・『「研究公正」を科学技術政策の中心に 正直なところ、大学や研究機関も、そして研究者の多くも、研究不正対策を「負のコスト」と考え、研究不正対策に時間も人員も金も割きたくないと考えているだろう。 その意識は、大学や研究機関のなかにも、研究不正を取り扱う専門の部署がないことにも透けて見える。担当者は他の仕事と兼任しており、人事異動でいつ担当者が変わるか分からない。) 政府の対応も及び腰にみえる。 いま日本には、アメリカやヨーロッパの一部の国のように、研究不正の事例を取り扱い、健全な研究の発展のために何をすべきかを考える機関がない。政府は学問の自由を尊重するために、対応を各研究機関に任せているという。 もちろん日本も何もしていないわけではなく、文部科学省(文科省)の科学技術・学術政策局人材政策課には研究公正推進室がある。研究資金を配分する機関にも、研究不正を取り扱う部署がある。 しかし、文科省の部署が「室」であるように、諸外国に比べてヒトカネとも不足している。数年ごとの人事異動で職員が変わるような状況だ。諸外国からみれば、日本の現状を誰に聞けばよいのかすら分からない状況だという。 誰も本腰を入れて関わりたくないという真空状態。それが行き着く先が研究不正の隠蔽だ。研究不正の事例を正直に公開すれば、STAP細胞事件で矢面にたたされた理研のように、徹底的に叩かれてしまうかもしれない。だったらなかったことにしてしまったほうが、研究機関にとっても研究者にとっても都合がよいとなる。 これでは日本の「研究力」の低下もやむなしだろう。意味のないずさんな研究を行ったほうが論文をどんどん出せるし、地位も確保できるのだ。もちろん素晴らしい研究を行なっている研究者がいるのは知っているが、悪貨は良貨を駆逐するだ。実力のない研究者が居座り続ける限り、研究力が上がりようがない。 政府や科学界は気がついているだろうか。研究不正を含めたずさんな研究を行なっている国の研究者を好んで受け入れる国などないということを。ずさんな研究をする国の研究者と共同研究を行いたいと思う研究者など多くないことを。ずさんな研究者教育を行なっている国に留学生など送り込みたくないということを。ずさんな研究がどれほど国益を損なうかということを。 だからこそ、単に研究不正に対処するだけでなく、健全な研究を行う環境を作ることを国も科学界も強力に推進しなければならない。研究不正を超えて健全な研究を推進する環境、「研究公正」を推進する環境を実現し維持していくことは、日本の科学技術政策の中心に置かなければならないのだ。 STAP細胞事件から5年。陰謀論も喧騒も去った今だからこそ、あの事件を冷静に振り返り、教訓をこれからの科学技術のあり方に生かしていくことが求められていると言えるだろう』、「研究不正」の問題こそ、学術会議が取上げるべき格好のテーマなのではなかろうか。
次に、本年10月16日付けNewsweek日本版「日本の科学者は「給料安い」「ポンコツ多い」(一流科学者・覆面座談会)」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/technology/2020/10/post-94727_1.php
・『<日本で科学の危機が叫ばれて久しいが、海外経験豊富な研究者たちはどう捉えているのか。4人の日本人科学者に集まってもらい、「選択と集中」など日本の科学界の問題点、欧米との絶望的な格差、あるべき研究費の使い方について語ってもらった。本誌「科学後退国ニッポン」特集より> 日本は「科学後進国」なのか。日本の研究・教育環境と海外との違い、そこから見える問題点と解決策とは。 アメリカやイギリスの一流大学や研究所で勤務経験があり、現在は東京大学や東京工業大学で助教、准教授として働く30代後半の研究者、仮名「ダーウィン」「ニュートン」「エジソン」と、国内の大学で学長経験もある大御所研究者「ガリレオ」の計4人に、覆面座談会で忌憚なく語ってもらった。(収録は9月25日、構成は本誌編集部。本記事は「科学後退国ニッポン」特集掲載の座談会記事の拡大版・前編です)』、第一線の「研究者」などによる「覆面座談会」とは面白そうだ。
・『日本は「科学後進国」か否か ダーウィン 僕の専門分野である情報学の一分野では、そもそも先進国であったことすらないですね。 ニュートン 私の所属する化学の領域ではまだ日本はトップグループをなんとか維持しているけど、中国などに猛烈に追い上げられている状態。 エジソン 「後進国」かどうかは分からないが、材料科学分野でも右肩下がり。若い人がポスドク(博士号取得後の研究員)に残らないことが最大の問題。昔は自由度が高くて先生たちが好きなことをやっていて、若い人にいいなと思わせるものがあったが......。 ガリレオ 昔は昼休みにテニスなんかやってね。給料は安いかもしれないけど先生稼業っていいなと思われていた。今はとにかく(大学法人化後の過大な事務負担で)忙し過ぎる。研究の余裕もない。 例えばノーベル物理学賞を受賞した赤﨑勇・名城大学終身教授のような青色発光ダイオード(LED)の研究はアメリカでは絶対できないと羨ましがられた。当初、(発光に必要な)窒化ガリウムの論文の数は地をはうような少なさだったのに、海のものとも山のものともつかない物質を信じてやる赤﨑先生のような人がいて、そこに国がちゃんと金を出した。それが日本のいいところだった。 ニュートン 官僚を目指していた頃に科学政策について勉強したけど、昔の一番いいところは、要はバラマキがあった。額は大きくはないが均等分配。物になるかは分からない研究にも税金が使われ、研究者は長い目で研究ができた。その成果がノーベル賞につながっているという歴史があるでも目先の成果主義が始まり、答えが見つかりそうなものにしかお金を出さないようになった』、「青色発光ダイオード(LED)の研究はアメリカでは絶対できないと羨ましがられた」、かつての文科省の「均等分配」がカギになったようだ。現在の配分方式では予算がつかず、「研究」出来なかった可能性もあったようだ。
・『「自分を雇えない」博士 ガリレオ アメリカでも昔は結構成果主義的なところがあった。それでもまき餌のように少額のお金をばらまいてあまり目先の成果を問わないという政策を始めてからうまくいった。 それに欧米では先生も必死に企業から金を取ってくる一方、企業も比較的基礎研究に近いところに金を出す文化がある。企業と大学のやるべきところの境目がはっきりしている。自分たちのできない基礎的なところに金を出します、という文化が海外企業にはあると思う。 エジソン OBや会社から大学へ大きな寄付が落ちてきて、先生たちに分配しますよね。研究費に関して日本と全く違うのが、基本的に半分くらい人件費であること。日本の場合、人を雇うことが前提となっていない。 ダーウィン まず自分を雇えない。 エジソン そこはポイントですね。アメリカの教授は大学からのお金もあるが、外から取ってきたお金で自分に給料を払い研究費にも使う。そしてポスドクや学生にも給料と授業料を払う。逆に言うと仕事してもらわなきゃいけないからクビも切れる。 ニュートン イギリスも似た感じですね。だから学生にも成果に対するプレッシャーがある程度ある』、「アメリカ」での「研究費」には教授の人件費も含まれるが、日本では含まれないようだ。
・『海外とのすさまじい格差 ダーウィン アメリカの一流大には世界中から優秀な人が来る。多くは就業経験、社会人経験があり、もっと深いことやりたい、もっとお金が欲しい、良いポジションに就きたい、という思いで良い大学の博士号を取りに来る。そういう人たちが基本的に「仕事」として最低限のお金をもらって研究する。だから日本と心構えがまず違う。必死で働く。 ニュートン 博士号を取れば、その先にベターな職環境に行けるという確信と現実がありますよね。日本は博士号を取ったことのデメリットが強調される。社会が受け皿として博士の高度な専門性を利用せず、博士課程に行くハードルを高くしている。 ダーウィン アメリカのいい大学を学部や修士で出てグーグルやフェイスブックに入ると、初年度からもろもろ込みで年収1500万円ぐらい。博士課程を終えてからだと3000万は欲しいよね、という感じ。それもあり博士号を目指す人が大勢いる。 ニュートン 私は教員6年目だが、給料1500万円なんてあり得ない(笑)。私がイギリスにいたときのポスドクへの最高支給額は年間1100万円ぐらいで、それは欧州委員会が世界中から研究者を集めるための奨学金システムから出ていた。ドイツやイギリスの似たようなプログラムでも700~800万円はもらえる。 一方、日本の日本学術振興会の海外特別研究員という制度は450~600万円ぐらい(渡航地域の物価による)。更に酷いのは(海外ポスドクは所得税を引かれない場合もあり)海外ポスドクより帰国して教員になる方が給料が減ること! 日本では博士号のブランドがあまりに低過ぎて、興味のため多くを捨て、「夢のために頑張る」という自己犠牲に耐え得る人ばかりになってしまった』、「日本は博士号を取ったことのデメリットが強調される。社会が受け皿として博士の高度な専門性を利用せず、博士課程に行くハードルを高くしている」、これは企業にとって「博士」が使いづらいためなのだろう。
・『日本の博士はポンコツか ガリレオ おっしゃる通りで、あまりに海外と日本は違うのでどうしたらいいか、なかなか思いつかない。私の所属学会では企業側に、博士課程に進んだ人をリスペクトして積極的に雇用してほしいと言ってきた。でも「日本の博士は使えない」と返ってくる。 いつクビになるか分からないなか、大学から雇われて死に物狂いで研究をやる欧米と、自分で学費を払って「お客様扱い」の日本とでは全然真剣度が違う、と。日本でも、ちゃんと成果を出している学生はいるんだけどね。) エジソン すごく耳が痛い話ですね。日本で博士号を取って企業に行く人に優秀な人が少ないのは事実。われわれ大学人も出来上がっていない状態の人間を外に出しちゃうことが当たり前の状態。旧帝大レベルでもそういう「ポンコツ」がいっぱいいる。 ニュートン つまり大学院重点化の「ポスドク1万人支援計画」は間違いだった。アメリカと比べ博士号保持者が少ないから増やそうとして、優秀じゃない人も大学院に行くようになった。 修士で就職出来なかった人も「ネガドク」(ネガティブ・ドクター)で博士課程に行くようになった。優秀じゃない人が残るシステムになっている。企業からすると、優秀でない人を押し付けられている感じになる。 エジソン ひどいのは社会人博士。3年間毎年53万円払えば博士号を取れる。下手したら指導教官に論文を書かせて博士の肩書だけもらえる。教授の判断で短縮卒業だって可能。 ニュートン 企業内で表には出なかった研究で、1日も研究室に通わなくても博士号を取得できちゃう。日本の博士号は今や150万円で買える。日本の大学は博士号の授与という唯一の特権の使い方を間違い、博士号を安売りし、そして結果的に自らの首を絞めている。 ダーウィン それがあるから学歴ロンダリングなどと言われる。大学を出るのが難しかったらロンダリングもなにもない。つまり日本はプロフェッショナリズムとプロに対する敬意がない。 今の話にあるような学生は教員が受け入れなければ良いわけで、まず教員の質が低く、プロではない。アメリカのテニュア(終身雇用)制度だと、大学のポストに応募して厳しい競争を勝ち抜くと教員になり、自分の研究室を持つ。最初に与えられるのは7年間の任期付きのポジションで、これはテニュア・トラックと呼ばれる。 この間に結果を残してテニュアになれないとクビなので、すさまじい勢いで研究する。「パブリッシュ・オア・ペリッシュ」、つまり「論文を出版、さもなくば死」、と言われるぐらい。お金の話をすると、あるアメリカの一流私立大学の学費は学生1人で500万円ぐらい。給料も500万円。 それらと諸経費合わせると、1人の博士課程学生に年間1300万円ぐらいかかる。そういう人を5~7年雇わなきゃいけないので、1人の博士号を出すのに、8000万円ぐらいが必要。給料も払うので、研究室の力にならない学生を採るなんて1000%あり得ない。 ニュートン 教員になれれば良い生活が待っているのでプライドを持って頑張るんですよね? 日本の現状とは真逆に思えてしまいます。 ダーウィン そうでしょうね。僕が知る限り、給料は企業には及ばないものの十分裕福と言えると思います。また、もちろん額は採用時などに交渉できるはずですね。 ニュートン 日本は採用されたときに初めて給料などを教えられる。それもありえないですよね。プロへの敬意がない。 ダーウィン 自分がどんな仕事をすることを期待されているかも、着任するまで分からなかったりします。ジョブディスクリプション(職務が明記された書類)がない。やばくないですか? ガリレオ 文部科学省は制度だけ海外から持ってくるね。制度を導入したから社会人博士を出せとか、年間何人が目標だとか。だから失敗する』、「日本で博士号を取って企業に行く人に優秀な人が少ないのは事実」、これでは企業が敬遠するのもやむを得ないようだ。「ジョブディスクリプション・・・がない」、大学人は職務を自ら決めるので、ないのが当たり前なのではなかろうか。
・『交付金減額でボロボロ ニュートン 社会人博士をなぜカネで買えてしまうか。海外から制度だけを持ってきてしまうということもあるが、根本的な違いは、海外は大学が資産運用などで資産を増やしており、お金持ちであることにあるのでは。 日本の大学は海外と違い税金中心で動いている。定員を埋めて博士号取得者を出さないと国からの補助金が減る。だから優秀だろうがなかろうが学生を入れるしかなく、人材の質の低下を生む。 ガリレオ その原因のひとつは寄付文化が日本にないこと。アメリカはそれが根付いており、税制上の優遇もある。成功したら母校に寄付するというカルチャーがある。 エジソン 2004年に国立大学が法人化して国からの運営費交付金がガクっと減らされて、お金の自由度が減った。ガリレオさんは法人化の前後を見られていると思いますが、どう思われますか。ちなみに昔は大学から研究室1つあたり年間400万円ぐらいは分配していたと思うが、今は私の研究室では20万円ほど......。 ダーウィン 僕の大学ではそれよりは多いです。ただ着任初年度は研究室開設の準備費用としては全く足りませんでした。 ガリレオ 運営費交付金減額はだんだんボディーブローのように効いてきているね。それに東大などメジャーな大学とそれ以外の差が非常に広がっている。地方大の教授だと年間10万円しかもらえないとか、信じられないことが起こっている。それが成功しそうなところばかりに金を投入する「選択と集中」だけど、悪い言葉だ』、確かに「選択と集中」は大学には馴染まないかも知れないが、他にメリハリをつける方法があるのだろうか。
・『「選択と集中」とオキアミ ニュートン 「選択と集中」は本当にダメですね。サイエンスの研究には大きな金が必要で、100万円、200万円はすぐ飛んでしまう。500万~600万円の機器を買うのも当たり前。海外では教員着任前に既に設備がそろっているが、日本ではお金を工面して買わなければいけない。お金が研究に回せない。 ガリレオ 大きな金を投下するには選択と集中は必要かもしれない。しかしやっぱり撒き餌も必要で、成功するかどうかわからない研究に、失敗してもいいからと、少額の金を幅広くばらまくべきだね。昔の運営費交付金はそうだったし、(審査によって交付を決める)科学研究費だって多くはそうすべき。 生態系と一緒で、まずオキアミがあって、それを食べてイワシ、クジラが育つ。オキアミには撒き餌を、クジラには選択と集中を、だ。ありとあらゆることに選択と集中と言って、わずかな金に「失敗したらいかんぞ」みたいなことを言うからダメなんだよ。 <2020年10月20日号「科学後退国ニッポン」特集より>』、なかなか難しい問題だ。
第三に、上記の続きを、10月16日付けNewsweek日本版「科学者と名乗ると「外国ではカッコいいと言われる」(一流科学者・覆面座談会)」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/technology/2020/10/post-94726_1.php
・『<どうすれば日本の科学界は復活できるのか。覆面座談会の後半では、教育コストを渋ることの致命的損失や足りない予算を調達する方法、「科学者」イメージを更新する必要性などについて語ってもらった・・・』、興味深そうだ。
・『「専門」への敬意を欠く日本 ガリレオ 海外は実験を準備するスタッフなども充実しているよね。日本では何でも教授自らがやらないと回らない。ヨーロッパでは、下支えしてくれるスタッフがすごく充実している。そこに計り知れない違いがある。 ダーウィン 結局日本はスタッフもプロじゃない。アメリカの大学では事務も専門職。MBA保持者もいるし、自分の仕事に誇りを持っている。 ガリレオ 日本は専任の大学職員であっても部署がどんどん変わるでしょう。アメリカはずっと同じ部署にいて、本当のプロが育っている。 エジソン 一方、日本の大学職員の仕事は研究、教育の他に雑用もある。例えば学生の担任や研究室運営、入学試験の問題作り、試験官の振り分けなど。あとは学内委員会ですね。安全衛生委員会とか。こんなのまで俺たちがやるかっていう(笑)。 ニュートン 大学院重点化前には、ラボ1つに教授1人/助教授2人/助手3人が標準的で、助手3人がスタッフ的役割をしていたというのが私の理解。最前線でラボを支えていたのは助手だった。それが重点化によって、1人/1人/1人や1人/0人/1人、1人/0人/0人も当たり前になった。教員1人だけで全部やらないといけないラボもあり本当に忙しい。 なぜそうなったかというと、重点化に対して予算増がなかったから。人件費を増やさず、元々いた教員を新しいラボに回した。そうしてラボ内教育が手薄になり、研究のレベルも下がり、企業からの信用度も下がった。 ガリレオ それは別の言い方をすると小講座制をやめて大講座制にしたということ。小講座制の悪いところは封建的になりがちなところ。例えば3人の助手が居たとして、1つの助教授ポストを得ようと理不尽なきつさに耐えなければいけない。 もうそういう時代じゃないだろうというので、権利を民主的に分かち合うために変えていったんだけど、研究という面ではまずいよね。 それにしても文部科学省の大学教育改革はみんな裏目に出ている気がする。教養部の廃止とか、大学院重点化とか、ポスドク1万人とか、大講座制化とか。学部に対する教養部のプライド、大学院に対する学部のプライド、研究室における助手のプライドをもっとその場その場でしっかり高めることを考えるべきだったと思う』、「アメリカの大学では事務も専門職。MBA保持者もいるし、自分の仕事に誇りを持っている」、潤沢な予算ゆえだろうが、驚かされた。「文部科学省の大学教育改革はみんな裏目に出ている気がする」、手厳しい批判だ。
・『失敗も質問も許さないカルチャー ガリレオ あと、もう1つアメリカとの違いは、失敗を許すかどうか。アメリカのベンチャーだって成功率は日本と変わらない。違うのは、アメリカでは投資家へのプレゼンでも失敗が勲章になり、失敗経験のない人はむしろ駄目なこと。日本は失敗を評価システムに組み込んでいない。 ニュートン 日本企業はいいとこ取りを狙い過ぎてリスクを背負わない。例えば製薬業界では、欧米のベンチャーや大手企業は、薬になるか分からない段階の研究にも夢を懸けて投資する。日本でそういう投資はまれ。 ダーウィン どこから変えるべきかといったら初等教育だと思う。子供の頃からいろいろなことに挑戦させて、結果は駄目でもチャレンジしたことは褒める。つまり過程が大事。そうでないとリスクを背負う人は出てこない。日本はそうした教育がない。 エジソン 評価の仕方ですよね。失敗は、駄目だということが分かったこと自体が「成功」ですから。それを知った人は、同じ轍を踏まない。 ガリレオ 日本ではなぜ?と質問するということにもすごい抵抗がある。例えば学会で質問するとき、大御所の発表に対して「純粋に知りたいから聞くんですけど」とわざわざ前置きしたりする。つまり本当にフラットに「Why(なぜ)」と聞くことがものすごく難しい。 これはすごくまずい。欧米では「なぜ」を探ることを楽しんでいるカルチャーを感じるのに......。 ダーウィン 先ほどチャレンジが評価されないと僕が言ったことと関係するのでは。間違った、バカみたいな質問をしたらどうしよう、と日本では感じてしまう。 アメリカではみんなファーストネームで呼び合うじゃないですか。学生も教授をファーストネームで呼ぶ。ほぼフラットみたいな感じで、その環境になったらWhyと言えるし、むしろなんで言わないんだと聞かれる。でも日本だとなんでそんなこと聞くんだ、と。雲泥の差だと思う』、「日本ではなぜ?と質問するということにもすごい抵抗がある」、確かに欧米からみると異常だ。「アメリカではみんなファーストネームで呼び合うじゃないですか。学生も教授をファーストネームで呼ぶ。ほぼフラットみたいな感じで、その環境になったらWhyと言えるし、むしろなんで言わないんだと聞かれる」、日本では教授は偉ぶっている人が多いのは確かだ。
・『教育にはコストがかかる ニュートン アメリカはちゃんと(日本の改革で次々廃止された)リベラルアーツ(一般教養)教育は残っていますよね? 教える専門の教員がいる。 エジソン そう。レクチャラーと呼ばれ、研究専門のリサーチプロフェッサーとリスペクトし合っている。両方やるフルプロフェッサーもいる。 ガリレオ アメリカでは教育専門の教授のほうが給料は高いと聞いた。 エジソン その通りです。 ガリレオ 研究専門は好きなことやっているのだから安月給でも我慢しろと。そういうかたちで教育プロパーの先生もちゃんとリスペクトされている。 しかし日本は研究をやっていて「ネイチャー」誌に論文を出すと偉くて、教室で100人相手に授業やっていると駄目だ、となる。多様性をなくしてしまって、一本の物差しで測ろうとする。これが全ての間違いだね。 エジソン ただ、アメリカで教育をやっているプロフェッサーは外からの稼ぎがあまりないから大学がちゃんと保証する一方、リサーチプロフェッサーは研究費を取ってきて自分に給料をペイできる、という事情もあります。 ガリレオ なるほど。 ニュートン イギリスもアメリカも教育はコストがかかるものという認識が浸透している。だが日本は教養学部廃止で研究が得意な人が教育もやらざるを得ない。しかも教育への評価はされにくく、教えることがおろそかになる。 ダーウィン そのことですが、日本の大学では誰かが決めたカリキュラムに沿って授業をあてがわれたりしませんか。新しい授業を開設するのが難しいのか最先端の授業も行ないづらく、進歩が早い分野ではどんどん時代遅れになるし、自分の専門でなかったりするとパッションも持ちづらい。 ニュートン そうした詳細が採用時には分かりにくい日本の人事制度はおかしい。何を期待され採用に至るのか明確でないのでミスマッチが起こり得る。学問的需要とは別に政治が絡むこともあるし。 ただ、採用前の教員の評価が難しいのも事実。欧米は「人物評価」で教員を採る。でも日本の場合クローズドじゃないですか。選考員5人ぐらいの前でプレゼンするぐらいで。基準が明確でない。日本は人事に関してはもっと人物を見るべきだと思う。 ダーウィン アメリカのトップ大学では朝から丸1日かけて教員一人一人と面接して評価される。学生も候補者と議論して採用担当教員に意見を言える。ランチやディナーも候補者は教員たちと一緒に取る。研究はもちろん、人としてどれだけ魅力的か見る。 エジソン 日本はそこまで労力かけないですよね。採用側もそういう能力はない。あらかじめ採用者が決まっている「デキ公募」もよくあるし。そういう公募で僕は今まで2回「当て馬」をやったことがある(笑)』、「アメリカでは教育専門の教授のほうが給料は高い」、「研究専門は好きなことやっているのだから安月給でも我慢しろと。そういうかたちで教育プロパーの先生もちゃんとリスペクトされている」、参考にな考え方だ。
・『インパクト・ファクターと大学教員の評価 エジソン でも教育者としてのどう評価するかは難しい。学生によって印象も違うだろうし。投資してでも守っていかなくてはいけないのが教育だが、評価がちゃんとできなくて適当になってしまっているのが今の日本。 私は教育と研究を分けて評価しないと駄目だと思う。研究基準で教育を語っても正当な評価はできない。教育関係の予算、組織を削って壊してしまったことは非常に損失が大きかったと思う。 ダーウィン 僕は研究も実は評価は難しいと思う。論文の数ではないし、実は価値でもない。なぜなら「今」その研究の本当の価値は分からない。今は誰もすごいと思っていなくても、5年後10年後に良い研究だったと分かることもあるわけで。 ニュートン 何が良い研究か、誰がどのように判断するのか。それを数値化しちゃったのが(科学雑誌の影響力を測る)インパクト・ファクター(IF)。 「ネイチャー」、「サイエンス」、「セル」クラスだとIFが大きくなるので、一般の人には分かりやすい。でもそういう雑誌に載った研究がどれほど重要なのかは時が経たないと分からない。載ったということは査読して審査した人が重要だと認めたという、その時点での判断でしかない。 エジソン 先ほど赤﨑先生の話が出たが、窒化ガリウム関係の初期の論文はアメリカでも日本でもIFが低い雑誌にしか載っていない。でも赤﨑さんはノーベル賞を取っている。もちろん良い雑誌に載せればみんなが読むかもしれないが、それが全てではない。 ガリレオ IFとはその雑誌に掲載された論文が引用された回数を掲載した論文数で割ったもの。それは確かに雑誌に対する1つの指標だけど、論文そのものの評価じゃない。 本当に論文を評価する目を持っていれば、IFはどうでも良い。ただわれわれは他分野に関してはそういう目がないので、IFに頼ってしまう。自分の評価能力のなさを外部の指標で補っている。 ニュートン 教員の採用にあたり、IFのような数値で人物を評価して良いのかという問題は常にある。しかし自信をもって判断できる人が大学の中にはいない。IFの総得点が何ポイントか、などで判断してしまう。対外的には説明はつくかもしれないが、本当に人を見ていることになるのか。 エジソン IFはよく足切りとしては使われますよね。落とすには理由がいるので、その理由にIFがなりうる。だから論文の共著者として名前を載せてもらうことが重要になる。学生の時、指導教授の忖度で自分のプロジェクトに知らない人の名前がずらずら載った時があった(笑)。 ニュートン 結局、研究者の経歴は「見てくれ」が重要なので、星(責任著者の印)が付いた論文の数で「武装」しろとはよく言われる』、結局、「評価」には決め手はないようだ。
・『被引用数の信頼度 エジソン 被引用数も評価されるには重要ですね。昇進するときに「お前が来ると(学部や研究科)全体の被引用数の平均が下がっちゃう」などと言われるので。そのためにどう武装するかというと、流行り物を研究して被引用数を稼ぐ。全然興味ないけどその研究やらざるを得ないということはある。 ダーウィン 被引用数は間違った使われ方をしていると思う。そもそも研究者がその分野に多かったら被引用数は増えるので、異なる分野の引用数を比べるのは意味がない。 学部・研究科の平均値なんて全くナンセンス。野球とサッカーを比べるようなもの。分野内で比べるのは一定の意味があると思うが、それでも良い論文の引用数が多くなるわけでは必ずしもない』、「異なる分野の引用数を比べるのは意味がない」、その通りだが、現実には誤用されているようだ。
・『財務省と政治家の罪 ニュートン 一方で日本はアメリカや世界を見習えという考えが強過ぎる。日本が世界でリードしていた部分が世界ではやらなくなったから捨てちゃうということが結構あるので、いま沈滞気味の分野にも一定のお金はまいておくべきじゃないのかな。 エジソン 半導体の世界などまさにそんな感じですよね。 ガリレオ 一つは(予算配分に決定権を持つ)財務省だよね。文科省の人は結構分かってくれるけど。財務省の人は半導体なんか中韓に任せたらいいじゃないですかなんて言う。世界の流れに乗ることしか考えていない。日本の本来の強みだとかここを伸ばすべきだとかいう考えはない。 ニュートン 財務省あたりのトップクラスの官僚は国家公務員試験の予備校で訓練を受けてきた人たちで、サイエンスをやって来た人間が入る余地はない。その弊害は大きい。 エジソン 科学技術専門の政治家も絶対必要ですね。国民のそういう認識をつくるための努力をわれわれ大学人はやらなきゃいけない』、「科学技術専門の政治家も絶対必要」、そこまでは必要ないと思う。
・『文系/理系という分け方の不毛 ガリレオ そもそも日本の文系理系という分け方が非常に気に入らない。下手したら中学生ぐらいから分けちゃっているでしょ? あれは不毛だよね。結局文系の官僚とか政治家が全くサイエンスを分からないのはそのへんでもう理系から離れてしまうから。 アメリカのハーバード大学だったら学部関係なしにこの200冊読めというリストがあって、物理をやる人間でもギリシャ哲学から『資本論』まで全部読ませる。そういう考え方が、まさに教養なんだけど、日本は全部捨て去ってしまった感じがするよね。アメリカでも文系理系はあるのだろうけど、日本から見て遥かに相互乗り入れしている気がする。) ニュートン そうですね。大学入試で文理を分けているので結局入試も改革する必要あると思う。 エジソン 大学からの(卒業・修了の)出口を狭めることはやったほうがいい。間口はいくらでも広げていいけど。大学は義務教育じゃなくて高等教育なので、ある程度のクオリティを持った人間しか出さないべきです。世界で日本だけじゃないですか、入口だけが狭くて、入れば出られてしまうのは』、「大学からの出口を狭めることはやったほうがいい」、同感だ。
・『学費は値上げするべき ニュートン 税金だけではなかなか金策は苦しい。こう言うと国民から抹殺されそうだけど、学費を上げるべきだと思う。でないと大学組織が死んでしまう。低所得層には裕福な人の学費を奨学金に充てればいい。 エジソン 寄付制度は必ず法律から変えていかなければいけないと思う。学費を返さなくていい制度や、教員が研究費から学費を投資して優秀な学生を育てられるようなシステムがあってもいいかも。 ニュートン 今の若手教員は大企業に就職するより確実に低い給料から始まる。そのギャップを埋めたい。 エジソン たしかに、医者の年収が500万円だったら誰もやらない。コストをかけてでも医学部に入って医者になれば回収できるからみんな血眼になる。同じことができればやったほうがいい。そこまで給料があればクビにできるシステムもあってもいい。プロ野球選手みたいにね』、この部分は意味不明だ。
・『湯川秀樹的イメージの罠 ニュートン 皆さんに聞きたいのですが、外国で普通の人にサイエンティストやドクターと名乗ったとき、クールだね、かっこいいねって言われませんでした? (一同うなずく) でも日本では例えば合コンなんかで女の子に「お勉強好きなのね」と言われたり、オタッキーなイメージ。それが「科学後進国」であることの一部なんじゃないのか。そのギャップを埋めるためにはどうすればいいか。 エジソン アメリカは例えば一般の人が「ネイチャー」とかをよく読んでいるイメージがある。だけど日本人って読まないよね。ギリギリ「ニュートン」ぐらいで。一般教養としてのサイエンスがちょっと足りないかなという気がする。 ニュートン 一般から見た優秀な研究者像≒湯川秀樹的というのも引っ掛かる。彼の自叙伝からも伝わる、コミュニケーションより研究を大切にする日本の科学者のイメージで、これは欧米と全然違う。そういうイメージからは脱皮したい。 われわれサイエンティストも一般の人に分かってほしいという欲を持つべきだと思う。でないと裾野が広がらない。サイエンスが分かる人で社会との橋渡しをしてくれる人材を官僚やマスコミなどにわれわれ科学者が積極的に送り出していかなければいけない。 ガリレオ まとめると、やっぱりマインドセットなのかな。科学は楽しいことをみんなに分かってもらう。そしてそういう人材が残ってくれるように、システムを変えていくことをやっていかなきゃいけない。 <2020年10月20日号「科学後退国ニッポン」特集より>』、「科学は楽しいことをみんなに分かってもらう。そしてそういう人材が残ってくれるように、システムを変えていくことをやっていかなきゃいけない」、その通りなのだろう。
先ずは、昨年11月27日付け現代ビジネスが掲載した病理専門医で科学・技術政策ウォッチャーの榎木 英介氏による「STAP細胞事件が覆い隠した科学技術立国ニッポンの「ヤバい現実」「史上最悪の研究不正」をご存知か?」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68646?imp=0
・『あのSTAP細胞事件の後も、多くの研究不正が明らかになっている。中には「史上最悪の研究不正」と言われるほどのケースも。一体なぜ不正はなくならないのか。『研究不正と歪んだ科学』編著者の榎木英介氏が警鐘を鳴らす。 夢の万能細胞と騒がれ、のちにその存在が否定されたSTAP細胞に関する事件、いわゆるSTAP細胞事件から、早くも5年以上の月日が経過した。 5年前、あれほど世間を揺るがした事件も、忘却の彼方に消え去ろうとしている。大学には事件そのものを知らない学生も増えているという。 それは私たちとて似たようなものだ。STAP細胞事件は、号泣県議や佐村河内事件など当時世間を騒がせたネタの一つに過ぎず、令和になった今、平成に起こった一つの事件として振り返ることがせいぜいだ。 しかし、STAP細胞事件があらわにした、日本の研究が抱える様々な問題は、実は何も解決していない。 いったい研究の現場で何が起こっているのか』、「日本の研究が抱える様々な問題は、実は何も解決していない」、とは驚かされた。
・『史上最悪の研究不正 STAP細胞事件を「世界三大研究不正事件」と呼ぶ声がある。 研究不正とは、狭義には存在しないデータを作る捏造、データを加工する改ざん、他の研究者のアイディアや文章などを許可や表示なく流用する盗用の3つの行為を指す。STAP細胞に関する論文には、この3つが含まれていた。 たしかに報道の量だけをみれば、少なくとも日本国内では、研究不正の事件としてはダントツだろう。 しかし、私はこれに全く同意しない) 史上最悪とさえ呼ばれる日本の研究者が起こした事件が、今世界を震撼させている。それは、元弘前大学教授で医師のS氏が起こした事件だ。 ・元弘前大学医学部所属教員による研究活動上の不正行為(捏造・改ざん・盗用)の認定について(文部科学省) http://www.mext.go.jp/a_menu/jinzai/fusei/1404087.htm ・研究活動の不正行為に関する調査結果について(弘前大学)https://www.hirosaki-u.ac.jp/30242.html S氏は骨粗鬆症などの専門家で、論文の多くが患者の治療ガイドラインに取り入れられるなど、影響力があった。 ところが、やったとされる臨床研究が実際は行われていないなど、論文に多くの研究不正が見つかった。その他不適切な行為も多数確認された。 2019年11月21日現在、撤回された論文数は実に87報に及ぶ。 撤回論文を除くと、患者の治療ガイドラインの結論が変わってしまうという。つまり、S氏の不適切な論文のために、患者が不適切な治療を受けていたことになる。患者への影響は計り知れない。 これは、発表後比較的短期間に撤回され、他の研究に引用されることがなかったSTAP細胞論文どころの話ではない。史上最悪の研究不正と言われるわけだ。 この事件は世界で最も影響力があるとされる科学雑誌サイエンスとネイチャーが共に誌面を割いて大きく取り上げたほどだ。 しかし、これほどの事件でありながら、日本国内ではほとんど報道されていない。STAP細胞に関係する報道の0.1%にも満たない報道量だろう。 なお、S氏は研究不正を追及され、自死したとされる。STAP細胞事件のときの笹井芳樹氏の自死を思い起こさせる。日本では責任の取りかたの一つとされる自死だが、残念ながら諸外国から批判されている。真相を明らかにすることなく死ぬことは、責任を取ったことにはならないと思われているのだ』、「元弘前大学教授で医師のS氏が起こした事件」、初めて知ったが、「患者の治療ガイドラインの結論が変わってしまう」、深刻な影響があったようだ。
・『世界中から懐疑的な目 研究不正を含めた不適切な論文の撤回を監視するサイト「論文撤回」によれば、S氏の撤回論文数87報は、個人別の論文撤回数ランキングの3位にあたる。それだけでも驚きであるが、もっと驚きなのは、撤回論文数ランキングの上位に日本人が多数入っていることだ。 このランキングのトップはF氏。日本人の麻酔科医だ。その撤回数は実に183報。当分記録は更新されないだろう。 第4位は元慶應義塾大学の研究者I氏の69報。実はI氏は元弘前大学のS氏の共同研究者だった。そして第6位のS氏(撤回論文数53報)は麻酔科医。トップのF氏とは、お互いの研究には無関係ながら、業績を水増しするために論文の著者になる協定を結んでいた。そのS氏だが、F氏の論文撤回に巻き込まれただけでなく、自身も研究不正を行なっていたのだ。 このように、撤回論文数が多い研究者のランキングのトップ6のうち4人が日本人だ。そして4人全員が医者だ。 撤回論文数ランキングをさらに見ていくと、11位に東大教授だった医師ではない研究者のK氏が(撤回論文数40報)、14位に医師のM氏(撤回論文数32報)がランクインしている。M氏は研究不正が認定され、研究費の受給停止処分を受けているが、地位保全の処分を裁判所から勝ち取り、いまだ某大学の現役教授のままだ。 このように、日本人の医師を中心とする研究者が、研究不正や不適切な行為による論文撤回を繰り返しており、世界中に恥をさらしている。 なぜ医師が研究不正や不適切な行為による論文を作り続けることができたのか。 それには相互批判ができない医師特有の文化が影響している。上意下達が徹底し、学閥や診療科による分断が進む医師の世界では、たとえおかしな行為が行われているのを知ったとしても、簡単には批判ができない。 思えばSTAP細胞の研究も医師が関わり、秘密裏に行われ、批判を受けることがなかった。チームリーダーなどある程度の地位に就いた研究者を他の研究者が批判しにくいという環境もあった。 上述の撤回論文は、多くがSTAP細胞事件の前に書かれたものだが、事件後、科学界に相互批判ができる研究環境が広がっているのだろうか』、「撤回論文数が多い研究者のランキングのトップ6のうち4人が日本人だ。そして4人全員が医者だ」、「相互批判ができない医師特有の文化が影響している」、国際的な恥辱であり、何とかすべきだ。
・『大学・研究機関のずさんな対応 STAP細胞事件では、理化学研究所(理研)は対応のまずさを厳しく批判されていた。しかし、このことが、STAP細胞事件のような大事件が起こったのは理研だったからという誤った認識につながってしまったのではないか。 しかし、研究不正の事例を適切に扱えないのは理研だけではない。 たとえば弘前大学の元教授の研究不正の事例では、不正論文の共著者に現学長らが入っていた。しかし弘前大学は、学長は論文に名前を掲載されただけで研究に関わっていなかったからと、とくに処分を科さなかった。 研究に関わっていないにもかかわらず論文の著者になることは、ギフトオーサーシップ(注)と言われる不適切行為だ。不適切行為を行なったから処分されないとは理解に苦しむ。 東京大学の事例では、匿名の告発者が分子細胞生物学研究所(分生研;当時)の研究者と医学部に所属する研究者の論文におかしなところがあると大学当局に訴えた。1年ほどの調査期間を経て出された結論は、分生研の研究者のみ研究不正が認められ、医学部の研究者は研究不正ではないと認定された。 匿名の告発者の告発文はネット上にも公開されているが、読むと分生研と医学部の論文のおかしな部分に差がないように思われた。しかし、結論は明確に分かれた。 報道機関が情報公開法を通じて入手した非公開資料を見せていただいたところ、医学部では論文の結論に影響がないから、不適切なグラフなどがあっても研究不正ではないとされていた。 これでは、STAP現象が再現できれば研究不正ではないという考えと同じではないか。呆れてものが言えなかった。 このような研究機関のずさんな対応は枚挙にいとまがない。 集団で研究不正の疑いがかけられたケースでは、調査に対して正直に話した研究者処分され、ダンマリを決め込んだ研究者は 処分から免れたという。 ある大学では、研究不正の疑いを大学当局に訴えた研究者が、逆に大学から不適切な行為をしたとして処分された。 世界的な科学雑誌ネイチャーは、日本の研究機関の研究不正に対する対応のまずさを厳しく批判している』、「研究機関のずさんな対応は枚挙にいとまがない」、どうも自浄作用は期待できそうもなさそうだ。
(注)ギフトオーサーシップ:名誉著者、研究に意義ある貢献を何らしていないにもかかわらず、研究が行われた学部の学部長などを著者とすること(Editage Insight)。
・『何も学ばなかった科学界 ほかにも、利益相反の問題など、STAP細胞事件があらわにした問題で手付かずのものがある。これらも含め、STAP細胞事件で明らかになった課題はまったく解決していない。 研究者たちの意識も変わっていない。 私はSTAP細胞事件後、様々な大学や研究機関、学会などで、健全な研究を行っていくために何をすべきか講演行脚をしているが、よく聞くのが、一部のけしからん輩のために、まっとうな研究者が迷惑をしているという、いわば被害者意識の吐露だ。 しかし、最近日本人研究者や日本人医師が、留学先で行った行為を研究不正とみなされ、処分される事例が相次いでいる。日本では当たり前に行っていた行為が研究不正と認定されてしまうのだ。 その背景には、医師を中心に、どのような行為が不適切な行為なのかといった基礎的な知識が身についていないことや、研究不正を他人事と考えて、自らの行為を見つめなおさないことから来ていると言える。 このように誰しも研究不正や不適切な行為を行う可能性があるのだが、当事者意識を持つ研究者が多くないのは、研究不正を特異な個人が起こす問題だということを強く印象づけてしまったSTAP細胞事件の負の遺産だと言わざるを得ない。 研究機関も研究者も科学界も、そして行政も、STAP細胞事件から何も学んでいないのだ』、「最近日本人研究者や日本人医師が、留学先で行った行為を研究不正とみなされ、処分される事例が相次いでいる。日本では当たり前に行っていた行為が研究不正と認定されてしまうのだ」、「その背景には、医師を中心に、どのような行為が不適切な行為なのかといった基礎的な知識が身についていないことや、研究不正を他人事と考えて、自らの行為を見つめなおさないことから来ている」、誠に恥ずかしいことだ。
・『「研究公正」を科学技術政策の中心に 正直なところ、大学や研究機関も、そして研究者の多くも、研究不正対策を「負のコスト」と考え、研究不正対策に時間も人員も金も割きたくないと考えているだろう。 その意識は、大学や研究機関のなかにも、研究不正を取り扱う専門の部署がないことにも透けて見える。担当者は他の仕事と兼任しており、人事異動でいつ担当者が変わるか分からない。) 政府の対応も及び腰にみえる。 いま日本には、アメリカやヨーロッパの一部の国のように、研究不正の事例を取り扱い、健全な研究の発展のために何をすべきかを考える機関がない。政府は学問の自由を尊重するために、対応を各研究機関に任せているという。 もちろん日本も何もしていないわけではなく、文部科学省(文科省)の科学技術・学術政策局人材政策課には研究公正推進室がある。研究資金を配分する機関にも、研究不正を取り扱う部署がある。 しかし、文科省の部署が「室」であるように、諸外国に比べてヒトカネとも不足している。数年ごとの人事異動で職員が変わるような状況だ。諸外国からみれば、日本の現状を誰に聞けばよいのかすら分からない状況だという。 誰も本腰を入れて関わりたくないという真空状態。それが行き着く先が研究不正の隠蔽だ。研究不正の事例を正直に公開すれば、STAP細胞事件で矢面にたたされた理研のように、徹底的に叩かれてしまうかもしれない。だったらなかったことにしてしまったほうが、研究機関にとっても研究者にとっても都合がよいとなる。 これでは日本の「研究力」の低下もやむなしだろう。意味のないずさんな研究を行ったほうが論文をどんどん出せるし、地位も確保できるのだ。もちろん素晴らしい研究を行なっている研究者がいるのは知っているが、悪貨は良貨を駆逐するだ。実力のない研究者が居座り続ける限り、研究力が上がりようがない。 政府や科学界は気がついているだろうか。研究不正を含めたずさんな研究を行なっている国の研究者を好んで受け入れる国などないということを。ずさんな研究をする国の研究者と共同研究を行いたいと思う研究者など多くないことを。ずさんな研究者教育を行なっている国に留学生など送り込みたくないということを。ずさんな研究がどれほど国益を損なうかということを。 だからこそ、単に研究不正に対処するだけでなく、健全な研究を行う環境を作ることを国も科学界も強力に推進しなければならない。研究不正を超えて健全な研究を推進する環境、「研究公正」を推進する環境を実現し維持していくことは、日本の科学技術政策の中心に置かなければならないのだ。 STAP細胞事件から5年。陰謀論も喧騒も去った今だからこそ、あの事件を冷静に振り返り、教訓をこれからの科学技術のあり方に生かしていくことが求められていると言えるだろう』、「研究不正」の問題こそ、学術会議が取上げるべき格好のテーマなのではなかろうか。
次に、本年10月16日付けNewsweek日本版「日本の科学者は「給料安い」「ポンコツ多い」(一流科学者・覆面座談会)」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/technology/2020/10/post-94727_1.php
・『<日本で科学の危機が叫ばれて久しいが、海外経験豊富な研究者たちはどう捉えているのか。4人の日本人科学者に集まってもらい、「選択と集中」など日本の科学界の問題点、欧米との絶望的な格差、あるべき研究費の使い方について語ってもらった。本誌「科学後退国ニッポン」特集より> 日本は「科学後進国」なのか。日本の研究・教育環境と海外との違い、そこから見える問題点と解決策とは。 アメリカやイギリスの一流大学や研究所で勤務経験があり、現在は東京大学や東京工業大学で助教、准教授として働く30代後半の研究者、仮名「ダーウィン」「ニュートン」「エジソン」と、国内の大学で学長経験もある大御所研究者「ガリレオ」の計4人に、覆面座談会で忌憚なく語ってもらった。(収録は9月25日、構成は本誌編集部。本記事は「科学後退国ニッポン」特集掲載の座談会記事の拡大版・前編です)』、第一線の「研究者」などによる「覆面座談会」とは面白そうだ。
・『日本は「科学後進国」か否か ダーウィン 僕の専門分野である情報学の一分野では、そもそも先進国であったことすらないですね。 ニュートン 私の所属する化学の領域ではまだ日本はトップグループをなんとか維持しているけど、中国などに猛烈に追い上げられている状態。 エジソン 「後進国」かどうかは分からないが、材料科学分野でも右肩下がり。若い人がポスドク(博士号取得後の研究員)に残らないことが最大の問題。昔は自由度が高くて先生たちが好きなことをやっていて、若い人にいいなと思わせるものがあったが......。 ガリレオ 昔は昼休みにテニスなんかやってね。給料は安いかもしれないけど先生稼業っていいなと思われていた。今はとにかく(大学法人化後の過大な事務負担で)忙し過ぎる。研究の余裕もない。 例えばノーベル物理学賞を受賞した赤﨑勇・名城大学終身教授のような青色発光ダイオード(LED)の研究はアメリカでは絶対できないと羨ましがられた。当初、(発光に必要な)窒化ガリウムの論文の数は地をはうような少なさだったのに、海のものとも山のものともつかない物質を信じてやる赤﨑先生のような人がいて、そこに国がちゃんと金を出した。それが日本のいいところだった。 ニュートン 官僚を目指していた頃に科学政策について勉強したけど、昔の一番いいところは、要はバラマキがあった。額は大きくはないが均等分配。物になるかは分からない研究にも税金が使われ、研究者は長い目で研究ができた。その成果がノーベル賞につながっているという歴史があるでも目先の成果主義が始まり、答えが見つかりそうなものにしかお金を出さないようになった』、「青色発光ダイオード(LED)の研究はアメリカでは絶対できないと羨ましがられた」、かつての文科省の「均等分配」がカギになったようだ。現在の配分方式では予算がつかず、「研究」出来なかった可能性もあったようだ。
・『「自分を雇えない」博士 ガリレオ アメリカでも昔は結構成果主義的なところがあった。それでもまき餌のように少額のお金をばらまいてあまり目先の成果を問わないという政策を始めてからうまくいった。 それに欧米では先生も必死に企業から金を取ってくる一方、企業も比較的基礎研究に近いところに金を出す文化がある。企業と大学のやるべきところの境目がはっきりしている。自分たちのできない基礎的なところに金を出します、という文化が海外企業にはあると思う。 エジソン OBや会社から大学へ大きな寄付が落ちてきて、先生たちに分配しますよね。研究費に関して日本と全く違うのが、基本的に半分くらい人件費であること。日本の場合、人を雇うことが前提となっていない。 ダーウィン まず自分を雇えない。 エジソン そこはポイントですね。アメリカの教授は大学からのお金もあるが、外から取ってきたお金で自分に給料を払い研究費にも使う。そしてポスドクや学生にも給料と授業料を払う。逆に言うと仕事してもらわなきゃいけないからクビも切れる。 ニュートン イギリスも似た感じですね。だから学生にも成果に対するプレッシャーがある程度ある』、「アメリカ」での「研究費」には教授の人件費も含まれるが、日本では含まれないようだ。
・『海外とのすさまじい格差 ダーウィン アメリカの一流大には世界中から優秀な人が来る。多くは就業経験、社会人経験があり、もっと深いことやりたい、もっとお金が欲しい、良いポジションに就きたい、という思いで良い大学の博士号を取りに来る。そういう人たちが基本的に「仕事」として最低限のお金をもらって研究する。だから日本と心構えがまず違う。必死で働く。 ニュートン 博士号を取れば、その先にベターな職環境に行けるという確信と現実がありますよね。日本は博士号を取ったことのデメリットが強調される。社会が受け皿として博士の高度な専門性を利用せず、博士課程に行くハードルを高くしている。 ダーウィン アメリカのいい大学を学部や修士で出てグーグルやフェイスブックに入ると、初年度からもろもろ込みで年収1500万円ぐらい。博士課程を終えてからだと3000万は欲しいよね、という感じ。それもあり博士号を目指す人が大勢いる。 ニュートン 私は教員6年目だが、給料1500万円なんてあり得ない(笑)。私がイギリスにいたときのポスドクへの最高支給額は年間1100万円ぐらいで、それは欧州委員会が世界中から研究者を集めるための奨学金システムから出ていた。ドイツやイギリスの似たようなプログラムでも700~800万円はもらえる。 一方、日本の日本学術振興会の海外特別研究員という制度は450~600万円ぐらい(渡航地域の物価による)。更に酷いのは(海外ポスドクは所得税を引かれない場合もあり)海外ポスドクより帰国して教員になる方が給料が減ること! 日本では博士号のブランドがあまりに低過ぎて、興味のため多くを捨て、「夢のために頑張る」という自己犠牲に耐え得る人ばかりになってしまった』、「日本は博士号を取ったことのデメリットが強調される。社会が受け皿として博士の高度な専門性を利用せず、博士課程に行くハードルを高くしている」、これは企業にとって「博士」が使いづらいためなのだろう。
・『日本の博士はポンコツか ガリレオ おっしゃる通りで、あまりに海外と日本は違うのでどうしたらいいか、なかなか思いつかない。私の所属学会では企業側に、博士課程に進んだ人をリスペクトして積極的に雇用してほしいと言ってきた。でも「日本の博士は使えない」と返ってくる。 いつクビになるか分からないなか、大学から雇われて死に物狂いで研究をやる欧米と、自分で学費を払って「お客様扱い」の日本とでは全然真剣度が違う、と。日本でも、ちゃんと成果を出している学生はいるんだけどね。) エジソン すごく耳が痛い話ですね。日本で博士号を取って企業に行く人に優秀な人が少ないのは事実。われわれ大学人も出来上がっていない状態の人間を外に出しちゃうことが当たり前の状態。旧帝大レベルでもそういう「ポンコツ」がいっぱいいる。 ニュートン つまり大学院重点化の「ポスドク1万人支援計画」は間違いだった。アメリカと比べ博士号保持者が少ないから増やそうとして、優秀じゃない人も大学院に行くようになった。 修士で就職出来なかった人も「ネガドク」(ネガティブ・ドクター)で博士課程に行くようになった。優秀じゃない人が残るシステムになっている。企業からすると、優秀でない人を押し付けられている感じになる。 エジソン ひどいのは社会人博士。3年間毎年53万円払えば博士号を取れる。下手したら指導教官に論文を書かせて博士の肩書だけもらえる。教授の判断で短縮卒業だって可能。 ニュートン 企業内で表には出なかった研究で、1日も研究室に通わなくても博士号を取得できちゃう。日本の博士号は今や150万円で買える。日本の大学は博士号の授与という唯一の特権の使い方を間違い、博士号を安売りし、そして結果的に自らの首を絞めている。 ダーウィン それがあるから学歴ロンダリングなどと言われる。大学を出るのが難しかったらロンダリングもなにもない。つまり日本はプロフェッショナリズムとプロに対する敬意がない。 今の話にあるような学生は教員が受け入れなければ良いわけで、まず教員の質が低く、プロではない。アメリカのテニュア(終身雇用)制度だと、大学のポストに応募して厳しい競争を勝ち抜くと教員になり、自分の研究室を持つ。最初に与えられるのは7年間の任期付きのポジションで、これはテニュア・トラックと呼ばれる。 この間に結果を残してテニュアになれないとクビなので、すさまじい勢いで研究する。「パブリッシュ・オア・ペリッシュ」、つまり「論文を出版、さもなくば死」、と言われるぐらい。お金の話をすると、あるアメリカの一流私立大学の学費は学生1人で500万円ぐらい。給料も500万円。 それらと諸経費合わせると、1人の博士課程学生に年間1300万円ぐらいかかる。そういう人を5~7年雇わなきゃいけないので、1人の博士号を出すのに、8000万円ぐらいが必要。給料も払うので、研究室の力にならない学生を採るなんて1000%あり得ない。 ニュートン 教員になれれば良い生活が待っているのでプライドを持って頑張るんですよね? 日本の現状とは真逆に思えてしまいます。 ダーウィン そうでしょうね。僕が知る限り、給料は企業には及ばないものの十分裕福と言えると思います。また、もちろん額は採用時などに交渉できるはずですね。 ニュートン 日本は採用されたときに初めて給料などを教えられる。それもありえないですよね。プロへの敬意がない。 ダーウィン 自分がどんな仕事をすることを期待されているかも、着任するまで分からなかったりします。ジョブディスクリプション(職務が明記された書類)がない。やばくないですか? ガリレオ 文部科学省は制度だけ海外から持ってくるね。制度を導入したから社会人博士を出せとか、年間何人が目標だとか。だから失敗する』、「日本で博士号を取って企業に行く人に優秀な人が少ないのは事実」、これでは企業が敬遠するのもやむを得ないようだ。「ジョブディスクリプション・・・がない」、大学人は職務を自ら決めるので、ないのが当たり前なのではなかろうか。
・『交付金減額でボロボロ ニュートン 社会人博士をなぜカネで買えてしまうか。海外から制度だけを持ってきてしまうということもあるが、根本的な違いは、海外は大学が資産運用などで資産を増やしており、お金持ちであることにあるのでは。 日本の大学は海外と違い税金中心で動いている。定員を埋めて博士号取得者を出さないと国からの補助金が減る。だから優秀だろうがなかろうが学生を入れるしかなく、人材の質の低下を生む。 ガリレオ その原因のひとつは寄付文化が日本にないこと。アメリカはそれが根付いており、税制上の優遇もある。成功したら母校に寄付するというカルチャーがある。 エジソン 2004年に国立大学が法人化して国からの運営費交付金がガクっと減らされて、お金の自由度が減った。ガリレオさんは法人化の前後を見られていると思いますが、どう思われますか。ちなみに昔は大学から研究室1つあたり年間400万円ぐらいは分配していたと思うが、今は私の研究室では20万円ほど......。 ダーウィン 僕の大学ではそれよりは多いです。ただ着任初年度は研究室開設の準備費用としては全く足りませんでした。 ガリレオ 運営費交付金減額はだんだんボディーブローのように効いてきているね。それに東大などメジャーな大学とそれ以外の差が非常に広がっている。地方大の教授だと年間10万円しかもらえないとか、信じられないことが起こっている。それが成功しそうなところばかりに金を投入する「選択と集中」だけど、悪い言葉だ』、確かに「選択と集中」は大学には馴染まないかも知れないが、他にメリハリをつける方法があるのだろうか。
・『「選択と集中」とオキアミ ニュートン 「選択と集中」は本当にダメですね。サイエンスの研究には大きな金が必要で、100万円、200万円はすぐ飛んでしまう。500万~600万円の機器を買うのも当たり前。海外では教員着任前に既に設備がそろっているが、日本ではお金を工面して買わなければいけない。お金が研究に回せない。 ガリレオ 大きな金を投下するには選択と集中は必要かもしれない。しかしやっぱり撒き餌も必要で、成功するかどうかわからない研究に、失敗してもいいからと、少額の金を幅広くばらまくべきだね。昔の運営費交付金はそうだったし、(審査によって交付を決める)科学研究費だって多くはそうすべき。 生態系と一緒で、まずオキアミがあって、それを食べてイワシ、クジラが育つ。オキアミには撒き餌を、クジラには選択と集中を、だ。ありとあらゆることに選択と集中と言って、わずかな金に「失敗したらいかんぞ」みたいなことを言うからダメなんだよ。 <2020年10月20日号「科学後退国ニッポン」特集より>』、なかなか難しい問題だ。
第三に、上記の続きを、10月16日付けNewsweek日本版「科学者と名乗ると「外国ではカッコいいと言われる」(一流科学者・覆面座談会)」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/technology/2020/10/post-94726_1.php
・『<どうすれば日本の科学界は復活できるのか。覆面座談会の後半では、教育コストを渋ることの致命的損失や足りない予算を調達する方法、「科学者」イメージを更新する必要性などについて語ってもらった・・・』、興味深そうだ。
・『「専門」への敬意を欠く日本 ガリレオ 海外は実験を準備するスタッフなども充実しているよね。日本では何でも教授自らがやらないと回らない。ヨーロッパでは、下支えしてくれるスタッフがすごく充実している。そこに計り知れない違いがある。 ダーウィン 結局日本はスタッフもプロじゃない。アメリカの大学では事務も専門職。MBA保持者もいるし、自分の仕事に誇りを持っている。 ガリレオ 日本は専任の大学職員であっても部署がどんどん変わるでしょう。アメリカはずっと同じ部署にいて、本当のプロが育っている。 エジソン 一方、日本の大学職員の仕事は研究、教育の他に雑用もある。例えば学生の担任や研究室運営、入学試験の問題作り、試験官の振り分けなど。あとは学内委員会ですね。安全衛生委員会とか。こんなのまで俺たちがやるかっていう(笑)。 ニュートン 大学院重点化前には、ラボ1つに教授1人/助教授2人/助手3人が標準的で、助手3人がスタッフ的役割をしていたというのが私の理解。最前線でラボを支えていたのは助手だった。それが重点化によって、1人/1人/1人や1人/0人/1人、1人/0人/0人も当たり前になった。教員1人だけで全部やらないといけないラボもあり本当に忙しい。 なぜそうなったかというと、重点化に対して予算増がなかったから。人件費を増やさず、元々いた教員を新しいラボに回した。そうしてラボ内教育が手薄になり、研究のレベルも下がり、企業からの信用度も下がった。 ガリレオ それは別の言い方をすると小講座制をやめて大講座制にしたということ。小講座制の悪いところは封建的になりがちなところ。例えば3人の助手が居たとして、1つの助教授ポストを得ようと理不尽なきつさに耐えなければいけない。 もうそういう時代じゃないだろうというので、権利を民主的に分かち合うために変えていったんだけど、研究という面ではまずいよね。 それにしても文部科学省の大学教育改革はみんな裏目に出ている気がする。教養部の廃止とか、大学院重点化とか、ポスドク1万人とか、大講座制化とか。学部に対する教養部のプライド、大学院に対する学部のプライド、研究室における助手のプライドをもっとその場その場でしっかり高めることを考えるべきだったと思う』、「アメリカの大学では事務も専門職。MBA保持者もいるし、自分の仕事に誇りを持っている」、潤沢な予算ゆえだろうが、驚かされた。「文部科学省の大学教育改革はみんな裏目に出ている気がする」、手厳しい批判だ。
・『失敗も質問も許さないカルチャー ガリレオ あと、もう1つアメリカとの違いは、失敗を許すかどうか。アメリカのベンチャーだって成功率は日本と変わらない。違うのは、アメリカでは投資家へのプレゼンでも失敗が勲章になり、失敗経験のない人はむしろ駄目なこと。日本は失敗を評価システムに組み込んでいない。 ニュートン 日本企業はいいとこ取りを狙い過ぎてリスクを背負わない。例えば製薬業界では、欧米のベンチャーや大手企業は、薬になるか分からない段階の研究にも夢を懸けて投資する。日本でそういう投資はまれ。 ダーウィン どこから変えるべきかといったら初等教育だと思う。子供の頃からいろいろなことに挑戦させて、結果は駄目でもチャレンジしたことは褒める。つまり過程が大事。そうでないとリスクを背負う人は出てこない。日本はそうした教育がない。 エジソン 評価の仕方ですよね。失敗は、駄目だということが分かったこと自体が「成功」ですから。それを知った人は、同じ轍を踏まない。 ガリレオ 日本ではなぜ?と質問するということにもすごい抵抗がある。例えば学会で質問するとき、大御所の発表に対して「純粋に知りたいから聞くんですけど」とわざわざ前置きしたりする。つまり本当にフラットに「Why(なぜ)」と聞くことがものすごく難しい。 これはすごくまずい。欧米では「なぜ」を探ることを楽しんでいるカルチャーを感じるのに......。 ダーウィン 先ほどチャレンジが評価されないと僕が言ったことと関係するのでは。間違った、バカみたいな質問をしたらどうしよう、と日本では感じてしまう。 アメリカではみんなファーストネームで呼び合うじゃないですか。学生も教授をファーストネームで呼ぶ。ほぼフラットみたいな感じで、その環境になったらWhyと言えるし、むしろなんで言わないんだと聞かれる。でも日本だとなんでそんなこと聞くんだ、と。雲泥の差だと思う』、「日本ではなぜ?と質問するということにもすごい抵抗がある」、確かに欧米からみると異常だ。「アメリカではみんなファーストネームで呼び合うじゃないですか。学生も教授をファーストネームで呼ぶ。ほぼフラットみたいな感じで、その環境になったらWhyと言えるし、むしろなんで言わないんだと聞かれる」、日本では教授は偉ぶっている人が多いのは確かだ。
・『教育にはコストがかかる ニュートン アメリカはちゃんと(日本の改革で次々廃止された)リベラルアーツ(一般教養)教育は残っていますよね? 教える専門の教員がいる。 エジソン そう。レクチャラーと呼ばれ、研究専門のリサーチプロフェッサーとリスペクトし合っている。両方やるフルプロフェッサーもいる。 ガリレオ アメリカでは教育専門の教授のほうが給料は高いと聞いた。 エジソン その通りです。 ガリレオ 研究専門は好きなことやっているのだから安月給でも我慢しろと。そういうかたちで教育プロパーの先生もちゃんとリスペクトされている。 しかし日本は研究をやっていて「ネイチャー」誌に論文を出すと偉くて、教室で100人相手に授業やっていると駄目だ、となる。多様性をなくしてしまって、一本の物差しで測ろうとする。これが全ての間違いだね。 エジソン ただ、アメリカで教育をやっているプロフェッサーは外からの稼ぎがあまりないから大学がちゃんと保証する一方、リサーチプロフェッサーは研究費を取ってきて自分に給料をペイできる、という事情もあります。 ガリレオ なるほど。 ニュートン イギリスもアメリカも教育はコストがかかるものという認識が浸透している。だが日本は教養学部廃止で研究が得意な人が教育もやらざるを得ない。しかも教育への評価はされにくく、教えることがおろそかになる。 ダーウィン そのことですが、日本の大学では誰かが決めたカリキュラムに沿って授業をあてがわれたりしませんか。新しい授業を開設するのが難しいのか最先端の授業も行ないづらく、進歩が早い分野ではどんどん時代遅れになるし、自分の専門でなかったりするとパッションも持ちづらい。 ニュートン そうした詳細が採用時には分かりにくい日本の人事制度はおかしい。何を期待され採用に至るのか明確でないのでミスマッチが起こり得る。学問的需要とは別に政治が絡むこともあるし。 ただ、採用前の教員の評価が難しいのも事実。欧米は「人物評価」で教員を採る。でも日本の場合クローズドじゃないですか。選考員5人ぐらいの前でプレゼンするぐらいで。基準が明確でない。日本は人事に関してはもっと人物を見るべきだと思う。 ダーウィン アメリカのトップ大学では朝から丸1日かけて教員一人一人と面接して評価される。学生も候補者と議論して採用担当教員に意見を言える。ランチやディナーも候補者は教員たちと一緒に取る。研究はもちろん、人としてどれだけ魅力的か見る。 エジソン 日本はそこまで労力かけないですよね。採用側もそういう能力はない。あらかじめ採用者が決まっている「デキ公募」もよくあるし。そういう公募で僕は今まで2回「当て馬」をやったことがある(笑)』、「アメリカでは教育専門の教授のほうが給料は高い」、「研究専門は好きなことやっているのだから安月給でも我慢しろと。そういうかたちで教育プロパーの先生もちゃんとリスペクトされている」、参考にな考え方だ。
・『インパクト・ファクターと大学教員の評価 エジソン でも教育者としてのどう評価するかは難しい。学生によって印象も違うだろうし。投資してでも守っていかなくてはいけないのが教育だが、評価がちゃんとできなくて適当になってしまっているのが今の日本。 私は教育と研究を分けて評価しないと駄目だと思う。研究基準で教育を語っても正当な評価はできない。教育関係の予算、組織を削って壊してしまったことは非常に損失が大きかったと思う。 ダーウィン 僕は研究も実は評価は難しいと思う。論文の数ではないし、実は価値でもない。なぜなら「今」その研究の本当の価値は分からない。今は誰もすごいと思っていなくても、5年後10年後に良い研究だったと分かることもあるわけで。 ニュートン 何が良い研究か、誰がどのように判断するのか。それを数値化しちゃったのが(科学雑誌の影響力を測る)インパクト・ファクター(IF)。 「ネイチャー」、「サイエンス」、「セル」クラスだとIFが大きくなるので、一般の人には分かりやすい。でもそういう雑誌に載った研究がどれほど重要なのかは時が経たないと分からない。載ったということは査読して審査した人が重要だと認めたという、その時点での判断でしかない。 エジソン 先ほど赤﨑先生の話が出たが、窒化ガリウム関係の初期の論文はアメリカでも日本でもIFが低い雑誌にしか載っていない。でも赤﨑さんはノーベル賞を取っている。もちろん良い雑誌に載せればみんなが読むかもしれないが、それが全てではない。 ガリレオ IFとはその雑誌に掲載された論文が引用された回数を掲載した論文数で割ったもの。それは確かに雑誌に対する1つの指標だけど、論文そのものの評価じゃない。 本当に論文を評価する目を持っていれば、IFはどうでも良い。ただわれわれは他分野に関してはそういう目がないので、IFに頼ってしまう。自分の評価能力のなさを外部の指標で補っている。 ニュートン 教員の採用にあたり、IFのような数値で人物を評価して良いのかという問題は常にある。しかし自信をもって判断できる人が大学の中にはいない。IFの総得点が何ポイントか、などで判断してしまう。対外的には説明はつくかもしれないが、本当に人を見ていることになるのか。 エジソン IFはよく足切りとしては使われますよね。落とすには理由がいるので、その理由にIFがなりうる。だから論文の共著者として名前を載せてもらうことが重要になる。学生の時、指導教授の忖度で自分のプロジェクトに知らない人の名前がずらずら載った時があった(笑)。 ニュートン 結局、研究者の経歴は「見てくれ」が重要なので、星(責任著者の印)が付いた論文の数で「武装」しろとはよく言われる』、結局、「評価」には決め手はないようだ。
・『被引用数の信頼度 エジソン 被引用数も評価されるには重要ですね。昇進するときに「お前が来ると(学部や研究科)全体の被引用数の平均が下がっちゃう」などと言われるので。そのためにどう武装するかというと、流行り物を研究して被引用数を稼ぐ。全然興味ないけどその研究やらざるを得ないということはある。 ダーウィン 被引用数は間違った使われ方をしていると思う。そもそも研究者がその分野に多かったら被引用数は増えるので、異なる分野の引用数を比べるのは意味がない。 学部・研究科の平均値なんて全くナンセンス。野球とサッカーを比べるようなもの。分野内で比べるのは一定の意味があると思うが、それでも良い論文の引用数が多くなるわけでは必ずしもない』、「異なる分野の引用数を比べるのは意味がない」、その通りだが、現実には誤用されているようだ。
・『財務省と政治家の罪 ニュートン 一方で日本はアメリカや世界を見習えという考えが強過ぎる。日本が世界でリードしていた部分が世界ではやらなくなったから捨てちゃうということが結構あるので、いま沈滞気味の分野にも一定のお金はまいておくべきじゃないのかな。 エジソン 半導体の世界などまさにそんな感じですよね。 ガリレオ 一つは(予算配分に決定権を持つ)財務省だよね。文科省の人は結構分かってくれるけど。財務省の人は半導体なんか中韓に任せたらいいじゃないですかなんて言う。世界の流れに乗ることしか考えていない。日本の本来の強みだとかここを伸ばすべきだとかいう考えはない。 ニュートン 財務省あたりのトップクラスの官僚は国家公務員試験の予備校で訓練を受けてきた人たちで、サイエンスをやって来た人間が入る余地はない。その弊害は大きい。 エジソン 科学技術専門の政治家も絶対必要ですね。国民のそういう認識をつくるための努力をわれわれ大学人はやらなきゃいけない』、「科学技術専門の政治家も絶対必要」、そこまでは必要ないと思う。
・『文系/理系という分け方の不毛 ガリレオ そもそも日本の文系理系という分け方が非常に気に入らない。下手したら中学生ぐらいから分けちゃっているでしょ? あれは不毛だよね。結局文系の官僚とか政治家が全くサイエンスを分からないのはそのへんでもう理系から離れてしまうから。 アメリカのハーバード大学だったら学部関係なしにこの200冊読めというリストがあって、物理をやる人間でもギリシャ哲学から『資本論』まで全部読ませる。そういう考え方が、まさに教養なんだけど、日本は全部捨て去ってしまった感じがするよね。アメリカでも文系理系はあるのだろうけど、日本から見て遥かに相互乗り入れしている気がする。) ニュートン そうですね。大学入試で文理を分けているので結局入試も改革する必要あると思う。 エジソン 大学からの(卒業・修了の)出口を狭めることはやったほうがいい。間口はいくらでも広げていいけど。大学は義務教育じゃなくて高等教育なので、ある程度のクオリティを持った人間しか出さないべきです。世界で日本だけじゃないですか、入口だけが狭くて、入れば出られてしまうのは』、「大学からの出口を狭めることはやったほうがいい」、同感だ。
・『学費は値上げするべき ニュートン 税金だけではなかなか金策は苦しい。こう言うと国民から抹殺されそうだけど、学費を上げるべきだと思う。でないと大学組織が死んでしまう。低所得層には裕福な人の学費を奨学金に充てればいい。 エジソン 寄付制度は必ず法律から変えていかなければいけないと思う。学費を返さなくていい制度や、教員が研究費から学費を投資して優秀な学生を育てられるようなシステムがあってもいいかも。 ニュートン 今の若手教員は大企業に就職するより確実に低い給料から始まる。そのギャップを埋めたい。 エジソン たしかに、医者の年収が500万円だったら誰もやらない。コストをかけてでも医学部に入って医者になれば回収できるからみんな血眼になる。同じことができればやったほうがいい。そこまで給料があればクビにできるシステムもあってもいい。プロ野球選手みたいにね』、この部分は意味不明だ。
・『湯川秀樹的イメージの罠 ニュートン 皆さんに聞きたいのですが、外国で普通の人にサイエンティストやドクターと名乗ったとき、クールだね、かっこいいねって言われませんでした? (一同うなずく) でも日本では例えば合コンなんかで女の子に「お勉強好きなのね」と言われたり、オタッキーなイメージ。それが「科学後進国」であることの一部なんじゃないのか。そのギャップを埋めるためにはどうすればいいか。 エジソン アメリカは例えば一般の人が「ネイチャー」とかをよく読んでいるイメージがある。だけど日本人って読まないよね。ギリギリ「ニュートン」ぐらいで。一般教養としてのサイエンスがちょっと足りないかなという気がする。 ニュートン 一般から見た優秀な研究者像≒湯川秀樹的というのも引っ掛かる。彼の自叙伝からも伝わる、コミュニケーションより研究を大切にする日本の科学者のイメージで、これは欧米と全然違う。そういうイメージからは脱皮したい。 われわれサイエンティストも一般の人に分かってほしいという欲を持つべきだと思う。でないと裾野が広がらない。サイエンスが分かる人で社会との橋渡しをしてくれる人材を官僚やマスコミなどにわれわれ科学者が積極的に送り出していかなければいけない。 ガリレオ まとめると、やっぱりマインドセットなのかな。科学は楽しいことをみんなに分かってもらう。そしてそういう人材が残ってくれるように、システムを変えていくことをやっていかなきゃいけない。 <2020年10月20日号「科学後退国ニッポン」特集より>』、「科学は楽しいことをみんなに分かってもらう。そしてそういう人材が残ってくれるように、システムを変えていくことをやっていかなきゃいけない」、その通りなのだろう。
タグ:「自分を雇えない」博士 青色発光ダイオード(LED)の研究はアメリカでは絶対できないと羨ましがられた 日本は「科学後進国」か否か 「日本の科学者は「給料安い」「ポンコツ多い」(一流科学者・覆面座談会)」 Newsweek日本版 「研究公正」を科学技術政策の中心に その背景には、医師を中心に、どのような行為が不適切な行為なのかといった基礎的な知識が身についていないことや、研究不正を他人事と考えて、自らの行為を見つめなおさないことから来ている 最近日本人研究者や日本人医師が、留学先で行った行為を研究不正とみなされ、処分される事例が相次いでいる。日本では当たり前に行っていた行為が研究不正と認定されてしまうのだ 何も学ばなかった科学界 大学・研究機関のずさんな対応 科学は楽しいことをみんなに分かってもらう。そしてそういう人材が残ってくれるように、システムを変えていくことをやっていかなきゃいけない 湯川秀樹的イメージの罠 学費は値上げするべき 文系/理系という分け方の不毛 財務省と政治家の罪 異なる分野の引用数を比べるのは意味がない」、その通りだが、現実には誤用されているようだ 相互批判ができない医師特有の文化が影響している 撤回論文数が多い研究者のランキングのトップ6のうち4人が日本人だ。そして4人全員が医者だ インパクト・ファクターと大学教員の評価 研究専門は好きなことやっているのだから安月給でも我慢しろと。そういうかたちで教育プロパーの先生もちゃんとリスペクトされている トップはF氏。日本人の麻酔科医だ。その撤回数は実に183報。当分記録は更新されないだろう。 第4位は元慶應義塾大学の研究者I氏の69報。実はI氏は元弘前大学のS氏の共同研究者だった。そして第6位のS氏(撤回論文数53報)は麻酔科医 撤回論文数ランキングの上位に日本人が多数入っている 「論文撤回」 アメリカでは教育専門の教授のほうが給料は高い 世界中から懐疑的な目 患者の治療ガイドラインの結論が変わってしまう 教育にはコストがかかる 日本ではなぜ?と質問するということにもすごい抵抗がある 元弘前大学教授で医師のS氏が起こした事件 史上最悪の研究不正 日本の研究が抱える様々な問題は、実は何も解決していない 失敗も質問も許さないカルチャー 「STAP細胞事件が覆い隠した科学技術立国ニッポンの「ヤバい現実」「史上最悪の研究不正」をご存知か?」 榎木 英介 文部科学省の大学教育改革はみんな裏目に出ている気がする 「専門」への敬意を欠く日本 「科学者と名乗ると「外国ではカッコいいと言われる」(一流科学者・覆面座談会)」 現代ビジネス (その1)(STAP細胞事件が覆い隠した科学技術立国ニッポンの「ヤバい現実」「史上最悪の研究不正」をご存知か?、日本の科学者は「給料安い」「ポンコツ多い」(一流科学者・覆面座談会)、科学者と名乗ると「外国ではカッコいいと言われる」(一流科学者・覆面座談会)) 「選択と集中」とオキアミ 交付金減額でボロボロ 日本の博士はポンコツか 日本は博士号を取ったことのデメリットが強調される。社会が受け皿として博士の高度な専門性を利用せず、博士課程に行くハードルを高くしている 海外とのすさまじい格差 科学技術
コメント 0