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歴史問題(14)(だから多くの日本軍兵士が死んだ。だから連合国軍の捕虜を虐待した 「戦陣訓」とは一体何だったのか、半沢直樹になれなかった男「國重惇史」、経済に詳しくない人もわかる技術が変えた歴史 世界相場に安定と繁栄をもたらしたのは何か、明治政府が閉じた琉球王国450年の幕 日清戦争で日本領に) [国内政治]

歴史問題については、昨年9月29日に取上げた。今日は、(14)(だから多くの日本軍兵士が死んだ。だから連合国軍の捕虜を虐待した 「戦陣訓」とは一体何だったのか、半沢直樹になれなかった男「國重惇史」、経済に詳しくない人もわかる技術が変えた歴史 世界相場に安定と繁栄をもたらしたのは何か、明治政府が閉じた琉球王国450年の幕 日清戦争で日本領に)である。

先ずは、本年1月31日付け現代ビジネスが掲載した毎日新聞記者の栗原 俊雄氏による「だから多くの日本軍兵士が死んだ。だから連合国軍の捕虜を虐待した。「戦陣訓」とは一体何だったのか」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79657?imp=0
・『今から80年前の1941年1月8日、時の陸軍大臣東条英機が軍人の心得と行動規範を制定した。「戦陣訓」だ。「生きて虜囚の辱を受けず」=捕虜になることを禁じたことで知られる。 近代国際法に裏打ちされた捕虜扱いの常識をちゃぶ台返しするような内容を含むこの示達の全体はどのような内容で、なぜ出されたのか。当時の軍人はどう受けとめていたのか。戦争にどのような影響を与えたのか。「戦陣訓世代」の司馬遼太郎の回顧などから振り返りたい』、興味深そうだ。
・『「戦陣訓」とは何だったのか  1937年7月に始まった日中戦争は、4年目を迎えても停戦の見通しが立たなかった。当時の日本の主力産業は農業だったが、農村から多数の青年が軍隊に召集され戦地に向かった。戦争が長期化するにつれて戦死者は増える。何のための戦争なのかもよく分からない。兵隊に送り出す家族の不安がつのるのは当然であり、送り出される兵隊の士気が上がらないのは必然である。 折から、中国戦線における日本軍兵士による暴行や略奪も行われていた。南京事件がそうであったように、中国戦線の日本軍のふるまいは世界が注目していた。大日本帝国陸軍としては、心構えも行動も正しくするようにと兵士に呼びかけ、呼びかけたことを内外に広く知らせる必要があった。 こうした背景から示達された「戦陣訓」は「序」から始まる。 「夫(そ)れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍(あまね)く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいつ)の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず」 「日本軍は天皇の命に基づき、戦えば必ず勝つ。天皇による政道を広く知らせ、敵に天皇の威光を感じさせる……」。その「序」以下、三つの「本訓」、「結」からなる「戦陣訓」の作成には、文豪の島崎藤村、志賀直哉、哲学者の和辻哲郎も関わったとされる。 「本訓」1は「皇国」「皇軍」「軍紀」「団結」「必勝の精神」など7項目からなる。「本訓」2は「孝道」「責任」「死生観」「名を惜しむ」「質実剛健」など10項目。「本訓」3は「戦陣の戒め」「戦陣の嗜(たしな)み」の2項目だ』、「戦陣訓」に「文豪の島崎藤村、志賀直哉、哲学者の和辻哲郎も関わった」、とは初めて知った。
・『「戦陣訓」の拘束力はどれくらい?  最もよく知られている規定は、「本訓」その2、「名を惜しむ」の一節だろう。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」とある。 戦場で武器弾薬を失ったり、けがや病気などで戦えなくなった場合は降参して捕虜にならざるを得ない。しかし、「戦陣訓」はそれを認めなかった。そうなると兵士は素手で相手に立ち向かって殺されるか、自殺するしかない。投降を禁じたこの規定によって、多くの日本軍兵士が失わなくてもよかった命を失ったとされる。 実際のところ、戦場での「戦陣訓」の拘束力はどうだったのだろうか。大阪外国語学校から学徒出陣し、戦車兵となった司馬遼太郎が書き残している。1972年のことだ。当時、元陸軍軍人の横井庄一が、グアム島で「発見」され、帰国した。 司馬は横井について、いくつかの新聞社からコメントを求められた(大正生まれの『故老』=新潮文庫『歴史と視点』収録)。同じ元軍人として、敗戦から27年間も潜伏していた兵士の心理を聞こうとしたのか、新聞社の質問者は司馬に「戦陣訓」の影響では、と問いかけた。 問われた司馬は《なるほどそういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した》。しかし、それが兵士の意識を拘束したがために、横井のような人物が出たという見方には否定的だった。 《たかだか一省の大臣という役人が、法規を作るならともかく、孔子やキリストもしくは当時の天皇のように道徳をつくりだすような権能を持っていいものであるかどうかについては、これが刊行されたころすでに無言の批判があった》』、「司馬遼太郎」が「《なるほどそういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した》。しかし、それが兵士の意識を拘束したがために、横井のような人物が出たという見方には否定的だった」、と「戦陣訓」を軽視したようだ。
・『すでに「軍人勅諭」があったのに…  軍人には、明治天皇の名で1882(明治15年)に出された「軍人勅諭」があった。軍人が守るべき規範、心構えを示したものだ。この上たかだが陸軍大臣ごときが何を今さら、という気分だったのだろう。学徒出陣だった司馬はやがて士官となり、部下を教育する立場になった。 《私は関東軍で教育をうけ、そのあと現役兵のみの連隊に属してほんの一時期初年兵教育もさせられたが、「戦陣訓」というものが教材につかわれている現場をみたことがないのである》 また司馬によれば、幹部候補生試験では「軍人勅諭」を暗記しているかどうかがテストの対象になったが、「戦陣訓」はそうではなかった。《「戦陣訓」が発行されたときそれをニュースとしてやかましく書き立てたのはむしろ新聞であって、それを新聞紙上で読まされた民衆が兵隊としてとられるとき、ああ、ああいうものがあったな、という程度の影響として存在したものであろう》とする。 陸軍はこれを軍の外にも広めたかったのか、メディアも使おうとした。司馬の言う当時の新聞を見よう。「戦陣訓」が発表された1945年1月8日、東京日日新聞である。1面トップの見出しは「陸軍史に一紀元 戦陣訓/戦陣道義を昂揚/具体的実践要綱を明示」とある。 東条は談話で、軍人勅語がすでにあることに触れて、「一兵士の心掛けとして一層具体的に親切に説明する必要のあることをおもい慎重に研究した」と述べている。 記事は「軍人精神の根本義については軍人に下賜された勅語に明らかであり、また戦闘訓練に関しては作戦要務令、各兵操典、各教範、諸勤務例令などで明瞭である。しかしながら大陸において支那大民衆を相手として聖戦を遂行する場合さらにこれを具体的に示す必要が痛感される」などとある。 東条の談話を詳しく解説したものだ。東条の談話は、司馬が振り返ったように、軍人勅語があるのになぜ今さらそんなものが必要なのか、という疑問・批判を先回りして弁解しているようにも読める。記事は東条の談話をおさらいして膨らましたものだ。 司馬の体感、体験としてはさほど効力のなかった戦陣訓だが、「生きて虜囚の辱を受けず」の規定は戦場の兵士の意識を拘束したと言われる。捕虜になることを拒み死んだ兵士がいた、ということに関心がいきがちだが、筆者は別の影響を想像する。 捕虜=恥辱という意識を埋め込まれた兵士たちは、敵の捕虜に対しても軽蔑し、それによって理不尽なふるまいをしたのではないか、ということだ。実際問題として、連合国軍の捕虜を日本軍兵士が酷使したり、虐待したケースは多数報告されている。 もっとも、そうした捕虜蔑視の心情は、「戦陣訓」の前からあった。第二次世界大戦の時代、すでに国際法で捕虜には一定の権利、人権は保障されていた。死に追いやるような強制労働や食料配給の不足などは、国際法違反であった。 しかし前線の日本軍兵士は、そうした国際法の規定を学ぶ機会が乏しく、各地で連合国軍捕虜に対する虐待が行われ、敗戦後の「BC級戦犯」の悲劇にもつながった』、「明治天皇の名」で出された「軍人勅諭」がある以上、「陸軍大臣東条英機」が出した「戦陣訓」は、陸軍内でも重視されず、「メディア」向けだったようだ。
・『不幸な形で実現した「東条の予言」  さて「戦陣訓」の中では、筆者はもう一つ取り上げたい規定がある。「本訓」3、「戦陣の嗜み」だ。 「屍を戦野に曝(さら)すは固(もと)より軍人の覚悟なり。縦(たと)ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせぎる様予(かね)て家人に含め置くべし」とある。 「戦場で死んで遺体がさらされるのは、軍人ならば覚悟しているはずだ。遺骨が帰らなくても、あきらめるように家族に納得させるように」という訓示である。前述の新聞談話で、東条は「戦陣訓中どれが殊更大切ということはない。すべてが大切なのだ」としつつ、この「遺骨」項目について説明している。 「これは特に航空関係、機械化部隊に必要なことで、これからは近代戦の特徴としてますます悲惨な戦争となり、航空においては遺骨帰還も期しがたく、地上においても五体の消滅することもあろう、したがってこの心がけが必要なのである」 東条が説く予言は、不幸な形で実現した。東条が首相となった大日本帝国は身の丈をはるかに超えた戦争を始め、敗れた。日本人だけで310万が戦死し、うち260万人は海外で倒れたとされる(いずれも厚生労働省推計)。 同省は海外戦没者のうちおよそ128万体を収容したとする。この数字は信憑性が高くない(本当はもっと少ないだろうと筆者は見ている)のだが、それを信じるとしても未だ112万体もの遺骨が海外で行方不明ということになる。 2016年に議員立法で「戦没者遺骨収集推進法」が成立し、政府は遺骨収容を国の事業として進めることとなった。しかし戦後76年がたち、収容数が劇的に増加することは考えにくい。離島とは言え首都の一部である硫黄島(東京都小笠原村)でさえ、1万もの戦没者遺骨が見つかっていないのだ。 昨今の新型コロナウイルスを巡る政府の対応を見れば分かるように、非常時になると為政者たちの地金や実力、何を大切にしているかがあらわになる。 そして為政者たちはとんでもない間違いを起こして、大借金を残す。中国相手に終わる見込みのない戦争を始め、米英と勝てるはずのない戦争を始めたのはその一例だ。その大借金に対する請求書は国政に参加できない国民にまで回されて、何十年たっても清算できない。 司馬が「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と称した東条が残した「戦陣訓」は、為政者たちによる負の遺産の象徴である』、「東条」を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」、とは言い得て妙だ。

次に、2月20日付け日経ビジネスオンライン「半沢直樹になれなかった男「國重惇史」」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/021900174/
・『住友銀行(現三井住友フィナンシャルグループ)で「伝説のMOF担(対大蔵省折衝担当者)」としてその名をとどろかせ、後に楽天副会長まで務めた國重惇史氏。戦後最大の経済事件とまでいわれたイトマン事件の内幕を描いた2016年の著書『住友銀行秘史』(講談社)はベストセラーとなり、世の話題をさらった。 國重氏は「メモ魔」として知られている。その國重氏は1986年に東京地検特捜部が摘発した平和相互銀行事件の内幕を7冊のノートに記していた。このメモを託されたノンフィクション作家の児玉博氏の最新の著書が『堕ちたバンカー ~國重惇史の告白~』だ。児玉氏に話を聞いた(Qは聞き手の質問)。 Q:なぜこの本を出そうと思ったのか。 児玉氏:國重さんとの付き合いは22~23年になる。彼は輝かしい経歴を持ちつつ、住友銀行を追い出され、その後転落の一途をたどることになる。そんな彼がの内幕を記した7冊のメモを私にくれたことが執筆のきっかけだった。 本でも触れたが、そのメモには当時の住友銀行がいち民間金融機関にもかかわらず、大蔵省、日本銀行、検事総長、大蔵大臣までも籠絡していくさまが克明につづられていた。ある種、金融史の闇ともいえる内容だった。これは絶対に残さなければならないと考えた』、「平和相互銀行事件」は、「金屏風事件」、さらには「イトマン事件」などにつながる闇世界と表裏一体で、「内幕を記した7冊のメモ」とはさぞかし読みでがあるのだろう。
・『Q:なぜ國重さんはメモを託したのか。 児玉氏:正直にいえば分からない。國重さんは自身が招いた不倫騒動で楽天を追い出され、法外な慰謝料の離婚訴訟を起こされた。さらにその後、再就職した会社がまずかった。反社会的勢力との関係が取り沙汰されるような会社だったため、彼を支えていた経済界、金融界、霞ヶ関の人たち全員が蜘蛛(くも)の子を散らすように去って行った。さらに彼は進行性核上性まひという難病にとりつかれて、歩くことも、話すことも困難になっていった。天涯孤独になっていた。 彼と親交があった私は、久々に彼の姿を見て、あまりにも哀れな気がした。それからというもの、時々彼の家へ掃除に行くようになった。「國重さん、こんな人生、どうなんだろうね」とばか話をしながら、それはそれで楽しい日々だった。 そんなある日、彼は輪ゴムで留められた、茶色いありふれた手帳の束を渡してくれた。「読んでみろ」と。 家に帰ってその手帳を読んでみた。それは平和相互銀行合併の舞台裏が記されたメモだった。約40年前、私はこの取材に駆けずり回っていた。だが、メモを読んでがくぜんとしてしまった。現役時代、いかに的外れな取材をしていたかを知ったからだ。 当時、平和相互銀行事件の裏側では大蔵大臣の竹下登氏に金が渡ったとささやかれていた。その前提で私も取材をしていたが、金なんて渡っていなかった。逆に竹下氏は、住友銀行会長だった磯田一郎氏に「自分が総理になったら借りを返す」と話をしていた。 検事総長も住友銀行の意向に沿って動いていた。「ミスター検察」と大手新聞社がほめそやした伊藤栄樹氏からして完全に住友銀行にからめとられていた。後に闇献金事件、脱税事件の捜査を指揮した東京地検特捜部の五?嵐紀男?も副部長になった際、住友銀行にあいさつに来ていた。 前安倍政権では検事総長の人事が問題視され、検察人事が政治的だと批判を浴びたが、そんなものは昔からあったということだ』、「竹下氏は、住友銀行会長だった磯田一郎氏に「自分が総理になったら借りを返す」と話をしていた」、ということであれば、「竹下登氏に金が渡ったとささやかれていた」、噂は本物なのではなかろうか。
・『Q:國重惇史という人物をどう評価するか。 児玉氏:社会的には週刊誌に女性問題を書かれて蹴つまずく結果となった。イトマン事件で銀行を救ったのは自分だ、平和相互銀行合併の立役者は自分だという思い上がりに近いものがどこかにあったんだろう。週刊誌が取り上げた女性問題がセンセーショナルだったこともあり、その一点だけで彼は語られがちだが、やはり圧倒的に有能な人物だったと思う。 彼が暗躍していた当時、社会は熱を帯びていた。住友銀行と富士銀行が預金量で世界一を争い、誰しもが頂上を目指してしのぎを削っていた時代だ。そんな社会において彼は時代の申し子のような存在だった。バブルが崩壊し、社会から熱が失われていくとともに、國重さんの輝きも失われていった。あの時代だからこそ彼は輝いていたんだと思う。 楽天グループに移った後も彼は淡々と楽しそうにやってはいたが、どこかで「乱」を好む性格を考えれば、物足りなさはあったのかもしれない。彼が楽天証券の社長に就任したとき、住友銀行の頭取だった西川善文氏はあまたあるオファーの中から楽天証券の社外取締役に就任した。よく國重さんは「西川さんは頭取に駆け上がったが、俺は危険分子と思われたんだ」と、どこか西川氏に対する複雑な思いを感じさせることがあった。だが、確実にいえるのは、西川氏は國重さんを最後まで見守ったということだ。 Q:國重さん自身はこの本を読んだのか。 児玉氏:読んでいない。彼はいま車椅子の生活をしている。『堕ちたバンカー』というタイトルにしたことを本人に伝えたら「えっ?」と顔をした。彼は自分こそがラストバンカーだという言い方をよくしていた。銀行に対する思いがことのほか強かった。実際にこの本を読んでどのようなコメントをするかは分からない。 Q:40年前の平和相互銀行を舞台にした本だ。記憶に残っている人も少なくなってきている。 児玉氏:私はこれまでも東芝の西田厚聰氏、セゾングループの堤清二氏など、毀誉褒貶(ほうへん)の激しい人物を書籍で取り上げてきた。國重さんも、同じだ。頭取候補とまでいわれてきた國重さんは、ここまで堕ちるのかというところまで堕ちてしまった。 これは決して他人事ではないということだ。人間が堕ちるのはとても簡単で、早い。だからこそ、ビジネスパーソンに読んでもらいたい。年齢問わずだ。希有な才能を持った39歳の一人の男が、リスクを冒して会社のために働いていた姿がここにある。 おそらく、外資系企業の人が読んだら、これだけのリスクを冒して会社のために働いたのにと思うかもしれない。國重さんは海外であれば法外な報酬をもらってもおかしくないほど数々の偉業を成し遂げている。 だが、國重さんはただ楽しんで生きていた。。住友銀行を出されたとき、彼のサラリーマン人生は終わりを告げた。彼はこのことに対する心の痛みを常に抱えていた。 個人と企業の関係の在り方というのは時代を超えた不変のテーマだ。コロナ禍で働き方も価値観も変わり、組織と個人の関係も変わろうとしている。サラリーマンであれば誰しもが憧れる働き方を体現してみせた國重さんだが、結局、「半沢直樹」になれなかった。『堕ちたバンカー』はそんな男の物語として読んでいただきたい』、「「サラリーマン」の枠には収まりきらない人物だったし、組織を超えた活躍を見せた。生き方はたしかに豪快で常識から外れていたかもしれないが、やはり企業人だったと思う」、その通りなのだろう。

第三に、3月2日付け東洋経済オンラインが掲載した韓国の 経済学者のホン・チュヌク氏による「経済に詳しくない人もわかる技術が変えた歴史 世界相場に安定と繁栄をもたらしたのは何か」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/413939
・『16世紀にスペインが南米で見つけた金のほとんどは、スペインではなく中国に流入しました。時代をくだって1960年代、ベトナム戦争に苦戦したアメリカが考えた軍事物資の輸送手段は、「メイド・イン・ジャパン」ブームのきっかけにもなりました。 どうしてこのようなことが起こったのでしょうか?歴史を「経済」の視点から紐解く『そのとき、「お金」で歴史が動いた』の著者ホン・チュヌク氏は、これらの出来事に時代ごとの各地域固有の事情と技術発展が大きく影響していると分析します』、興味深そうだ。
・『銀不足の中国・南米で銀鉱を発見したスペイン  歴史の勉強をしていると、「運命」というものを感じることがあります。16世紀の中国とスペインの出会いがまさにそうと言えましょう。一条鞭法という歴史的改革を断行した中国が「銀貨不足」の状態にあったとき、スペインがメキシコとペルーで豊かな銀鉱を発見したのです。 メキシコを出発したスペインの大船隊がフィリピンを経て中国に到達した後、陶磁器や絹の代金を銀貨で支払ったおかげで、中国の貴金属不足の問題は解決しました。しかし、ここで、とある疑問が生じます。ヨーロッパで中国製品の人気が高かったのは事実ですが、アメリカ大陸で採掘された銀の大部分が中国に流入するほどの需要があったとは思えません。それにもかかわらず、銀が中国に大量流入したのにはどのような理由があったのでしょうか? ここで注目すべきは、「金と銀の交換比率」です。他の地域と比べて、中国では銀の価値が高かったのです。16世紀の金と銀の交換比率を見ると、ヨーロッパではその比率がおよそ1対12だったのに対し、中国では約1対6と、銀の価値が2倍ほど高い状況でした。そのため、ヨーロッパ人は銀を中国に持ち運ぶだけでも大きな利潤を手にすることができたのです。 このような現象が起こった理由は2つあります。1つはアメリカ大陸のサカテカスとポトシで史上最大規模の銀鉱が発見されたこと、もう1つは東アジアでは金の産出が相対的に多かったことです。 最も代表的な例は日本の佐渡の金山で、記録によればその産出量は累計78トンに達したといいます。もちろん、銀がヨーロッパから中国へと大移動するにつれて金と銀の交換比率の落差は徐々に縮まっていきましたが、移動には時間を要し、費用も高額だったため、蒸気船が発明されるまでは依然としてかなり大きな差があったのです。 19世紀に電信が開通する前と後の、大西洋を挟む2つの大陸間の綿相場の調整のケースからも分かるように、前近代社会において情報の流通はかなり閉鎖的だったと言えます。アメリカ・ニューヨーク港の綿花輸出業者は、綿織物工業の中心であったイギリス・リバプールの相場にとても敏感でした。 しかし当時は、印刷された新聞がリバプールから蒸気船に載せられてニューヨーク港に到着するまで、相場の動きについてはまったく分かりませんでした。ニュースが大西洋を渡って伝わるには、7?15日ほどかかったようです。そのため、本来ならリバプールにおける綿花の価格設定は、ニューヨークでの価格に運賃を足した程度に設定されるべきでしたが、実際の価格の開きはもっと大きなものでした。 その後、1858年8月5日に大西洋を横断する海底通信ケーブルが敷設されたのに伴い、両地域の綿相場の情報が時間差なしで伝わるように。そのおかげで2つの市場の価格差は急激に縮まり、相場も安定したのです。 現代人の感覚では、中国とヨーロッパの金と銀の交換比率がなぜこれほど違っていたのか理解できないかもしれません。電話やインターネットがなかった時代には、情報は非常に貴重な「資産」だったのです』、「16世紀の金と銀の交換比率を見ると、ヨーロッパではその比率がおよそ1対12だったのに対し、中国では約1対6と、銀の価値が2倍ほど高い状況でした。そのため、ヨーロッパ人は銀を中国に持ち運ぶだけでも大きな利潤を手にすることができたのです」、いまでは考えられないような価格差だ。「電話やインターネットがなかった時代には、情報は非常に貴重な「資産」だったのです」、その通りなのだろう。
・『輸送距離に必ずしも比例しない輸送価格  通信技術の発展と同様、運送技術の発展も経済に大きな影響を与えてきました。「鉄道輸送と海上輸送の単価比較」を例にとってみましょう。 アメリカ西端のロサンゼルスからテネシー州メンフィスまで物を運ぶ場合、海運を利用すれば鉄道よりコンテナ1個当たり約2000ドルも安くなるそうです。西部のカリフォルニアから東南部のメンフィスまで船で行く場合、パナマ運河を通ってミシシッピ河口のニューオリンズを経由し、さらにミシシッピ川を遡る必要があります。その総距離は約4800マイル〔約7700キロ〕にもなります。 一方、鉄道を使えば約2000マイルだけ運べばいいので、距離だけ見たら海上運送のほうがほぼ2.5倍かかるのです。それにもかかわらず、海運のほうがはるかに安価になるのはどうしてでしょうか? その答えは、海上運送の分野で技術革新が続いているからに他なりません。新パナマックス(パナマ運河を通過できる船の最大の大きさ)級のコンテナ船を借りて長距離運送をした場合、1マイル約0.80ドルの費用で済みますが、鉄道輸送だと1マイル約2.75ドルかかります。もちろん、2008年の世界金融危機を境に海上運賃が大幅に安くなったこともありますが、海上運賃がかなり上がらない限り、海上輸送の競争力の優位はくつがえらないでしょう。 このように費用に大きな格差が生じた理由は、1960年代初めに登場した「コンテナ船」運送システムにあります。1960年代初頭、米軍がベトナム戦争の初戦で優位に立てず、「長期戦」の泥沼にはまったのは、補給に問題があったからでした。 当時、南ベトナムは「近代的軍隊を支援するのにこれほど適さない場所も珍しい」との嘆きが聞かれるほど、劣悪な条件の下にありました。ベトナムは国土の南北の長さが1100キロメートルを超えるのですが、十分な水深のある港がたった1カ所しかなく、鉄道も単線が1本しかありませんでした。 さらに、アメリカ軍が利用できる事実上唯一の港であるサイゴン(現在のホーチミン市)も、メコン川下流の三角州に位置しており、戦場から遠い上、港湾施設は飽和状態にありました。したがって、艀(はしけ)を使って沖に停泊した貨物船から弾薬を積んでくる必要があったのですが、これには10日から30日もかかりました』、「「コンテナ船」運送システム」は、確かに画期的なイノベーションだ。
・『コンテナが事態を打開し、東アジアに「奇跡」を運んだ  このような事態を前に、アメリカ政府も解決策を考えざるをえなかったのです。このとき、アメリカ軍のある研究チームが輸送システムの根本的な改革を提案する報告書を出しました。その報告書の最初の項目にあったのが、あらゆる貨物の「梱包方法の統一」、つまり鉄製コンテナでした。コンテナは規格が統一されており、船の荷積み・荷降ろし時間を飛躍的に削減できます。この提案は、まだ生まれて間もなかったコンテナ産業にとって画期的なチャンスとなりました。 コンテナ港が建設されると、その後の輸送はトントン拍子で進みました。サイゴン港に代えてカムラン湾に建設されたコンテナ港へ、2週に1度の割合で約600個のコンテナが運送され、これによってベトナムで展開するアメリカ軍の補給問題は解決されていったのです。当時のアメリカ軍の軍事海上輸送司令部の司令官が、「7隻のコンテナ船が、従来のバルクキャリアー(ばら積み貨物船)20隻分の活躍をした」と評価したほどでした。 この1件で、東アジア諸国も一大転機を迎えます。ベトナム・カムラン湾への輸送を終えてアメリカに帰る空っぽのコンテナ船が、ちょうど建設された神戸港で日本の電気製品をぎっしり積んでいったことで、アメリカに「メイド・イン・ジャパン」ブームを引き起こしたのです。つまり、ベトナム戦争による戦争景気に加え、運送費の劇的な削減のおかげで、日本、韓国、台湾は奇跡のような成長の機会を得られるようになったのでした。 こうして、アメリカで物を作るよりも、東アジアの安価な労働力で作った製品を輸入するほうがはるかにうまみがあるという、新しい世界が開かれました。もちろん、最大の恩恵を受けたのは、安くて良質な製品が使えるようになったアメリカなど先進国の消費者でしたが、東アジア3国も製造業の育成によって産業国家へと成長する足掛かりを得ることができたのです』、「「コンテナ船」運送システム」は「アメリカ軍のある研究チーム」の提案が基になっているとは、初めて知った。「ベトナム戦争による戦争景気に加え、運送費の劇的な削減のおかげで、日本、韓国、台湾は奇跡のような成長の機会を得られるようになったのでした」、「「コンテナ船」運送システム」がグローバル化の基礎になったようだ。

第四に、3月3日付け日刊ゲンダイが掲載した都立日比谷高校教諭の津野田興一氏による「明治政府が閉じた琉球王国450年の幕 日清戦争で日本領に」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/285872
・『2019年10月31日未明、衝撃的な映像が世界に流れました。琉球王国時代の王府首里城が焼失したのです。沖縄の皆さんへのエールをこめて、今回は琉球王国の歴史をたどってみましょう』、恥ずかしながら「琉球」の歴史を余り知らないので、恰好の材料として取り上げた。
『中国の方が近い  地図(1)は那覇を中心として同心円を描いたものです。一見してお分かりの通り、東シナ海・南シナ海・太平洋をつなぐ位置にある琉球王国は、1000キロの範囲では中国南部、朝鮮半島南部、そして日本の九州に手が届き、2000キロまで延ばせばフィリピン、中国の北部に朝鮮半島のすべて、そして日本列島の大部分が含まれてしまいます。とりわけ、日本よりも中国の方が距離的に近いことも、当たり前のようですが確認しておきたいと思います』、「中国の方が近い」のは確かだ。
・『首里城を整備した尚巴志  14世紀になると、沖縄本島に三山と呼ばれる三つの王国が誕生します。やがて15世紀前半に、三山の一つである中山王国の尚巴志が他の二国を滅ぼして統一を実現します。尚巴志は首里城を整備して中国からの冊封(中国の歴代王朝が周辺諸国と結んだ君臣関係)を受け、国内の体制を整えました。日本で言えば室町時代に相当する時期でした』、「中国」の影響の方が強いのは当然だ。
・『東アジア世界のハブ  地図(2)に見られるように、15~16世紀にかけて、琉球王国の領域は、奄美諸島から与那国島までの広大なものとなりました。そして明や清といった中国王朝に対して、他のどの国よりも多く、頻繁に朝貢をおこないました。 朝貢ルートとしては、福州の港から北京までの長い道のりを行くのですが、それに付随する中国との交易(朝貢貿易)ができたことで琉球王国は潤いました。 かくして、琉球王国は地図(1)に見られるように、中国・朝鮮・日本・東南アジアを結ぶ、まさに「東アジア世界のハブ」として機能したのです。このような琉球王国の海洋交易を支えていたのが、中国への朝貢という関係性でした(写真①)。実際のところ、琉球は中国の清に朝貢する国々の中で、朝鮮に次いで序列第2位に位置づけられていたのです』、なるほど。
・『薩摩の侵攻  しかしこれに先立ち、琉球王国の歴史にとっての大きな転換がおこります。1609年の薩摩による侵攻です。豊臣秀吉の朝鮮侵攻にともなって断絶した明との国交回復のために、徳川家康は琉球王国にその仲介を期待したのですが進展せず、むしろ薩摩による琉球侵攻を承認してしまいます。 これにより薩摩は、奄美諸島を琉球王国から奪って一種の「植民地」のようなものとして利益を奪い、琉球王国からも毎年年貢を徴収しました。のちに薩摩藩が討幕運動の中心となることができた要因の一つに、琉球王国や奄美諸島からの搾取があったことは言うまでもありません』、確かに「琉球王国や奄美諸島からの搾取」は「薩摩藩」の財力に大きく寄与したのだろう。
・『資料  一 鑓(やり)も大清の鉾(ほこ)のように拵(こしら)えようこれ有るべし、 一 右の外(ほか)海陸旅立の諸具、異朝の風物に似候ようにこれ有るべし、日本向きに紛わしからざるように相調えるべし、 紙屋敦之著 日本史リブレット43「琉球と日本・中国」(山川出版社、2003年)から』、
・『徳川幕府の思惑  さて、薩摩藩は1709年9月26日付で、資料に見られる命令を琉球王国に出し、琉球王国から徳川幕府への使節の姿を、日本風ではなく清国風にととのえるよう厳しく命じています。これは、清に朝貢する琉球からの外交使節が、わざわざ江戸まで参上してきたという宣伝効果を狙ったものと言えます。 しかしそれは、琉球王国は日本の一部ではありえず、独立国であるということを認めたことにもなります。また琉球王国も、意図的に中国の風俗を用いることで日本に対する主体性を主張し続けました。 一般に、近世における琉球王国の位置づけを「日中両属」などと言いますが、琉球王国は実際には、このような複雑な外交を駆使して独立を維持していたと言えるのです』、「琉球王国から徳川幕府への使節の姿を、日本風ではなく清国風にととのえるよう厳しく命じています」、とは「薩摩藩」もPR上手だ。
・『ペリー来航  このような関係性が動揺するのが欧米諸国の来航でした。例えば1853年、日本に向かう前にペリーは琉球を訪れています。翌54年、琉球王国は正式な外交関係をアメリカと結びます。これと同様にフランス(1855年)、オランダ(1859年)とも条約を結んでいたのです。 日本も1854年の日米和親条約と58年の日米修好通商条約を皮切りに、欧米諸国との条約体制下に入りました』、なるほど。
・『沖縄県の設置  さて徳川幕府が瓦解して明治政府が成立すると、琉球の「日中両属」関係の解消が議論にのぼります。明治政府は琉球王国に「維新慶賀使」の派遣を求め、1872年9月に実現します。しかし明治政府は琉球王国を廃して琉球藩を設置すると宣言し、琉球国王の尚泰(写真②)を藩王として華族に列して琉球から引き離します。そして琉球王国がアメリカやフランスなどと交わした条約文書は明治政府が回収し、外交権を奪ったのでした。 ところで、日本国内では前年に廃藩置県を実施して諸国の大名を廃止していたにもかかわらず尚泰を藩王としたのは、琉球王国は独立国ではなく日本の一部であると主張するためだったのです。 続けて1875年に琉球藩を内務省に移管したうえで、清への朝貢と冊封を禁止し、日本の年号や年中行事の遵守など日本化を図ります。1879年に明治政府は熊本鎮台沖縄分遣隊300余人と警官160余人を琉球に派遣し、3月27日、首里城において琉球藩を廃して沖縄県を置くことを申し渡しました。中央から県令が派遣され、ここに450年あまり続いた琉球王国は崩壊します。 この時、清朝に救いを求めて中国に渡った人々は「脱清人」と呼ばれました。そして、清はこの事態にどう対応したかというと、琉球王国を日本領とすることに公式には反対し続けます。しかし1894~95年の日清戦争で日本が勝ち、下関条約で台湾が日本領となったことで、間に挟まった沖縄の問題は雲散霧消しました。いわばなし崩し的に「解決」されてしまったのです』、現代の習近平政権ではなく、「清朝」だったから上手くいったのだろう。
・『上から目線の「処分」  日本の歴史では琉球王国の滅亡と日本への編入を「琉球処分」と呼びますが、私はこの呼称に強い違和感を持ちます。中央政府からの「上から目線」のこの呼称は、続く沖縄と本土との関係性を暗示しているように感じられるからです。 さて、このような歴史を首里城は見てきました。現在復元作業が進行中です。再建された暁には、沖縄と本土とのもっと対等になった関係を見守ってもらいたいものです。 ■もっと知りたいあなたへ(日本史リブレット43「琉球と日本・中国」紙屋 敦之著 (山川出版社、2003年)880円(税込み)』、「琉球処分」というのは確かに「上から目線」で「続く沖縄と本土との関係性を暗示」、沖縄の人々の「本土」への反感のルーツもこの辺りにあるのかも知れない。
タグ:東洋経済オンライン ペリー来航 日刊ゲンダイ 日経ビジネスオンライン 歴史問題 現代ビジネス 栗原 俊雄 (14)(だから多くの日本軍兵士が死んだ。だから連合国軍の捕虜を虐待した 「戦陣訓」とは一体何だったのか、半沢直樹になれなかった男「國重惇史」、経済に詳しくない人もわかる技術が変えた歴史 世界相場に安定と繁栄をもたらしたのは何か、明治政府が閉じた琉球王国450年の幕 日清戦争で日本領に) 「だから多くの日本軍兵士が死んだ。だから連合国軍の捕虜を虐待した。「戦陣訓」とは一体何だったのか」 「戦陣訓」だ。「生きて虜囚の辱を受けず」 「戦陣訓」とは何だったのか 中国戦線の日本軍のふるまいは世界が注目していた。大日本帝国陸軍としては、心構えも行動も正しくするようにと兵士に呼びかけ、呼びかけたことを内外に広く知らせる必要があった 「戦陣訓」に「文豪の島崎藤村、志賀直哉、哲学者の和辻哲郎も関わった」、とは初めて知った。 「戦陣訓」の拘束力はどれくらい? 「司馬遼太郎」が「《なるほどそういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した》。しかし、それが兵士の意識を拘束したがために、横井のような人物が出たという見方には否定的だった」、と「戦陣訓」を軽視したようだ。 すでに「軍人勅諭」があったのに… 「明治天皇の名」で出された「軍人勅諭」がある以上、「陸軍大臣東条英機」が出した「戦陣訓」は、陸軍内でも重視されず、「メディア」向けだったようだ。 不幸な形で実現した「東条の予言」 「東条」を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」、とは言い得て妙だ。 「半沢直樹になれなかった男「國重惇史」」 「平和相互銀行事件」は、「金屏風事件」、さらには「イトマン事件」などにつながる闇世界と表裏一体で、「内幕を記した7冊のメモ」とはさぞかし読みでがあるのだろう 「竹下氏は、住友銀行会長だった磯田一郎氏に「自分が総理になったら借りを返す」と話をしていた」、ということであれば、「竹下登氏に金が渡ったとささやかれていた」、噂は本物なのではなかろうか 「「サラリーマン」の枠には収まりきらない人物だったし、組織を超えた活躍を見せた。生き方はたしかに豪快で常識から外れていたかもしれないが、やはり企業人だったと思う」、その通りなのだろう ホン・チュヌク 「経済に詳しくない人もわかる技術が変えた歴史 世界相場に安定と繁栄をもたらしたのは何か」 『そのとき、「お金」で歴史が動いた』 銀不足の中国・南米で銀鉱を発見したスペイン 「16世紀の金と銀の交換比率を見ると、ヨーロッパではその比率がおよそ1対12だったのに対し、中国では約1対6と、銀の価値が2倍ほど高い状況でした。そのため、ヨーロッパ人は銀を中国に持ち運ぶだけでも大きな利潤を手にすることができたのです」、いまでは考えられないような価格差だ 「電話やインターネットがなかった時代には、情報は非常に貴重な「資産」だったのです」、その通りなのだろう 輸送距離に必ずしも比例しない輸送価格 「「コンテナ船」運送システム」は、確かに画期的なイノベーションだ コンテナが事態を打開し、東アジアに「奇跡」を運んだ 「「コンテナ船」運送システム」は「アメリカ軍のある研究チーム」の提案が基になっているとは、初めて知った。「ベトナム戦争による戦争景気に加え、運送費の劇的な削減のおかげで、日本、韓国、台湾は奇跡のような成長の機会を得られるようになったのでした」、「「コンテナ船」運送システム」がグローバル化の基礎になったようだ 津野田興一 「明治政府が閉じた琉球王国450年の幕 日清戦争で日本領に」 中国の方が近い 首里城を整備した尚巴志 東アジア世界のハブ 薩摩の侵攻 確かに「琉球王国や奄美諸島からの搾取」は「薩摩藩」の財力に大きく寄与したのだろう 徳川幕府の思惑 「琉球王国から徳川幕府への使節の姿を、日本風ではなく清国風にととのえるよう厳しく命じています」、とは「薩摩藩」もPR上手だ 沖縄県の設置 現代の習近平政権ではなく、「清朝」だったから上手くいったのだろう 上から目線の「処分」 「琉球処分」というのは確かに「上から目線」で「続く沖縄と本土との関係性を暗示」、沖縄の人々の「本土」への反感のルーツもこの辺りにあるのかも知れない
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