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格差問題(その8)(サンデル教授が語る「大卒による無意識の差別」 「努力すれば成功できる」という発想の問題点、「コロナ禍でも五輪すらやめられない」資本主義の暴走を止めなければ人類は滅びる 「中間層を増やせばいい」は間違い、「世界全体が富裕層に甘すぎる」自家用ジェットやスポーツカーは全面禁止にすべきだ 欲望を煽る経済システムはもう限界) [経済]

格差問題については、昨年11月9日に取上げた。今日は、(その8)(サンデル教授が語る「大卒による無意識の差別」 「努力すれば成功できる」という発想の問題点、「コロナ禍でも五輪すらやめられない」資本主義の暴走を止めなければ人類は滅びる 「中間層を増やせばいい」は間違い、「世界全体が富裕層に甘すぎる」自家用ジェットやスポーツカーは全面禁止にすべきだ 欲望を煽る経済システムはもう限界)である。

先ずは、本年4月16日付け東洋経済オンライン「サンデル教授が語る「大卒による無意識の差別」 「努力すれば成功できる」という発想の問題点」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/422935
・『「努力と才能で、人は誰でも成功できる」。ほとんどの人はこう聞いて、何の疑問も持たないだろう。実際、私たちの多くは「成功する人は努力をしている」という価値観の中で生きてきた。競争環境が平等であれば、成功するか否かは個々の努力や才能にゆだねられる、と。 しかし、NHK『ハーバード白熱教室』などで知られる、哲学者のマイケル・サンデル教授から見ると、この能力至上主義の考えの裏には、「成功をしていない、社会的に認められない人は、努力してこなかった責任を負っている」ということになる。そしてこれは、真面目に働いていても、グローバル化やデジタル化の影響を受けている人が、「努力をしなかったから」と尊厳を奪われ、エリートから見下されていると感じる状態を作ってしまった。サンデル教授はこれがアメリカなどで見られるエリートと労働者の分断の本質だと説く。 経済成長に重きを置いた能力主義が招いた分断は解消できるものなのか。能力主義に変わるものはあるのか。そして、誰もが尊厳を保てる社会とはどういうものなのか。『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を上梓したサンデル教授に聞いた(Qは聞き手の質問、Aはサンデル教授の回答)』、興味深いところだ。
・『無意識に労働者を「見下している」  Q:この本では能力主義を強調したバラク・オバマ元大統領を含めるリベラルの姿勢を痛烈に批判しています。実際ここへ来て、トランプ現象やポピュリズムの台頭をめぐってリベラルの姿勢を批判する声が高まっています。 A:今回書くにあたっては、2016年のドナルド・トランプによる大統領選のサプライズ当選と、それを可能にした多くの人たち、特に労働者層の怒りや恨み、悲哀といったものを理解しようというところが始まりになりました。労働者の多くは、エリートが自分たちを「見下している」と感じていたのです。 この本では、リベラルの多くが意図せず、大学卒業資格を持っていない労働者を辱め、モチベーションを奪うことによって、彼らの恨みを買うことに加担しているということについて詳しく書いています。これが、民主党が目覚めるきっかけになると同時に、エリートに対して怒りや恨みを持っている労働者が働くうえで何を大切にしているかということを、リベラルが理解するきっかけになればと思っています。 Q:読んだ後、リベラルを標榜する知人何人かにこの話をしましたが、彼らはリベラルが意図せず労働者を見下している可能性がある、という事実を受け入れようとしませんでした。まさか自分が「差別している側」とは受け入れがたいのでしょうか。 A:教育水準の高い、成功している人たちは能力主義のメリットを享受しているので、能力主義を否定することは難しいのです。実際、能力主義は非常に魅力的な原理です。競争環境が平等でありさえすれば、頑張って勉強して能力を発揮し、いい大学に行って成功するということは、「自分のおかげ」であり、自分はその成功に付随する報酬に「値する」という概念は成功者には心地いい。 同時にこれは、社会における資本の分配においても「公平」なように見えます。誰もが平等にレースに参加する資格があり、同じスタート地点に立ち、同じ訓練を受け、同じランニングシューズで走ったとしたら、レースに勝った人がもっとも多い報酬を得る、ということなのですから。 成功した人が報酬を得る、という在り方は、平等な社会、公平な経済を体現しているように思えるので、リベラル側はこの概念に対する否定的な意見を受け入れられないのでしょう』、「リベラルの多くが意図せず、大学卒業資格を持っていない労働者を辱め、モチベーションを奪うことによって、彼らの恨みを買うことに加担しているということについて詳しく書いています」、「能力主義は非常に魅力的な原理です。競争環境が平等でありさえすれば、頑張って勉強して能力を発揮し、いい大学に行って成功するということは、「自分のおかげ」であり、自分はその成功に付随する報酬に「値する」という概念は成功者には心地いい」、さすが「サンデル教授」だけあって、目のつけどころが鋭い。
・『レースは本当に「平等」なのか  しかし、私はこういう疑問を呈します。レース自体は平等にように見えますが、中には生まれつき運動神経がいい人や、人より足が速い人がいます。はたしてそれが自分の努力のみによるものなのか、と。同じスタート地点に立って、同じ努力をしたとしても成功できない人もいる。つまり、成功とはその人の努力だけではなく、才能や生まれ持ったもののおかげでもあるのです。 となると、能力主義の問題は何なのか。それは、成功者における謙虚さの欠如、つまり、人生における幸運や、親や教師、コミュニティ、国といった成功を可能にしてくれた人やものがあるということに対する理解の欠如です。 大学に行かなかった、あるいは、学位をもっていない人は、社会における「いい仕事」、そしてそれに伴う高額な報酬も大卒者に取られてしまう。もし、社会で成功している大卒者が自分の今の成功はすべて自分の努力によるものだと考え、謙虚さをなくしていたとしたら、知らないうちに自分より成功していない人を見下している可能性があるのです。 Q:能力主義を強調しすぎることの怖さは、自分も影響を受ける対象になることだと感じました。グローバル化やデジタル化に乗り遅れてふるい落とされないためには、つねに労働市場の需要に合わせて自分をアップデートしたり、スキルアップをしなければならず、これはしんどいです。 能力主義には2つの負の側面があります。1つは、大学に行かなかった人、成功しなかった人が「それは自分が努力しなかったせいだ」と自分を責め、苦悩することです。この結果は自分が招いたものだ、と。もう1つは、“勝者”にとっても大変な世界だということです。 そもそも能力主義の問題は、社会の中に「勝者」と「敗者」を作ってしまうことです。そして、この数十年の間に、勝者と敗者の分断はどんどん広がっており、これがアメリカやヨーロッパにおける政治の二極化を招いたと考えています。 勝者と敗者に分かれた世界では競争が激化し、成功することへの圧力は非常に大きいものとなる。顕著な例は大学入試です。アメリカでも日本でも、若者にとってどの大学に入るかはとてつもないプレッシャーになっており、これは必ずしも健全なプレッシャーではありません。成功しなければいけない、という強迫観念はトラウマにさえなります』、「能力主義の問題は、社会の中に「勝者」と「敗者」を作ってしまうことです。そして、この数十年の間に、勝者と敗者の分断はどんどん広がっており、これがアメリカやヨーロッパにおける政治の二極化を招いたと考えています。 勝者と敗者に分かれた世界では競争が激化し、成功することへの圧力は非常に大きいものとなる」、その通りだ。
・『対話をしないと分断はもっと進む  Q:勝者と敗者の分断、あるいは社会や政治における二極化は手を付けられない状態にも見えますが、まずはリベラルから歩み寄るべきなのでしょうか。 A:分断の責任は双方にあり、どちらも対話を持ちかける努力をするべきですが、まずは運に恵まれ、大学にも行けて、成功している人が行動を起こすべきではないでしょうか。社会から疎外され、尊敬されていないと感じている人がなぜそう感じているのかを理解しようとすべきです。どんなに難しくても今、階級や人種、社会的バックグラウンドを越えた対話を始めなければ、もっと分断は進みます。 過去40年分断は広がり続けており、社会的結合はどんどん希薄になっている。社会的分断を解消し、私たちが負った傷を癒やすには、お互いを理解するための対話が必要です。これはアメリカだけではなく、すべての民主主義国家に言えることです。 Q:とはいえ、今の世の中において自分と「違う人」と交わったり、ましてや対話をすることは非常に難しくなっています。接点すらないという人もいます。 A:解消するには、社会レベルと個人レベル、2段階の対応があると思います。まず社会的・政治的レベルでは、コミュニティセンターなど、違うバックグラウンドや異なる人生を歩んできた人たちを集める場所が必要です。 公立学校はこういう場所になりえますし、地域におけるレジャーセンター、市民センターなどの文化施設、公園やスポーツ施設も利用できるでしょう。スポーツは昔から異なるバックグラウンドの人がともに集えるものの1つです。 分断を広げるという観点では、ソーシャルメディアに気をつける必要もあります。ある人が見ているフィードに流れてくるニュースや情報、意見は、その人自身の意見に近いものが多く、自分の意見や世界観と異なるニュースなどに接する機会はほぼありません。その点で、ソーシャルメディア、もっと言えば、既存メディアの在り方も見直したほうがいいと思います。 既存メディアは、自分たちがもともと持っている意見だけを出すのではなく、例えばテレビであればバックグラウンドが異なる人を集めて、互いが何について同意できないのか議論する場を作るべきです』、「既存メディアは、自分たちがもともと持っている意見だけを出すのではなく、例えばテレビであればバックグラウンドが異なる人を集めて、互いが何について同意できないのか議論する場を作るべきです」、その通りだが、現実には難しそうだ。
・『トランプ支持者とアンチが4時間語り合った  1つ面白い例をあげましょう。2017年、トランプが大統領に就任した直後、私はニューヨークでトランプ支持者とアンチを集めた番組をNHKでやりました。全米からそれぞれ9人ずつ集めて、トランプ、アメリカ、アメリカファースト主義、メキシコ国境の「壁」など当時物議を醸していたテーマについて、何についてお互い同意できないのかを議論しました。 4時間にわたった議論の末、双方が意見を変えることはありませんでしたが、互いを尊重できるようにはなりました。どんな懸念やモチベーションがそれぞれの考えや意見を構築しているのか、互いに理解することができたわけです。 議論の後、参加者の1人がこう言いました。「番組のおかげで、接点のない人たちが何を考えているのかよく理解できました。しかし、なぜ私たちを引き合わせてくれたのがアメリカではなく、日本のテレビだったのでしょうかね」。 このことは、アメリカの主要メディアでさえ、意見の違う人たちを集めて、可能であればお互いの理解を促すという活動ができていない、ということに気づかせてくれました。つまり、メディアには重要な役割があるということです。 個人レベルでは、自分と似たような人とばかり過ごすのではなく、自分の意見の殻を破って、自分とは違う人と意見を交換する時間を作ることが必要だと思います。スポーツでも文化的な集まりでもいいので、もっとカジュアルにバックグラウンドが違う人と出会う機会が必要です。 Q:対話ができたとしてもアメリカのような国で、分断された人たちが共通のゴールや、サンデル教授がいう共通善(個人や特定の集団ではなく、社会全体共通の善)を見出すことは難しくありませんか。バイデン大統領にできることはあるのでしょうか。 A:政治家たちが何十年にもわたって掲げてきたメッセージを変えなければいけません。民主党も共和党もこれまで、グローバル化による不平等を解消するには、高い教育を受けることだと唱えてきました。そうすれば上に行くことができる、と。グローバル経済で成功するには大学に行け、自分が学んだことは自分が得るものに直結する、頑張ればなんでも手が届く、といったメッセージはレーガン時代から発せられてきました。 しかし、バイデン大統領はこのメッセージを変えなければいけない。能力主義による競争を助長するのではなく、仕事の尊厳を取り戻すことに重きを置くべきです。社会に貢献している誰もが自分のしている仕事の尊厳を感じられるようにするのです』、「なぜ私たちを引き合わせてくれたのがアメリカではなく、日本のテレビだったのでしょうかね」。 このことは、アメリカの主要メディアでさえ、意見の違う人たちを集めて、可能であればお互いの理解を促すという活動ができていない、ということに気づかせてくれました」、「アメリカの主要メディア」は旗色が明らかなので、中立的な番組は、「日本のテレビ」しか出来ないからだろう。
・『コロナが変わるきっかけになるかもしれない  今回のパンデミックは、例えば家で働ける人とコロナ禍でも働きに行かないといけない人など、これまでにもあった格差を露呈しました。しかし、同時に家で働ける人たちが、医療従事者だけでなく、工場労働者やスーパーの店員、配達員、保育士、トラック運転手などコロナでも外で働く人たちにどれだけ頼っているかということに気づくきっかけになりました。必ずしも高給や社会的な名誉を得ているわけでもない人たちや、その仕事の重要性に気づき、エッセンシャルワーカーと呼ぶようなったのです。 コロナが、こういう仕事にもっと尊敬の念を払う必要がある、という議論のドアを開くことになると期待しています。バイデン大統領はこれをきっかけに、労働者における仕事の尊厳とは何かを改めて考えるべきではないでしょうか。 Q:バイデン大統領自身は、「見過ごされている、見下されていること」について、労働者層がエリート層に怒りを抱いていることに気がついていると思いますか。 A:不確かではありますが、気づいている可能性はあります。実際、大統領選挙中のスピーチで、自らは裕福な家庭の出身ではなく、自分の父親が苦労した経験を話しています。「人々があなたを見下したとき、尊敬の念を払わないときにどんな気持ちになるかわかる」と。これが、能力主義ではなく、労働の尊厳に重きを置くメッセージや政策にシフトするスタート地点になる可能性はあります。 Q:今回の著書の中では、能力主義に代わるものとして、「条件の平等」を掲げています。つまり、どんな仕事をしていようと、稼ぎがどれくらいであろうと、誰もが幸せを感じられる社会を実現するということです。ですが、これが実現した場合、「何か難しいことを成し遂げよう」「高い教育を得よう」と考えるモチベーションはどうやったら養えるのでしょうか。) A:新しいスキルを取得したり、自らの能力を発揮する、あるいは自分の能力を生かして共通善に貢献するといった「内在的な満足」や誇りがモチベーションになるのではないでしょうか。実際、私たちは自分の能力やスキルが向上することで満足感を得ます。その能力を生かして、自分の家族だけでなく、社会全体に貢献できるということは喜びなのです。 私が考える民主主義における条件の平等とは、すべての人が同じ収入を得るということではなく、誰もが尊厳を保ち、尊重されるということです。自分の家族、コニュニティ、共通善に貢献しているということに対するリスペクトがある状況です。 私たちが目指すべきは、それぞれの教育水準や収入にかかわらず、誰もが互いに尊敬できる社会です。社会に貢献している証しが収入ではなく、家族を養うことや、社会、コミュニティに貢献していることなどで測られるのが望ましい状態です。 私たちは社会や共通善に対する貢献度は、収入の高さに反映されると誤解されがちですが、目指したいのは、共通善への貢献度がお金で測られるのではなく、生活のために真面目に働き、社会の発展に貢献できることが尊重される社会です』、「工場労働者やスーパーの店員、配達員、保育士、トラック運転手などコロナでも外で働く人たち・・・エッセンシャルワーカーと呼ぶようなったのです。 コロナが、こういう仕事にもっと尊敬の念を払う必要がある、という議論のドアを開くことになると期待」、「エッセンシャルワーカー」に脚光が当たったのはいいことだ。
・『社会への貢献度は1つの指標で測るべきではない  Q:社会への貢献度、あるいは自分の能力やスキルが「お金」という尺度で図られないとしたら、その貢献度は何で測られるようになるのでしょうか。 A:それを見極めるのが難しいので、結局お金や収入、国にとってはGDPなどに落ち着いてしまうわけです。しかし、GDPが国の幸福度を表すものだと信じている人はいません。 私は『それをお金で買いますか』や『これから「正義」の話をしよう』でも、社会への貢献度を1つの数的指標で測るべきではないと提案しています。お金やGDPは誤解を与える指標で、社会などにおいて何が重要かという議論を遮ってしまう。 では、どうやって測るのか? それは数字でもデータでもお金でもGDPでもありません。社会への貢献度は、私たちがかかわる生活の質と充実度と、それを自ら誰かと形作り、組み立てていくことで測られるべきです。例えば、家族を作って子供を育てることの充実感は、お金では図れません。社会、家族、そして個人にとって何が重要かを測ることができる数字などないのです』、「お金やGDPは誤解を与える指標で、社会などにおいて何が重要かという議論を遮ってしまう」、その通りだ。
・『公の場での議論や対話が必要だ  Q:日本のような長らく景気が停滞していて、経済成長が望みにくい社会では、「高い収入を得ること=幸せ」という概念に対してある意味の限界や徒労感を感じていている人もいます。しかし、経済成長が個人の幸せを必ずしももたらさない、と感じながらも、では何が個人の幸せをもたらすかについての議論は発展せず、政治家がその道筋を示すこともしません。 大事なのは、公の場でいい社会やいい生活・人生とは何なのかを議論し、対話することです。これらには、私たちがいかに個として人生を営むか、そして、ほかの人たちとともに生きるか、という問いが含まれています。よりよい生活とは何か、その先にあるいい社会とは何かという議論には、倫理的価値観、時には精神的な価値観も絡んでくるでしょう。 現代の社会では、何がいい生活や社会なのかということについて、それぞれがまったく違う意見や見解を持っているのですが、政治家は人々の間に価値観の相違があることを好まないので対話の機会を持とうとしない。 特にモラルや精神的な価値観における違いを埋めるのは容易ではないですから。こうした問いと向き合わないため、モラルや価値観の相違に対する判断を下すことを避けるために、収入やGDPという指標を社会や共通善への貢献の物差しにしてごまかしているのです。 しかし、今回の本でも述べている通り、私たちが生きていくうえでいい生活とは何か、いい社会とは何という問いは避けて通れません。私たちが考えるいい社会を実現するためには、共通善に対する貢献を何で評価するべきかという議論をしなければならない。 どんな価値観や美徳を大切にする社会を作っていくかという議論をするうえで、倫理的価値観の話は避けられません。正義とは何か。共通善を目指す意味は何か。私たち市民はお互いにどんな責任を負っているのか。社会への貢献は何で評価できるのか。それぞれが尊厳を維持し、互いを尊重するにはどうしたらいいか――。簡単に答えられるものではありませんが、公における議論の中心テーマはこうしたものであるべきです』、「私たちが考えるいい社会を実現するためには、共通善に対する貢献を何で評価するべきかという議論をしなければならない。 どんな価値観や美徳を大切にする社会を作っていくかという議論をするうえで、倫理的価値観の話は避けられません。正義とは何か。共通善を目指す意味は何か。私たち市民はお互いにどんな責任を負っているのか。社会への貢献は何で評価できるのか。それぞれが尊厳を維持し、互いを尊重するにはどうしたらいいか」、同感である。

次に、6月26日付けPRESIDENT Onlineが掲載した大阪市立大学大学院経済学研究科准教授の斎藤 幸平氏、衆議院議員の古川 元久氏、法政大学法学部教授(現代日本経済論)/博士(経済学)の水野 和夫氏による座談会「「コロナ禍でも五輪すらやめられない」資本主義の暴走を止めなければ人類は滅びる 「中間層を増やせばいい」は間違い」を紹介しよう。
・『コロナ禍の最中に日本ではオリンピックが開催されようとしている。なぜそうなってしまうのか。『人新世の「資本論」』(集英社新書)著者の大阪市立大学大学院の斎藤幸平准教授と、共著『正義の政治経済学』(朝日新書)を出した衆議院議員の古川元久さん、法政大学の水野和夫教授の鼎談をお届けしよう――。(前編/全2回)』、興味深そうだ。
・『経済の目的を「成長」から「幸せ」へ  【古川元久(以下、古川)】斎藤さんの『人新世の「資本論」』(集英社新書)を拝読し、こういう形でマルクスを理解するアプローチがあることを学ばせてもらいました。斎藤さんはこの本で、「資本主義では現代の諸課題は解決できない」ことを語り、「脱成長」を理念とする新しいコミュニズムの必要性を説いておられます。 私も、経済成長が自己目的化した現在の資本主義は、さまざまな弊害やひずみを生み出していると思っています。本来、経済成長の目的は成長そのものではなく、成長の先に目指している幸せのほうです。 だとすれば、資本主義やコミュニズムという社会システムの仕組みも大事だとは思いますが、その前提として、私たちが求める幸せとは何なのかということを、あらためて考えなければいけないように感じています。 【斎藤幸平(以下、斎藤)】私も、幸せを重視する経済に移行していく必要があることはまったく同感です。ただその場合に、手段も同時に考えなければなりません。たとえば、ステーキを食べるときにはフォークとナイフを使いますが、納豆を食べるのにフォークやナイフを使ったらうまく食べられませんよね。それと同じように、経済の目的を「成長」から「幸福」に変えるならば、多少改良したところで既存のシステムを手段としてもうまくいきません。つまり、資本主義という社会システムの中に私たちがいる限り、幸せという目的は絶えず遠ざかっていくのではないでしょうか』、「幸せを重視する経済に移行していく必要があることはまったく同感です。ただその場合に、手段も同時に考えなければなりません」、その通りなのかも知れない。
・『資本主義というシステムを維持するのは不合理  【斎藤】というのも、資本主義の本質が、際限のない利潤追求だからです。 マルクスが『資本論』で書いているように、資本の目的は「蓄積せよ、蓄積せよ」、つまり「世界中の富をひたすら蒐集せよ」ということです。先進国の生活だけを見れば、資本主義は私たちを豊かにしたかもしれません。しかし、植民地で奴隷のような過酷な環境で人々を働かせて搾取した歴史もあれば、現代でも社会に過剰な負荷をかけてグローバル経済はまわっている。日本でも、コロナの感染拡大がわかっているのに、資本主義のために、五輪をやめることさえできずにいます。 そしてもうひとつは環境の問題です。現代は人類の経済活動が地球を破壊しつくす「人新世」の時代に突入しています。環境危機を引き起こした犯人は資本主義です。もはや、経済成長を目的とした資本主義というシステムを維持していくことは、まったくもって不合理です。 古川さんと水野さんは『正義の政治経済学』(朝日新書)という共著において、「定常型の経済に移行していくしか道はない」という話をされています。資本の利潤追求にストップをかけ、経済をスローダウンさせるには、市民が、もっと積極的に公共財・共有財(=「コモン」)を管理する「コモン」型社会に移行していくべきです。これは国家が計画・管理をするソ連型の共産主義とは違う、下からのコミュニズムです』、「下からのコミュニズム」とは言い得て妙だ。
・『パンデミックで「経済格差=命の格差」になった  【水野和夫(以下、水野)】資本主義が「蓄積至上主義」だというのは、そのとおりだと思います。実際、資本主義は「蓄積」はうまくやった。旧ソ連のように国家が所有するのではなく、富の蓄積を市場に任せるほうが、はるかに効率がよいことを証明したわけです。 人々が資本主義にこれまで異を唱えなかったのは、資本が蓄積されれば、数年後にはもっと豊かな生活ができる、あるいは有事のような例外状況では蓄積されたお金で救済してもらえると思っていたからです。 ところが現実は、そのどちらも叶わない。資本主義は21世紀において、絶望的な二極化世界を生み出してしまいました。スイス金融大手UBSの2020年の報告によれば、世界の富豪2189人の財産総額は、最貧困層46億人の財産より多く、しかも4月から7月のコロナ禍のせいで、富裕層の資産は27.5%増え、10兆2千億ドルに達したといいます。 つまり、パンデミックという緊急事態においても、資本主義経済はなんら善行をなしえず、経済格差が命の格差になってしまっている。これは、資本を蓄積する正当性がなくなったということですから、過剰な資本に対しては、金融資産税や内部留保税、相続税などの税制を強化して分配するしかないんじゃないでしょうか。資本主義は成功したがゆえに、もうその役割を「終えた」と見るべきです』、「資本主義は21世紀において、絶望的な二極化世界を生み出してしまいました・・・パンデミックという緊急事態においても、資本主義経済はなんら善行をなしえず、経済格差が命の格差になってしまっている。これは、資本を蓄積する正当性がなくなったということですから、過剰な資本に対しては、金融資産税や内部留保税、相続税などの税制を強化して分配するしかないんじゃないでしょうか。資本主義は成功したがゆえに、もうその役割を「終えた」と見るべきです」、厳しい診断だ。
・『「資本主義か? コミュニズムか?」は現実的ではない  【古川】斎藤さんや水野さんがおっしゃる資本主義は西洋的な資本主義で、明治から始まった日本の資本主義の場合には、もともとは西洋とは異なる発想があったんじゃないでしょうか。たとえば、近江商人の時代から、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」でないと、商売は成功しないという考え方がありました。 また、大河ドラマで注目が集まっている渋沢栄一は、日本の「資本主義の父」と呼ばれていますが、彼自身は、資本主義という言葉は使わず、「合本主義」という言葉を使っていました。合本主義とは、公益を追求するために、人材や資本を集めて事業を進めるという考え方です。これを資本主義の一形態と考えれば、斎藤さんのコミュニズムにも通じるところがあるんじゃないかと思います。よき資本主義、ということです。 こうしたかつての日本の知恵も踏まえながら、斎藤さんも『人新世の「資本論」』で述べられていた、協同組合のような仕組みを拡充させていく。2020年末には国会でも労働者協同組合法が成立し、「協同組合を見直していこう」という機運が高まりつつあります。 ですから、「資本主義か? コミュニズムか?」というイズムの論争をするよりも、目指すべき方向に近づく具体的なアクションを一つひとつ実現していくほうが現実的ではないかと思うんですが』、「2020年末には国会でも労働者協同組合法が成立し、「協同組合を見直していこう」という機運が高まりつつあります」、初めて知った。
・『「中間層が増えればいい」という話ではない  【斎藤】そこが難しいところです。はたして、「よき資本主義」が本当に存在するのか、と疑問を感じるんですね。 たとえば、行き過ぎたグローバル化による新自由主義が問題だという考え方がありますよね。新自由主義をやめ、金融資産に課税したり民営化を見直したりして、「もっとマシな資本主義を目指そう」という主張はよく耳にします。日本では、渋沢栄一や松下幸之助の精神に範をとった「日本的資本主義」という話になるし、アメリカでも経済学者のジョセフ・E・スティグリッツが、格差を是正して中間層を厚くする「プログレッシブ・キャピタリズム」を目指そうと言っています。 しかし、かつてのよき資本主義の時代でも、豊かな生活を享受していたのは先進国における一定以上の階層の人々に過ぎません。当時も資本主義は、植民地から富やエネルギー、労働力を非常に暴力的に収奪し続けていました。この構造は『正義の政治経済学』にも書かれていますし、水野さんがよく指摘されているように、資本主義を駆動させる資源は、海賊的なものだったわけです。いわば、先進国の労働者たちは、南から収奪した富を資本家たちと山分けして中産階級になったのです。 抜本的にそれらを見直すとすれば、定常経済に移行するだけでなく、保障や支援も含めてグローバルサウスに富を戻していくことも検討していかなければいけないと思います。だから一国の中で、「新自由主義を批判して中間層が増えればいい」という話ではないんですね』、「資本主義を駆動させる資源は、海賊的なものだったわけです。いわば、先進国の労働者たちは、南から収奪した富を資本家たちと山分けして中産階級になったのです」、はともかく、「抜本的にそれらを見直すとすれば、定常経済に移行するだけでなく、保障や支援も含めてグローバルサウスに富を戻していくことも検討していかなければいけないと思います」、については、そこまで歴史の歯車を逆回転させる必要はないと思う。
・『エリートの意識改革程度で、よき資本主義は実現しない  【古川】『人新世の「資本論」』を読んで、斎藤さんと渋沢には共通した考え方があるように私は感じたんです。マルクスと渋沢は、生きた時代が半分ぐらい重なっています。渋沢が『論語と算盤』を出版したのは大正時代、第一次世界大戦の大戦景気でバブルに沸いていた頃です。 当時の日本は渋沢の思いとは裏腹に、西洋式の荒々しい資本主義が浸透し、大資本が産業を牛耳り、資本家と労働者との分断、格差が広がっていました。こうした光景を目の当たりにして渋沢は危機感を抱いたのでしょう。そこで、倫理感を持たなければ、算盤だけではおかしくなるという警鐘を鳴らしたのです。そこが、マルクスが『資本論』を書いて、資本主義の暴力を批判するのと通底しているように思えたんです。 【斎藤】渋沢の時代は、まだ資本主義の勃興期だったので、モラルエコノミー的な議論にも説得力があったかもしれません。ただ、マルクスは渋沢のように、倫理や経営者のマインドで資本主義の力を抑えられるとは考えなかったんですね。資本には個人の意志を超えた力があるというのが、マルクスの物象化論です。 その後の資本主義の暴力を考えれば、マルクスの認識は正しいと思います。経営者や株主、政治家、エリートが意識を少し変えたところで、抜本的な改革は実現しません。みんながSDGsを心がけるぐらいで、よき資本主義に変えられるほど資本主義は甘っちょろいものではないと思います』、同感だ。
・『経営者や資本家に正義を求めるのは無理  【水野】私も斎藤先生と同じような認識です。経営者や資本家に正義を求めるのは、どだい無理な話でしょう。ケインズだってモラルエコノミーを訴えたのに受け入れられず、経済学は手段遂行の学問になってしまいました。SDGsという昨今の動きも、17世紀、18世紀に資本家の倫理を求める運動があったのと同じで、多くの経営者や企業は国際的な世論も高まっているから、「ちょっとお行儀よくしないとナ」という程度の認識でしょう。 実際、株主や経営者は、ROE(自己資本利益率)の目標は取り下げないわけですよね。ROEの目標を取り下げず、「SDGsもがんばりましょう」なんて不可能です。SDGsを本気でやろうとしたら、ROEは現在の地代(リートの利回り)以下、つまり3%以下を目標にすべきです。でも、そんな経営者はいませんから、経営者の倫理に期待はできません。 だとすると、資本主義を終わらせるためには、外部からの政治的な強制力が必要でしょう。企業は1年ごとに、リートの利回りを超えた分の利益は、最高税率を99%として累進課税として徴税する。そのぐらいしないと、抜本的な改革なんてできっこありません』、「経営者や資本家に正義を求めるのは無理」、同感である。
・『労働者自身による「コモン」が必要ではないか  【斎藤】問題はそういう強制力をどう作るかです。経営者に働きかけて労働者の声に耳を傾けさせるとか、経営者に利益を分配させるというのではなく、労働者自身が実質的な管理権限をもって、「コモン」を自主的に運営するような仕組みを拡張していくべきだと私は考えています。その一例が、さきほど古川さんが指摘された労働者協同組合ですね。 【古川】斎藤さんも著書で触れられていましたが、宇沢弘文先生が唱えた社会的共通資本の仕組みをつくっていくということですね。それは私も大賛成です。 【斎藤】たしかに、私の言う「コモン」は、宇沢さんの社会共通資本と近い考え方です。ただ少し違うのは、宇沢さんの場合には階級闘争のような議論は入ってこないんですね。私は、労働者が「コモン」を自主管理するためには、階級闘争的な運動がどうしても必要になってくると思うんです』、「労働者が「コモン」を自主管理するためには、階級闘争的な運動がどうしても必要になってくると思う」、何故なのだろう。重要なことを理由抜きで述べるのは問題だ。
・『民主主義を企業内にも徹底させる方法  【古川】現状の経営者や資本家はたしかに問題があります。でも、はたして現在の労働者たちが今の経営者や資本家を追い出して、代わりに自分たちがその立場に立ったら、本当に公平な社会が実現するかというと、私は少し疑問です。政治の世界でも、苦労人で成り上がった人が権力者になった途端に権力をふりかざす例は、歴史上いくらでもあることです。 結局、権力闘争で今の社会の仕組みをひっくり返していこうとすると、一時は変わっても、再び勝者と敗者を生み出すことになりはしないでしょうか。やはり一人ひとりの意識が変わらないと、本当の意味で社会は変わらないと思います。 【斎藤】階級闘争という点で言いたいのは、むしろ民主主義をもたらしたいわけです。古川さんは、『正義の政治経済学』の中で、「民主主義はどんな人間も自らの欲を完全にコントロールができないという性悪説に立ったシステムである」とおっしゃっています。私も同じ考え方です。だからこそ、所得税や法人税、労働法などによってさまざまな縛りをかけたり、株主たちによる非民主的な会社経営の防御策として、たとえば従業員の持ち株制度をつくったりして、株式会社の中でも民主主義を徹底させる仕組みをつくっていくべきだと考えています。(後編に続く)』、「現在の労働者たちが今の経営者や資本家を追い出して、代わりに自分たちがその立場に立ったら、本当に公平な社会が実現するかというと、私は少し疑問です」、同感である。

第三に、この続き、6月27日付けPRESIDENT Onlineの座談会「「世界全体が富裕層に甘すぎる」自家用ジェットやスポーツカーは全面禁止にすべきだ 欲望を煽る経済システムはもう限界」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/47113
・『二酸化炭素の削減は、いまや全人類の課題のひとつだ。ところが、人類の排出する二酸化炭素の約半分は、世界のトップ1%の富裕層が排出しているという。なぜそこまで偏っているのか。『人新世の「資本論」』(集英社新書)著者の大阪市立大学大学院の斎藤幸平准教授と、共著『正義の政治経済学』(朝日新書)を出した衆議院議員の古川元久さん、法政大学の水野和夫教授の鼎談をお届けしよう――。(後編/全2回)』、興味深そうだ。
・『GDPはもう賞味期限切れ  (前編から続く) 【水野和夫(以下、水野)】資本主義を終わらせるためには、近代社会の宗教である「成長教」を捨てなければなりません。近代資本主義は人と自然から収奪することで、経済成長に躍起になってきました。そして、成長教の根っこにあるのは数字信仰です。そのもとでは、人間の行為をことごとく数量化し、その数値によって社会が正しく機能しているかどうかを判断します。 その最たる指標がGDPです。現代の国家は、GDPが右肩上がりに増えていけば、国も豊かになっているとみなします。しかし、それは幻想です。電気洗濯機も冷蔵庫も、液晶テレビも、先進国にはすでに広く行き渡っている。若い世代は、前の世代に比べて所有欲も薄いという話もよく耳にします。 GDPで国の豊かさを測るというのは、近代成長教の教義であって、もう賞味期限は切れているわけです。ならば、内閣府はGDPを発表するのをやめたらどうかと私は思うのですが、斎藤先生はGDPについてどうお考えですか。 【斎藤幸平(以下、斎藤)】GDPが意味をなした時代がかつてあったから、これだけ浸透しているのだと思います。しかし、それは終わりました。経済成長が生み出してきた負の要素が、いまや気候危機やコロナなどはっきりと目に見える形であらわれてきた以上、GDPで国の豊かさを測る意味は見出せません。とはいえ、GDPを別の指標に置き換えて、ウェルビーイングや幸福度を判断するのも難しいでしょう。各人の幸福は数値で測れるものではありませんから』、「経済成長が生み出してきた負の要素が、いまや気候危機やコロナなどはっきりと目に見える形であらわれてきた以上、GDPで国の豊かさを測る意味は見出せません」、その通りだ。
・『「週24時間の労働」で先進国の最低ニーズは回る  【水野】私もそう思います。幸福を数量化したら、とんでもないことになります。たとえば、メンタルの安定度を数値化して、低かったら薬を飲ませて安定させるなんてことにもなりかねません。個々人の幸福に関しては、政府は関与しないほうがいいですね。 【斎藤】むしろ、各人が自分の好きなことをできる余地を拡大していくような方策に転換していく必要があります。そのためには、「労働時間の短縮」が不可欠です。世の中には、デヴィッド・グレーバーが「ブルシット・ジョブ」と呼んだ、不要な仕事がまだまだたくさんあります。 それを社会から削り、農業やケアワークのような仕事を拡張して、みんなでシェアする。これらは資本主義のもとでは生産性が低いと言われていましたが、本来重要かつ不可欠な仕事です。そうすれば、ケインズが予測した15時間程度の週労働で十分にやっていけるのではないか。仮にそれが極端だとしても、フィンランドが目指している週24時間程度で、先進国の最低限のニーズは回せると思います。 そうすれば、人々は残りの時間を、スポーツや趣味、家事など、別の活動に充てることができます。社会の豊かさとは、こうして生まれるものではないでしょうか』、「フィンランドが目指している週24時間程度で、先進国の最低限のニーズは回せると思います」、同国では現在の他の時間は何に向けられているのだろう。
・『「足るを知る」のは分かち合うこと  【古川元久(以下、古川)】斎藤さんのご指摘は、『正義の政治経済学』(朝日新書)でも書かせていただいた、「足るを知る」に通じることだと思いました。 古来、中国では丸は「天」を表し、四角は「地」を表すと言われています。本には、「吾唯足知(われ、ただ、足るを知る)」のデザインを掲載しましたが(図1※)、このデザインの丸と四角の間、すなわち「天」と「地」の間にある空間が私たちが生きる社会を意味し、その社会を調和のとれたものにするためには「足るを知る」ことが必要であるのをこのデザインは示唆している、私はこう解釈して、その必要性を事あるごとに説いているんです。 「足るを知る」と言うと、ただ単に現状に満足することだと思われがちなんですが、私は「足るを知る」とはそうではなく、他者の存在なしでは生きていけないこの社会で、他者のことを思いやり、生きていく上で必要なものを独り占めするのではなく「分かち合う」ことだと考えています。 この「分かち合い」は、前の世代や次の世代といった、世代を超えた分かち合いも意味します。その意味で、不要な仕事をなくし、未来の地球や人類のために必要な仕事をシェアするという斎藤さんの指摘は、私の考える「足るを知る」に非常に近いと感じます』、「私は「足るを知る」とはそうではなく、他者の存在なしでは生きていけないこの社会で、他者のことを思いやり、生きていく上で必要なものを独り占めするのではなく「分かち合う」ことだと考えています」、なるほど。
・『自由でのんびりする未来としての「コミュニズム」  【斎藤】そうですね。私が主張している脱成長コミュニズムへの転換も、必ずしも欲望を否定するものではありません。資本主義のもとでは、GDPやお金儲けのために効率化をめざして、小さいころから勉強漬けにされ、会社に入っても長時間労働を強いられてしまう。本当はもっとダラダラしたいとか、家族と楽しく過ごしたいと思っているのにそうはできない。コミュニズムは、資本主義のもとで疎外されている根源的な欲望を解放するものでもあります。 だから私の描くコミュニズムは、抽象的な正義や平等を振りかざして人々を抑圧するものではない。かつての共産主義のイメージとは違い、もっと自由でみんなでのんびりするような未来を構想しよう、ということなんですね。 しかし、本当は豊かな生活を実現するための「足るを知る」ことが、今の経済システムのもとでは非常に難しくなっているのも事実です。広告やプロモーション、計画的陳腐化など、いろんな手段で私たちの欲望を絶えずあおるようなシステムが、マーケティングを通じてできあがってしまっているわけですね。この中でいくら足るを知ろうとしても、本当にそれこそ聖人みたいな人でなければ、やはりまた何か買おうかなと思ってしまう』、「広告やプロモーション、計画的陳腐化など、いろんな手段で私たちの欲望を絶えずあおるようなシステムが、マーケティングを通じてできあがってしまっている」、「この中でいくら足るを知ろうとしても、本当にそれこそ聖人みたいな人でなければ、やはりまた何か買おうかなと思ってしまう」、その通りだ。
・『ファストフード禁止ぐらいやらないと間に合わない  【水野】「足るを知る」を実現するためには、要らないものを大胆に手放さないといけませんね。食品ロスの実態や、過剰なまでのコンビニ数でも一目瞭然ですが、私たちの社会は要らないものを作り続けています。図らずもコロナ禍でオンラインのコミュニケーションも普及しましたから、新幹線で日帰りしなければならない急用なんてそこまでないはずです。 【斎藤】同感です。ですから、「足る」を強制的に覚えさせるぐらいしないと。これは日本の話だけではなく、世界全体は今の富裕層に甘過ぎるし、彼らに「足るを知れ」と言ったところで、「我々は寄付をしているから」と言い逃れをするでしょう。 その程度では「足るを知る」とは言えません。たとえば、プライベートジェットの禁止、スポーツカーやヨットの禁止ぐらいは当然です。世界のトップ1%の人たちの二酸化炭素排出量は、世界の半分の人たちの排出している量と同じです。 私たちも、近距離の飛行機移動を禁止したり、ファストフードやファストファッションを禁止することも含めて、もっと抜本的に今の生活を見直す必要があるでしょう。それぐらいしないと間に合わないところまで環境危機は迫っているのに、そこに向き合わないのが昨今のグリーン・ニューディールや緑の経済成長理論だと思うんですね』、「私たちも、近距離の飛行機移動を禁止したり、ファストフードやファストファッションを禁止することも含めて、もっと抜本的に今の生活を見直す必要があるでしょう」、その通りだ。
・『タバコをやめるように経済成長をやめよう  【斎藤】「足るを知る」、あるいは経済成長をやめるイメージとして、禁煙を思い浮かべるとわかりやすいんです。禁煙は、最初はつらいんですね。一日中、タバコのことを考えてしまう。でも、1カ月、2カ月、半年と禁煙をすると、もうタバコのことなんてほとんど考えなくなるし、その結果、ごはんがおいしくなったり、子どもが近くに寄ってきたりとポジティブな変化が起こる。それによって初めて、「ああ、やめておいてよかった」ということを実感するわけです。 【古川】要らないものをなくしていくための我慢は大事だと思います。ただ、「これは駄目だ」と頭ごなしに言われても、なかなか人間はやめることができないし、かえって反発を生んでしまうのではないでしょうか。 まずは不都合な真実から目を背けずにそれを直視することが大切です。人間100%の善人もいなければ、100%の悪人もいない。人間の欲求は放っておくと際限なく大きくなる可能性がありますが、それを追求していくと自分たちの生存自体が危うくなるという不都合な真実がわかれば、「これはやめなきゃいけないな」と自ずから思うようになると思うんですね。だから、私たちにとって不都合な真実や未来を隠さずにきちんと知らせたうえで、必要な制約をかけていく。それが政治の役目だと思います』、同感である。
・『日本国民の20%は「ゼロ資産」  【水野】『正義の政治経済学』でも語ったことですが、まっとうな民主主義を実現するなら、世の中の平等性を確保する必要があります。現状の日本はどうでしょうか。1987年、1988年には国民の3%がゼロ資産でしたが、それが現在は20%にまで増えています。「貯蓄残高ゼロ世帯」が2割にのぼるのです。 一方で、日本の富豪上位50人の資産は約27兆円にものぼり、2020年から48%も増えたといいます。これだけ広がってしまった格差は、ドラスティックに是正しない限り、次の新しい時代には入れません。そのためには、税制を使うしかありませんが、今の政府にそれができるとは思えません。この点について、斎藤先生はどうお考えですか。 【斎藤】格差是正もそうでしょうし、リニアは要らない、オリンピックもやらなくていいという市民の声もあります。だとしたら、それを引き受けて立ち上がる政治家が必要になる。でもまずは、それを支える市民運動がないと政治家も判断できません。 だから僕は、政治家が変わらなきゃいけないという方向ではなく、スペインの市民運動から生まれた「バルセロナ・イン・コモン」という地域政党などの例を紹介しながら、一人ひとりの声から生まれる社会運動をつくっていこうと話しているんです。例えば、バルセロナでは、市民が自分たちで立候補者を選んでいます』、「「バルセロナ・イン・コモン」という地域政党などの例を紹介しながら、一人ひとりの声から生まれる社会運動をつくっていこうと話しているんです」、日本で果たして定着するのだろうか。
・『ヨーロッパの自治体が目指す「恐れぬ自治体」  【斎藤】今、ヨーロッパの自治体は、単にグローバルな大企業とか、欧州連合の言いなりになることをやめて、「フィアレス・シティ(fearless city)」、つまり「恐れぬ自治体」として市民のためのまちづくりをする方向に舵を切っています。こういう動きを日本の自治体にも波及させていきたいわけです。 実際、コロナ対応においては、自治体に権限があることがはっきりして、自治体の首長のリーダーシップの重要性が可視化されました。だから、いいリーダーを立てて、そこから変えていく。そして、そのうねりを国会までもたらそうと。コロナの1年はその可能性を感じさせる1年だったとも思っているんです。 【古川】ヒーロー的な政治家を待望するのではなく、市民運動によって新しい政治のうねりをつくりだしていこうというのが斎藤さんの主張ですね。私も民主主義社会では、政治家が一方的にリードするのではなく、お互いに意見を交わし、いい影響を与え合いながら、自分たちにとって望ましい社会をつくっていくのが、本来のあり方だと思います。 今日この場で数字信仰の話が出ましたが、世の中には数字だけでは決められないことがたくさんあります。政治の世界でも、多数決で決めないほうがいいことがそれこそ数多くあります。 社会の構成員の過半数が反対しても、すべき議論やなすべき政策はありますし、そうした少数であっても真にやるべき政策を訴える声をどう掬い上げていくかが、コロナ後の社会ではさらに必要になっていくでしょう。政治家としてあらためてその重要性を実感した座談でした。こうして常に話し合っていきましょう』、「ヨーロッパの自治体は、単にグローバルな大企業とか、欧州連合の言いなりになることをやめて、「フィアレス・シティ(fearless city)」、つまり「恐れぬ自治体」として市民のためのまちづくりをする方向に舵を切っています」、面白い動きだ。どんな分野で「グローバルな大企業」に対抗しているのだろうか。もう少し情報がほしいところだ。
タグ:東洋経済オンライン 格差問題 サンデル教授 PRESIDENT ONLINE 古川 元久 (その8)(サンデル教授が語る「大卒による無意識の差別」 「努力すれば成功できる」という発想の問題点、「コロナ禍でも五輪すらやめられない」資本主義の暴走を止めなければ人類は滅びる 「中間層を増やせばいい」は間違い、「世界全体が富裕層に甘すぎる」自家用ジェットやスポーツカーは全面禁止にすべきだ 欲望を煽る経済システムはもう限界) 「サンデル教授が語る「大卒による無意識の差別」 「努力すれば成功できる」という発想の問題点」 『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 「リベラルの多くが意図せず、大学卒業資格を持っていない労働者を辱め、モチベーションを奪うことによって、彼らの恨みを買うことに加担しているということについて詳しく書いています」、「能力主義は非常に魅力的な原理です。競争環境が平等でありさえすれば、頑張って勉強して能力を発揮し、いい大学に行って成功するということは、「自分のおかげ」であり、自分はその成功に付随する報酬に「値する」という概念は成功者には心地いい」、さすが「サンデル教授」だけあって、目のつけどころが鋭い 能力主義の問題は、社会の中に「勝者」と「敗者」を作ってしまうことです。そして、この数十年の間に、勝者と敗者の分断はどんどん広がっており、これがアメリカやヨーロッパにおける政治の二極化を招いたと考えています。 勝者と敗者に分かれた世界では競争が激化し、成功することへの圧力は非常に大きいものとなる」、その通りだ。 「既存メディアは、自分たちがもともと持っている意見だけを出すのではなく、例えばテレビであればバックグラウンドが異なる人を集めて、互いが何について同意できないのか議論する場を作るべきです」、その通りだが、現実には難しそうだ。 「なぜ私たちを引き合わせてくれたのがアメリカではなく、日本のテレビだったのでしょうかね」。 このことは、アメリカの主要メディアでさえ、意見の違う人たちを集めて、可能であればお互いの理解を促すという活動ができていない、ということに気づかせてくれました」、「アメリカの主要メディア」は旗色が明らかなので、中立的な番組は、「日本のテレビ」しか出来ないからだろう。 「工場労働者やスーパーの店員、配達員、保育士、トラック運転手などコロナでも外で働く人たち・・・エッセンシャルワーカーと呼ぶようなったのです。 コロナが、こういう仕事にもっと尊敬の念を払う必要がある、という議論のドアを開くことになると期待」、「エッセンシャルワーカー」に脚光が当たったのはいいことだ 「お金やGDPは誤解を与える指標で、社会などにおいて何が重要かという議論を遮ってしまう」、その通りだ。 「私たちが考えるいい社会を実現するためには、共通善に対する貢献を何で評価するべきかという議論をしなければならない。 どんな価値観や美徳を大切にする社会を作っていくかという議論をするうえで、倫理的価値観の話は避けられません。正義とは何か。共通善を目指す意味は何か。私たち市民はお互いにどんな責任を負っているのか。社会への貢献は何で評価できるのか。それぞれが尊厳を維持し、互いを尊重するにはどうしたらいいか」、同感である。 斎藤 幸平 水野 和夫 「「コロナ禍でも五輪すらやめられない」資本主義の暴走を止めなければ人類は滅びる 「中間層を増やせばいい」は間違い」 「幸せを重視する経済に移行していく必要があることはまったく同感です。ただその場合に、手段も同時に考えなければなりません」、その通りなのかも知れない。 「下からのコミュニズム」とは言い得て妙だ。 「資本主義は21世紀において、絶望的な二極化世界を生み出してしまいました・・・パンデミックという緊急事態においても、資本主義経済はなんら善行をなしえず、経済格差が命の格差になってしまっている。これは、資本を蓄積する正当性がなくなったということですから、過剰な資本に対しては、金融資産税や内部留保税、相続税などの税制を強化して分配するしかないんじゃないでしょうか。資本主義は成功したがゆえに、もうその役割を「終えた」と見るべきです」、厳しい診断だ。 「2020年末には国会でも労働者協同組合法が成立し、「協同組合を見直していこう」という機運が高まりつつあります」、初めて知った。 「資本主義を駆動させる資源は、海賊的なものだったわけです。いわば、先進国の労働者たちは、南から収奪した富を資本家たちと山分けして中産階級になったのです」、はともかく、「抜本的にそれらを見直すとすれば、定常経済に移行するだけでなく、保障や支援も含めてグローバルサウスに富を戻していくことも検討していかなければいけないと思います」、については、そこまで歴史の歯車を逆回転させる必要はないと思う。 みんながSDGsを心がけるぐらいで、よき資本主義に変えられるほど資本主義は甘っちょろいものではないと思います』、同感だ 「経営者や資本家に正義を求めるのは無理」、同感である。 「労働者が「コモン」を自主管理するためには、階級闘争的な運動がどうしても必要になってくると思う」、何故なのだろう。重要なことを理由抜きで述べるのは問題だ。 「現在の労働者たちが今の経営者や資本家を追い出して、代わりに自分たちがその立場に立ったら、本当に公平な社会が実現するかというと、私は少し疑問です」、同感である。 「「世界全体が富裕層に甘すぎる」自家用ジェットやスポーツカーは全面禁止にすべきだ 欲望を煽る経済システムはもう限界」 「経済成長が生み出してきた負の要素が、いまや気候危機やコロナなどはっきりと目に見える形であらわれてきた以上、GDPで国の豊かさを測る意味は見出せません」、その通りだ 「フィンランドが目指している週24時間程度で、先進国の最低限のニーズは回せると思います」、同国では現在の他の時間は何に向けられているのだろう。 「私は「足るを知る」とはそうではなく、他者の存在なしでは生きていけないこの社会で、他者のことを思いやり、生きていく上で必要なものを独り占めするのではなく「分かち合う」ことだと考えています」、なるほど。 「広告やプロモーション、計画的陳腐化など、いろんな手段で私たちの欲望を絶えずあおるようなシステムが、マーケティングを通じてできあがってしまっている」、「この中でいくら足るを知ろうとしても、本当にそれこそ聖人みたいな人でなければ、やはりまた何か買おうかなと思ってしまう」、その通りだ。 「私たちも、近距離の飛行機移動を禁止したり、ファストフードやファストファッションを禁止することも含めて、もっと抜本的に今の生活を見直す必要があるでしょう」、その通りだ。 「「バルセロナ・イン・コモン」という地域政党などの例を紹介しながら、一人ひとりの声から生まれる社会運動をつくっていこうと話しているんです」、日本で果たして定着するのだろうか。 「ヨーロッパの自治体は、単にグローバルな大企業とか、欧州連合の言いなりになることをやめて、「フィアレス・シティ(fearless city)」、つまり「恐れぬ自治体」として市民のためのまちづくりをする方向に舵を切っています」、面白い動きだ。どんな分野で「グローバルな大企業」に対抗しているのだろうか。もう少し情報がほしいところだ。
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