ドイツ(その4)(「タブー視してきたツケか」ドイツで"ユダヤ人憎悪"のデモが広がる厄介な理由 「移民受け入れ」を進めてきた副作用、西ドイツの“成金都市”から東独の「歴史文化都市」に引っ越して感じたこと、メルケル首相の16年とドイツの行方) [世界情勢]
ドイツについては、昨年6月11日に取上げた。今日は、(その4)(「タブー視してきたツケか」ドイツで"ユダヤ人憎悪"のデモが広がる厄介な理由 「移民受け入れ」を進めてきた副作用、西ドイツの“成金都市”から東独の「歴史文化都市」に引っ越して感じたこと、メルケル首相の16年とドイツの行方)である。
先ずは、本年6月8日付けPRESIDENT Onlineが掲載した在独作家の川口 マーン 惠美氏による「「タブー視してきたツケか」ドイツで"ユダヤ人憎悪"のデモが広がる厄介な理由 「移民受け入れ」を進めてきた副作用」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/46679
・『ドイツではユダヤ人差別は問答無用で糾弾される。しかし、5月に開かれたイスラエルに抗議する合法デモが、ユダヤ排斥を叫ぶ違法デモに変わるということが起きた。在独作家の川口マーン惠美さんは「2015年以降、難民として中東から移り住んだ人々の中から新たな『反ユダヤ主義』が生まれていることも一因だ」と指摘する――』、興味深そうだ。
・『停戦前の戦場に駆けつけた独外相 5月20日、イスラエルとパレスチナの間でミサイルが飛び交っていた最中、ハイコ・マース独外相はイスラエルを訪問し、ミサイル攻撃で破壊されたばかりの瓦礫の中に立っていた。彼がイスラエル国民に伝えたかったのは、ドイツ人のイスラエルに対する強い連帯の情であり、それは、その後、テルアビブでネタニヤフ首相と交わした力強い握手によっても、しっかりと伝えられたはずだ。 マース外相は前々から、学生時代に強制収容所を見学したことがきっかけで政治家になろうと決心したと語っていた政治家であったから、イスラエル訪問は、まさにその信条の実践でもあったのだろう。外交においては、時にこういう象徴的な、危険をも顧みないで駆けつけたといったようなポーズが重要な意味を持つ。 同日、マース外相はイスラエルからさらにヨルダン川西岸に移動し、パレスチナ自治政府のアッバース大統領とも会談した。ただ、戦闘行為を働いているのはパレスチナ自治政府ではなく、ガザ地区のハマス、およびジハード(イスラム聖戦機構)といった、米国やEUからテロ組織に指定されているイスラム原理主義者の戦闘集団なので、結局、マース外相にできたのは、アッバース大統領と共に1日も早い休戦を願うことぐらいだった。 なお、具体的には、被害の大きいガザ地区への人道支援も申し出ている。 そして、これらの調停役的な行動の成果が実ったのか、あるいは、17日のバイデン米大統領とネタニヤフ大統領の電話会談が効いたのか、5月21日未明には停戦が発効した。6月2日現在も、停戦協定は守られている』、「外交においては、時にこういう象徴的な、危険をも顧みないで駆けつけたといったようなポーズが重要な意味を持つ」、その通りだが、日本の政治家には無理だろう。
・『ベルリンの反イスラエルデモに異変が 一方、この頃、ドイツ国内では予想もしない事態が勃発していた。ガザ地区の重篤な被害に憤慨した在独アラブ系の人たちが、イスラエルに抗議するために起こした合法なデモが、あっという間にユダヤ排斥を叫ぶ暴動となってしまったのだ。 5月15日の土曜日、ベルリンではデモ隊(警察発表では3500人が参加)が暴徒化して警官隊と衝突。パレスチナの旗を掲げ、熱狂的に反イスラエル・反ユダヤを叫ぶアラブ系の人々の姿は唾棄すべきもので、日本人としては、ふと、2005年当時の中国の反日暴動を思い出した。 この日は最終的に93人の警官が負傷、60人が逮捕された。ドイツ人は、自国にこれほど多くの過激なアラブ人が潜んでいたことに驚きを隠せなかった。 さらに翌16日には、約1000人が400台の車に分乗し、ベルリン市内を隊列を組んでクラクションを鳴らしながら走り、その他の都市でも、イスラエルの国旗が焼かれたり、シナゴーグ(ユダヤ教会)やユダヤ関連の記念碑が毀損されたりと、ユダヤ攻撃が相次いだ。 いうまでもなく、ホロコーストを絶対悪と定めるドイツでは、イスラエルには常に気を遣い、ユダヤに関する非難めいた発言は、それが差別であろうがなかろうが許されない。それどころか、反ユダヤ主義的言動は刑法に触れる。ホロコーストは絶対に忘れてはならず、近年は、政治家が「記憶の文化」などという新造語まで作り、国民の贖罪意識の風化を防ごうとしてきた』、「ベルリンの反イスラエルデモ」は暴動に近いようだ。
・『ユダヤ人を憎悪する人々は何者なのか そんな国で、あたかも75年の空白を破るかのように、突然、反ユダヤのプラカードが掲げられ、ユダヤ冒涜のシュプレヒコールが響き渡ったのだから、その衝撃は大きかった。当然のことながら、国中で一気にユダヤ議論に火がつき、まさにパンドラの箱の蓋が開いたかのようだった。 論点は複合的だ。最初の疑問は、デモで反ユダヤを叫んでいるアラブ系の人たちはいったい誰なのかということ。 アラブ人(イスラム教徒)とユダヤ人(ユダヤ教徒)は骨肉相食む仲だが、ドイツにはそのイスラム教徒が多く暮らす。例えば70年代に労働移民として入ったトルコ人や、内戦から逃れてきたレバノン人。その数は膨大ではあるが、しかし、彼らの多くはすでにドイツ国籍を取得し、今や4世が育つ。もちろん、2世以上は皆、ドイツで教育を受け、社会に根付いているため、今回の暴動の主役ではありえない。それどころか、彼らなしではもはやドイツ社会はまともに機能しないと言ってもよいほどだ』、「2世以上は皆、ドイツで教育を受け、社会に根付いているため、今回の暴動の主役ではありえない」、なるほど。
・『新たな反ユダヤ主義が持ち込まれている ところが、移民の中には、都会の一角に独自の生活を送る並行社会を形成し、全くドイツ社会に溶け込まない人たちもいる。 ドイツ人にはホロコーストの強いトラウマがあり、特に政治家は今でも、外国人に対して何らかの要請を行うことにひどく消極的だ。そのためドイツ政府は、何十年ものあいだドイツが移民受け入れ国であるということを認めず、外国人租界のようになった一角が犯罪の温床、あるいは、イスラム過激派の根城となっていっても目をつむった。反ユダヤ主義がそういう場所でしっかりと温存され続け、今の反ユダヤ主義の暴発につながっている可能性は確かにある。 それに加えてドイツには、2015年と2016年に受け入れた膨大な数の中東難民がいる。彼らが「ユダヤ憎悪」というアラブの常識を、おそらく無意識のまま、ドイツに持ち込んだことは疑いの余地がない。 当時、無制限受け入れを積極的に進めたのはメルケル首相だったが、これについては彼女自身が2018年、イスラエルのテレビ放送のインタビューに答えてこう語っている。 「私たちは、難民、およびアラブ系の人々を受け入れたことで、新しい現象に直面しています。それは、新しい形の反ユダヤ主義が、再び国内に持ち込まれたということです」』、「難民」「受け入れ」が「新しい形の反ユダヤ主義が、再び国内に持ち込まれた」、とは皮肉だ。
・『彼らの感情を利用し、暴発させたか 実際問題として、以来、ユダヤ人に対する嫌がらせや襲撃が急増し、それが頻繁に報じられるようになった。 ユダヤ人中央評議会のドイツ支部代表のシャルロッテ・クノブロッホ氏は、ミュンヘンの日刊紙Merkurのインタビュー(6月1日付)で、「反ユダヤ主義がこのような形で再燃するとは思ってもみなかった」と語り、このままではユダヤ系の人々がドイツでの将来の生活に対する信頼を失うことを警告した。実際、子育て中の若い家族の間で、イスラエルへの移住を考えたり、あるいは、すでに踏み切ったりするケースが増えているという。 ちなみに、1932年生まれのクノブロッホ氏はナチ時代の生き証人でもある。 これらの状況を総合すると、今回の暴力的なデモは、イスラム原理主義の拡大を目指す過激な組織が、中東紛争を利用し、さまざまなアラブ系の若者たちを引き込み、もともと、彼らの中に潜んでいた反ユダヤ感情を暴発させたものだという仮説が成り立つ。そうだとすると、その責任の一端は、長年、有効な移民政策を敷かなかったドイツ政府や、難民を無制限に入れたメルケル首相、それを支持した左派勢力やメディアにもあるのではないかということにもなる』、「「ドイツ政府」、「メルケル首相」、「左派勢力やメディア」にも「責任の一端」がある」、確かにそうした面があることは事実かも知れないが、「酷」過ぎる気もする。
・『ドイツ人の偏見度合いを調べると… それに加えて、今回の暴動は単にアラブ系の人たちだけの問題ではなく、実はドイツ国民の間にも、今なお根強い反ユダヤ主義が潜在しているのではないかという疑問も生んだ。これが事実だとすると、75年間、反ユダヤ主義の撲滅に励んできたはずのドイツ人にとっては、極めて深刻な事態だ。 5月18日、Die Welt紙のオンライン版に興味深い記事が載った。ユダヤ人の経済モラルについて、ドイツ人が偏見を持っているかどうかというテーマで、ドイツ人経済学者2人が行った調査結果だ。 調査は単純で、124人の被験者に次のような文章を示し、そのモラル度を問う。 「XYは1974年にミュンヘン生まれで、現在45歳。ミュンヘンのIT企業で中間管理職の一員として働く。叔母から5万ユーロの遺産を受け継ぎ、それを子供達の学費として活用するため、ドイツと米国の企業の株に投資した。株の選択は、自動車、薬品、鉱物資源を扱う企業に重点を置いた。今後、大きな市場の動きに対応するため、株の動きをスマホでフォローするつもりだ」というものだ』、何が問題なのだろう。
・『名前を変えたら見えてきた事実 何の変哲もない内容だが、ミソはXYの名前のところで、半分はユダヤ風の名前とし、残りの半分は典型的なドイツ風の名前とした。 その結果、ユダヤ風の名前に対しては、これはモラルを問われるべき行為、あるいは、非常にモラルを問われるべき行為であるという答えが34.8%で、ドイツ風の名前の場合は14.8%と、差が出た。 調査の精度を高めるため、ユダヤの名前の代わりに、英国やイタリアの名前を入れると、結果はドイツの名前と差がなかったという。 つまり、被験者はユダヤの名前に反応した可能性が高い。類似の研究は英国などでも行われており、やはり同様の結果だという。 これをドイツ人のユダヤ人に対する偏見と解釈すべきかどうかはさておくとして、ただ、ここでの問題は、ドイツ人の間では、たとえユダヤに対する偏見や反ユダヤの感情があったとしても、本人が一切気づいていない可能性が高いのではないかということだ。あるいは、気づいていても、理性で閾下いきかに押し込めている可能性だ』、「ドイツ人の間では、たとえユダヤに対する偏見や反ユダヤの感情があったとしても、本人が一切気づいていない可能性が高いのではないかということだ。あるいは、気づいていても、理性で閾下いきかに押し込めている可能性だ」、あり得そうだ。
・『ユダヤ問題も難民問題も自由に語れない ドイツ人は75年間、政治的にイスラエル擁護を貫いてきたし、その教育も徹底していた。だから現在も、アラブ系の人たちの暴発を見て、多くの人が心を痛め、イスラエル支援を掲げて立ち上がっている。 ただ一方で、ドイツ人の感情の中には、いわゆるパレスチナ難民の運命への同情も根強くあり、それどころか、軍事的に優位なイスラエルに対する反発さえ潜んでいるようにも感じる。つまり、イスラエルもパレスチナも多くの側面があるだけに、複雑なのだ。 ただ、今のドイツでは、ユダヤ問題はもとより、難民問題もなかなか自由には語れない。前者は政治的にタブーだし、後者に言及すると、すぐさま極右や国家主義者のレッテルを貼られる危険が大だ。しかも、ドイツ政界には今、反ユダヤ主義の台頭を封じ込めるため、罰則の強化を図ろうという動きが出ている。 せっかく75年間も掛かって築いてきた人道国家の評判を落としてはならぬと焦っているのはよく分かるが、罰則があれば、自由な議論までがこれまで以上に妨げられる可能性も出てくるのではないか。 本来ならこの問題の解決には、まずは新入りのアラブ系の人たちに、ドイツに留まりたければ反ユダヤ主義は許されないことを強く啓蒙し、さらには、国民全員に、過去の歴史やホロコーストなど、検証さえもタブーであった事柄についてのオープンな議論の場を設けることのほうが先決のような気がする』、「国民全員に、過去の歴史やホロコーストなど、検証さえもタブーであった事柄についてのオープンな議論の場を設けることのほうが先決」、もっともな気もするが、筆者が触れてないような根深い問題があるのかも知れない。
次に、10月15日付け現代ビジネスが掲載した在独作家の川口 マーン 惠美氏による「西ドイツの“成金都市”から東独の「歴史文化都市」に引っ越して感じたこと」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/88310?imp=0
・『2021年10月9日のライプツィヒ コロナのせいで日独の間の往来はもちろん、ドイツ国内の移動も不便になって、すでに1年半が過ぎた。私が旧東独のライプツィヒに越したのは今から2年余り前だが、せっかく素晴らしいドイツ東部の文化や風土を、まだ十分に堪能することができずにいる。 旅行に行こうにも、長いあいだホテルはビジネス客しか泊まれず、レストランも閉まっていた。オペラ座やコンサートホールも閉鎖が続き、ようやく開いたあとも小さい編成の、あまり知られていない演目ばかり掛かっていた。今、だんだんそれらが急速に元に戻り始めているのが嬉しい。 ちなみに、これまで休暇は外国で過ごすことの多かったドイツ人だが、現在、国内の観光地がブームになっている。たとえお隣のイタリアやフランスであっても、予期しないコロナ禍に巻き込まれる面倒は避けたいという防御反応が働いているのだ。ドイツには風光明媚な場所が多々あるので、皆、思いがけない「ドイツ再発見」に、結構満足しているようにも見える。 ライプツィヒ市はザクセン州に属し、ポーランドと国境を接している(ザクセン州の南部はチェコとも繋がっている)。東西ドイツの統一は1990年だが、これは統一というより、西による東の併合だった。 東の人が喜んだのは束の間で、あっという間に西の「占領軍」がやってきて、民間企業でも役所でも大学でも、長と名のつく役職は全て奪っていった。東の人々にしてみれば、不平等条約が横行するようなやりきれない思いだったと想像する。 以来すでに31年が過ぎたが、人口は東から西へとコンスタントに流れ続け、東の過疎と高齢化には今も歯止めがかからない。 東西を結ぶ鉄道網は、南北方向の路線に比べると貧弱だし、東の新しいアウトーバーンは交通量が少ないため、サービスエリアやガソリンスタンドの密度が低い。東で働いていた人と、西で働いていた人の年金には、今なお差があるし、人々の心のわだかまりも無くなったわけではない。 ところが、その旧東独の中で珍しく人口が増えているのがライプツィヒだ。現在の人口は60万5000人で、ザクセンの州都ドレスデンよりも5万人近く多い。出生率もV字回復中という元気な町である』、「これまで休暇は外国で過ごすことの多かったドイツ人だが、現在、国内の観光地がブームになっている・・・ドイツには風光明媚な場所が多々あるので、皆、思いがけない「ドイツ再発見」に、結構満足しているようにも見える」、「コロナ」のとんだ効用だ。
・『ドイツの中心は東にあった 私はここへ来る前、シュトゥットガルトに37年間も住んでいた。シュトゥットガルトというのは自動車の町で、ベンツとポルシェの本社がある。当然、その関連会社も山ほどあり、景気は良く、人々は自信満々。地価の高騰さえ自慢の一つだった。そして、西の人間の例に漏れず、たいてい東を少しだけ見下していた。 さて、そんな町に住み、漠然とドイツのことは知り尽くしているような気になっていた私だが、ライプツィヒに住み始めると、目から鱗ともいうべき新たな発見が多く、衝撃的だった。 まず、肌で感じたのが、そもそもドイツの中心は、東にあったのだという歴史的事実。その中でもライプツィヒは、学問、商業、芸術(特に音楽)、どれをとっても、まさにその頂点を極めた町で、その名残は、今も町のそこかしこに色濃く残っていた。 町の中心には、バッハが25年も音楽監督をしていたトーマス教会があり、当たり前のように礼拝やコンサートが行われていたし、通りがかった建物にさりげなく貼ってあるプレートを見ると、「クララ・シューマンの生家」などと書いてあった。 ライプツィヒ大学の入口ホールには、ここで教鞭を取ったり学んだりした人々、たとえば哲学者ライプニッツや、メビウスの輪で有名な数学者メビウス、ゲーテやニーチェなどの胸像がずらりと並んでいた。また、入り組んだ建物の間には、過去の瀟洒な商館を彷彿とさせるパッサージュと呼ばれるアーケードなどがそのまま残っていたりもした。 ライプツィヒはまた音楽のメッカでもあり、ここで音楽会を訪れると、シュトゥットガルトとは一風違った空気が漂っていた。人々は、ステータスを見せびらかすためではなく、音楽を聴くために粛々と集まってきた。 東独時代の40年間、西に比べて娯楽の少なかったこの国で、人々が愛し、守り続けた伝統が、今もなお頑固に受け継がれているように感じられた。今まで私が聞いていた音楽がデジタルなら、ライプツィヒはアナログで、人間の息遣いが残っているようだった。 市内の建物は、東独時代には煤けて見窄らしくなっていたに違いないが、今ではすっかり修復されて、有名なものも、そうでないものも威風堂々としている。そして、その建物と空気に、何世紀分もの歴史が澱のようにへばりついていた。 ライプツィヒに来て、私はようやく思い出した。戦前までのシュトゥットガルトは貧しい土地であったということを。ライプツィヒの長い栄華に比べれば、自動車産業やIT産業の勃興などつい最近の話だ。その西の人間が東を見下すとは、まるでお門違いだと思った。 東の人たちは寡黙なプライドを胸に秘めつつ、何も言わないけれど、ひょっとすると、心の中で西の成金ぶりに苦笑しているのではないか』、「戦前までのシュトゥットガルトは貧しい土地であった・・・ライプツィヒの長い栄華に比べれば、自動車産業やIT産業の勃興などつい最近の話だ。その西の人間が東を見下すとは、まるでお門違いだと思った」、歴史的な視点も確かに重要だ。
・『2年ぶりに開かれた「光の祭典」 1989年のベルリンの壁の崩壊を招いた国民運動は、ライプツィヒで始まった。町の中心にあるニコライ教会で、毎週月曜日に開かれていた集会は、最初は宗教のヴェールを被っていたが、そのうちに「外へ!」というスローガンとともに教会から飛び出した。ドイツ史に名を残すことになる「月曜デモ」である。 9月4日、デモの参加者は初めて1000人を超えたが、独裁国での政府に対する抗議集会であるから、当然、逮捕者が出た。しかし、人々は諦めず、25日には8000人、10月2日には1万5000人と、参加者は鰻登りに増えていった。 真の突破口となったのは10月9日だ。この日、参加者は一気に7万人に膨らんだ。当然、その情報は当局に筒抜けで、ホーネッカー書記長は警察に武力介入を命じていた。夜、サーチライトの光る中、集まった市民と武装警官隊の間には一触即発の緊張が張り詰めた。惨劇になってもおかしくないはずのところ、しかし、この夜、警官隊はホーネッカーの命令に従わなかった。市民が勝ったのだ。 この後、全東独で抵抗運動が炸裂し、ちょうど1ヶ月後にベルリンの壁が落ちる。東西ドイツの統一は、国民の力で民主主義を達成した無血革命と言われるが、中でもライプツィヒ市民の果たした役割は大きかった。 それを記念して、ここでは毎年10月9日の夜、「光の祭典」と名付けたイベントが催される。去年はコロナ禍で中止されたが、今年はそれを取り戻すかのようで、夜の帳が下りるころには、町はすごい数の人々で溢れた。あちこちで、小さなキャンドルを入れたプラスチックのカップを配っており、皆がその一点の光を手に暗い町をそぞろ歩く。ただそれだけで絵になる美しさだ。 今年のイベントは、密集を避けるために3ヵ所に分けられたが、オペラ座の前のアウグストゥス広場でのイベントが特に印象に残った。 広場の中心の櫓に設置された映写機から周りに向かって、何本かの光が放射線状に放たれている。そして、そこに用意されている長い柄のついた看板のような形のスクリーンを、集まった市民がそれぞれ自主的に手に取り、頭上に掲げて、映写機からの光の束を受ける。すると初めて、映写機から出ているその光が、それぞれのスクリーン上で像を結んだ。 映写されたのは、1989年の10月9日のデモの写真だった。モチーフは、デモの参加者の真剣な表情や、彼らが持ち寄った手作りのプラカードなど、当日の現場写真だ。そして広場中にBGMのように、デモのオリジナルの音声が響いていた。当時の悲痛な呼びかけや、人々のシュプレヒコールを聴きながら立っていると、あたかもデモの現場にいるような緊迫した臨場感に包まれた。 スクリーンは、何人かが協力して横並びにくっつけると、映し出される映像は細切れでなく、大きくなる。見知らぬ人たちのそんなさりげない共同作業が、無言のままにも、辺り一帯に心地よい連帯感を醸し出していた。スクリーンの持ち手は、しばらくするとそれを誰かにバトンタッチして去っていく。ただ、それだけなのに、なぜか感動した。 ライプツィヒでよく思う。私はドイツをまだまだ知らないと。これまでろくに旧東独を知らずにドイツを知っているつもりだったのは、恥ずかしいことだった。おそらく、ライプツィヒと、旧東独のその他の田舎の間にも、今の私が想像もつかないほどの大きな差があるのだろうと思う。 ある国を完全に知ることなど不可能だが、今、ライプツィヒのおかげで、しばらく忘れていたドイツに対する興味が再び蘇ってきている』、「ベルリンの壁の崩壊を招いた国民運動は、ライプツィヒで始まった」、「警官隊はホーネッカーの命令に従わなかった。市民が勝ったのだ」、初めて知った。「ある国を完全に知ることなど不可能だが、今、ライプツィヒのおかげで、しばらく忘れていたドイツに対する興味が再び蘇ってきている」、初心に戻ったとも考えられる。
第三に、9月30日付けNHK時論公論「メルケル首相の16年とドイツの行方」を紹介しよう。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/455003.html
・『「混乱・分裂か、不透明だが新しい始まりのチャンスだ」ドイツのメディアは今の状態をこう表現しています。メルケル政権の後継体制を決めるドイツの総選挙は、社会民主党が16年ぶりに第1党の座を奪還し、連立政権の樹立に向けて動き出しました。しかし、キリスト教民主社会同盟も政権維持をあきらめておらず、小政党の動向がカギを握っています。選挙の結果をふまえて新しい政権の見通しとメルケル首相の16年、そしてドイツの今後を考えます。 まず26日に投開票が行われた連邦議会・下院議員選挙の暫定結果です。 投票率はコロナ禍でも前回を上回りました。 ▼第1党は中道左派の社会民主党で、206議席を獲得。 ▼メルケル首相が所属する中道右派のキリスト教民主社会同盟は196議席にとどまりました。得票率は24.1%で結党以来最低です。 ▼緑の党と自由民主党はともに議席を増やしました。 2005年に第2党に転落して以来低迷が続いた社会民主党は、キリスト教民主社会同盟が保守層の支持を失い、議席を大きく減らしたことで第1党に復帰しました。 同じような状況は98年にもありました。キリスト教民主社会同盟はドイツ統一の立役者で4期16年首相を務めたコール氏のもとで大敗を喫し、社会民主党に政権を明け渡しました。安定志向が強く急激な変化を望まないドイツでも長期政権に飽き、政治の刷新を求める声がうねりのように高まっていたことを現地で取材していて感じました。 今回は新しい政治を求める声以上に国民に幅広い人気のあるメルケル氏の引退が大きく影響したといえそうです。ドイツは主要政党が首相候補を立てて争うため、政策より誰に国のかじ取りをまかせるかに注目が集まる傾向があります。キリスト教民主社会同盟の首相候補ラシェット氏は洪水の被災地で笑顔で談笑していた姿が報じられて批判を浴び失速。社会民主党のショルツ氏はライバルたちの自滅によりトップに浮上しました。財務相として手堅い手腕が評価されるショルツ氏がポスト・メルケルに一歩近づいたかたちです。とはいえ過半数には3党の連立が必要で、ラシェット氏も連立政権樹立をめざすと表明したためまだ予断を許しません』、「ドイツは主要政党が首相候補を立てて争うため、政策より誰に国のかじ取りをまかせるかに注目が集まる傾向があります」、面白い傾向だ。
・『考えられる連立の組み合わせは3通りあります。 ▼1つは社会民主党と緑の党、自由民主党の連立で、政党の色から赤緑黄色の「信号連立」と呼ばれます。▼一方、キリスト教民主社会同盟も緑の党、自由民主党との連立を目指しており、この場合は黒緑黄色で「ジャマイカ連立」と呼ばれます。緑の党は社会民主党に近く98年から7年間連立を組みました。自由民主党は政策が近いキリスト教民主社会同盟と何度も連立を組んできました。この2党がそろって2大政党のどちらにつくかで政権が決まります。▼3党の連立交渉が決裂した場合は、今と同じ2大政党による大連立の可能性も残されていますが、双方とも連立は望んでいません。ショルツ氏、ラシェット氏ともにクリスマスまでの政権発足をめざしていますが、3党の交渉は難航も予想されます。 新政権にはコロナ後の経済の立て直しとともに、メルケル政権が積み残した様々な課題が待ち構えています。 格差の是正とデジタル化の推進、それに気候変動対策などです。とくに気候変動対策は緑の党の連立入りが確実なだけにこれまで以上に重点が置かれることになります。 ドイツは2045年までの脱炭素社会実現をめざしていますが、緑の党は20年後の実現を掲げ、自由民主党は産業の競争力低下につながる政策には慎重です。また緑の党は富裕層への増税強化を求めているのに対し自由民主党は増税に反対しており、政策が大きく異なるこの2党がどう折り合いをつけるかが今後のカギです』、「信号連立」、「ジャマイカ連立」など政党を色で表すとは面白い。
・『メルケル首相は新政権発足までとどまりますが、なぜ16年もの長期政権を維持することができたのでしょうか。 メルケル氏はアメリカの雑誌フォーブスで、世界で最も影響力のある女性に10年連続1位に選ばれていますが、首相に就任した当初はここまで長期政権が続くと予想した人はほとんどいませんでした。メルケル氏は旧西ドイツで生まれた直後に牧師をしていた父親の仕事で旧東ドイツに移り住みました。1990年の東西ドイツ統一後初めて行われた選挙で、当時のコール首相に見いだされて初当選を果たし閣僚のポストを得ました。 2000年には闇献金疑惑で辞任した党首の後を継ぎましたが、党内の基盤はなく、カトリック教徒の党員が多い中プロテスタントで旧東ドイツ出身の女性政治家という当時としては異色の存在でした。取材でもごく普通の地味な政治家という印象を持ちましたが、2005年の選挙で勝利し、ドイツ初の女性首相に就任しました。 当初は大きな期待もなかったメルケル氏が、国民から「ムティー」、お母さんと呼ばれ、ヨーロッパを代表する指導者にまでなったのは、安定感があり何事にも冷静で柔軟に対応する能力があるためだと言われます。その1例が脱原発です。首相就任後、産業界の要請を受けてシュレーダー前政権が決めた原発の全廃を見直し、稼働延長を打ち出しましたが、東京電力福島第一原発事故を受けて、「2022年までの原発廃止」に転じました。科学者としての冷静な目と臨機応変な判断に基づくものでした。金融危機やコロナ禍では危機管理能力の高さを示しました。 一方で同性婚の容認や徴兵制の廃止、それに多数の難民受け入れなど保守政党ながらリベラルで人道主義に基づく政策を進め、伝統的な保守層の支持を失いました。また、対中政策で人権問題に目をつぶり経済関係を優先したように現実的な面も持ちあわせています。恩人であるコール氏をはじめ党内のライバルを次々と蹴落としてトップの座を射止めた冷徹さも兼ね備えています。それが後継者が育たず、政権を明け渡すことにつながったのかもしれません』、「当初は大きな期待もなかったメルケル氏が、国民から「ムティー」、お母さんと呼ばれ、ヨーロッパを代表する指導者にまでなったのは、安定感があり何事にも冷静で柔軟に対応する能力があるためだと言われます」、「首相就任後、産業界の要請を受けてシュレーダー前政権が決めた原発の全廃を見直し、稼働延長を打ち出しましたが、東京電力福島第一原発事故を受けて、「2022年までの原発廃止」に転じました。科学者としての冷静な目と臨機応変な判断に基づくものでした」、「原発廃止」から「稼働延長」にしたのを、再び「原発廃止」にしたというのも、「科学者としての冷静な目と臨機応変な判断」は大したものだ。
・『では、メルケル後のドイツはどこへ向かうのでしょうか。 アメリカは内向き志向を強め、代わって中国が台頭、フランスやイギリスは影響力が低下しました。世界は多極化が進み、欧米ではポピュリズムが広がり民主主義の危機が叫ばれてきました。そうした中でメルケル首相は、自由と民主主義、法の支配の堅持を訴え、トランプ前大統領にもひるまずモノを言い続けました。ヨーロッパがユーロ危機などを乗り越え、結束を保ってきたのもメルケル氏の存在があったからだと言われます。 誰が次のリーダーになるにせよ、ヨーロッパをまとめることができるか、また、民主主義と多国間主義の守り手として各国指導者とわたりあうことができるか、手腕が問われることになります。ヨーロッパもまたドイツの強いリーダーシップを求めています。さらにドイツは近年中国への過度の依存を見直してインド太平洋地域に目を向け、日本などとの関係を重視する姿勢に転じました。この路線は変わらないと見られますが、対中国・ロシア関係をめぐっては中ロに近い社会民主党と人権重視の緑の党の対立も予想されます。 ドイツは来年G7の議長国です。政治空白の長期化は許されず1日も早く政権を発足させてほしいと思います。日本としてもアメリカ一辺倒ではなくドイツを要とするヨーロッパとの経済、安全保障をはじめ幅広い分野での関係強化に向けて、新政権が生まれるこの機会が絶好のチャンスだと思います』、「メルケル後のドイツはどこへ向かう」のか、冷静なドイツ国民の良識に期待したい。
先ずは、本年6月8日付けPRESIDENT Onlineが掲載した在独作家の川口 マーン 惠美氏による「「タブー視してきたツケか」ドイツで"ユダヤ人憎悪"のデモが広がる厄介な理由 「移民受け入れ」を進めてきた副作用」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/46679
・『ドイツではユダヤ人差別は問答無用で糾弾される。しかし、5月に開かれたイスラエルに抗議する合法デモが、ユダヤ排斥を叫ぶ違法デモに変わるということが起きた。在独作家の川口マーン惠美さんは「2015年以降、難民として中東から移り住んだ人々の中から新たな『反ユダヤ主義』が生まれていることも一因だ」と指摘する――』、興味深そうだ。
・『停戦前の戦場に駆けつけた独外相 5月20日、イスラエルとパレスチナの間でミサイルが飛び交っていた最中、ハイコ・マース独外相はイスラエルを訪問し、ミサイル攻撃で破壊されたばかりの瓦礫の中に立っていた。彼がイスラエル国民に伝えたかったのは、ドイツ人のイスラエルに対する強い連帯の情であり、それは、その後、テルアビブでネタニヤフ首相と交わした力強い握手によっても、しっかりと伝えられたはずだ。 マース外相は前々から、学生時代に強制収容所を見学したことがきっかけで政治家になろうと決心したと語っていた政治家であったから、イスラエル訪問は、まさにその信条の実践でもあったのだろう。外交においては、時にこういう象徴的な、危険をも顧みないで駆けつけたといったようなポーズが重要な意味を持つ。 同日、マース外相はイスラエルからさらにヨルダン川西岸に移動し、パレスチナ自治政府のアッバース大統領とも会談した。ただ、戦闘行為を働いているのはパレスチナ自治政府ではなく、ガザ地区のハマス、およびジハード(イスラム聖戦機構)といった、米国やEUからテロ組織に指定されているイスラム原理主義者の戦闘集団なので、結局、マース外相にできたのは、アッバース大統領と共に1日も早い休戦を願うことぐらいだった。 なお、具体的には、被害の大きいガザ地区への人道支援も申し出ている。 そして、これらの調停役的な行動の成果が実ったのか、あるいは、17日のバイデン米大統領とネタニヤフ大統領の電話会談が効いたのか、5月21日未明には停戦が発効した。6月2日現在も、停戦協定は守られている』、「外交においては、時にこういう象徴的な、危険をも顧みないで駆けつけたといったようなポーズが重要な意味を持つ」、その通りだが、日本の政治家には無理だろう。
・『ベルリンの反イスラエルデモに異変が 一方、この頃、ドイツ国内では予想もしない事態が勃発していた。ガザ地区の重篤な被害に憤慨した在独アラブ系の人たちが、イスラエルに抗議するために起こした合法なデモが、あっという間にユダヤ排斥を叫ぶ暴動となってしまったのだ。 5月15日の土曜日、ベルリンではデモ隊(警察発表では3500人が参加)が暴徒化して警官隊と衝突。パレスチナの旗を掲げ、熱狂的に反イスラエル・反ユダヤを叫ぶアラブ系の人々の姿は唾棄すべきもので、日本人としては、ふと、2005年当時の中国の反日暴動を思い出した。 この日は最終的に93人の警官が負傷、60人が逮捕された。ドイツ人は、自国にこれほど多くの過激なアラブ人が潜んでいたことに驚きを隠せなかった。 さらに翌16日には、約1000人が400台の車に分乗し、ベルリン市内を隊列を組んでクラクションを鳴らしながら走り、その他の都市でも、イスラエルの国旗が焼かれたり、シナゴーグ(ユダヤ教会)やユダヤ関連の記念碑が毀損されたりと、ユダヤ攻撃が相次いだ。 いうまでもなく、ホロコーストを絶対悪と定めるドイツでは、イスラエルには常に気を遣い、ユダヤに関する非難めいた発言は、それが差別であろうがなかろうが許されない。それどころか、反ユダヤ主義的言動は刑法に触れる。ホロコーストは絶対に忘れてはならず、近年は、政治家が「記憶の文化」などという新造語まで作り、国民の贖罪意識の風化を防ごうとしてきた』、「ベルリンの反イスラエルデモ」は暴動に近いようだ。
・『ユダヤ人を憎悪する人々は何者なのか そんな国で、あたかも75年の空白を破るかのように、突然、反ユダヤのプラカードが掲げられ、ユダヤ冒涜のシュプレヒコールが響き渡ったのだから、その衝撃は大きかった。当然のことながら、国中で一気にユダヤ議論に火がつき、まさにパンドラの箱の蓋が開いたかのようだった。 論点は複合的だ。最初の疑問は、デモで反ユダヤを叫んでいるアラブ系の人たちはいったい誰なのかということ。 アラブ人(イスラム教徒)とユダヤ人(ユダヤ教徒)は骨肉相食む仲だが、ドイツにはそのイスラム教徒が多く暮らす。例えば70年代に労働移民として入ったトルコ人や、内戦から逃れてきたレバノン人。その数は膨大ではあるが、しかし、彼らの多くはすでにドイツ国籍を取得し、今や4世が育つ。もちろん、2世以上は皆、ドイツで教育を受け、社会に根付いているため、今回の暴動の主役ではありえない。それどころか、彼らなしではもはやドイツ社会はまともに機能しないと言ってもよいほどだ』、「2世以上は皆、ドイツで教育を受け、社会に根付いているため、今回の暴動の主役ではありえない」、なるほど。
・『新たな反ユダヤ主義が持ち込まれている ところが、移民の中には、都会の一角に独自の生活を送る並行社会を形成し、全くドイツ社会に溶け込まない人たちもいる。 ドイツ人にはホロコーストの強いトラウマがあり、特に政治家は今でも、外国人に対して何らかの要請を行うことにひどく消極的だ。そのためドイツ政府は、何十年ものあいだドイツが移民受け入れ国であるということを認めず、外国人租界のようになった一角が犯罪の温床、あるいは、イスラム過激派の根城となっていっても目をつむった。反ユダヤ主義がそういう場所でしっかりと温存され続け、今の反ユダヤ主義の暴発につながっている可能性は確かにある。 それに加えてドイツには、2015年と2016年に受け入れた膨大な数の中東難民がいる。彼らが「ユダヤ憎悪」というアラブの常識を、おそらく無意識のまま、ドイツに持ち込んだことは疑いの余地がない。 当時、無制限受け入れを積極的に進めたのはメルケル首相だったが、これについては彼女自身が2018年、イスラエルのテレビ放送のインタビューに答えてこう語っている。 「私たちは、難民、およびアラブ系の人々を受け入れたことで、新しい現象に直面しています。それは、新しい形の反ユダヤ主義が、再び国内に持ち込まれたということです」』、「難民」「受け入れ」が「新しい形の反ユダヤ主義が、再び国内に持ち込まれた」、とは皮肉だ。
・『彼らの感情を利用し、暴発させたか 実際問題として、以来、ユダヤ人に対する嫌がらせや襲撃が急増し、それが頻繁に報じられるようになった。 ユダヤ人中央評議会のドイツ支部代表のシャルロッテ・クノブロッホ氏は、ミュンヘンの日刊紙Merkurのインタビュー(6月1日付)で、「反ユダヤ主義がこのような形で再燃するとは思ってもみなかった」と語り、このままではユダヤ系の人々がドイツでの将来の生活に対する信頼を失うことを警告した。実際、子育て中の若い家族の間で、イスラエルへの移住を考えたり、あるいは、すでに踏み切ったりするケースが増えているという。 ちなみに、1932年生まれのクノブロッホ氏はナチ時代の生き証人でもある。 これらの状況を総合すると、今回の暴力的なデモは、イスラム原理主義の拡大を目指す過激な組織が、中東紛争を利用し、さまざまなアラブ系の若者たちを引き込み、もともと、彼らの中に潜んでいた反ユダヤ感情を暴発させたものだという仮説が成り立つ。そうだとすると、その責任の一端は、長年、有効な移民政策を敷かなかったドイツ政府や、難民を無制限に入れたメルケル首相、それを支持した左派勢力やメディアにもあるのではないかということにもなる』、「「ドイツ政府」、「メルケル首相」、「左派勢力やメディア」にも「責任の一端」がある」、確かにそうした面があることは事実かも知れないが、「酷」過ぎる気もする。
・『ドイツ人の偏見度合いを調べると… それに加えて、今回の暴動は単にアラブ系の人たちだけの問題ではなく、実はドイツ国民の間にも、今なお根強い反ユダヤ主義が潜在しているのではないかという疑問も生んだ。これが事実だとすると、75年間、反ユダヤ主義の撲滅に励んできたはずのドイツ人にとっては、極めて深刻な事態だ。 5月18日、Die Welt紙のオンライン版に興味深い記事が載った。ユダヤ人の経済モラルについて、ドイツ人が偏見を持っているかどうかというテーマで、ドイツ人経済学者2人が行った調査結果だ。 調査は単純で、124人の被験者に次のような文章を示し、そのモラル度を問う。 「XYは1974年にミュンヘン生まれで、現在45歳。ミュンヘンのIT企業で中間管理職の一員として働く。叔母から5万ユーロの遺産を受け継ぎ、それを子供達の学費として活用するため、ドイツと米国の企業の株に投資した。株の選択は、自動車、薬品、鉱物資源を扱う企業に重点を置いた。今後、大きな市場の動きに対応するため、株の動きをスマホでフォローするつもりだ」というものだ』、何が問題なのだろう。
・『名前を変えたら見えてきた事実 何の変哲もない内容だが、ミソはXYの名前のところで、半分はユダヤ風の名前とし、残りの半分は典型的なドイツ風の名前とした。 その結果、ユダヤ風の名前に対しては、これはモラルを問われるべき行為、あるいは、非常にモラルを問われるべき行為であるという答えが34.8%で、ドイツ風の名前の場合は14.8%と、差が出た。 調査の精度を高めるため、ユダヤの名前の代わりに、英国やイタリアの名前を入れると、結果はドイツの名前と差がなかったという。 つまり、被験者はユダヤの名前に反応した可能性が高い。類似の研究は英国などでも行われており、やはり同様の結果だという。 これをドイツ人のユダヤ人に対する偏見と解釈すべきかどうかはさておくとして、ただ、ここでの問題は、ドイツ人の間では、たとえユダヤに対する偏見や反ユダヤの感情があったとしても、本人が一切気づいていない可能性が高いのではないかということだ。あるいは、気づいていても、理性で閾下いきかに押し込めている可能性だ』、「ドイツ人の間では、たとえユダヤに対する偏見や反ユダヤの感情があったとしても、本人が一切気づいていない可能性が高いのではないかということだ。あるいは、気づいていても、理性で閾下いきかに押し込めている可能性だ」、あり得そうだ。
・『ユダヤ問題も難民問題も自由に語れない ドイツ人は75年間、政治的にイスラエル擁護を貫いてきたし、その教育も徹底していた。だから現在も、アラブ系の人たちの暴発を見て、多くの人が心を痛め、イスラエル支援を掲げて立ち上がっている。 ただ一方で、ドイツ人の感情の中には、いわゆるパレスチナ難民の運命への同情も根強くあり、それどころか、軍事的に優位なイスラエルに対する反発さえ潜んでいるようにも感じる。つまり、イスラエルもパレスチナも多くの側面があるだけに、複雑なのだ。 ただ、今のドイツでは、ユダヤ問題はもとより、難民問題もなかなか自由には語れない。前者は政治的にタブーだし、後者に言及すると、すぐさま極右や国家主義者のレッテルを貼られる危険が大だ。しかも、ドイツ政界には今、反ユダヤ主義の台頭を封じ込めるため、罰則の強化を図ろうという動きが出ている。 せっかく75年間も掛かって築いてきた人道国家の評判を落としてはならぬと焦っているのはよく分かるが、罰則があれば、自由な議論までがこれまで以上に妨げられる可能性も出てくるのではないか。 本来ならこの問題の解決には、まずは新入りのアラブ系の人たちに、ドイツに留まりたければ反ユダヤ主義は許されないことを強く啓蒙し、さらには、国民全員に、過去の歴史やホロコーストなど、検証さえもタブーであった事柄についてのオープンな議論の場を設けることのほうが先決のような気がする』、「国民全員に、過去の歴史やホロコーストなど、検証さえもタブーであった事柄についてのオープンな議論の場を設けることのほうが先決」、もっともな気もするが、筆者が触れてないような根深い問題があるのかも知れない。
次に、10月15日付け現代ビジネスが掲載した在独作家の川口 マーン 惠美氏による「西ドイツの“成金都市”から東独の「歴史文化都市」に引っ越して感じたこと」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/88310?imp=0
・『2021年10月9日のライプツィヒ コロナのせいで日独の間の往来はもちろん、ドイツ国内の移動も不便になって、すでに1年半が過ぎた。私が旧東独のライプツィヒに越したのは今から2年余り前だが、せっかく素晴らしいドイツ東部の文化や風土を、まだ十分に堪能することができずにいる。 旅行に行こうにも、長いあいだホテルはビジネス客しか泊まれず、レストランも閉まっていた。オペラ座やコンサートホールも閉鎖が続き、ようやく開いたあとも小さい編成の、あまり知られていない演目ばかり掛かっていた。今、だんだんそれらが急速に元に戻り始めているのが嬉しい。 ちなみに、これまで休暇は外国で過ごすことの多かったドイツ人だが、現在、国内の観光地がブームになっている。たとえお隣のイタリアやフランスであっても、予期しないコロナ禍に巻き込まれる面倒は避けたいという防御反応が働いているのだ。ドイツには風光明媚な場所が多々あるので、皆、思いがけない「ドイツ再発見」に、結構満足しているようにも見える。 ライプツィヒ市はザクセン州に属し、ポーランドと国境を接している(ザクセン州の南部はチェコとも繋がっている)。東西ドイツの統一は1990年だが、これは統一というより、西による東の併合だった。 東の人が喜んだのは束の間で、あっという間に西の「占領軍」がやってきて、民間企業でも役所でも大学でも、長と名のつく役職は全て奪っていった。東の人々にしてみれば、不平等条約が横行するようなやりきれない思いだったと想像する。 以来すでに31年が過ぎたが、人口は東から西へとコンスタントに流れ続け、東の過疎と高齢化には今も歯止めがかからない。 東西を結ぶ鉄道網は、南北方向の路線に比べると貧弱だし、東の新しいアウトーバーンは交通量が少ないため、サービスエリアやガソリンスタンドの密度が低い。東で働いていた人と、西で働いていた人の年金には、今なお差があるし、人々の心のわだかまりも無くなったわけではない。 ところが、その旧東独の中で珍しく人口が増えているのがライプツィヒだ。現在の人口は60万5000人で、ザクセンの州都ドレスデンよりも5万人近く多い。出生率もV字回復中という元気な町である』、「これまで休暇は外国で過ごすことの多かったドイツ人だが、現在、国内の観光地がブームになっている・・・ドイツには風光明媚な場所が多々あるので、皆、思いがけない「ドイツ再発見」に、結構満足しているようにも見える」、「コロナ」のとんだ効用だ。
・『ドイツの中心は東にあった 私はここへ来る前、シュトゥットガルトに37年間も住んでいた。シュトゥットガルトというのは自動車の町で、ベンツとポルシェの本社がある。当然、その関連会社も山ほどあり、景気は良く、人々は自信満々。地価の高騰さえ自慢の一つだった。そして、西の人間の例に漏れず、たいてい東を少しだけ見下していた。 さて、そんな町に住み、漠然とドイツのことは知り尽くしているような気になっていた私だが、ライプツィヒに住み始めると、目から鱗ともいうべき新たな発見が多く、衝撃的だった。 まず、肌で感じたのが、そもそもドイツの中心は、東にあったのだという歴史的事実。その中でもライプツィヒは、学問、商業、芸術(特に音楽)、どれをとっても、まさにその頂点を極めた町で、その名残は、今も町のそこかしこに色濃く残っていた。 町の中心には、バッハが25年も音楽監督をしていたトーマス教会があり、当たり前のように礼拝やコンサートが行われていたし、通りがかった建物にさりげなく貼ってあるプレートを見ると、「クララ・シューマンの生家」などと書いてあった。 ライプツィヒ大学の入口ホールには、ここで教鞭を取ったり学んだりした人々、たとえば哲学者ライプニッツや、メビウスの輪で有名な数学者メビウス、ゲーテやニーチェなどの胸像がずらりと並んでいた。また、入り組んだ建物の間には、過去の瀟洒な商館を彷彿とさせるパッサージュと呼ばれるアーケードなどがそのまま残っていたりもした。 ライプツィヒはまた音楽のメッカでもあり、ここで音楽会を訪れると、シュトゥットガルトとは一風違った空気が漂っていた。人々は、ステータスを見せびらかすためではなく、音楽を聴くために粛々と集まってきた。 東独時代の40年間、西に比べて娯楽の少なかったこの国で、人々が愛し、守り続けた伝統が、今もなお頑固に受け継がれているように感じられた。今まで私が聞いていた音楽がデジタルなら、ライプツィヒはアナログで、人間の息遣いが残っているようだった。 市内の建物は、東独時代には煤けて見窄らしくなっていたに違いないが、今ではすっかり修復されて、有名なものも、そうでないものも威風堂々としている。そして、その建物と空気に、何世紀分もの歴史が澱のようにへばりついていた。 ライプツィヒに来て、私はようやく思い出した。戦前までのシュトゥットガルトは貧しい土地であったということを。ライプツィヒの長い栄華に比べれば、自動車産業やIT産業の勃興などつい最近の話だ。その西の人間が東を見下すとは、まるでお門違いだと思った。 東の人たちは寡黙なプライドを胸に秘めつつ、何も言わないけれど、ひょっとすると、心の中で西の成金ぶりに苦笑しているのではないか』、「戦前までのシュトゥットガルトは貧しい土地であった・・・ライプツィヒの長い栄華に比べれば、自動車産業やIT産業の勃興などつい最近の話だ。その西の人間が東を見下すとは、まるでお門違いだと思った」、歴史的な視点も確かに重要だ。
・『2年ぶりに開かれた「光の祭典」 1989年のベルリンの壁の崩壊を招いた国民運動は、ライプツィヒで始まった。町の中心にあるニコライ教会で、毎週月曜日に開かれていた集会は、最初は宗教のヴェールを被っていたが、そのうちに「外へ!」というスローガンとともに教会から飛び出した。ドイツ史に名を残すことになる「月曜デモ」である。 9月4日、デモの参加者は初めて1000人を超えたが、独裁国での政府に対する抗議集会であるから、当然、逮捕者が出た。しかし、人々は諦めず、25日には8000人、10月2日には1万5000人と、参加者は鰻登りに増えていった。 真の突破口となったのは10月9日だ。この日、参加者は一気に7万人に膨らんだ。当然、その情報は当局に筒抜けで、ホーネッカー書記長は警察に武力介入を命じていた。夜、サーチライトの光る中、集まった市民と武装警官隊の間には一触即発の緊張が張り詰めた。惨劇になってもおかしくないはずのところ、しかし、この夜、警官隊はホーネッカーの命令に従わなかった。市民が勝ったのだ。 この後、全東独で抵抗運動が炸裂し、ちょうど1ヶ月後にベルリンの壁が落ちる。東西ドイツの統一は、国民の力で民主主義を達成した無血革命と言われるが、中でもライプツィヒ市民の果たした役割は大きかった。 それを記念して、ここでは毎年10月9日の夜、「光の祭典」と名付けたイベントが催される。去年はコロナ禍で中止されたが、今年はそれを取り戻すかのようで、夜の帳が下りるころには、町はすごい数の人々で溢れた。あちこちで、小さなキャンドルを入れたプラスチックのカップを配っており、皆がその一点の光を手に暗い町をそぞろ歩く。ただそれだけで絵になる美しさだ。 今年のイベントは、密集を避けるために3ヵ所に分けられたが、オペラ座の前のアウグストゥス広場でのイベントが特に印象に残った。 広場の中心の櫓に設置された映写機から周りに向かって、何本かの光が放射線状に放たれている。そして、そこに用意されている長い柄のついた看板のような形のスクリーンを、集まった市民がそれぞれ自主的に手に取り、頭上に掲げて、映写機からの光の束を受ける。すると初めて、映写機から出ているその光が、それぞれのスクリーン上で像を結んだ。 映写されたのは、1989年の10月9日のデモの写真だった。モチーフは、デモの参加者の真剣な表情や、彼らが持ち寄った手作りのプラカードなど、当日の現場写真だ。そして広場中にBGMのように、デモのオリジナルの音声が響いていた。当時の悲痛な呼びかけや、人々のシュプレヒコールを聴きながら立っていると、あたかもデモの現場にいるような緊迫した臨場感に包まれた。 スクリーンは、何人かが協力して横並びにくっつけると、映し出される映像は細切れでなく、大きくなる。見知らぬ人たちのそんなさりげない共同作業が、無言のままにも、辺り一帯に心地よい連帯感を醸し出していた。スクリーンの持ち手は、しばらくするとそれを誰かにバトンタッチして去っていく。ただ、それだけなのに、なぜか感動した。 ライプツィヒでよく思う。私はドイツをまだまだ知らないと。これまでろくに旧東独を知らずにドイツを知っているつもりだったのは、恥ずかしいことだった。おそらく、ライプツィヒと、旧東独のその他の田舎の間にも、今の私が想像もつかないほどの大きな差があるのだろうと思う。 ある国を完全に知ることなど不可能だが、今、ライプツィヒのおかげで、しばらく忘れていたドイツに対する興味が再び蘇ってきている』、「ベルリンの壁の崩壊を招いた国民運動は、ライプツィヒで始まった」、「警官隊はホーネッカーの命令に従わなかった。市民が勝ったのだ」、初めて知った。「ある国を完全に知ることなど不可能だが、今、ライプツィヒのおかげで、しばらく忘れていたドイツに対する興味が再び蘇ってきている」、初心に戻ったとも考えられる。
第三に、9月30日付けNHK時論公論「メルケル首相の16年とドイツの行方」を紹介しよう。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/455003.html
・『「混乱・分裂か、不透明だが新しい始まりのチャンスだ」ドイツのメディアは今の状態をこう表現しています。メルケル政権の後継体制を決めるドイツの総選挙は、社会民主党が16年ぶりに第1党の座を奪還し、連立政権の樹立に向けて動き出しました。しかし、キリスト教民主社会同盟も政権維持をあきらめておらず、小政党の動向がカギを握っています。選挙の結果をふまえて新しい政権の見通しとメルケル首相の16年、そしてドイツの今後を考えます。 まず26日に投開票が行われた連邦議会・下院議員選挙の暫定結果です。 投票率はコロナ禍でも前回を上回りました。 ▼第1党は中道左派の社会民主党で、206議席を獲得。 ▼メルケル首相が所属する中道右派のキリスト教民主社会同盟は196議席にとどまりました。得票率は24.1%で結党以来最低です。 ▼緑の党と自由民主党はともに議席を増やしました。 2005年に第2党に転落して以来低迷が続いた社会民主党は、キリスト教民主社会同盟が保守層の支持を失い、議席を大きく減らしたことで第1党に復帰しました。 同じような状況は98年にもありました。キリスト教民主社会同盟はドイツ統一の立役者で4期16年首相を務めたコール氏のもとで大敗を喫し、社会民主党に政権を明け渡しました。安定志向が強く急激な変化を望まないドイツでも長期政権に飽き、政治の刷新を求める声がうねりのように高まっていたことを現地で取材していて感じました。 今回は新しい政治を求める声以上に国民に幅広い人気のあるメルケル氏の引退が大きく影響したといえそうです。ドイツは主要政党が首相候補を立てて争うため、政策より誰に国のかじ取りをまかせるかに注目が集まる傾向があります。キリスト教民主社会同盟の首相候補ラシェット氏は洪水の被災地で笑顔で談笑していた姿が報じられて批判を浴び失速。社会民主党のショルツ氏はライバルたちの自滅によりトップに浮上しました。財務相として手堅い手腕が評価されるショルツ氏がポスト・メルケルに一歩近づいたかたちです。とはいえ過半数には3党の連立が必要で、ラシェット氏も連立政権樹立をめざすと表明したためまだ予断を許しません』、「ドイツは主要政党が首相候補を立てて争うため、政策より誰に国のかじ取りをまかせるかに注目が集まる傾向があります」、面白い傾向だ。
・『考えられる連立の組み合わせは3通りあります。 ▼1つは社会民主党と緑の党、自由民主党の連立で、政党の色から赤緑黄色の「信号連立」と呼ばれます。▼一方、キリスト教民主社会同盟も緑の党、自由民主党との連立を目指しており、この場合は黒緑黄色で「ジャマイカ連立」と呼ばれます。緑の党は社会民主党に近く98年から7年間連立を組みました。自由民主党は政策が近いキリスト教民主社会同盟と何度も連立を組んできました。この2党がそろって2大政党のどちらにつくかで政権が決まります。▼3党の連立交渉が決裂した場合は、今と同じ2大政党による大連立の可能性も残されていますが、双方とも連立は望んでいません。ショルツ氏、ラシェット氏ともにクリスマスまでの政権発足をめざしていますが、3党の交渉は難航も予想されます。 新政権にはコロナ後の経済の立て直しとともに、メルケル政権が積み残した様々な課題が待ち構えています。 格差の是正とデジタル化の推進、それに気候変動対策などです。とくに気候変動対策は緑の党の連立入りが確実なだけにこれまで以上に重点が置かれることになります。 ドイツは2045年までの脱炭素社会実現をめざしていますが、緑の党は20年後の実現を掲げ、自由民主党は産業の競争力低下につながる政策には慎重です。また緑の党は富裕層への増税強化を求めているのに対し自由民主党は増税に反対しており、政策が大きく異なるこの2党がどう折り合いをつけるかが今後のカギです』、「信号連立」、「ジャマイカ連立」など政党を色で表すとは面白い。
・『メルケル首相は新政権発足までとどまりますが、なぜ16年もの長期政権を維持することができたのでしょうか。 メルケル氏はアメリカの雑誌フォーブスで、世界で最も影響力のある女性に10年連続1位に選ばれていますが、首相に就任した当初はここまで長期政権が続くと予想した人はほとんどいませんでした。メルケル氏は旧西ドイツで生まれた直後に牧師をしていた父親の仕事で旧東ドイツに移り住みました。1990年の東西ドイツ統一後初めて行われた選挙で、当時のコール首相に見いだされて初当選を果たし閣僚のポストを得ました。 2000年には闇献金疑惑で辞任した党首の後を継ぎましたが、党内の基盤はなく、カトリック教徒の党員が多い中プロテスタントで旧東ドイツ出身の女性政治家という当時としては異色の存在でした。取材でもごく普通の地味な政治家という印象を持ちましたが、2005年の選挙で勝利し、ドイツ初の女性首相に就任しました。 当初は大きな期待もなかったメルケル氏が、国民から「ムティー」、お母さんと呼ばれ、ヨーロッパを代表する指導者にまでなったのは、安定感があり何事にも冷静で柔軟に対応する能力があるためだと言われます。その1例が脱原発です。首相就任後、産業界の要請を受けてシュレーダー前政権が決めた原発の全廃を見直し、稼働延長を打ち出しましたが、東京電力福島第一原発事故を受けて、「2022年までの原発廃止」に転じました。科学者としての冷静な目と臨機応変な判断に基づくものでした。金融危機やコロナ禍では危機管理能力の高さを示しました。 一方で同性婚の容認や徴兵制の廃止、それに多数の難民受け入れなど保守政党ながらリベラルで人道主義に基づく政策を進め、伝統的な保守層の支持を失いました。また、対中政策で人権問題に目をつぶり経済関係を優先したように現実的な面も持ちあわせています。恩人であるコール氏をはじめ党内のライバルを次々と蹴落としてトップの座を射止めた冷徹さも兼ね備えています。それが後継者が育たず、政権を明け渡すことにつながったのかもしれません』、「当初は大きな期待もなかったメルケル氏が、国民から「ムティー」、お母さんと呼ばれ、ヨーロッパを代表する指導者にまでなったのは、安定感があり何事にも冷静で柔軟に対応する能力があるためだと言われます」、「首相就任後、産業界の要請を受けてシュレーダー前政権が決めた原発の全廃を見直し、稼働延長を打ち出しましたが、東京電力福島第一原発事故を受けて、「2022年までの原発廃止」に転じました。科学者としての冷静な目と臨機応変な判断に基づくものでした」、「原発廃止」から「稼働延長」にしたのを、再び「原発廃止」にしたというのも、「科学者としての冷静な目と臨機応変な判断」は大したものだ。
・『では、メルケル後のドイツはどこへ向かうのでしょうか。 アメリカは内向き志向を強め、代わって中国が台頭、フランスやイギリスは影響力が低下しました。世界は多極化が進み、欧米ではポピュリズムが広がり民主主義の危機が叫ばれてきました。そうした中でメルケル首相は、自由と民主主義、法の支配の堅持を訴え、トランプ前大統領にもひるまずモノを言い続けました。ヨーロッパがユーロ危機などを乗り越え、結束を保ってきたのもメルケル氏の存在があったからだと言われます。 誰が次のリーダーになるにせよ、ヨーロッパをまとめることができるか、また、民主主義と多国間主義の守り手として各国指導者とわたりあうことができるか、手腕が問われることになります。ヨーロッパもまたドイツの強いリーダーシップを求めています。さらにドイツは近年中国への過度の依存を見直してインド太平洋地域に目を向け、日本などとの関係を重視する姿勢に転じました。この路線は変わらないと見られますが、対中国・ロシア関係をめぐっては中ロに近い社会民主党と人権重視の緑の党の対立も予想されます。 ドイツは来年G7の議長国です。政治空白の長期化は許されず1日も早く政権を発足させてほしいと思います。日本としてもアメリカ一辺倒ではなくドイツを要とするヨーロッパとの経済、安全保障をはじめ幅広い分野での関係強化に向けて、新政権が生まれるこの機会が絶好のチャンスだと思います』、「メルケル後のドイツはどこへ向かう」のか、冷静なドイツ国民の良識に期待したい。
タグ:ドイツ (その4)(「タブー視してきたツケか」ドイツで"ユダヤ人憎悪"のデモが広がる厄介な理由 「移民受け入れ」を進めてきた副作用、西ドイツの“成金都市”から東独の「歴史文化都市」に引っ越して感じたこと、メルケル首相の16年とドイツの行方) PRESIDENT ONLINE 川口 マーン 惠美 「「タブー視してきたツケか」ドイツで"ユダヤ人憎悪"のデモが広がる厄介な理由 「移民受け入れ」を進めてきた副作用」 「外交においては、時にこういう象徴的な、危険をも顧みないで駆けつけたといったようなポーズが重要な意味を持つ」、その通りだが、日本の政治家には無理だろう。 「ベルリンの反イスラエルデモ」は暴動に近いようだ。 「2世以上は皆、ドイツで教育を受け、社会に根付いているため、今回の暴動の主役ではありえない」、なるほど。 「難民」「受け入れ」が「新しい形の反ユダヤ主義が、再び国内に持ち込まれた」、とは皮肉だ。 「「ドイツ政府」、「メルケル首相」、「左派勢力やメディア」にも「責任の一端」がある」、確かにそうした面があることは事実かも知れないが、「酷」過ぎる気もする。 何が問題なのだろう。 「ドイツ人の間では、たとえユダヤに対する偏見や反ユダヤの感情があったとしても、本人が一切気づいていない可能性が高いのではないかということだ。あるいは、気づいていても、理性で閾下いきかに押し込めている可能性だ」、あり得そうだ。 「国民全員に、過去の歴史やホロコーストなど、検証さえもタブーであった事柄についてのオープンな議論の場を設けることのほうが先決」、もっともな気もするが、筆者が触れてないような根深い問題があるのかも知れない。 現代ビジネス 「西ドイツの“成金都市”から東独の「歴史文化都市」に引っ越して感じたこと」 「これまで休暇は外国で過ごすことの多かったドイツ人だが、現在、国内の観光地がブームになっている・・・ドイツには風光明媚な場所が多々あるので、皆、思いがけない「ドイツ再発見」に、結構満足しているようにも見える」、「コロナ」のとんだ効用だ。 「戦前までのシュトゥットガルトは貧しい土地であった・・・ライプツィヒの長い栄華に比べれば、自動車産業やIT産業の勃興などつい最近の話だ。その西の人間が東を見下すとは、まるでお門違いだと思った」、歴史的な視点も確かに重要だ。 「ベルリンの壁の崩壊を招いた国民運動は、ライプツィヒで始まった」、「警官隊はホーネッカーの命令に従わなかった。市民が勝ったのだ」、初めて知った。「ある国を完全に知ることなど不可能だが、今、ライプツィヒのおかげで、しばらく忘れていたドイツに対する興味が再び蘇ってきている」、初心に戻ったとも考えられる。 NHK時論公論 「メルケル首相の16年とドイツの行方」 「ドイツは主要政党が首相候補を立てて争うため、政策より誰に国のかじ取りをまかせるかに注目が集まる傾向があります」、面白い傾向だ。 「信号連立」、「ジャマイカ連立」など政党を色で表すとは面白い。 「当初は大きな期待もなかったメルケル氏が、国民から「ムティー」、お母さんと呼ばれ、ヨーロッパを代表する指導者にまでなったのは、安定感があり何事にも冷静で柔軟に対応する能力があるためだと言われます」、「首相就任後、産業界の要請を受けてシュレーダー前政権が決めた原発の全廃を見直し、稼働延長を打ち出しましたが、東京電力福島第一原発事故を受けて、「2022年までの原発廃止」に転じました。科学者としての冷静な目と臨機応変な判断に基づくものでした」、「原発廃止」から「稼働延長」にしたのを、再び「原発廃止」にしたという 「メルケル後のドイツはどこへ向かう」のか、冷静なドイツ国民の良識に期待したい。
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