SSブログ

資本主義(その7)(「分配政策」だけでは 「20年後の生活水準」がいまより2割低下する 日本に必要なのは相当な生産性向上政策、岸田首相の「新しい資本主義」がキモいとしか言えないこれだけの理由、「新しい資本主義」は「新しいバブル」にすぎない 「中間層」を増やすことは本当に可能なのか?) [経済]

資本主義については、9月19日に取上げたばかりだが、今日は、(その7)(「分配政策」だけでは 「20年後の生活水準」がいまより2割低下する 日本に必要なのは相当な生産性向上政策、岸田首相の「新しい資本主義」がキモいとしか言えないこれだけの理由、「新しい資本主義」は「新しいバブル」にすぎない 「中間層」を増やすことは本当に可能なのか?)である。

先ずは、10月17日付け現代ビジネスが掲載した一橋大学名誉教授の野口 悠紀雄氏による「「分配政策」だけでは、「20年後の生活水準」がいまより2割低下する 日本に必要なのは相当な生産性向上政策」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/88257?imp=0
・『高齢化が進展する中で適切な再分配を行うためには、就業者1人当たりの生産物が増えなければならない。日本では、過去20年間以上にわたって1人当たり実質賃金が増えていないので、これは容易ならざる課題だ。賃金のこれまでの傾向が続けば、再分配後の1人当たり所得は、現状より2割ほど減ってしまう。だから、分配政策とともに、強力な成長戦略がどうしても必要だ』、「賃金のこれまでの傾向が続けば、再分配後の1人当たり所得は、現状より2割ほど減ってしまう」、とは大変だ。
・『再分配のためには元手が必要  岸田文雄内閣は、「分配なくして成長なし」としている。 分配問題は確かに重要だ。経済が成長してもその成果にあずかれない人が大勢いる。コロナ禍では、株価が上昇して資産層が裕福になったにもかかわらず、収入の途を絶たれた人がたくさん生じた。分配問題の重要性は、これまでになく重要になった。 しかし、再分配するためには、元手が必要だ。分配をいかに適正化したところで、全体のパイが自動的に増えるわけではない。元手が増えなければ、貧しさを分かち合うことになってしまう。 日本の場合には、人口の高齢化によって働く人の数が減るので、再分配をする元手が減る危険が高い。そうなると、仮にそれらが適正に再分配されたとしても、1人当たりの所得が減少してしまうのだ。 以下では、この問題を定量的に検討することにしよう。 ここでの基本的な想定は、就業者が働き、その一部が税や社会保険料の形で徴収され、それが給付金や社会保障給付の形で再分配されるということだ。所得再分配はさまざまな形で行われているが、額的に最も大きいのは、財政制度を通じるこのような再分配だ。 なお、年金は、受給者が過去に積み立てた保険料で支払われているように見えるが、実際には、その年々の生産物が財政制度を通じて再分配されている』、なるほど。
・『高齢化のため就業者人口が減って従属人口が増える  日本の高齢化は今後も続く。そして、2040年ごろにピークに達する。この時期を乗り越えられるかどうかが、大きな問題だ。 国立社会保障・人口問題研究所の推計(中位推計)によると、2020年と2040年の人口の状況はつぎのとおりだ。 ・総人口は、12533万人から11092万人へと、0.885倍になる。 ・15~64歳人口は、7406万人から5978万人へと0.807倍になる。 簡単化のため、15歳から64歳までの人口の中で就業者となる人の比率は、現在と変らないものとしよう。そして、0歳から15歳、および65歳以上の人口は働かないものとする(この年齢階層の人口を「従属人口」とよぶ)。 すると、就業者数は2020年の80.7%に減少することになる』、なるほど。
・『労働生産性が20年間で9.7%成長しなければならない  以上を前提すると、次の結論がえられる。 2040年における再分配後の1人当たり所得を2020年と同額にするためには、2040年における就業者1人当たりの所得が、2020年より9.7%ほど増加しなくてはならない。つまり、再分配後の所得で現状を維持するだけのためにも、かなりの高成長を実現しなければならないのだ。 こうした結果になるのは、つぎのように考えれば分かるだろう。 2040年を 2020年と比べると、総人口は、0.885倍になるので、総所得が0.885倍になる。他方、就業者は前述のように0.807倍になる。だから、就業者1人当たりの生産額は、0.885÷0.807=1.097倍にならなければならない。つまり、現在より9.7%ほど増えなければならない。分配率が変わらないとすれば、実質賃金が9.7%上昇しなければならない』、あくまで逆算だが、そうなのだろう。
・『過去20年間の実質賃金減少トレンドを一変させる必要  では、実質賃金をこのように上昇させることが可能だろうか? 毎月勤労統計調査によると、実質賃金指数(現金給与総額、5人以上の事業所)は、2000年の113.3から2020年の98.8まで、12.8%ほど下落している。 これとは別に、法人企業統計と消費者物価指数から計算すると、1995年度から2020年度の期間で11.2%ほど下落している。 これらを考慮すると、上述のように実質賃金を今後20年間で9.7%引上げるのは、かなり大変なことだと言わざるを得ない。 現在の状況が続けば今後も実質賃金が下落する可能性が高いので、それを一変させるために、これまでとは異なる強力な成長戦略を実施する必要がある。 そうしないかぎり、いかに分配を適正化したところで、「貧しさを分かち合う」という結果になってしまうのだ』、「これまでとは異なる強力な成長戦略を実施」、「しないかぎり、いかに分配を適正化したところで、「貧しさを分かち合う」という結果になってしまう」、その通りのようだ。
・『実質賃金が増えないと1人当たり所得は約9%減少する  では、実質賃金が今後も伸びないとすれば、どうなるだろうか? その場合には、国民1人あたりの再分配後の所得は、現在より8.8%減少する。 こうした結果になるのは、つぎのように考えれば理解できるだろう。 2040年を2020年と比べると、就業者人口は0.807倍になるのだから、総生産額は0.807倍になる。他方、総人口は0.885倍になる。だから1人あたりの分配後所得は、0.807÷0.885=0.912になる。 つまり、約9%減少する』、働き手が減っても、労働生産性が上がれば、「実質賃金」も上がり易くなるのではなかろうか。
・『成長政策をとらなければ生活水準が2割低下する  就業者の場合、実質賃金は不変なのだが、税・社会保険料が引上げられ、手取りがいまより約9%ほど減ってしまうのだ。 一方、再分配を受ける側では、年金や医療費がいまより約9%減らされることになる。 つまり、再分配のための財源措置が今より強化されるにもかかわらず、再分配された効果は現在よりも小さくなるのだ。 以上は実質賃金がいまと不変の場合だが、今後減少することも十分ありうる。そうであれば、再分配後の所得がもっと減る。 上に見た毎月勤労統計調査による実質賃金指数の下落傾向が、今後も続くとしよう、つまり、20年間で生産性が0.872倍になるとしよう。 その場合に 2040年を2020年と比べると、就業者人口は0.807倍になり、生産性が0.872倍になるのだから、総生産額は0.704倍になる。他方、総人口は0.885倍になる。だから1人あたりの分配後所得は、0.704÷0.885=0.795になる。つまり、現在より2割ほど低下するのだ。 生活水準がいまの8割に低下して、「等しからざるを憂えず」と言っていられるだろうか? 国民の不満は高まるのではないだろうか? なお、以上では再分配はすべての年齢層に対して行なうものとした。実際の再分配政策は、就業者から退職後の人口に対してなされるものが多い。これに関しては、より少ない就業者でより多い高齢者を賄わなければならなくなるので、結論は上記よりも厳しくなる』、「1人あたりの分配後所得は、・・・つまり、現在より2割ほど低下するのだ・・・「等しからざるを憂えず」と言っていられるだろうか? 国民の不満は高まるのではないだろうか」、確かに不満が高まらざるを得ないだろう。
・『人口ボーナス期の社会保障制度が重荷になっている  日本が直面している事態の本質は、就業人口の減少率が人口全体の減少率よりも高いことである。これは、「人口オーナス」と呼ばれる現象だ。このために、再分配政策を行なっても、その効果が弱まってしまう。 就業人口の増加率が人口全体の増加率より高い場合には、これとはちょうど逆のことが起きる。これは、「人口ボーナス」と呼ばれる現象である。 日本の高度成長期は人口ボーナス期であった。そして、高度成長期の終わりに、「福祉元年」の掛け声で、社会保障制度が大幅かつ安易に拡大された。その制度がいま重荷になっている。 人口オーナス期に必要とされるのは、まず第1に、人口ボーナス期に作られた再分配制度を見直すことだ。さらに、再分配と同時に、強力な成長政策を実施することだ』、「人口ボーナス期に作られた再分配制度を見直すこと・・・再分配と同時に、強力な成長政策を実施すること」、急務だ。
・『分配政策の柱である金融所得課税から早くも撤退  「分配なければ成長なし」は魅力的なキャッチフレーズだ。しかし、以上で見たように、分配政策だけでは十分ではない。分配政策とともに、強力な生産性向上政策がどうしても必要だ。 現実には、実効性のある成長戦略を打ち出せないないのを隠蔽するために、分配が強調される危険がある。 一方で、分配政策の実効も難しい。金融資産所得への課税強化は分配政策の柱になるもので、岸田首相の総裁選では、この実現を掲げていた。しかし、早くもこれからの撤退を表明した。 したがって、分配問題も解決できず、成長もできないという結果に陥りかねない』、「金融所得課税」を強化しようとすれば、株価下落が不可避になるので、「岸田首相」も結局、断念したようだ。

次に、10月20日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員の山崎 元氏による「岸田首相の「新しい資本主義」がキモいとしか言えないこれだけの理由」を紹介しよう。
・『岸田文雄首相が、自由民主党総裁選の選挙戦中から掲げるキャッチフレーズである「新しい資本主義」が、なんとも「気持ち悪い」。心情としては「キモい!」と叫びたいくらいだ。筆者がそう感じるさまざまな理由をお伝えしたい』、興味深そうだ。
・『岸田首相の得体が知れない思い込み 日本に「新自由主義」のレッテル貼り  いい年をした書き手(筆者自身のことだ)が、記事の文章で「キモい!」というカジュアルな言葉を使うのはいかがなものかとも思う。であるのだが、岸田文雄首相が掲げる「新しい資本主義」に対する気持ち悪さは、「気持ちが悪く思えます」といったゆっくりしたテンポではなく、「キモい!」と、最短の秒数でこの気味の悪さを伝えたい。 気持ちの悪さには複数の要因があるのだが、一番不気味なのは、「新しい資本主義」という言葉を唱えている本人が、その内容を分かっていないのではないかと思われることだ。しかも、その当の人物が、わが国の首相なのだ。国民は不安になる。 岸田氏は、新しい資本主義について、さまざまに表現してきたが、まず、言っていることが意味不明だし、次には、言っている内容がブレている。つまりは、何をしようとしているのかが分からない。しかし、やみくもに何かを変えようとしている。 岸田氏は、例えば、「新自由主義からの転換」という言葉を使った。しかし、日本はいつ新自由主義になったのか。「転換」という言葉を使うからには、彼の認識では、現状は新自由主義なのだろう。 しかし、たかだか郵政民営化くらいのプロジェクトが中途で挫折してぐずぐずになるような、利権維持と非効率性の中で漂うこの国の一体どこが新自由主義なのか。電波オークションもなければ、農地の株式会社保有さえ実現しない。 このような日本に「新自由主義」というレッテル貼りをして、意見を言ったような気分になることができる精神構造を、不気味だと思わないことは難しい。しかも、彼は左派政党の党首ではなくて、自由民主党の総裁なのだ』、「岸田氏」は安部・菅時代を通じて長いこと考える時間があった割には、考えに深みを感じさせず、幻滅した。
・『「新しい資本主義実現会議」は中身がないと断言できる根拠  岸田氏が、「新しい資本主義」について確たる具体的な内容を持っていなかったことは、「新しい資本主義実現会議」という何とも奇妙な有識者会議が、総選挙を前にした内閣府の下に設立されたことに如実に表れている。 内閣府が10月15日に発表した文書を見ると、会議の開催について、「新しい資本主義実現本部の下、『成長と分配の好循環』と『コロナ後の新しい社会の開拓』をコンセプトとした新しい資本主義を実現していくため、それに向けたビジョンを示し、その具体化を進めるため、新しい資本主義実現会議を開催する」とある。 中身が何もないので、「それに向けたビジョン」などという、この種の文章としては世にも情けない言葉を使う以外に書きようがなかったのだろう』、「中身が何もないので、「それに向けたビジョン」などという、この種の文章としては世にも情けない言葉を使う以外に書きようがなかったのだろう」、鋭い読みだ。
・『成長と分配の好循環を「これから検討」 それでは絶望的に中身がない  そもそも、「新しい資本主義」などという偉そうな言葉を使う以上、そのビジョンは言っている本人が明確に提示して方向性を示すべきだ。「成長と分配の好循環」にも「コロナ後の新しい社会の開拓」にも、願望はあっても中身がない。 「成長と分配の好循環」は与党も野党も望んでいることであり、「どう実現しようとするのか」を論じる以外にお互いを区別するポイントはない。それをこれから有識者会議で検討しようというのだから、岸田首相自身には絶望的なまでに中身がない。 また、今後の社会が、「コロナが起こってからの社会」であることは間違いないのだが、「新しい社会の開拓」とだけ言われても、現状の社会を否定する意味しかない。 会議に参加する有識者さんたちは、推察するに「何かお役に立てたらいい」というくらいの善意から参加されるのだろうが、会議自体が時間と手間の無駄になるだろうと予想する。有識者さんたちにとって指名を受けたことは不名誉ではないだろうから、会議自体の存在はいいとするとしよう。 それにしても(この種の会議の出席謝礼は極めて安いので、お金はそれほど無駄になってはいまい)、サラリーマンの立場から推察して何とも気の毒でならないのは、会議の事務局を務める官僚さんたちだ。このような無意味な会議の成果をどのように着地させるといいのか、想像しただけで目が回りそうになる』、「新しい資本主義実現会議」の事務局の官僚もなんとか格好をつけないといけないので、ご苦労なことだ。
・『財務次官の「バラマキ合戦」批判で緊縮財政へ傾斜しないかが当面の心配  岸田氏が中身を十分把握せずに、思いつきか言葉の勢いで「新しい資本主義」という言葉を唱えたことは、まあいいとしよう。わが国の政治家にはよくあることだ。岸田氏の症状はかなり重いとは思うが、「ネクタイを締めた、しゃべる空箱」のような政治家は与野党を問わず少なくない。 気持ちが悪いのは、「新しい資本主義」を唱える岸田氏が、現状の経済政策の何を変えようとしているのかが分からないことだ。少なくとも何かを変えなければ「新しい」とは言えないのだから、彼は何かをしようとしているらしい。 首相就任前に強調していた金融所得課税の見直し(=税率引き上げ)は、一転して当面封印するようだ。封印自体は結果的に正しいのだが、これだけ簡単に意見が変わると有権者は、衆議院選挙で岸田総裁の自民党に何を期待して投票したらいいのかが分からなくなる。 当面の心配は緊縮財政への傾斜だ。次の衆議院選挙を経ても、おそらく岸田氏が首相だろうが、政治家が掲げる政策を「バラマキ合戦」と批判した財務官僚のような人に感化されて、プライマリーバランス(基礎的財政収支)の目標にこだわるような愚策に陥ることが心配だ。 何が「新自由主義」なのかも、たぶん「資本主義」が何のことなのかも分かっていない首相が、立派に聞こえる言葉の響きだけで「プライマリーバランス」や「財政再建」に共感する心配が大いにある。しかし、これらは、現在こだわるべき概念ではない』、確かに元財務大臣だけに、「「プライマリーバランス」や「財政再建」に共感する」可能性もある。
・『岸田首相への最大の不安は金融政策 23年の日銀正副総裁の人事は心もとない  もっと大きな心配は、金融政策に対する影響だ。岸田首相が、これまでの日本銀行の金融緩和政策を「古い資本主義」だと認識して、変えようとする心配がある。2023年の3月に予定されている日銀の正副総裁の人事を、資本主義の何たるかを分かっていない岸田首相が、「人の話をよく聞いて」、つまり周囲の誰かに影響されて決めるのだとすると、何とも心もとない。 中身がないのに「新しい何々」と言いたがることの他に、「人の話を聞くのが得意だ」と自称する性格的特性も国民を不安にさせる。他人に影響されやすいということだからだ。岸田氏は、リーダーには最も不向きなキャラクターなのではないだろうか。 ただし、岸田首相に対する不安と同時に、野党に対する心配も述べておくのがフェアだろう。例えば、岸田氏が捨てた金融所得課税の見直し(=税率引き上げ)を、いまだに格差対策の政策として掲げる立憲民主党には、岸田氏の「新しい資本主義」の気持ち悪さとはまた別の、「反資本主義」の不気味さがある』、「「人の話を聞くのが得意だ」と自称する性格的特性も国民を不安にさせる」、同感である。
・『与野党の党首討論会で考える「バラマキ合戦」の優劣  衆議院選挙の日程が決まり、各党の経済政策が発表されている。財務次官が「バラマキ合戦」と呼ぶ部分について、18日に日本記者クラブで行われた各党党首の討論会をベースに整理すると、以下の通りだ(「日本経済新聞」10月19日朝刊を参照)。 ・自民党:数十兆円の対策とだけ言っていて、何に使うのかを提示しない ・公明党:高校3年生までの子どもに10万円の給付を行うと言っている ・立憲民主党:1000万円程度までの所得の人への所得税免除と、低所得者への12万円給付、加えて消費税率の時限的な5%への引き下げ ・共産党:減収した人に10万円の給付と、消費税率の5%への引き下げ ・日本維新の会:消費税率を2年間を目安に5%へ引き下げと、年金保険料をゼロに ・国民民主党:一律10万円の給付と、低所得者には追加で10万円の現金給付。さらに経済回復まで消費税率を5%に ・れいわ新選組:消費税廃止と毎月一人20万円給付 ・社民党:3年間消費税ゼロと10万円の特別給付金 ・NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で(NHK党):10万円以上相当の期限付き電子マネーの給付) まず岸田氏の自民党は、政権党だけに言質を与えたくないということなのかもしれないが、具体案を示さないのはよくない。これで首相が岸田氏では、心配かつ不気味だ。 野党各党が主張する現金給付については、所得制限を設けようとすると手間が掛かるし、国民の経済行動がゆがむ(例えば一時的に所得を抑えようとするなど)副作用がある点に注意が必要だ。 また給付金は、生活への支援や国民の安心感の上でも、1回限りのものよりも継続的に効果のある形のものがいい』、その通りだ。
・『日本維新の会が挙げた「年金保険料の無料化」を推す理由  最も筋が良いと思うのは、日本維新の会が挙げた、年金保険料の無料化だ(基礎年金部分の完全税負担化という意味だろう)。富の再分配効果と行政効率化(例えば、国民年金保険料の徴収が要らなくなる)の効果が大きい。低所得者・現役世代への効果が大きく、所得税率の高い人への効果が小さいし、将来はこの財源となる税金の負担を通じて、それなりに大きな「再分配」の流れができる。 増税には、超富裕層に対する所得税の累進税率の引き上げと、広く薄く課税するような資産課税の強化がいい。投資の利益への課税を狙った金融所得課税の見直しは、リスクマネー供給を阻害するのでよくない。 なお、国民年金保険料のような「一律の負担」が低所得者に厳しく、極めて逆進的であることの解決には、財源を税金にすることが優れている。この点では、NHK党あたりがNHK受信料の税負担化を主張しないのは少し不思議だ。 もっとも、低所得層でテレビを持たなかったり、受信料は不払いだったりする人が多ければ、「再分配」の効果はそれほど大きくないかもしれない。それでも、受信料徴収のコストが回避できて、国民の費用負担がより公平になる(税制全体が公平だとして)ことの効果は小さくあるまい。 野党が足並みをそろえつつある消費税率の引き下げは、それ自体の効果として悪くない。ただ、時限的なものだと税率変更を巡る買い控えや消費の集中など、税率変更の際に起こる混乱が気になる。 筆者なら、消費税率はそのままに、基礎年金を全額国庫負担にする方を採りたい。再分配の効果が大きいし、世の中の事務作業が増える消費税率の変更よりも、公的年金にかける手間が減る点で「年金保険料ゼロ」はいい。 岸田首相に、「良いバラマキ」と「悪いバラマキ」を見分ける眼力があるとは思えないが、経済政策の中身はどの道まだ決まっていないのだろうから、「年金保険料ゼロ」をぜひお勧めしたい』、私は「維新の会」は嫌いだが、この「年金保険料の無料化」は確かにいい政策だ。

第三に、10月31日付け東洋経済オンラインが掲載した財務省出身で 慶應義塾大学大学院准教授の小幡 績氏による「「新しい資本主義」は「新しいバブル」にすぎない 「中間層」を増やすことは本当に可能なのか?」を紹介しよう。
・『「新しい資本主義」は岸田文雄政権の経済政策のキャッチコピーで、これまでの経済財政諮問会議に代わって、新しい資本主義実現会議がスタートしたようだ』、興味深そうだ。
・『「新しい」とは何を意味するのか?  もちろん、中身は新しくも何もない。「成長を実現し、それを分配する」ということにすぎない。これまで、すべての政権の成長戦略が成長を実現したことはないから、成長から分配という戦略であれば、成長が政策的な戦略では実現できないから、今回も何も起きるはずがない。 しかし、そんなわかりきったことをいまさら批判するほど私もヒマではない。問題は、キャッチコピーが、GDPと株価から「新しい」資本主義に変わったことだ。つまり、時代は、今までと違う資本主義を求めているということが、政治家にすら伝わってきた、ということであり、いよいよ社会は、資本主義から次の「新しい」時代に向かっている、向かいたいと思っている、ということを示しているのである。 この「新しい」とは何を意味するのか? 岸田政権の政治的な主張は、新自由主義からの決別ということらしいが、そもそも新自由主義という言葉自体が政治的で、学問的にも経済的にも何の意味もない。要は「今までの利益、株価一辺倒から社会、環境とのバランスを重視した経営への移行、競争至上主義から長期的な持続性重視への緩やかな移行」ということだ。 つまり、新しい資本主義とは、ESG、SDGsと実質的には同じことであり、それに格差問題への対応で分配を重視するという政治的なテイストをまぶしたものである。 リーマンショック以後の、強欲資本主義批判は、ウォールストリートとメインストリートの格差、トマ・ピケティの格差拡大批判と、格差攻撃に向かっていたのだが、それがここ5年は急激に環境・持続可能性という方向に舵が切られている。格差といまだに騒いでいるのは、日本ぐらいで、こちらも格差是正と言いながら、欧米のように富裕層から奪ってくるのではなく、分厚い中間層を作り、経済成長を取り戻す、という方向で議論されている。これらのことは何を意味するのだろうか? それは、また「新しい」バブルが始まったのである』、「また「新しい」バブルが始まった」、とはどういうことだろう。
・『新たな「ESG、SDGsバブル」の始まり  リーマンショックで世界金融バブルが崩壊したが、その処理を先送りするために「量的金融緩和バブル」が世界中の金融市場を覆った。これが崩壊しそうになったときに、コロナショックが起き、世界的に限界を超えた金融緩和が行われた。さらに前代未聞の財政出動が行われ、コロナショックバブルが起きた。 このバブルが崩壊するのも時間の問題になった。そしてついに財政破綻から、1990年の社会主義諸国の市場経済化により始まった中期的なバブルにおける短期的なバブルの連鎖も持続不可能になり、バブルの大崩壊になることが確実になってきた。そこへ、最後のあがき、として、これまでの資本主義を否定するかのようにみせかけて、資本主義を延命させようとしたバブルが登場したのである。それがESG、SDGsバブルである。 これまでの資本主義は限界を迎えた。しかし、それを捨てることはできないから、修正を行い持続可能にすることにした。それがESG、SDGsである。実質的には延命にすぎないが、名目的には持続可能な資本主義に修正して、永続的な資本主義の発展を目指すということである。 しかし、それは論理的にも現実的にも不可能だ。なぜか。 環境問題、資源問題の制約に直面してしまったため、脱炭素ということになっているが、炭素は最も効率的であったから使ってきたのであって、すぐに他の資源の制約に直面する。これがすでに直面している現実的な問題である。 水素を作るには電力を大量に必要とする。しかし、火力抜きの電力は世界的に不足している。エネルギー効率は悪い。だから、すぐに水素はうまくいかなくなる。太陽光というのも非常に効率の悪いシステムで、そもそも資源を大量に消費し、パネルを設置し、その接地面の土地は生態系的には有効に利用されない。しかも、そのパネルは持続性がないから、大量の廃棄物が出る。これをフィルムに置き換える技術が生まれているが、それでも資源効率、エネルギー効率は悪い。温暖化対策の決め手、避けては通れないのは、電力消費量を世界で大幅に削減することである。電力を生み出すために資源と環境に負担をかけているのだから、その根源である電力消費を激減させなければ問題は解決しようがない。本当は日本の出番だが、世界は日本を無視し、電力消費削減の必要性は軽視する。なぜか。 それは、資本主義にとって都合が悪いからである。 電力消費を減らすということは、経済拡大を犠牲にするということである。しかも、スマホ、コンピューター駆使の社会で、電力消費は増える一方である。世界中の眠らないサーバーで、電力は世界中で24時間365日大量に消費されている。電力消費総量の大幅削減は、経済の拡大を確実に抑制する。だから、それは避けるのである。 脱炭素で別のエネルギーになるのであれば、経済拡大は止まることはない。さらに、あわよくばもうけのチャンスになる。新エネルギーのためには大規模な投資が必要だから、これは、経済規模大幅拡大につながる。そこで、こぞって新エネルギーを持てはやし、現実のエネルギー効率はないがしろにされているのである。そして、この流れが生まれてしまえば、四の五の言わず、この流れに乗ったもの勝ちだ。だから我先にと、このマーケットに殺到している』、「最後のあがき、として、これまでの資本主義を否定するかのようにみせかけて、資本主義を延命させようとしたバブルが登場したのである。それがESG、SDGsバブルである」、確かにその通りだ。「電力消費総量の大幅削減は、経済の拡大を確実に抑制する。だから、それは避けるのである。 脱炭素で別のエネルギーになるのであれば、経済拡大は止まることはない。さらに、あわよくばもうけのチャンスになる。新エネルギーのためには大規模な投資が必要だから、これは、経済規模大幅拡大につながる。そこで、こぞって新エネルギーを持てはやし、現実のエネルギー効率はないがしろにされているのである」、なるほど。
・『「ブレーキ」VS「アクセル」のせめぎ合いが10年続く  これはどこかで見た景色だ。そう。バブルそのものである。脱炭素バブル、SDGsバブル、ESGバブルである。これで、もう一度バブルの恩恵に授かろうとしていたのだ。 しかし、早くも困難に直面している。資源価格が高騰して、早くも現実世界に引き戻されつつある。金融市場は、自分たちで自己実現バブルを作ればよいが、実体経済、実社会での生活はそうはいかない。急激すぎる、無理な脱炭素の動きにブレーキが今後かかっていくだろう。一方、金融市場や投資家たちは、その現実を無視してバブルを膨らませ続けようとするだろう。そのせめぎあいが、今後10年は続くだろう。 日本は、この脱炭素バブル、環境バブルに乗り遅れている。なぜなら、日本は、この問題で世界では圧倒的に進んでおり、現実をよく知ったうえで、現実的な環境対応を行ってきた実績がありすぎたからだ。 バブルは実体のないものほど乗りやすい。バブルが膨らみやすい。日本は、環境問題では、実体がありすぎ、実績がありすぎて、現実的すぎて、バブルに乗るにはためらいがあったため、乗り遅れてしまったのだ。そして、今でも半信半疑、躊躇しながらバブルに乗るかどうかを迷っている。どうせバブルに乗るのであれば、早いほうがいいのだが、もう遅い。資本主義最後のバブルゲームには乗り遅れてしまったのだ。だから、このバブルが崩壊して、世界が現実に引き戻されたときに出番が来るだろう。その時まで、じっと備えておくのが正しい戦略だが、そう肝を据えられるかどうか。日本の政治には無理な気配があり、一番遅れてバブルに乗ろうとしたのが前菅義偉政権であり、この点では岸田政権も同じであろう。 日本は、経済成長(正確には短期的なGDPの増大)において、この10年、欧米諸国に見劣りしている。そこで「GDP増加を目指して、分厚い中間層を作る」という宣言を出したのが、岸田政権の「新しい」資本主義である。日本は資本主義の持続性よりも、そもそも資本主義がきちんと成り立っていない。利益追求、リスクテイクが足りない。そして需要が足りない。だから、起業家と分厚い中間層が必要だ。日本の経済論壇やメディアは、これを大前提として議論をしている』、「日本は、この脱炭素バブル、環境バブルに乗り遅れている。なぜなら、日本は、この問題で世界では圧倒的に進んでおり、現実をよく知ったうえで、現実的な環境対応を行ってきた実績がありすぎたからだ」、「このバブルが崩壊して、世界が現実に引き戻されたときに出番が来るだろう。その時まで、じっと備えておくのが正しい戦略だが、そう肝を据えられるかどうか。日本の政治には無理な気配があり、一番遅れてバブルに乗ろうとしたのが前菅義偉政権であり、この点では岸田政権も同じであろう」、「脱炭素」や「環境」もバブルとは、さすが鋭い指摘だ。
・『「新しく」もないただの資本主義  しかし、こちらは、「新しく」もないただの資本主義である。起業家とは何か。利益を独占するために、既存の利益独占者を倒そうと立ち上がる人々である。しかし、彼らは成功すれば新しい独占者になる。大企業からプラットフォーマーへと、さらに独占力を強めるだけである。資本主義はそのまま拡大するだけであり、格差はさらに拡大する。 一方、中間層を増やすというのは、これらの独占者、大企業にせよプラットフォーマーにせよ、それらを利用できる消費者と労働者を増やすということにすぎない。低所得者が多いと、独占者は彼らの消費から利益を得ることができない。だから彼らにも、必需品以外の嗜好品を買わせてマーケットを拡大しよう。スマホを世の中の全員に持たせよう。そして、消費を把握し、さらに贅沢を覚えさせ、ゲームをやらせ、消費を増やさせよう。 これは21世紀に始まった、資本主義は、BOPビジネス、ボトムオブピラミッドまたはベースオブピラミッドという概念をもちろん利用した(作成した)。要は、動員である。資本主義とはバブルであり、バブルも資本主義も、人々と物とそして社会を流動化して、動員するシステムである。分厚い中間層というのは、動員する消費者と労働者を増やすためのものである。すなわち、これらは、ごく普通の資本主義である。これまでの路線を強化するだけのことである。あるいは高成長期の動員メカニズムの復活を目指すことである。世界は、アフリカ、貧困層という最後のフロンティアまでを食い尽くしてしまったため、最後の手段、「新しい」資本主義という名の新しいESGバブルを作り、日本は、古きよき時代の普通のバブル、普通の資本主義の再興を目指しているというのが、今なのだ。 しかし、これは理論的に破綻している。なぜなら、資本主義が行き詰ったから、新しい資本主義を目指したのであり、それが同じバブルであり、同じ資本主義であれば、持続不可能であることは自明だからだ。 したがって、新しい資本主義は実現しない。そして、バブルも新しい資本主義も破綻する。そして、その後にやってくるものは、近代資本主義の前の世界、中世だ。そして、それは「新しい」中世である。 「新しい」中世とは、持続的な世界である。 近代資本主義が、流動化、市場化、変動、拡大、バブルという世界であるのに対して、「新しい」中世は、固定化、関係取引、安定化、日常の繰り返し、循環経済という世界である。 資本主義がグローバル化、世界市場の一体化、膨張の世界であったのに対して、「新しい」中世は、ローカル化、多様化からの独自化、持続的な安定状態の世界である。 イノベーションという名の下、新しいぜいたく品(嗜好品、エンターテインメント品、装飾品、ブランド)を次々と繰り出し、欲望を刺激する世界から、必需品の繰り返しからの改善、改良、高品質化により、質の高い必需品に囲まれる世界になる。 過去の中世においても、農業生産力の上昇、開墾、新しい農法の発明、さまざまな技術の発明の元が蓄積された時代であった。それが、1492年以降、大航海時代が幕を開け、拡大、争奪、支配、膨張、戦い、競争の世界の中で、流動化が進み、その動員により、バブルが花開き、刺激的な消費による快楽を享受してきた。それを使い尽くしたので、今度は、再び、蓄積の時代に戻るのである』、「資本主義とはバブルであり、バブルも資本主義も、人々と物とそして社会を流動化して、動員するシステムである」、「資本主義が行き詰ったから、新しい資本主義を目指したのであり、それが同じバブルであり、同じ資本主義であれば、持続不可能であることは自明だからだ。 したがって、新しい資本主義は実現しない。そして、バブルも新しい資本主義も破綻する」、「その後にやってくるものは、近代資本主義の前の世界、中世だ。そして、それは「新しい」中世である。 「新しい」中世とは、持続的な世界である。 近代資本主義が、流動化、市場化、変動、拡大、バブルという世界であるのに対して、「新しい」中世は、固定化、関係取引、安定化、日常の繰り返し、循環経済という世界である。 資本主義がグローバル化、世界市場の一体化、膨張の世界であったのに対して、「新しい」中世は、ローカル化、多様化からの独自化、持続的な安定状態の世界である」、「新しい資本主義は実現しない」はいいとしても、「「新しい」中世」にまではついてゆけない。
・『「新しい」中世の始まりの気配はここかしこに  中世のような社会階級の固定化は復活しないだろう。いったん流動化した社会は、そこは元には戻らない。しかし、新しく分断された社会が成立していくだろう。分厚い中間層、格差社会という言葉は、資本主義の下で、富だけが人々の間の差をあらわすものであったことから生まれたものである。金持ちの貴族と貧乏な貴族は争ったが、貧しい武士と豊かな商人とは別の世界に生きていた。それぞれが独自の幸せと安定性と日常を繰り返す、「新しい」中世社会が成立するだろう。 中世の王や宗教の権威は、近代になって、ブルジョワジーの資本、カネの力に屈し、世の中を支配する力は富に変わった。「新しい」中世では、何が支配力になるかは、まだ不明である。知識、人間力など美しい言葉は考えうるが、これは不明である。 ただ、「新しい」中世の始まりの気配はここかしこにある。社会の分断、多様化、相互理解の不可能性、グローバリゼーションからローカライゼーション、覇権国家の非存在、Gゼロの世界の到来など、あらゆる兆候がある。 「新しい資本主義」という言葉が政治家のキャッチコピーになるのも、その兆候のひとつである』、「「新しい」中世」は仮説としては面白い。「「新しい資本主義」という言葉が政治家のキャッチコピーになるのも、その兆候のひとつ」、ここまで論理補強の材料とするとはさすがだ。

なお、明日から8日まで更新を休むので、9日にご期待を!
タグ:資本主義 (その7)(「分配政策」だけでは 「20年後の生活水準」がいまより2割低下する 日本に必要なのは相当な生産性向上政策、岸田首相の「新しい資本主義」がキモいとしか言えないこれだけの理由、「新しい資本主義」は「新しいバブル」にすぎない 「中間層」を増やすことは本当に可能なのか?) 現代ビジネス 野口 悠紀雄 「「分配政策」だけでは、「20年後の生活水準」がいまより2割低下する 日本に必要なのは相当な生産性向上政策」 「賃金のこれまでの傾向が続けば、再分配後の1人当たり所得は、現状より2割ほど減ってしまう」、とは大変だ。 あくまで逆算だが、そうなのだろう。 「これまでとは異なる強力な成長戦略を実施」、「しないかぎり、いかに分配を適正化したところで、「貧しさを分かち合う」という結果になってしまう」、その通りのようだ。 働き手が減っても、労働生産性が上がれば、「実質賃金」も上がり易くなるのではなかろうか。 「1人あたりの分配後所得は、・・・つまり、現在より2割ほど低下するのだ・・・「等しからざるを憂えず」と言っていられるだろうか? 国民の不満は高まるのではないだろうか」、確かに不満が高まらざるを得ないだろう。 「人口ボーナス期に作られた再分配制度を見直すこと・・・再分配と同時に、強力な成長政策を実施すること」、急務だ。 「金融所得課税」を強化しようとすれば、株価下落が不可避になるので、「岸田首相」も結局、断念したようだ。 ダイヤモンド・オンライン 山崎 元 「岸田首相の「新しい資本主義」がキモいとしか言えないこれだけの理由」 「岸田氏」は安部・菅時代を通じて長いこと考える時間があった割には、考えに深みを感じさせず、幻滅した。 「中身が何もないので、「それに向けたビジョン」などという、この種の文章としては世にも情けない言葉を使う以外に書きようがなかったのだろう」、鋭い読みだ。 「新しい資本主義実現会議」の事務局の官僚もなんとか格好をつけないといけないので、ご苦労なことだ。 確かに元財務大臣だけに、「「プライマリーバランス」や「財政再建」に共感する」可能性もある。 「「人の話を聞くのが得意だ」と自称する性格的特性も国民を不安にさせる」、同感である。 私は「維新の会」は嫌いだが、この「年金保険料の無料化」は確かにいい政策だ。 東洋経済オンライン 小幡 績 「「新しい資本主義」は「新しいバブル」にすぎない 「中間層」を増やすことは本当に可能なのか?」 「また「新しい」バブルが始まった」、とはどういうことだろう。 「最後のあがき、として、これまでの資本主義を否定するかのようにみせかけて、資本主義を延命させようとしたバブルが登場したのである。それがESG、SDGsバブルである」、確かにその通りだ。「電力消費総量の大幅削減は、経済の拡大を確実に抑制する。だから、それは避けるのである。 脱炭素で別のエネルギーになるのであれば、経済拡大は止まることはない。さらに、あわよくばもうけのチャンスになる。新エネルギーのためには大規模な投資が必要だから、これは、経済規模大幅拡大につながる。そこで、こぞって新エネルギーを持てはやし、現 「日本は、この脱炭素バブル、環境バブルに乗り遅れている。なぜなら、日本は、この問題で世界では圧倒的に進んでおり、現実をよく知ったうえで、現実的な環境対応を行ってきた実績がありすぎたからだ」、「このバブルが崩壊して、世界が現実に引き戻されたときに出番が来るだろう。その時まで、じっと備えておくのが正しい戦略だが、そう肝を据えられるかどうか。日本の政治には無理な気配があり、一番遅れてバブルに乗ろうとしたのが前菅義偉政権であり、この点では岸田政権も同じであろう」、「脱炭素」や「環境」もバブルとは、さすが鋭い指摘だ 「資本主義とはバブルであり、バブルも資本主義も、人々と物とそして社会を流動化して、動員するシステムである」、「資本主義が行き詰ったから、新しい資本主義を目指したのであり、それが同じバブルであり、同じ資本主義であれば、持続不可能であることは自明だからだ。 したがって、新しい資本主義は実現しない。そして、バブルも新しい資本主義も破綻する」、「その後にやってくるものは、近代資本主義の前の世界、中世だ。そして、それは「新しい」中世である。 「新しい」中世とは、持続的な世界である。 近代資本主義が、流動化、市場化、 「「新しい」中世」は仮説としては面白い。「「新しい資本主義」という言葉が政治家のキャッチコピーになるのも、その兆候のひとつ」、ここまで論理補強の材料とするとはさすがだ。 なお、明日から8日まで更新を休むので、9日にご期待を!
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。