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歴史問題(16)(中国史とつなげて学ぶと日本史の常識が覆る理由 「アジア史の視点」から日本史を捉えなおす意義、元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚、昭和天皇の側近まで...陸軍親ソ派による「共産主義国家の建設」という野望) [国内政治]

歴史問題については、昨年8月25日に取上げた。今日は、(16)(中国史とつなげて学ぶと日本史の常識が覆る理由 「アジア史の視点」から日本史を捉えなおす意義、元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚、昭和天皇の側近まで...陸軍親ソ派による「共産主義国家の建設」という野望)である。

先ずは、昨年10月23日付け東洋経済オンラインが掲載した京都府立大学文学部教授の岡本 隆司氏による「中国史とつなげて学ぶと日本史の常識が覆る理由 「アジア史の視点」から日本史を捉えなおす意義」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/462036
・『現代の地球温暖化は人類が直面する重大問題となっている。では、過去の歴史において、気候変動はどう影響したのか。『中国史とつなげて学ぶ日本全史』を上梓した京都府立大学・岡本隆司氏が、気候変動と日本史の関係について、さらには気候変動、人口動態、経済ネットワークなどアジア史の視点から日本史を捉えることの意義を解き明かす』、興味深そうだ。
・『気候変動と日本史の関係  過去の日本史において、温暖化・気候変動ということばや課題が、現代ほど身近にあったとは思えません。それでも気候変動の実体が、歴史上なかったはずはないでしょう。あったとすれば、どのような影響を及ぼしていたのでしょうか。 なかでも、われわれの来し方・日本史でどうだったのか、実はあまりよくわかっていないように思うのは、筆者だけでしょうか。近年はいわゆるグローバル・ヒストリーの観点から、環境や気候が歴史学の研究対象となり、関心も集まってきました。それでもまだ検討は緒に就いたばかり、体系的な史実の理解・叙述には至っていません。 そもそも史実に影響を及ぼす地球規模の気候変動は、日本の歴史だけをみていますと、わかりづらいように感じます。 日本列島は温暖湿潤で、すぐれて農耕に適した生態環境です。住民の社会的な分業は種々あったにせよ、その主たる生業が農業生産だったことは疑えません。そうした一元的な環境条件では、たとえ気象変動が発生しましても、社会経済的な史実では、おおむね作柄の豊凶や饑饉の有無に還元、包摂されてしまいます。それにともなって、政治の動きも単調にならざるをえません。かくて列島では、ヒトの歴史と気候変動の相関がよくみえなくなっているのです。 それでも日本史は、大きな時代の画期をたびたび迎えました。7世紀から8世紀の律令国家の形成、11世紀からの武家政権の勃興、16世紀以降の天下統一の達成など、やはりダイナミックな歴史です。そんな歴史の展開と気象の変動は、はたして関係していなかったのでしょうか。 その実地の、具体的で直接的な因果関係を論証するには、もちろん厳密な史料調査を通じた研究が欠かせません。ですがそれは、専門家の仕事です。アマチュアのわれわれは、むしろ大掴みな見通しを示し議論の足がかりをつくって、専門家の厳密な指導・批正を仰げるようにしておけばよいかと思います。) そのよすがの1つになるのが、中国史とつなげてみることでしょう。日本は島国ですから、外界との連絡・交渉に乏しい初期条件があります。勢い外との関わりにあまり立ち入らずに歴史をみがちですし、またそれでも十分に内容のある歴史が書けてしまいます。 ですが、それだけではみえないことも、またたくさんあります。気候変動の関連などは、その最たるものでしょう。そこでたとえば、日本の史実経過を近接する中国史の動向と照らし合わせて考えてみると、みえなかったものが視界に入り、新たな視野も開けてくるかもしれません』、「日本の史実経過を近接する中国史の動向と照らし合わせて考えてみると、みえなかったものが視界に入り、新たな視野も開けてくるかもしれません」、面白い考え方だ。
・『古代の日本が目指した唐の律令体制  律令国家の形成は、日本の古代史の画期です。その律令とは中国由来の法制ですから、中国・東アジアとのつながりは、つとに意識されてきました。それでも、輸入した律令・土地制度など、日本の立場からみるばかりで、相手の中国・唐が全体として、実際にはどんな国家だったのか、なぜその律令ができたのか、あまり考慮しているようには思えません。 唐は中国の長い分立時代を経て、ようやくできた統一政権です。それまでの分立は、主として黄河流域に遊牧民が南下移住してきたことで起こったものでした。ではなぜ、かれらが移住してきたかといえば、気候の寒冷化によります。北方の草原地帯で暮らしてきた遊牧民は、寒冷化で草原の植生が激減、生業の牧畜ができなくなり、生存のため移住せざるをえませんでした。 移民と既存の住民のあいだでは、しばしば摩擦が生じます。そこで治安を継続的に維持しうる秩序は、なかなか構築できません。そうした秩序回復がひとまず実現をみたのが、唐の統一でした。つまり唐の律令体制とは、従前の分立時代、ひいては気象変動の歴史が刻印されているものなのです。 かたや日本列島は、ようやく国家形成の黎明期でした。建国にあたってモデルとできるのは、すでに数百年以上先んじている大陸の体制しかありません。そこで律令をコピーして、国家体制をアップデートしました。 ただ日唐の国情・経歴には、あまりにも隔たりがあります。列島は寒冷化・移民による動乱、政権の分立や統合といったことに未経験ですから、オリジナルな律令そのままのコピーは困難でした。日本版の律令を作るにあたって、かなりの改編を経たのはよく知られたところですが、それでも日本の実情に合わないところが少なくありません。 そうしたいきさつをもっと突きつめて考えてやれば、気象変動に大きく影響をうけてきた大陸の履歴と、さほど問題になったようにみえない日本の歴史過程とのちがいがいっそうはっきりして、古代史の位置づけを捉えなおすこともできるでしょう。 律令体制からの逸脱、それにともなう武家政治の形成が、古代から中世への日本の歩みでした。北半球の気象は同じ時期、温暖化に転じています。それは大陸では、寒冷化に適応した唐とその律令体制の崩壊過程でもありました。日本の中世はそうした動きと並行していたのです。) 寒冷が緩んで移動交通が活性化、各地の生産も回復し、それに応じて在地勢力が伸張する。こうした現象が世界的な潮流でして、列島内部の動きもおそらく同じ現象の一環のように思われます。そしてコピー法制の律令ではいよいよ対応しきれなくなって、政治も文化も土俗化していきました。鎌倉時代の到来はそのピークをなしています。 ユーラシア大陸は13世紀にモンゴル帝国の建設を経て、大統合に向かいました。そこで日本へも直接の圧力がきます。いわゆる「蒙古襲来」ですが、このモンゴルの動きこそ、それまでの温暖化の総決算ともいえるでしょう。 といいますのも、9世紀ごろから本格化した温暖化は、草原の植生を回復させ、遊牧民の活動をうながし、遊牧国家の強大化をもたしました。東アジアではウイグル・契丹・女真を経てモンゴルにいきつく動きです。また農耕世界の中国では、環境の好転・競争の激化・資源の開発にともない、唐宋変革という技術革新・経済成長・文藝復興がおこりました。そうした政治軍事・経済文化の飛躍的伸張が結集したのが、モンゴル帝国の大統合だったわけです』、「寒冷が緩んで移動交通が活性化、各地の生産も回復し、それに応じて在地勢力が伸張する。こうした現象が世界的な潮流でして、列島内部の動きもおそらく同じ現象の一環のように思われます。そしてコピー法制の律令ではいよいよ対応しきれなくなって、政治も文化も土俗化していきました。鎌倉時代の到来はそのピークをなしています」、「政治軍事・経済文化の飛躍的伸張が結集したのが、モンゴル帝国の大統合だった」、なるほど。
・『14世紀の危機から大航海時代へ  日本は「蒙古襲来」を撃退して、その大統合に加わりませんでした。このあたりも日本と大陸の隔たりをあらわしています。温暖化という気候変動を共有し、類似の社会経済現象を経験しながら、しかも異なる道をたどったところに、日本史の特性をみることができます。 世界史ではこのモンゴル帝国、日本史では「蒙古襲来」は、1つの分水嶺をなしています。といいますのも、それからまもない14世紀に、気候が寒冷化に転じたからです。ヨーロッパのペスト蔓延が典型的ですが、世界全体が疫病と不況で暗転しました。 以後の世界史はその「危機」から脱却すべく、新たな営為をはじめることになります。日本列島でも、鎌倉幕府の崩壊とそれ以降の騒乱が生じました。そこでも中国との関係が、たえず問題になっていたことは見のがせません。 「危機」からおよそ200年。そのブレイクスルーが大航海時代にはじまる環大西洋革命・産業革命・世界経済、つまり西洋近代の形成になります。その動きはもちろん世界中に波及しまして、日本におよんだ影響は、戦国乱世・南蛮渡来・天下統一という16世紀以降の近世へ至る歴史にあらわれています。それが明清交代という大陸の動乱とパラレルなことも注目すべき現象です。 このようにみてまいりますと、中国・東アジア・東洋史の視点から日本史をとらえなおすことの意義がよくわかるのではないでしょうか。 西洋の各国史はもちろん自国史です。ですが英・仏・独いずれも隣り合い、しかも各国は列強として世界を制覇した経験もありますので、各国史は同時に西洋史でもあり、また世界史にもなりえます。 ところが日本の場合は、そうはいきません。いくら日本史を掘り下げても、全体的な世界史は出てきません。折に触れて外国が登場はしても、あくまで日本からする意味づけにとどまって、客観的な文脈はほとんど重視されないのです。それほど日本は世界から孤立して、独自だったともいえるでしょうか』、「大航海時代にはじまる環大西洋革命・産業革命・世界経済、つまり西洋近代の形成になります。その動きはもちろん世界中に波及しまして、日本におよんだ影響は、戦国乱世・南蛮渡来・天下統一という16世紀以降の近世へ至る歴史にあらわれています」、「日本史」だけを読むよりも、確かに立体的に理解できる。 
・『東洋史の枠組みでみる「真実の日本史」  そのため明治の日本人が草創したのが、東洋史学という学問でした。江戸時代からすでに漢学で中国の史書・史実には親しんでいましたので、西洋史とは別に東洋の「ワールド・ヒストリー」を作って、あらためて日本自身をみつめなおしてやろう、そして東西あわせた世界全体の世界史を構築しようと考えたのです。 とりわけ東アジアで圧倒的な存在の中国の歴史を抜きにして、空間的にも時系列的にも日本の位置を理解することはできません。日中両国は日本海をはさんで対峙し、お互いに不断の影響をおよぼしてきました。東洋史学によって中国や東アジアという世界を説明できれば、その関係性から日本のありようも明らかにできます。ひいては世界全体における日本の位置づけもみえてくるのです。 にもかかわらず、現在その東洋史学は、解体寸前の絶滅危惧種です。大学にある東洋史・中国史の講座・授業には誰も寄りつきませんし、いまや真っ先に消えてゆく運命にあります。つまり日本人は、先人が築いたはずの東アジアからの目線と日本を世界全体に接続する有力なよすがを失いつつあるのです。 気候変動と日本の歴史との関わりなどは一例にすぎませんが、温暖化の昨今、日本史を学ぶにあたって中国史とつなげる意義を示すものでしょう』、「現在その東洋史学は、解体寸前の絶滅危惧種です。大学にある東洋史・中国史の講座・授業には誰も寄りつきませんし、いまや真っ先に消えてゆく運命にあります。つまり日本人は、先人が築いたはずの東アジアからの目線と日本を世界全体に接続する有力なよすがを失いつつあるのです」、誠に残念なことだ。

次に、12月10日付け東洋経済オンラインが掲載した著述家の真山 知幸氏による「元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/472474
・『歴史の教科書にも登場する「元寇(げんこう)」。鎌倉時代末期、二度にわたってモンゴル軍が日本に襲来した事件だ。神風が吹いて切り抜けた――。そう伝えられることが多いが、本当なのか。 その真相と壱岐、対馬における前日譚を、東洋経済オンラインで「近代日本を創造したリアリスト 大久保利通の正体」を連載する真山知幸氏が解説する。 ※本稿は真山氏の新著『泣ける日本史 教科書に残らないけど心に残る歴史』から一部抜粋、再構成したものです』、本当のところはどうだったのか、は興味深い。
・『守護代のところに行くと不穏な空気  福岡県と対馬の中間地点に位置し、玄界灘に浮かぶ壱岐島。対馬海峡に対馬暖流が流れるため温暖な気候で、夏は涼しく冬は暖かく過ごしやすい。 のどかな緑の山々を眺めながら、宗三郎(注)が口笛を吹いて歩いていると、せっせと働く若い夫婦の姿が見える。壱岐島は、高低差が少なく平坦な地形なので、田畑として活用しやすいことで知られている。 (注)宗三郎は壱岐島の守護・平景隆の家臣。詳しい経歴は不明だが、元軍が攻めてきた際、景隆より姫を託され、その戦況を伝えるために太宰府まで遣わされた 「もう稲刈りの季節か。早いものだな」 文永11(1274)年10月、時は鎌倉時代。宗三郎は、主人である守護代の平景隆のもとへと向かっていた。秋風が優しく頬をなでる。何一つ変わらない、平和な島の一日が今日も始まる。 そんなふうに思っていたが、景隆のところに行くと、何やらみながざわざわしており、不穏な空気が流れている。) 宗三郎が急いで場に加わると、景隆が口を開く。 「対馬は全滅したそうだ」 場のどよめきが一段と増す。宗三郎がそばにいた兵に「何事だ」と聞くと、どこか呆然とした面持ちでこう答える。 「蒙古……海の向こうから蒙古が来るらしい……」  宗三郎が口を開く間もなく、景隆は、騒然とする兵たちに「うろたえるでない!」と一喝した。兵の一人を呼び寄せて言う。 「筑前守護の少弐資能(しょうにすけよし)に援軍を頼んでくれ」 「しかし、今からでは……」「いいから、急げ!」 宗三郎はほかの家来と同様に、景隆とともに海岸へと急いだ。蒙古を迎え撃つためである。こちらの兵の数は100あまり。これで十分なものなのかどうかも、見当がつかない。宗三郎は半信半疑で海のほうを見つめた。 「ほんとに蒙古が来るのか、この島に……」 しかし、すでにこのとき、壱岐島での大惨劇までのカウントダウンが始まっていた。ちょうどそのころ、先に攻撃を受けた対馬からなんとか逃げ出した小舟が、大宰府へと急いでいた。惨状を伝えるためである。 実は大宰府にとって、蒙古、つまりモンゴル帝国の襲来は、ありえないことではなかった。時代はややさかのぼって、文永5(1268)年、朝鮮半島の高麗(こうらい)より使節団が大宰府に到着し、モンゴル帝国からの国書が届けられていたからだ。国書は次のような内容だった。 「蒙古国皇帝、書を日本国王に奉じる」 丁寧な国書の文面とは裏腹に、内容は日本の態度を戒めるものだった。すでに高麗もモンゴル帝国の支配下にあるなか、日本から遣いの1人も来ないとはどういうわけか。そう詰問しながら、国交を求めてきたのである』、確かに「モンゴル帝国」の「フビライ」から見れば、「日本」はふざけた国だったろう。
・『逆らうことは許さないという脅し  「相通好せずんば、あに一家の理ならんや。兵を用いるにいたっては、それ、いずくんぞ好むところぞ」 友好関係を結べなければ、兵を出さなければならない。誰がそれを好むだろうか──。国書の最後は「不宣(ふせん)」(十分に意を尽くしていない)という、友人の間で交わされるような友好的な言葉で締めくくられている。 だが、それは表面的なものであり、逆らうことは許さないという脅し以外の何物でもなかった。突然の出来事に、鎌倉幕府と朝廷は正月早々、騒然となる。その日のことを、関白の近衛基平は日記にこう記している。 「国家の珍事、大事なり」 国書は幕府から朝廷へと回されて、激論が交わされることになる。だが、結論はノーと決まっていた。) 当時、他国との通交といえば、平安時代に平清盛が中国の宋朝との貿易を本格化させている。日宋貿易と呼ばれるもので、鎌倉幕府にも引き継がれたが、あくまでも私的な貿易だ。寛平6(894)年に遣唐使を廃止して以来、日本はどの国とも正式な国交を結んではいなかった。 そのため、問題は拒絶の返答をするか、しないかということであった。 実に国書の到着から10日間にわたって朝廷で議論が行われ、幕府とも検討を重ねたが、18 歳の青年が決断を下している。 鎌倉幕府の執権に就いたばかりの北条時宗である。 無礼なるによりて、返事に及ばぬ」 そう毅然とした態度で貫き通すことにしたのである。 なぜ、それほど強気な態度に出たのか。鎌倉幕府は明らかにモンゴル帝国の勢いを見くびっていた。なぜならば、平安時代から鎌倉時代にかけて、日本は日宋貿易を通じてのみ中国の状況を把握しており、北方の諸民族についての情報はかなり限定的だった。 モンゴル帝国の実力を見誤ってしまい、国書をすべて黙殺するというリスクの高い外交につながってしまったと考えられる。無視されたモンゴル帝国は、その後に「元」と国号を改め、7年間にわたり日本に使節を派遣。実際に日本に到着したのは3回だったが、使節を送り込んだのは計6回にも及んだ。それでも日本は黙殺し続けた』、「モンゴル帝国の実力を見誤ってしまい、国書をすべて黙殺するというリスクの高い外交につながってしまった」、「無視されたモンゴル帝国は、その後に「元」と国号を改め、7年間にわたり日本に使節を派遣。実際に日本に到着したのは3回だったが、使節を送り込んだのは計6回にも及んだ。それでも日本は黙殺し続けた」、無知故に「無視」したとはいえ、結果的には正解だった。
・『3000人もの軍勢が対馬に到着  文永11(1274)年、しびれをきらした元は、日本を襲撃することを決意する。3000人もの軍勢が10月5日、対馬に到着した。 対馬の守護代の宗助国(そう・すけくに)が80騎あまりの兵を率いて抵抗を見せるが、わずか2時間で、蒙古軍に討ち死にさせられてしまう。村民の多くは虐殺されるか、捕虜としてとらえられた。そして10月14日、蒙古軍はいよいよ壱岐に到着することになるのだった。 そんな経緯を知る由もない宗三郎は「もしかしたら、何かの間違いではないか」とも思っていたが、過酷な現実は目の前にまで迫ってきていた。 元の先発隊として2隻の船が到着すると、約400人の兵たちが上陸してきたのである。 「カーン」そんな鐘の音とともに、蒙古軍の矢が雨のように降り注いだ。日本の矢に比べて、飛距離は2倍。放たれた瞬間に射抜かれる。おまけに矢には毒が塗られていた。 「名乗りもせず攻撃してくるとは……」 宗三郎が戸惑っていると、「怯むな!」という景隆の声が飛ぶ。その瞬間、爆発音とともに砂埃が舞い、兵士たちが人形のように吹き飛んだ。 「何事だっ!」 陶器製の玉に鉄片と火薬を仕込んだ「てつはう」である。見たこともない武器や、日本とはまったく異なる戦のルールに翻弄され、死傷者が相次ぐ。戦闘が始まってしばらくしたときには、大敗は誰の目にも明らかだった。 「城に退却する!」 景隆の叫び声にも似た指示を聞くや、宗三郎もその場から駆け出そうとしたが、ふと海のほうへ目を凝らした。 「ん……あれは、何だ……」 よく見ると、軍の船のへりに生け捕りにされた女性たちが立たされていた。 「矢よけに、人を……?」 もし船の近くで見たならば、さらに愕然としたことだろう。対馬で残虐の限りを尽くした蒙古軍は、女性の村民たちを生け捕りにし、その手に穴をあけて数珠つなぎにして、矢よけとしていたのである。 「これほど、むごい仕打ちをできる相手と、私たちは戦っているのか……」 宗三郎が背筋に冷たい汗が流れるのを感じていると、てつはうが近くに投げ込まれ、耳をつんざく。われに帰ると宗三郎はひたすら城のほうへと走った。 途中、何度か蒙古軍に襲われたが、至近距離からの戦いであれば、宗三郎の刀さばきが相手に勝った。それでも城に退却したときは、満身創痍でどの傷口から血がしたたり落ちているのか判別がつかなかった』、よくぞ「城に退却」できたものだ。
・『息も絶え絶えに声を絞り出す景隆  「む、宗三郎……」 声のほうへ向けば、景隆がやはり傷だらけで壁にもたれかかって、座り込んでいる。 「景隆様!」 宗三郎が駆け寄ると、景隆は息も絶え絶えに「よくぞ生き延びた……待っておったぞ……」と声をしぼり出して、さらにこう続けた。 「蒙古の襲来を大宰府に伝えに行け」 宗三郎は理解が追い付かない。なぜ、自分だけ島から脱出せねばならないのか。 「みなを置いて私だけ逃げろというのですか!」 「違う……誰かがやらねばならんのだ……。大宰府に……伝えよ、この惨状を……。早く知らせてやらねば、国ごとやられてしまう。わかるな?」 さらに、景隆は自分の娘、姫御前を宗三郎のもとへと押しやった。 「姫御前のことは頼む。どうか一緒に島の外へ……」 「ほかの景隆様のご家族は!」 「さきほど自害させた……あとは頼んだぞ、宗三郎」 それだけ言い終わると、景隆は切腹して、その場で果てた。 「か、景隆様!」 もうとうに限界だったのだろう。見れば、身体のあちこちで傷が深い。死してなお、景隆の眼光はなお鋭く、宗三郎に「早く行け」と言っているかのようだった。) 宗三郎は姫御前を背負い、海のほうへと駆け続けた。あちこちにある小さな洞窟のなかで、女子どもが隠れているのを気配で感じる。 「(……どうかみんな、見つからないでいてくれ)」 そう願いながら駆けていると、洞窟の中の母親が赤ん坊の口を塞いでいるのが見えた。思わず立ち止まり、周囲を見渡すと、蒙古軍は赤ん坊の泣き声を頼りに場所を突き止めて、斬殺を繰り返しているようだった。赤子が泣き声を上げれば、自分だけではなく、洞窟のみなが見つかってしまう。 「許して、許して……」 口を塞がれてぐったりした赤ん坊を抱えて、涙する母の口が静かにそう動くのを見ると、宗三郎はさらにスピードをあげて、がむしゃらに走った。川は血で真っ赤に染まり、あちこちに死体が転がっている。 「一体、どうして……なんで……こんなことに!」 思わず足がもつれそうになった、そのとき、一本の矢が飛んできた。 「危ない!」 思ったときには、すでに遅かった。背負っていた姫御前を降ろすと、その肩には、矢が突き刺さっており、ぐったりしている。 「毒か……今、矢を抜くから、お待ちくだされ」 そう呼びかけるが、姫御前は力を振りしぼって、懸命に首を左右に振る。 「……どうか行ってください、この国のために……」 そういうと、姫御前は懐から短刀を取り出して、即座に自らの首に突き刺した。蒙古軍に蹂躙(じゅうりん)されるくらいならばと、自死を選んだのである。 「姫! なぜ……」 宗三郎は地面に突っ伏して、号泣するも、すぐに立ち上がって駆けだした。 「伝えねば、絶対に伝えねば……」 なんとか海岸までたどり着くと、宗三郎は小さな船に静かに乗り込み、大宰府へと向かった』、「宗三郎」が「大宰府」に行くという目的を完遂したのは大したものだ。
・『北条時宗に対面して惨状を伝えたが…  「なるほど……蒙古軍は集団で攻めて来て、毒矢も使うと……」 「はっ」 これだけの緊急事態である。宗三郎は時の執権、北条時宗との対面が許されると、経験してきた惨状を述べた。 「私の主君、平景隆様は、家族とともに自害されました。私にすべてを託して……」 宗三郎が嗚咽を漏らすが、時宗が関心を持っているのは、あくまでも元の兵力とその戦法のようだった。 「お主が話したことは、対馬から来た者の話と一致するな。間違いなさそうじゃ」 宗三郎は時宗を見て、「え」と発して続けた。 「対馬からも知らせが来ていたのですか」 時宗がうなずくと、宗三郎はわれを忘れて詰め寄った。 「ならばなぜ! 援軍を送ってくださらなかったのですか!」 時宗は「それは時間的に難しかろう」と冷たく言い放つと、立ち上がった。 「おぬしのおかげで、相手の戦い方がわかった。対策をさらに強化できる」 さらに強化? 蒙古が来襲することを事前に知っていたのか? 言葉がすぐに出ない宗三郎を置いて、時宗はそそくさとその場を立ち去った。宗三郎はただ、こうつぶやくことしかできなかった。 「私たちは、捨て駒だったのか……?」』、「勝利」を確実にするには、時には「捨て駒」も必要だ。
・『日本軍の反撃に手こずった蒙古軍  文永11年(1274)年10月20日、元・高麗の蒙古軍は博多湾に上陸。博多から箱崎を攻略して、日本軍の本拠たる大宰府を一挙に占領しようとする。だが、そこで日本軍の反撃にてこずることになる。 時宗は来襲に備えて、九州各地の沿岸に防塁(ぼうるい)を築き、さらに兵を広く募って警備を強化していた。そのうえ、港にいる高麗人や朝鮮人から、蒙古の情報を収集しながら、対抗するための武器づくりも行っている。限られた時間のなかで、対馬、壱岐での惨状を聞いたことも、対策を練るうえで役立ったことは言うまでもない。 それらの万全な準備が功を奏したのだろう。とりわけ日本側の夜襲に苦しめられたようで、蒙古軍は大宰府の占領を諦めて、船に引き上げている。元の総司令官、クドゥンはこんな意見を述べたという。 「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」 「神風」といわれる暴風雨が吹くのは、撤退した日の夜半のことであった。「元寇で日本は神風に救われた」とよく言われるが、元はその前から、日本の思わぬ抗戦に、撤退を決めていたことが、文献で明らかになっている。 暴風雨はトドメを刺したにすぎず、日本は実力で蒙古を撃退したしたのである。 そして、その勝利の陰には、対馬や壱岐での語られざる悲劇があったのだった』、「暴風雨はトドメを刺したにすぎず、日本は実力で蒙古を撃退したした」、神風のせいにしている教科書の記述を書き換える必要がありそうだ。

第三に、12月13日付けYahooニュースが転載したVoice「昭和天皇の側近まで...陸軍親ソ派による「共産主義国家の建設」という野望」を紹介しよう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/961aa1ddaa89397f633e2e085734d20ce6a79829?page=1
・『敗戦間近、日本政府はこともあろうに、すでに参戦を決意していたソ連に対して、戦争終結の和平仲介を依頼することに決した。その裏には、陸軍に巣くう親ソ派、共産主義者たちの暗躍があった。 ※本稿は、岡部伸著『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです』、興味深そうだ。
・『なぜソ連参戦情報が活用されなかったのか  ヤルタ会談直後にストックホルムから小野寺信少将が参謀本部に打電したソ連参戦情報は、大戦末期の日本の政策に活かされることはなかった。大本営の「奥の院」によって、握り潰されたのはこの「小野寺電」だけではない。 3月に入り、ドイツのリッベントロップ外相からソ連参戦の情報を聞いた大島浩駐ドイツ特命全権大使は、これを外務省に伝えたと、戦後に防衛庁(現防衛省)の聴取に答えたことが、「防諜ニ関スル回想聴取録」(防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室所蔵)に書かれている。 つまり、ドイツが降伏した5月以降、欧州の前線から外務省、海軍軍令部、陸軍参謀本部にソ連が参戦するという情報が伝わっていたのだ。 では、なぜこれらのソ連参戦情報が活用されなかったのか。ソ連仲介による終戦工作が先にあったからだ。1944年半ばから、ソ連を通じて連合国と和平交渉を進めようとしていたグループにとって、これらの情報は不都合だった』、なるほど。
・『日本政府の重要メンバーが共産主義者たちに降伏  大戦末期の日本が不毛なソ連仲介に国運を賭けた理由は何だろうか。この謎を解く鍵が英国立公文書館所蔵の「ウルトラ」のなかにあった。スイスのベルンに駐在する中国国民政府の陸軍武官が6月22日付で重慶に打った「アメリカからの最高機密情報」と題された電報があり、次のように記されていた。 国家を救うため、現在の日本政府の重要メンバーの多くが完全に日本の共産主義者たちに降伏している。あらゆる分野部門で行動することを認められている彼ら(共産主義者たち)は、すべての他国の共産党と連携しながら、モスクワ(ソ連)に助けを求めようとしている。日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者たちに取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと(和平仲介を)提案している すなわち中国の国民政府の武官は、皇室の維持を条件に、ソ連に和平仲介を委ねようとしている日本の重要メンバーが、共産主義者たちに操られていると分析していたのである。ソ連参戦情報は最初から抹殺される運命にあったのだ。 「HW12」のレファレンス番号に分類されている「ウルトラ」文書をヤルタ会談が行なわれた45年2月まで遡り、さらに終戦までチェックした。判明したのは、この中国武官は日本の終戦工作のすべてを把握し、ソ連の対日参戦の動きを逐一、捉えていたことである。 これらの電報を重慶に打っていた中国の武官とは、いかなる人物であろうか。一連の電報のなかには、Robert Chitsuin という名前が記されているものがあった。 国民政府の資料では、大戦末期のベルンにはチツンという武官が駐在しており、「ウルトラ」に登場するChitsuin と同一人物だろう』、「ベルンに駐在する中国国民政府の陸軍武官」からの情報であれば、歪められるおそれも少ないだろう。
・『親ソは時代の「空気」だった  このチツンが打ったと見られる電報には、「日本政府の重要メンバーの多くが完全に日本の共産主義者たちに降伏している」とあるが、重要メンバーとはどの勢力を指すのか。 大戦時は陸軍とりわけ統制派が主導権を握っており、陸軍統制派と考えるのが妥当だろう。 もっとも、軍部だけがソ連に傾斜していたわけではない。戦前の国家総動員体制を推し進めたのは、「革新官僚」と呼ばれる左翼から転向した者たちだったことはよく知られている。親ソはいわば時代の「空気」だった。 昭和天皇の側近だった木戸幸一内相も、ソ連に対する見方はきわめて甘かった。1945年3月3日、木戸は日本銀行の調査局長などを務めた友人の宗像久敬に「ソ連仲介工作を進めれば、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不真面目でさえなければ、受け入れてもよい」という話をしている(「宗像久敬日記」)。 さらに木戸は続けた。「共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り。残りは米国位のものではないか」』、「木戸幸一内相」がそこまで発言していたとは、驚かされた。
・『近衛上奏文  このようにソ連に傾く政府、軍部に対して警告を発したのが、近衛文麿元首相である。 1937年7月の盧溝橋事件以来、泥沼の日中戦争から日米開戦に突入したことに、「何者か眼に見えない力にあやつられていたような気がする」(三田村武夫『戦争と共産主義』)と述懐した近衛は、1945年2月14日、早期終戦を唱える上奏文を昭和天皇に提出した。いわゆる近衛上奏文である。 「最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず(勿論一部には過激論あり。又、将来如何に変化するやは測断し難し)随って最悪なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命なり」 米英は国体変革までは考えていないとし、それよりも「共産革命達成」のほうが危険と見なす近衛の情勢分析は正鵠を射ていた。この近衛上奏から1カ月半余りのちの同年4月5日、ソ連は日ソ中立条約不延長の通告という離縁状を日本に突きつけてきた。小磯國昭内閣は総辞職し、7日に鈴木貫太郎内閣が成立すると、陸軍は本格的にソ連の仲介による和平工作に動き出した。 しばらくして参謀本部から、東郷外相に参謀本部第20班(戦争指導班)班長、種村佐孝(さこう)が4月29日付で作成した「今後の対ソ施策に対する意見」と「対ソ外交交渉要綱」がもたらされた。 「今後の対ソ施策に対する意見」は「ソ連と結ぶことによって中国本土から米英を駆逐して大戦を終結させるべきだ」という主張に貫かれていた。全面的にソ連に依存して「日ソ中(延安の共産党政府)が連合せよ」というのである。驚くべきは「ソ連の言いなり放題になって眼をつぶる」前提で、「満洲や遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対米戦争を完遂せよ」としていることだ。 もしこのとおりに日本の南北の領土を差し出していれば、日本は戦後に東欧が辿ったように、ソ連の衛星国になっていたであろう。琉球(沖縄)までソ連に献上せよというのは、ヤルタ密約にすらなかった条件であり、ソ連への傾斜ぶりの深刻さがうかがえる。 同じころ(同年4月)、種村の前任の戦争指導班長で鈴木貫太郎首相の秘書官だった松谷誠(せい)は有識者を集め、国家再建策として「終戦処理案」を作成。やはり驚くようなソ連への傾斜ぶりで貫かれていた。松谷の回顧録『大東亜戦争収拾の真相』によると、「ソ連が7,8月に(米英との)和平勧告の機会をつくってくれる」と、ソ連が和平仲介に乗り出すことを前提に「終戦構想」を記している。 こうした記述からは、事前にソ連側から何らかの感触を得ていたことがうかがえる。すでに対日参戦の腹を固めていたソ連は、最初から和平を仲介する意図はなかった。にもかかわらず、日本政府がそれを可能であると判断したのは、ソ連の工作が巧妙だったからだろう』、「日本政府がそれを可能であると判断したのは、ソ連の工作が巧妙だったからだろう」、最も重要な判断で「ソ連の工作」に騙されたいたのであれば、本当に救い難いほどの能天気だ。
・『外交クーリエとしてモスクワを訪問した過去  なぜ、松谷はこのような「終戦処理案」を作成したのだろうか。『大東亜戦争収拾の真相』によれば、松谷は、参謀本部第20班および杉山陸軍大臣秘書官時代の協力者だった企画院勅任調査官の毛里英於(もうりひでおと)、慶應義塾大学教授の武村忠雄はじめ、各方面の識者数人を極秘裏に集め、終戦後の国策を討議し、また、外務省欧米局米国課の都留重人、太平洋問題調査会の平野義太郎とは個別に懇談したという。 毛里、平野はいわゆる革新官僚だった。とくに平野はフランクフルト大学に留学してマルクス主義を研究した講座派のマルクス主義法学者で、治安維持法で検挙されると転向し、右翼の論客となったが、戦後は再び日ソ友好などで活動した。 また都留重人(経済学者・第6代一橋大学学長)は、治安維持法で検挙され、第八高等学校を除名後、ハーバード大学に留学、同大大学院で博士号を取得したが、戦後、米国留学時代に共産主義者であったことを告白している。 都留は1945年3月から5月まで外交クーリエ(連絡係)としてモスクワを訪問しており、松谷が「終戦処理案」を作成した4月には日本にはいなかった。しかし、松谷とは1943年ごろから面会しており、「終戦処理案」でも何らかの示唆を与えた可能性もある。ソ連仲介和平工作が本格化する時期に都留がモスクワを訪問していたことも謎である。ソ連幹部と面会して何らかの交渉を行なっていたのではないかと推測される。 種村も都留同様に、クーリエとしてモスクワを訪問した過去があった。1939年12月から参謀本部戦争指導班に所属し、1944年7月から戦争指導班長を務めた種村がモスクワに出張していたのは、同年2月5日から3月30日までであった。 帰国した種村は同年4月4日、木戸内相を訪ね、ソ連情勢を説いている。この日の『木戸日記』には、「種村佐孝大佐来庁、武官長と共に最近のソ連の実情を聴く。大いに獲る所ありたり」と記されている。前述したように、木戸は共産主義への甘い幻想を語っているが、それは種村による影響だったのだろう。種村はポツダム宣言が出されたあと、第17方面軍参謀として朝鮮に渡って終戦を迎えたが、1950年までシベリアに抑留された』、「ソ連仲介和平工作が本格化する時期に都留がモスクワを訪問していたことも謎である。ソ連幹部と面会して何らかの交渉を行なっていたのではないかと推測される」「都留重人」氏まで工作に絡んでいたとは初めて知った。
・『敗戦後、共産主義国家を建設するという構想  種村の「素性」が判明するのは、帰国後のことである。1954年、在日ソ連大使館二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフ中佐がアメリカに亡命するという事件が起きる(ラストヴォロフ事件)。 亡命先のアメリカでラストヴォロフは、「(シベリア抑留中に)11名の厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」と証言したが、志位正二、朝枝繁春(以上、2人はソ連のエージェントだったことを認め、警視庁に自首した)、瀬島龍三などのほかに、種村の名前を挙げている。 種村をはじめ、松谷ら陸軍の親ソ派が練った終戦構想とは、国内では一億玉砕、本土決戦を唱えて国民統制を強化しながら、ソ連に仲介和平交渉を通じて接近し、敗戦後、日本に共産主義国家を建設するというものだった。 そのうえで、日本、ソ連、中国(共産政権)で共産主義同盟を結び、アジアを帝国主義から解放するという革命工作だった可能性が高いのである。当時の日本は、帝国主義国同士を戦わせ、敗戦の混乱を利用して共産主義国家に転換させるというレーニンが唱えた、まさしく「敗戦革命」の瀬戸際に立たされていたといえる。 本稿で挙げたベルン発の中国武官の電報は、コミンテルンの工作が日本の中枢にまで浸透していたことを裏づけているといえよう』、「コミンテルンの工作が日本の中枢にまで浸透していた」、「瀬島龍三」の名前が出てきたのにも驚かされた。
タグ:(16)(中国史とつなげて学ぶと日本史の常識が覆る理由 「アジア史の視点」から日本史を捉えなおす意義、元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚、昭和天皇の側近まで...陸軍親ソ派による「共産主義国家の建設」という野望) 歴史問題 東洋経済オンライン 岡本 隆司氏による「中国史とつなげて学ぶと日本史の常識が覆る理由 「アジア史の視点」から日本史を捉えなおす意義」 「日本の史実経過を近接する中国史の動向と照らし合わせて考えてみると、みえなかったものが視界に入り、新たな視野も開けてくるかもしれません」、面白い考え方だ。 「寒冷が緩んで移動交通が活性化、各地の生産も回復し、それに応じて在地勢力が伸張する。こうした現象が世界的な潮流でして、列島内部の動きもおそらく同じ現象の一環のように思われます。そしてコピー法制の律令ではいよいよ対応しきれなくなって、政治も文化も土俗化していきました。鎌倉時代の到来はそのピークをなしています」、「政治軍事・経済文化の飛躍的伸張が結集したのが、モンゴル帝国の大統合だった」、なるほど。 「大航海時代にはじまる環大西洋革命・産業革命・世界経済、つまり西洋近代の形成になります。その動きはもちろん世界中に波及しまして、日本におよんだ影響は、戦国乱世・南蛮渡来・天下統一という16世紀以降の近世へ至る歴史にあらわれています」、「日本史」だけを読むよりも、確かに立体的に理解できる。 「現在その東洋史学は、解体寸前の絶滅危惧種です。大学にある東洋史・中国史の講座・授業には誰も寄りつきませんし、いまや真っ先に消えてゆく運命にあります。つまり日本人は、先人が築いたはずの東アジアからの目線と日本を世界全体に接続する有力なよすがを失いつつあるのです」、誠に残念なことだ。 真山 知幸氏による「元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚」 本当のところはどうだったのか、は興味深い。 確かに「モンゴル帝国」の「フビライ」から見れば、「日本」はふざけた国だったろう。 「モンゴル帝国の実力を見誤ってしまい、国書をすべて黙殺するというリスクの高い外交につながってしまった」、「無視されたモンゴル帝国は、その後に「元」と国号を改め、7年間にわたり日本に使節を派遣。実際に日本に到着したのは3回だったが、使節を送り込んだのは計6回にも及んだ。それでも日本は黙殺し続けた」、無知故に「無視」したとはいえ、結果的には正解だった。 「宗三郎」が「大宰府」に行くという目的を完遂したのは大したものだ。 「勝利」を確実にするには、時には「捨て駒」も必要だ。 「暴風雨はトドメを刺したにすぎず、日本は実力で蒙古を撃退したした」、神風のせいにしている教科書の記述を書き換える必要がありそうだ。 yahooニュース Voice「昭和天皇の側近まで...陸軍親ソ派による「共産主義国家の建設」という野望」 岡部伸著『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書) 英国立公文書館所蔵の「ウルトラ」 ベルンに駐在する中国国民政府の陸軍武官 「ベルンに駐在する中国国民政府の陸軍武官」からの情報であれば、歪められるおそれも少ないだろう。 「木戸幸一内相」がそこまで発言していたとは、驚かされた。 「日本政府がそれを可能であると判断したのは、ソ連の工作が巧妙だったからだろう」、最も重要な判断で「ソ連の工作」に騙されたいたのであれば、本当に救い難いほどの能天気だ。 「ソ連仲介和平工作が本格化する時期に都留がモスクワを訪問していたことも謎である。ソ連幹部と面会して何らかの交渉を行なっていたのではないかと推測される」「都留重人」氏まで工作に絡んでいたとは初めて知った。 「コミンテルンの工作が日本の中枢にまで浸透していた」、「瀬島龍三」の名前が出てきたのにも驚かされた。
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