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人生論(その10)(「人生はドラゴンボール」 養老孟司先生が東大時代の悩みを語った発掘インタビュー、50代で「若年性アルツハイマー」になった、脳外科医の妻が見続けた「夫の過酷」 まさか自分がなるなんて…、50代で「若年性アルツハイマー」と診断された 元脳外科医の「その後の人生」 人生に絶望する必要なんてない) [人生]

人生論については、昨年12月19日に取上げた。今日は、(その10)(「人生はドラゴンボール」 養老孟司先生が東大時代の悩みを語った発掘インタビュー、50代で「若年性アルツハイマー」になった、脳外科医の妻が見続けた「夫の過酷」 まさか自分がなるなんて…、50代で「若年性アルツハイマー」と診断された 元脳外科医の「その後の人生」 人生に絶望する必要なんてない)である。

先ずは、本年2月2日付けデイリー新潮「「人生はドラゴンボール」 養老孟司先生が東大時代の悩みを語った発掘インタビュー」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/02020605/?all=1
・『養老孟司さんが、悩める若い人に向けてわかりやすい言葉で語りかけたロング・インタビュー。収録されているのは、自身が編集に携わった、ムック『養老先生と遊ぶ』(2005年刊行)だ。 旧知の編集者を相手に、対人関係が苦手だった青春時代、苦痛だった組織人時代についても赤裸々に語っている。東大に勤務している頃には、毎晩ウイスキーのボトルを空けていたような時期もあったというのだ。 そこからどう脱したか。いままさに「壁」に当たっている人には励みにもなるのではないだろうか。刊行から時間が経ち、現在は入手困難となっているムックからの発掘インタビューをお届けする(一部、原文に改行など修正を施しています)(Qは聞き手の質問、Aは養老氏の回答)』、「毎晩ウイスキーのボトルを空けていたような時期もあった」、よほどストレスにさらされていたようだ。
・『いろんなことができ始めたのは中年になってから  Q:対人関係は苦手とはいっても、医者になろうとされたわけですよね? A:母親が医者でしたからね。最初は虫を専門にしようと思ったんです。でも、調べたら、虫が思う存分できそうだったのは、九州大学だったんです。それを母親に言ったら、「そんなに遠くに行くのはやめろ」と大反対でした。父親はぼくが4歳のときに死んでいましたしね。 そこまで言われたら、まあ、虫はいつでもできるかなあ、と思ったわけです。その後、大学をやめる60歳近くまで、できなかったけどね(笑)。 それで、医者は医者でも、精神科医になろうと思ったんです。だけど、希望者が多くて、クジに外れちゃいました。そこで、考え直したんです。これは臨床を選ぶな、ということだなあと。だから、大学院に行くことにしたんです。 時代は今と違っていてね、昭和30年代、右肩上がりの時代だったんです。だから、やってみて食えなくてもなんとかなるだろうっていう腹です。「流れ」ですね。(略) 「スルメを見てイカがわかるか」と何度も解剖の意味を問われ続けて、60歳すぎて、答えが出ました。「スルメを作っているのはおまえたちだろう」って。生きている人間を「情報」としてしか扱ってないんだから。(注:養老氏の専攻している解剖学について、「死んだイカ=スルメをいくら見ても、生きているイカのことはわからないだろう」という類の疑問をぶつけられた経験について語っている) Q:60歳まで答えが出ないことがあるんですね。 A:そうですよ。そんなに簡単にはいかないですよ。それって悪いことではないんですよ。むしろ逆です。なにかをしていくときに、簡単じゃつまらないじゃないですか。 比叡山の千日行(せんにちぎょう)ってあるでしょう? あれですよ。修行なんです。解剖は修行でした。 絵描きとか彫刻家っていうのは、絵とか彫刻とか形になるからわかりやすいよね。論文がその形かというと、あれは、言語にまとめる、ただの「情報化」の作業ですしね。 「なんで解剖なんてやるの?」って言うけど、修行というのは、やった自分こそが作品じゃありませんか? 千日行なんて、山の中を歩くそのこと自体が世の中の役に立つわけじゃないでしょう。それ自体に意味があるというよりも、それをやったその人にとって意味があるということです。だから「修行」だと思うとね、いろんなことができますよ。 本気で業績をあげようなんて思っていなかったせいでしょうけれど、いろんなことができ始めたのは中年になってからです。昔から、母親にも親戚にも、「あんたは長生きしなくちゃ損だよ」といわれてましたけど(略)。 Q:お母さんは95歳まで長生きされたんですよね。それを考えると、人生の先が長いですね。 A:そうそう。覚悟しろっていうんだ。 Q:誰に言っているのかわかりませんが……先生はしつこいタイプですね。 A:追求型と言ってください。人生は「ドラゴンボール」なんです。 Q:マンガの「ドラゴンボール」ですか? A:あの話はどんどん未知の世界に出かけて自分がバージョンアップしていくでしょう? 結果がわからない。あれを読んだり見たりしている子供のほうが、大人よりもよっぽどいろんなことをわかっているんじゃないかな。 人生は、マラソンになるもんなんですよ。人によって結果はわからないから、ぼくみたいに解剖を「やれ」とは誰にも言えないけれど。これをやったらこうなるよ、なんていう因果関係は言えませんからね』、「精神科医になろうと思ったんです。だけど、希望者が多くて、クジに外れちゃいました。そこで、考え直したんです。これは臨床を選ぶな、ということだなあと。だから、大学院に行くことにしたんです」、当初は「臨床」を目指していたとは初めて知った。「解剖は修行でした」、「修行というのは、やった自分こそが作品じゃありませんか? 千日行なんて、山の中を歩くそのこと自体が世の中の役に立つわけじゃないでしょう。それ自体に意味があるというよりも、それをやったその人にとって意味があるということです」、なるほど。
・『東大をもっと早く辞めればよかった  Q:今までの人生で後悔をしていることはありますか? A:なし。後悔は、しません。起こった事はしょうがないことでしょう。でも、上手にいいほうに変えることはできます。大学の人事なんて見ているとつくづくそれを思いました。だれかがあるポストにつくとする。そうすると「なんであんなヤツが」と大モメに揉める。それよりも、決まったことを受け入れて、こうしよう、と決めて行動するほうがいいんですよ。だから、人事なんてものはいちばんの苦痛のタネでした。もっと気の利いたことをできるだろうに。(略) これはもうモタないなあ、と思って東大を辞めることを決意したのが55歳のときでした。片付けや引き継ぎで2年延びて57歳で辞めました。辞めた当日は、日差しが明るく見えて周囲の輝きが違ってましたよ。もっと早く辞めればよかった。会社でも大学でも、とにかく組織が合わなかったんです。 遊牧民タイプかな。夕方になるとちょっと寂しくなったりします。チベットを歩く夢みたり、ブータンにはこんなことがあるだろうかと考えたり。言わせてもらうと、ロマンチストなのかもしれませんよ(笑)。 Q:ロマンチストの解剖学者、ですね(笑)。以前の先生をご存じの方からすると、今は人の話を聞くようになったそうですね。 A:そうなんですよ。10年前まではひどかったらしいんです。自分ではわからないんだけど、人の話を聞かない嫌なやつだったみたいで、10年以上前にあった人には全員に謝っておきたいね。そういう人がいたら、謝っておいてください。ぼくも変わったんでしょうね』、「今は人の話を聞くようになった」が、「10年前までは・・・人の話を聞かない嫌なやつだったみたい」、ずいぶん丸くなったようだ。
・『毎日死体を見ていると「大丈夫、自分も死ぬんだな」と思う  Q:大学を辞める頃にがんを患ったという噂を聞いたのですが……? A:大学を辞める頃に、肺に影が見つかったんです。「疑いがある」というんで、CTの予約の空きを待っていた1週間は、まじめに死ぬことを考えました。勤めもクソもない、仮にガンだったらもう死ぬんだ。そう考えたら楽になりました。 1週間後の検査で、ただの昔の結核の影だったということがわかったんですけどね。でも、この結核の影はぼくへのプレゼントなんだと思ったんです。 Q:そのおかげで東大を辞める決心がついたということですか? A:それもあるし、本当に「生きる」ということを考えましたからね。 Q:自殺を考えたことというのは、ありましたか? A:ありませんよ。 Q: 一度も? A:大丈夫ですよ。 Q:大丈夫とは? A:毎日死体を見ているとね、「大丈夫、自分も死ぬんだな」と思うわけなんです。どんなに崖っぷちに立ったとしても、自殺する人の気持ちはわかりません。慌てなくても死ぬんだから。死亡率はだれだって100パーセントですから そんなことにはもっと早く気づくべきだったと思います。 昔はなにを気にしていたんでしょうね。全部忘れちゃった』、「毎日死体を見ているとね、「大丈夫、自分も死ぬんだな」と思うわけなんです。どんなに崖っぷちに立ったとしても、自殺する人の気持ちはわかりません。慌てなくても死ぬんだから」、解剖学者の余禄といえるのかも知れない。
・『一晩にウイスキーを1本空けることも毎晩のことでした  お酒を今はまったく飲まなくなりました。昔は、相手がいれば、ストレスを解消するために飲んでいたんです。一晩にウィスキーを1本空けることも毎晩のことでした。お店の人から「飲みすぎだよ」って注意されてましたからね。40代がいちばん飲んでいましたね。外部とのつきあいがはじまって、そのときに媒介になってくれたのが酒だったんです。しゃべれない自分でも、お酒があると他人としゃべれるようになったから。 でも、今は要らなくなりました。お酒のかわりに、猫がいればじゅうぶん。 ここで触れている猫が「まる」で、その後テレビ出演などを通じて人気者となっていくが、一昨年に旅立った。養老さんの精神を安定させるのに重要な役割を果たしていただけに、新著『ヒトの壁』にはまるを失った悲しみが哀切あふれる文章でつづられている』、「昔は、相手がいれば、ストレスを解消するために飲んでいたんです。一晩にウィスキーを1本空けることも毎晩のことでした」、「しゃべれない自分でも、お酒があると他人としゃべれるようになったから」、「今は要らなくなりました。お酒のかわりに、猫がいればじゅうぶん」、「「まる」が「一昨年に旅立った」あと「お酒」に戻ることはないのだろうか。

次に、2月20日付け現代ビジネス「50代で「若年性アルツハイマー」になった、脳外科医の妻が見続けた「夫の過酷」 まさか自分がなるなんて…」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92460
・『元脳外科医で日本の最高学府の教授でもあったエリート。そんな誰もが羨む経歴を持った男が、まさかの病に冒された。想像さえしていなかった試練に対して、彼は、そして妻はどう立ち向かったのか』、興味深そうだ。
・『それは徐々に始まった  「主人が若年性アルツハイマーだと診断されたときは、『やっぱりそうだったのか』と落胆しました。振り返ると、予兆は何年も前からあったのです。それでも60歳を前にアルツハイマーと診断された瞬間、これからの生活がどうなっていくのか、不安に苛まれました」 そう語るのは、1月13日に発売された『東大教授、若年性アルツハイマーになる』の著者・若井克子さん(75歳)だ。 東大医学部を卒業し、脳外科や国際保健学の第一線で走り続けてきた夫・晋さん(享年74)。若年性アルツハイマーと宣告され、もがきながら生きた彼の姿を妻の目線から綴ったのがこの本だ。 若井克子著『東大教授、若年性アルツハイマーになる』 超がつくほどのエリートだった晋さんが初めて不調を訴えたのは、東大教授を務めていた'01年のことだった。 「『最近、漢字が出てこないんだよ』。ある日、主人がそうこぼしたんです。当時、主人はまだ54歳で、アルツハイマーだとは夢にも思っていませんでした。私も『年を取れば誰だって忘れっぽくなるわよ』と、深刻には受け取らなかった。 ところが、翌年のことです。ドアの開いた書斎で主人が何かを眺めている。脳の断面を撮影したMRIの画像でした。実家のある栃木の「とちぎメディカルセンターとちのき」でMRIを撮り、自分で確認していたのです。主人は『海馬に異常がないのに、どうして……』と呟いていた。 主人は脳外科の医者として現場に立ち続けてきた人でした。医者は自分の専門領域の病にかかることを恐れます。それは、その病気がいかに恐ろしいかを知り尽くしているから。主人は自分の脳に違和感を覚え、恐怖に襲われていたのでしょう」) この頃、晋さんは国際保健学の研究を専門とし、ラオスやグアテマラなど開発途上国を飛び回っていた。そんな多忙な日々を送るなかでも、晋さんの病状は日を追うごとに深刻になっていく。 '04年7月には、大学にいた晋さんから克子さんに「ATMでおカネを下ろせない」と電話がかかってきた。暗証番号を忘れたのだ。さらに海外出張の際に行き慣れた空港で迷子になるなど、明らかにそれまでと違う行動が目立つようになった。 「主人は50代だったし、老化にしては様子がおかしい。札幌の病院で研修医をしていた次男にも相談しました。そして悩み抜いた末の'05年12月、主人に認知症の検査を受けたほうがいいと切り出した。 私は主人に、これまでのおかしな行動を箇条書きにしたメモを渡しました。主人はその紙を見つめ、『わかった。検査に行く』と言ったのです」 自分が認知症になるわけがない。この病気にかかった人は誰もがそう思うだろう。目の前の現実を受け入れられないまま、病状は進行していく。晋さんは葛藤していた。 '06年3月、東京都老人総合研究所(現・東京都健康長寿医療センター)で細胞の動きを画像で捉えることのできる「PET検査」を受けた晋さんに言い渡されたのは、若年性アルツハイマーの診断だった』、「私は主人に、これまでのおかしな行動を箇条書きにしたメモを渡しました。主人はその紙を見つめ、『わかった。検査に行く』と言ったのです」、「これまでのおかしな行動を箇条書き」、奥さんの冷静な行動が「晋」氏に「検査」を促したのだろう。
・『『白い巨塔』を観ながら  診断を受けたとき、主人は担当医に『結果を聞いてすっきりしました』と言っていた。でも、あの言葉は本心ではありません。主人は負けず嫌いな性格だった。弱いところを見せまいと、気丈に振る舞ったのでしょう。 ちょうど診断を受ける直前のことでした。主人がドラマ『白い巨塔』を観たいと言い出したので、レンタルショップでビデオを借りたのです。ビデオを観ながら、主人は『僕はこのドラマをすべて理解できる。それなのに、本当にアルツハイマーなのかなぁ……』と呟きました。 認知症は突然なるのではなく、徐々に進行するもの。調子がいいときは本当に『普通』なんです。だからこそ本人の戸惑いも大きいのだと思います」 それまでは東大の医師として患者を治す立場にいた晋さん。「社会的強者」だった彼にとって、自分がアルツハイマーになったという事実は受け入れがたいものだったのだろう。 これまで築き上げてきたものが崩れ去っていくような恐怖。医者としての人生をまっとうできなくなる、それは晋さんにとって生きる希望を奪われたも同然のことだった。 アルツハイマーと診断された晋さんは'06年3月、59歳で東大の教授を退官した。規定の定年よりも1年早い辞職だった。 この年の4月、晋さんと克子さんは療養のために沖縄へと移住する。 「沖縄に住んでからも、主人の病状は悪化していきました。気に障ることがあると家を飛び出し、徘徊も目立つようになりました。探し回りたいのですが、土地勘のない場所なので私まで迷子になってしまう。自宅で主人の帰りを待つしかないのです。 どこかで事故に巻き込まれていないか、心配で心配で……。その後、離れて暮らす子どもたちに勧められてGPSを導入しましたが、徘徊の不安は残ったままでした。 同時に、物忘れも激しくなっていきました。日常生活でも言葉が出てこず、本人ももどかしい様子でした。『自分は何もせず、朽ち果てるのか』と怒りだして、寝床から起きてこない。自分がアルツハイマーだと周囲に公言することもできず、苦しんでいました」 アルツハイマーというと記憶力の低下や失語などの症状が知られているが、脳が萎縮することで空間把握も覚束なくなる。 晋さんも受話器が掴めず、さらに外出の際には家族と手を繋がないと不安に襲われるなど、生活に支障をきたすようになった。そのたびにフラストレーションが溜まっていった。 行き場のない過酷な日々を過ごすなか、ある出会いがきっかけで夫の晋さんは自分の病と向き合うことができたという。その具体的な中身は後編の『50代で「若年性アルツハイマー」と診断された「元脳外科医」のその後の人生』でおつたえする』、「脳が萎縮することで空間把握も覚束なくなる。 晋さんも受話器が掴めず、さらに外出の際には家族と手を繋がないと不安に襲われるなど、生活に支障をきたすようになった」、「空間把握も覚束なくなる」とは初めて知ったが、深刻だ。

第三に、この続き、2月20日付け現代ビジネス「50代で「若年性アルツハイマー」と診断された、元脳外科医の「その後の人生」 人生に絶望する必要なんてない」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92461
・『・・・前編記事『50代で「若年性アルツハイマー」になった、脳外科医の妻が見続けた「夫の過酷」』では、病気のきっかけから、アルツハイマーと診断され療養のために沖縄に移住するまでをお伝えした。苦悩の日々のなか、若井さん夫妻のそんな気持ちを一変させる出会いがあった…』、どんな「出会い」なのだろう。
・『受け入れて、吹っ切れた  同時に、克子さんにとっても看病は苦悩の連続だった。若井夫妻は4人の子どもに恵まれ、晋さんは一家の大黒柱として家族を引っ張ってきた。頑健で聡明で自信に満ち溢れていた晋さんが日に日に衰えていく。だが、どんな状況にあっても克子さんは晋さんに寄り添い続けた。 行き場のない閉塞感に、息が詰まりそうになる日々。そんな折、ふたりに大きな転機が訪れた。 '07年9月、共通の知人から世界的に有名な若年性アルツハイマー患者、クリスティーン・ブライデンさんの講演があると教えてもらったのだ。 オーストラリア政府の高官だったブライデンさんは46歳で若年性アルツハイマーを発症し、絶望の底に追い落とされる。しかし彼女は人生を諦めず、世界各地で自らの病について語る講演会を積極的に開いてきた。彼女の講演会に行けば、なにかが変わるかもしれない。そう直感した克子さんは、晋さんとともに出席を決めた。 「会場は札幌コンベンションセンターでした。講演会には、1700人もの参加者が詰めかけた。彼女は講演会で自分の来し方を熱心に語ってくれました。 そして会の最後、クリスティーンが『この中で認知症患者の人がいたら手を挙げてください』と呼びかけたときでした。主人がまっすぐな眼差しで高々と手を挙げたんです。自分の病気を人に知られまいとしてきた主人からすると、とても信じられないことです。 帰り道、主人は『自然に手が挙がったんだ』と言っていました。主人はずっと病を受け入れられず葛藤してきた。講演がきっかけになって、アルツハイマー患者である自分を認められる気持ちになったのです。それ以来、主人はどこか吹っ切れたような表情をするようになりました」 札幌での講演の後、ふたりは2年を過ごした沖縄を離れ実家のある栃木へと戻った。そんな折、医学書院が発行する「医学界新聞」から、インタビューの依頼が舞い込んだ。以前の晋さんならば断っていただろう。だが自分の病と正面から向き合うことを決めた晋さんにとって、依頼を断る理由などなかった』、「世界的に有名な若年性アルツハイマー患者、クリスティーン・ブライデンさんの講演」、「講演がきっかけになって、アルツハイマー患者である自分を認められる気持ちになったのです。それ以来、主人はどこか吹っ切れたような表情をするようになりました」、ずいぶんインパクトがある講演だったようだ。
・『人生は終わりじゃない  その記事をきっかけにして、晋さんのもとには講演の依頼が届くようになる。横浜や神戸をはじめとした「全国行脚」の始まりだった。 「もともと、主人は人と一緒にいてわいわい過ごすのが大好きな人でした。医者だった頃も時間があれば患者さんと触れ合い、コミュニケーションをとっていた。人前に立って自分の経験を話す講演会は、主人にとっても大きな刺激になったのでしょう。 その一方で、主人のアルツハイマーは着実に進行していった。自分で原稿やメモを用意することはできなくなっていったし、ちゃんと読むことも不可能な状態になっていました」 この時期になると、トイレの問題も出てきた。ある講演会の帰り、気が付けば晋さんのズボンの前がぐっしょりと濡れていた。アルツハイマーが進行することで尿意を感じにくくなり、気付いたときには「出る」直前になっているのだ。 これ以上、講演会を続けるのは難しい。そう判断した克子さんは'13年3月、東京・中野区医師会館での講演を最後に、全国行脚を終わらせた。 晩年、晋さんと克子さんは再びふたりきりになった。'15年には晋さんの要介護度が最重度の「5」に認定され、歩くこともままならなくなる。この年には誤嚥性肺炎を発症し、寝たきり生活を送るようになった。 次第に記憶も薄れ、言葉も不明瞭になっていく晋さん。それでも、克子さんは晋さんを看病し続けた。) 「主人が病気にかかれば、やっぱり放っておくことなんてできない。50年近くも一緒にいたんですから。主人が言葉を失ってからも、看病していると不思議と喜怒哀楽がわかるんです。それはきっと、他の誰にも読み取れない。長年連れ添った私だから感じることができる感情の動きでした」 離れて暮らす子どもたちも時間を見つけては晋さんを訪ねた。「パパ、元気?」そんな問いかけに、笑顔で応えることもあったという。そして'21年2月10日、晋さんは克子さんと子どもたちに見守られながら息を引き取った。 晋さんが亡くなってから1年が経った今、克子さんは夫と歩んだ道のりを振り返る。 「主人は生前のリビング・ウィルで『延命治療は不要、死後は病理解剖に付すこと、告別式は密葬で行うこと』という意思を示しました。最後の最後まで医者でありたいと願っていた主人らしい言葉でした。 アルツハイマーを抱え生きていくことは決して容易ではありません。かかった本人も支える側も深く傷つくことが沢山ある。でも、この病気になったから人生は終わりだと絶望する必要なんてない。アルツハイマーであっても、私は主人と一緒に過ごした時間が幸せでした」 記憶を失い、この世を去った最愛の人。どんなに時が経っても、克子さんが晋さんと過ごした日々を忘れることはない』、「晋さんは克子さんと子どもたちに見守られながら息を引き取った」、理解のある奥さんに支えられ、「医師」としての矜持を失わずに亡くなったようだ。冥福を祈りたい。 
タグ:「毎日死体を見ているとね、「大丈夫、自分も死ぬんだな」と思うわけなんです。どんなに崖っぷちに立ったとしても、自殺する人の気持ちはわかりません。慌てなくても死ぬんだから」、解剖学者の余禄といえるのかも知れない。 (その10)(「人生はドラゴンボール」 養老孟司先生が東大時代の悩みを語った発掘インタビュー、50代で「若年性アルツハイマー」になった、脳外科医の妻が見続けた「夫の過酷」 まさか自分がなるなんて…、50代で「若年性アルツハイマー」と診断された 元脳外科医の「その後の人生」 人生に絶望する必要なんてない) 人生論 「晋さんは克子さんと子どもたちに見守られながら息を引き取った」、理解のある奥さんに支えられ、「医師」としての矜持を失わずに亡くなったようだ。冥福を祈りたい。 デイリー新潮「「人生はドラゴンボール」 養老孟司先生が東大時代の悩みを語った発掘インタビュー」 「精神科医になろうと思ったんです。だけど、希望者が多くて、クジに外れちゃいました。そこで、考え直したんです。これは臨床を選ぶな、ということだなあと。だから、大学院に行くことにしたんです」、当初は「臨床」を目指していたとは初めて知った。「解剖は修行でした」、「修行というのは、やった自分こそが作品じゃありませんか? 千日行なんて、山の中を歩くそのこと自体が世の中の役に立つわけじゃないでしょう。それ自体に意味があるというよりも、それをやったその人にとって意味があるということです」、なるほど。 「毎晩ウイスキーのボトルを空けていたような時期もあった」、よほどストレスにさらされていたようだ。 現代ビジネス「50代で「若年性アルツハイマー」になった、脳外科医の妻が見続けた「夫の過酷」 まさか自分がなるなんて…」 現代ビジネス「50代で「若年性アルツハイマー」と診断された、元脳外科医の「その後の人生」 人生に絶望する必要なんてない」 「脳が萎縮することで空間把握も覚束なくなる。 晋さんも受話器が掴めず、さらに外出の際には家族と手を繋がないと不安に襲われるなど、生活に支障をきたすようになった」、「空間把握も覚束なくなる」とは初めて知ったが、深刻だ。 「私は主人に、これまでのおかしな行動を箇条書きにしたメモを渡しました。主人はその紙を見つめ、『わかった。検査に行く』と言ったのです」、「これまでのおかしな行動を箇条書き」、奥さんの冷静な行動が「晋」氏に「検査」を促したのだろう。 「昔は、相手がいれば、ストレスを解消するために飲んでいたんです。一晩にウィスキーを1本空けることも毎晩のことでした」、「しゃべれない自分でも、お酒があると他人としゃべれるようになったから」、「今は要らなくなりました。お酒のかわりに、猫がいればじゅうぶん」、「「まる」が「一昨年に旅立った」あと「お酒」に戻ることはないのだろうか。 「世界的に有名な若年性アルツハイマー患者、クリスティーン・ブライデンさんの講演」、「講演がきっかけになって、アルツハイマー患者である自分を認められる気持ちになったのです。それ以来、主人はどこか吹っ切れたような表情をするようになりました」、ずいぶんインパクトがある講演だったようだ。 どんな「出会い」なのだろう。 「今は人の話を聞くようになった」が、「10年前までは・・・人の話を聞かない嫌なやつだったみたい」、ずいぶん丸くなったようだ。
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